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缶コーヒーの威力

缶コーヒーを飲んできたらしい人がすこしだけ部屋にいると、
あとはしばらく、缶コーヒーの臭いが残る。



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温かい水

新橋の一階の水道をひねって、
昼ごはんの容器を洗っていると、
時々、温かい水が流れてくる。
屋上に貯水された水が、
一階まで降りてくる間に、
どこかで温められているのだろう。
一体どこを通って来ているのだろう。
ついさっきまでいた、温かい場所があるはずだ。



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固いサンダル

最初は足に固いサンダルと思ったが、
いまは何も意識せずに履いている。



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12月26日朝刊

イベントのあとの新聞は、
正月でも、ゴールデンウィークでも、夏休みでも、
休みの総決算の記事が踊り、
また普通の仕事が始まるか、という気分にさせられる。
祭りのあと。

でも、クリスマスの次の日の新聞は別。
素っ気ないし、気分も変わらない。
正月に向かう気分の方が強いようだ。
祭りの前。



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ハードディスクはいっぱい?→うつ

お宅のハードディスクビデオはいっぱいじゃないですか?

人によっては、きちんきちんと消して、整理できる人もいます。
立派です。

しかし、中には、いつもハードディスクがいっぱいで、
最後の二時間くらいを出し入れしている、
情けない人もいるのではないでしょうか。
大事なときにどうしようもなかったりして。

そのいっぱいいっぱいの感じ、
もうどうしようもない感じ、
ぎりぎりだという感じ、
それが「うつ」のひとつなんです。



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すべての人が疲れる仕組み

どうしてみんながみんなこんなに疲れているのかなあと
思ってしまう。

漠然とだが、こんなことを考える。

野球をやるとして、
学級対抗野球なら、
うまい子は決まっているし、
誰が勝っても、別にたいして関心もない。
疲れ果てるまで練習したりしないし、
怪我をしてまで試合したりもしない。

同じ野球でも、選抜システムがしっかりあって、
うまい子はどんどん上のクラスに行く仕組みになれば、
話は違ってくる。

クラスの中ではうまい子でも、
上には上がある。
練習すると、きりがなくなる。
必然的に疲れる。
疲れると怪我をしやすくなる。

結局、全員が必死になる。
イチローは、すばらしくて文句ないけれど、
単年度で言えば、首位打者になれていない。
松井も満足のいく成績ではない。
松坂にも、上には上があったということだ。

会社でも、「あの子はコネ組だから、期待しない」と
決まってしまえば、
疲れないですむかもしれないが、いまどきそれでは肩身が狭い。

入社年次で待遇が決まってしまい、
どんなにがんばっても、
給料も上がらないし、昇進もしないという会社なら、
疲れるまで働かないかもしれない。
しかし今時そんな会社はない。

また、そんな会社だったとすれば、社員は、余力を使って、
ふたつ目の仕事を始めるだろう。
自分のエネルギーを最も効率よくお金またはやりがいに変えたいはずだから。
そしてそのような機会が、都会にはいろいろとある。

昔、学校は、悪平等の世界だった。
真ん中にあわせるから、
下の子も困るけれど、
上の子も暇で困った。
いまは、上がはっきり見えているから、いつでも努力の先がある。

社会がある程度進歩したので、
仕事の出来る人にはどんどん仕事をしてもらおうということになっている。
選抜制度が整ったので、能力に応じて、場所が用意される。
結果として、みんながみんな疲れ果てる。

もっと出来る?と聞かれて、
イエスと言う限り、
もっと難しい場所が用意されている。
いくらでもある。
結果、「疲れました、もう出来ません」と言うときが来る。

誰にとっても、その方がいいはずだった。
能力が引き出される社会である。
でも、妙に疲れる社会だと分かった。



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労働の二種類

とてもシンプルに考えて、
労働に二種類がある。

全体の富を増大させるもの、たとえば、農業。
富の分配の様子を変えるもの、たとえば、泥棒。

たとえば政治というのは、
まず富の分配を変えることによって、
ゆくゆく、全体の富を増大させる計画のことだと思う。
だから、間違うと、泥棒みたいになる。

農業といっても、分業が進んでいけば、
直接富を生産しない人たちが増えてくることになる。

直接に富を増大させることの喜びを思い出したいものだ。

食べものは役所に落ちているのではなくて、
森に落ちている。



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No man is an island.

