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医療の需要は誰が決めているのか

医療の需要は誰が決めているのか。

これは微妙だ。
たとえば精神科では本人が必要ないと思えば通院はしないし薬も飲まない。
一方、コレステロール内科については、年に一回検診があり、血液検査でコレステロールが高いといわれ、薬を飲むように勧められる。
本人に不調の自覚はないし、薬を飲んでも何の違いもない。食事と運動を指導されるが、続くものでもなく、また次の年に同じ指導を受ける。
そのうちコレステロール指導の基準が変更されたりして、あれあれと思ったりする。

患者さんの自己判断はしばしば間違っていて、
その結果、むだに医療費がかかる場合も多い。

腕のいい医者だと必要のない検査も、新米お医者さんは几帳面に、指導書どおりにオーダーする。
評判がいいのは指導書どおりの新米お医者さんで、
やや過剰なくらいのサービスが患者さんには安心感を与える。
患者さんの心を知っていれば、ただ安心させるために検査をすることもあるだろう。

いろいろと難しい。

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民間医療保険

いまテレビでコマーシャルしている1日1万円などの民間医療保険。
民間生保会社に払うお金があるのならば、
本来は健康保険にそのお金を払ってもらい
自己負担分を少なくするのがいいに決まっている。

マスコミは公告を出してもらっているので、
批判的なことはいえないのだろう。

あれだけのコマーシャルを展開するとして、
それも全部加入者が支払って、社員の給料まで出しているのだから、
どう考えても問題だと思うが。

どう考えても悪い男に貢いでいる女というものがあるが、
コマーシャルを繰り返されるうちに洗脳されて、貢いでしまう構造が似ている。

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医療現場のIT化

IT産業は第二の公共事業ともいえる。
電子カルテ、オーダリング、フィルムレスは一見格好いいが、
とんでもない金食い虫だ。
ある病院では政府からの補助金が2億円。IT化を進めた。
医業に従事している者があげた収益がIT産業の食い物にされているともいえる。

病院経営者は費用対効果をもっと真剣に考えれば、
現状でコンピュータ化は無駄な支出かも知れないと思うはずで、
職員を増やしたほうがいいと思う面もある。

老医師にはキーボードが煩わしいし、仕事が増えた。
合理化になっているかどうか、怪しい。

ペンで書ける人がどうしてキーボードをたたく必要があるのだろう。

医療の質が高まっているだろうか。
医療用のソフトは日本語ということもあるが、
医療制度が独特なこともあって、海外の汎用ソフトが使えない。
そこで導入も保守も割高になる。

院外処方の頃は自分でデータベースを作って運用していたし、
レセプトの印刷まで済ませていた。
院内処方にした時に、薬剤点数の計算は無理と思い、
オルカを導入した。
その後は電子カルテとオルカをつなげて使っている。
ペーパーレスであるが、
紹介状は紙だし、診断書も紹介状も印刷するし、
結局役所への書式には手書きで記入していて、
中途半端な具合である。

IT化が進んで患者さんともっと快適に向き合えればいいのだけれど、
画面に向き合うどころか、
キータッチが不自由でキーボードを見続けているのが現実である。

*****
IT化も含めて、医療関係のコンサルタントとか、いろいろな周辺業者が存在していて、
医者レートで商売しているらしい。
能率が悪いことといったらない。
見ていてはらはらするのだが、
年のせいか我慢できるようになった。
効率を追求しなくなった。

周辺業種、例えば、臨床心理士、薬剤師、医療事務、駐車場や自販機業者などもふくめて、
ITさんもまとめて、面倒見ましょうという感じ。
診療報酬を受け取っても、残らない道理である。



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マスコミによる医療批判 「今日の空きベッド・病院情報」

マスコミが安易に医療を批判するのは、
医療業界は公告費を出していないからであり、
役所が医療に関しての情報をリークすれば
それを騒ぎ立てるのが役割だと思っているようで、
医療業界がマスコミに圧力をかけられないからだとの意見がある。

確かにその通りで、
たとえば、アメリカの民主党ではオバマとクリントンで、
資金集め競争をしていて、
その資金でコマーシャル枠を買う。
そのような民主主義もあるのだと思う。

医師の集団が業界として
CM枠を積極的に買い、国民に認知し、
番組も買い、報知するのがいいのだろう。
決して操作するというのではなくて、まずよく知ってもらうことである。
ラジオ短波で放送しているだけでは足りないのだろう。

