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巨人第33戦目

今日は本当に楽勝。
何も言うことはない。
打撃陣がよく機能している。

こんなにも強いのだから、
育てながら勝つことを考えてほしい。

投手福田については見事に育てながら勝利した。

李のホームランはいいですね。
軌道がいい。
奥様を見かけたことがありますが、美しい方です。
李さんも奥様も幸せと思います。



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幸運は二度起こるのか?

会社をもう一度始める場合でも、
これまでのノウハウや人脈があるのだから、
ゼロからはじめるよりも簡単ですよね、なんて
言われてしまう。

そんなこともないのだがなと思いながら、
うんうんと話を聞いている。
そして、励まされたよ、なんて感謝もしてみせる。
心の中では、うつの人が励まされるときは、こんないやな感じなんだなと思っている。

場所を作り、人を組織し教育し、他社との関係をつくる。
まあ、会社とはおよそそんなものだ。
その一つ一つにどんなに偶然が関与しているかと、
遠い気持ちで思うのである。

第一回目、気持ちがフレッシュなうちには、こちらも必死だから、
相手の心を動かすということもある。
必死だから、偶然の幸運を呼び込めるということもある。
こんなことをいうと科学的ではない思考のように思えるだろうが、
いまの私の正直な気持ちは、これである。

二度目や三度目で、
幸運を引き出せるとは限らないのではないかと思うのだ。

さらに、人脈があるとは言いながら、
社会の中に生きていればライバルもいるし嫉妬もある、
よい評価ばかりではないことが一つの問題点である。
ゼロからの人間関係はゼロ+期待であるが、
既存の対人関係は、プラスもあればマイナスもあるわけで、
それはちょっとやりにくい感じもあるのだ。
特に一回目でかなり無理をして敵も作ってしまったのであるから、
難しいところもある。

ここまで書いてきて、やはり私は弱気になって臆病になって億劫になっていると感じる。
やたらにから元気を出しているのも間違いだけれど、
理由もなく臆病になっているのならばかばかしいことだ。

一回目で幸運を呼び込んだのであれば、
二回目はその幸運の感覚を持っているのだから、
もっと上手にできるかもしれない。
あるいは、待つことができるかもしれない。
二回目なのだから、少なくとも成功の水準を知っているはずだ。
そして、その水準に達しなかったならば、
さらに工夫する、さらに時間をかける、などで対処できるはずである。

一回目の成功を次回に生かすとは、そういうことだ。
一回目の幸運が二回目も起こるとは限らないわけだけれど、
幸運を当てにしていても仕方がない。

強みは、私は何が幸運か知っていることだと思う。



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二重の敗北

すべてを捨てたはずだ
無一物から出発するはずだった

しかし世間は許してくれない
結局過去の残骸をかき集めて
つぎはぎの昔の服を着て
また歩き出すしかないのだという

それこそが本当の敗北なのだ
わたしにとっては
二重の敗北なのだ
捨て身の企てさえあっさりと否定されてしまった
あなたのためですよと
訳知り顔で諭されて



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腐った煉瓦

詩を作るのは
煉瓦を積みようなものだと考えて
積んでみようとした

でも
煉瓦が腐っていたよ

日本語はすでに腐り始めています



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池澤夏樹詩集成

いまの私の心に飛び込んでくるのはとぎれとぎれの言葉だけ

なかにパンフレットが挟み込んである
池澤夏樹と須賀敦子の対談
これは面白かった

後書きで、
詩集は青春の記念に一冊あればいいという言葉が紹介されている。

ある人は、人生の始まりに一時期、
人生の終わりに一時期、
人は詩人になるようだと観察している。



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現実から退却

こういう状況に至り、
(どういう状況か簡単にはわからないと思うけれど)、
次の一手に窮してくると、
私の場合はどんどん現実から離れてしまう。
恐ろしいくらいだ。

過去においてもそんな場面があったので、
これは偶然ではないことが分かる。
このままでいいはずはないのだが、
一歩が踏み出せない。
そしてずるずると一日一日を浪費してしまう。
そのうちに、何かおかしな屁理屈も思い浮かび、
ますます現実から退却して、自分の内側に閉じこもるようになる。

閉じこもることで、世間に対する不都合は感じる、さらに自分としても不全感を感じる、
しかしその一方で、これがむき出しの人生というものではないかとも思うのだ。

それは死の感覚である。
死という行き止まりに直面したとき、人間は観念するしかない、
その場合に、多分、現在の私のように、呆然として、
ただ目の前を流れてゆく景色を遠くのもののように眺め、
すべては虚無で意味はなく、
この世のこともただの夢に等しいのだと、
自分に語り続けるのだ。

