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旧古川庭園に散歩

東京+バラ で検索したら
旧古川庭園がヒットしたので、夜、散歩に行った。

多分夜だから散歩可能な範囲は狭かった。
あちらこちらに立ち入り禁止の表示があった。

バラはちょうど満開のようだ。
日本テレビの撮影隊が来ていた。

しかしあまりに大きい花で、大味。
名前の付け方もお笑いのようで、品格がない。

古い建物はさすがにすばらしい。
このような生活も可能なものかと、
幸せな恵まれた人を羨望する。

来園客のほとんどすべての人が写真を撮っていた。
しかし多分うまくとれていない。
だって、暗すぎる。

しかしこんなにも沢山の人が写真を撮るものかと思った。
男女のカップル客も多い。
親密というよりは、出会ってすぐの、固い感じの人たちが多かったと思う。

私はまだぎっくり腰が完治せず、
向こうから歩いてくるご老人が、腰を気遣いながら苦しそうに歩いているのを見て、
参考にすることにした。
大変ですね、お大事に。

暑くもなく寒くもなく
心地よい風さえ吹いて、
祝福された夜であった。



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富良野のラベンダー畑

北海道富良野のラベンダー畑に行きたい。
前田新三の写真で印象的である。

御殿場で富士山を見ていたい。

清里できれいな空気を吸いたい。



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大江健三郎・再発見 すばる編集部・大江健三郎 7

小説家にとって、
魂の癒しは簡単にはいかない。

「憂い顔の騎士」

*****
このところ、「憂い顔の騎士」であるドン・キホーテについて
連続して目にしている。

堀田善衛のゴヤの話、大江の小説、道化の話、そして昨日は、
ロストロポービッチのビデオ。

*****
魂の癒しは確かに大きなテーマである。

自分としては、癒しの本質部分は、たとえばカトリック的構築物に大量に含まれていると思うのだが、
しかしそれは神、天国、審判、その他いろいろな装置を通して語られるもので、
その際に私はたぶんメタファーとして解釈しているのだ。

しかしそんなことももうどうでもいい気分なのだ。
そしてそんな自分がいまここに居て、人生の一時期、そんな気分を生きていたと、
それもまた悪くないだろうと楽観しているところがある。

人並みにしたいと焦れば、まさに焦る理由はある。
しかしまた、人並みにしたところでどうすると思えば、
そんなこともどうでもよいと思える。

この現実の現代日本社会を生きている自分が居る。
もう一つ、科学の延長にある徹底した虚無主義を信条としている自分が居る。
さらに別の平面に、キリスト教などの、宗教的思考に親しむ自分が居る。
この三者は奇妙なことに同居している。



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大江健三郎・再発見 すばる編集部・大江健三郎 6

セルフの死と再生の物語

*****
再生するには死が必要だ

どうにもくだらない人生ならばいったん死んでも悔いはないが
ほどほどのよい人生であれば、いったん死ぬのもなかなかの苦痛である。

そして、その苦痛の後に、苦痛に値するだけの、再生の喜びが得られなければ、
見合わないことになる。

死の苦痛が強かったら、次の再生において、要求が高くなる。
すんなりと死ぬことができたなら、たいしたことのない再生でも、よかったと思えるだろう。

そのような損得勘定がうっすらと頭に浮かんでいる。

蛇が脱皮するとして、ぼろぼろのよろいならすぐにでも苦痛なく捨てられる。
やっとのことで苦労して手に入れたよろいなら、脱ぎ捨てることの苦痛が大きい。
しかしそれでも脱ぎ捨てたいときがあるものだ。

さなぎから蝶になるという美しいイメージを捨てたくない。
さなぎの時期には不安も大きい。それでいいのだ。

鏡でわが姿を見てしまったとき、
さなぎは耐えられるのか?
それでもなお、未来を信じるしかない。

*****
本当に再生などできるものだろうかといぶかしい。
しかしながら、すでにその道を選んでいるのだ。
再生しないわけにはいかない。
ただ時間はたっぷりとかけようと思う。
大江がスピノザを読んで三年暮らしたように。



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大江健三郎・再発見 すばる編集部・大江健三郎 5

文学からの解放

書くことから自由になった人生に対してノスタルジーを抱く

逆に、
文学だけが大江さんを文学から解放できる。

小説を書くのを病めて丸三年、
スピノザとその研究書を読んですごした。
想像力の職業というものに見切りをつけたかった。

私は小説を書かない自分はまったくなにものでもない、
という強迫観念にとらえられた。

三年間の終りに、小説を書かない自分は、またくなにものでもない、
という思いに辿り着いてしまった。

文学のみが人を文学から自由たらしめる。

今後、いかに文学から自由になって死んで行くことになるかを、書こうとしているのだ。

*****
仕事をしていない自分はまったくなにものでもない

そのことは悪いことばかりではない
仕事をしていれば世間を渡るには足りるのだから

なぜなら、仕事を通じて、人は社会からの期待値を受け取っている
仕事を通じて受け取る期待値と等価の期待値を他の活動を通じて受け取るのは、
当然ながら、無理な話である。

