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Fresh Pain for the Uninsured

BusinessWeek 2007年12月3日発行号 にて
医療費の問題。

簡単に言うと、医療費を現金で支払えない人についての、
病院が持っている債権を、金融業者に売却、
金融業者は高利をつけて、回収にあたる。
患者は驚くが、あのときサインしたあの書類がそれだったのかと後悔する。

病院としては、手間暇かけず資金を回収できる。
金融業者はたとえば年利13.5%、延滞の場合は24%もの高利息を請求する。

自費診療患者の数は膨大で、
まず全米には4700万人もの保険未加入者がいる。
保障が薄かったり、「1万ドルまでは自己負担」としたりする保険を選択している人は1600万人。
最近実施された複数の調査で、医療負債が自己破産申告の理由の上位にあがっている。

各社の意欲をそそるのは、一般消費者の医療費の自己負担額2500億ドル(保険料は含まない)
という市場の大きさだ。
この金額は米コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーによる2005年の推定額であり、
2015年までに4200億ドルに達する可能性もある。

医療保険料をケチった患者側が悪いのか、
クレジットカードへの加入を強制する病院が悪いのか、
医療費は出し渋るが、クレジットカードなら払う患者の実態はどう見るか。

多くの患者が何も知らないうちに、ケアクレジットカードの発行元である
GEマネーなどの利息を要求する中間業者に自分の債務が売却されているのである。
患者が署名したのはGEマネーのケアクレジットカードの申込書だった。
その旨は小さな文字で書面に記載されていた。
無保険の患者らにケアクレジットカードを利用するようクリニック側が強く促していたケースがあった。
分かっていたら署名しなかったと患者は語る。

90日以内に医療費を支払って15%の割引を受けるか、
14.5%の利息が加算されるクレジット契約をするか、
選択を迫られる。

自己責任も楽じゃないです。



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11月27日、混合診療に関して

混合診療の全面解禁について

*****
規制改革会議(議長・草刈隆郎日本郵船株式会社代表取締役会長)は11月27日、混合診療に関して厚生労働省との公開討論を行った。混合診療の全面解禁を求める規制改革会議側に対し、厚労省側は譲らず話は最後までかみ合わなかった。
規制改革会議は今後も厚労省と調整して12月中に第2次答申をまとめるが、松井道夫主査(松井証券株式会社代表取締役社長)は「われわれは基本的には妥協しない。最終的には政治決着となるだろう」と、安易な決着はしない決意を述べた。

厚労省は同日、規制改革会議が事前に提出した質問事項の回答書を提出した。混合診療の全面解禁について、回答書では

▽患者の負担が不当に拡大するおそれがある
▽安全性、有効性が確認されていない医療が実施されることで科学的根拠のない特殊な医療の実施を助長するおそれがある

―を理由に適切でないという従来の主張を繰り返した。

東京地裁が11月7日に混合診療の禁止に法的根拠がないとする判決を下したことについて、厚労省の水田邦雄保険局長は「裁判は混合診療の是非を判断していない」と述べた。これに規制改革会議の福井秀夫委員(政策研究大学院大学教授)は「判決では混合診療の禁止を違法と認めた。一審判決で確定したら混合診療の全面解禁はもともと禁止されていないことになる。確定したら何らかの措置をするのか」と、禁止に向けた方策を取るか尋ねたのに対し、水田保険局長は「仮定の問題にお答えする立場にない」と返した。

*****
規制改革会議の人々は、一体どのような治療を受けたいのだろうか?
Libertarianの主張のように、患者さんは完全自己責任で完全自由に治療を選択すればよいというのだろうか。
そして、治療法についての「格付け会社」を用意して、
○○の治療法は、値段××ならば、受ける価値あり、とでもするのだろうか。

普通に考えれば、必要な治療ならば、保険の範囲内に含めればいいだけなのではないだろうか。

その範囲を超えた治療については、
保険の範囲外で、考えてもらえばよいだろう。

通常考えて不必要と思われる治療を望むならば、
保険との併用は諦めればいいだけで、
道は閉ざされているわけではない。

混合診療を解禁として、保険外診療が増えれば、
医療側は収入が多くなり、
保険者側は支出が減り、
経済的側面ではいいのかもしれないが、
健康を守るという観点では問題が多いのではないか。
結局患者さんの支払いは増えるだろう。