『アバウト・ア・ボーイ』 (About a Boy) は、2002年の映画。
クリスマスもののひとつ。

No man is an island.
これはイギリスの詩人ジョン・ダンの言葉。
劇中では
ジョン・ボン・ジョヴィのソロ曲「サンタフェ」 Santa Fe の歌詞として紹介

主人公は、一瞬、「そうだ、人間は孤独な島なんかじゃない」と
一念発起するが、
そのあとは少し醒めて、
ひょっとしたら、人は
孤独な島かもしれないけど、
地底ではつながっているかもしれない
とつぶやいている。

男が住んでいる部屋のインテリアはすっきりしていて好きだ。



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無意味さに

人間はどれほどの無意味さに
耐えることができるのだろうか
気付いたら負けなんだ
気付いたらだめなんだ



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不幸の再生産

世間は他人の不幸を見て喜んでいる。
だから世間を信じるな。

こうしたメッセージが親から子供に繰り返し伝えられたら、どうなるだろうか。

あまりに無防備、
あまりに猜疑的、
どちらもよくない。



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青いバラ



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日本橋三越



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六本木



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メリー・ウィドウ



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値上げ

あっという間に
ガソリンと灯油が値上がりし、小麦が値上がりし、
物価が全般に上がってしまった。
どうもこれはまわりまわって一回りすれば
国民の所得も上がって、とんとんになるといった性質のものではない様子だ。

昔、植物のDNA特許をアメリカに抑えられてしまったら、
結局、言いなりになるしかないとの話を聞いた。
よく分からないが、農業生産物にも特許権がかぶさるのだろうか。

特許権とかは現実の物ではないのだから、
結局、主張を通すには、軍事力が必要なのだろう。

確かに、原油と小麦をひねられただけで、庶民の暮しはひとたまりもない。

全く新しいエネルギー源を獲得して、
食糧を自給して、はじめてまともにものが考えられるのだろう。

昔の常識から言えば、
格差の拡大は、資本主義社会の進展にともなって不可避に起こるもので、
同時に、リベラリズムへの圧力が高くなるはずである。
革命的エネルギーに直結するはずなのであるが、
全くそうはならないのが不思議だ。

War Guilt Information Programのことを考えても、
英語を勉強する限りは、どうしても、
米英的に考えてしまうというものだ。
ずっと先まで勉強しないと、意識的にクリティカルにはなれないものだ。

英語の浸透度と、独仏語のシェアの低下、を見てみると、支配力は、圧倒的に思える。

日本に生まれて損したと思いつつ生きるか、
そんなことを忘れて、王朝和歌の世界に親しむでもするか。



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植物は立派だ

堀文子が番組の中で語る

植物は立派だ
いやでも我慢してひとつの場所で耐えている

実にそのとおりだ
人間は我慢が足りない

*****
神様はすごいわ、
死んでいく葉っぱを真っ赤にしちゃうのよ

どうせ死んじゃうのにね



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堀文子 BIOMBO うつ病のたてとよこ

インフルエンザの始まりらしく、
金、土、日、月と不調。
全身がだるい。
消化も不良。
熱が出て、汗。
髪の毛の間に汗をかいて、ぬぐっても、乾かない。
麻黄湯とボルタレンなどで対処。
カロナールではまだるっこしかった。

邦画「手紙」を再見。涙するほどではなく、
前回の方が気持ちが入った。
吹石さんとの恋愛など、すっかり忘れていた。
からだも気持ちも死んでいるらしい。

横になりながら、ビデオ録画していた、
新日曜美術館、堀文子を見る。

BIOMBOとはスペイン語やポルトガル語で屏風のこと。
イ・ビョンボンを思い出したが、
ィ・ビョンホンとみた覚えもあり、
今検索してみても、二つ出てくる。
まあ、屏風とは関係ないけれど。

