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屈折 中国経済

中国経済が減速し始めた。今年第1四半期(1~3月)の国内総生産(GDP)成長率は前年同期比10・6%と、昨年の年間成長率(11・9%)を1・3ポイント下回った。

5年連続の2ケタ成長で爆走してきた中国経済の“潮目”が変わりつつある。
物価は急騰し、食品価格は21%も上がり、工業製品に波及。
一方で不動産は値崩れ。
上海総合指数は昨年10月に6124(瞬間値)の最高値を付けたが、今月22日には一時3000を割り込んだ。政府の買い支えがなければ、再び3000台割れの可能性が大きい。各方面のまネーが人民元の切り上げ差益獲得や、中国株暴落後の底値買いなどを狙っているらしい。

オリンピックまで少し期間があるので、短期で差益が稼げるかもしれない。



共通テーマ:日記・雑感

当面は無駄なIT化

カルテやオーダリングが手書きの場合と
コンピュータによる場合を比較すると
手書きの頃の方が
短時間でもっと多くの患者さんを診察していたように思う。
コンピュータに時間をとられて
患者さんと向き合う時間が少なくなり、
全体の診察の濃度も回数も減少傾向だと思う。

パラメディカルとの情報共有や地域連携した場合の情報共有に必要と言われているが、
パラメディカルにはきちんと話をして伝えた方がいいのだし、
地域連携についてはいまだに紹介状をやり取りしていて、
まったくメリットが生かされていない。
うっかり流した時に情報ブロックができるのか怪しいところがある。

そもそも、お医者さんが一度薬剤を入力して、プリントアウト、それを患者さんが好きな薬局にもって行って、再度薬局はコンピュータに入力している。薬局の窓口でも症状の具合を尋ねられる。
薬局からジェネリックの関係で余計な電話が鳴って、対応しないといけないので煩わしい。
なんていうむだだろう。

IT化で雇用創出が国策とは言え、
また実際コンピュータはうまく使えば便利であることは確かなのだが、
その範囲もあり、使い方もあり、それは現場の人でないと分からないと思う。
現状では「人に快適」とはまったく思えない。

お医者さんの疲労感が強いのはこれも一因であろうと思う。

共通テーマ:日記・雑感

ある地域の開業医の平均年齢70歳

大阪の開業医の平均年齢は地域によっては70歳前後と高齢化が進んでいる。

ずっと以前、保健医を定年制にしようかという話が出て、
70歳定年として算定したところ、
お医者さんが極端に少なくなってしまう地域が出ることが分かった。
東北などに多かった。

勤務医と開業医の偏りもあるが
年齢による地域の偏りもあるようで
これも問題である。

共通テーマ:日記・雑感

対談 「医師不足地域の医療が危ない!」 本田

医療制度研究会 ~21世紀の医療を共に考える会~
新日本出版社・月刊『経済』 2007年1月号掲載

対談 「医師不足地域の医療が危ない!」
(出席)
本田 宏(済生会栗橋病院副院長・外科医、NPO法人・医療制度研究会副理事長)
日野 秀逸(東北大学教授)
  
(前文)
 医師不足による病院・診療科目の廃止、地域の医療”崩壊”が大問題になっています。NHK調査(〇六年九月実施)によると、現在、全国の二二四の公立・公的病院で、廃止・休止が計画されている、としています。日本の医師不足はなぜ生れているのか。深刻な事態を変えていくために、何が必要か。本日は、医療現場の最前線におられる栗橋病院医師・本田宏さん、医療経済学がご専門の東北大学教授・日野秀逸さんに、この問題で大いに語っていただき、国民の切実な声に答えていただければと思います。〔編集部〕


 勤務医の現場は、どうなっているか
 日本の医師不足の実態
 
 ――本田さんは、済生会栗橋病院の外科医として働く立場から、現場の実態と医師不足の問題を訴えて、全国を講演会などで精力的に回られています。まず本田さんに、医師不足の現状からお願いできますか。

●年を追って過酷になる医療現場

【本田】 私も今日は、勤務医の窮状を生の声でぜひ聞いていただければと思っています。最近、マスコミで医師不足の問題が取り上げられていますが、それはまだ表面的ではないか、と感じます。たとえば、ある病院で医師が大量に辞めて、病院が閉鎖になった、と結果は報じられますが、なぜそうなっているか、国民の方々に正しく伝わっていないと思うのです。そこでまず、私は現役の医師として、現場の実態を知っていただきたいと思います。
 私は外科医になって二八年です。一般の企業であれば、管理職の年齢で、肉体的には負担が軽くなる頃でもあると思います。しかし、地域の急性期医療の現場に身を置いていますと、年を追って仕事はきつくなるのが実態です。
その大きな理由は、医療の質の進歩です。二八年前に比べて、本当に医療技術、機器が進歩して、以前では不治だった病気が治るようになっています。胃癌にも効く薬が開発されている。つまり、医療の質の向上とともに、医師がやるべきこと、負担が多くなってきています。かつては一人の患者に関わるのに二、三の専門領域で済んだのが、今は六つ、七つもの領域に及び、医師に求められる専門性が増しています。
 もう一つの要因は、高齢化社会です。今は、七、八〇代の方でも手術が増えてきています。それは高血圧、糖尿病、心筋梗塞など、多くの合併症をもつ患者が増えることにつながって、手術はとても神経を使います。
 そのうえに近年では、患者側が納得するまで説明を受けるべきという「インフォームド・コンセント」が当然のように求められます。私は、ニュース解説とかで、医師に分かるまで説明を求めていい、というような話をされると、背筋が寒くなります。実際、現場ではマンパワー不足から、その要望に応えようとしたら、医師の側の負担は非常に過酷です。患者さんは、それで当然と考えますから、仕事があるから夜九時から話を聞きたい、あるいは日曜日にしてほしいと求められます。それでは、私たち医師はいつ休んだらいいのか。日本の医療のマンパワー不足、これは医師をサポートする医療者集団も含めての体制の欠如の下で、欧米の医療並みの説明を求められることは、実際は不可能なのです。
 インフォームド・コンセント自体の難しさもあります。医療情報の「非対称性」が問題にされ、患者はあらゆる選択肢の情報を提供されるべきだと言われます。昔でしたら、胃潰瘍は手術で直しましたが、今は効く薬ができています。そうした治療法のあらゆる手法を、一般の方に説明するのは、実は大変難しい。それを説明しないのは医者の説明責任の問題だと言われると、どうすることもできません。医療現場の人間は、高度化、複雑化する医療技術と、患者の狭間で、非常に揺れながら、職務に当たっているのが現状です。
 
●医師不足で過重な労働とストレスに

 今、お話ししたような医療現場の仕事量の増大に輪をかけて、決定的な原因は、日本の医師不足の問題です。人口一〇万人当たりの日本の医師数の推移を、OECD(経済協力開発機構)加盟国の平均と比べると、乖離が起こっています(図1参照)。日本の医師数は現在二六万人で、もしOECDの平均数に見合う数にするには、一二万人不足しています。しかも図を見れば分かるように、世界水準との格差が広がっているのです。
その上に各地方ごとの格差があります(図2)。ちなみに私の病院のある埼玉県は、世界的な平均より低い日本のなかでも、人口当たりの医師数は全国で最下位です。
この医師不足に、現場はどのように対応しているのか。一つは、超過勤務です。とにかく夜でも、日曜日でも、病院に患者さんを診に出ています。何か事故が起こったら大変だと、追い立てられて、常に過重勤務になっています。
 加えて、一人の医師が何役も働かなくてはならないという現状です。癌の手術後の化学療法でいえば、欧米では化学療法の専門医の担当ですが、胃癌学会のアンケートによると、日本ではその約七割が外科医です。さらに、癌患者さんが再発したり、お亡くなりになるまでの緩和ケアまで、約六割は外科医が担当しているのです。
 よく日本の外科医は効率的でないと言われますが、患者さんを他に担当してもらえる体制がないのが実態です。そうすると一人で診断から手術、その後の化学治療、ターミナルケアと、何役もこなすことになります。当然、それだけ広い知識も、時間も求められるわけです。
 あるいは、医師不足を解消するために、「病院の外来部門をなくせば、仕事量が減る」という意見もあります。しかし、これは現場の実態を理解していない意見です。化学療法の外来部門などは、病院以外で、地域の開業医に替わってもらうことができない部門なのです。
 なぜ外科医が手術だけで終われないかを、もう少し補足しますと、一人の患者さんの手術を担当すると、担当医への患者の依存度は非常に強まります。私はこの先生に、化学治療も、再発時も、最後の見取りまでやってもらうのだと、ものすごい精神的依存関係が生れます。
 それが高じた例で、私の病院で事件が起こりました。ある悪性疾患の患者さんの死亡宣告時に、主治医が三〇分、間に合わなかったために、「土下座しろ」とご家族から迫られたという話です。日曜日でしたが、その担当医は非番でも、夕方まで治療に当たり、一度帰宅した後、容態が悪化したのです。急いで駆け付たら、「土下座しろ」という家族からの心無い叱責を受けた。懸命にやってきた担当医には、とても理不尽な仕打ちではないでしょうか。
 今、急性期病院の現場にいる勤務医は、そうした過重労働、一人何役のストレスのなかで、ボロボロになって働いています。それが、なかなか患者さん、ご家族の方には伝わっていません。手をつくしても、最後に立ち会えないと、家族からは叱責される。本当につらい状態です。虎ノ門病院の小松秀樹氏が『医療崩壊 「立ち去り型サボタージュ」とは何か』(朝日新聞社)で述べられているように、そういう状態に耐えられず、勤務医を辞めて、開業医に変わる医師が生まれています。私は、そうした医師を責めることはできないと思います。ですから、この実態をまず、多くの患者、国民のみなさんに知ってもらう。それが事態の打開のために、何より必要だと痛感しています。

 ――では本田さんのお話を受け、日野さんお願いします。
 
●医学・医療の進歩によって仕事量は増える

【日野】 最初に、本田さんからお話のあった医療現場の状態について、医療政策論を専攻して三〇年ほど取り組んできた立場からお話ししたいと思います。
 一般に、学問や技術の進歩とは、それに携わっている人間の負担を軽くするはずです。五〇人、一〇〇人の仕事を、一人でできるようになるのが技術発展です。ところが、医療だけでなく、教育、福祉分野といった人間を相手にした「サービス労働」の場合、技術が発展するほど、逆に人間の手が多くかかるようになる本質を持っています。
 医療技術が進歩すれば、かつては治らなかった人が治癒して、再び医師の前にやってきます。その患者の診察、治療は難しくなり、医師の負担は増すのです。加えて、かつては外科、内科ぐらいの専門区分だったのが、現在は内科関係でも消化器、肝臓、胸部、循環器など細かく専門化されています。するとそれに応じて医師を増やさない限り、同じ専門の医者は少なくなり、仕事量は増えます。この医学、医療技術が進むと、逆に全体の仕事量が増える関係が、一般に理解されていないために、医師、患者・国民のギャップが大きくなっているわけです。
 別の面から言うと、江戸時代に自動車に乗りたいと考えた人はいません。ところが医療に関しては、病気を治してほしい、死にたくない、という要求は江戸時代から変わりません。その死にたくないという、不可能な要求に対して、時代を超えて応えているのが医学・医療の発展であり、そこに特殊な性質、原理が存在します。技術が進めば、もっとよくなる、速く効率的になるという、自動車や鉄をつくる工業とは、まったく違う原理で医学・医療は発展していく。この関係をもっと広く理解してもらう必要があります。
 さらに社会的条件の変化です。高齢化社会は世界的な傾向ですが、これ自体、おめでたいことであり、医学も大いに貢献してきました。他方、それは多くの病気を持ち、体力の低い高齢者が、手術を受ける状態が広がったことでもあります。高齢化という社会的条件の変化が、医師や看護師の手をたくさん必要とする状況を作り出しています。
 治ること、長生きすることは確かに望ましいことです。それに医療の側で対応するためには、その原理からいって、人手を増やすしか手段はありません。にもかかわらず、日本では逆に医師を減らしてきた。この政策的な大失敗が、今日の医師不足から医療現場で起こっている事態の大本にある問題です。
 医師不足を補うために、病院外来を開業医に任せればいい、産婦人科医師の仕事を助産師に任せればいい、という議論も出ていますが、医療のこの原理的部分が乱暴に扱われてはならないと思います。きちんと医師の計画的な増員を図った上で、勤務医と開業医、助産師など、連携を工夫しいていくことが必要ですね。

【本田】 まったく、おっしゃるとおりだと思います。
 
●日本の医師数は中進国、経済困難国並み

【日野】 次に、国際水準から見た日本の医師不足の現状についてです。OECD各国の医師の増え方の指標から見ても、長期的、傾向的に乖離をしているのが、日本の特徴です。医療技術の進歩、社会的条件の変貌という環境変化に対応して、世界の流れは医師数を充実しているのです。日本は逆に政府が医師減らしをやってきた結果、一人の医師が何役も、という実態、医師の過酷な状態を生んでいます。
本田さんが言われた、医師数不足の一二万人という数字について、私はこのように計算しています。OECDの臨床医調査(*)によれば(OECD Health Data 2006)、加盟国の人口一〇〇〇人当たり臨床医師数の平均は三・〇人(日本以外の加盟二九ヵ国のデータが出そろう二〇〇三年の平均)に対し、日本は二・〇人です(日本の「医師・歯科医師・薬剤師調査」は隔年に行われ、二〇〇四年のデータ)。
ここから日本が加盟国の水準に達するには、約一三万人の医師数増加が必要です。つまり、二〇〇三年の日本の人口一二七六一九(千人:A)、人口一〇〇〇人当たりの臨床医数がOECD三・〇(B)、日本が二・〇(C)。A×B=三八万二八五七人(D)、A×C=二五万五二三八人(E)。D―E=一二万七六一九人。日本の人口当たり臨床医師数がOECD三〇ヵ国の平均に追いつくためだけでも、一二・七万人ほど増やさなければならないのです。
 *臨床医は病院と診療所に勤務する医師。診療現場における医師不足を論じるには、医師総数よりも臨床医をとりあげる方が正確である。「医師総数」にすれば少し数値は変わってくるが、大勢には影響しない〔日野注〕。
別の数字を紹介しますと、〇六年八月に出された厚生労働省の「医師の需給に関する検討会」の報告書では、「休憩時間や自己研修、研究といった時間も含む医療施設に滞在する時間を全て勤務時間と考え、これを週四八時間までに短縮する」ためには、六・一万人が不足している、という推計をしています。ただし、この数字について報告書では、休憩時間や自己研修を含めた時間すべてを「勤務時間」と考えるのは「適切ではない」と、退けられており、大きな問題ですが。
 またWHO(世界保健機関)の『ワールド・ヘルス・リポート二〇〇六』の付録「加盟国における保健労働者の国際比較」でも、はっきり出ています。一九二ヵ国、二〇〇二年の比較で、医師数でいうと日本は人口一〇万人あたり一九八人で、世界第六七位です。北欧諸国では、デンマーク二九三人、フィンランド三一六人、ノルウェー三一三人と、だいたい三〇〇人台。ヨーロッパの国では、イギリスは二三〇人と低い方で、フランス三三七人、イタリア四二〇人、ドイツ三三七人、スペインが三三〇人、ロシア四二五人、スイス三六一人、オーストリア二四七人です。
 この国際的な水準からみても、日本は人口一〇万人当たり、一〇〇人以上少ないわけです。世界六七番目というと、経済困難国並み、せいぜい中進国の下の方の水準です。ちなみに、この国際比較で歯科医師は二六位、看護師は二七位ですから、医師数がとりわけ低いのです。
 この日本の医師数のレベルをはっきり認識して、対策に当たる必要があります。それは、医者の数を全国の地域で配置し直すとか、専門科目の間で回し合うとか、そいう小手先の手当てで解消できる数でないことは明らかです。

