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「ぼくの翻訳人生」工藤幸雄 Eric Clapton CHANGE THE WORLD

この年末から正月は
鼻水
波状の熱発と悪寒
胸焼け・吐き気
全身消耗
関節痛
発汗
末梢の異常感覚(これだけはすこし変な症状)
ただし下痢はなし
と、まるで、
踏まれたり蹴られたり水に落とされたり溺れたり殴られたり髪を引っ張られたりと形容していい状態であった。
(「踏んだり蹴ったり」とはおかしな表現ですね。そう思い使えなかった。)
まあ、初めてのことでもなく、こんなことも数年に一度はあるのだから、特に驚きもしない。
仕事が始まればすぐに治るのだと分かってはいる。
仕事が始まらないとぐずぐずと風邪をひきなおしている感じなのだろう。
そんな状態で食事も喉を通らず睡眠はとぎれとぎれで
汗をかくたびに着替えをして水分を補給し
そんな有様でやっと過ごしていたが
その間、本を読みつつ、ラジオを聴きつつ、何とか時間を過ごしていた。
ラジオからはイーグルスだったか、昔の歌が流れて、
ある状況が強烈に再生された。音楽の記憶喚起力を感じた。
またラジオで、 Eric Clapton の CHANGE THE WORLD を聴いた。翻訳を作ってみたことがある。

この手が星に届いたら
ひとつだけ てのひらにつつんで
あなたにあげる

わたしのこころをてらしてみて
なにが見えるか おしえて

満ちているもののすべてを
愛と呼んでもいいの?

もしかしたらただの夢かもって
醒めてしまうのが怖くて

世界が終わるとき
わたしあなたのひだまりでいたい

そのあたたかみに あなたはまどろんでくれるかな
愛しい人 もしも世界が終わる日に

一日でもいいの
望みが叶うなら
あなたと一緒に暮らすの
ほかは何もいらない
わたしたちには愛しかなくて
そんな二人の世界になるの

ばかって言ってね
そんな日を夢見たりしてね

世界が終わる日に
わたしあなたと一緒にいたい
寄り添うぬくもりに身をゆだねてくれたら
ね、もしも世界が終わる日に
もしも世界が終わる日に

世界が終わる日に
わたしあなたを包み込みたい
あなたの重荷を溶かすことができたなら
愛しい人 もしも世界が終わる日に
もしも世界が終わる日に
もしも世界が終わるなら 

そして当時の情景が生々しい感情と共に蘇る。
病気で全身が衰弱していて、精神が防衛的態勢を作れていないのだろう。

そんな中で「ぼくの翻訳人生」工藤幸雄を読んだ。
昔話である。昔はこんなこともあったのかと思う。

海外から帰国して共同通信社に復帰しようか、すまいかと著者が悩んでいた時、井上光晴が一喝した。「宮仕えはするな。おれたちは、死に向かって突進しているんだ」。冷厳な真実に裏打ちされたこの説得力のある言葉に励まされて、著者は復帰を諦めた。

「宮仕えはするな。おれたちは、死に向かって突進しているんだ」
それはわかっている。
でも、そうしないでいて、もっと惨めになったらどうするのか。
最低保障ラインは確保しておくのがいいのではないか。
そう思う。さらに、
そんなことを言っても、一度だけの人生だ、賭をするチャンスがあるなら賭けてみた方がいい。賭をするチャンスもなく過ごす人が大半なのだから。

私は個人的には、破滅と大成功と半々の賭けに身をゆだねてみたい。
どうせ手に入るに決まっているぬるい幸せなどいらない。
いままで誰も経験したことのないような人生を送りたい。
そのようにさえ思う。

まあ、実際は、破滅というわけでもないけれど。

普段の生活で、たとえば車の費用を経費で処理できるかとか、そんな程度の違いだな。

「ぼくの翻訳人生」で書かれていることのひとつの柱は、
「日本語に熟達せよ」とのメッセージである。
世間では英語教育とか言っているが、
日本語をきちんと使えない日本人を作ってどうするのか、と語る。
これに私は大いに賛成。

また主張のもうひとつの柱は、言葉に精通するには人生はあまりに短い、
終わりがない、分からないことばかりだというもので、
それもまたその通りである。
知的誠実さがある限り、そのように思わざるを得ない。

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