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大江健三郎・再発見 すばる編集部・大江健三郎 2

知とか知識というもの、あるいは文化に関する知識をひけらかす人たちは、
とても退屈である。
経験を通して知識を再表現するのでなければ、
知識は意味がない。

経験と知識が結びついているような言葉

つまり、
生活の中で経験と知識(または洞察)が結びついて、
ぴかっと光る瞬間、
これを再体験したいのだ、読者は。

そのプロセスを飛ばして、
知識だけを提示されたのでは、
あまり面白くないのだ。



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大江健三郎・再発見 すばる編集部・大江健三郎

これはとても面白い。

大江健三郎という人はとにかく大変な勉強家だということが
分かる。
丸谷才一とか、大江健三郎とか、一体どのようにして読書して、
その内容を吸収しているのだろう。

私などは人生は短すぎると思うのだけれど、
このような傑出した人たちにとっては、人生は短すぎることはないようだ。

これは井上ひさしの文章で見た一節だけれど、
過去の偉大な人たちが何を読んで考えたのかと言えば、
いまの私たちよりは不利な環境にあるはずである。
だから、何を勉強するとか、読むとか、そんなことが大切なのではない。
生きている中でどのような態度で生きているかということが大切なのだろう。
そんな趣旨のことだったと思う。

話は元に戻って、「大江健三郎・再発見」の中で、

自分にあった方法を見つけること、
自分にあった仕事を見つけること、

そんな一節があった。

なるほど、そうだと思ったのである。

たとえば、かなり若いうちならば、
ある組織の中で指導的な地位を得たいと願えば、
自分にあった方法だけ、自分にあった仕事だけでは、
将来に希望を抱くことは難しいのではないかと思う。
ある程度妥協も必要であり、
また、若いのだから、経験が必要なはずで、
その意味では、広く体験してみることに意味があるだろう。

(ピアニスト、マルタ・アルゲリッチは、若い頃、
私には経験は必要ないと豪語したらしい。)

しかしその時期も過ぎて、
あとは静かに生きればいいと思った時に、
自分にあった時間の過ごし方、
自分にあった仕事の仕方、
そのような点についてある程度わがままになったとしても許されるように思う。

流儀といえばよいのだろうか。

要請されることをこなすのではなく。
自分に合ったことをやる。
それはいいことだと思う。

いままで私は無理をしてきたように思うのだ。
もっと自分を甘やかしてもいいと思う。



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井上ひさしコレクション「ことばの巻」

索引を作る

本を読む時の工夫として、
書き込みをする、線を引くの延長として、
詳細な索引ができるように、読書中に見つけるごとに、
ページを書き込んでいく、というものがあった。
実はそのような読書はしたことがない。
多分、とても有効な方法であると思うのだが、
そのようなノウハウを教えてくれた人はいないし、
端から見てそのような読書の方法を実践していた人はいないように思う。

コンピュータで処理できるテキストデータなら、
索引は簡単なことだけれど。



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巨人第35戦目

木佐貫は好投したけれど、点が取れず、敗戦。
阪神が連敗の泥沼から脱出。
藤川は昨日の直球勝負から一転して、
変化球を多用しつつ、9回をゼロで抑えた。
巨人の9回は、打順が8、9,1番だったので、
残念ながら、凡退だった。
木佐貫はこれでいいのではないかと思いました。

9月と10月にヒーローになるのは誰か、
それを想像しながら、楽しんでいます。

なにしろパリーグではソフトバンクが強いのに、
プレーオフでは負け続けている。
それを参考にして、いままでとは違う調整が必要だ。
最近巨人は強いけれど、
ソフトバンクと同じにならないようにと願う。



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井上ひさしコレクション「人間の巻」岩波

厚い本だけれど、切れ切れの集成なので、
あっという間に、面白く読めた。
気分転換にはちょうどよい。

よく勉強していることはもちろんだけれど、
その上で、みんなに面白いと思われるだろう点を
みごとにすくい上げて文章にしている。
その着眼と、料理の仕方が、やはり抜群だと思う。



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高橋康也「道化の文学」

中世は「死の舞踏」のイメージ。
人生とは死(骸骨)によって導かれる阿呆踊り。
恐怖と虚無的シニシズム。

その後は「狂気」のイメージ。
フーコー「狂気の歴史」
治療か収容か閉じこめか
理性主義が固く確立されるに従い、
狂気は排除される。
トマス・ウィリス「(狂気の治療には)威嚇と、縄と、鞭が必要である。(狂人は)医術や薬によってよりも監禁室における体罰と重労働によった方が、より早くより確実に癒される」

そんな、軽い基本枠組みを作っておいて、
ルネサンス期に入り、「道化」のイメージ。
本書では、エラスムス、ラブレー、シェイクスピア、セルバンテスを取り上げている。
何か中心になる仮説があるというのではなく、
時に文化人類学、構造主義のような言葉を用い、時に精神分析の言葉を用い、
要するにこの本が書かれた当時の流行を取り入れながら、
書かれている。
特にシェイクスピアの項目は、セントラル・スキームを検証するというのではなく、
シェイクスピアについての雑学であり、導入であり、
いろいろなヒントを含んでいて、ここから出発しようかという感じのもの。
最後のセルバンテスについては、「道化」についての、
見通しのよい総論となっていると感じる。

主人と道化の二人組が文学史にどのように現れているか、
そのような切り口で見ると、こんなにも面白い。

全体に、同じことをもっと易しく言うこともできるのだろうけれど、
それでは、全体の香りが失われてしまうということなのだろう。
そのような語り口をエンジョイするための本なのだ。

高橋先生という人が、
こんなことを考え、書いて、講義しつつ、
人生を生きたのだなあと感慨を持つ。



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