混合診療解禁ということは、
保険外の部分は自費で支払うということではあるが、
結局、
保険外の部分は、民間保険でまかなうことになるということだ。

国民皆保険の基礎は残しつつ、
段階的に形骸化させていこうということらしい。

そんなことが大事なことなのだろうか。
規制改革会議の性格についてはさんざん言われていることで、
これだけ批判されても平気な人たちらしいが、
いまさらながら呆れている。

健康若年労働者が減少すれば、
健康保険制度がもたないのだと、言えばいいのに。

そして、経済界としては、年金の負担も、健康保険の負担も、いやなのだと言えばいいのに。
自分のところの会社員は高給取りだから、
老後の年金も医療費も、自分で自分の分を負担するのが有利なのだと言えばいいのに。

Libertarianみたいに、
金持ちから金を取って、貧乏な人のために使うのは、もういやだと、言えばいいのに。

言わなくってももうみんな知っているし、ほとほと呆れているのだから。



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他人を必要としない価値メカニズム

真に独立した人間であるためには、他人を必要としない価値メカニズムを作ることが必要である。

この言葉は、作家アイン・ランドのものです。
アイン・ランドはリバタリアンの生活信条を描いたとされていますが、
自由と独立を引き受けるためには、
覚悟が必要であることも説明しているようです。

他人を必要としない価値メカニズムとはどんなことでしょうか。
精神医学では、自己愛の説明をするときに、自己愛備給という概念を用います。
Narcissistic Supply のことですが、つまり、
自分はすばらしいと肯定するための材料を補給してくれるものは何かということです。
誉めてくれる人です。
その補給基地が他人にあるとすれば、
その人は、その他人に依存してしまうことになります。
支配されることもあるでしょう。
その人が誉めてくれなければ、自分は自信を失い、うつになってしまうからです。

そうではなくて、自分で自分を誉めて、自分を肯定することができるようになければいいわけです。
それが、他人を必要としない価値メカニズムを作るということであり、
自己愛備給を他人に依存せず、自己の内部に置くということです。

理由もなくうぬぼれているのは病気ですが、
客観的に判断して、自分を公正に誉めることができれば、
そしてそのことで自分を励ますことができるなら、
とてもいいことなのです。
一番細かい事情まで知っているのは自分なのですから。

リバタリアンの主張全般にわたって、
このように精神医学的に分析して、公正に評価することができれば、
意味のある仕事になるでしょう。

他人を必要としないということと、他人を無価値だと信じるということとは、全く別のことです。
少なくとも、他人は、自分と同程度に、価値があると信じるのは、理由のあることです。

価値メカニズムの点で他人を必要としないとはどういうことか、
具体的に、また、分析的に提示するにはまださらに時間がかかりそうです。

また、アイン・ランドは作品の中で書きます。
「他人のために生きようと試みる人間は、依存者です。そのような人間は、動機において寄生虫です。・・・こうした人間関係は相互腐敗以外の何者も生み出しません。・・・現実には、このような人間にもっとも近いのは、つまり他人に奉仕するために生きる人間に一番似ているのは、奴隷です。」

キリスト教的隣人愛は、他人のために生きようと試みることですが、それは、アイン・ランドによれば、依存者、ニーチェによれば、足なえとなるわけです。
このあたりはデリケートです。
事業で利益を上げて、それを慈善事業に寄付する人は、隣人愛の実践者ですが、
他人を必要としているわけでもありませんし、他人に依存しているわけでもありません。
他人の存在が抜けているなら自己満足だと批判されそうですが、
もう一段高次元の感情だと思われます。



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リバタリアニズム ヒストリー

歴史のおさらいを読んでみましょう。

*****
1971年には、哲学者ジョン・ロールズによる平等主義を唱道した名著『正義の理論』が出版されています。ロールズはそこで、配分的な正義の実現、すなわち平等主義原則の私的所有に対する規範的優越を掲げました。

リバタリアニズムは政治思想としてはハーヴァード大学の哲学教授であるロバート・ノージックが1974年に著した『アナーキー・国家・ユートピア』によって確立したといえると思います。この著作でノージックは、われわれは国家という強制権力装置によって、富者の財産権を侵害しながら貧困者を救済することは道徳的に許されないとしました。そして唯一肯定できるのは治安を維持するという最低限度の機能を持った、彼のいう「最小国家」であると結論付けたのです。