堀文子の大磯のアトリエが映し出されていた。
おもしろい。
タンポポの綿毛を整髪用のスプレーで止めてしまうと、
飛びかっているままで固定される。
それを絵にする。
よく観察して解きほぐす。
「あら、きれいね、なんて言うんじゃわかんない。
解きほぐしてみなくちゃ、どうなってるのか、わかんないのよ」
なんていいながら、描いている。
これってまさしく、解剖学者である。

くもの巣に霧吹きで水滴をかけて、きれいに描き出す。
庭の甕に水をためて、ミジンコを飼育している。
それを顕微鏡で見ている。
それを絵にする。
確かにミジンコには、小さいながら、心臓もあり、消化管もあり、目もあり、
さらには卵がぎっしり詰まっていて、
生きるに必要なものが一通り備わっている。

タンポポもくもの巣もミジンコも、
発見するかどうかなのだな。

紅葉した枯葉の写真なども集めている。

ずっと同じことを続けているのはいやだから飛び出していくのだと語っていた。

死ぬときには今でも5ミリでもいいから上にあがっていたいと言う。
同じ平面にいるのはいやなのだと。

連想したのは、躁うつ病のことだ。

言葉で書くと不明確なのだけれど、
今イメージしているのは、
躁病の人はやはり5ミリ飛び上がるのであって、それは統合失調症も同じ系列なのだと思う。
躁病と統合失調症は遺伝関係や薬剤の効果をみると、
やや近い関係にある印象がある。
そして、ある種のうつ病は平面上で横に動いているのだと思う。

無論、通常の、うれしい、悲しいはあり、それは同一平面上での動きである。
それとは異質の、縦の動きがあり、それがある種の躁うつ病なのだと思う。

現在うつ病と呼んでいる、大抵の場合は、同一平面上の動きである。
昔から躁うつ病、うつ病と命名して治療してきたものは、縦の動きである。

そのくらいの違いがあるのだと思う。
うつ病と言っても、それだけ質の違うものを、名づけているような気がする。

縦に動いても躁うつ病で横に動いても躁うつ病とは理屈が通らないが、
実際、そのような状況だと思う。

たて揺れと横揺れを、
昔は、内因性と神経症性などと呼んでいたものだけれど、
それでいいのかどうかよく分からない。








一番下の右がミジンコ。

左上のブルーポピーを苦労して見に行った場面も番組で紹介されていました。
とんでもないような断崖絶壁を歩いていたというかよじ登っていたというか、
大変でした。



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数人の人に

あまりに多くの人に会うとやさしくできない。
数少ない数人の人に優しくするように、
人間はできているのではないか。



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愛の拡大

銃は人間の攻撃性を拡大する。
コンピュータは人間の知性を拡大する。

人間の愛を拡大してくれるものはなんだろう。
それが欲しい。

人間の優しさを拡大してくれるものはなんだろう。
それが欲しい。



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2007年的性的環境

フロイト先生は精神的発達と性的発達を
密接に関連付けて考えたのだと思うが、
フロイトの生きた1900年当時と、
2000年代の現在では、
精神的・性的環境に相当の違いがある。
それをどの程度大きいと考えるか。

ある父親は、語る。
最近思うが、子供に携帯を持たせているのは、
歌舞伎町の真ん中に放り出しているようなものだ。

あるいはすでに、歌舞伎町の店の中に連れ込まれている。

携帯を持たなくても、すでにそのような世の中である。
テレビなんかをみせたらおしまいだと本気で考える親は少ないだろう。
それくらい、おかしなものが当たり前になっている。
とめどもないイメージの洪水。
おびただしい反復。
意味の骨折したメッセージ。
これではこころは健康に育たない。

フロイトの目が観察した精神性的発達は、どのようなものだったか。
それは現在の日本の精神性的環境とどのように違うか。
どのように似ているか。

すぐに言えるのは、
露骨なイメージが溢れ返っていること、
一方で、温水シャワーが常時使える環境であること、
石鹸がいつもあること。
男女ともセックスに抵抗が少なく、
妊娠時も堕胎が容易であること。
日本はそんなに寒くないこと。
常時肌を露出するほど暑くもないこと。
誰でも日本語が通じること。