あるいは、メタ・マスコミを組織するか、だろう。

*****
天気予報で雲の動きを教えるように、
「今日の空きベッド・病院情報」でも流して、
どの病院で救急の担当医は専門は何科、
受け入れ人数はおおむね何人、
あるいは、難しい患者さんは二人と数えるなどして、何単位受け入れ可能などと、
流したらいいだろう。
きっと視聴率はいいと思う。

お、今日は……先生の外来担当だ、行かなくちゃなどと思ってくれるだろう。



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医師を増員すれば と 産む機械

よく言われているように、医師を増員すれば、
公立病院の産婦人科と小児科、麻酔科が復活するのだろうか?

*****
医師を増員しても、やはり女性医師は増加するでしょうし、楽な科に就職してしまう医師も多いでしょう。女性医師は看護師と同様に、養成した人数と正職員として就職している人数は極端に違うので、看護学校同様に定員を増やしても増やしても、足りないままです。

*****
との意見。確かに、増員しても、「増やしたいところ」は増えないような気がする。
給料の問題でもないだろう。

一方で、メタボ検診にさらに励んでいることが不思議だ。
効果が上がった人の割合を決めて、目標に到達するまでやらせるとか。
国民にすれば、余計なお世話ではないか。

そんなことに医療費を使ってほしいのではなく、
ただ、必要な救急患者を迅速に受け入れてほしいだけだろうと思う。

*****
お医者さんがやる気をなくす。
子供を産まなくなる、産んでも育て方が分からない。
部下の言動で上司がノイローゼになる。

マスコミは「弱い者」の味方だから、
医師を攻撃し、産みたがらない女を攻撃し、うまく育てられない親をしかる。
さらには女性を産む機械と失言したとみなして大臣を攻撃する。
会社ではマネージャーに責任があるとメンタル研修を増やす。

これは個人の問題や一部役割者の問題ではなく、
地下茎でつながっている社会全体の問題ではないかと感じる。



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医療の状況

医療の状況についていろいろなことが言われている。
つぎのような文章を読むと、
「医者-患者」を「親-子」と読み替えて、
「子供のしつけができない」
「少子化社会」
につながるものがあると感じる。

*****
昔は,医師という専門職に対してある種の畏敬があったような(少なくとも皆そういうふりはしていた)気がします.それに対して滅私奉公する医師も多かったように感じます.ところが現在は,診療契約義務が強調され,期待した結果が得られない場合は,その医師の誠意や努力に関わらず,診療義務違反として訴訟になることが多くなりました.薄給でも「先生ありがとうございました」の一言で報われるものですが,「診療費を払っているのだから当たりまえ」のように考えている方が多くなってきました.契約が主体の医療にあって,医師に高邁な人格を要求することは,あまりに一方的な要求とも思います.また,純粋に経済原理として考えて,診療契約に関わる医師への報酬は,そのリスクに比して少なすぎます.極めてhigh risk low returnで,精神的にも報われない職業であるといえます.日本のように皆が安い費用でこれだけの医療を受けられること自体が世界的な非常識で,それが原因で医療経済が破綻したのは当然の結果といえます.今は,過渡期ではありますが,これからの日本の医療が,アメリカ型になって行くのであればそれは望むところではありますが,イギリスのようになってゆくのであれば医者も患者も不幸です.医者を特権階級にする必要はないと思いますが,少なくとも皆が憧れる職業でなくては良い人材には恵まれないというのは事実ではないでしょうか?私はサラリーマンの息子で,遊んでいる同級生を羨ましく思いながらも,一生懸命勉強して国立大学へ進学しました.親が金持ちでなくても医師という専門職に就くことは可能ですが,いざ蓋を空ければ,羨ましく思っていた同級生の方が銀行や商社,マスコミなどではるかに良い給料をもらっています.医師は,尊敬すべき専門職というより,医療という商品の契約履行者であるというのが時流なのであれば,それはそれでかまわないのですが,物や金を右から左に流して利益を得る職業が憧れの職業になっていて,生命への過大な責任を負いながら職務を遂行する医師が,その職責に相当な契約報酬も与えられず,悪徳特権階級として糾弾されるならば,今後の医療の荒廃は避けられません.子供が「医者になりたい」と言ったら,「止めておきなさい」「もっと努力の報われる職業が他にあるはずだよ」と忠告します.医師に対するいろいろの不満もあるかとは思うのですが,ある一面をclose upして全てを否定するようなnegative campaignをみる時,正当に評価されていない寂しさを感じます.また,そういったご意見をなさる方々に是非,一念発起いただいて医師になってもらいたいと思います.誰もが医師になることは可能です.さすれば崩れゆく日本の医療も少しは持ちこたえるやもしれません.

