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生きていることの苦しみをどのように耐えられるのか

朝、傘をさして歩く人が見えていたので寒いのだろうと思った
厚いコートを着て傘を持って外に出た

なんと生ぬるい風

季節は変わり
わたしは年をとり
何も思わなくなるだろう
それでいい

生きていることの苦しみをどのように耐えられるのかといえば
たぶんある程度鈍感になることだと思う

一番は合理的な解決である
二番目は原始仏教でいうような、この世はそのように苦しいものであるという、明確な認識である
三番目は鈍感になることだと思う

つらい時もドラマを見たり映画を見たり小説を読んだり
趣味のことで手足を動かしたり、体を使って汗をかいたり、
そんなことで苦しみを束の間忘れ時間をやり過ごすことだろう

一皮めくれば苦痛と不安であるが
一皮めくらないで過ごす工夫ということになる

根本的な解決は多分ない
原始仏教のように直視することはなかなか難しい
合理的に解決してしまえることは実は少ない

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苦しみというものも
考えてみれば時代や地域に応じてのものだ
現代でも戦争が続き貧困に悩み、子どもが感染症でどんどん死んでしまう地域がいくらもある
その現実に鈍感でいられるから、とりあえず上司の横暴に腹を立てているのだ

時代をさかのぼって例えば鎌倉時代だとすると
現代に生きるよりも何かいい点があるかといえば
私ならば多分、それなりに苦しくても、現代の方がいいと思っている

だから、未来の人にとっては、現代の我々の小さな幸福も、「嫌なことだ」と否定されるのかもしれない。
頼朝とか政子とか後白河とか誰をとってもあまり幸せそうでもないし。
音楽だってたいしたものではないようだし。
寒そうだし。
独裁者になっても反逆されるし、いいことは何もなさそうだ。

考えていくと自分ひとつのの苦しみも統計数字の中に溶けていく気分である

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生きていくためには、少しの妄想はゆるされるというのが、私の考えだ
それでいい

多少の妄想のカプセルに包まれて
このつらい現実を生きていけばそれでいい

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キリスト教はむしろこの多少の妄想のカプセルを提供してくれるものではないかと思っている
本来の宗教はそのようなものだ

原始仏教が少しだけ毛色が違う
その後の諸仏教はおおむね普通の宗教になっていく


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