フロイトのウィーンはすでに歌舞伎町で、
世界のどこでも、人間がいれば、そこが歌舞伎町なのかもしれない。

繁殖としての性ではなく、
商品としての性と大きく位置づけることができるだろう。

マーケットで価値を決める、
新自由主義の原則がここにも見えている。

肉体としての性、快楽としての性、繁殖としての性は、限界がある。
緊張と弛緩の反復がある。
商品としての性には、原則として、限界がない。
緊張だけがある。

いずれにしても、2007年的性的環境は史上なかったものに違いなく、したがって、
現代人の精神性的発達も、史上なかったものである可能性がある。

性と強調しなくてもいい。
差別であったり、イジメであったり、単純な嘲笑であったり。
人生の初期に接するのが、
母と子の間に生じる温かな交流だけではないことは明らかである。

範囲を世界中に広げれば、
毎日のように悲惨な事件が起こっている。
起こっていない日は、どこかで起こっていないか、もっと探せば、
きっとどこかで起こっていて、報道機関はそれを探すのが仕事できっと見つけてくるのだから、
1900年の昔には、100年に一回程度しか起こらなかった大事件が、
今では毎日報道されている。

自殺する人が日本だけでも年間3万人を超えるというのだから、
一覧表にすると、今日も、100人弱くらいの人たちが自殺していることになる。
もちろん、それは統計数字であって、実数は、もっと多いはずだ。

信じられないような事件が毎日のように起こっているという、
信じられないような世界。
フロイトの昔は単に知らなかっただけだといえば、そうなのだけれど。
知ってしまえば、かなりつらい。
赤ん坊も、笑ってばかりいるわけにはいかないだろう。



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私刑

リバタリアンの流儀では、
法も私的な取引の範囲に入るとすれば、
刑罰も、限りなく、私刑に近い形になるのでしょうか。

現在でも、そのような気配はあるのですが。

どの世界でも、ネガティブな多数決というものがあると思います。

誰にでも分かる例は、ライブドア事件など。

ネガティブな多数決の原動力になっているものは、
多分、嫉妬だと思います。



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絵が人々に認められるとは

セザンヌの絵が人々に認められるとはどういうことか。

たとえば、個人の内部でも、
描く自分と、見る自分とに、別れているのではないか。

なぜなら、描く自分と見る自分が一致しているなら、
描き直しを保証するだけで、
その人の考える最高水準のデッサンと色彩効果が出来るはずである。

もちろん、それは多くの人にとっては現実には無理なことだ。
ピカソの線がいいと分かっていても、まねは出来ない。
マティスの色がいいと分かってはいても、まねも出来ない。
なぜか?
一ミリずつ動かしてみればいいはずなのだ。
色彩を連続的に変化させて見ればいいはずなのだ。
天才たちのようにうまくはいかないとしても、
少しは何とかできると思うのだが、
もちろん、出来はしない。
見る目があって、訂正する根気があれば、出来るはずだろう、
あとは自転車に乗るようなものだと言ってしまいたいのだが。

現実には、多くの人は、自分の思った通りに描けない。
何故なのだろう。
実際は何がいいのかわからないでいるのかもしれない。

何がいいのかわからないでいる人に、
ひとつの解を提示するのが芸術なのだろう。

何がいいのか分かること、
そうした自分の解に自信を持つこと、
その点で自分を信じること、
それが芸術家だろう。

そのことと、人々に広く認められることの間には実は関係がないだろう。
広く認められるということはつまり、
脳の共通部分に働きかけているだけであって、
多くの人に共通の反応をひきおこすことが出来るというに過ぎない。
たとえば快感でも不快感でも、新規さでも安心感でもいい。

