この世界に生きる意味は、魂の浄化である。
浄化された魂は軽くなり天に昇る。
この世界に生きる意味は、心を空っぽにすることである。
空っぽの空間には風が吹き渡り、
ときどきイエス・キリストが入り込み、
ひと休みし、またすぐに飛び去る。
心の空間にある、
無用の私物をすっかり片づけることである。
イエス・キリストのためにいつも空けておくことである。
知識もプライドもちっぽけな感情も、
偉大なイエス・キリストに比較すれば、
無限に小さい。
ただ隣人を愛する心だけがあればいい。
何が何でも生き抜け
無から生まれた私だ
無に帰るだけの私だ
ゲームと変わりはないのだ
生きるということは
DNAと環境の適合性を検証しているに過ぎない
いろいろあって
完全にうつ状態。
食欲なく、水を飲むだけ。
人の話を聞いても雲をつかむような感じで理解に至らず。
うとうとと眠り、目を覚ます。
夜昼の区別なし。
これが世に言う「うつ」なのか。
悪いことばかり思い浮かべる。
何も思い浮かばず
これだけ報告。
本は木下順二「本郷」などをめくっている。
平板な話で結構。
この世界に生きる意味は、魂の浄化である。
浄化された魂は軽くなり天に昇る。
この世界に生きる意味は、心を空っぽにすることである。
空っぽの空間には風が吹き渡り、
ときどきイエス・キリストが入り込み、
ひと休みし、またすぐに飛び去る。
心の空間にある、
無用の私物をすっかり片づけることである。
イエス・キリストのためにいつも空けておくことである。
知識もプライドもちっぽけな感情も、
偉大なイエス・キリストに比較すれば、
無限に小さい。
ただ隣人を愛する心だけがあればいい。
1000個目の話題として明るく始められないことを残念に思う。人生は思うようにいかない。今日はある会社の経営をしている人と話していて、人の悪口の話になった。高級な飲み屋に行っても、安上がりな社交場に行っても、結局話題の8割程度は人のうわさ話で、その大部分は悪口に類することである。その人には尊敬して止まない経営の先輩がいて、先見の明あり、度胸あり、努力家でもあり、知性も最高、といった具合に惚れ込んでいる。みんな嫉妬しているはずなのだ。その人について、聞く話は圧倒的に悪口である。自分が敬愛しているとは公言していないから、自分も悪口の仲間に誘われる。その時には仕方ないので、つかず離れず、相づちは打たないけれど、否定することもなく、話を流している。おおむね、悪口が流れる時は嫉妬の感情が裏にある。自分より下と思っている人間のことを話題にして、悪口を言うことはあまりない。何かしら嫉妬の感情があって、その上で悪口を言っているわけで、その意味では、勲章でもある。その人の話題で盛り上がると言うことは、みんなの関心の的になっているということだ。関心も持たれなければ、悪口も作り話も出ない。その人は、敬愛する先輩に聞いてみた。人の口はやはり気になりますか。いや、それは世の中の習慣というものです。鬱憤晴らしの材料になっているわけで、ストレス発散の一助になればそれでよい。どうせこちらが落ち目になればすぐに忘れてくれる。そんなことも含んで、その上を行くだけだ。うわさ話の上を行く、それしかないでしょう。例えば、芸人は、恥が金になるのだ。
その後は、魚釣りの話。米国では早期リタイアが尊敬されるとかで、50才でリタイアして、ボランティアや趣味に没頭できれば成功者とされる。そんな話を始めたら、ある米国人が、そんなことがよく言われるが、自分の場合はそんなことはない。自分は本来魚を釣る仕事をしていた。仕事に誇りがあった。好きだった。そこで早期リタイアを実現して、本当に好きだった、自由な釣りに没頭した。ところがどうしたわけか張りがない。自分は仕事で釣りをしていて、この魚が世界のどの地域の人に売られて栄養になっているのか、どんな料理になっているのか、食生活全体でのこの魚の役割などを想像して、仕事に張りがあった。ところがいまは、釣った魚は仲間と近所に分けるだけで、社会的な拡がりがない。社会の一部として確実に機能している実感に全く乏しい。やっていることはほとんど変わりない。むしろ、マーケットの要請に従って魚の種類を指定されるよりも、自分の好きな魚をその日の状況に合わせて自在に調整する楽しみが大きいと思っていた。しかしそうではなかった。社会に要請されているという気持ちが一番の仕事のうれしさだった。そんなこともあって、早期リタイアを経験しても、また、仕事の現場に戻って、生き甲斐を追求したいと感じている人も増えている。これはアメリカの状況。
