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映画 禁じられた遊び

名作続々でカサブランカ、第三の男、禁じられた遊びと続いている。
ルネ・クレマン監督。見るたびに発見がある。

時間がたてばたつほど名作になる。
なぜなら、名作が我々の感受性を育てるからである。


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杉並区母子殺人事件

容疑者が逮捕され、すぐ近くに住んでいる大学生男子だという。
動機は不明。
盗んだカードで現金を引き出そうとして、ビデオに映っていたのだという。
被害者には特に恨みを買うような、
つまり、殺されるように理由はなかったらしい。
理由があっても人を殺してはいけないのであって、
ゆえに、死刑廃止論も強いのであって、
それなのに、理由なしに殺人を実行してしまうとは、
人間の仕組みの中にそのような回路が内蔵されているものだろうか。

あるいは、最近の生活の中の何かの変化が、
日本人の行動に影響を与え、
このような理解できない事件を引き起こしているのだろうか。
30年前は小学校の学級崩壊も理解できないことだった。
現在では、理解できないながら、現実として認めざるを得ない。

抽象的な言葉で言えば、
人間性の欠如、
情操の欠如、
となるらしい。

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関東でも春一番

吹いたって。

例年は、「春一番が吹く日まで」を
合い言葉にして、
寒く冷たい冬を堪え忍んできたものだった。

今年は例外的に暖かかった。
夏は暑いのかなともう先のことを心配している。

未来を過剰に心配するのは
愚か者の特徴であると
モンテーニュ先生が指摘している。

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人間であること、これが彼の職業であった

堀田氏がモンテーニュ先生について語る。

キリストその人とその言葉に一言半句も言及したことのないカトリックであった。
サント=ブーヴの言うように、「人間であること、これが彼の職業であった。」

専門職である前に、人間であれ、
などとよく言われる。

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半分は話し手に、半分は聞き手に

モンテーニュ先生は
テニスボールのやりとりに例えて言う、

言葉は、半分は話し手に、半分は聞き手に属する。

そうだねえ。真空に言葉が響いていても仕方がないものね。
とすれば、聞く人の身になって、分かりやすく書いてくれることも、
大切だと思う。

一種の合作だね。

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思索 心を鍛える

思索すること。モンテーニュ先生の言葉。

私は心に物を詰め込むことよりは、心を鍛えたいと思う。
自分の思想と語り合うことほど、

大切なものはないということだ。
実際、私たちは、心に詰め込みすぎていると思う。
情報は過多である。意見は過剰に飛び交う。
詰め込んでも益はない。

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春一番 自然の異常

西日本で春一番と報道されているのに
東京は寒い
雨が降った様子で
いまは風が強い
今日は一歩も外に出ていないので
雨についてはよく分からないが
木々の梢を眺めて知る限りでは
風は強い
マンションというものは外の気象から人間を遮断してしまう
一戸建てに住んでいた時には
屋根をたたく雨の音に敏感だったものだ

とうとう、雪が降らないまま、春一番の宣言という、
観測史上はじめての事態だという
戦争は遠いところで進行しているが
自然の異常は明らかにわれわれを襲いつつある

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ソクラテスは毒杯を仰ぐ 来世の信仰

ソクラテスはその思想の名において毒杯を仰いだのであった。

こう堀田氏は書いている。

ソクラテスが毒杯を敢えて仰ぐに至った経緯について、
自分としては次のように考えている。

ソクラテスやプラトンにおいても、
真善美とされるものがどうしてこの世で報いを与えられないかは、
説明の難しいものであったと考えられる。
ソクラテスとプラトンは哲学者の常で、あの世での報いを説いた。
つまり、この世で報いられなくても、あの世できちんと報いられるのであるから、
心配はいらないとした。
そこで、民衆は問う。しかしそんな来世が本当にあるのか。空想ではないか。
本当に信じているのなら、
いまこの場で死ぬことも怖くないはずだ。
まして、この世は影であり、真実の存在はイデア界にあり、
などと言うからには、この影の世界などには用はないはずであろう。
死の恐怖に打ち勝てるのか。
そのよう局面にいたり、
ソクラテスは信念に従い、毒杯を仰いだ。
そう思う。

ソクラテス氏はやせ我慢したんだな。
それともうつ病だったのだろうか?