社会権を否定し、自由権のみを肯定するのがリバタリアニズムなのです。

ノージックの著作は、ロールズの理論に対する、思想史的なアンチテーゼだったといえるでしょう。
社会主義は高らかに社会権の保障をしますが、それはすなわち経済的な自由権の侵害を意味するのです。ある個人の社会権を保障するためには、別の個人の財産権、あるいは私的所有権を制限する必要性が生じるからです。

1943年には、すでにフリードリヒ・フォン・ハイエクが『隷従への道』を著し、社会主義への警鐘を打ち鳴らしています。

その後、70年代までは社会主義的な思想風潮、あるいは市場の万能性を否定して政府による経済介入の必要性を説くケインズ主義が、支配的な風潮として資本主義社会においても蔓延しました。

このような状態にもかかわらず、アメリカでは自由な市場への政府の介入を否定するミルトン・フリードマンが、自由の価値と、自由市場が社会主義体制よりも人びとをより幸せにすることを『資本主義と自由』や『選択の自由』において訴え続けていたのです。

個人の幸福度を基準として社会の優劣を比較する考えは、功利主義と呼ばれます。ミルトン・フリードマンの息子であるデイヴィッド・フリードマンは1973年に『自由のためのメカニズム』を著し、その後も一貫して、功利主義的な基準において、無政府資本主義のほうが政府の存在する社会よりも優れていることを訴えています。

また経済学のオーストリア学派の流れをくむマレー・ロスバードは、権利論に基づく無政府主義の金字塔を打ち立てています。彼は1981年の『自由の倫理学』において、政府は物理的な強制を伴う存在である以上、倫理的な基準においても存在することは許されないという過激な主張を完成しました。

彼によれば、人間の自由な活動によって獲得された私有財産は倫理的に絶対的に擁護されるべきものです。その権利を税金などの形であれ、わずかでも取り上げるような国家とはすなわち、倫理的にみて強盗団にほかならないと喝破したのです。

*****
岩波書店、朝日新聞の立場である、リベラルは、社会権を大きく肯定し、自由権については、公共の福祉を先行させた上で、限定的に肯定するわけです。
リベラリストからみると、「経済行為とは私利私欲に目がくらんだ金儲け」にすぎないため、あるいは物質的な不平等を拡大する社会的必要悪であるため、大幅に規制するべきだということになります。よって、リバタリアンは過度の私有財産制度の擁護を試みていると攻撃されることになります。

コンサーバティブは、社会権については限定的に承認し、自由権については、最大限肯定します。

福祉国家論者は、国民は愚かで保護されるべきものと考えているようです。

これとは違う次元の分類で、国家主義的思考があります。
歴史教科書などに力を入れているのかもしれません。

そうした動きについては、以下の様な論評があります。

おそらくこれは、外国の言語や文化にもよく通じており、世界的な視野をもつことが多い知識人に対して、一般庶民が日本という言語的にも空間的にも閉ざされた国にのみ生きているからでしょう。生活空間が狭い下流社会に住んでいる人ほど外国人などの他者への偏見や排外意識が強いことは、ドイツのドイツ民族主義集団ネオナチやアメリカの白人優越主義集団KKKなどでも同様であり、歴史的にも社会学的にも事実でしょう。



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日本の財政が破綻 インフレ

日本の財政が破綻寸前であることが、誰の目にも明らかになってきた。つまり資産家や、そこまでいかなくとも多くの小金持ちは、予想される過酷な資産課税を避けるために、自らの金融資産の逃避(キャピタル・フライト)先を確保する必要を感じている。

政府の累積債務は1000兆円に迫っている。これは日本のGDPが500兆円であることを考えると、たいへんなものだ。国民一人一人が二年間もただ働きをして返済する必要があるほどの量である。

スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)やムーディーズなどのアメリカ系の主要な格付け機関の認識とも一致する。実際2002年にはS&Pが日本国債をAA-に、ムーディーズはA2に引き下げている。これは先進国中最低であり、アフリカのボツワナなどの途上国と同じである。もっと端的にいえば、全額返済の見込みがほとんどないということを意味している。