【本田】 その点で私が注目したのは、「医師の需給に関する検討会」の第三回(〇五年三月一一日)の議論の中で、メンバーの長谷川敏彦・国立保健医療科学院政策科学部長が報告された内容です。長谷川氏は、医師需給についての国際的な議論を調査した結果、その論調が最近ガラッと変わっていて、「大変驚いた」と言っています。以前は、国の医療費を抑制するために、どう手を打つかが世界の趨勢だった。しかし、この数年は、医療の質と安全を確保するためには、必要な医師の数、医療費をかけないといけない、という時代になったと報告しています。
 
●医師数は「偏在」でなく、絶対的不足

 ――医師不足は、都市と地方における医師の「偏在」が問題であり、合わせて、産婦人科、小児科の医師不足も、特定の科目に集中している問題だという見解がありますが。

【本田】 医師不足でなく、「偏在」だという議論が、現実を見ていないと思えるのは、じゃあ余っている医者はどこにいるのか、ということです。人口当たりの医師数が一番多い、東京でも余っていない。全国すべての県で、OECD平均を満たしている地域はどこにもないのです(図2参照)。

【日野】 そこは大事なポイントです。まず日本の医師数総数が絶対的水準を満たしていないのです。およそ先進国とは言えない、”異常”と言えるほどに少ない。その上に、地域的なバラつきが出て、二重に大変になっている。地域的には、北東北の医師不足が深刻ですね。さらに専門科別の偏在があり、産婦人科、小児科など、とくに不足が出ている科目では、三重苦という状態がひどくなっている。

【本田】 その絶対数の不足という認識が、政府、厚労省にないのが問題です。「偏在」と言い張る議論というのは、どうも私には、戦前の日本軍で「撤退」と言わずに「転進」だと報道した、あの言い方と似ている気がしてなりません。
 それで結局、不幸になるのは国民です。「ビジネス・ホテル」に「高級ホテル」のサービスを求める人はいません。それなのに国民は、実態を知らず「高級ホテル」のような医療を求めて無理な要求をしてしまう。政府自らが「偏在」と言って、現実を誤った説明をするから、患者が対応を間違ってしまうわけです。
 今、日野さんが医者の二重苦、三重苦といわれましたが、この絶対数の不足を補っているのは、日本の医師の過重労働です。国立公衆衛生研究所のデータでは、医師の一週間の労働時間を調べると、イギリス、ドイツ、フランスは、二〇代から六〇代の医師まで週六〇時間以上勤務している国はありません。ところが日本では、二〇代~五九歳まで、すべての年代の医師が週六〇時間以上勤務しているんです。
 しかも六〇歳代から、七〇、八〇歳代まで、医師統計の数にカウントされているのは、世界で日本だけです。日本では、医者は死ぬまで働かなくてはならない、と考えられているわけです。

【日野】 EU(欧州連合)やOECDの医師の場合、週四八時間労働が上限です。イギリスだけが、人手不足で例外的に週五六時間になっている。週六〇時間勤務なんて国はありません。日本もせめて週四八時間を上限にして基本的診療を完了する。それに見合った人的な体制にするには、何人必要か、という点で補強が求められます。

●日本の医師統計の大雑把さ

【本田】 日野さんが言われたように、現在の医療は専門科目ごとに細分化されていますから、たとえば乳癌になったら、その専門医のところで治療したいと誰もが思っています。外科医だったら、誰でもいいと考える人はいません。そういう国民が望んでいる医療レベルにするために、どの科目の専門医がこの地域に何人必要か、という基準も必要です。
 先ほどの長谷川敏彦氏の報告に出てきますが、アメリカの統計では、二〇〇〇年ぐらいに医師数はガクッと下がり、人口一〇〇〇人当たり、二・二一人になりました。私もなぜなのか、と思って統計を調べましたら、アメリカは医師のカウントを厳密に修正してデータを出すようになったのです。「フルタイム・エクイバレント(equivalent)」と言って、退職者、休職者を除くことはもちろん、本当に実働している医師の頭数としてカウントしています。
 一方、日本の医師数統計は、先ほど言いましたように、相当、大雑把なカウントになっています。ある東北の病院の名誉院長の言葉では、「日本における医師数とは、医師免許を持っていて、死んでいない者の数」だと言っています。本当は、病院の医師数登録数から、産休でお休み中の数は除外しなければいけない。そういう「実働」数で統計をとっていない。こういう数字でで日本の医師数が不足か、足りているか、と政府が判断してみても、机上の空論に終わってしまうわけです。
 それに大事な点ですのでつけ加えますと、医師の教育の時間の確保です。イギリスでの話を聞きますと、医師の生涯教育は平日勤務時間内に行うシステムになっているそうです。しかし日本の医師は、一方で過密な診療スケジュールがあり、土日や診療が終了した夕方以降の時間を使って学会、研究会などで勉強しているのです。現在、医師免許更新制度を導入する計画も出ていますが、医師に勉強の時間を与えないで、やろうとしています。国民も医師の質向上を望んでいるのですから、医師が新しい医療技術を身につける研修・学習の時間は、勤務時間に含めないとおかしいはずです。

 ――〇四年度から研修制度が始まり、医学部を卒業後、二年間は義務的に臨床研修が義務付けられました。この制度で、大学病院の医局に若手医師が残らなくなり、地域の病院への派遣ができなくなったと言われますが。

【日野】 一昨年、新しい研修医制度によって、それまで六~七割、大学の医局に残っていた医者の卵が、難しい症例が集中し一般的な疾患の研修がしにくい大学病院での研修を避け、市中病院に流れ、二~三割しか残らなくなりました。それで、派遣していた中堅医師を大学病院に呼び寄せたため、自治体病院を初め、一気に医師不足が表面化しました。
 先ほども指摘したように、こうした問題が現れる前提には、絶対的な医師数不足があり、それが研修制度で噴出したものだと考えます。

【本田】 これは一方で、いかに行政が医師の絶対数不足に危機感を持っていなかったかを証明したものだと言えますね。
 
●インフォームド・コンセントと医療の不確実性

 ――これまでのお話のように、日本の医師不足から来る勤務医の実態の深刻さを踏まえた上で、患者側としての医療現場への対応を考えていくことが必要です。

【日野】 インフォームド・コンセントの問題は、本田さんが冒頭おっしゃったとおりで、その重要性は誰も否定しません。しかし、それを保証できる体制が、診療報酬の点からも、説明に当たる人的スタッフの面からも備わっていないことが問題です。にもかかわらず、説明責任は、一方的に医療機関の側にかかってくれば、医療機関の側は萎縮して、後で患者との間で問題が起きないように、予防的に一通り説明するけれど、患者には何が大事かのか理解できない、という状況になっているケースが多いのではないでしょうか。

【本田】 医療技術の進歩と関係しますが、医療には不確実性と限界があるということが、だんだん一般の方々に意識されにくくなっています。患者の側は、病院にいけばすぐ診断がついて、治療したら治って当たり前、治らないのは、医者の腕が悪いかのように受け止められます。ですから一旦、症状に問題があらわれると、患者から、直ちに医療ミスではないか、医療事故ではないかと疑われる傾向が、医療従事者にすごいプレッシャーを与えています。

【日野】 「医療における不確実性」の問題については、すでに七〇年代、大阪大学医学部の大先輩である中川米蔵さんが、『医療的認識の探究』(一九七四年、医療図書出版)という本で論じられています。「不確実性」は医療における認識の特徴であり、因果関係と結果が一致しない状況でも決断が迫られる領域なのであり、常に不安定性と危険性をはらんでいる。その点に対し医師の側は謙虚でなければならないし、患者の側は過大な期待を避けなければならない。そういう論旨です。
 その点が、医療・医学の目覚しい発展の反面、何でも治る、それが当たり前という誤解が広まっているのではないか。そこでは、医療関係者も、患者もあらためて襟を正して、正確に現実に向き合うことが求められていると思います。
 分娩にしても、依然として危険が伴うもので、緊張感をもって臨まなければならないはずです。「母子ともに健康」で出産が当たり前、という安易な受け止めは戒めなければいけないし、医療の不確実性、限界性について理性的な国民的認識が求められるでしょう。
医師不足、医療体制の不十分さの問題と、医学・医療の発展の下でもなお、医療には不確実性があるという問題を、よく踏まえて当たらないと、医者も患者もお互いが不幸にな状況に陥るばかりです。

●医師、医療従事者に対する暴力は重大

【本田】 最初に紹介したような、家族から心無い叱責や罵倒を受けた医師、看護師、スタッフへの影響は大きいです。一度、そうした場面に出会うと、患者、家族との問題が起らないか、トラウマ(精神的外傷)になって、退職を考えるところまで追い詰められる人も現実に出ています。

【日野】 イギリスは医療制度崩壊の先進国として、医師、看護師に対する暴力の問題があります。年間に九万五〇〇〇件以上(二〇〇一年、イングランド)というレベルです。日本より少ない人口五〇〇〇万人の国でこれだけ起きており、その中には、殴られるなど直接の暴力のほかに、言葉による暴力も含まれています。
 「土下座しろ」というような言葉の暴力も含めて、医者・看護師に対する暴力に起因する退職というのは、まだ日本では統計に現れていません。しかし、イギリスの状況に、日本も近づいているかもしれません。
 人手不足は、患者と医療専門家、医師との関係を壊す要因につながりますから、その面からも医療崩壊につながる要素になります。

【本田】 最近も、救急疾患で入院してきた患者さんの家族から、なんでもっと早く発見し、治療しなかったのか、医療ミスではないか、と言われたこともありました。二八年間、外科医をやっている私でも、非常に嫌な思いをすることがありますから、まして若手の医師、看護師には、本当に影響は大きいのです。
 中には医療費が不払いになるケースもあります。医療機関としては、裁判という手段をとらざるを得ない場合もあるでしょうが、患者家族との訴訟はそれでなくても忙しい現場で新たにストレスを発生させるもので、できるだけやりたくはありません。そのための第三者機関を設ける制度も必要だと思いますから、何とか整備してほしいものです。

【日野】 〇六年三月、福島県で女性が、不幸にも出産時に死亡した医療事故で、執刀した医師が業務上過失致死と医師法違反容疑で逮捕、起訴されました。医療トラブルの事後ルールとしては、医師個人が悪意でやったことでなければ、医師が逮捕されないことが必要です。また被害にあった患者さんを救済のための公的制度を整備することです。
 スウェーデンには「信頼促進委員会」がおかれていますが、患者側と医療従事者の信頼を促進するスタンスで、事実の解明と責任の所在を判定し、医療側の悪質な過誤には懲戒を勧告する、公的な第三者機関です。医療従事者個人を叩くのではなく、患者との共通理解を広げていくシステムづくりを日本でも急ぐ必要があるでしょう。
 
 日本の医師不足はいかにつくられたか
 「医療費亡国論」・医療行政の責任

 ――勤務医の現場、医療の現場の問題が、浮き彫りになってきました。その根底にあるのが医師不足です。では今日の医師不足という事態がなぜ起こってきたのか、その原因についてどうでしょうか。
 
●「医療亡国論」による医師数抑制政策

【本田】 私は、日本の医師不足の理由を、政府の経済優先政策の結果だと考えています。
 戦後、一九六一年に国民皆保険制度が実現しますが、社会保障費は一貫して抑制されてきました。医師数について目標とされたのは、一九六九年に出された自民党の医療基本問題調査会「国民医療対策大綱」の中で、「必要最低限の医師数を八五年頃までに養成し、人口一〇万人当たり一五〇人」としました。ここにも初めから、医者は「必要最低限」の数でいいと書いてあるのです。
 その後の日本の医師数の推移グラフ(図1参照)を見ると、一九七三年に「医科大学構想」が始まり、医師数が増員し始めます。そしてこの人口一〇万当たり一五〇人が達成されつつあった。一九八三年、当時の厚生省保険局長、吉村仁氏による「医療費をめぐる情勢と対応に関する私の考え方」という論文が発表されました(『社会保険旬報』掲載)。そこでは、このまま租税・社会保障負担が増大すれば、日本の経済発展の妨げになる、という「医療費亡国論」を展開しています。
 加えて、医療技術をいくら発展させても限界があり、予防が重要だという「医療費効率逓減論」や、将来、日本の医療体制は過剰になるという論も述べられています。つまり、今日の生活習慣病対策など、厚労省の医療政策の枠組みがこの中に含まれて、それ以来、日本の医師数を減らしていく方向へ転換が始められました。
 一九八三年、日本の人口当たり医師数が一五〇人を超えましたが、その同時期のOECDの医師数平均の伸びでは、すでに二二〇人ほどになっています。つまりいかに日本の行政が、世界の趨勢を見ずに、自分たちの頭の中で決めた目標のみに医師数を抑制しようとしていたことに、本当に唖然としました。
そして、それ以降も、日本の医療行政は、世界の動向を見ていないわけです。というのは、一九九八年まで一貫して、医師数は抑制する政策を、閣議決定までして実行してきたのです。
 この歴史が、今の医師不足の直接的な原因をつくっているわけです。しかも現在でも、私が世界の水準から医師数がこんなに少ないと話すと、日本は世界と違う、OECD水準と比べても仕方がないと真面目にいう人がいます。これだけ世界を無視した立場はないわけで、少なくても、世界の医療の趨勢、動きをきちんと踏まえた上で、発言すべきでしょう。

●先に「閣議決定」ありきの数字合わせ

【日野】 本田さんが言われたように、出発点は、一九六九年、人口一〇万人当たりの医師数一五〇を目標と決めたことです。
そして一九八二年の行革「臨調」の基本答申を受けて、閣議決定した「行革大綱」において、「将来の供給過剰を防ぐ」と医師数抑制を決定しました。医師数に応じて医療費は増加する、というこじつけの理屈で、文科省の大学設置基準でも医学部の定員増を認めていまぜん。
 その翌年八三年に、本田さんが言われた吉村局長による「医療費亡国論」論文が出されます。つまり、これは閣議決定の忠実な実行なのです。私は当時、国立公衆衛生院にいたのですが、この医師抑制政策に対し反対の論陣を張りました。たとえば一九八三年、真正面から「『医療費亡国論』を斬る」という論文を書き、その後、本にもしています。これに対し、当時、厚生省側から、私への直接の圧力もありました。

