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コラージュ論 総論

こんなわけで、わたしの場合、コラージュとは、
1.イメージの選択
2.イメージの構成
ということになります。

箱庭療法というものがあります。
子供の人形遊びとか、ドールハウスと同じようなものですね。
男の人とか、家とか、ワニとか、そんなひとつひとつのアイテムを
自由に砂庭の中に置いて、構成していきます。

わたしの家には箱庭療法のセットがありますが、
箱庭に使う砂は、雑菌のついていない砂ということで、
砂浜から取ってきたものではありません。
面倒なことに引っ越しのたびにもって歩いています。
結構重いです。

箱庭療法で何が分かるんですかと聞かれることがあります。
「例えばですね、子供が家に帰ったら、お母さんがワニに食べられていたという場面を作る子供もいるわけです。そんなとき、子供の心の風景はどうかなあと推し量るわけなんです」などというと、お母さん方は、「まあ!」といって、それ以上は質問しないでいてくれます。

絵画療法の中に、風景構成法というものがありまして、
たとえていえば、箱庭を絵で描くようなものですね。手軽です。
でも、絵の上手下手がありますし、
描き慣れている人と、そうでない人とではかなり違います。
絵を描くなんて、学校を卒業して以来だという人も多くいます。
多くの場合は、絵は、見ていても、描かないものなんですね。

箱庭ならば、人形を並べるわけですから、上手下手は一応関係ないわけです。

しかし箱庭は道具が面倒。
小さな家からブランコから、揃えるのは大変。
祭りの夜店で買うんですよ。

そこで箱庭と風景構成法の中間的な技法としてコラージュがあるわけです。
写真を切り抜けばいいのですから、
上手下手はありません。
アイテムが限られてしまう箱庭と違って、
いつも新しいアイテムです。

逆に、再現性がないので、テストや統計処理には向きません。

切り抜いたアイテムをプールしておいて何度も使う、というのも考えましたが、
貼り付けて固定することが大切なようで、
やめてしまいました。

イメージは無限にあると思いますが、
実はそうでもありません。
雑誌で目につくアイテムというものはかなり限定されたもののようで、
似たものができてしまいます。時計とか、香水とか。
化粧品の瓶はやたらに多い。
このあたりは、われわれの文明批評になりそうです。

ピカソなど、キュビスムの人たちが、コラージュに近い位置にいるのはよく理解できます。
シュールレアリスムに属すると思われるシャガールなどは、
まさにコラージュですね。
視点とか遠近とか、関係ないわけです。
概念を構成しているといってもいいくらいです。

これを極めていけば、カードに「孤独な鳥」「冷たい海」などと書いて、
それらを構成してもいいだろうと思うくらいです。
一種の現代詩になりますね。

さて、そのようなコラージュですが、用途としては、
1.楽しみで作る。そしてある場合には友人に見せる、ある場合には恋人に送る。
2.芸術家になる。
3.治療に利用する。
などがあります。

1.2.についてはいいのですが、なぜ「治療」に使うことができるのかということが、わたしの場合には問題になります。
箱庭でも絵画でも、コラージュでも、なぜ治療に役立つのでしょうか。
それが難しい。

この問題は、同時に、どんな病気や状態を治療するのかという問いでもあります。
精神障害や発達障害のすべてに有効なわけではないのです。
どんな場合に何が有効か、それもまだ発展段階の問題です。

しかし総論的に治療に役立つメカニズムをあげることはできます。
1.イメージ操作自体の治癒メカニズム
2.コラージュに特有な治癒メカニズム
3.作業中に起こる対人関係
などに区別できるでしょう。

説明しやすいものから始めるとして、まず3.から。
例えば、攻撃性が高まり、イライラしている時、粘土を使うわけです。
攻撃性は粘土に向けてもらい、
作業の時間に手を動かしながら、言葉は治療者に向けてもらうわけです。
こうして、言葉の回路としても、新しい局面が開けることがあります。