日本人は閉じた世界にいる。このような日本国債の格付けに対して、自民党の政治家や財務省は繰り返し、その不合理性を訴えている。これに呼応して、日本国内にある格付投資情報センターや日本格付研究所などは、日本の国債をAAAという最高位にランクし続けている。

格付けの低い国家では、将来的にはインフレによる事実上の大増税が予想される。

その時、金持ちが自分の財産に受ける被害の拡大を恐れて、日本から逃げ出すような国家運営はさけるべきだ。長期的に日本社会を発展させる原動力となる、もっとも優秀な人びとから真っ先に日本を脱出してしまうことになってしまうからだ。

スイスの多くの地域では、金持ちほど税率が安いシステムをとっている。そうすることによって、ヨーロッパ中から金持ちの移住を促進し、結果として税収をあげることができる。

*****
ゼロ金利で、国民が享受すべき利息を、銀行の利益に転化した。
累積債務1000兆円については、インフレ誘導しかないだろう。
消費税増税などのあからさまな増税のほかに、国民の財産を国家に移転する方法はいくらでもある。



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所得税を払わないということが可能 PT

今後、国際的な業務が増えるにしたがって、より多くの知的労働者が国をまたいで経済活動をおこなうことになる。日本の税法では居住者に対してのみ所得税がかかる。そして、少なくとも一年以上日本を離れて、日本に居所を持たなくなれば、国税上の非居住者とみなされる。その後は半年まで日本に滞在しても、非居住者の地位を維持することが認められている。

このような制度では、ある程度名声を確立したプライベート・バンカーや小説家、ミュージシャンなどは、主たる住所を香港などの国に移し、シンガポールや日本の間を行き来していれば、どの国に対しても所得税を払わないということが可能になる。

どの国でも年収が高いほど、所得税には高い税率を課す傾向がある。ファンドの運用によって何億も稼ぐような有能な個人にとっては、このような高額の所得税を払わないための移動に、異なった3カ国に居所を持つというのは何の負担でもない。

このような、所得税を払わずに各国を行き来して生活をしている人たちは、PT(Perpetual Travelers)と呼ばれる。

PTの概念を打ち出したのは、W.G.ヒル博士。彼は1989 年の著書『P.T.』において自由なライフスタイルを実現するためには、居住、労働、余暇、投資などに5つの国家を利用することを提唱した。



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かならず負けてくれるバカなプレイヤー

ソロスも指摘するように、世界の為替市場ではかならず負けてくれるバカなプレイヤーが大量に存在します。バカは各国の中央銀行であり、各国民の潜在利益を投機家にばら撒くという愚劣極まりない行為を続けているのです。



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公務員はいかに無駄であるか

誰もが、自分への利益誘導をするために、「政府」を利用しようとする。
そのコストは政治家という存在だけではない。
もっと、大きな利益が、実際に「政府」で働く公務員に流れざるをえない。

2005年4月の時点で衆議院が調査したところ、独立行政法人や公益法人に天下りした国家公務員は2万2093人にのぼる。そして、天下り先の3987法人への補助金交付額は、総額5兆5395億円に達している。

なかでも天下りが最も多いのは、国土交通省で5762人。そのうち2265人が天下り先で役員待遇を受けている。また厚生労働省が3561人、文部科学省が2260人。

さらに、民主党は2006年2月15日において、113の独立行政法人の常勤職員12万582人のうち6857人は中央省庁からの出向者が占めるとの調査結果をまとめている。常勤職員全員が出向者である法人も3つある。

なかでも、出向者が最も多いのは国土交通省所管の「自動車検査独立行政法人」で871人で、この法人では常勤職員全員が出向者である。同じように、国土交通省所管の航空大学校の常勤職員122人、経済産業省所管の工業所有権情報・研修館の常勤職員78人もすべて出向者だったと報告されている。

多くの高級官僚が天下るのは、コスト意識を必要としない独占を許された独立行政法人でハンコを押すだけの形式的な仕事のため、そして彼らの後輩である国家官僚組織とのつながりをもつためである。退職後に雇われ、公益法人や官庁とのつながりを持ちたい民間企業からは、数千万の給料が支払われている。

不平等と非効率を生むためにこれだけの経費がかかる。
また、現在、防衛省スキャンダルを調べているのは検察で、これも税金である。
スキャンダルを起こす役所がなければ、それを調べる検察もいらないはずだ。
二重に無駄である。