【本田】 そうでしたか。その話は初めてお聞きました。吉村氏の「医療費亡国論」の前年、一九八二年に閣議決定があったのですね。

【日野】 そしてやはり閣議決定を受けてつくられた「将来の医師需給に関する検討委員会」(一九八四年)が、八六年に最終意見を出します。それによると二〇二五年に医師過剰になるので、当面、一九九五年までに「医師の新規参入を最小限一〇%程度削減」することが書き込まれました。その結果、一九八七年から医学部定数の削減が始まり、それは現在まで続いています。
 こうした日本の医師数抑制、医師養成数削減へ向かった理由は、八二年の医師数削減の閣議決定のように、基本的には医療費を抑えるために医者を増やさないという議論でしたから、医療費抑制策が先に立っています。
 抑制がまだ足りないということで、一九九三年、「医師需給の見直し等に関する検討委員会」を設け、医師数を増やさないためのあの手この手を盛り込んだ報告書が出されました。
一九九七年には、橋本内閣で「医学部定数の削減に取り組む」という閣議決定がもう一回あります。
 そして小泉内閣において〇五年二月から「医師の需給に関する検討会」の議論があり、〇六年七月の「報告書」では、二〇二二年に需給は均衡し、それから先のことは不確実だとしつつも、二〇二五年から二〇三〇年には、医師数が過剰になるという予測をしています。おかしいと思うのは、この二〇二五年というのは、奇しくも二〇年前、一九八六年の報告書で医師過剰になると予測したのと同じ年になっているのです。 医療の現場がめざましく変わって、医師の仕事量はべらぼうに増えているのに、二〇年前と予測が一致するというのは、大変奇妙な結論です。
 しかも何で二〇二五年に過剰になるといっても、この医師数は一〇万人当たりで二六九人と推計しています。OECDの現在の平均三一〇人より低い水準で「過剰」なると言っても、まったく根拠はないものです。

【本田】 実情に即した正確なデータで議論してもらわないと、印象の数字で後二〇年したら医師が余る、という話をするのは本当に許せない話です。医療の現場を、本当に無視して検討しているとしか思えません。

【日野】 〇六年七月の「医師の需給に関する検討会」報告書では、もっと外来に患者を回して、入院の患者を減らせばいい、あるいはベッド数をもっと減らせばベッド当たりの医師数が改善する、というようなことを書いています。結局、閣議決定の「二〇二五年に過剰になる」という結論先にありきで、数字合わせの話なのです。

●「富国強経」、医療後まわしを続けるのか

【本田】 私は現在の医師不足の問題で、日本の医療の歴史を調べているうちに、興味深いことに気付きました。明治時代から、日本の政府は、先進国に追いつけ追い越せで、「富国強兵」策をとり、戦後はそれが「富国強経」、つまり経済優先になりました。ですから、日本の医療史をひもとくと、いつも国の経済が優先で、医療は常に後回しにされてきた、という歴史をみることができます。
 明治の当初につくられた公立病院は、西南戦争の赤字、その他でつぶされました。ベネディクトの『菊と刀』を読んで私が衝撃的だったのは、戦争中も、日本軍ぐらい医療を粗末にした国はなかったそうですね。世界の軍隊では、敗色が濃くなると、負傷兵は先に引き上げ、厚い治療をするのが常識ですけれど、日本の軍隊ではいよいよ最後になると手榴弾を渡して自決させ、主治医が銃殺するという話もあります。ここには兵士、国民の命をいかに軽んじてきた国か、という事実に驚かざるを得ないのです。

【日野】 今言われた歴史で、戦前は「富国強兵」、あわせて「殖産興業」も掲げられていましたから、明治以降、要は軍事、経済優先の国づくりだったと思います。しかも経済優先といっても、常にアメリカの要求が上に立つ、ゆがんだ形で、社会保障、医療への優先順位は常に下にされてきた歴史があります。
 イギリスの医療制度であるNHS(ナショナル・ヘルス・サービス)では、法律上、医師の養成も国が責任を負うことは明確にされています。
日本の近代史をふりかえると、中央政府が国の公的医療制度を中心に整備をしようとした時期が、二回あります。一回目は、明治の初め、自由民権運動の盛んな時期です。当時、コレラの猛威に対し、松本県(現長野県)が教育、予防を徹底して、ついに患者を出さなかった。これに学んだ時の内務省衛生局長・長与専斎が、これからは医療行政も公的な病院中心に、自治の原則で取り組みを始めたのです。しかしそれもわずかな時期で、一八八一(明治一四)年の政変で終わってしまいます。
 もう一つは、戦後まもなく、アメリカの社会保障調査団が、少なくとも病院は公立を中心に整備するという答申を出しました。それで一九五〇年、社会保障制度審議会の『五〇年勧告』に盛り込まれますが、朝鮮戦争が起こり、病院をつくる国の金はないと、立ち消えになるのです。
 結局、歴史上二回とも「富国強兵」で、医療がつぶされました。
そういう歴史上、二回の公的医療整備の機会を生かせず、結局、民間任せになる。それは、医療体制の最終的な責任を、民間の医療法人に押し付けることです。あるいは医師養成数にしても、医学部進学は個人の自由だと言いながら、医学生数を厚労省、文部省でコントロールする。財源は出さずに、コントロールだけはしっかりやるシステムなのです。
 
●国が医師数を規制している国は少ない

【本田】 今の明治期に公的医療をつぶしたのは、松方財政(※)の時で、西南戦争(一八七七年)のための支出増が響いたと聞いています。日本の政府は、経済的な「富国」優先で、医療はないがしろに考えているのだと、つくづく感じますね。
 ※一八八一年一〇月、松方正義が大蔵卿に就任。増税と緊財政を併し、「松方財政」と呼ばれる。

 最近、『二〇〇三―〇五年 図解で見るOECD』という統計を見ました。世界的に医療サービスの量の少なさが問題になっている国として、日本、カナダ、ニュージーランドが上げられ、OECDでも政府が医師数を制限する政策をとっている国は少ないのです。もし今後も日本政府が医師数を抑制する、医学部定員を減らすのであれば、今申し上げたように、本当に必要な医師数をきちんと計算して、安全な医療体制を整え、医師に「立ち去り型サボタージュ」をさせないような環境を整える責任が国にはあるのです。国が医師数を規制していないなら、まだその責任は軽いでしょうが、医師数を削減して、医療環境を悪くしている、政府の責任は本当に重大なのです。
 そういう点で、私は話す先々で、日本政府は国民のことを考えていないということを、国民の側は肝に銘じて運動に取り組むべきだと強調しているのです。ですから一番の要は、明治以来の「富国強兵」「富国強経」、医療後回しの国の成り立ちを変えることです。要は、日本国民がその覚悟をできるか、だと思います。黙っていても「お上」がちゃんとやってくれる、と思ってはならない。この「お上の国家」の価値観を転換することは、日本に本当の民主主義をつくることだと思います。

【日野】 一九八一年七月に、第二次臨時行政調査会の第一次答申の中で、医療や福祉を削る方針が出ますが、当時の日経連の大槻文平会長がなんと言ったか。「この答申が福祉切捨てだという人もいるが、私はもっと減らすべきだと思う」「福祉を減らすことによって、日本人はもっと働くようになる」という見解を出したのです。日本の財界代表の本音、資本家の本音が出ていると思います。

【本田】 先ほど、日野さんが言われました、医療技術が発展するほど、人間の手がかかる、人はむしろ増えるというのは、私たち現場にいる者には当たり前なんです。それを政府、官僚からすると、何か機械を取り替えるような話をしていると思うのです。コンビニのようにバーコードで作業するのとは訳が違う。医療は機械で手術できません。それが理解されていないのです。
 日本の国民医療費は、国際的にみてかなり低く抑えられているのですが、個人の自己負担でいうと、世界最高になっているのですね。だから日本国民のみなさんは、最高の自己負担を強いられながら、世界の平均からすると、からかなり低い医療サービスしか受けていないのです。

【日野】 日本の財界トップの人たちはよく、日本はグローバル・スタンダードで世界で勝負するんだ、と言いますが、だったら、医療でも医師数でも国際水準で恥ずかしくない水準にしてほしい。トップにとは言わないが、せめて先進国の平均は確保してほしい。医療費でもGDP対比で九・五%から一〇%は出す必要があるのです。

【本田】 私は一一%は必要だと言っています。なぜなら現在の日本は世界一の高齢化社会であり、医療が世界一必要な時代だからです。本当に一番必要な時代に、医療費を削っているから、三重苦、四重苦ですよね。
 現場で苦闘する医師からすると、今後、医師が増えて、若手の医師が来るかもしれないと言われると大きな気持ちの支えになります。ところが、今後も医師は増やさない、と言われてしまうと、現場では将来に対する夢も希望もなくなります。
私の同僚の女医さんも言ってましたが、もう一年経てば、若手が来るかもしれない、という状況と、もうこの先、現場はずっとこのままなんだな、というのでは、受け止め方は一八〇度変わってきます。そのためにも、日本の勤務医が少しでも精神的に楽になる、希望が持てる施策をやるという方針を、一刻も早く政府には打ち出してもらいたいですね。

●医師間の協調とマスコミの論調

【本田】 もう一つ、「医師不足」というと、いろいろな段階の問題が含まれていて、私は最近、急性期病院の「勤務医」が不足している、という言い方をしています。いかにしたら、勤務医を辞めずに、希望をもって働けるか、という点が、今後の医療を考える上でポイントです。
 残念ながら医療団体でも、たとえば医師会も同じ医療費というパイを取り合う医者の数は増えない方がいい、という立場をとった時代もあると聞いています。 だから私が最近、気をつけていることは、「医師不足」を強調して、勤務医、開業医含めた、医者の中で不用な対立が生れることは避けたいと思うのです。明確に、日本の急性期医療を支える勤務医不足、と言う点を主張していくことが、国民の方々にも分かりやすいし、重要になっていると考えています。

【日野】 実は、今の点は、かなり根が深い問題があります。一九八二年の閣議決定以降、医師数抑制を決めて、国の諸施策が展開されたのですが、先ほども指摘した八六年の「医師の養成を一〇%削減する」という結論を受けて同年、文部省の医師養成協力者会議が医学部定員の削減を決めました。
 このときに日本医師会では、もっと積極的に減らせという意見を出しています。歯科医師会も国民の中から、歯科医師を減らしてはいけない、という意見を出るのを恐れる、という見解です。つまり、パイの取り分を小さくしたくない、という立場からの表明だったと考えます。
 もう一つ、マスコミはどういう見解だったか。八六年の医師養成削減の結論に対し、「朝日新聞」は、「最終意見に賛成する」し、「医師がむやみに増えれば、国民医療費が増大し、健康保険制度がパンクする恐れがある」と言いました(八六年六月二五日社説)。「毎日新聞」も同様で、医師数の削減を支持しました。この見解が今日までは、これだけ医療問題が深刻化しても、払拭されていません。この影響の大きさを考えると、指摘しておかなければなりません。
八七年から約二〇年で、約一〇〇〇人の医学部定員の削減が続いてきました。それがなければ、これまでに一万数千人もの医師が補充できていたのです。これは明白に政府の誤り、「失政」です。こうした「失政」、誤った見解に対して、政府もマスコミも、未だ反省がないということを指摘しておきます。

【本田】 私が出演したNHK番組「日本の、これから 医療に安心できますか?」(〇六年一〇月一四日放送)で、私たちの発言に対し、出席者の一人、医師会の唐沢会長が日本の医師数は足りないと認める発言をされて、私は医師会が初めて医師の絶対数不足の事実を認めてくれたと喜んでいました。

【日野】 今、私は研究者の立場として、過去の問題にさかのぼって指摘したわけですが、現在の局面では、医師を増やすため一致する共同を広げることが重要です。
 そういう点では、〇六年八月三一日、政府の「医師確保総合対策」で、医学部定数を一一〇人、一〇県と自治医科大学で増やすという方針が出されました。これは八二年の閣議決定以来、二四年経って、医学部定員削減の方針転換となります。これは、大変評価すべき変化です。状況をみて、全国一〇県だけは、医師を増やしてもいいとしましたが、うち六県がもっとも医師不足が深刻な東北・新潟に集中しています。
この転換の一番の力は、現場の勤務医、地域、自治体の強い声が反映した結果だと思います。やはり医療がなくなるという現実に直面して、自治体の議員、首長さん、地域住民が、立場の違いを越えて、要望が一致する状況が広がった。それが、四半世紀ぶりに政府の態度を変えさせたのです。
 
 事実を知れば国民は変わる
 医療を守る「地域丸ごと」の運動に
 
 ――そこで最後に、今後の運動を広げていく上で、お考えを聞かせてください。

●勤労医、開業医の共同は可能

【本田】 私は勤務医不足の問題を訴える活動を、八年間ぐらい続けてきました。どうしたら日本の医療がよくなるのか。先ほどの明治以来の歴史も振り返って考えてきたのです。
 基本的に、今、私が考えるのは、医療現場の現実をいかに国民の方々に、知ってもらうか、情報開示です。先ほど、医師の「偏在」という言い方は、日本軍の「転進」と同じと表現しましたが、国民が真実を知らないと、正確な判断、世論はつくられないと思います。
 私はあるとき、国の行政上部の方と話して、医療制度をよくするために、国民が真実を知り、よりよい選択をしてもらうためにやっています、といったら、その方はこう言いました。「国民や政治家に正しい判断ができると思いますか」と。
私は、やっぱりそうか、と思いましたが、すかさずこう反論しました。「国民や政治家が、正しい判断をするには正しい情報を提供しないとできないじゃないですか。それでは戦前と同じになってしまうのではないですか」。
 とにかく大事なことは、日本の医療現場が、普通に国民のみなさんが考えているのとは違って、医師が足りない、世界の水準と比べると実はお金もかかっていない、このことを生の声で伝えていくことが大事だと思っています。
 私なりにその活動を続けてきていますが、大手の新聞社、テレビ作成者も、きちんとデータを示して説明をするとわかってくれます。もちろん、それがすぐ紙面、テレビ番組に出るかどうかは別ですが、分からないと言う人はいませんでした。
 医療側の人間が、実態を伝える努力、説明責任を果たさずに、医療を悪くしたのはメディアなんだよと批判する人がいますが、それだけでは建設的な対応とは思えません。
 あえてそう言うのは、私たち勤務医と、開業医のみなさんの間にも、医者同士、お互いを理解できていないことがあります。勤務医の側では、開業医の方が収入が多いと漠然と思っていたり、開業医のみなさんは、勤務医の方が仕事は楽だと誤解されている状況が少なからずあるのです。ですから、医療現場の説明責任というのは、国民、マスコミに対する責任だけでなく、医師、医療関係者の中での相互理解を強める、ための条件づくりでもあるのです。
 もう一つは、そうした私たちの説明責任を果たせば、国民の側で、医療現場の実状に共感して、いっしょに活動する人が増えてくると思います。
 その点で、外国の運動の例で私が大変、刺激されたのは、ニュージーランド、ドイツなどでは、勤務医が職場条件の改善を求めてストライキを行っているそうです。その際のポイントは、急性期疾患、救急外来だけは普通に診療しつつ、ストを行う。そこでも、「私たちは国民に対する医療、福祉、教育を充実したい。その主張のため医療現場から運動している」という説明責任をしっかり果たしながら取り組む。日本でもぜひ、そういう運動をやっていきたい。
 近頃、茨城県の医師会の講演会で、私がそのストの話をしましたら、会場からうれしい一言をいただきました。一人の開業医の方が、「先生、勤務医のみなさんがストライキをしている間、私たちが患者さんを引き受けて、協力しますから」と。そのように、私たち勤務医と、医師会のかかりつけ医のみなさんが共同歩調をとることは可能だと思っています。
 というのは医療費抑制のもとで、医療現場に身を置く誰もが苦しんでいるのです。医者同士が、敵対する理由はどこにもない。私たち勤務医が仕事をする上でも、日常的に患者さんを診ている地域の開業医の方の存在は、絶対必要です。開業医の方にとっても、急性期医療の場合は、勤務医の存在がなくてはならないと思います。あくまでも国民の命の安全を保障する仲間として、医療者がともに協調する。そのためにも、現場の人間が説明責任をあきらめず果たしていく。この点をしっかり取り組んで行くべきだと考えます。