仕事といえば、こんな話もある。韓国で世界銀行の支配下に入ってから後、起業家の活躍が目立つようになった。しかし大半は道の半ばで消えてゆく。平均すると、道のりは次のようだ。大卒してしばらくは仕事を覚える。資本金の蓄積もすすみ、自信もできて、37才で独立起業。そのあと馬車馬のように働く。しかしライバルは多く、多くの同業者の中で生き残るのは一部のみである。その場合、破産にいたるのは47才くらいなのだという。なるほど人生行路を平均的に良く言い当てている。私もその年齢にぴったり当てはまっていたので驚いた。
またその人は地域医療の問題にも関心があり、具体的には、無医村で、産婦人科をどのように確保するのか、考える。その場合、まず第一は「赤ひげ先生が待望される」。しかし長続きせず、次の世代は敬遠する。次は、金、官舎、その他の優待設備である。しかしながら限界がある。地方では何より教育が問題だ。そして、買い物施設がない。さらに夜になって遊びに行く飲み屋もない。そこまで乏しい現状で、赤ひげ先生も、二の足を踏むだろう。少なくとも、妻子は都会に残すことが行われるようになるだろう。それが幸せなんでしょうか。そうなると結局、都心部の職場に集中することになる。職業選択の自由もあり、それは容易には変えられない。中央統制計画経済的施策は考えられるが、無理だろう。ここで、なぜ都会かとの問いかけがある。田舎に老人は、都会に出てくればいいではないか。そのための補助をしてもいい。田舎の各種インフラ整備をやめて、都会暮らしを援助するのである。今後田舎の郵便はどうするか、宅急便はどうするか、銀行まで行くのは大変だし、都会に普通にあるものが田舎にない。コンビニがない。医者にすれば、子どもの教育、妻の生活の不便が一番大きい。これを解決せずに、産婦人科医を増やせ、小児科医を増やせ、麻酔科医を増やせなど、無理というものだ。医者はある部門では余っている。またある部門では足りない。偏在しているのである。偏在すると競争も激しくなる。なかなか難しい問題だ。ある地方自治体病院の赤字はかなり巨大で、それならば思い切って例えば、ヘリコプターをたくさん用意して、基幹病院に大量輸送する方法がある。きっぱり言うとすれば、田舎に散在する老人を都市部に集中させ、そこに医療の集中させる。それしか解決はない。
そして最後には悪口に移り、悪口を言われるのも勲章だとの結論になった。
今日はNHKに感謝したい
いい番組だった
シンプルライフ
手作り
自給自足
持続可能な生活
自然に親しむ
親と子の交流
地域の交流
宗教的親和
これまでずっと人類がやってきたことである
このことに
アメリカ人
日本人
中国人
インド人
が気付けば
あと三十年人類が続くだろう
日本にも自然に恵まれた土地はたくさんある
インフラ整備は十分進んでいるから
電気水道テレビ宅配便は大丈夫だ
とすれば田舎暮らしに心配はない
小単位のコミュニティで労働を交換し合えば
国民生産の統計数値にはならないが豊かな暮らしがあるだろう
問題は医療だろうか
医者が都市に偏在している
それは一面では教育の問題である
医者は子どもを田舎で育てる気分になれないのだろう
妻子を東京に置いて自分だけ単身赴任とする方法もあるが
それが最善とも思えない
やはり全体がもっとコンパクトにまとまる必要があるのだろうか
東京の人口が増加傾向という日経の記事
増えているのは家族持ちなのか単身世帯なのか
また日本人なのかそうでない人たちなのか
定職があるのかアルバイトなのか
地方ではパートの口さえないということなのか
いろいろと問題があるらしい
幸福な田舎暮らしが実現する基盤を整備したいものだ
ジュラ紀
アンモナイト お昼寝
ティラノザウルス お散歩
無邪気な夢
好きな時代に行けるわ
タップダンスにまみれて
恋とシネマの明け暮れ
鹿鳴館
ドレスが翻る
ワルツ
ポンパドゥール
シルクハットが揺れる
時間の螺旋 を ひとっ飛び
好きな時代に行けるわ
*****
ということはつまり、
どこにも生けないしこの現実はやっぱりひとつしかないということだな
でも タイムマシンにお願いしてみようか
だめで もともと だ
夢でも見るしかないではないか
酔って生きるしかないではないか
うたた寝をしている間に
すべては終わっていて欲しいものだ
そうだ 腹を据えることだってできるのだ
いまこの時代のこの日本の報告をできるのは