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魂の価値

モンテーニュ先生の言葉。

魂の価値は、高く行くことでなく、秩序正しく行くことである。
魂の偉大さは、偉大さの中ではなく、平凡さの中に発揮される。

このような意見も、
人生を生きていくにあたって非常に役立つ。
そのようでありたい。
特に、彼、モンテーニュ先生が生きた時代の、無秩序ぶりには同情する。
そうした中で偉大であろうとすれば、
かなり怪しい。

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愚か者

「愚か者の人生は不快で不安定で、未来のことばかり考えている。」(セネカ)

なるほど。そうだろうな。
一方、過去のことを後悔してばかりいるのはうつ病である。

Led Zeppelinの歌「天国への階段」で、そんな歌詞があったと記憶する。
嘆いても仕方のないことを嘆いているのは愚か者である、
そんな意味の、しかしもっと詩的な象徴的な言葉だったと記憶する。

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結びのお言葉

モンテーニュ先生の結びのお言葉。

もっとも美しい生活とは、
私の考えるところでは、
普通の、人間らしい模範に合った、
秩序のある、しかし奇蹟も異常もない生活である。
ところで老人は少しばかりやさしく取り扱ってもらわなければならない。
だから、この老齢を、健康と知恵の守護神ではあるが、
快活で愛想のよいアポロンにお願いしよう。

アポロンの神よ、静かに私に、
私が手にした幸福を、身も心も、
壮健で享受できますように。
そして私の老年が恥多きものではなく、
琴の楽しみも奪われませぬように。(ホラティウス)

なるほど、円熟である。いいものだ。

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傑作

モンテーニュ先生の言葉。

「われわれの偉大で光輝ある傑作は、立派に生きることである。」

おお、学生さんに好まれそうなお言葉。

「立派に生きる」ということがどういうことか、
なんとなく事前に分かっているところが、
この人の信用しきれないところだ。

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落馬事件と臨死体験

モンテーニュ先生は落馬して、
まるで極めて軽度の臨死体験をしたのではないかと
思われる記述がある。
面白いものだ。

そして書く。
「私の仕事と技術は生きるということである。」

へんなオヤジである。
大金持ちで政治的地位にも恵まれたこの人が、
こんなことを書いている。

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最下層の人々

モンテーニュ先生の言葉。

「私はいつも最下層の人々の行状や言葉が、われわれの哲学者たちのそれよりも、真の哲学の教えにかなっていると思う。」

しかし、最下層の人々の考えや行いをどの程度知っていたものだろうか。
まあ、真に受けない方がいいな。

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話し合えときた 産む機械発言 健全な考え

モンテーニュ先生はこう言う。

「精神を鍛錬するのに最も有効で自然な方法は、
私の考えでは、話し合うことであると思う。
話し合うということは、人生の他のどんな行為よりも
楽しいものだと思う。」

そうか。孤独の中で省察することではないのだな。
これも円熟した境地である。
普通の、健全な判断がどのようなものであるか、
自然に体得される方法が、話し合うということである。

例えば、厚生労働大臣の発言として、
子供が二人以上欲しいと望むことが若者の健全な希望だ、
などと、自身の「産む機械」という「問題発言」のあとでなおも発言してしまう、
その常識の欠如については、
やはり話し合い、他人との共同の世界を認識できていないという点で、
未熟なのだと思う。

最初の、「産む機械」発言に関しては、その発言のビデオを見たけれど、
たいして問題となるものでもなかったような印象を持ったものだ。
例えは揚げ足をとられる危険がある、つたない例えであったけれど、
何を考え、伝えたいかについては、理解できる範囲であった。
しかしこの場合も、最近の情勢はどうなっているのかを勘案すれば、
余計なたとえ話などをすべきではなかったと反省はされるだろう。

