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価値観の多様化 豊かな社会と精神病

価値観の多様化も何十年もいわれていることで
今更言うこともないが
でもその実質は何だろうかと考える

価値観が多様化してますますいい時代になったと感じている人は幸せだ

新橋の飲み屋では、価値観の多様化とは、部下と話が通じないということだ

価値観の多様化とは
若い人の考えが全く・全然・ちっとも・理解できないということだ
若い人は新人類で宇宙人なのである
人間の形をしているが
頭の中身は全然違う
気持ちというものが通じないんだ、と嘆きつつ飲む

一方の新人類宇宙人もそれをうれしがっているわけではなくて
上司がバカだから仕事が出来ないと泣いている

人間と人間がわかり合うための
手順が複雑になり
慎重にきちんと説明しないとわかり合えなくなっている

主語を省略すると、誰が?と聞かれそうだ

悲しいというと「なんで?」と聞かれてがっかりする。そのくらい共感がない。

和歌なんていう省略文学はますます苦しい立場になっている
平明に明白に分かるものしか分かろうとしない

親子もそうだ
子どもは子どもで仲間内で「学習」してくるので
親の常識が通じないし、親を軽んじる

父、母、姉、弟がいるとして、
全部がかなり異なる文化圏に所属しているということもある
経済の単位であり、法律的には家族であるが、
心理的には限りなく遠い存在
単身赴任でもしてくれれば一番いいとはよく聞く話

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むかし、たこつぼ型の知識人という言い方があった

いまは知識人でなくても
お互いが
たこつぼ型なのだと思う

同じ地域とか同じ家庭とかに住んでいても
持っている常識とか価値観はずいぶんと違う

価値観の仕入れ先はネット、雑誌、テレビ、口コミ、さまざま

普段顔を合わせる人の価値観は理解できず
顔を見たこともない人のネットの発言に共感している、など
遠くの人たちと価値観を共有している

多分部下は上司の考えも「分からない」というのではなくて「分かりたくない」「否定したい」のだろう
上司の側でも部下に対して同じ

遠くの人と価値観を共有しているといえば
なんだかそれらしいが
実際は誰とも価値観を共有できていないことも多い

仮想的に価値観を共有して仮想的に所属している

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進化論では多様性を保持することは根本的に大切

しかし一方で進化論では優勝劣敗がつきまとう

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学校では多様性肯定でも困らない
会社では、よほどの利益がある会社ならば、多様性も肯定できる
しかし利益がきつくなってくると自ずと多様性の許容にも限界がでる

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価値観の多様化と
自分の勝手だという言い方が
混同される

そこで行き止まり

豊かな社会とはそのようなものなのだろう

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豊かな社会と精神病の問題もある

社会の側が変動して
その分が精神病になったりならなかったりするのなら
それは精神病というほどのものではないのであって
一時的な環境反応である

豊かな社会だからこそ発生するストレス反応と
豊かな社会であるにもかかわらず発生するストレス反応があり
複雑だ

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多様性を許容するというたてまえを信じてしまうと
多様性を許さない現実に突き当たる
そのように二重性はあるのかもしれない

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学生時代は成績を気にしなければ自分らしくいられる

学校は成績という数字で一元化する一方で
自分らしさという尺度で多元化していて
ここでも二枚舌である

会社になると稼ぎという点で一元化される

周囲の人を働きやすくしている人もきちんと評価されたりしていて
会社は案外うまくできているものだと思う面もある

もちろん逆の面もあり
下らない人間ほど生き残る

最後まで生き残った人間の顔を見ると
きっと何もかもがいやになるが
それを言ったら元も子もない

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豊かな社会だから
保健室登校でもかまわない
ただし将来がきついのは覚悟してもらうという二重構造である

将来がきついからいま我慢しろと親はいうが
当面きついので親をうらむ

豊かであるとは
淘汰圧が弱くなることだ

進化論的に残酷に言うと
弱い個体でも生き残る社会であり
弱い個体でも遺伝子が残せる社会である

戦争をすれば多分負ける
その意味では負けるのが多分高貴なのだ
そらにその意味で言えば
現代に生き残っている我々は卑劣である
理屈から言えばそうだろう

企業も余裕があるうちは保健室に待避できたが
次第に難しくなってきた
たとえばNTTドコモなどは子どもから搾取しているのでまだまだ利益があり
保健室を維持できているように見える(本当のところは分からない)

