文章と絵画
例えば、難解な文章を、平易な解説で解きほぐすことはできる。
絵画でそれができるだろうか?
ゴヤの絵のどれかを説明するにはやはり文章が必要である。
絵を絵で説明することはできそうにない。
文章と絵画の間に、このような非対称性がある。
解きほぐすには言葉が必要らしいということは、
人間が何かを「理解する」ことの本質にかかわっているのだろう。
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一方、かったるいトルストイの風景描写を一枚の絵で提示することはできそうである。
体験の質としては異なるけれど。
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時間軸に沿って正しく並べられている点で、音楽と文章は似ている。文章を音読している人はまさに「演奏」しているのだ。
絵画は体験の質が違う。
多分、モーツァルトには、絵のように音楽が一挙に「見えていた」のではないかと思う。
絵を時間をかけてみる人は、濃縮された時間を解きほぐしているのだろう。
画家が時間をかけて描いた、手の運動や目の運動を再現しようとしさえするだろう。
モネの睡蓮を見て、私はモネの運動を想像しない。
むしろ池の風を感じる。それはモネの技術なのだろう。
高橋たか子「怒りの子」
カトリック的体質については興味があり、しかし馴染めないでいる。
今回は「怒りの子」を手に取ってみた。
やはり馴染めない。
カトリック系の著作については嫌いではないので、
高橋たか子氏と私との感覚というかアプローチというか、何かが違うのだろう。
解説部分に、
自分の思うことが「つつぬけに見えてしまう」、
「お姉さんから何かが来る」、
「自分が、自分ではない者に、身を明け渡していく」などの言葉が見える。
これらは、言葉の類似だけからいえば、まさに統合失調症の描写の語る言葉と似ている。
そして考えてみれば、宗教的体験、神秘的体験というものは、
統合失調症と似た方向を向いている。
超越者との超越的な体験である。
神秘体験と統合失調症体験の区別ができるものなのか、あるいはできないのか。
多分、語る相手を選べる者は病者ではないのだろう。
吉行淳之介「暗室」
読んでいて思ったのは、誰が誰に向かって書いているんだろうかということだ。
書いているのは、吉行淳之介で、主人公も同じ、これは分かりやすいと思っていいのか。
でも、もったいぶるほどのことなんだろうか?
こんな程度のやつと分かったらまずいのじゃないか?
そこで、虚構があるのだろうと推定される。
「こんな程度の奴」が居るとして、こうだ、という設定なのだろう。
誰が好んで読むのだろう?
女が読むとすれば、女について知るためではなくて、男について知るために読むのだろう。
でも、こんなこと。面白くない。
男が読むとすれば、若い男ならば、先輩が何をしているか読むのだろうか。
それなら分かる。何でも知りたいだろう。
中年の男ならば読んで面白いだろうか?つまらない。
風俗一般について知りたいのだろうか?
でも、性については、文章を読んで心理を解説されて、しかもそれが心にしみていかないものであれば、どうしようもない。
全然官能的ではない、性の本質でもない、と思った。
飯田龍太
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「甲斐」を含む句もたくさんあるようだ。こうなると、「一月の川一月の谷の中」の句についても、鑑賞が違ってくるだろうとは思う。
甲斐駒のほうとむささび月夜かな
水澄みて四方(よも)に関ある甲斐の国
梅漬の種が真赤ぞ甲斐の冬
甲斐の春子持鰍(こもちかじか)の目がつぶら
かたつむり甲斐も信濃も雨の中
三大関一横綱敗れる
八百長疑惑で揺れる大相撲であるが、
本日初日、三大関一横綱敗れる大波乱。
最後の横綱戦はどちらの気合いが乗っていたようだった。
勿論これまでも場所前半は八百長が少なかったのではないかと思うけれど。
荒れる春場所というわけだ。
不思議なことに実際、荒れる。
一月の川一月の谷の中
毎日新聞にこんな記事。
「一月の川一月の谷の中」は先日86歳で亡くなった俳人、飯田龍太さんの代表句である。実はこの中に国の名が潜んでいるというのを、作家の丸谷才一さんに教えられた。「飯田龍太全集 俳句1・2」の本紙書評でのことだ▲「『甲斐』の語源は山のカヒの意で、すなわち谷。従ってこの句は、一月の甲斐の国を流れる水量の乏しい川がもうすぐ雪どけ水で滔々(とうとう)たる豊けさになるという句で、新年をめでたくことほぐ」。
この句を読んで、そんなことが分かるもんかいな。無理です。