つぎに1.について。
なぜイメージを扱うことが治療的なのか、本当のところは分かっていません。
でも、昔から使っていた方法です。
例えば、アルコール症だったユトリロに、主治医が絵を描いてみないかと勧めています。まあ、ユトリロの場合には、得意を伸ばすということでもあったのでしょう。

ひとつのヒントは、脳のシミュレーション能力です。
現実が変化しなくても、脳のシミュレーションが成功すれば、脳としては納得するわけです。
たとえば演劇でもいいし、文章でもいいのです、脳は納得します。
そのような納得のプロセスをイメージを操作することで形成できないかということです。

イメージ操作の他に概念操作があります。
概念操作は多くの場合難しい。
概念操作のひとつは最近いわれる認知療法というものです。その他に、論理療法と呼ばれたものもありますし、一般に、対話によって進められるカウンセリングのプロセスは、概念が関与しているでしょう。

対話の中で、概念を扱いつつ、しかし、人格のレベルでは、ロジャース的に受容するとか、そんなことが起こっているわけです。対話は多面的なものです。

狭義のうつ病の場合には、主に、時間を待つことが治療ですから、イメージ操作をして、いつもは使わないような脳回路を使って、時間を過ごすことが有効です。

狭義の統合失調症の場合には、別の治療機序が働きます。
統合失調症のひとつの特徴は、概念やイメージの、内的関連の統合消失です。
そこで、イメージ操作をくり返すことで、世界の内的関連がどのように形成されているかを納得し、体得することは有効なのです。
同じことは概念操作についても言えることですから、基礎的基本的な概念操作をくり返して身につけることが有効です。

発達障害については、脳のシミュレーション能力を助成し、さらにシミュレーション能力を利用して脳の発達を促すことができます。

子供時代に、「遊ぶ」ことの意義はそのあたりにあったのだと思います。

つぎに2.コラージュの特殊性についてですが、
多分、現実への通路を開くことではないかと思います。
雑誌から切り抜くのですから、商品のイメージを使うことが多いわけです。
箱庭のアイテムは実は抽象的な名詞ですね。具体的な男の子ではない。
絵画療法では自分の内面を出すわけですから、やはり現実が入り込むわけではない。
この点、コラージュで扱うイメージはいずれも、社会の中にある、具体的なものです。将来消費者として手にするものです。
そう言った具体的なイメージについて、操作していくわけですから、そこにコラージュの特徴が現れるだろうと思っています。

さて、実際にコラージュをやってみると、
1.イメージの選択さえできない人もいる。
これは対人接触の障害をそのまま露呈していて、治療を拒んでいる状態です。まず治療関係を作ります。

2.イメージの構成ができない人がいる。
これはイメージの内的連関が失われている状態で、せいぜいできるとしても、関連なく、並列的に並べるだけです。
見よう見まねでイメージを構成していくうちに、だんだん回路ができていきます。

役に立つのですが、速効性はありませんし、ひよっとしたら、本質的ではないのかもしれません。一緒に楽器を鳴らしていてもいいのかもしれません。一緒に時間を過ごして何かを達成することが本質かもしれません。
しかし音楽は出来不出来が見えてしまいます。木工作業なども、上手下手が見えてしまいます。器用でなくても、慣れていなくても、素養がなくても、ナントカできるもの、ということでは、一部の人には確かにイメージ操作がいいように思います。コラージュは誰にでも一応はできるし、手軽でお金もかかりません。ぱっとしないのは、雑誌がつまらなかったからだと言い訳もできるのです。

デジカメで撮影して、それをフォトショップでいじる、そんな人たちもたくさんいます。
個人的には、ハサミで切り取って、いろいろ並べてみて、偶然の組み合わせを喜んだりする、そこにコラージュの原点があると思っています。偶然といってもいいし、一期一会とかいってもいい、そんな気分ですね。




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