私はこつこつとひとつのことに打ち込み、
持続を評価してもらえるようになりたい。

思いつきではなく、持続を評価してもらいたい。

こんどは自分の不得意なことで社会に挑戦しようというのだから、
まったくばかげているのだった。
こんな思い付きを語っている暇があったら、さっさと持続の仕事を開始するのがよいだろう。



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奈良に行きたい

やっぱり奈良に行ってこようと思う。
修学旅行以来である。

興福寺に二日、東大寺に二日、奈良公園を歩く。
もっと余裕があったら、春日大社。
行きたいのはその辺りだけ。

調べたら、付近のホテルは、一泊ツインで一人8500円くらいだった。

興福寺八部衆が一度に見られるという。
阿修羅像は高校生当時にも感動したものだ。

そうは言っても、こまこの状態で、心が何かを感受できるとも思わないのだ。
そのことでかえってつらい思いをしてしまうのではないかと恐れる。



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大江健三郎・再発見 すばる編集部・大江健三郎 4

かれらの生まれた場所に再び帰って来る者らは、滅びてしまう。

生まれ故郷に帰る人たちは、そこで非業の死を遂げる。
生き延びる人たちは、遠く離れてゆく人物たちである。

彼らが故郷に帰らない理由。
生き延びる者らは、そこから遠ざかる者たちなのだ。

都市で生き延びる者らは、故里の土地から離れていることで、
強く苦しんでいる。
その苦しみの強さは、遠心力からつなぎとめる綱のようにして、
異郷での生活の、漂泊のであれ、追放されてであれ、その生存自体を支えている。

*****
異郷にて漂泊を続ける意識。

鮭が川を遡り、生殖の後に死んでしまう、そのような凄惨な本能を思う。

故郷には毒が仕込まれている。

故郷の毒は麻酔のように効いて、
個体を種に奉仕させ、
一瞬の幸福の後に死が訪れる。

故郷の内部に居るならば、
その幸せに依存はない。
そのほかの生き方さえ、思いつかない。
それでいいのだ。あるがままでいいのだ。

異郷にて放浪する身が感じているのは、
常に、永遠に、満たされない、わが心である。
心休まる我が家もない。
自分の出自を説明する神話もない。
どの家にも、伝承されている昔話があるものだ。
その中で自分の存在は説明可能なものになる。

住まいのことで考えた。
月に家賃が20万円とする。一年で240万円、8年で2000万円である。
何というべらぼうな数字だろう。

家賃という、人間が制度としてつくったものに支払う金がこんなにも高額であったか。

逆に、住まいの場所、仕事の場所、集いの場所を、根こそぎ奪われる苦痛を思う。
故郷は捨てるものだ、それはいい。
しかしまた、一つの場所を追放されることの痛みは格別につらい。
追放のあとに来るものはさすらいである。
安住の場所を持たない。

心が安定しないから安住できないのでもあるし、
安住できない生活を続けているから、心が安定しないのでもある。

しかし考えても見てほしい、
8年で2000万円と提示されて、安住などできるものか?
このような制度を国民のすべてが暗黙のうちに肯定しているというのだろうか?

まさにそのような社会に違和感を抱く。
そのような社会からは、はみ出して、漂泊するのが正しいと思う。

この社会で、必死になって身を守るべき実体はない。

いまこの瞬間にも大量に病院で死んでいる命。

生きているあいだ大切にされなかった命なのだ、
死ぬ瞬間に大切にされるはずもない。

病院で最後の瞬間、家族から声が漏れる。
この人はやりたい放題やったのよ、満足のいく人生だったと思うわ、
結果はこんなもんだけど、悔いはないでしょう。
そんな人生もある。一方で、
この人は我慢ばっかりして、かわいそうだったわ。
少しは思い通りにしてもらえばよかった。
もう少ししたらわがままもしてもらおうねなんて言っていた矢先だったのよ。
そんな人生もある。
無論大抵はその混合物であって、ほどほどの妥協点を生きているのだ。



