楽天・松崎1年目の昨年から勝ち星なしの11連敗
楽天は2番手一場が18被安打14失点の大乱調で、強力なアシストだったわけです。
それにしても、二番手投手が14失点では負けを確定してもらっているわけで、ありがたいもんだ。
一方で、ダルビッシュは去年からの連勝を続けている。
実社会の縮図だ。
ジャスコでまとめ買い
夜になってからイーオンに出掛けて、ジャスコでまとめ買いしました。
先日試しに買って来ていた、カロリーメイトに似たブロックで、
トップバリュー印のものがおいしかったので、追加していろいろと買ってきました。
確認したところ、ライトミールブロックという名前で、
チョコ味、黒ゴマ味、抹茶味、フルーツ味、ブルーベリーヨーグルト味がありまして、
それぞれ買ってきました。
私が味見したのは抹茶味で、確かに抹茶が入っていて、
そのほかにはざらめが入っていて、歯に当たります。
店内を一回りして、
タイムサービスで安くなった菓子パン、
トマトジュースは1リットルで100円、
あさり、モッツァレラチーズ、無脂肪ではない牛乳、冷凍かけそば、などなど購入。
冷凍麺類はじめ冷凍食品が非常に多く充実していた。
イトーヨーカドーに比較して明らかに多いように思う。
トマトは一個100円していて、四個まとめて買えば398円と表示していた。
何か深い意味があるのだろうか。
マグカップとうどんどんぶりの追加、生ラーメン、を買い忘れたことに気がついた。
だんだん間抜けになっている。
井上ひさし「頭痛 肩こり 樋口一葉」
これも良くできている。
幽霊まで含めて舞台で処理するのだから、大変。
引用はしないが、おおむねをいえば、
世間の常識やしきたりに縛られることは苦しいと思いつつ、
生きるからには仕方のないところもあり、
結局内心で世間なんてこんなものと軽蔑して処理しているのだが、
やはり無理も生じて、
心は死後の世界に近づき。幽霊の姿が見えて話もできる有様。
まこと世間はわずらわしい。
しかし世間から出てしまうこともできず、
夏目漱石のように嘆じるにしても、文才があれば美文になるが、
そうでなければ凡庸な愚痴である。
樋口一葉が特殊な才能であったことは疑いないのだ。
今度読んでみよう。
読んでも読んでもきりがない。
うれしくもあり、つらくもある。
本書の帯で著者井上ひさしは、
樋口一葉が渇望していた自由を、
現代の女性はせっかく手に入れたのに、
たべること、着ること、旅行をすること、家庭を出ること、浮気をすることに浪費しているようだとの
意味のことを書いています。
まあ、そうかもね。
ダルビッシュ有 奪三振ショー
日ハムのダルビッシュ有です。
今シーズンは今日が三試合目、
一戦二戦といずれも14奪三振、今日はNHKも注目の中、9奪三振、
もちろん勝ち投手。
スライダーが「グビッ」と切れている様子がテレビでも分かる。
私にも分かるくらいだから、まあ、相当なんだろう。
この人は長身でさらに腕も長いわけで、
その体を使って投げたらそれはすごいのだけれど、
へなちょこなことを言えば、
あんなにも遠心力がかかったら、
右手の毛細血管がぼろぼろになるだろうと思うんです。
だって私なんか、遊んでいてキャッチボールをしていても、
なんとなく毛細血管がブチ切れている感じがしますから。
夕鶴の話じゃないけれど、
身を削って投球しているのだなあという感じがします。
レム「ソラリスの陽のもとに」-6
6.
想念が実体を生み出すなら、進化論は飛ばして考えることができる。自意識の発生に関しても、発生のプロセスを省略して、結論だけを取り出すことができる。
7.
意識の宿る生物。
意識の宿らない生物。
両方考えることができる。
意識をどのように定義できるか、それも大問題である。
8.
まず意識だけがあればいい。そこから、実体を作り出すことができる。その実体が意識を宿していれば、あとは自動的に意識を持った実体が生まれるだろう。?
実体が繁殖をくり返しても、どの地点から意識を持つようになるか、その議論は難しい。
最小限の仮定は、むしろ、最初の意識である。?
レム「ソラリスの陽のもとに」-5
1.
たとえば、私が誰かのことを考えると、その人が目の前に現れる。
その場合、想念の内には、その人の細部のどの程度までが含まれているか。
設計図のように詳細であるはずはないので、
想念のままであれば、ほとんど生きていることなどはできない何かである。
またたとえば、脳についてはよく分かっていないのであるから、分かっていないものがどうして想念できるのか、ひいては現実化できるのか、分からない。
1-2
外形が似ているだけで、内部の構造は全く別のものと考えることもできるのだけれど、
そんなことでは「似ている」ことを保証できない。
2.
複数の人間がいて、それぞれに、鈴木一郎のことを思い浮かべたとする。すると、想念が現実化する空間では、想念した人間の数に応じて、鈴木一郎は複数現れるべきだろうか?
3.
また、人間は自分について想念することもできる、その場合、もう一人の自分が発生するのだろうか。
4.
