春は膨らむ
クリスマス・冬至のあたりで気候の底が一回ある
そのあとは春に向けての動きになる
東京は2月や3月に雪が降ることもあるが、
それも一時的な揺れであり
気候そのものは春に向けての動きになる
春は膨らむのに
私の未来はしぼんだままだ
一体何に情熱を見つけていいのか分からないのだ
歓喜の歌 について
歓喜の歌
抱き合おう 数百万の人々よ!
厳しく分け隔てられていたものを
再び結びつける魔法の力
このあたりは朝鮮半島の状況、また、
現在苦難に直面している人に向けての、
よい力付けとなっている
Freude 喜び というものは、
一時の感情であって、ずっと持続する気分ではない。
そこが難点だと思う。
私としては、喜びという瞬間的・微分的なものではなく、
穏やかで豊かな気持ちという、持続的・積分的な境地を求めたい。
NHKホールで手渡されたパンフレットを眺めているが
翻訳の歌詞でよく分からないところがある
以前勉強した時には問題なく理解したように思っていたのだが
無論、大家先生なのだろうから、
間違いはないのだろうが。
時の移ろい
チチカカもなくなった
あんなに張り切ってCDを集めていたのは何だったのだろうかと今は思う
手元に残っているので聞けばいいけれど、
あまりそんな気もしない
例えばその頃集めた第九だけでも何枚もあるけれど、
聞く気はしない
渋谷でエンロン
渋谷の映画館は偉い
ラブホテル街の中にある
「愛するためにここにいる」もこのあたりで上映
ユーロスペース
テンポの設定
一点一画をおろそかにしているような気がしてしまう。
特にベートーベンの場合には、
すべての音に意味があるような気がするので、
きちんきちんとしてもらいたい。
その点では今日の演奏はややきちんとしていない。
全体が合っていないのでもなくて、
合ってはいる。
でも、よくない。
私が個人的に個人的に遅めのテンポを望んでいるのだ。
なぜだろう。
私の頭の中に、テンポのすり込みがあるのだろうか。
カール・ベームがちょうどよくて、
カラヤンは少し速いがやはりよくて、
そのあとは、少し速いと感じる。
わたしが年をとったということなのだろう。
生活全般のテンポにも言えるのだろうか。
しかしテレビのテンポはむしろ遅いと感じているのだが。
M響 第九 チャリティコンサート
N響第九をNHKホールで聞いた。
今日はチャリティコンサートとのことで、
1万円の席だった。
客席はほぼ満員。
客層は、さまざま、そこら辺の商店街の店主店員が来ている感じでフレンドリーだった。
演奏は、こちらの耳が慣れていないのか、
何となく弦の張りが乏しいように感じた。
テンポが速い割にのりがよくない。
ねっとりからみつく感じは少しあるものの、
それでもなんとなくあっさり味。
第四楽章になるとさすがに大合唱隊が威力を発揮し、
圧倒的な説得力だった。
演奏を聴きながらいろいろなことを考えた。
この一年の総決算だ。
悪いように思えたことも、結局よかったのではないかと思えた。
これからの努力でよいことのきっかけに変えることができるだろう。
決して悪い選択ではないと信じられた。
大合唱団の効果である。
子どもには是非ベートーベンを聴かせたいと思った。
これから何度も繰り返しベートーベンを聴かせよう。
いじめの仕組み
二匹が出会えば、集団内での優劣を決める儀式がある
その順に餌をとる
子どもは思春期で一度生まれかわる
思春期以前の序列と思春期以後の序列が変わってしまう
これは大きな問題である
思春期以前、子どもたちの順列を決定するのは、
性格要因である。
引っ込み思案で目立たない子は奥にいる。
目立つ子や威張る子が前面に出る。
これは子どもがまだ生産活動にも性活動にも参加していないからだ。
主に、生まれつきの気質とか、家族内での兄弟の配置、父母の性格・生活様式、そんなものが大きく関係している。
思春期を迎えて、性格ではなく能力が問われるようになる。
のろまに見えていた子が実は数学ができたり、
野球が上手で人気だった子も、将来性はないと分かったりする。
女の子は他人のサポートがうまかったりして、マネージャー能力を発揮したりもする。
急に大人びてきれいになったりもする。