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大江健三郎・再発見 すばる編集部・大江健三郎 3

小説によって
個人は作者であると同時に、
自らの人生の読者となる。

*****
なるほど、従って、読者は、
作者が作者自身の人生を読解する現場に立ち会うのだ。

読者とは、教育されたいと願っている人々の群である。



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古井由吉「野川」所収「忘れ水」

気になる部分を抜粋。

勤勉はかならず懈怠を後に引くものだ、とあれこれ自他の例によって知らされたのは迂闊にももっと遅くて、四十代に入ってからだった。商売を興すまではくるくると働くが、いったん軌道に乗るとタガのはずれる人間がいて、生涯その繰り返しで終わる、と昔年寄りに聞かされた話に思い当たり、しかしもっぱら一身の欲望に掛かって押し上げてきた者にとっては、一応の充足を見た後で持ち崩すのは、これも欲望の命ずるところで、それに従うよりほかにないのではないか、と成り代わって弁護を試みかけたが、また考えてみれば、いまどき、その類の人間はおそらく存在しにくい。飽きるというところまで十年二十年、あるいは三十年しても、行き着くことは難い。それに、生涯繰り返そうにも、一度しくじったらたいていそれでお仕舞いの時代ではないか。懈怠はどこへ始末される、どこへ留保される、と考えた。諸々の制度は人の懈怠の貯蔵庫として機能しているのではないか、と戯れに思った。



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一つのことにこつこつと

こつこつと人生の仕事を積み上げる、
そんな生き方に私は憧れていました。

中村元先生が、パーリ語から日本語に仏典を翻訳したように、です。

大学生の頃、図書館でよく見かけた女子学生が、
フランス語のテキストと向き合っているうちに、
何年も過ごし、次第に字が細かくて、ページ数の多い書物と
取り組むようになっていたのでした。
使っている辞書も、だんだんと分厚いものに変わっていった。
その人の、持続する力に、私は、時間が経つごとに圧倒されたのでした。
一つのことにこつこつと取り組む、
それは実に尊いことだと、身にしみて思い知らされた。

しかし自分では見習うことをしなかった。
私の特性であり、いい面でもあるが、決定的に悪い面でもある。

この一事、と思い定めて、悔いなし、そのような決意がわたしには欠けている。
そんな決意は、嘘だろうと、思ってしまう。
生きているのだから、興味も移る、
世界も移ろう、私としてはこの世界を漂うだけで充分だ、
そのように思ってしまう。
これは一種の言い訳なのだと知っている。

一つのことに打ち込んできた人は、
社会から評価される。
それは大切なことなのだ。

人生の態度を改めるのに、遅すぎることはない。
何か一つのことにこつこつと打ち込みたい。
ただそのことを思い念じている。



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実作者と評価する者

実際にものを作る人と、それを評価する人

たとえば、プロ野球の選手と評論家
評論家にやってみろといってもできない
しかし、イチローと松井について、比較して評論できたりする
イチローはバットを振る
評論家は言葉で表現する
だからかなり違う

別の分野では文芸評論
実際の作者と評論家
この二者はどちらも言葉で表現している
評論家の仕事は、
文芸作品についての文芸作品とも言えるくらいだ

評論家は、イチローほどにはバッティングができない
それなのに、イチローのバッティングについて語ることができる
なぜか?
それには理屈があって、
もし、評論家に、イチローの運動神経と筋肉とが備わっていたら、
立派に打てるだろうと考える

文芸評論の分野では、
実作者も評論家もどちらも言葉で文章を組み立てているだけなので、
イチローと評論家の違いはない。

そこで、実作者が、どうして理解していない人の解説なんかを受け付ける必要があるのかと思ったとする

分かっているならできるだろうし
できないなら分かっていないだろうと言えるか?

野球なら、分かっていてもできないことはある。
文芸では、分かっていたら、できるだろう。
そう思ってはいけないか?

本当に最先端の芸術を分かる人なんか少ないはずなのだ。
分からなくて当たり前だろう。



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ピーマン大王

ごちそうを食べあきたピーマン大王が
うまいものを求めて旅をするが見つからない。
百姓なみに畑をたがやし、百姓なみに のどが
かわいて水をのんだとき、はじめて ごっくんとのどが
鳴った。(住井 すゑ 「わたしの童話」の中の「ピーマン大王」)



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