もっとも、出生率を上げて、人口を現在水準に保つことが、
どの点で望ましいものなのか、深い考えがあっても良かった。
国力の維持というおおざっぱな考えもあるし、
税収や労働人口やそんな統計数字が大切と考える人もいるし、
一方で、そんなことより大切なのは個人生活の快適さで、
日本が都合悪いなら他の国に行けばいいと思う人まで、
いろいろいるのだということを大前提にして、
発言して欲しいものだと思う。

要するに、役人にレクチャーされるだけで、話してしまうのだろう。
もっと広く話し合う姿勢を持てば全然違うのに。

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相対的真理

堀田より。

〈私は何を知っているか?〉
自己を知ることが彼にとって最高の生き方であり、生き甲斐であった。
人間の知識がすべて相対的なものであり、
普遍にして永遠絶対の真理が神の許にしかないとしても、
相対的であるからと言ってそれが基準を欠くということにはならない。
何らかの形で、人間についての普遍性と確実性が認められるものがあれば、
たとえそれが永遠絶対の真理ではないにしても、
相対的真理ではありうるであろう。

なるほど、その程度のものに限定して探求すれば、
それはたいへん有益である。
例えば、ゲーデルの定理などを持ち出したりしても、面白くない。
例えば、詰め将棋でも、例えば、ユークリッド幾何学の問題でも、
解ければ面白いのだから。
限定された相対的真理であっても、良いのだ。
限定条件を忘れないようにすれば、充分に有益なのだから。
それが大人の高級な常識というものだ。
子供っぽく論理だけで論駁するのは大人げない。

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生き方を書く

モンテーニュより。
「私は自分の生き方を公表することが、ある意味で私を規制してくれているという点で、思わぬ利益があることを感じている。私はときどき、自分の生活の記録を裏切るまいと考えることがある。」
「私が書物を作ったというよりも、むしろ書物が私を作ったのである。」

こんなにも自信満々でいいものか?

それとも、根本的に嘘つきなのか?
まあ、そうでもないようだ。

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不義理 義理チョコ 江川デビュー当時

むかしお世話になったのに、
挨拶さえしていない、
不義理を重ねている人の顔がちらっと浮かび、
当時の時間を30秒くらい思い浮かべていた。
義理チョコという文字で思い出した。

いや、違うか。
なんとなく自分の内部に運動の感覚のようなものが沸いて、
最近スポーツニュースで見る、プロ野球キャンプを
思っていた。
バットをスイングする様子を思い浮かべていたら、
昔の広島・小早川を思い出した。
すると、江川が小早川に三連続ホームランを打たれて、
引退を決意させられたことなど思い、
すると、江川がデビュー当時、ペナルティで2ヶ月だったか、
出場が停止されていて、
解禁されてテレビに登場したのが6月くらいだったかもしれない。
その当時ある人にある仕方でお世話になっていて、
その人とテレビを眺めながら、
江川は速いねなどと話していたことを思い出し、
そういえば不義理をしているなあと考え、
というつながりであったかもしれない。
白川さんという人だった。

書いていて思いだしたのだが、
別の春の昼下がり、
開幕戦は巨人-阪神のデイゲームだった。
当時江川と掛布の対決が中心だった。
やはり掛布にホームランを打たれたような気がする。
情けなさそうに首をかしげる江川の仕草が目に浮かぶ。
場所は高円寺、ほのぼのとした時間であった。

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方法化された懐疑

堀田は書く、
「懐疑主義がすべてを否定し去って、判断停止状態に追い込まれても、
個人的経験、経験的事実はどこまでも残る。そこにある確実性の
根拠を見出すことができると、彼は考えたのであった。」
「彼は自己以外のものは何一つ、真に知ることができない、と考えるに至った。」

さて、「自己」の「体験」を、
どこまで信じていいものか?
信じていいはずはない。

逆に問うなら、
幻聴を、「嘘の声」だと否定する根拠は何かということである。
自明のようでいて、そうでもないだろう。

懐疑をはっきりと方法として意識し、
その限界も、常識から、わきまえる、というような書き方しかないのだろう。
また、人間が生きていくにはそれで充分だ。
あえて、幻聴や妄想と、正常状態の知覚や思考との区別を真剣に考える必要もない。