●「地域丸ごと」で本気で取り組む

【日野】 今、本田さんは、事実から出発して、自分たちの置かれている条件を、立場や、お互いの利害が対立すると思わされている人たちにも、広く伝える活動の大切さを強調されました。それは運動の基礎になるものです。その提起を前提として、私は、「地域」をキーワードにして、これからの取り組みを考えてみたいと思います。
 本田さんも、様々なところで、日本の医療が現在、崩壊しかかっているという警鐘を鳴らしておられます。この問題を地域のレベルで考えると、まず医師不足、そこから病院、診療所の診療科目が閉鎖される事態が起きています。その場合、運動の出発点は個別の利害だと思います。 まず自分が困る、子どもが困る、地域の人たちが困る。現在、市町村合併で自治体が大きくなって、旧行政区、地域ごとに、利害が異なってきます。ですから自らの実状を広く説明して、理解を得る活動は、地域間のレベルでも重要になっています。
 私も、最近、いろいろな地域の医療問題での住民集会、懇談会などに出向いてきました。自治体の首長さんも出てきて、医療、健康の問題を、初めて身近に考えた、という声も出されています。会場の隅っこに座っていた、赤ちゃんを抱えたお母さんが、このままでは地域で子育て、出産ができなくなると訴える。そちらの地域ではそんな問題があるのかと、話し合う中、まずお互いを知り合うことなしには、地域間の協調はできません。
 同じことが医療法人間の相互理解にも言えます。公立病院、開業医の方々、農村部では厚生連の病院の関係者、また都市部ではいろいろな設立主体ごとの病院があります。済生会、日赤、生協の病院もある。そういう多くの様々な病院が、その地域の医療を守るために、大きな舞台として、「地域丸ごと」で守って行こうという運動が求められていると思います。そこでは自治体のスタッフ、保健師も含まれます。
 それは「地域丸ごと」で取り組まないと、地域の医療は守れない、という認識の現れでもあります。ここで自治体の首長さん先頭に、本気で取り組むかどうか、にかかっていると思います。
 最近、私も各地を回って感じることですが、本気に取り組み出している市長さんが、増えてきています。北東北が多いのですが、宮古市、陸前高田市はじめ、保守も革新も、立場はいろいろでも、地方自治の主眼は、そこに住む人の安心、安全です。その大きな柱の一つが医療ですから、「地域丸ごと」取り組もうというのが、重要なスローガンになる可能性は大きいと考えています。
 もう一つは、国際的視野で運動を取り組もうということです。もし日本が国連で常任理事国入りをめざすというのなら、都合がいいところだけ、世界の話を持ち出したり、日本独自の「スタンダード」を掲げても通用しません。

●「四苦」に真面目に応える「品格」を

【本田】 それと、私が経済界の方々に考えていただきたいのは、「新自由主義」で、「Winner - take - all. 勝者ひとり占め」というやり方で、本当に国民は幸せになれますか、という点です。〇六年九月に、イギリスで発表された「世界幸福地図」では、日本は何と九〇位です。
 今、健康に恵まれている方には、医療の必要はそう切実ではないかもしれません。ただし、いつ自分が医療を必要とするか、自分の子どもや孫が、いつでも健康に恵まれているか、誰も分かりません。もしかしたら、難病や身体障害をもつかもしれませんね。その時に急に、医療を整備しようとしても間に合いません。国が医療、福祉、教育をきちんと整備しないと、日本の資本主義経済の発展もないのではないか。

【日野】 これは医療理論の出発点ですが、医療需要と言うのは、一般の商品とは違って、支払能力とは無関係に発生します。個人の懐具合とは関係なく、医療の出費が起こるものだから、これは個人任せにはできない性格のものです。これは医療の本質からしてそうです。
 ですから最初は、最初は自分たちで共済制度をつくってやっていたが、それも限界がある。それで社会保険制度が一九世紀にできました。いずれにしても医療費は社会的必要経費であるという考え方です。その必要経費が、個別の経営者の目から見ると、無駄に見えるけれど、社会全体で見れば決してそうではありません。労働者全体の健康、家族の健康が守られれば、生産性も社会全体として引き上げられるわけです。そこを見ないで、目の前の経営面だけで、医療、社会保障を無駄扱いすることは、企業の社会的責任を放棄する議論だと、付け加えておきたいと思います。
 その社会的必要経費としての社会保障費の中で、一番の核となるのは「社会的扶養費」の部分です。 これが日本では減らされている。一九八〇年代から始まった、この社会保障費抑制の路線の矛盾が、いよいよ沸騰点に近づいていると感じます。

【本田】 藤原正彦さんの『国家の品格』が話題になりましたが、この医療費の問題は、「国民の品格」の問題だと私は思います。二五〇〇年前に、お釈迦様が「四苦八苦」と呼んだうちの「四苦」の”生・老・病・死”は、いかにしても人間は避けることができないものです。この人間の苦しみに真面目に対応しないのは、国民としての品格が貧しいことです。経済で世界のトップをめざす国だというなら、そうした国民の品格として医療もとらえるべきだと思います。


●国民の声が政治を動かす

【日野】 それには本田さんの言うとおり、知らせることです。知れば、世界的に見て、日本のレベルがこんなに低いのか、みんなびっくりする。
 もう一つは、やはり、運動が大事だという点です。本田さんからストライキの話も出ましたが、非常に積極的な提起がありました。世の中を動かすためには、社会的な運動が基本です。この点は厚生省の大臣、局長経験者OBの回顧をまとめた本にも出てきます。『戦後医療保障の証言』(小山路男編、一九八五年、総合労働研究所)という本です。
 そこに登場する、たとえば古井喜実氏(池田内閣の厚生大臣)は、小児マヒ対策でソ連から生ワクチンを緊急輸入(一九六〇年)したのは、赤ちゃんを背負ったお母さんたちが、毎日毎日、厚生省の中庭まで入ってきて、薬務局長を呼び出し訴えた。同じように日本中で巻き起こったお母さんたちの「騒ぎ」に押されて、ワクチン導入を決めたと述懐しています。
 この本には、こういう話が戦後を通して、何回も実名で語られています。BCG(結核感染予防の接種)の注射針跡が大きく残るので、あれだけ騒がれたので、器具を変えたという証言もあります。したがって声が起こらなければ、何も変わらなかったわけです。運動が一見、力をもたないようだが、実は霞が関の官僚を動かすということが、歴史的事実で証明されているのです。

【本田】 そうですね。やっぱり、黙っていたらダメなんです。その話は、私の活動への応援にもなります。

【日野】 運動のことで言えば、先ほど触れた、一九八二年以来、四半世紀経って、今回初めて医学部定員削減を曲がりなりにも修正した。そこにも「地域丸ごと」の運動が力をもつことが、すでに現れたのだと考えられます。
 今、大変厳しい状況が生れているだけに、それらの運動が実を結ぶ条件が大きくなっていると言えるのではないでしょうか。

【本田】 私も、ピンチがチャンスだと思っています。国民の方々も、医者にちゃんとやってくれ、と言えば何とか自分の命は助かる、という状況ではなくなっていることに気付いてもらえば、大きく事態は変わると思います。

 ――お忙しいなか、ありがとうございました。



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医療費の行方

たとえば、病気ではない正常分娩について見てみると、
従来の30万円程度からここ数年で50万円近くにまで上昇、
港区の援助は50万円までになっている。
しかし全体で70から80万円はかかるようだ。
自己負担分が30万円程度。
地方に行けばまだ全体で30万円程度でかなりゆとりを持って出産できる。

医療費全体もこのような方向をたどるのではないかと思う。
アメリカでは正常分娩300万円という体験談を聞いた。

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十和田湖の白鳥、強毒性の鳥インフル

十和田湖の白鳥、強毒性の鳥インフルと判明
 秋田県小坂町の十和田湖畔で見つかったオオハクチョウの死骸(しがい)などから検出された鳥インフルエンザウイルスは、独立行政法人・動物衛生研究所(茨城県つくば市)の検査で29日、鶏に感染すると致死率が高い強毒性のH5N1型とわかった。

 同型の野鳥への感染は、昨年1月に熊本県で衰弱死したクマタカ以来で3件目。渡り鳥では初めて。環境省は周辺で野鳥のフンを採取するなど感染の広がりがないかを調べている。

 湖畔で21日、オオハクチョウ3羽の死骸と衰弱した1羽が発見され、検出されたウイルスを同研究所が鶏8羽に接種したところ24時間以内に7羽が死んだ。

 鶏への感染や野鳥の大量死は確認されておらず、秋田県は感染が広がらないとみている。東北・北海道のオオハクチョウの多くはシベリアなどに北上している。

 現場から30キロ以内では、比内地鶏農家14軒など秋田、青森、岩手3県の養鶏・採卵業者56軒が243万羽を飼育している。3県は鶏の変死がないかや防鳥ネットなど防護策に不備がないかの調査をしている。通常は人に感染しないが、環境省は野鳥の死骸などに触れないよう呼びかけている。

 H5N1型は韓国で流行しているが、関連は不明だ。04年には京都、大阪両府でハシブトガラスの死骸から検出された。養鶏場でも同年に山口、大分、京都の3府県で、07年には岡山、宮崎両県で感染が確認された。

(2008年4月29日17時37分  読売新聞)

*****
ちょうど比内地鶏のあたりらしい。



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日本で企業におけるパッケージソフト利用率が低い理由

アメリカでよく売れている企業におけるパッケージソフト
を日本でも販売しようとするとうまく行かない。

日本では経営者が代わっても、現場はそれほど変わらないことが多い。
そのために企業独自のやり方が固定される。
パッケージソフトに現場のやり方を合わせるということも慣れていない。
主には、「今までそうしてきたから」という理由だけで、従来のやり方が優先されてしまう。

部長が変わっても、社長が変わっても、現場は関係ないのである。

そして、その現状に合ったソフトを要求する。
アメリカのパッケージソフトなど、もちろん使うはずがない。

*****
アメリカでは、
いくつかあるパッケージソフトの中から、ベストなものを選び、
情報システムを変え、経営システムも変える。
その流れで、従業員にも変わってもらう。
変わらない人には退職してもらう。

そのようにして会社は一挙に変わり、
最新のビジネススタイルになる。

*****
経験では、日本の古い職場は、
現場の専門職とか経験の長い人の力は絶大で、
新しいパッケージソフトどころの話ではないのだ。

情報システムを変えることは
こうした古い人たちを根こそぎ一掃する手段に使えるだろう。
そのために導入するのだと聞いたこともある。

ちょんまげを切り落とすようなものなのだ。

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お医者さんが飛行機で寝た振りをしているようなもの

お医者さんのかなりの部分は偏差値秀才であることはたしかで、
国家公務員Ⅰ種合格の霞ヶ関のお役人とか、
司法試験合格の弁護士、検事、弁護士とかにはかなり遠く及ばないものの、
世間でいえばすこしはいい資格だと思う。

国民がお医者さんにうまく働いてもらえば、だいぶ助かるだろうと思う。
命を預けるのだから大切だ。

この層が、せっかく6年もかけて教育して、そのあと全然別な仕事に就いたりしているのは
税金の使い方の点でももったいない。

知り合いでも、医師の資格があっても、家業を継いで経営に当たっている人もあるし、
女性は家庭に入っている人もある。

このままで行くと、飛行機の中で「お医者さんはいませんか」と呼びかけられて、
しかしいろいろ面倒なので寝たふりをしているのと似た状況になり、
誰にとっても、悲しいことだと思う。

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翻訳事情

翻訳業界は出版不況に加え
主婦翻訳家の大量発生で
専業者は困っているらしい

たしかによほどの専門ものでない限り
しばらくアメリカでも暮した頭のいい女性なら
男性よりもうまく日本語にできるだろうと思う

主婦をしていて退屈で絵本とか料理本とか
ガーデニングとかいろいろ見ているうちに
翻訳もしたくなり
翻訳家が下訳として使い
訳者としては翻訳専門の人がまた別のペンネームで出したりなどしている

するとどんどん安くあがるわけで
下訳する人としてはこれで実績を積んで次の翻訳したいものにとりかかり
いつかハリーポッターのようなものをと思うし
名前貸しの訳者はローンがやっと払えるし
出版社は経費を節約できる

しかし致命傷は売れないことだ
図書館で済ませる人が多くなり
そもそもネットでほとんど用が済む

実際翻訳する人もネットで調べながら翻訳しているので
大きなことは言えないわけだが
困ったものだ

いっそのことネット小説みたいに
ネット翻訳を仕事にすればいいと思うが
儲けにはならないらしい

自動翻訳もどんどん賢くなっている様子だ

最近の売れ筋はひとつはロマンス系
もうひとつはビジネス系
とのこと

どちらかで生活を立てなければ
難しいらしい
一番困るのはただ同然で働いてしまう主婦さんなのだというのも
分かるような気もする

日経の書籍広告には
一年中「とっておきの成功の秘訣」とか「仕事術」「整理術」系のものが溢れかえっていて、
これでは売れないし、さすがに飽きられるだろうと思う。
新入社員は買ってみるだろうがあとはくり返しだと飽きられるだろう。