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民主主義による政府は、多様性を抑圧している

民主主義による政府は、
多様性を抑圧している。

多数決でひとつの結論を出すからである。
そうではなくて、フリーマーケットで、多様な意思決定を並存させればよい。



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国家が規制しているがゆえに非効率な世界 たとえば放送業界

普通、自由を野放しにしておくと、不平等がはびこるといわれる。しかしそうではない。
「自由は平等を促進する」という指摘は正しい。所得格差の大きな部分は、実は国家権力によるレバレッジ(てこ)の原理によるものだからである。国家権力による不平等を取り除けば、むしろ、平等になる。

電波帯域の利用は国家が独占的に許認可をするものであり、まさに本来は国民の共有財産であるにもかかわらず、現実には電波利権となって既存のテレビ・ラジオ局に割り当てられる、つまり特定人に無償で与えられている。

放送局が参入規制を受けた、典型的な保護産業であることはいまさらいうまでもない。さらに、明らかに茶番なのは、デジタル放送などという放送規格を、国民レベルでみた経済合理性を完全に度外視してまで推し進めていることだ。これは費用がかさむばかりで、インターネットに比べればまったく無意味な程度の双方向通信性しかもたない。電波の有効な利用を考えれば、長期的に放棄されるべき規格であることはあまりにも明らかである。

EUでは2000年に電波枠の競売が行われ、約14兆円が国家歳入となった。
イギリスの通信電波枠もまたおよそ4兆円で落札された。
日本の経済規模を考えれば落札額は10兆円はくだらない。
その金額が現在の時点では、テレビ局やラジオ局、NTTドコモやKDDI、ボーダフォンといった既得権益を持つ会社に勤めている従業員、あるいはそれらの会社の株主の利益になっている。

実例として、テレビ局の職員の給与について考えてみよう。ライブドアとの確執で話題をまいたフジテレビにしても、楽天との統合問題にゆれたTBSにしても、たいへんな高給である。2004年の時点でフジテレビ職員は平均年齢39.8歳で平均年収は1529万円、TBSではこれが42.3歳で1429万円なのです。諸手当や年齢などを考慮すれば、その実態では年収2千万におよぶはことはごく普通のことだといわれている。

しかし、番組制作の多くが下請けのプロダクションに任されているというのが現実です。これを考えれば、テレビ局という組織は、つまり国家によって許可された電波の枠を切り売りしているだけである。それによって、庶民には信じられないほどの給料が既得権益として支払われている。

そもそも電波行政などと称して、技術センスも経済感覚もない中央官僚が電波帯域を割り当てるという仕組み自体が、現代のITの急速な進歩とそれに伴う企業化精神を圧殺している。

日本では、総務省による電波利権の配分が既存業者に偏りすぎているため、新規参入がほとんどみとめられていない。新規参入をより自由にすれば、香港のように1分1円、あるいはインドのように1分2円程度までは通信料金は低下するはず。

現在の日本の通話料金の高止まりは、世界的にみれば例外的に保護されている業界の体質の現れであり、まったく異常である。

政治のような強制的、非自発的な資源の徴収と配分は、自発的な契約に基づいた交換である経済活動よりも、つねに非効率的です。なぜなら本人たちが納得していないのに強制力を持って、資源を徴収するのですから、ひとびとにはそれを逃れようとする大きなインセンティブが働くからである。

散々言われていることであるが、一歩も前に進まない。



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政府による収奪と分配

ひきつづきフリードマン的発想。

*****
自分の価値を社会に押し付けるために、誰か他人のポケットからお金を取り出そうなどとゆめゆめ思うことなかれというのが健全な道徳ではないか。

イチローや松井秀喜の年収は、たしかに普通の生涯収入を10倍規模で上回っている。けれども、だからといって彼らからその努力、あるいは才能の対価としての収入を強制的に奪って、私に分配しろというのは、あらゆる意味で倫理的ではない。

政府による所得の再配分とは、大人がみんなで寄り集まって「議会」をつくり、多数決をとり、強制的に誰かが持っているものを暴力を使ってとりあげるということなのだ。これは道徳的に考えてみれば、到底フェアな行為とはいえない。