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大きな旅

モンテーニュはドイツを経てローマを巡る大きな旅に出かけ、
かなりの散財をしたらしい。
旅の途中でダンスコンテストの選考役を引き受け、賞品を自腹で出している。
尿路結石に対して温泉水を飲んでみたり、その飲み方を工夫していちいち記載したり、
ローマに感動し、
ローマに住む世界市民として認定されたことに感動し、
一方で、ドイツに好印象を持ったり、そんな旅だった。

著しく光彩を放つ旅日記である。
人間の精神をこのように賦活するものが旅であるなら、
やはり旅に出ようかと想いもする。
JR東海か日本旅行のコマーシャルのようであるが。

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聖アウグスティヌスとモンテーニュ

「だから私は〈実証するのがむずかしく、信ずるのが危険な事柄については、
確信よりも懐疑に傾く方がよい〉という聖アウグスティヌスの考えに賛成する。」
という一文がモンテーニュのエッセーの中にある。
聖アウグスティヌスという人は偉い人だ。

また、
「聖アウグスティヌスも、〈精神がどのように肉体と結びつくかは、まったく不思議で人間には理解できないことである。しかしその結合こそ人間である。〉と言っている。」
との一文もある。
心身問題もこのように正確に認識されていたのだった。
ますます偉い人だ。

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シェイクスピアとモンテーニュ

シェイクスピアはモンテーニュの本を読んでいて、
研究者によれば、
80箇所から100箇所に及ぶ、
モンテーニュの言辞にパラレルなもの
が見いだされるという。

エラスムス、トマス・モア、モンテーニュ、シェイクスピア、セルバンテス、と
ヨーロッパ・ルネサンスは受け継がれてゆく。

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ピコ・デラ・ミランドラ「人間の尊厳について」

堀田善衞「ミシェル 城館の人」で紹介されている。
ミランドラの23歳の時の著作だという。
何かの間違いではないかと疑われるほどの早熟である。
ルネサンスである。

天国、地獄。
神、悪魔。
善、悪。
聖、邪。(ふつう、正邪、あるいは聖俗が対照される。だから、多分、堀田氏の校正ミスか。まあ、聖、邪゛も大意は変わらない。)
中世以来のキリスト教世界は以上のような二項対立であった。
そこに「人間」という一項を付加した。

また、当時は占星術的な決定論が支配していた。
それを覆して、人間の自由を恢復再生させようとした。

アダムはみじめではないし、罪人でもない。
動物のように下等界に生きることもできるし、
精神の高等界に生きることもできる。
自己自身の像の制作者となることができる。

こんな紹介である。
「占星術的な決定論」との言葉が、私には光って見える。

私にとって、現代科学は、究極的に言うならば、
唯物論的決定論の世界である。
宇宙的な規模のマクロなことも、核物理学的なミクロなことも、
決定論というにはよく分かっていないことの方が多いのだが。
考えが足りないから、
自由だと錯覚しているだけである。多分。

それとも、私の認識は、歪んでいるだろうか。
人間には、「決定論に傾く傾向」と「自由論に傾く傾向」の二つがあり、
同居しており、時と場合に応じて、いずれもが発揮されうる、そういうことだろうか。
ときに「決定論」が世界を覆う。
それは時代によって、宗教や占星術と結合し、また、自然科学と結合する。
ときに「自由論」が世界を支配し、
宗教における神の自由を分与された人間というビジョンでとらえることもできるし、
神とは独立した人間というビジョンでとらえることもできるだろう。

それにしても、占星術は現代にも生き残っていて、
それで生活費を稼いでいる人さえいるし、
会社の重大な決定をそんなような類のものに頼っている人達も
まれならずいるようである。
そんな社長に人生を捧げている社員こそいい迷惑である。
「人間の尊厳」を取り戻そうではないか。
もし、もともと分与されているとして。

「人間の尊厳」なんていう目にも見えないものを合言葉のように言って、書いて、
何か仕事をしたような気になっているなんて、
人間はおかしな動物である。
そんなものは、はじめからないのではないかと疑ってかかるのが、
懐疑主義というものではないか?