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学校時代は豊かな社会である
生産性を要求されない
むしろ無駄がおもしろがられる
間違った答えは多様性である
間違った論理が個性である
がらくたを作ればユニークである

会社に入れば
売れるものの射程は広くない
たいていライバル会社があって
しのぎを削る

向こうの会社にも参謀がいて弁護士がいて会計士がいて
無茶をするやつもいて批評家もいて
総力戦で拮抗している

そんな状況では、自分らしいことは、ちょっとお呼びでない
保健室の維持費を稼ぐのは誰なのかと言われて
保健室の先生は沈黙する

ーーーーー
現実に豊かな社会を生きているのは学校の生徒なのだから
彼らをターゲットにマーケッティングすることは
結構多様性を許容してくれる仕事になるのかもしれない

ーー
不況だ、生活苦だと言いながら、みんなこの夏には旅行を計画していて、
なんだみんな余裕があるんだと裏切られた気分である
私はこの夏もどの夏も仕事ばかりである
お盆には毎年恒例の面倒な仕事がある

ーー
ワーキングプアとは逆の側面であるが
仕事がない人は時間がある
お金はないので無料の何かをしたい
そんな場合に役所に行って役人と話すのは楽しいらしい
税金なんか払っていなくても
我々の税金で飯が食えているのだろうと言われ
暇なものだからいくらでも時間を費やす
すると役人は時間がなくなり残業続きで体をこわす

こんなに退屈な人生はもういやだ
仕事がしたい
と思わせなくてはならない
そうでなければ役所で遊んでいて帰ってくれない人が増えてしまい役所はパンクする

ーー
現状で言う豊かな社会は、
豊かな大量消費社会である
豊かな個人趣味的生産社会ではない

生産する楽しみは金銭で測定される、たとえば年収
消費する楽しみも金銭で測定される、たとえばブランド

マスコミで紹介される、お金でははかれない、こだわりの一品は、つねに高額である。
コマーシャルするから高くなるのは当然である

この状況で、例えば、「プロの消費者になる」ことが可能だろうか。
多分そうではない。
消費者はプロではないからみんなが楽しいのだ。

豊かな社会の一つの理想型はディズニーランドではないかと思う。
誰にも開かれ、平準化され、個別の配慮は四捨五入され、それでも人々は喜んでいる

あんなにも多様性のない豊かな社会も珍しいのだ

多様性のない豊かな社会 という形容矛盾の世界が実現しているのだ

ミッキーマウスが生きて行けるのは
核兵器という暴力が守ってくれている著作権の影響範囲内だけである

裁判では
どこがミッキーに似ているのか示せと一方は言い、
どこがミッキーと違うのか示せと一方は求める。

前提も論理も結論も共有していない人たちで
ただお金の価値だけを共有している
話がかみ合うはずはなく
倫理の力で妥協に至るはずはない
結局暴力的解決である

*****
価値観が多様化して、最低限度の生活が保障された社会で、
どのような精神病が起こるのか、
社会から個人への圧力が減圧しているので、その点で精神病は軽症化する
働かないのも、泣いてばかりいるのも、ゲームばかりしているのも、一つの個性だからである
悲しくて会社に行けない場合はうつ病であり、
そのようにしてうつ病は拡大し、子どもにも老人にもうつ病が起こる。

高いが裾野の狭い山と(社会低圧力が山を高くする)
低いが裾野の広い山とがあるとして、
軽症うつ病が多いのは後者である。
そして自殺が増えていることから、裾野の広い低い山の、広い裾野の、ある高度の部分で起こっているらしい。

*****
豊かな時代の価値観の多様化を描くときに
ブランドという現象は逆行している
豊かな時代の価値観の画一化である。
豊かさ故に収斂するのだが
収斂すると言うことは一次元である

豊かであると言うことは国民総生産のことではなく
国民総多様性である
そのように押し通して価値の体系を築くことは実際には難しい。

ーーー
うつ病の診断基準を見ると、
憂うつも、興味減退も、それぞれは一次元的な物差しのように見える。
そんなはずがあるだろうか。
いくつかの憂うつさを比較可能だというのだろうか。
比較可能な部分だけを比較した憂うつさの比較に何の意味があるだろう。
多分何もない。
むしろそのような営みが退化だというのである。



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