経験によれば、この状態は永遠に続くものではなく、
状況が変わり、目先のことに煩わされるようになると自然に消えてゆき、
自分にこんな面があったことさえも、すっかり忘れてしまう。

そんな振幅の中を私は揺れながら生きているようだ。

いいことは、退却するに際しては、特にお金がかからないことだ。
収入がなくなるのは困るけれど。



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世界の秘密

世界の秘密が開かれる時

それは物理学の秘密だけれど
物理学はまだ完成していない

物理学が完成していないのだから
世界を説明する科学はまだ完成していない

世界は秘密のままだ

人生の秘密は性の秘密に関係している

秘密を知っても応用は難しいものだった

果てしなく応用編が付きまとうのだ

そんなわけで
物理学も性も
二十歳の頃からちっとも進歩していない

もう秘密のなくなった世界には飽き飽きしているのだ

いつか秘密が開示されるのかと待っているのだが
いつまで経っても次の秘密は出てこない



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ビキ

東北の老人が赤ん坊を
ビキと呼んでいた

動物を
一匹二匹と数える
その匹かと思っていた

さっき本を本でいて
美姫
の語でもビキと読めると思った



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好きなだけうずくまっていればいい

うずくまっていたって
いいじゃないかと
本当は思っています。

億劫さを責めません。
臆病も責めません。

好きなだけうずくまっていればいい。



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終わりから再生へ

現在45億歳の太陽は、これから数十億年後に赤色巨星になって終わりになる。

一つの文脈だけにはまって、
その中で最適化するというのは居心地の良いことだが、
一方で精神を弛緩させる。

あるライフスタイルがずっと
続くと思えば、どうしても精神は弛緩する。

いや、これがずっと続くわけではない、
次には、全く新しいフェーズが来るのだと思えば、自ずから精神は緊張するし、
それに備えて様々な準備をしようと思う。

そんなひんやりとした感覚は
生きる上で誰にでも必要なのではないか。

石ころを見ていると、ずっと動かない。
その中心にある原子は、限り長い間そこにあり続けることだろう。

生命は違う。常に変化の中にある。
じっととどまっていることなどできない。
生きものであるのに、石ころのように振る舞ってはいけない。

常に前のめりで、一つの生の中でいくつもの新しいフェーズに入っていく。
そのように時間を過ごして、初めて潜在力を発揮することができるのだ。

一生のうちに、何回も「終わり」がある。
太陽系の誕生から消滅までも、何回も経験する。
そんな人生が良い。

*****
茂木健一郎 クオリア日記の一節を改編。

続けて言うとすれば、
命は「存在を続けること」ではなくて、
「経験すること」が大切なのではないかと思うのだが。

経験することを、
たとえば、魂の遍歴と考えて、この世で魂が何を見るかということでもよいし、
またたとえば、
DNAがこの世界への適応度を試しているのだと考えてもよいだろう。

*****
地球から木星まで光の速度で約45分だという。

太陽が45億歳だということは、
おおむね、地球は45億回、太陽の周りを回ったのか?

拡大し続ける宇宙のへりは、最初のビッグバンのときから
ずっと続けて拡張し続けているのか?

*****
命が時間の中で永遠ではなく、
変化を続けるものであるなら、
変化の時に苦しいとどうして意識は感じるのだろう。

意識はもっと変化を楽しめばよいはずなのだ。

いや、楽しんでいるはずである。
変化を苦しいと思うのは、
生命にとって例外に属するもかもしれない。

私の日常は
変化を苦しいと思ってしまう例外を生きているのではないか。
何かがずれているのだろう。
意識として本来の設定ではない。

コンピュータでたとえるとして、
長い間運転している間に、
設定がこっそり書き換えられているのではないかと疑う。

この億劫さ。変化に対する恐怖。

あのときも新しい環境に対する恐怖感が
私の意識を圧倒していたと思い出すことができる。
おかしなことに私の中にそのような恐怖の回路がある。
なぜそんな回路ができてしまったのだろう。
生育歴の中でなにかあったというのだろうか?



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ぎっくり腰の遅い回復

回復の遅いぎっくり腰である。
全身の筋肉活動も、代謝も、遅くなっているのだろう。
従って回復も遅い。

これから老年に至ればますます遅くなるのだろう。
さらに、困難は複合的になってゆくのだろう。

今回は虫歯とぎっくり腰が因果関係なく併存しているのだが、
たとえば、ぎっくり腰で寝たきりの時間が長くなると、褥創ができるかもしれない。
また筋肉が衰え、感覚が鈍くなるかもしれない。