だから、芸術家は、他人の評判など無視していいのだ。
自分でいいと思うものだけがいいものなのだ。



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絵の内容と形式

印象派の風景画を見る。
その脇に、風景画の元になった風景写真を添えてある。

風景写真は、何の特徴もないほどの、普通の風景写真である。
その風景に向かってゴッホが絵を描けば、
絵画の歴史を作る絵が生まれるのだった。

そこに描き出されているものは、
樹の樹らしさであり、
同時に、ゴッホのゴッホらしさである。

同時にというところが、わたしには深遠な謎に思える。

樹の本質という内容を、
ゴッホらしさという形式で表現したともいえるだろう。

そうすると、ゴッホらしさを限りなく透明にして、
ただ樹の本質だけが残るような、一種の純粋極限芸術を構想することが出来るだろう。
いかにして可能か。
それは結局、一枚の写真に還元されるのだろうか。

樹の樹らしさは、
二次元上に展開される、
形と色でしかない。

そこには現実の山はないし机はない、
ただ絵の具があるだけだ。
二次元的な色の集合である。
それなのに何故そこには樹の樹らしさが現れ、
ゴッホのゴッホらしさが現れるのか。

風景写真を、ゴッホ的変換装置を通過させると、ゴッホの絵になる。
日常の体験を、大江健三郎的変換装置を通過させると、大江の小説になる。

絵も小説も、脳のある部分に対してフォーカスする刺激になっている。
そのフォーカスする部分に神経細胞があれば感動するし、
なければ感動しない。

そしてそうした細胞を多くの人が持っていれば、
普遍性を獲得する。
そして脳は変化する。

ゴッホの絵が現代で多くの人を感動させるように、
大江の小説は次の時代の人々を感動させるだろう。



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精神の異常と正常

精神の異常と正常を区別して診断するのが
精神科の診断学というものであるが、
そもそもそこでいわれている正常異常とは何か、
問題がある。

昔は生命は不思議であり、無生物と生物の間には絶対の隔壁があると思われていた。
不思議を総括して、Vitale 生気的成分などという哲学的な用語で考えたりした。

しかし現代に至り、科学が進歩してくると、
生物と無生物という区別は本質的なものではなく、
日常言語の習慣にすぎないことが分かる。
一方に自己複製しない物質がある。
一方に、DNAを持ち、自己複製しつつ、代謝して、時間とともに変化する物質がある。
その中間に、RNAそのものやDNAの断片などが存在している。
ただそれだけのことで、そのどの範囲を生物と呼び、無生物と呼ぶかは、
言語の習慣に過ぎない。
生物という言葉を日常言語から消去しても、困らない。

生と死も似たような状況である。
生きているのですか、死んでいるのですかという、
日常言語は粗雑すぎる。
生から死への移行には、各臓器において、また各細胞において、無限の段階がある。
ただそれだけのことである。
それを、日常言語の習慣に従って、粗雑に描写しているに過ぎない。

似たようなことは昔からいくつも議論がある。
たとえば、
砂山のパラドックス。
砂山から砂粒を個々に除去していくことを想定する。
「砂山は膨大な数の砂粒からできている」(前提1)
「砂山から一粒の砂を取り除いても、それは依然として砂山のままである」(前提2)
前提2 を繰り返し適用したとき(つまり、毎回砂山の砂粒数は徐々に減っていく)、最終的に砂山の砂粒が一粒だけになる。前提2 が真であるなら、この状態も「砂山」だが、前提1 が真だとすれば、このような状態は「砂山」ではない。これが矛盾である。

いろいろと解釈があるようだが、
つまりは砂山というものの日常言語の習慣の問題に過ぎない。一粒ずつ砂が少なくなり、最後には一粒になる。それだけのことである。

またたとえば、テセウスの船。
テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。

これは同じとということばの習慣によるのであって、
真実は、徐々に部分を更新しているという時間経過があるに過ぎない。

おじいさんの古い斧というのもある。「刃の部分は3回交換され、柄は4回交換されているが、同じ古い斧である。」
これも、同じという言葉がどのように使われるのかという問題だけで、
徐々に部分を更新しているという時間経過があるに過ぎない。

