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生きる意味

この世界に生きる意味は、魂の浄化である。

浄化された魂は軽くなり天に昇る。

この世界に生きる意味は、心を空っぽにすることである。

空っぽの空間には風が吹き渡り、
ときどきイエス・キリストが入り込み、
ひと休みし、またすぐに飛び去る。

心の空間にある、
無用の私物をすっかり片づけることである。
イエス・キリストのためにいつも空けておくことである。

知識もプライドもちっぽけな感情も、
偉大なイエス・キリストに比較すれば、
無限に小さい。
ただ隣人を愛する心だけがあればいい。



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記事No.1000

1000個目の話題として明るく始められないことを残念に思う。人生は思うようにいかない。今日はある会社の経営をしている人と話していて、人の悪口の話になった。高級な飲み屋に行っても、安上がりな社交場に行っても、結局話題の8割程度は人のうわさ話で、その大部分は悪口に類することである。その人には尊敬して止まない経営の先輩がいて、先見の明あり、度胸あり、努力家でもあり、知性も最高、といった具合に惚れ込んでいる。みんな嫉妬しているはずなのだ。その人について、聞く話は圧倒的に悪口である。自分が敬愛しているとは公言していないから、自分も悪口の仲間に誘われる。その時には仕方ないので、つかず離れず、相づちは打たないけれど、否定することもなく、話を流している。おおむね、悪口が流れる時は嫉妬の感情が裏にある。自分より下と思っている人間のことを話題にして、悪口を言うことはあまりない。何かしら嫉妬の感情があって、その上で悪口を言っているわけで、その意味では、勲章でもある。その人の話題で盛り上がると言うことは、みんなの関心の的になっているということだ。関心も持たれなければ、悪口も作り話も出ない。その人は、敬愛する先輩に聞いてみた。人の口はやはり気になりますか。いや、それは世の中の習慣というものです。鬱憤晴らしの材料になっているわけで、ストレス発散の一助になればそれでよい。どうせこちらが落ち目になればすぐに忘れてくれる。そんなことも含んで、その上を行くだけだ。うわさ話の上を行く、それしかないでしょう。例えば、芸人は、恥が金になるのだ。

その後は、魚釣りの話。米国では早期リタイアが尊敬されるとかで、50才でリタイアして、ボランティアや趣味に没頭できれば成功者とされる。そんな話を始めたら、ある米国人が、そんなことがよく言われるが、自分の場合はそんなことはない。自分は本来魚を釣る仕事をしていた。仕事に誇りがあった。好きだった。そこで早期リタイアを実現して、本当に好きだった、自由な釣りに没頭した。ところがどうしたわけか張りがない。自分は仕事で釣りをしていて、この魚が世界のどの地域の人に売られて栄養になっているのか、どんな料理になっているのか、食生活全体でのこの魚の役割などを想像して、仕事に張りがあった。ところがいまは、釣った魚は仲間と近所に分けるだけで、社会的な拡がりがない。社会の一部として確実に機能している実感に全く乏しい。やっていることはほとんど変わりない。むしろ、マーケットの要請に従って魚の種類を指定されるよりも、自分の好きな魚をその日の状況に合わせて自在に調整する楽しみが大きいと思っていた。しかしそうではなかった。社会に要請されているという気持ちが一番の仕事のうれしさだった。そんなこともあって、早期リタイアを経験しても、また、仕事の現場に戻って、生き甲斐を追求したいと感じている人も増えている。これはアメリカの状況。

仕事といえば、こんな話もある。韓国で世界銀行の支配下に入ってから後、起業家の活躍が目立つようになった。しかし大半は道の半ばで消えてゆく。平均すると、道のりは次のようだ。大卒してしばらくは仕事を覚える。資本金の蓄積もすすみ、自信もできて、37才で独立起業。そのあと馬車馬のように働く。しかしライバルは多く、多くの同業者の中で生き残るのは一部のみである。その場合、破産にいたるのは47才くらいなのだという。なるほど人生行路を平均的に良く言い当てている。私もその年齢にぴったり当てはまっていたので驚いた。

またその人は地域医療の問題にも関心があり、具体的には、無医村で、産婦人科をどのように確保するのか、考える。その場合、まず第一は「赤ひげ先生が待望される」。しかし長続きせず、次の世代は敬遠する。次は、金、官舎、その他の優待設備である。しかしながら限界がある。地方では何より教育が問題だ。そして、買い物施設がない。さらに夜になって遊びに行く飲み屋もない。そこまで乏しい現状で、赤ひげ先生も、二の足を踏むだろう。少なくとも、妻子は都会に残すことが行われるようになるだろう。それが幸せなんでしょうか。そうなると結局、都心部の職場に集中することになる。職業選択の自由もあり、それは容易には変えられない。中央統制計画経済的施策は考えられるが、無理だろう。ここで、なぜ都会かとの問いかけがある。田舎に老人は、都会に出てくればいいではないか。そのための補助をしてもいい。田舎の各種インフラ整備をやめて、都会暮らしを援助するのである。今後田舎の郵便はどうするか、宅急便はどうするか、銀行まで行くのは大変だし、都会に普通にあるものが田舎にない。コンビニがない。医者にすれば、子どもの教育、妻の生活の不便が一番大きい。これを解決せずに、産婦人科医を増やせ、小児科医を増やせ、麻酔科医を増やせなど、無理というものだ。医者はある部門では余っている。またある部門では足りない。偏在しているのである。偏在すると競争も激しくなる。なかなか難しい問題だ。ある地方自治体病院の赤字はかなり巨大で、それならば思い切って例えば、ヘリコプターをたくさん用意して、基幹病院に大量輸送する方法がある。きっぱり言うとすれば、田舎に散在する老人を都市部に集中させ、そこに医療の集中させる。それしか解決はない。

そして最後には悪口に移り、悪口を言われるのも勲章だとの結論になった。



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