二回目ならば一回目よりもうまく画ける
ある小学校でプールの壁に絵を画いて卒業制作とした。
しかし教育委員会からクレームがついて、旧状に復すべしとなり、
せっかく画いた絵をタワシで全部消した。
これを朝日が報道して何と大人げないという意見が投書で見られた。
その中に小学生の意見があり、
「もう一度画いてはどうか。卒業までには時間がある。
二回目ならば一回目よりもうまく画けるのではないか」
というのである。
すばらしい意見である。
二度目だからもっとうまく画けるのではないだろうかと
考えることができることこそ人間の価値というものだ。
こう考える人は過去を生かし、
ひいては人生全体を生き生きと生かすことができる。
よい生き方とはこのように人生を生きることではないだろうか。
考え方のよい悪い、正しいまちがっている
ということもよい生き方につながるかどうかで
判断されるべきではないだろうか。
聖書には
良い木はみなよい実を結ぶ
悪い木は悪い実を結ぶ。
あなたがたは実によって彼らを見分けることができる。
とある。
巨人第38戦目
高橋尚が先発、しかし山本昌に敗戦。
ウッズ 16号 6回ソロ、だいたいがウッズに打たれすぎているのだ。
こんなにも打たれて対策はないものなのか。
4番のイは確かに不振であるが、信用して任せているのも
いい方法だと思う。
もし、疲れがあるのなら、いまは無理しなくていいのだから、
いったん休養をとってもらってもいいと思う。
「若者は幻を見、老人は夢を見る」
原美術館のすぐそばのキリスト教教会である。
写真では見にくいが、
「若者は幻を見、老人は夢を見る」と、巨大なメッセージである。
キリスト教に詳しい人ならばピンと来るのだろうか。
普通考えると、
若者は未来の夢を見るのがよい。
幻という言葉を使うなら、
若者は未来のビジョン(幻)を見るのがよい、という程度の表現だろうか。
老人が見るのは過去の夢でよい。
また、老人にも、人類の未来の夢を見てほしいものだ、種としての未来の夢である。
しかしそんなことではないらしい。
「若者は幻を見、老人は夢を見る」とは。
いまのところ、謎である。
〈追記〉2007-5-12
「若者は幻を見、老人は夢を見る」
ヨエル書 3章1~5節
使徒言行録 16章6~15節
旧約においては、聖霊が注がれるというのは、王とか預言者といった特別に神様に選ばれて神の民を導く者として立てられた者にだけ起きると考えられていました。しかし預言者ヨエルは、終わりの日には、ある特別の人だけではなくて、老人にも若者にも聖霊が注がれ、皆が幻を見、夢を見、預言するようになると語ったのです。
私共キリストの教会は、ある特定の者にだけ聖霊が注がれているとは決して考えていないのです。キリストを信じ、キリストを愛し、キリストと共に生きていこうと志す者には、すでに聖霊が注がれている。
聖霊が注がれている「しるし」である。
老人がボケて夢を見ているということではないのです。若者が荒唐無稽な、自分勝手な幻を見るというのでもない。
青年は幻を、老人は夢を
神は言われる。
終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたがたの息子と娘は預言し、
若者は幻を見、老人は夢を見る。
(使徒言行録第2章17節)
人の知恵が行き詰まったとき、必ず夢がさめている。
人の力が失せる時、必ず幻が消えている。
夢は老人を若がえらせ、幻は青年に前進する力を注ぐ。
民であろうと、国であろうと、家族であろうと、個人であろうと、
何事によらず――夢を失い、幻を見なくなった時、
すべてにおいて下降線をたどるようになる。
その夢を誰が与えるか、その幻を誰が見させてくれるのか。
幻を、夢を与えるのは神であると――聖書はそう告げている。
神が見させる幻と夢――それを頂くのは、神を信頼し、神を愛し、
神に従おうと志し、日夜神の御心はどこにあるかと
謙虚に探りつつ祈る人たちである。
(作: 飯島正久)