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貧しい人は幸いである-2

貧しい人は幸いであるについて-2

考えてみると
イエスの現れた理由は
この世界で報われない人を
天国で幸せにしてあげようということだと思う

だいたい世の指導者は努力すれば必ず報われると言い続ける
しかし実際には報われずに死んでしまう人も多いので
その例をひいて嘘なのではないかと言われてしまう

そんなときあの世で、来世で、極楽で、天国で、報われるのだと
宗教者は語り、プラトンもソクラテスも語ったのだと思う

罪人はこの世で罰を受けなければならない身の上であるが
罪人をもあの世で幸せにしてあげようというわけだ
罪の心理プロセスを詳細に見ていけば
その中には根本的な悪への動機と言うよりも
現世的な利益への動機を読み取ることができるのであって、
動機の点では変わらず、プロセスと結果の点でよくないと法律で規定されているだけのこともないではない
そのように考えると
罪人こそ努力の報われない人に属するだろう

ドヤ街と一言で言うがいろいろな人たちがいる
関わりがなくてすんでいる人は悩まなくていいのかもしれない
しかしイエスならばきっと関わって悩むだろう

性格の問題、病気の問題、犯罪の問題、教育の問題、社会制度の問題、経済環境の問題、
現在の社会の心理的風土、隣人愛、宗教、倫理、そのようなものが、おおむねネガティブな形で集約されている
だいたいは人間が嫌いになり絶望する
長く接するほど絶望する
普通に生きている側の欺瞞も強く感じて
制度制定側のどうしようもない都合も理解できたりして
そのことも絶望の要因になる
他人を隣人と思えるか、他人をもうどうしようもない他人と思えるか、
長い時間を過ごすと、心に変化が生まれる人も多いのではないかと思う

いろいろな意味で報われない人がドヤ街にはいる
見放された人
見放してくれと思った人
その人たちを天国で幸せにしてくれるのがイエスである

日本政府の借金先送りのようなものだ
日本政府はいま楽しんで後で苦労
諸宗教はいま苦しんで後で楽しむ

だから
この世で報われていない貧しい人は、天国で幸いなのであり
この世で報われていない心の貧しい人は、天国で幸いなのである

この点では
心の貧しい人とは
心の持ち方の点で報われていない、満たされていない人という意味にならざるを得ない

この世で報われている人は
イエスを強く求める必要がない

それでも死に臨んでは人は無力であるから
イエスを求めるが
しかしそれはこの世の努力が報われない感覚とは違うものだと思う

*****
貧しい人は幸いであるのことばについて-3

考えてみると
たとえば教会や神社やお寺で
何をお願いするのか

幸せになりますようにというのが包括的なお願い
細かくいうと現世的な願いと来世的な願いがある
現世的な願いには財産的な願いと心理面での願いがある

イエスはこのような願いに応えているわけで
まず財産的な願いに関して、財産に報われていない人に対して、貧しい人は幸いであると呼びかける
次に心理面で報われていない人に対して、心の貧しい人は幸いであると呼びかける
最後に来世での平安について、みんなを天国に導くと呼びかける

こうして考えると
心の貧しい人とは
心理面で報われていない人ということになる

たとえば稼いできても妻に感謝してもらえない夫
普通に寝ているだけなのにいびきがうるさいと嫌われくさいと嫌われ妻に家出される夫
挙げ句の果てに裁判でお金を取られる夫
心も貧しく財布も貧しい夫はたぶん天国に行けるだろう

*****
人は神の前で何を願うだろうと考えて
絵馬に何が書いてあるかを思い出す
またおみくじに何が書いてあるかを思い出す

お金持ちになりますように、異性にもてますように、偉くなりますように、健康でいられますように、
このあたりが現世的な願いである
ゲーム機がほしいとかもありそうだ

心理的には、仲良くできますように、けんかしませんように、尊敬されますように、などあるけれど、
尊敬されますようにと願う人は少ないだろうか

世界の平和を祈りますとか戦争がなくなりますように、貧困がなくなりますように、
差別がなくなりますようになど、国連機関みたいなことを願う人はどれだけいるだろう

誰か特定の人について
試験に合格しますように、健康を取り戻しますように、長生きできますようになどは
結構多いと思う

わたしは絵馬にいい子にあたりますようにと書きたい
週に二回、一年で百人に会えるのだが、何人のいい子に会えるだろう


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