もちろん一番売れているビジネス書は「エクセル」関係のもので
どこの家にも会社にもころがっているだろう。
バージョンアップすれば少しは売れる。

本の作りがいいのに比較して安く出ているのは
部数が出ているからだろう

ソニー本社あたりの本屋さんではコンピュータ関係の書籍がまことに充実。
見ていて飽きない。

最近は英語ができるのは基本で、
英語を使って会計をしたり法律を運用したりしないと儲からないらしい
まことに忙しい世の中になった

それもコンピュータとMSのWindowsとWord,Excelのせいで
新自由主義とグローバリズムのせいだという

NEC+一太郎の頃はこんなに忙しくなかったし儲けがあったという
日本人が日本人を説得して売っていればよかった
日本語を扱うならATOKとか
そのような閉じた社会のほうが翻訳に価値があった

いまは翻訳で初めてチェックしているようではお金を支払う側で
儲ける側ではないらしい

医学の世界も翻訳は早く正確になっている
NEJMの最新号の翻訳がメールで届く
ただで配信されているように思うが結局わたしたちの汗で支払っているのだ

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Financial Times / How to spend it

大判の雑誌
切り取って保存するにはA4ワイドが必要

大量に腕時計のコマーシャルが載っている
april 5 2008

それにしても 雑誌のタイトルがいい
さらに一言付け加えて

How to spend it all at once

としたい

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すごい人



この人、すごいな。

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食事バランスガイド

http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/pdf/eiyou-syokuji9.pdf

こんなきれいなページがあるので
あてはめてチッェクしてみる

一日の活動量……とても低い

  主食 主菜 副菜 牛乳 果物
朝 0   0   0   0   0
昼 1   1   0   0   0
夕 2   0   0   1   0
計 3   1   0   1   0

全然だめだけれど
当面、生きているようだ。
具体的には昼、ご飯と納豆。夜、パスタ(ペペロンチーネ)と牛乳。
野菜と果物は面倒だし買っても腐るので食べない。

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ダライラマとキムジョンイル

中国が産んだ
双子である



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精神科医による鑑定は尊重されるべきだが判断は司法の権能である

精神科医による鑑定は尊重されるべきだが判断は司法の権能である
というものでそれは結構至極であるが
さすればいかなる精神病理学が構成されているのか
自らが精神鑑定されないように無矛盾の体系を慎重に述べよ

下手をすると
中国と同じだ

下級審だから世間の風に阿ったと診る
厳密な法的判断は上級審でしてくれと言っているかのようだ
司法も窮地である。

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フェロモンと偽フェロモン

8丁目で
フェロモンにクラクラ
と思ったらXYだった
驚いた
フェロモン感じちっゃた

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黒髪が背中を飾るのか

黒髪が背中を飾るのか
背中が黒髪を飾るのか
椎骨の隆起と窪みの陰影

やや振り向いて
含むように笑い
ゴールデンウィークの始まりを告げている

汝が黒髪よ
触れれば重きその愛よ

はじらいも
誘惑も
ここに実在する
わたしはここで離人から解放されるのだ
存在そのものに触れるのだ

湿りつつ重みを増してゆく
それは汗
それはフェロモン

皮膚の下に静脈
その下に解剖学が透けて見える

汝が眼差しは
たっぷりとして
この宇宙の謎を忘れさせる

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馥郁と香るは黒髪

馥郁と香るは汝(な)が黒髪
深く吸いて酔う

手に取りて慈しみ
人形のごと愛したり

丸き頭蓋をいとおしむ
鎖骨のくぼみをいつくしむ

後ろから脇の窪みを恋したり

黒髪は我を包み
遥か遠くに誘えり



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小沢一郎氏は国民の「生活が第一」

民主党の小沢一郎代表の28日の記者会見での発言(要旨)

 【衆院山口2区補選勝利】補選は、年金、医療、ガソリン、道路特別会計などで国民生活を無視した自公政権への国民の反発と不信が大きいことを示した。国民の福田内閣への不信の意思表示だ。国民から問責を福田康夫首相が受けた。自公政治への不信と批判は、保守王国、自民党王国といわれた山口県でも変わらなかった。

 【解散総選挙】補選で主権者の(政権批判の)意思は明確になった。与党は、堂々と総選挙をするのが一番の筋道ではないか。「生活が第一」の民主党の主張を一人でも多くの国民に理解してもらうよう徹底する。最終的に衆院選勝利、政権(交代)を目指して地道な活動を続ける。日常活動をきっちりやっていれば負けるはずがない。

 【暫定税率】諸物価高騰の中(衆院再議決での暫定税率復活による)ガソリン再値上げ反対は国民の大方の考え方だ。それを無視する自公党首の決定に国民は失望するだろう。与党が再議決を翻意するよう働きかける。

*****
へそが茶を沸かす。
たとえば
金の延べ棒の金丸信に無欲を説かれるとき。
たとえば
権力闘争に明け暮れる小沢一郎に「生活が第一」と言われるとき。
たとえば
国民を納税する羊としか思っていない小沢一郎に「主権者の意思」と言われるとき。
たとえば
そんな小沢が「勝利宣言」する民主党で、鳩山が気を遣っているのが見えるとき。
たとうば
日本中の誰よりも自民党そのもの的である男が民主党の代表のままで選挙に勝ってテレビに映るとき。
たとえば
新自由主義者に庶民の生活が第一と説教されるとき。
へそ茶だ。

次期総裁の面接試験と称して三候補を呼びつけてテレビカメラの前で笑って見せたのは
小沢一郎だった。

歴史を回顧。

27歳の若さで当選。父が死んで突然一人前の政治家として遇されるというのは、とてもドストエフスキー的・カラマーゾフ的状況。竹下登、金丸信らと共に派内勉強会「創政会」を結成、のちの経世会(竹下派)。第39回衆院選を、自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、勝利した実績から「剛腕」と言われる。経世会会長代行に就任し、名実とともに派閥のNo.2となり、姻戚関係である竹下、金丸と共に「金竹小(こんちくしょう)」と言われる。1991年10月10日、自由民主党総裁選挙の際、派閥として支持する候補者を決定するため、出馬表明していた宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談した(小沢面接)。「金丸、渡部恒三、奥田敬和、羽田孜」vs「小渕恵三、橋本龍太郎、梶山静六、竹下」は小渕が勝利し、小沢は主流派を「守旧派」と、自らを「改革派」と呼び、持論であった政治改革の主張を訴えた。

新生党、新進党、自由党と作っては壊し、動き続ける。次々に変わるパートナー。それは自民党宮沢、海部、渡辺、日本新党細川、民主党鳩山、旧社会党横道、公明党市川雄一。そして最近の大連立構想。「どの女と寝ようといいじゃないか」(1994年、野党連合政権時代に新会派設立への動きを例えて) と来たもんだ。

*****
新自由主義。つまり市場原理主義、競争志向の合理的経済人の人間像。

たとえば、ニートについて。徹底した自助努力を要求した。ニートの親については、「僕は自宅で小鳥を飼っているが、親鳥はヒナが大きくなるまでは一生懸命に世話をするが、一定の時期がくると冷たいほど突き放して巣立ちさせる。ニートの親は動物にも劣るといっても過言ではない」と評し、その責任を激しく糾弾した。
(ニート問題に関する発言)
本人たちは「誰の迷惑にもなっていない」と言うかもしれないが、親の稼ぎで食わしてもらっているうえ、国民全体で支える公共的サービスは享受している。病気でもない働き盛りの若者が、漠然と他人に寄生して生きているなど、とんでもない。(注、国民全体で支える公共的サービスとは、たとえば税金を湯水のように使った『道路』のこと。)
政府は「少子高齢化の進む人口減少社会で、経済の活力を一段と失わせかねない」として、今後、ニートの就職支援に本腰を入れるというが、果たしてそんな次元の話なのか。僕に言わせれば対策は簡単だ。一定の猶予を与えて、親が子供を家から追い出せばいい。無理矢理でも自分の力で人生を生きさせるのだ。追い詰められれば、彼らも必死に考えて行動するはずだ。それでも働きたくないというなら、勝手にすればいい。その代わり、親の世話には一切ならず、他人に迷惑(犯罪も含む)もかけず、公共的サービスも受けないことだ。無人島でも行って自給自足の生活でもすればいい。(注、つまり、税金を払えということだ。)

*****
新自由主義といえば、新自由主義は貧富の差を拡大させるので、その国で1人1票の民主的な選挙を行えば、富裕層を優遇する新自由主義政策を推進する政府は打倒される。この「新自由主義のパラドクス」が急速に進行しているのが中南米で、アルゼンチンのキルチネル政権、チリのバチェレ政権、ブラジルのルラ政権、ウルグアイのバスケス政権、エクアドルのコレア政権、ペルーのガルシア政権などの中道左派ばかりか、ベネズエラ、ニカラグア、ボリビアで反米左派政権が誕生し、米国の覇権を拒否して、新自由主義を基盤とする米国との経済統合に難色を示し、むしろ中国などとの接近を強めていると言われていて、そんなこともあって、チベット問題でも中国は強気だし、フランスとアメリカはイライラしているわけだ。

*****
加藤紘一は見事に評論家になり、小沢一郎は見事にプレイヤーを続けている。プロ野球でさっさとテレビ解説者になった人と、最後の足掻きでメジャーリーグに行った人くらい違う。江川と桑田くらい違う。小沢一郎は俺が日本政治のエースだという自負がある。おかげで国民は大変な目にあっているが。

自民幹事長、「これは民意とは言えない」と発言。この人は安倍さん参議院敗北時並みのことを言っちゃった。もともと選挙の仕切りは古賀さんに取られて頭にきているらしい。「俺なら勝てた」との意味だろう。



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医療の需要は誰が決めているのか

医療の需要は誰が決めているのか。

これは微妙だ。
たとえば精神科では本人が必要ないと思えば通院はしないし薬も飲まない。
一方、コレステロール内科については、年に一回検診があり、血液検査でコレステロールが高いといわれ、薬を飲むように勧められる。
本人に不調の自覚はないし、薬を飲んでも何の違いもない。食事と運動を指導されるが、続くものでもなく、また次の年に同じ指導を受ける。
そのうちコレステロール指導の基準が変更されたりして、あれあれと思ったりする。

患者さんの自己判断はしばしば間違っていて、
その結果、むだに医療費がかかる場合も多い。

腕のいい医者だと必要のない検査も、新米お医者さんは几帳面に、指導書どおりにオーダーする。
評判がいいのは指導書どおりの新米お医者さんで、
やや過剰なくらいのサービスが患者さんには安心感を与える。
患者さんの心を知っていれば、ただ安心させるために検査をすることもあるだろう。

いろいろと難しい。

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民間医療保険

いまテレビでコマーシャルしている1日1万円などの民間医療保険。
民間生保会社に払うお金があるのならば、
本来は健康保険にそのお金を払ってもらい
自己負担分を少なくするのがいいに決まっている。

マスコミは公告を出してもらっているので、
批判的なことはいえないのだろう。

あれだけのコマーシャルを展開するとして、
それも全部加入者が支払って、社員の給料まで出しているのだから、
どう考えても問題だと思うが。

どう考えても悪い男に貢いでいる女というものがあるが、
コマーシャルを繰り返されるうちに洗脳されて、貢いでしまう構造が似ている。

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医療現場のIT化

IT産業は第二の公共事業ともいえる。
電子カルテ、オーダリング、フィルムレスは一見格好いいが、
とんでもない金食い虫だ。
ある病院では政府からの補助金が2億円。IT化を進めた。
医業に従事している者があげた収益がIT産業の食い物にされているともいえる。

病院経営者は費用対効果をもっと真剣に考えれば、
現状でコンピュータ化は無駄な支出かも知れないと思うはずで、
職員を増やしたほうがいいと思う面もある。

老医師にはキーボードが煩わしいし、仕事が増えた。
合理化になっているかどうか、怪しい。

ペンで書ける人がどうしてキーボードをたたく必要があるのだろう。

医療の質が高まっているだろうか。
医療用のソフトは日本語ということもあるが、
医療制度が独特なこともあって、海外の汎用ソフトが使えない。
そこで導入も保守も割高になる。

院外処方の頃は自分でデータベースを作って運用していたし、
レセプトの印刷まで済ませていた。
院内処方にした時に、薬剤点数の計算は無理と思い、
オルカを導入した。
その後は電子カルテとオルカをつなげて使っている。
ペーパーレスであるが、
紹介状は紙だし、診断書も紹介状も印刷するし、
結局役所への書式には手書きで記入していて、
中途半端な具合である。

IT化が進んで患者さんともっと快適に向き合えればいいのだけれど、
画面に向き合うどころか、
キータッチが不自由でキーボードを見続けているのが現実である。

*****
IT化も含めて、医療関係のコンサルタントとか、いろいろな周辺業者が存在していて、
医者レートで商売しているらしい。
能率が悪いことといったらない。
見ていてはらはらするのだが、
年のせいか我慢できるようになった。
効率を追求しなくなった。

周辺業種、例えば、臨床心理士、薬剤師、医療事務、駐車場や自販機業者などもふくめて、
ITさんもまとめて、面倒見ましょうという感じ。
診療報酬を受け取っても、残らない道理である。



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マスコミによる医療批判 「今日の空きベッド・病院情報」

マスコミが安易に医療を批判するのは、
医療業界は公告費を出していないからであり、
役所が医療に関しての情報をリークすれば
それを騒ぎ立てるのが役割だと思っているようで、
医療業界がマスコミに圧力をかけられないからだとの意見がある。

確かにその通りで、
たとえば、アメリカの民主党ではオバマとクリントンで、
資金集め競争をしていて、
その資金でコマーシャル枠を買う。
そのような民主主義もあるのだと思う。

医師の集団が業界として
CM枠を積極的に買い、国民に認知し、
番組も買い、報知するのがいいのだろう。
決して操作するというのではなくて、まずよく知ってもらうことである。
ラジオ短波で放送しているだけでは足りないのだろう。

あるいは、メタ・マスコミを組織するか、だろう。

*****
天気予報で雲の動きを教えるように、
「今日の空きベッド・病院情報」でも流して、
どの病院で救急の担当医は専門は何科、
受け入れ人数はおおむね何人、
あるいは、難しい患者さんは二人と数えるなどして、何単位受け入れ可能などと、
流したらいいだろう。
きっと視聴率はいいと思う。

お、今日は……先生の外来担当だ、行かなくちゃなどと思ってくれるだろう。



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医師を増員すれば と 産む機械

よく言われているように、医師を増員すれば、
公立病院の産婦人科と小児科、麻酔科が復活するのだろうか?