しかしモンテーニュ氏なら言うであろう、
庶民の生活を広く見渡してみて、
やはり人間の尊厳は存在すると深く納得されるのである、と。

こんな事項を懐疑に含めるか、自明の前提として考えを進めるか、迷う。
そんなものは「立ち止まるしかない懐疑」であり、
懐疑の中でも悪質なものであり、
方法的懐疑にはなじまないと一蹴されるであろうか?

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寒い一日

今日、朝から天気が悪い
水が冷たい
気温も上がらない
西日本では春一番というが
明日は一転した冷たい北風という予報が流れている
北国では雪

この冷たい世界の印象が精神をも覆う

温暖化が進めば
これまでの寒い地方の文学や哲学は廃れて
温暖な地帯の文学哲学が流行するのではないか
多分、イスラム文化が世界に浸透するのではないか?

キリスト教は寒い
イスラム教は暑い

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昔変換した文字

ワープロを打って変換する
つながりがおかしくなって
「こわせ」と変換したことになり
小和瀬が出て
昔の知り合いを急に思い出す
日本語辞書は学習していたらしい

個人情報の宝庫である

各自の日本語辞書は学習機能によって、
各自の意識内容の一部を反映し、記憶している。
本人の意識は思いもかけない過去をつれてくることがある。
将来、夢分析やロールシャッハテストではなく、
各人の辞書を分析する専門家が登場するだろうと予想する。
過去、歴史、傾向、偏り、間違いのタイプ、心理、生い立ち、精神病理、
いろいろと指摘できる。
心理テストのかわりに利用できる。
そうなれば、犯罪者は、犯罪には向かない人間だと証明するために、
警察に提出用の辞書を工夫するようになるだろう。

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モンテーニュの部屋のラテン語銘文

モンテーニュは法律専門職から引退して、
父の財産を正式に相続した。
換算すると65億円余り。
これが生み出す月収は760万円。

さて、モンテーニュの書斎の隣室、暖炉上部壁面の銘文。ラテン語。

キリスト紀元1571年3月1日の前日、年齢としては38歳であるが、
早く朝廷での屈従と公職の重荷に倦きたミカエル・モンタヌスは、
心身なお壮健と覚えはするけれども、博大なる知識の処女の
胸に身を休めたく、この隠棲に入った。余生を平安の中に
送らんがためである。願わくは運命が彼をして、この父祖伝来の
居館を補修し、これによって彼を自由と静謐と閑雅とに、
叶わしめてくれるように。

文語のような口語のような微妙な翻訳。

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レーモン・スボン「自然神学」

「ミシェル 城館の人」で紹介されている書物。
自然神学とは、自然と聖書、つまり、理性と啓示が
同一のことを表示すると説くもの。
モンテーニュは本書「自然神学」をフランス語に翻訳し、
さらに「レーモン・スボンの弁護」を書いている。

神は我々に二つの書を与えた。一つは自然(被造物)という書物であり、
もう一つは聖書である。
従って自然と宗教は両立し調和する。

堀田氏の解説は、
自然神学という考え方の中には、科学的思考の芽がある。
さらに、科学が宗教から分離されてゆく方向が示唆されている、とする。

現在で言えば、自然科学と宗教の関係の問題である。
堀田氏は「分離されてゆく」としているのであるが、
そこにはいろいろな考え方があり、
究極的には同じものであるとするものから、
まったく違うものとする考え方まで、揃っている。

常識的には、まったく違うものであり、
たとえば創造説とダーウィン説は一致しないのである。
しかしそこを「言いくるめる」方法は色々ある。

自然科学は神のない世界理解であり、
宗教は神を信じたうえでの世界理解であると、
一応言えるが、
自然科学はそんなものでもないだろう。
陰画のように神はへばり付いているのだ。
自然科学が人間の思考である限り、
自然科学の全体像の背後に神の像が透けて見えるのである。