*****
昔は親を尊敬していたものだし、
子育ては報われるものであった。
いま、子育てはhigh risk low returnなのかもしれない。

医療現場の荒廃と
少子高齢化は
根が同じなのかもしれない。

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Elsevier 文献データサービス

http://japan.elsevier.com/index.html

医学系情報サービス Elsevier 文献データサービス
その中でpsychologyで頻繁に引用された論文20

 
Acute stressors and cortisol responses: A theoretical integration and synthesis of laboratory research
Dickerson, S.S. (2004), Psychological Bulletin, Volume 130, Issue 3, Pages 355-391

Cited by: 248
 
Loss, Trauma, and Human Resilience: Have We Underestimated the Human Capacity to Thrive after Extremely Aversive Events?
Bonanno, G.A. (2004), American Psychologist, Volume 59, Issue 1, Pages 20-28

Cited by: 215
 
Second-generation (atypical) antipsychotics and metabolic effects: A comprehensive literature review
Newcomer, J.W. (2005), CNS Drugs, Volume 19, Issue SUPPL. 1, Pages 1-93

Cited by: 192
 
SPSS and SAS procedures for estimating indirect effects in simple mediation models
Preacher, K.J. (2004), Behavior Research Methods, Instruments, and Computers, Volume 36, Issue 4, Pages 717-731

Cited by: 192
 
Duloxetine vs. placebo in patients with painful diabetic neuropathy
Goldstein, D.J. (2005), Pain, Volume 116, Issue 1-2, Pages 109-118

Cited by: 173
 
Testing moderator and mediator effects in counseling psychology research
Frazier, P.A. (2004), Journal of Counseling Psychology, Volume 51, Issue 1, Pages 115-134

Cited by: 171
 
Pregabalin for the treatment of painful diabetic peripheral neuropathy: A double-blind, placebo-controlled trial
Rosenstock, J. (2004), Pain, Volume 110, Issue 3, Pages 628-638

Cited by: 170
 
Algorithm for neuropathic pain treatment: An evidence based proposal
Finnerup, N.B. (2005), Pain, Volume 118, Issue 3, Pages 289-305

Cited by: 165
 
The functions of the orbitofrontal cortex
Rolls, E.T. (2004), Brain and Cognition, Volume 55, Issue 1, Pages 11-29

Cited by: 164
 
The empirical status of empirically supported psychotherapies: Assumptions, findings, and reporting in controlled clinical trials
Westen, D. (2004), Psychological Bulletin, Volume 130, Issue 4, Pages 631-663

Cited by: 163
 
The neurobiology of consolidations, or, how stable is the engram?
Dudai, Y. (2004), Annual Review of Psychology, Volume 55, Issue , Pages 51-86

Cited by: 156
 
The neural basis of error detection: Conflict monitoring and the error-related negativity
Yeung, N. (2004), Psychological Review, Volume 111, Issue 4, Pages 931-959

Cited by: 156
 
Should We Trust Web-Based Studies? A Comparative Analysis of Six Preconceptions About Internet Questionnaires
Gosling, S.D. (2004), American Psychologist, Volume 59, Issue 2, Pages 93-104

Cited by: 150
 
Psychological stress and the human immune system: A meta-analytic study of 30 years of inquiry
Segerstrom, S.C. (2004), Psychological Bulletin, Volume 130, Issue 4, Pages 601-630

Cited by: 146
 
A classification system for method within research reports in Psychology | Sistema de clasificación del método en los informes de investigación en Psicología
Montero, I. (2005), International Journal of Clinical and Health Psychology, Volume 5, Issue 1, Pages 115-127

Cited by: 145
 
In search of golden rules: Comment on hypothesis-testing approaches to setting cutoff values for fit indexes and dangers in overgeneralizing Hu and Bentler's (1999) findings
Marsh, H.W. (2004), Structural Equation Modeling, Volume 11, Issue 3, Pages 320-341

Cited by: 144
 
Pregabalin reduces pain and improves sleep and mood disturbances in patients with post-herpetic neuralgia: Results of a randomised, placebo-controlled clinical trial
Sabatowski, R. (2004), Pain, Volume 109, Issue 1-2, Pages 26-35