*****
医師を増員しても、やはり女性医師は増加するでしょうし、楽な科に就職してしまう医師も多いでしょう。女性医師は看護師と同様に、養成した人数と正職員として就職している人数は極端に違うので、看護学校同様に定員を増やしても増やしても、足りないままです。

*****
との意見。確かに、増員しても、「増やしたいところ」は増えないような気がする。
給料の問題でもないだろう。

一方で、メタボ検診にさらに励んでいることが不思議だ。
効果が上がった人の割合を決めて、目標に到達するまでやらせるとか。
国民にすれば、余計なお世話ではないか。

そんなことに医療費を使ってほしいのではなく、
ただ、必要な救急患者を迅速に受け入れてほしいだけだろうと思う。

*****
お医者さんがやる気をなくす。
子供を産まなくなる、産んでも育て方が分からない。
部下の言動で上司がノイローゼになる。

マスコミは「弱い者」の味方だから、
医師を攻撃し、産みたがらない女を攻撃し、うまく育てられない親をしかる。
さらには女性を産む機械と失言したとみなして大臣を攻撃する。
会社ではマネージャーに責任があるとメンタル研修を増やす。

これは個人の問題や一部役割者の問題ではなく、
地下茎でつながっている社会全体の問題ではないかと感じる。



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医療の状況

医療の状況についていろいろなことが言われている。
つぎのような文章を読むと、
「医者-患者」を「親-子」と読み替えて、
「子供のしつけができない」
「少子化社会」
につながるものがあると感じる。

*****
昔は,医師という専門職に対してある種の畏敬があったような(少なくとも皆そういうふりはしていた)気がします.それに対して滅私奉公する医師も多かったように感じます.ところが現在は,診療契約義務が強調され,期待した結果が得られない場合は,その医師の誠意や努力に関わらず,診療義務違反として訴訟になることが多くなりました.薄給でも「先生ありがとうございました」の一言で報われるものですが,「診療費を払っているのだから当たりまえ」のように考えている方が多くなってきました.契約が主体の医療にあって,医師に高邁な人格を要求することは,あまりに一方的な要求とも思います.また,純粋に経済原理として考えて,診療契約に関わる医師への報酬は,そのリスクに比して少なすぎます.極めてhigh risk low returnで,精神的にも報われない職業であるといえます.日本のように皆が安い費用でこれだけの医療を受けられること自体が世界的な非常識で,それが原因で医療経済が破綻したのは当然の結果といえます.今は,過渡期ではありますが,これからの日本の医療が,アメリカ型になって行くのであればそれは望むところではありますが,イギリスのようになってゆくのであれば医者も患者も不幸です.医者を特権階級にする必要はないと思いますが,少なくとも皆が憧れる職業でなくては良い人材には恵まれないというのは事実ではないでしょうか?私はサラリーマンの息子で,遊んでいる同級生を羨ましく思いながらも,一生懸命勉強して国立大学へ進学しました.親が金持ちでなくても医師という専門職に就くことは可能ですが,いざ蓋を空ければ,羨ましく思っていた同級生の方が銀行や商社,マスコミなどではるかに良い給料をもらっています.医師は,尊敬すべき専門職というより,医療という商品の契約履行者であるというのが時流なのであれば,それはそれでかまわないのですが,物や金を右から左に流して利益を得る職業が憧れの職業になっていて,生命への過大な責任を負いながら職務を遂行する医師が,その職責に相当な契約報酬も与えられず,悪徳特権階級として糾弾されるならば,今後の医療の荒廃は避けられません.子供が「医者になりたい」と言ったら,「止めておきなさい」「もっと努力の報われる職業が他にあるはずだよ」と忠告します.医師に対するいろいろの不満もあるかとは思うのですが,ある一面をclose upして全てを否定するようなnegative campaignをみる時,正当に評価されていない寂しさを感じます.また,そういったご意見をなさる方々に是非,一念発起いただいて医師になってもらいたいと思います.誰もが医師になることは可能です.さすれば崩れゆく日本の医療も少しは持ちこたえるやもしれません.

*****
昔は親を尊敬していたものだし、
子育ては報われるものであった。
いま、子育てはhigh risk low returnなのかもしれない。

医療現場の荒廃と
少子高齢化は
根が同じなのかもしれない。

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Elsevier 文献データサービス

http://japan.elsevier.com/index.html

医学系情報サービス Elsevier 文献データサービス
その中でpsychologyで頻繁に引用された論文20

 
Acute stressors and cortisol responses: A theoretical integration and synthesis of laboratory research
Dickerson, S.S. (2004), Psychological Bulletin, Volume 130, Issue 3, Pages 355-391

Cited by: 248
 
Loss, Trauma, and Human Resilience: Have We Underestimated the Human Capacity to Thrive after Extremely Aversive Events?
Bonanno, G.A. (2004), American Psychologist, Volume 59, Issue 1, Pages 20-28

Cited by: 215
 
Second-generation (atypical) antipsychotics and metabolic effects: A comprehensive literature review
Newcomer, J.W. (2005), CNS Drugs, Volume 19, Issue SUPPL. 1, Pages 1-93

Cited by: 192
 
SPSS and SAS procedures for estimating indirect effects in simple mediation models
Preacher, K.J. (2004), Behavior Research Methods, Instruments, and Computers, Volume 36, Issue 4, Pages 717-731

Cited by: 192
 
Duloxetine vs. placebo in patients with painful diabetic neuropathy
Goldstein, D.J. (2005), Pain, Volume 116, Issue 1-2, Pages 109-118

Cited by: 173
 
Testing moderator and mediator effects in counseling psychology research
Frazier, P.A. (2004), Journal of Counseling Psychology, Volume 51, Issue 1, Pages 115-134

Cited by: 171
 
Pregabalin for the treatment of painful diabetic peripheral neuropathy: A double-blind, placebo-controlled trial
Rosenstock, J. (2004), Pain, Volume 110, Issue 3, Pages 628-638

Cited by: 170
 
Algorithm for neuropathic pain treatment: An evidence based proposal
Finnerup, N.B. (2005), Pain, Volume 118, Issue 3, Pages 289-305

Cited by: 165
 
The functions of the orbitofrontal cortex
Rolls, E.T. (2004), Brain and Cognition, Volume 55, Issue 1, Pages 11-29

Cited by: 164
 
The empirical status of empirically supported psychotherapies: Assumptions, findings, and reporting in controlled clinical trials
Westen, D. (2004), Psychological Bulletin, Volume 130, Issue 4, Pages 631-663

Cited by: 163
 
The neurobiology of consolidations, or, how stable is the engram?
Dudai, Y. (2004), Annual Review of Psychology, Volume 55, Issue , Pages 51-86

Cited by: 156
 
The neural basis of error detection: Conflict monitoring and the error-related negativity
Yeung, N. (2004), Psychological Review, Volume 111, Issue 4, Pages 931-959

Cited by: 156
 
Should We Trust Web-Based Studies? A Comparative Analysis of Six Preconceptions About Internet Questionnaires
Gosling, S.D. (2004), American Psychologist, Volume 59, Issue 2, Pages 93-104

Cited by: 150
 
Psychological stress and the human immune system: A meta-analytic study of 30 years of inquiry
Segerstrom, S.C. (2004), Psychological Bulletin, Volume 130, Issue 4, Pages 601-630

Cited by: 146
 
A classification system for method within research reports in Psychology | Sistema de clasificación del método en los informes de investigación en Psicología
Montero, I. (2005), International Journal of Clinical and Health Psychology, Volume 5, Issue 1, Pages 115-127

Cited by: 145
 
In search of golden rules: Comment on hypothesis-testing approaches to setting cutoff values for fit indexes and dangers in overgeneralizing Hu and Bentler's (1999) findings
Marsh, H.W. (2004), Structural Equation Modeling, Volume 11, Issue 3, Pages 320-341

Cited by: 144
 
Pregabalin reduces pain and improves sleep and mood disturbances in patients with post-herpetic neuralgia: Results of a randomised, placebo-controlled clinical trial
Sabatowski, R. (2004), Pain, Volume 109, Issue 1-2, Pages 26-35

Cited by: 142
 
Human brain mechanisms of pain perception and regulation in health and disease
Apkarian, A.V. (2005), European Journal of Pain, Volume 9, Issue 4, Pages 463-484

Cited by: 138
 
An integrated theory of the mind
Anderson, J.R. (2004), Psychological Review, Volume 111, Issue 4, Pages 1036-1060

Cited by: 137
 
Reflective and impulsive determinants of social behavior
Strack, F. (2004), Personality and Social Psychology Review, Volume 8, Issue 3, Pages 220-247

Cited by: 132
 

 



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うつ病患者650万人5年で倍増

 うつ病は、一般に長期にわたり重度のうつ状態が続く「大うつ病」、躁状態とうつ状態を繰り返す「双極性障害」、軽いうつ状態が長期間続く「気分変調症(気分変調性障害)」に分類される。現在広く用いられている米国精神医学会診断基準の最新改定版「DSM-ⅣTR」では、気分障害の下位項目に大うつ病性障害と気分変調性障害、双極性障害が分類されている

  従来の診断基準ではうつ病の成因を仮定し、それを基に分類していたが、診断者によって不一致率が高いのが欠点であった。
  これに対しDSM分類はうつ症状の数と症状の期間を基に総合的に診断する「操作型診断」と呼ばれるもので、臨床経験のみに頼ることなく合理的に診断し治療しようとするものである。DSM分類によるとうつ病の症状9つ(表2)のうち、「抑うつ気分」と「興味と喜びの喪失」を含む5つのエピソード(症状の発現している状態)が2週間以上あり、躁がなければ大うつ病性障害となる。
  また、双極性障害のうち「双極Ⅰ型障害」は、躁もうつも重い躁うつ病であり、「双極Ⅱ型障害」は躁が比較的軽度の躁うつ病である。
  さらに「気分変調性障害」は、少なくとも2年間は抑うつ気分がある日がない日よりも多く、大うつ病エピソードの基準を満たない抑うつ症状を伴うのが特徴である
(Prog Med 27(9)1979-1984(2007.9))。
  1990年代後半、企業のリストラなどによる社会的なストレスの増大でうつ病患者の増加が社会的問題になり始めた。現在、うつ病患者は650万人にまで増えたと推定されている。
  WHOプロジェクトの一環として行われた世界精神保健日本調査(WMHJ 2002-2006)によると、日本で過去1年間に大うつ病障害のあった人は2.1%、生涯有病率は6.7%と、成人の16人に1人が生涯に1度、50人に1人が過去1年にうつ病を経験していることがわかった(日本臨床65(9)1578-1584(2007.9))。1997年~1999年の調査(WHO-ICPE)では、過去1年間の有病率は1.2%、生涯有病率は3.0%であったことから、5年間でほぼ倍に増えたことになる(医学のあゆみ219(13)925-929(2006.12.30))。

  実際に気分障害(うつ病・躁うつ病)のため医療機関を訪れた人は、1999年から2002年の3年の間に44万人から71万人に急増し、2005年はさらに92万人に増加している(図1)。この間、入院患者はいずれの年度も2万8000人前後で変わらず、外来患者で急増している。
  三木内科クリニック院長の三木治氏は、うつ病患者の増加は「一般社会への啓発が広がり、内科医を中心とする一般診療科医の理解が深まった結果、受診率と診断率が高まったため」と分析している(Prog Med 27(9)1989-1993(2007.9))。
  「うつ病は心の風邪」といわれるまでにうつ病の治療が大衆化し、気軽に病院を訪れた結果、外来患者が急増した。実際三木氏らの調査でも、うつ病症状を訴える人の初診科は精神科・心療内科10%に対して内科が64.7%と、7割以上が内科といわれる欧米並みになってきた。
  日本では、欧米に遅れること10年、1999年に初めて選択的セロトニン再取り込み阻害剤(SSRI)と呼ばれる新しいタイプの抗うつ剤が登場し、販売企業による潜在患者の堀り起こしもあって、2?3年で2倍以上も新薬市場が拡大した。
  ところが、「早期受診で早期治療したからと言って患者が増えた分だけ治せるようになったわけではないというのが現場の医師の声」と指摘するのは、防衛医科大学校精神学講座の野村総一郎氏。同氏は、抗うつ剤の伸びと自殺率の減少は相関するという北欧のデータ(臨床精神薬理8(4)605-614(2005.4))に対しても、「抗うつ剤で病気が改善し自殺が減るから早期に治療すべきとは素直に解釈できない」とする。
  東京慈恵会医科大学精神医学講座の中山和彦氏は、「日本で自殺者が急カーブで上昇し3万人を超えたのはバブル崩壊後の1995年から1999年ごろだが、うつ病患者の急増期はむしろ2002年以降、自殺者数が横バイとなった時期」と指摘している(臨床精神薬理8(4)585-591(2005.4))。 うつ病の治療は「抗うつ剤」と「気分安定剤」による薬物療法が主要な選択肢となる。そのうち、「炭酸リチウム」を代表とする気分安定剤は、双極性障害に対し、抗躁作用と抗うつの双方向の作用を有する薬剤という概念で用いられている。
  炭酸リチウムの抗躁効果は1949年に発見された。日本でも1968年頃から治験が行われ、1972年の日本精神神経学会で躁うつ病治療が紹介され、1980年2月に大正製薬が「リーマス」として発売した。
  炭酸リチウムには抗うつ剤が持つモノアミン系に対する際立った作用はないが、抗うつ剤の増強療法で併用される気分安定剤として最もエビデンスが多く、ガイダンスの多くで推奨されている(Prog Med 27(7)1999-2004(2007.7))。
  その他に、気分安定剤として抗てんかん剤の「テグレトール」(カルバマゼピン)とデパケンなどの「バルプロ酸ナトリウム」が、それぞれ1990年と2002年に双極性障害への適応追加が承認された。
  うつ病の薬物療法の主役となる抗うつ剤は、日本では1959年以降1998年までに13種類が発売された(表3)。このうち、モノアミン酸化酵素(MAO)阻害剤の「サフラジン」は、肝障害などの副作用のため1997年に製造中止となった。これを除き、12種類の第一世代・第二世代の抗うつ剤が販売されてきた。

 第一世代と呼ばれる三環構造のイミプラミンに抗うつ効果が発見されたのは1957年。同剤は1959年に日本で発売された。その後、イミプラミンの化学構造の一部を変えた三環系抗うつ剤(TCA)が開発され、日本にも1960年代から1980年代に導入された。
  1980年代になり、TCAの副作用の原因となる抗コリン作用、抗アドレナリン作用、抗ヒスタミン作用を改善した四環系抗うつ剤が開発され、順次日本でも発売された。
  だが、TCAや四環系抗うつ剤と同様に「うつ病のモノアミン仮説」に基づく作用メカニズムを持ちつつ安全性、忍容性の面で従来の抗うつ剤よりすぐれることから、欧米で専門医に限らず一般診療科医にも広く用いられるようになったSSRIやセロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害剤(SNRI)などの次世代では欧米に10年遅れることになった。2006年の「ジェイゾロフト」(セルトラリン)まで日本ではSSRI3剤とSNRI1剤が登場したが、海外ではすでにSSRIは6剤、SNRIは3剤が発売されている(図2)。

 新世代の抗うつ剤が欧米の1/3以下しか発売されていない原因の1つに、日本の臨床試験実施基準(GCP)が国際化への移行期にあったことが挙げられる。もう1つは、日本の医師の約9割が精神科領域の臨床試験でプラセボを使った対照試験に強い抵抗感を持っていることが新しい抗うつ剤の開発を困難にしたとも指摘されている(医学のあゆみ219(13)937-942(2006.12.30))。