神なしで世界をどこまで記述できるか、
それが現在の自然科学の目指している、
最終地点である。
そこまでやっとのことで辿り着いたとして、
やっと宗教と同格になるだけのものである。
神はないかもしれないと控えめに言うことができるだけである。
それにしても、
宇宙が存在しているこの空間は「どこ」にあり、
時間が発生する「舞台」は何なのか、
なぜ世界には粒子が存在し融合と分離を繰り返しているのか、
ビッグバンの前には何があったのか?
自然科学が語りうることはまだまだ少なすぎるのである。

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魔法 魔術 魔女 奇跡

「ミシェル 城館の人」の中で言う。
魔法も魔術も存在しない。魔法使いや魔女などは、むしろ精神病患者(内部の幻想)なのだから、火刑にしたりしないで医療を施すべきだ、というこの考え方は、人権と人命の尊重に関して、二世紀後の人権宣言に早く先行するものであった。人権という用語もまだなかっただけである。

モンテーニュが魔法、魔術、魔女、奇跡を否定して語る文章の説明である。
キリスト教において例のさまざまな奇跡はどのように解釈したらよいのか、確かに問題であろう。
モンテーニュのように否定してしまうのは、正統の信仰者、例えば、教皇の見解を気にする人から見れば、あまりに危険なことだ。
「医療を施すべきだ」との見解は、分かりやすいものだけれど、
医療の側には、それに応じるに足る蓄積は、当時はなかったと思う。
医療の世界でも、多分、監禁留置だけが方法であっただろう。
当時はまだ滝で打つとか、鞭で病魔を追い出すとか、そんな発想の時代である。

モンテーニュに従えば、
聖書に記載されている種類の奇跡は、
無論、人間の通常の経験の範囲ではどうにも理解できないことである。
従って、信ずるのが危険な事柄に属するので、
判断を保留するのが妥当である。
また、魔術的思考については、反復して生起する状態を見れば、
確かに、思考の異常であり、
精神病理学的な問題があるので、
医学的対処が正しいかもしれない。

実際には現代で言う詐欺師が相当数含まれていたものだろう。
現代ではほとんどが詐欺師となっているだろう。

魔術を本当に信じていればそれは医療の対象となり、
魔術を本当は信じていないならそれは刑法の対象となる。
医療と刑法の関係はこれでいいのかな?
最近のオーラのほら話は、あれは医療や刑法の対象ではなく、
「ショー」「見せ物」または「芸」なのだろうか。
見立てる方は、もちろん信じていないだろうから、
判定は、オーラを見立てる人にあるのではなく、
見てもらう方にあり、その人が、これは「仕事」と認識していれば、
「ショー」なのであり、「本気」と認識していれば、詐欺になるのだろう。
でもまた、「当たり前のこと、これは仕事に過ぎない、
こんなことを信じるなんて病気だ」と言い張ったとしたら、
どうなるのだろう。
詐欺の立件は難しいだろう。



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堀田善衞「ミシェル 城館の人」 モンテーニュ 「エッセー」

文庫で三冊に分かれている。
確か単行本ハードカバーを買った覚えがあるのだけれど、
探せないので今回は文庫本で読んだ。
物覚えが悪いのでまるで初回のように読めた。
いいことなのか悪いことなのか分からない。

エッセイとかエッセーとかエッセイストなどと文芸ジャンルとして日本語で言うが、
モンテーニュの本、「エッセー」が由来である。それだけでもすごい。
本の内容は、「随想」なんていうものではない。
もっと筋金入りの思想的書物である。
思いついたから興味の向くままに書いておこうなんていう考えで、
こんな書物ができるはずはない。

この本の中で、堀田善衞は原文とその周辺の本を参照しつつ、
自分で翻訳している。
そこにも興味があった。そこがまず労作だねえ。
エッセー単独で、モンテーニュの本を読み通せるかと言えば、
まず無理のようだ。
まずラテン語に興味がなければ、つまらないだろう。
それに、実に持って回った言い方である。すぱっと言ってくれ、すぱっと。
でも、その晦渋さが翻訳物の楽しみでもあるらしい。

