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山本周五郎「樅の木は残った」2

「みちのおく」と題された章に次のような話がある。

五十も過ぎたと見える、目の見えない二弦琴の芸人が語る。

私は師について大和絵を学び、三十になるころには、一応の評価を受けていた。しかしあるとき突然絵が分からなくなった。絵とはどういうものかが疑問になり、絵が描けなくなった。

しばらく苦しんだあげくひとつの解決に至ったものの、こんどは世間が絵を認めてくれなくなった。自分としては一段と深く絵の道に入ったつもりであったのに、認められなかった。自分は絶対に正しいとも思われず、改善すべき点は何か、世間の評判にも耳を傾け努力した。しかし努力すればするほど、受け入れられず、生活にも困った。

そんな中、突然目が見えなくなってしまった。絵で生きることはできなくなったので、楽器を持つことになった。いまは諸国を巡り歩いている。

そんな境遇となってからも、絵を忘れることはできず、頭の中で絶えず絵を描いてきた。空想の中で描き始めて、実際に描くのと同じだけの時間をかけて描いた。大小さまざま、十五、六幅の絵が完成した。頭の中にはどの絵もくっきりと保存されており、細部までありありと広げてみることができる。

しかしその絵を他人に見せることはできない。目が見えていた頃に描いた絵も、人に認められなかったのだから、こうして人に見せることができない絵を描いていても、同じようなことだ。現実にも、空想の中でも、人には理解されない絵を描き続けてきたことになる。

業平の歌に
おもうこと いわでぞただに やみぬべき 我とひとしき 人しなければ
という。

自分と同じ人間はいない。頭の中にだけある絵は、人に理解もされないが、悪評されることもない。
それでいいのだ。親子、夫婦、どんな親友であっても、理解されない部分はある。人間は常に独りなのだ。

*****
以上のような具合で、「自分の頭の中にだけある絵」についての話は、
人間の内部にあるイメージ・システムの「流通不可能性」を提示していると思う。
それを孤独と詠嘆することも可能であろうし、人間にとっての原理的な基礎条件とニュートラルに受け取ることもできる。

相互に完全に理解するのは不可能であるが、しかしそれでも、生活に不便のない範囲で分かり合えてはいるのだ。

人間は生活のうちに自ずから、どの範囲で分かり合えるのか、どこから先は理解をねがっても無理であるか、知るようになる。
そしてある日、自分の内心を分かってくれる人にめぐり会う幸福も味わい、またある日にはその同じ人の深い無理解に出会い絶望するのだ。そのうちに短い一生は終わっている。



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コラージュ論 総論4

  • イメージとイメージの間を統御する文法がない。そこが文章との違いである。


  • 例えば、「神」や「平和」など、こうした言葉に対応するイメージは探しにくい。
  • 神が人の暮らしの永遠を打ち砕いた、などという文章をイメージで表現することは難しそうである。
  • 逆に、コラージュで並べて貼り付けたイメージを、言葉でどう表現したらいいものか、戸惑う。どれが主語で述語なのか、原因なのか結果なのか、明示されていない。語るとすれば、3センチ離れて左右に貼られていると言うだけだ。しかし人間は心の中でそのようにイメージしているわけではない。多分、もっと文章で、物語のように、イメージしているのではないか?
  • 言葉とイメージとを相互に置換できないということは、多分、脳の違う部分が働いているということなのだろう。だとすれば、イメージを操作する作業には、言葉の操作とは違う、独自の意味があることになる。


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コラージュ論 総論3

1.
「リンゴという言葉」=「Aさんにとってのリンゴのイメージ」+「Bさんにとってのリンゴのイメージ」+…… である。つまり「集合」であり、イデアである。

2.
「リンゴの写真」は具体的なイメージである。

3.
しかしながら、たとえばAさん個人のイメージシステムにとっては、
「リンゴという言葉」=「Aさんにとってのりんご」、これでおしまいである。
概念としては、1.なのであって、それはイデアに近いもので、「集合」なのだと理解できる。しかしイメージの内容としては、「Aさんにとってのリンゴ」である。