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時間栄養学

同じカロリーを食べる場合にも、
朝食べれば消費は速くてエネルギーになりやすくて
夜中に食べれば脂肪になりやすいことは
分かりやすいが、
それは寝るということの他に、
代謝そのもの、酵素の誘導とか、いろいろな物質が現実にかかわっているらしいとも言われる。
時間栄養学という。

*****
一方で、三度の食事が体内時計の時間合わせに役立っている。
三度がいいのか二度でもいいのか、二度がいいのかについては、決定的な意見はないが、
三度が多数派、二度が少数派である。



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精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」 中安

シリーズ対談 心の科学 [第二回]
精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」
不安から妄想へ、精神分裂病の再適応過程 Chap.1

精神病の代表的な疾患である精神分裂病は、
ときに哲学や心理学の自我の概念を用いて分析されてきた。
しかし、精神分裂病の成因論を自我論から解放し、
仮説としてのモデルに基づいて患者の心的体験を詳細に検証していけば、
神経心理学に接続できる新しい「心のモデル」を構築できるかもしれない。
ガン細胞さえ正常に戻してしまう「発生の場」
<土屋>
人生の悩みなんていうのは誰でも持つわけですよね。何日も仕事が手につかないとか、みんな一度は経験していると思います。そういう症状と、精神疾患――いわゆる精神病と呼ばれるような症状とはどのように区別なさっているんですか。

<中安>
精神疾患は成因的に大きく二つに分けられます。まず一つは、正常心理の延長線上・・・いわゆる正常者の心理の中にもあるものが日常生活に支障をきたすほど量的に肥大したケースです。例えば、神経症の一つに強迫神経症というものがあります。その中の代表的なものに確認強迫といいまして、ガスなどの火の始末を何十回も確認せずにはいられないために外出できなくなったり、不潔に対する恐怖から手の皮がむけるまで手を洗うといった症状が出ます。こういうことは正常者の心理の中にもありますね。つまり質的には正常者の心理と同じなのですが、ただ量が異常に多い場合です。

もう一つは、明らかに脳の障害であると理解し得るものです。まだ脳の異常だとは確認されていない疾患もありますが、薬理的な根拠などから脳の障害だろうと思われるものですね。この場合は、正常者の心理の中にまず現れないような、質的に全く異なる体験が現れます。例えば、精神分裂病などはまさにそうですが、幻聴、幻視、あるいは興奮・・・興奮といってもわれわれが喧嘩して興奮するような質のものではなくて、一目見ればわかるという激しい興奮状態が出てくるわけです。精神疾患というのは、わかりやすく言えば心の病と脳の病、大きくはこの二つに分かれるのです。

<土屋>
つまり前者の方は、原因は脳ではないとみなされているのですか。

<中安>
その辺が難しい。精神医学の進歩で、かつては量的な異常であると考えられていた疾患から、質的な異常、脳の異常が見つかってきているのです。例えば、強迫神経症も、私が20数年前に医者になった時には、心理的ストレスによって起こるために、治療はカウンセリングしかないといわれていました。でも、カウンセリングでは全然治せなかったわけです。ところが、ここ4、5年ですかね。特効薬が見つかってきて、その薬を使えばたちどころに治るというような状態になってきています。薬が効く、つまり化学物質が効くということは、脳内の化学的な異常があるんだろうということになります。そして今や強迫神経症の原因は、脳の障害として考えられるようになりつつあります。

ただ、まだ非常に多くの疾患が正常心理の延長線上――つまり量的な異常と理解されています。病的な体験の裏に脳の異常があるのかどうか、実際のところまだはっきりわからない。むしろ否定的ですね。そういう場合は、心の病といった方がいいだろうと思います。

<土屋>
現在では心の原因は脳であるとされていますね。脳の構造に対応して機能のモジュールがあり、それらがお互いに情報交換し合って認知的なプロセスが動いているという一つの圧倒的なパラダイムがあります。ですから、心に何か変なことが起きているとすれば脳が変な状態にあると考えるのは極めて自然だと思うんですが、にもかかわらず、やはり心の病があるとお考えになる理由は何なのでしょうか。今、先生がおっしゃったような、成因論的に脳に戻っていかない、脳の異常を原因としない精神疾患――真の意味での心の病といえるものがあるのでしょうか。

<中安>
心の機能・働きをすべて脳に還元して考えるならば、量的な変異といえども脳に何らかの変調があるだろうと考えられますね。そうすると、すべて脳障害という考えが出てくるのも不思議ではありません。

ですが、臨床的に見てみますと、この人の、この人生において、こういう出来事があったが故に、この人は今の状態になっている、と考えると納得できる場合があるわけですよ。例えば、境界性人格障害という、性格が極度に不安定で激しくなるために、通常の社会生活を送ることが困難になってしまう精神疾患があります。この場合、生い立ちからして、あるいは生活史上の出来事からして、故に患者さんはこうなったんだというのを心理的に了解できるんです。もちろん、そういうイベントが脳に変調を与えたんだといって脳障害に還元することはできますけれども・・・。

<土屋>
脳に異常が起こったと言及することなしに、十分にシステムとして了解できる、そういう現象があるということですね。

<中安>
そう。逆にいうと、脳の障害に還元できる疾患の患者さんたちには、そういう原因は見当たらないんです。精神分裂病、躁鬱病の人たちはみんな、症状がパターン化しているんですよ。分裂病や躁鬱病の患者さんを、半年、一年診ていると、パターンでわかってくるんです。ところが、正常者をパターン化するのはとにかく難しい(笑)。何よりも薬が効くことが、分裂病が脳の病であることを保証していると思いますね。ただし、分裂病の成因に関しては、学者の意見も分かれています。私は分裂病脳病論の方ですけど。

<土屋>
薬が効いたというのは、基本的には症状がなくなるということですか。

<中安>
そうですね。

<土屋>
脳の状態が改善されたことを客観的に確かめる手段はありますか。

<中安>
今のところないですね。心的体験とはどういうものか、心のあり方とはどういうものかと考える場合でも、精神科医は患者さんの体験陳述から始めるしかないんです。

症状の詳細な記述から心のモデルへ
<土屋>
確かに身体の場合だって、症状を訴えることから始まりますね。

<中安>
むしろ身体の場合は最近は症状が軽視されていますよ。計測機器を使えば異常がすぐにわかるというふうになっていますからね。ところが精神疾患、ことに精神分裂病の場合は、わかっているのが症状と経過しかないんです。だから診断するのも症状と経過を拠り所にします。ただ従来の精神病理学で問題だなと思うのは、心的現象の記述・記載が極めて不十分だったということなんですよ。

<土屋>
症例報告に出てくる記載がですか。

<中安>
そうです。少なくとも分裂病における病的体験の記述は不十分です。例えば精神病理学では、現象記述とは体験のありのままの記載だという考え方がありますが、体験をありのままに記載するなどということはできないはずです。せいぜい医者として記載しているのは患者さんの言語陳述に過ぎない。患者さん自身が自分の体験を話す過程で何らかの修飾が加わってくる可能性が十分にあるわけですからね。

<土屋>
非常に共感します。精神科のお医者さんの書かれた現象学的記述を拝見すると、素直に、極めてナイーブに症状の記述を……ある意味で、それを常識的な意味で理解して、それをもとにして心のモデルを作られてきているなという感じがしていました。だから今おっしゃったことはよくわかります。それに、今の認知科学や哲学、あるいは生理学、物理学でアプローチする人たちも、心理学的な事実の表現について全然分析を加えていない。つまり心的現象の記述が全然できていないわけです。そうすると、こういう心的現象は脳の中にこういう対応物があるんだという話をしようにも不可能です。

<中安>
もう一つ言うならば、ありのままの記載では学問にならないと思うのです。やはりわれわれは、ある種の概念で現象を切り、分析していくわけですから・・・。患者さんの陳述を概念化してこそ初めて「学」といえるものになるのであって、ありのままの記載なんてできないと思います。

<土屋>
こう言い換えてもいいんじゃないでしょうか。患者さんの体験陳述が出てくる。それをただ常識的な意味で受け取って、それに対応する物理的、生理的な原因を探すだけではだめで、理解するためのモデル化が必要だということですね。

<中安>
そうです。例えば幻覚というものがありますね。分裂病の場合の幻覚は、あるものが実際に聞こえたり見えたりするわけです。それを幻覚、すなわち幻の知覚という形でまとめてしまう。ところで、これを知覚の障害だと理解する向きが圧倒的に多いんですよ。そして錯覚と幻覚を同じように捉えています。

<土屋>
そうなんですか。それは違うでしょうね。

認知科学が実験室から出られれば
<中安>
錯覚というのは知覚素材あるいは対象があって、それが変容して認識される現象です。一方幻覚は、そもそも知覚対象がないわけですから、それを知覚の異常、知覚の障害と捉えることはできないはずです。それを単に形式の類似性に基づいて、幻覚は知覚の障害、妄想は思考の障害であるとこれまでは理解されてきているわけです。私は精神症候学というか分裂病の症候学から、最終的には分裂病の脳、神経心理学的なものに橋渡ししたいと思っているんですけど、これでは全く橋渡しできません。 ただ、先ほども申し上げましたように、分裂病はまだ症状と経過でしか規定されておらず、患者さんの心的体験は言語陳述的にしか表出されないのは事実ですから、われわれは少なくとも最終段階の体験陳述を対象とするところから出発せざるを得ません。そして、最終的な体験陳述が出てくるまでのいろいろなプロセスを個別に見て、それをもとにモデルを作って初めて、分裂病を科学の対象にすることができます。その際に、私も認知科学には非常に興味があるんですが・・・。

<土屋>
底が浅い(笑)。

<中安>
底が浅いというよりも・・・ちょっと使えない。認知科学は実験室内――つまり限定された条件下で調べるわけですね。でも患者さんは条件が限定されない日常生活の中で、ありとあらゆる刺激物と出会っているわけです。その点を考慮して、私は非常に卑近な正常者の日常体験から出発せざるを得ないと思ったわけですよ。

<土屋>
それは多分、私の考えていることと近いかなと思います。実験室の心理学では、知覚体験を考える場合にしても、伝統的には顔を固定したまま目の前に物を見せて調べるわけです。でも、そんなふうにして物を見る人はいません。しかし、そうしないと条件がコントロールできないと実験心理学者は言うんですが、実際の人間が体験しないような条件でコントロールすることにどれくらい意味があるか疑問です。今認知科学でも、実験室的でない現象をどのようにして理論化するかというところに関心が移ってきていると思います。リアルワールドで、人間というかエージェントが、相互作用をしながら何か一定の目的を追求している場面をなんとかモデル化したいという状況になっています。

そんな中で出てくるのは、1人の人間が心を持っているとした場合、その中で記述が閉じてくれるかどうかという疑問だと思うんですね。例えば知覚体験にしても、心という能動的な主体があって外界という客体があるという静的なイメージでは理解できないはずです。もう少し進めて考えると、ギブスンという心理学者が昔アメリカにいて、生態学的な知覚論と称するものを展開しているんですが、知覚というのは人間と環境の相互作用であるというような言い方もされるようになります。そういう面からも、実験室的なモデルは、すこし調子が悪くなってきていることは事実なわけですよ。

<中安>
そうですか。私も実験室内で形成された認知のモデルを持ってくるだけじゃだめだろうと思っています。正常者の日常的な体験からある認知モデルを作る。そのモデルの中で、この分裂病者の体験はどうなのかということを解析する必要があると考えています。それまでバラバラな精神機能の障害として見られていた症状が統合的なものとして理解され、なおかつ症状が併存するとか、あるいは症状が変わっていくといったことが、実際の患者さんの言語陳述を通して臨床の現場で確認されれば、そのモデルが正しいことが証明されるでしょう。

シリーズ対談 心の科学 [第二回]
精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」
不安から妄想へ、精神分裂病の再適応過程 Chap.2
曖昧にしか規定されていなかった「心的体験」を捉え直す
<中安>
そこで私はまず、そもそも患者さんの心的体験とは何なのかについて、見直してみようと考えました。従来の精神医学では心的体験の捉え方が極めて曖昧で、有名な精神病理学者のカール・ヤスパースですら、「体験とは比喩的に意識の流れと名づけられ」としか述べていません。私は、心的体験とは、主体と客体とが営為によって結びつけられ、その全体を主体が対象化したものだと思います。

<土屋>
先生のモデルは、主・客を分けて対立させているように思えて、そこに私は少しひっかかるのですが・・・。心を持った主体の側――つまり、心の営みを重視しすぎている感じがします。

<中安>
表現の仕方が悪かったかもしれません。この場合「視る」「聴く」といった能動的なことだけを心的営為と考えているわけではなくて、「視る」じゃなくて「見える」、「聴く」じゃなくて「聞こえる」というふうに、主体が能動的じゃなくて、むしろ客体の方が迫ってくるような――主体が受け身的な部分もモデルの中には入ってます。必ずしも能動、受動というイメージじゃないんです。

<土屋>
日本語の場合には、「聞こえる」とか「見える」とか「浮かぶ」とか、自生的な言葉で表現されることが多いですね。

<中安>
分裂病の初期症状の中でも一番特徴的なのは、自生体験――自ずから生ずる体験なんです。過去の記憶がワッと浮かんでくるとか、まさに主体が客体にさらされる状況ですね。非常に面白いところです。

私が主・客をことさら強調したのは、旧来の精神医学に対する不満からなんです。従来の精神科の教科書では、自我意識と対象意識をはっきり分けていました。全く別の扱いなんですよ。でも考えてみてください。例えば、私がコップを見ているとしますと、私という主体とコップという客体が、それを見るという営為で結びつけられますね。これが一つの心的営為です。そして、それを対象化しているのがまた同じ私という主体であり、そうして形成された心的体験を私が陳述したものが体験陳述です。つまり、対象意識の背後には自我意識があって、両者は実は一対のものなんですね。そのことを主張したいがために、主体、客体、営為というモデルを出したのです。

<土屋>
なるほど。わかりました。何か行為がある以上は、対象意識と自我意識とが両方あるはずだということですね。

<中安>
そうです。もともと二つは一対のもので、主体と客体、それをつなぐ営為の三者で構成される心的営為全体を対象化するベクトルを少し主体に傾けたのが自我意識、少し客体の方に傾けたのが対象意識ということでして、どちらに焦点化したかというだけの違いなんです。