さて、ここから先は、昔の日記に書いたことだと思うのだが、書いてみる。
人間は自己イメージがあり、他者についてもイメージを持っている。
他者から与えられているイメージが、自己についてのイメージに比較して、重みがあるとは考えられないだろう。
眼力のある観察者はしばしば本人自身よりも、その人についてよく観察するものだ。
そのように自己や他者の抱くイメージを総合する形で、想念が具体化したら、どうなるのだろう。そしてその想念の間に矛盾する要素があった場合には、どのように現実化したらよいものだろうか。
多面体として構成する。観察者が故知なった場合に、観測値が異なってもいいはずだろう。
4.1
私がどのような人間であるかということと、私がどのような人間であると自分と他人によってイメージされているかということとは、どのような関係にあるのだろうか。
実体とイメージということか。観察者と独立して、実体は存在するのか。素朴実在論として、実体は存在すると仮定して、何の不都合があるのか?
5.
想念が現実化するとは、まさに心身医学の問題であり、人体の内部でならば、脳と神経系、そして人体各部とつながっており、また、ホルモン系や免疫系など、一応、通路はある。
レム「ソラリスの陽のもとに」-4
●作り出された像が思考して、その結果としてまたさらに像が形成されるとすれば、像が二次的に像を造り出すこともあるだろうか?
●意識と肉体の問題がこのように長引いているのはなぜだろうか。その原初に、ソラリスのようなメカニズムを仮定してみるのもいいかもしれない。そして、いったん成立した意識は、それ事態でまた次の意識を生成する。時代が下れば、そもそもの最初にどのようなメカニズムがあったのか、誰も知らないことになる。
●そのような仮説が、現状の心・脳問題の説明して最も直感的で整合的かもしれない。
●まあ、そうであったとしてもなかったとしても、どうでもいいことだ。
●ソラリスの文章は直接に読者に反応を起こすようだ。夢、幻想、瞑想、身体反応、いろいろな反応を起こす。実際私は体調が悪かった。毒だ。
スタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」-3
意識や理性は、独立に発生して、発展して、それぞれに交流可能なものになるだろうか?
数学で、異なる公理系から出発した体系が、それぞれに翻訳可能なものになるであろうか?
海の活動と人間の活動はどのようにして比較可能な知的活動となるだろうか。
それぞれが属している物理世界に共通の法則があったとすれば、
それをいかによく理解しているかについて、
お互いは共有できる部分がかなりあるのだろうと推定できる。
その限りでは、最終目的地は同じだろうと考えられる。
スタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」-2
海が活動しているらしい。
そこに何らかの理性や意識を見て取るかどうか。
まったく物質的な振る舞いであると解釈することもできるし、
そこに何らかの意識や目的性や意志や感情を持ち込んでよく分かるようになるかもしれない。
また、そういった状況をすこし遠くから眺めてみた場合に、
人間に意識というものが本当にあるのか、それも疑わしくならないか?
それは単に解釈の違いでしかないのだと言えるのではないか?
猫の脳みそが入っていても、
人間の格好をしていれば、
心があると思うはずだ。
逆に、人間の脳みそが入っていても、
猫の格好をして言葉が話せなければ、
心はない、或いは、猫程度の心しかない、或いは、猫の心がある、という解釈になるのだろう。
スタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」早川書房-1
スタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」早川書房
●ずっと読みたいと思っていた作品。今回初めて読んだ。
●まず映画に出会った。タルコフスキー版1972年「惑星ソラリス」。この映画では、想念が実体化するという状況の中で何が起こりうるかが刺激的に問いかけられている。男は自分の想念の実体化である、亡き妻と接している。愛に溢れていると自覚して、妻の腰ひもをほどこうとするのだが、ほどけない。どうしてもほどけない。ほどけない「こと」は、やはり想念の実体化である。男の心理の内部に、妻の腰ひもをほどけない何かの事情が潜んでいたのだと考える。
●二度目の出会いはやはり映画で、2002年ソーダーバーグ監督「ソラリス」。観念的な話題は前面に出さず、女の自殺にいたる経過を描いていたように思う。美しい女性であって、美しすぎて、それしか印象に残っていない。
●ギバリャンという名前がとても印象的だ。日本でギバは最近は柳葉のことをいうらしい。
○「ソラリスに関して、問題になっているのは、われわれ自身のことであり、人間の認識に限界があるかどうかの問題なのだ」
●これ関しては、私としては、明らかに限界があるはずだと思っている。或いは、限界線を少しだけ拡張することに成功したとしても、外側の領域が無限に広がることを改めて感じざるを得ない。拡張することが無意味なほど、原理的に敗北しているのだと思う。
○ただ飽きもせずにその姿を変化させている。
●そこに意図を読みとるか、単に物質的な変化に過ぎないのか。
●海の謎に挑む態度は、推理小説のようである。いろいろな可能性を高度な知性が仮説を立てて、立証しようとする。立証しようのないほどの理論であることも多い。しかしその思考実験の中身は、実によく考えられていて、どうしてこの人が現実の科学探究に向かわなかったのか、不思議である。この人の能力が最もよく発揮されて、報われる場所は科学研究の場であったはずだ。レムの小説「捜査」によく似ている知性の態度である。多面的に客観的に検証する態度。命がけで信じるとか、そんな態度とは遠く離れている。
●このような著者から、読者は多くを学ぶ。知的な態度とはどのような態度であるか。知的な書き手の態度とはどのような態度であるか。