つまりは大人になってどのようなポジションを占めるか、おぼろげながら分かってくる。
それは個人の能力であるから、どうしようもない。
社会の中での能力は、社会が圧力をかけてそれを隠蔽して過ごすこともできるが、
他国との競争が問題になると、やはり能力を発揮してもらうしかないようになる。
政治家で二世三世が多いのは、他国との本当の競争にさらされていないからだ。
国内の選挙行動をコントロールしていればよいだけである。
総理大臣として不適格とされた森氏も選挙をやれば安泰で勝ち残る。
それはいいとして、
思春期になり能力が評価される場面になると、
いままで優位に立っていた子どもが、
急激に劣位に立たされることがある。
ここがつらい。
能力によって上位に立っている子どもは、
特にいじめる必要はない。
むしろ現状が続けば利益なのだ。
子ども時代に優位であったが、思春期になって劣位に立った子どもは、
自分の社会でのポジションを受け入れるまで、
苦しまなければならない。
何しろ、世界がこれまでとは大きく変わってしまうのだ。
自分は劣位なのだ。
そこで、とりあえず、自分よりも劣位の人間に対していじめを開始する。
優位であった頃の心地よさが忘れられない。
いままで劣位にあったものに大きな顔をされるのはプライドが許さない。
そう考えると、子どもも辛いのだ。
何か一つでも優位なものを持っていればかなり違うだろうが。
こんな事情ばかりではないけれども、
こんな事情の場合もあるだろうと想像して書いてみた。
断定ではない。
ビル・ビオラよりもアート
昨日は雨に風で大変だった。
雨樋から雨水が勢いよく流れ出していて、
夜のライトの中でとても幻想的だった。
人の心を集中させる何かがあった。
ビル・ビオラのビデオアートよりは、
雨樋を流れる水の形と色と音が、
よっぽどアートだと思った。
映画「アメリ」 くすんだ世界で?
速いスピード。
何度目に見ても、やはり、速い。
色づかい。
幼稚だとも言えるし、斬新だとも言える。
人物。少しずつ精神的に過剰なところがある。
アメリは自分が少しだけ積極的になることで世界はもっと楽しく完全になるのだと気付いた。
そこから冒険が始まる。
冒険は許されているのだと知る。
なぜ私たちは世界を楽しくする冒険をしないのだろう。
それが問いかけだ。
くすんだ世界で楽しいのかい?と問いかけられている。
蛍の光
商店街で蛍の光を耳にした。
1
ほたるのひかり、まどのゆき、
書(ふみ)よむつき日、かさねつゝ、
いつしか年も、すぎのとを、
あけてぞけさは、わかれゆく。
2
とまるもゆくも、かぎりとて、
かたみにおもふ、ちよろづの、
こころのはしを、ひとことに、
さきくとばかり、うたふなり。
一番の、
「すぎのとを」のところが分かりにくいのですが。
過ぎの途を という感じでしょうか?
過ぎの戸を が正解で、
年も過ぎて、戸を開けて、今朝は別れ行く という感じでしょうか?
雨に濡れて帰る
土砂降りの雨の中を歩いてみる
毎年クリスマス周辺に天気の谷があるような気がしている
冬至も近いし、多分、そうなのだろう
雨が強くて風もある
建物の雨樋からは大量の雨水
どの建物も照明できれいにしているので
照らされて水の流れが美しい
木々の様子も雨に濡れ
さらに夜の照明に照らされ
風も吹いており
昼の色とは少し違う
紅葉は薄い茶色に見える
緑の葉は薄い緑になり新緑のように見える
こんな雨の中をわざわざ歩くのも久しぶりのことである
大学の総合図書館まで雨の中を歩いていった日々を思い出す
どんな志で生きていたのだろう私は
その頃から言葉は深まっていないのではないかと案ずる
無駄に年をとり無駄に生きたのではないかと懐疑する
後悔は無駄だとも知っている
今からよく生きるしかない
高輪高野山別院に行ってみる
広大な敷地である
リンコスに行って買い物、スコーン。
杉の木屋で買い物、豆乳。
薬屋はすでに閉店、入浴剤が欲しかった。
こうしてみると高輪商店街も悪くないのだった。
子どもの教育のための行事
子どもの教育のために、
季節ごとの行事をまめにやっておかないといけないと話していた人がいた。
面接で聞かれたりするかもしれないとのこと。
それはそうとして、ゆず湯は効果満点だった。