<土屋>
それならわかります。そうすると、従来自我意識とされていたものが、むしろ行為に対する意識という位置づけになってくるわけでしょうか。

<中安>
行為における主体のありようが自我意識でしょう。

近代の自我論では精神疾患を説明できない
<中安>
そうなんですか。離人症の患者さんは、今ここに自分が存在しているという感覚が希薄になるんです。これは従来の精神病理学では自我の障害だといわれていました。もう一つ、体感異常という症状があります。こうした患者さんの場合、胸に10センチくらいの空洞があるとか、目の奥に3センチくらいのしこりがあると実体的に感じます。そして、離人症は自我の障害だとする一方で、片方は体感の異常だと区別する。ところがこの二つは併存することが多くて、離人症にかかった人が同時に体感異常を訴えてくるんですよ。さらにいうと、そういう患者さんは実体的意識性――いわゆる気配ですね――をありありと感じるという症状も併存することが多いんです。これは従来意識性の障害と理解されてきました。つまり、それぞれの症状が併存しているのに、全然統合できないんですね。私は、離人症をはじめとするこれらの症状を対象化の障害と考えています。つまり、正常の対象化では知覚の素材、いうならば形象に、対象化に伴って生じるある性質、いわば実感が付与されると考えるんです。そしてこの対象化に障害が起きると、一方では「対象化性質の脱落態」、いわば「実感なき形象」になってしまうわけで、これが離人症なんですね。他方はその逆で、「対象化性質の幻性態」、「形象なき実感」となって、これが体感異常や実体的意識性というわけです。このように対象化の障害という観点を導入することによって、それまで全く別の障害と考えられていた症状の臨床的合併が統合的に説明できるようになるわけです。

分裂病もそうです。従来、自我障害こそ分裂病の最も典型的な症状だという議論があるのですが、私はそうじゃないと考えています。例えば、自我障害の典型的な例として「させられ体験」というのがあります。どういう症状かというと、自分が今、水を飲むとしても、これは自分がやっているんじゃない、何者かにさせられてる、と患者さんは言うんですよ。それを「させられ体験」といって、原因は自我の障害だとみなされてきました。ですが、これは「させられる」と患者さん自身が語ってますよね。語っているという能動的な自我が存在している、もしくは語る以前に「させられている」と感じている自我がいるわけです。それは極めて能動的な自我です。したがって、「させられ体験」というのは自我が障害されているかのような形を取った、何か別の障害だと思うんです。

<土屋>
「我思う、故に我あり」ですね。つまり、「我させられるが故に我あり」というか「我感じるが故に我あり」というような。

<中安>
「我させられると感じるが故に我あり」ですね。私自身は、近代の自我論は、精神医学、中でも分裂病の理解にはほとんど無関係だと思っているんです、実は。私自身は精神病理学を近代の自我論から解放したいのです。

分裂病は状況意味を失認する病
<土屋>
自我論からの解放というのはわかるような気がします。それでは、先生は分裂病というのをどのように捉えていらっしゃいますか。

<中安>
私は分裂病は直接的には状況意味失認が基本障害だと思ってます。状況意味というのは、ある個別のものがこの状況において、どんな意味を持つのかという話ですね。例えば、財布が私の机の上に置いてあれば、これは私がただ置いているんだとなりますね。しかし、道路に落ちている場合だと、財布は財布なんだけど、これは誰かがうっかりして落としたんだろうというふうに意味づけられる――つまり他の対象物との相互関係の下にその個物の状況における意味は転変していくわけです。で、分裂病における状況意味失認とは、状況意味を認知する中枢機構があって、そこに障害が生じているんだと考えるわけです。

一番わかりやすい例が、分裂病の代表的な症状である妄想知覚ないし被害妄想ですね。例えば前の方から2人の人が歩いてきて、通り過ぎる時に、2人がフフッと笑ったとします。通常であれば、たまたま自分とすれ違う時に2人で面白い話でもしたんだろうと、すれ違った時にたまたま笑ったのだと考えますよね。ところが、分裂病の患者さんであれば、自分を当てつけて笑った、あざ笑ったと思ってしまうんです。つまり患者さんは、「通り過ぎた人が笑った」という事実――私はこれを即物意味と呼んでいますが――は正常に知覚しているのですが、状況意味を誤認しているがために「自分をあざ笑った」と考えてしまう、ということです。シュナイダーという有名な精神病理学者がいたんですが、「妄想知覚とは、知覚は正常だがその意味づけが誤っている」と言っています。まさにその通り。妄想知覚というのは、即物意味は正しく認知されているけれども、状況意味が誤認されているということなんです。そういうことから、意識上・自覚的認知のレベルで状況意味誤認が生じる元は何かというと、意識下・無自覚的認知のレベルでの状況意味失認だと理解していいだろうと思います。

<土屋>
即物意味とは、考えてみると意味すらない状態とも言えますよね。

<中安>
状況意味を正しく認知できない状態になると、動物というのは生きていけないのです。

<土屋>
「意味の世界」に住んでいるのは人間だけではないということですね。

<中安>
ですね。

シリーズ対談 心の科学 [第二回]
精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」
不安から妄想へ、精神分裂病の再適応過程 Chap.3
不安から逃れるために架空の恐怖を作りだす
<中安>
妄想知覚、被害妄想は、状況意味失認の次に生まれるんですよ。他人がフフッと笑った、なぜだろうと困惑する、不安になる。そこであれは当てつけなんだと意味づけて理解してしまう。そういう被害妄想が生じるというのは、非常に自己防衛的な反応なんです。人間にとっては、失認で生じる不安よりも、妄想の恐怖の方が楽なんです。特定の対象に対する恐怖の方が、わけのわからない不安よりもよっぽどいいんですよ。なぜそうなるのか、なぜ統合しようとするのか。それは、状況意味を認知しよう、意識下で状況を認知しようというのが、自己保存にとって必須の機能だからだということになります。さらに情報入力が意識上に上がってきても、脈絡がないから統合できないんですが、そうなると、自己保存の危機という意識が一層醸成されるので、何とか統合しようとするわけですね。

重要なことがもう一つ、状況意味というのは蓋然性の世界なんですね。つまり可能性です。だから、「こんなの絶対に間違っている」と言って患者さんにブレーキをかけられないんです。実際、妄想患者と議論しても、延々と平行線をたどるばかりで議論になりません。「でもこういう可能性があるじゃないか」と患者さんから反論されれば、可能性ですから、確かにそうかもしれないとなる。結局患者さんは、偽りの統合――偽統合しちゃうんですね。今述べた妄想あるいは幻聴というのは、患者さんにとっては非常な恐怖、苦痛を与えるものですが、ある意味でそれらの症状は防御反応、再適応過程なのです。

<土屋>
状況意味失認というのは、よくわかります。要するに人間でも相当下等な動物でも意味の世界に住んでいる。それは非常に重要ですね。そこで、意味っていうのは何だろうと考えた時、先ほど先生がおっしゃったように、ある種の安定した相関関係がある出来事に結びついている時に、意味というものが出てくるだろう。で、それが崩れるか、蓋然性の低いものが出現した時に、確かに驚いたり、警戒したりすることは事実だろうと考えられます。そうすると、どんな動物だって意味的な理解がなければ、生活をオーガナイズすることはできないだろうと思うのです。

そして、話を人間の方に持ってきた場合に、そういう意味の世界は極めて複雑になっていて、あるいは予測不可能な部分もいろいろあって、大体いつもこういう関係にあるんだよということでないようなこともよくあります。どう理解していいのかわからないというケースもたくさん出てきます。同時に何かが起きたりすると意味が捉えられなくなって、その瞬間パニックになってしまうこともありますよね。

<中安>
まさに先生がおっしゃったように、分裂病の中には意味がとれなくなってパニック状態になったものがあるんですよ。それが緊張病状態です。緊張病状態になると、興奮あるいは昏迷という状態になる。興奮というのはランダムな動きです。ダーッと走り出して、壁にぶつかったり、ころげまわったりします。一方、昏迷は一切の自発性の停止なんですよ。目をあけたままボーッとしている。相当な刺激を与えても、無反応です。実はこうした興奮や昏迷と似た反応が動物にもあって原始反応といいますけど、パニックになった時に運動乱発といってランダムに動いたり、擬死反射といって無反応になったりします。

そして、パニックにならない場合に妄想形成するんです。妄想によって意味を見いだしてパニックを回避するわけです。これが再適応なんです。分裂病で見られる妄想形成は、生物の自己保存本能から必然的に生じる再適応過程なんですね。

<土屋>
先生がおっしゃるとおり、状況意味失認という概念は非常に大事ですね。自我というような曖昧な概念ではなく、ある意味ですべての生物に適用可能なレベルの概念で説明できるということを示すところが、実は非常に重要じゃないでしょうか。

分裂病は人間固有の特別な病気ではない
<中安>
私は分裂病というのは、そもそも人間固有の病ではなくてホモ・サピエンスという動物の病だと思うんです。こんなことを言うのは、精神科医の中でもやや異端かもしれません。ある学者はサルや金魚にも分裂病があると言います。極端な意見ですが、私は正解だと思っています。分裂病は動物としての病だと考えているんです。一般的に分裂病は120人に1人かかるといわれていますが、私はもっと多い・・・そう、80人に1人くらいはかかると思います。ですから、分裂病は特別な病ではないし、ましてや差別の対象になるような病でもない。動物としての人間がかかる、よくある病気の一つなのです。そういった意味では、精神科という呼称はやめてしまって、脳内科という言葉をつけたいくらいです。脳外科に対応した言い方ですが、精神科という言葉はよくないですね。いかにも人間としての特別な病という印象を受けますから・・・。

<土屋>
脳内科というのはいい言葉ですね。

<中安>
分裂病を動物の病であると考えると、他の病気と同様に治療できる可能性があることを意味します。ガンと同じで、早期に診断を下し、適切に投薬できれば、将来治癒できる確率が高まると思うのです。そこで重要になってくるのが分裂病であるかどうかを早期に判断することで、そのために私は、分裂病の初期症状の詳細なデータを積み重ねる研究をこれまで進めてきたわけです。

<土屋>
今のお話でどんな生き物でも分裂病になりうるのだとすると、認知科学が考えていることとつながるような気がします。人間の知覚にせよ、行為にせよ、人々とコミュニケーションをとるという場面にせよ、確たる近代的自我が利益を最大化するような話では決してないでしょう。むしろ動物と同じように、意味的に完成される余地の残っているさまざまな対象を、ある状況の中で解釈可能な意味づけを与えることによって、理解しようと試みているのだと考えられます。もしそれが上手くいかない時には、確かに病的なことが起こるかもしれない。ただ、その時だけ上手くいかないという場合もあるし、今後もずっと上手くいかないという場合もある。後者の場合には、それが精神病だという形で分類されることがあるかもしれないというあたりのところまでは、かなりの人が同じ方向で考えているんじゃないかなという感じがします。

これまで私は、精神病理学というのは難しいというか、論文を読んでも漢字が多くて近づきにくい世界だと思ってましたが(笑)、先生のお話を伺ってきて、精神病理学の言葉を認知科学の言葉に対応させると、もしかしたらお互いに新しい視点を獲得できるのかなという感じがしました。認知科学をやっている人にも精神疾患について理解しよう、治療とはいわないまでも何かプラスになるような形のことができないかと考えている人たちがいます。しかし、その人たちもある意味で非常に古いタイプの精神病観を持っているのかなと思っていましたので、むしろ先生のような発想を翻訳して伝えてみるのも面白いという気がしました。

<中安>
それはありがたいことですね。

精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」/END

精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」■参考文献一般向け
中安信夫・編:対談 初期分裂病を語る、星和書店、1999
クラウス・コンラート:分裂病の始まり、岩崎学術出版社、1994
カール・ヤスパース:精神病理学研究1、みすず書房、1969
カール・ヤスパース:精神病理学研究2、みすず書房、1971
土屋俊:心の科学は可能か 認知科学選書、東京大学出版会、1986
ダニエル・C.・デネット著(土屋俊・訳):心はどこにあるのか サイエンス・マスターズ〈7〉、草思社、1997
土屋俊、広松渉:徹底討議・知性をもつハードウェア―認識から行為へ(対談)(特集・ロボット―思考なき知性)、現代思想、1990年3月号
専門向け
中安信夫:初期分裂病、星和書店、1990
中安信夫:状況意味失認と内因反応―症候学からみた分裂病の成因と症状形成機序、臨床精神病理11:205-219、1990
中安信夫:分裂病症候学―記述現象学的記載から神経心理学的理解へ、星和書店、1991
中安信夫:初期分裂病/補稿、星和書店、1996
中安信夫:方法としての記述現象学―<仮説―検証的記述>について―、臨床精神医学28(1):19-29、国際医書出版、1999
中安信夫:精神病理学における「記述」とは何か、臨床精神病理14:15-31、星和書店、1993
土屋俊:移動ロボットの設計原理に関する基礎的考察、『哲学』第39号抜刷、1989
David Israel, John Perry, and Syun Tutiya : Executions, Motivations, and Accomplishments, The Philosophical Review, Vol.102, No.4, 1993


 



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深尾憲二朗: 自己・意図・意識- ベンジャミン・リベットの実験と理論をめぐって

深尾憲二朗: 自己・意図・意識- ベンジャミン・リベットの実験と理論をめぐって. 中村雄二郎,
木村敏編: 講座生命7. 河合文化教育研究所,

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リバタリアンの古典 フリードマン 資本主義と自由

資本主義と自由 (NIKKEI BP CLASSICS) (単行本(ソフトカバー))
ミルトン・フリードマン (著), 村井 章子 (翻訳)

*****
アマゾンから引用

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』、フリードリッヒ・ハイエク『隷従への道』と並ぶ自由主義(リバタリアニズム)の三大古典の1冊。

本書が出版されたのは1962年。100万部近く売れた大ベストセラーだったが、国内で書評に取り上げたのは、アメリカン・エコノミック・レビュー誌の1誌だけ。ケインズ派を中心とした経済学の主流派やメディアからは完全に黙殺された。なぜ? フリードマンが書いた内容があまりに「過激」だったからだ。

本書第2章に、政府がやる理由がない政策が14列挙されている。●農産物の買取保証価格制度●輸入関税または輸出制限●農産物の作付面積制限や原油の生産割当てなどの産出規制●家賃統制●法定の最低賃金や価格上限●細部にわたる産業規制●連邦通信委員会によるラジオとテレビの規制●現行の社会保障制度、とくに老齢・退職年金制度●事業・職業免許制度●いわゆる公営住宅および住宅建設を奨励するための補助金制度●平時の徴兵制。「自由市場にふさわしいのは、志願兵を募って雇う方式である」●国立公園●営利目的での郵便事業の法的禁止●公有公営の有料道路

マルクス主義が20世紀を代表する思想だとすれば、フリードマンの自由主義は21世紀の主要思想になるはずだ。多くの復刊希望に応えての画期的な新訳で、リバタリアンの真髄が手に取るように理解できる名著。

日本では1975年にマグロウヒル好学社から翻訳出版されたが、絶版になっていた。本書は、2002年にシカゴ大学から出版された40版アニバーサリー版を元にベテランの翻訳家の手で見事な日本語訳となった。竹中平蔵元大臣の補佐官、内閣府参事官として郵政改革を仕上げた高橋洋一氏(東洋大学教授)の解説付き。

*****
個人的には
連邦通信委員会によるラジオとテレビの規制
が特筆に価すると思う。
規制の理由がないというのは控えめな言い方で、
規制はすでに害悪である。

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