精神の異常と正常についても、日常言語の習慣を言っているのか、
精神病理学的な内容をさしているのか、区別が必要である。

*****
テセウスの船やおじいさんの古い斧の現代的バージョンとして、
人間の身体パーツを次々に交換していった場合、
最終的に自己同一性はどうなるかという問題がある。

スワンプマンの話とか、哲学的ゾンビの話とかにつながるのだけれど、
ちっょと考えただけで、脳以外の身体パーツを取り替えただけでは、
自己同一性は保持されるはずだ。
臓器移植しても、その人はその人だ。
脳も、小脳とか、運動系を入れ替えただけでは、人格は保持されるだろうと思われる。
問題は、記憶と情動と判断である。
過去の記憶と情動反応、そして、価値判断システム、
それこそは、その人らしさの中核だろう。

物質としての脳神経細胞そのものは、分子が時間とともに置換されることも考えると、
分子としては交換可能なものであり、
情報が保持されていればいいと考えられる。

だとすれば、脳の情報系をすべて外部に書き出して保存すれば、
自己同一性は保持されることになる。

非常に複雑で現状では難しいけれども、
すべての神経細胞の特性を記述して、シナプスの結合を記述すれば、
ある信号が入力された場合の、出力をコンピュータで代用できる。
そして、一つ一つのステップを記録して、必要に応じて更新していくことにすれば、
学習するコンピュータになり、
そこに、適切な程度の錯誤を加えれば、
それはもう、自分と言ってもいいだろう。

ある入力に対して、全く同一の出力をするものがあれば、
それが脳であってもコンピュータであっても、
情報系としては同じである。

そんなわけで、哲学的ゾンビが考えられ、スワンプマンが考えられ、
さらには水槽の脳が考えられ、ここでマトリックスに話がつながる。

水槽の脳は、現実に世界を知覚して運動しているわけではない。
知覚神経に信号が送られ、運動神経からの出力に対して、さらに知覚神経への入力がなされる。
それで多分、脳は生きていると感じるのだし、何の不足もない。

もちろん現実には不可能で、原理的に可能かどうかという思考実験の話である。

ここまで話を展開しておいて、
異常と正常の区別に戻ると、
脳という情報システムの全体を、
たとえばコンピュータのような別の情報システムに移植した場合に、
「異常」もそのまま移植されるのだろうか?

そのまま移植されるならば、そこで意味されている「異常」とは、
単に、環境との不適合というだけで、
極端に言えば、共産主義ソ連で、自由経済の優位を主張する「異常者」の意味での、
「異常」に過ぎないのではないか。
あるいは、現状の物理法則の世界とは不適合というだけで、
人間が火星に住むようになったら、
あるいは、重力のヘリのような特殊な環境に置かれた場合には、
むしろよい適応を示して、「正常」になるかも知れない。
論理の面で、たとえば矛盾律の崩壊も、それに適した世界があるのかもしれないし、
自我障害にしても、それに適した世界があるのかもしれない。

他の情報システムに原理的に移植不可能なような壊れ方
というものを、真実の「異常」と認定すべきではないか?



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母の心がわかって おそろしいのか

泣き面に蜂
降れば土砂降り
というように

ひとつの不幸は
二つ目の不幸を連れて来る

これは不運は重なるものだから諦めなさい
または
用心しなさいという意味であるが、
一方で、
ひとつの不幸があると、いままでは不幸でなかったものが、
問題と化して、あるいは、
潜在的だったものが顕在化して、
不幸になってしまうという事情をさしているとも考えられる。

会社でも家庭でも、それまではなんともなく普通にやっていけていたのに、
ひとつのきっかけで、実は問題があったとが分かってしまい、
そのあとは数珠つなぎのように問題が起こってしまう。

そんな例はないことではない。

小さな石ころだったものが、
地雷になってしまうような感じ。

ダムが干上がったら、
底から民家が丸ごと出てきたような感じ。

たとえば、親からあまり誉められないで、
優秀な姉と比較され続け、すこしだけつまらないなあと感じていた妹がいたとする。
人間不信の水域が上昇しているところに、

何かの拍子に、親が、
「おまえを産まなければよかった」
「産む予定はなかった」
「好きで産んだわけじゃない」
「実は男の子が欲しかった」
「どうせ何を着ても似合わない」
「生理になんかなっていやらしい」
「お前に食わせるものはない」
「食べさせているだけでありがたいと思え」
「どうせお前はだめだ」
「どうしてそんなに頭が悪いんだ」
「うちの子じゃない」
とか、言ったとする。

