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変えられるものと変えられないもの

ニーバーの祈り

神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

THE SERENITY PRAYER
O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

Reinhold Niebuhr


変えられるものは変える勇気をください
変えられないものは心静かに受け入れることができますように
という話なのだが

実際、
過去と他人は変えられない

変えられるのは未来と自分である

ーー
ところが現実には
未来は変えられそうでなかなか変えられない
自分についても変えられそうでなかなか変えられない
「わかっちゃいるけどやめられない」

他人は変えられないけれど
これは人間関係であるから
こちらが変われば相手が変わる可能性はある
「他人」を変えると考えずに「関係」を変えると考えれば
「関係」を変えるのには、こちらも半分イニシアチブがあるはずだ

過去は変えられない
これは固い真実のようでもあるが
実はそうでもない

過去の結果としての預金通帳とか
公的な経歴とか
そんなものは当然変えられない

しかしながらわたしがいつも目撃するのは
認知症病棟で
過去の素晴らしい肩書きを持った人が
すべてを忘れて風船バレーをしている姿である

県議会議長、国会議員、会社創業者、テレビに出ていた有名人、
みんな仲良くおむつをして風船バレーである
軍歌を歌って機嫌がいい

過去は変えられないのだろうか
この人たちの場合、変えたいと思ったわけではないが、大幅に変わってしまった

目をつむっても、彼らの心に過去はよみがえっては来ない
彼らのこころの中にある過去は小学生時代のことなど
無論、客観的な事実関係としては、過去は存在しているに決まっている
しかし認知症になれば
人生の細部としての過去は失われている
過去の外枠が残っているだけだ

そう考えると
過去はやはり、本質的に、ない
目をつむって考えてみると
過去の感情は
幻のようでもある

わたしが忘れてしまえば
多分誰も覚えていない記憶もたくさんある

その意味で過去ははかないし、存在しないと言ってもいい、
頭の中に残っているだけだ

だとすれば頭の中で急激に失われることもあるわけだし
頭の中で徐々に変形されることも多いわけだ

自分が会社創業者であったことを忘れるのはつらいけれど
自分が会社や学校でいじめられたことも、認知症と同じ原理で、忘れられるのだ

これは過去は変えられる可能性があると言うことだ

過去を変えるという場合、全体的に忘れてしまう方法もあるのであるが
むしろ忘れられないので困るのがいやな過去というものだから
その解釈とか意味づけを変えていくことはできるはずだ

おおむねを言えば
人間は現在が幸せになれば過去をも幸せに解釈するものなのだ

酒を飲めば不幸自慢や病気自慢をするものだけれど
「にもかかわらず俺は立派だ」と語り続けるのである
これも認知の変更の一例ではある

現在が不幸になれば過去をも不幸に考える傾向がある

だとすれば
いやな過去を変える方法は現在と未来を幸せにしてしまうことなのである
簡単なことだし誰でもそうしたいと思うことだし目標としてはとてもまともである

過去をどのようにこころの中にしまっておくかと考える時間があったら
幸せな未来になるように努力した方がいいというのがわたしの結論である

過去に決着を付けるために未来を幸せにするのである

ーー
つまり、過去も他人も変えられる、これがわたしの主義である

ーー
人生だから、それは、いろいろとあった。
しかし目をつむってみて、どうだろう、ほとんどのことは自分のこころの中にあるだけで、
存在しないのと同じではないか。

あのときいやな思いをしたと言っても、
それをした人はもう覚えていないだろう
覚えているのは自分だけ
そして自分が忘れてしまえばもうほとんど存在しないのだ

だとすれば
そんなものは思ってみるだけ無駄というものだ

そして幸せになれば
そんなことも幸せの彩りをまとって記憶の中にあらわれるものだ

たとえば、あのことでわたしは成長できたと思うこともできるのだ

ーー
人に何か言われたという種類のことは
自分の記憶にあるだけで
思い出さなければないのと同じだ

なぜいやな記憶を思い出すかと言えば
いまが不幸だからだ

だから
「ああこんないやなことを思い出すなんて
自分の人生はいま不幸なんだな、人生に申し訳ない、
未来を切り開こう」と考えたらいいのだ

しあわせになれば
ほとんどすべての過去を赦し、受け容れることができるようになる

ーー
だからわたしの場合、ニーバーの祈りは

変えられるものは変えてしまおう
変えられないものがつらいと感じられるのは
いま不幸せだという信号である
だから幸せになって変えられないものも変えてしまおう

となる

ーー
たとえば
子どもが交通事故で死んでしまったとして
そのことがつらいと心を痛めているとする

そのつらさは、心を未来に向けたからといって、現在が幸せだからといって、
なくなるわけではない。

考え方を変えたとしても
子どもの死がうれしくなるはずもない

しかしそのことを遠くから眺めるような気持ちで、鏡のような湖面、というイメージのこころで、
受容する日が来るのかもしれない

人類の歴史、宇宙の歴史、膨張する宇宙、脳内物質の動き、いろいろなことを考えて、
イメージを組み直し、鍛錬し精錬しようではないか

つらいが不可能はない

そしてつらいことや不幸はこの世に満ちていて
その点では人々は連帯できるはずなのだ


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