人がものを所有している場合、そこには本人の才能や努力などの理由がある。もって生まれた美貌や天才的な技芸の能力によるかもしれない。あるいは純粋に努力や根性としか呼びようがないような克己精神による修練、訓練のおかげかもしれない。あるいは彼らの親がその身を削って獲得したものを与えてくれたかもしれない。安易に人の持ち物を取り上げる前に、そもそもそのような行為が正当化されるべきであるのかを疑うことが必要。

実際、内閣府がおこなった「国民生活選好度調査」によれば、日本でも約7割の人たちが、「個人の選択や努力の違いによる所得の格差などは当然である」と答えている。また朝日新聞社が2005年から2006年にかけておこなった世論調査でも、「競争は活力を高める」、「挽回できない社会ではない」と考える人は6割にものぼっている。

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やりたいことがあったら、自分のお金でやればいい。税金として強制収奪してやるべきではない。



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アナルコ・キャピタリストの発想

ミルトン・フリードマンの言い分

1.ミナーキスト・リバタリアンとは

ノージックのようないわゆるミナーキスト・リバタリアン(最小国家論者)によると、正当化される最大の政府は、個人とその財産を物理的な侵害から保護するだけの政府である。彼らはそれゆえ警察・裁判所・法律・国防だけを供給する政府が望ましいと考える。この規範理論はレッセフェール(自由主義)の経済学と密接につながっている。レッセフェール経済学は私有財産と自由競争によって効率的な資源配分と(より重要なこととして)高い経済成長率が実現されるという理論である。

2.アナルコ・キャピタリストの発想

アナルコ・キャピタリストは最小国家論者のロジックを完全に退ける。そして逆に問いただす。なぜ(国家の)残りの機能も自由市場にゆだねないのですかと。アナルコ・キャピタリストは、自由競争をする企業が警察サービスを供給し、新しい裁判システムが企業間のトラブルを円満に解決し、そして慣習・判例・契約が実用的な法体系をつくり上げていく世界を思い描いているのだ。
神の見えざる手は、警察・裁判所・法律・国防にも及ぶだろう。

3.アナルコ・キャピタリストの考える法制度

アナルコ・キャピタリストの指摘によると、実際(英米のコモンローのような)現代法の多くは立法府から生み出されたものではなく、分散化された判事たちの決定から生まれたものである。(アナルコ・キャピタリストたちは慣習法への関心をクロポトキンと共有するが、彼の考えはずっと現代化・洗練化されることが必要だと普通思っている。)
実際、現代の国際社会で、主権国家の自由を制限するような上位機関は存在しない。それでも何とかやっている。

4.アナルコ・キャピタリストの考える警察

競争する数多くの警察サービスに各個人が加入するというのが考えられる。別々のサービスに加入する個人間の争いを平和に解決するために、各サービス会社は他社と契約を結んだりネットワークを作ったりする。別のありそうな市場構造としては、警察サービスが住宅サービスと「セット売り」にされるというのが考えられる。これはちょうど水道と電気が賃貸住宅とセットで提供されるのと同じであるし、今日ガーデニングやセキュリティがゲーテッド・コミュニティあるいは共同住宅の住人に提供されるのと同じである。

民間警察は平和的でありかつ個人の権利を尊重する強いインセンティブをもつだろうということである。第一に、仲裁に失敗することは相互に破壊的な武力衝突に発展するだろうし、それは利益を得るためにはよくないことである。第二に、企業はビジネスにおいて長期的な関係を構築したいと考えるだろう。そして長期的な利益を確実にするために、いつでも誠意をもって交渉したいと思うはずである。第三に、好戦的な企業はリスクの高い顧客だけを引きつけ、それゆえ異常に高いコストに苦しむことになるだろう。(医療保険などで有名な逆選択問題と同じである。高いリスクをもつ人々はとくに保険を好むので、保険業者が顧客のリスク度を見分けることができないとき、あるいはリスク度によらない単一価格が規制で義務づけられているとき、その保険料は押し上げられる。) アナルコ・キャピタリストは民間警察が今日のマフィアと同じであるという考え方をほとんど支持しない。警察ビジネスが法律で認められていて、かつ市場がオープンな場合、コスト優位性で負ける「犯罪警察」はそこから退出させられるだろう。 David FriedmanはThe Machinery of Freedomの中でこう説明する。「無政府資本主義社会が今ある社会よりもずっと平和であるだろうと予想するためにおそらく一番いい方法はアナロジーである。今ある世界で国の間を移動するコストがゼロであるとしよう。誰もがトレーラーハウスに住み、同じ言語を話す。ある日フランスの大統領が近隣諸国とのトラブルのために新しい軍事目的税を徴収中であること、またすぐに徴兵が行われることを発表する。彼は翌朝、平和だが空の領土を統治していることに気づく。人口は彼と3人の司令官、27人の従軍記者に減っている。」