定家名月記私抄もそうだが、
著作の歴史的背景とか、文章の背後にある事情と混ぜて解説してくれるのは、
たいへん親切でありがたい。
岩波セミナーブックスとか、そんな感じ。
そう言えば、岩波セミナーブックスを何冊もまとめて買ったけれど、
どの段ボール箱に入っているのか、本棚に並んでいない。

今回はフランスルネッサンス期、宗教戦争当時の歴史や地理のおさらいになる。
堀田氏は親切で、大切なことを何度も繰り返して要約しつつ語ってくれる。
頭の悪い私などにはたいへんありがたい。
うっかりしていても、自然に頭に入る仕組みだ。
予備校の有名先生みたい。

自分の友人たちのために、
自分モンテーニュを理解し思い出す手立てとなるように、
そして自分が自分を観察し理解し、
そのことがひいては人間一般の理解につながるように、
意図されている。
自分が一番よく知っているのは自分だから、
それをありのままに書いて分析してみようというのである。
そういう「試み」トライアルがエッセーである。
長年に渡って書き継がれた書物であり、
最初のあたりと、最後のあたりでは、
思想も感情も変化がある。

こんなことをしていると人生に誠実にならざるを得ない。
そこで、私が立派だから立派な文章ができたのではなく、
この文章を書き続けるという意志が持続できたから、
なかなか立派な人生になったなどいう意味のことを書いている。

当時、カトリックに対してプロテスタントが育ちつつあった。
そしてその勢力増強に応じて、周辺諸国との関係も
不安定に変移した。
「国民国家」というものが育ちつつあるプロセスでもあった。
宗教戦争はまことに血なまぐさく生活を彩った。
そして疫病も。

ヨーロッパ中世の宗教的抑圧の中で、
ルネッサンスの萌芽が見られ、
ギリシャ・ローマの文化が復興に向かう時代でもあった。
神中心から人間中心へ。
その感覚はモンテーニュの生涯によく現れている。

哲学の領域では、キリスト教カトリックと結びついたストア派の言論がさかんだったが、そこから飛び立つ時代だった。
ストア派はつまり、精神により肉体をコントロールする主義である。
そんなものではない、肉体も自然が人間に与えたのだから、
悪くないだろうと、新しい時代は告げている。

キリスト教よりも前の、自然のまま、人間のありのままを肯定するという点では、
ニーチェを思い出す。

モンテーニュはラテン語を得意とし、ラテン語文献に親しんでいたため、
フランス人というアイデンティティよりも強く、世界市民という感覚があった。

法律家だったが、人生の途中でやめている。
以後、「城館の人」つまり隠棲の身となる。

アメリカ大陸発見にあたっては、
ヨーロッパ人の振る舞いにかなり批判的だった。

歴史を振り返ってみると、
いろんな意味で先進的、次の時代を先取りしているのである。

母について触れていない。関係が悪かった。
イエス・キリストや聖書について触れていない。危険だった。
妻とは不仲だった。いやな体験があった。
女性関係はおおらかに楽しんだ。
家庭の中では孤立していた。
そのことも、思索には好条件だった。
だから、不幸な家庭を抱えている人達、
モンテーニュ先生でさえそうだった、
わたしたちが家庭の不幸を堪え忍ぶのも当然ではないか。
むしろ、不幸を素材として、人生の中で磨き上げようではないか。
あ、これだとストア派みたいだな。

モンテーニュという人は、
晩年に至ると、ぬけぬけと、
幸せでいいじゃないか、だって幸せなんだから、
もう少しのあいだ邪魔をしないで
楽しませてちょうだい、
みたいに書いている部分もある。

秀才というものは、
自分に酔うことができない部分もあるのだ。
見えてしまっているから。
そこがつまらない部分でもあり、渋く光る部分でもある。



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下手な字

最近自分の字が下手になっているのに気がついて
がっかりしています。
でもていねいにゆっくり書く気もないのだけれど。
なにか運動系の劣化でもあるのではないか。

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