あまりいいことを連想していないので書いても仕方ないのだけれど、
実際、年を取るということは、つらいことだ。

ただ、救いは、苦しみを感覚する主体も鈍くなるので、
あまり苦痛を感じないのかもしれない。
そうであって欲しい。



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四方田犬彦「ソウルの風景」2

「さまざまな視点を提示することが作家のモラルである」

「視線のひとつひとつに最大限の正当性を与えてやること」

「恨とは自分の席、自分の位置が喪われてしまったときに感じる痛みのことである。恨を自分の外側で解こうとすると、怨恨に終わることがあるが、これを自己の内側で解消すると内部の充実した創造的エネルギーに転じることができる。相手を許すことが大切なのは、それが内部で恨を解くことに通じているからである。真の許しとは、内側で恨が解けることと同じでなければならない。樹木は落葉の痛みを甘受してこそ、新しい生命を手にできるのではないか。」

*****
自分の立場の他に、複数の視点を持つこと。
それは自分の苦難に際してであれば、大変つらいことであるが、
しかし、苦しみを乗り越えてゆくためには、本質的に重要である。

他人には他人の正当性があり正義があるのだ。
その深い意味を知る必要がある。
その地点に初めて、許しが生まれる。

そうした許しの末に初めて、しこりが解ける。

*****
自分の席が失われてしまうこと。
それは生物としての危機である。
だから一層つらい。

根元的な危機に際しては、
脳の回路としても、古い、根元的な危機回路で対応するだろう。
それは身体を巻き込むタイプの不安反応である。
それを何とか落ち着いた状態に戻すために生体は必死の反応をする。
早くなんとかしてくださいとの信号を送り続ける。
その点では、不安に耐えることが必要なのではなく、
不安を感じたら、現実的に対処することが大切だ。
この場合であれば、
再び自分の場所を見つけ出せるように対処する、
そのことが必要である。

自分の場所を回復する、
大切なことだ。

不安を忘れるために酒を飲んでも、
何も解決しない。

ただ時間が経てばなれてくるものだから、
現実をどうしても変えられない時には、
時間を待つ戦略も悪くない。

*****
「さまざまな視点を提示すること」そして
「視線のひとつひとつに最大限の正当性を与えてやること」
それはまさにコラージュの技法である。
コラージュの精神である。

主語を変換すること。
時制を変換すること。

思考実験として、複数の立場からの言い分、感じ方を登場させること。

必死に、相手の立場になってみること。



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栃東引退会見

大関栃東が引退を決意して記者会見をした。
気力がなくなったからということらしい。
頭痛がする、脳梗塞の所見があるなど、気になることも語られていた。

脳梗塞や頭痛のことは大変気になることで無理をしてはいけない。
それだけで充分な引退理由である。

しかし会見の様子は、それだけではなかったと思う。
心理にある程度の狭窄が生じていて、
決断にあたって、周囲にはかなり分かりにくいような
思考なり感情なりがあったのではないかと考えさせられる。
といってなにも確たる証拠があるのではない。
栃東について何か言いたいのでもない。
よく知らないのだから。
私自身が前の仕事からの退却を決意した時とよく似ているからだ。
だから、多分、これは栃東についてのことではなくて、
自分についてのことだ。
栃東を話題にしておいて、自分を語ることだ。

どうしてもやむなくやめざるを得ないという
局面ではないのかもしれない。
やめると決断すれば人生の新しい局面が開けるかもしれない、
しかしそのことは周囲には理解しにくいかもしれない。
とりあえず、脳梗塞のことで説明すれば、賛同は得られるだろう。
しかし自分としても何か説明がおかしい。
これまでのすべての努力はどうなるのだろう。
横綱を目指して無理も重ねてきたではないか。
築き上げたものもある。
幸運に恵まれたこともある。

すべての工夫もすべての汗も、
これで終わりになる。
自分は何をしてきたのだろう。
こんな終わりを迎えるためだったのだろうか。
それならばあそこまで苦しむ必要はなかったとも思う。

いや、もう疲れた。
人生はこんなことではないはずだ。
新しい局面を切り開きたい。
自分の中に埋まっている別の側面を、別の可能性を、切り開きたい。
これまでの時間が自分の中に何かを成熟させてもたらしているかもしれない、
その可能性を探りたい。

そのように考えたと思う。

それは多分客観的に見れば、
重大な決断は少しだけ先延ばしにした方がいいですよとの
アドバイスになるのではないかと思う。

妙に重大な決断をしてしまったなあという
表情に見えたのである。

やめてみたらどうなるんだろうという気持ち、
わたしの場合には確かにあって、
むしろそれが理由の大部分であったようにも思う。

疲れていたとも言える、
どうしようもなかったとも言える、
退屈しきっていたとも言える、
絶望していたとも言える、
未来が見えなかったとも言える、
どうかしていたのだとも言える、
結局よく分からなかったとも言える、
そんな局面だった。



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