映画「人生は、奇跡の詩」
エピソード1。
アラブの老詩人の妻への愛の物語。
彼は若い時戦争に行った。帰国すると妻は天然痘の後遺症で顔に痣が残っていた。老詩人は「戦地で目を負傷し、盲目になった」と言って、妻が亡くなるまで盲目で通した。
エピソード2。
靴を泥棒しようとして、新しい靴を履いたまま走った。気がつくと原っぱだった。不思議なことに追ってきた店の人たちは立ち止まって、遠いところから、靴を返せと叫んでいるようだ。言葉が分からない。仕方なく片方投げて返したら、もう片方も返せと声をからして叫んでいる。もう片方も投げたら、地雷が爆発した。ここは地雷が埋め込まれている地帯だった。命からがら逃げ帰った。
評価
物語3/5
映像5/5
音楽2/5
映像は大変美しく、意味も表情も濃縮されているので、
一回見ただけですべてが分かるわけではないと思う。
DVDで何度か見たい作品だと思う。
パパが詩人になったわけを知るときの二人の娘の表情が、
特に印象に残った。
イタリア語は詩にぴったりだ。
オペラの台本を朗読しているように聞こえる。
饒舌を賛美する。
多分、どこの言語もそうだけれど。
たとえば中国語も、多彩な響きとして耳に華やかである。
Winnyの判決文を書く時の心の重さ
分かるわけないよね、最先端のことだもの。
お疲れ様。
裁判官の立場に立ってみれば、
裁判を市民の多数決で決めて欲しいという気持ちも分かる。
でも、多数決というのも、恐い。
今日も映画の予告編で、
痴漢えん罪の映画が出ていた。
娯楽の王道
映画、食事、買い物、と銀座周辺ですませた。王道という感じがする。
年賀状どうしようか。
クリスマスプレゼントはどうしようか。
考えている。
Winny有罪
一般市民に便利な道具を与えるなという趣旨のようだ
国家は著作権を保護する団体になった。
著作権益を享受するのは企業であり、
中高生がどんどん購買する。
その仕組みを保証するのが法律と警察である。
しかしその割にはソニーは儲からない。
それが釈然としない。
Hugo Bolt
精神分析学学者、心理臨床家。
何よりも治療家。
そして何よりも、家庭人であり、仲間内での結節点。
薬剤を使いながらの精神療法を専門とする。
人間の意志発動の理論を探求し、
人間に自由意志はないと結論、
自由意志であると錯覚しているだけで、
その錯覚は、きわめて簡単な実験で、錯覚であると納得できるものであると示した。
自由意志がないのなら、
意志は偶然であるか、強制であるかとなるが、
Boltはそれは強制であると断言している。
だからハードな洗脳の他に、
ソフトな洗脳が紛れもなく存在するのだ。
また内的発動がないのなら、
刑法の根拠は何かということになる。
Boltの提言によれば、刑法に根拠はない。
自由意志がないのだから、責任は発生しない。
犯罪抑止効果をただわずかに期待しているだけである。
刑法に根拠がないとしても、
そのような刑法が存在してはいけないということにはならない。
責任とかという次元の話ではなく、
利益考量の天秤が、犯罪回避を選択してくれるように、
天秤を作っておこうというだけである。
法は天秤だった。
Boltの娘は日本留学していて、精神科で学んでいる。
父親として愛情厚く、娘の同僚たちにも心遣いは細やかであったと聞く。
日暮里の団子をご馳走になった同僚がいたらしい。
お彼岸でお墓にいった帰り、娘の職場に立ち寄った。
娘の前に当直していた人に団子をご馳走したのだという。
何という日本的な心遣いだろう。
自由意志の発動は、自由意志の形成よりも先行しているという、
常識に反した結論。
これには実験の裏付けがある。
自由意志が始まって、それから、自由意志の形成が始まるという何とも奇妙な事情にある。これは言葉の定義をまず厳密に限定しておく必要がある。
幻聴の理論も、これまで決定版がなかった。
幻聴は、内発的言語が、意識の発動に先行して行為発動してしまうので、
内的意志に遅れる。
これは一部ではさせられ体験となる。
一部では自生思考となる。
うつ病用の発生については、次のような理論がある。
うつの発生は、うつ細胞の発生によるのではなく、
そう細胞の機能停止による野である。
そう細胞とうつ細胞の中間には、強迫性細胞がある。
この三者がいろいろな配分とタイミングで、
機能停止と復活を反復することで、
三つの曲線はバイオリズム曲線のように絡み合い、共振しあい、現象を紡ぎ出す。
分かりにくい?
ごめんなさい。
本人が書けばいいのだけれど、
Boltは説明に興味がない。
友人として私が書いても、
製薬会社のパンフレット程度の出来にもならない。
簡単な話ではないので私に責任はない。