こうした言葉は、実際、言われた子供はとてもショックで、
人間不信の確信が形成されてしまうのだけれど、
言った本人は重大なことを言った意識はないことが多い。
ほんの短い一言である。

実際、10年か20年して、あの一言はひどかった、
と抗議を申し入れても、
そんなのは被害妄想だ、言った覚えはない、
言ったとしても、状況が問題だ、売り言葉に買い言葉ということもある、
何かの弾みで言ったんだろう、
そこだけ切り取って覚えているのか、
とにかく親というものは心底そんなことを思うものではない、
親の心が信じられないのか、
第一、そんなことを20年もたって覚えていて根に持っているなんて、
そのことがおかしい、などと言われて、
むしろ、抗議した人間のおかしさの証拠にされてしまうほどだ。

そして、決定的に傷つく。

このあたりの事情を推定すると、
普段からの交流の中で、
うっすらと、あまり尊重されていないことが感じられている。
しかし、相手の機嫌が悪いこともあるのだから、
自分のせいではないのだと思い直して、解釈を変更している。
つまり、自分に内在する問題ではないと、解釈し直している。

しかしあるとき、そのような解釈のし直しも限界に達して、
やはり疑いようもなく、相手はわたしのことが嫌いなのだと考えざるを得なくなる。
相手が親で言われる方が子供であれば、被害は甚大である。
夫婦でも、会社の上司部下でも、程度の差はあっても、似たようなものだろう。

そう思ってみると、これまで解釈し直して、気にしないようにしていたものが、
すべて、人間不信を確信させる証拠として、証言を始める。
どうしてもそう考えざるを得ない。
わたしは歓迎されていない。
わたしは邪魔者だ。
消えた方がいい。

その思いを抱いたままですごしているうちに、
ついに、相手に打ち明ける。
つらかったのだから、否定して欲しい、
そんな、すがるような最後の希望である。

しかし言われた方は鈍感だから、気がつかない。
そんなことをいうなんて、どうかしている、
いつまでも覚えている方がおかしいと、全否定されてしまう。

ここに至って、人間不信が確定される。

人間不信を抱く人間が異常なのだと断定される。
すると、あとの道は、
現在言われる通りに、自分が異常に根に持つ被害妄想的な人間であることを受け入れる、
または、
昔言われたとおりに、自分は生きる意味もない人間であることを受け入れる、
または、
相手を全面否定して、絶縁する、
そのくらいしか、選択肢はなくなる。

オセロゲームのように、一瞬で、全部が真っ黒になってしまう。

すべての思い出は
人間不信に回収される。

そのようなタイプの泣き面に蜂も人生には確かにある。

夢野久作「ドグラ・マグラ」に、

胎児よ胎児 何故泣くか
母の心がわかって おそろしいのか

といった意味の言葉がある。



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ふたご座流星群

http://astro.ysc.go.jp/geminid.html#2007

ふたご座のあたり、火星もある。極大は12月14日23時半頃~15日04時頃。
寒くて、だめ。
万能プラネタリウムはこちら。
http://homepage2.nifty.com/turupura/java/TuruPla.htm


 
プラネタリウムに行くと、
すごくよく眠れます。

W字に見えるとか、ひしゃくに見えるとか、
何度も繰り返していると、
当たり前のようにそんな風に見るようになります。
そこが脳の不思議です。

南の空はオリオン座が何といっても見つけやすいと思います。

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レンブラント



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このは おちば

このは おちば
かさかさ ぱりぱり

このは おちば
かさこそ ちりちり

いちねんが おわるよ
おわっちゃうよ



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日比谷公園で冬の桜




交番の脇の、桜の樹だと思うんです。
樹の肌の感じから、桜でしょうと、タクシーの運転手さんも言っていました。
日比谷通りに面しています。


クリスマス用に何かが出来るのでしょうか。

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東京タワーと紅葉



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