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プレゼンテーションのちから と らしさ

数学や物理で最終的な答えだけ出せという場合には、
プレゼンテーションのちからは必要ない。
むしろ、できもしないのに威張っているやつということになる。

歌を歌うなんていう場合、また人を説得するという場合、
プレゼンテーションのちからを抜きにして語ることはできない。
威張っているやつは多分それなりにすごいんじゃないかと思わせられる。

アインシュタインやホーキングは、いかにも、らしい。
こんな人たちの場合には、プレゼンテーションのちからを遥かに超える説得力であるが、
らしさで得をした部分もあったと思う。

世間には、プレゼンテーションのちからはないけれど、
実力のある人がいるものだ。
わたしなどは、好感を持つ。

どちらかといえば、ものをつくる産業の時代の頃には、
こうした、プレゼンテーションのない、実力のある人の価値があった。
学校の入学試験も、答案という、あまりプレゼンテーションのちからとは関係のない、
アウトプットで判定されていた。

現代日本のような段階になると、
君は何ができるの?ということになり、
プレゼンテーションを試される。
そこではらしさも必要で、
こうした状況に強い人間というものもいる。

昔の入学試験に適応してしまった人間は、
現代を見ていると、めまいがする。
できそうにしている奴をできると思ってしまう、
くだらない社会かと思ってしまう。
もう参加しなくてもいいとさえ思う。

どんなに人に嫌われている奴でも、
この技はあいつにしかできないというのは、もう秋葉原にあるくらいで、
脱製造業社会では、
嫌われているということ自体、実力がないことの一部になってしまっている。

いいもわるいもそのような社会なのだから仕方がない。
そこで空気を読んで、嫌われないように心がけることになる。

やはりわたしはトスカーナに行こう。



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めがねの鼻がめんどうだ

めがねの鼻を接着剤でくっつければいい
工作の類は好きだから自分でやると思っている
でも、なかなか実行しない
なぜなんだろう
無限に億劫だ
多分誰かに押されないとやらないだろう
ずるずると億劫だ

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視線がくすぐったい

異性の視線がくすぐったいって
経験ありますか?

小説の描写に出てきたのですが、
その場合、
実際には刺激がないのですから、
刺激があるかのように感じるということですよね。

相手の視線が肌を這うような感覚を感じるというのは、
どんな仕組みだろう。
相手の視線がもとの刺激には違いないけれど、
肌にはつながっていない。

だから、相手の視線を視覚でとらえて、
その信号を頭の中で処理して、
皮膚からの信号であるかのように感じているということになる。

脳の皮膚知覚領を自己刺激していることになる。

分解してみると、
実際に他人の指が自分の肌を這う経験がある。
その指が1センチ離れていても、なんとなく、刺激を感じることはできる。
もっと話して、指の動きだけに反応する。
その延長で、視線の動きに反応して、肌がくすぐったくなる。

脳の内部で刺激を自己生成しているのだから、
適正刺激に違いない。

このあたりも、脳の機能過剰な部分と見える。
もう少しだけ過剰になると、幻覚につながる。

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無臭空間

現代日本人はとても無臭の空間を好む。
風呂に入って、体臭を流してしまう。
スペイン人とか犬から見れば、
匂いが薄くて、
半分透明人間のようなものかもしれない。

実際体臭を消してしまっている。香水を使うとしても薄くしている。
同じようにして、自分の存在感とか意見を消している。
精神的にも無臭化している。

五感の間にも違いがある。
視覚については、見えるものなら隠せばいい。
比較的コントロールし易い。
嗅覚については、隠せない。コントロールしにくい。

自分から「漏れ出るもの」の代表が匂いである。
考えが漏れる、声が漏れる、音が漏れる、などあるけれど、
一番恥ずかしさと結合しているものが、
匂いである。

考えが漏れるときも、たいていは、恥ずかしい考えである。
声が漏れるのも、恥ずかしい声である。
音が漏れて困るのも、恥ずかしい音である。

そうしてみると、他人に知られたくない、恥ずかしいものを、隠す、
この習慣が、日本人に過剰であるということではないだろうか。

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