私たちではないか
タイムマシンでここに来た
そう思えばいいではないか
悪くしたってどうせみんな死ぬだけだ
どんなにうまくやってもどうせみんな死ぬだけだ
恐いものなんかないじゃないか
恐いものなんかない
酔ってしまえば勝ちなんだ
今日も年賀状をいただいた。
どうもありがとうございます。
でも、まだ一枚も出していません。
一枚目の、二行を書いただけで、
やめています。
ブログは適当に何か書いているのに、
なぜなのでしょう。
みなさんごめんなさい。
これも一種のうつなのでしょう。
桜の花は刑務所と病院によく似合う。
両方に所属する刑務所の医務官というのがいて、
加賀乙彦などが勤めていた。
大変らしい。
映画「手紙」 [原作:東野圭吾 出演:山田孝之、沢尻エリカ、玉山鉄二]
を見て、柄でもないけれど、泣いた。
なぜなんだろう。
この世界のどうしようもなさがあるから。
受刑者の弟として生きなければならないこと。
そんなことで差別している奴らは全然立派じゃないのに。
小さな人間なのに。
でも、どうしようもない。
そんなことが世の中にたくさんある。
たとえばある種の病気。
皮膚に病変が出たりすると、伝染性はないのに、誰とも遊べない。
たとえば貧乏。それだけで子どもの交友範囲が制限される。
たとえば片親。それだけで結婚を渋る親もいる。
たとえば娘を看護婦と教師にだけはしたくないという親。どんな気持ちでそんなことを言っているのか全く分からないが、そんなことを言った。わたしの血縁には教師もいれば看護婦もいる。
両親が死んでしまっている人もいる。生きてきただけでも誉められることも多いのに、親さえいればこんな人間にならなかったと濡れ衣を着せられた。
すべては、償いのつかない、刑法では裁けない、罪である。
かといって、すべてについてリンチでケリをつけるわけにも行かない。
人を傷つけるのは、愚鈍で邪悪で卑怯で、つまりは、普通の人間だからだ。
普通の社会はこんなものなのだ。
そして中に少しだけ、一時的にだけ、いい人がいる。
そんなものだろう。それ以上期待するのは世間知らずである。お馬鹿さんである。
無限に傷ついているがいい。
ああそんなにも心を傷つけられていたのかと、
私は涙している自分を見て思った。
もうそんな場所に行かなくていい。
もう充分だ。
あとは静かに自分の心を豊かにする方向で生活して欲しい。
そう自分に対して思った。
もうこれ以上、心に血を流さないで欲しい。
例えば、道ばたで人が倒れている。
誰かが助ければよい。しかしそれは、匿名で救急車を呼んでやれば、
充分なのかもしれない。
助けようとすれば血を浴びるかもしれない。
それはエイズの原因になるかもしれないし、肝炎の原因になるかもしれない。
助けようとした時に完全にはできなくて、
かえって逆恨みされるかもしれない。
完全にできないのなら、救急車に任せればよかったのだと言われかねない。
産科の医師はそんな目に遭っている。子どもの障害はおまえのせいだと責められる。
だから、分かっていても、知らんふりで通り過ぎる。
神に謝罪しつつ、倫理感情を麻痺させつつ、
通り過ぎるのである。
映画後半の和解の感情。
それは是非あって欲しい。
それがない世の中ならば、一体人は何のために生きているのだろう。
しかしそれは半ばの夢物語なのだ。
そんな和解はどこにもありはしない。映画の中にあるだけだ。
そのような世界で、
なおも自分を支えて生きてゆく方法がどこにあるのか、
神よ、教えてください。
どのようにして、崩れてしまわないように、
自分を支えることができるのでしょう。
むしろ、この世に属するのではなく、
神の世に属することでしか、達成されないのかもしれない。
ただ絶望だけがある。
ただ過剰な防衛だけがある。
テレビ版では最初の場面でリングの取り合いをして暴力をふるっている。
ひとつの理論によれば、理念としての世界の始まりは、希少価値の略奪なのだそうだ。
そうした世界観をまあ、見事に露骨に身も蓋もなく言い切った場面である。
相手を殺して、リングを手にした喜びに浸る。
この短い場面がすでに現代文明への痛烈な批評となり得ている。
しかしながら、この批評を受け入れて、世界を平和に営むことはできない。
希少価値の争奪は止むことがない。
人口が多すぎるし、一方では、希少価値は依然として希少価値だからだ。
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