5.アナルコ・キャピタリストの考える警察への反論への反論

アナルコ・キャピタリストはさらにこう議論する。マフィアは人工的なマーケットニッチでのみ、すなわちアルコール・ドラッグ・売春・ギャンブル・その他の被害者なき犯罪が禁止されるときのみ栄えることができる。ギャングたちは縄張り争いで殺し合いをするかもしれないが、酒屋のオーナーたちは普通そうしない。

6.アナルコ・キャピタリストの考える私的財としての法

政府のない社会を想像してみる。個人は民間企業から法律を購入する。(ここでいう法律とは law enforcement のことで執行=警察機能をも含む)。各法律会社は他の会社と常に衝突する可能性がある。もし強盗がわたしの財産を盗むと、わたしの契約する会社の警察官は犯人をつかまえるが、その犯人もまた別の法律会社(エージェンシー)と契約している。

このような衝突の問題が解決される方法は3つある。最初に思いつくものでしかし最も起こりにくそうなものは直接の武力行使だろう。すなわち強盗をつかまえようとするわたしのエージェンシーと、彼を守ろうとする彼のエージェンシーとの間のミニ戦争である。もう少しありそうなシナリオは2社間の交渉である。戦争は出費がかさむので、各エージェンシーは顧客との契約の中につぎのような条項を入れておくことが考えられる。つまり悪事に対する正当な処罰にかんしては当社は必ずしも責任を負えませんよと。衝突が起きたとき、犯人が有罪かどうか、また犯人を引き渡すかどうかは2社間の話し合いによって決められる。

だが、より魅力的でしかもずっとありそうな方法は、エージェンシー間の事前の契約である。このシナリオのもとでは、衝突の可能性のある2社は、裁定会社(私立裁判所)を通して問題を解決する。そして問題を処理するルールにかんしては暗黙あるいは明示的に合意しておく。

このような社会においては、法律の執行と法律は市場によって生産される私的財である。法律の執行はその専門エージェンシー(警察)から直接顧客に売られる。法律自体は裁定会社で生産されて警察に売られる。警察はサービスの一つとしてそれを顧客に再販するのである。

結果的に生じる全体の法システムには、多くの異なるコード(法典)が含まれうる。対立を扱うルールは、双方の警察が同意した裁定会社によって決まる。法の統一性への需要も多少あるだろうが、論理的にはどの警察のペアも異なる裁定会社で合意しうるし、異なるコードのもとで裁かれうる。

じっさい全体の法システムはもっと多様なものになりうる。法廷で特別な手続きが要求されるような社会における、ある小集団について考えてみよう。たとえば法廷において形式的・慣習的な宣誓が求められる社会で、そういう行為を禁じる宗教セクトである。そのような宗教セクトは独自の警察をもち、法廷規則の変更を彼らに交渉させるかもしれない。あるいはそういう宗教セクトのために、規則変更の代理交渉を売りにする警察が出てくるということも考えられる。

上の例が示唆するように、このような法システムは潜在的にとても多様性がある。原理的にはすべての2個人間に異なる法律を適用するということが可能である。が、じっさいには交渉のコストや多様さのマイナス面ということにそれは制約されるだろう。すべての2個人間で異なるコードをそのつど交渉するというのはとてつもなく取引費用がかかる。よって2警察が、1つの裁定会社によって運用される1つのコードで同意する、というのがありそうなことになる。(上の例のようなことが起こったときは、ケースバイケースで裁定会社が判断する。)

法律の多様性はかなりのコストを伴う。たとえばエージェンシーAの顧客に強制できる契約条項が、Bの顧客には強制できないかもしれない。このことは企業が満足のいく契約を結ぶことを難しく高価なものにする。このようなコストは裁定会社に単一な法を採用するインセンティブを与える。それは(異なる顧客のいろんな要望から出てくる)複数コードを採用するインセンティブとバランスするまで続く。



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