4.
従って、「リンゴという言葉」を提示する場合と、「リンゴの写真」を提示する場合とでは、あまり変わりないものになるはずである。

5.
だから、コラージュ技法で具体的な写真を用いることは、イメージの発展を妨げることはない。

6.
くどいことを言ったあげく、これだけかということである。思いつきは確かに思いつきなのだが、単なる理屈で、発展性がないことだった。

7.
言葉が指し示しているものは確かにイデアであり「集合」なのだが、具体的な個人の内部のイメージシステムでは、集合ではなく、要素であるといいたいわけだ。



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コラージュ論 総論2

  • 短歌の本歌取りはコラージュ技法に近い
  • 俳句で単語を並べるとコラージュ技法に近い
  • 切り抜いた写真と言葉の比較……例えばリンゴの写真を切り抜いたとする。その場合、具体的な色もあり、背景に何か映っているかもしれない、とにかく具体的なリンゴである。商品ならば、たとえば、カップヌードルという具体的なものである。それに対して言葉は抽象性が高いと一見したところ、思える。しかしそうではないかもしれない。「リンゴ」という単語はもちろん抽象性が高くて、プラトンの言うイデアに相当するものに違いない。しかし個人のイメージシステムの内部で言えば、「リンゴ」と「正三角形」の、たとえていえば「イデア」度はかなり違う。正三角形はやはりイデアにかなり近い。リンゴは各個人によってかなり違うのではないか。たとえばリンゴ農家の子供、フランスの子供、ブラジルの子供、キリスト教徒、それぞれで、リンゴにまつわるイメージの総体はかなり異なる。「リンゴという言葉」→「リンゴの写真」→「実物のリンゴ」と連なって、具体性が増し、個人内部のイメージの投影度が薄くなる。言葉の上で、「砂漠の砂の上にリンゴを一個置く」という場合と、具体的な写真のコラージュによって「リンゴの写真」を「砂漠の砂」の上に貼り付けたものとを比較すると、言葉で表現した方が、「抽象的」とも言えるのであるが、それは「個人の内部ではやはり写真と同じくらい具体的であらざるを得ない」はずである。だから、言葉によって喚起されるイメージと、コラージュによって喚起されるイメージとは、かなり近いものではないかと推定される。
  • 分かりにくくなった。「リンゴという言葉」と「リンゴの写真」を比較する。「リンゴという言葉」を提示した場合、各個人によって、百人いれば百通りのイメージがあるはずだ。それらの総体を「リンゴという言葉」は指し示している。集合論で言う、集合のようなものだ。それに対して、「リンゴの写真」はその写真を指し示す。ところが、個人が受け取る場合には、「リンゴという言葉」は、「リンゴのイメージの集合」をさすのではなく、「個人にとってのリンゴのイメージ」を指し示しているに違いない。そうすれば、「リンゴという言葉」と「リンゴの写真」の示すものの差は、集合論で言う、要素と集合の違いではなく、要素と要素という関係になる。
  • なお分かりにくい。


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新宿御苑にてとりどりの花






空が青くて、こんなにも青くて。


南国の樹。




車いすの人たちがお散歩に来ていました。記念撮影。



まだよく香っていました。




紫陽花です。


こんな青空でした。


日本画で描くといいかも。

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今朝の目覚め

このところ朝起きると情けないくらいの鼻声でまずもって精神的ダメージが大きい夜中になると少しは元気になるし集中力も出るのだが朝のこのけだるさはすべてをぶち壊しにしている今牛乳を飲んでいるが風味のない低脂肪乳であるからなのか或いは感冒またはアレルギー性鼻炎により風味が分からなくなっているからなのか判別しがたいそのことも私を滅入らせるいつまで続くのだそれはそれとして朝の気分が問題である軽い夢を見たのを覚えているその気分を引きずりながら思うのだが何という閉ざされた未来だろうこの年になってまたゼロから出発しないといけないとはそれはあんまりじゃないかゼロから出発するには気力が足りないいや足りないとしてもゼロから出発するより他に方法も何もありはしない生きていきたいならそれしかない別の生きる道も考えるけれど世の中はそんな風にはできていないどの業界でも仕事が欲しい人が地位を欲しい人が社会的評価を欲しい人が順番を待って行列をつくっているのだ今現在職に就いている人も若い時に行列に並んで時間を無駄に過ごしたのだそのご褒美として今現在があるそうだ若い時に無駄な時間を師匠に捧げまたは会社に捧げその結果として現在があるそんなことが多いのだ総てを覆して才能の輝きを示せばそれはそれで解決でさっさとアメリカで仕事をしたっていいのだ無論才能はないだんだん追いつめられて行くじり貧になる尻すぼまり窮する鈍するそういった気分が支配的になって朝目が醒めるのだ陰々滅々ではないか非道いものだ

気がついたが
掛け布団が多すぎるのではないか
だから寝ている間に布団をはいでしまい
結果として冷えているのではないか?
だって真冬と同じに着ているもの
それは理屈に合わない
掛け布団を減らそう

いややはり体が熱いようだ
よく分からないが我慢しよう
短期の目標があればとりあえず生きられる
鼻粘膜が乾いてひりひりしている
熱があって私は消耗しつつある
それだけは確かなことのようだ
そうこの鼻のひりひりはプールに入ったあと塩素で鼻がひりひりしている
そんな感覚だ
またまたいやなことを思い出している



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