Cited by: 142
 
Human brain mechanisms of pain perception and regulation in health and disease
Apkarian, A.V. (2005), European Journal of Pain, Volume 9, Issue 4, Pages 463-484

Cited by: 138
 
An integrated theory of the mind
Anderson, J.R. (2004), Psychological Review, Volume 111, Issue 4, Pages 1036-1060

Cited by: 137
 
Reflective and impulsive determinants of social behavior
Strack, F. (2004), Personality and Social Psychology Review, Volume 8, Issue 3, Pages 220-247

Cited by: 132
 

 



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うつ病患者650万人5年で倍増

 うつ病は、一般に長期にわたり重度のうつ状態が続く「大うつ病」、躁状態とうつ状態を繰り返す「双極性障害」、軽いうつ状態が長期間続く「気分変調症(気分変調性障害)」に分類される。現在広く用いられている米国精神医学会診断基準の最新改定版「DSM-ⅣTR」では、気分障害の下位項目に大うつ病性障害と気分変調性障害、双極性障害が分類されている

  従来の診断基準ではうつ病の成因を仮定し、それを基に分類していたが、診断者によって不一致率が高いのが欠点であった。
  これに対しDSM分類はうつ症状の数と症状の期間を基に総合的に診断する「操作型診断」と呼ばれるもので、臨床経験のみに頼ることなく合理的に診断し治療しようとするものである。DSM分類によるとうつ病の症状9つ(表2)のうち、「抑うつ気分」と「興味と喜びの喪失」を含む5つのエピソード(症状の発現している状態)が2週間以上あり、躁がなければ大うつ病性障害となる。
  また、双極性障害のうち「双極Ⅰ型障害」は、躁もうつも重い躁うつ病であり、「双極Ⅱ型障害」は躁が比較的軽度の躁うつ病である。
  さらに「気分変調性障害」は、少なくとも2年間は抑うつ気分がある日がない日よりも多く、大うつ病エピソードの基準を満たない抑うつ症状を伴うのが特徴である
(Prog Med 27(9)1979-1984(2007.9))。
  1990年代後半、企業のリストラなどによる社会的なストレスの増大でうつ病患者の増加が社会的問題になり始めた。現在、うつ病患者は650万人にまで増えたと推定されている。
  WHOプロジェクトの一環として行われた世界精神保健日本調査(WMHJ 2002-2006)によると、日本で過去1年間に大うつ病障害のあった人は2.1%、生涯有病率は6.7%と、成人の16人に1人が生涯に1度、50人に1人が過去1年にうつ病を経験していることがわかった(日本臨床65(9)1578-1584(2007.9))。1997年~1999年の調査(WHO-ICPE)では、過去1年間の有病率は1.2%、生涯有病率は3.0%であったことから、5年間でほぼ倍に増えたことになる(医学のあゆみ219(13)925-929(2006.12.30))。

  実際に気分障害(うつ病・躁うつ病)のため医療機関を訪れた人は、1999年から2002年の3年の間に44万人から71万人に急増し、2005年はさらに92万人に増加している(図1)。この間、入院患者はいずれの年度も2万8000人前後で変わらず、外来患者で急増している。
  三木内科クリニック院長の三木治氏は、うつ病患者の増加は「一般社会への啓発が広がり、内科医を中心とする一般診療科医の理解が深まった結果、受診率と診断率が高まったため」と分析している(Prog Med 27(9)1989-1993(2007.9))。
  「うつ病は心の風邪」といわれるまでにうつ病の治療が大衆化し、気軽に病院を訪れた結果、外来患者が急増した。実際三木氏らの調査でも、うつ病症状を訴える人の初診科は精神科・心療内科10%に対して内科が64.7%と、7割以上が内科といわれる欧米並みになってきた。
  日本では、欧米に遅れること10年、1999年に初めて選択的セロトニン再取り込み阻害剤(SSRI)と呼ばれる新しいタイプの抗うつ剤が登場し、販売企業による潜在患者の堀り起こしもあって、2?3年で2倍以上も新薬市場が拡大した。
  ところが、「早期受診で早期治療したからと言って患者が増えた分だけ治せるようになったわけではないというのが現場の医師の声」と指摘するのは、防衛医科大学校精神学講座の野村総一郎氏。同氏は、抗うつ剤の伸びと自殺率の減少は相関するという北欧のデータ(臨床精神薬理8(4)605-614(2005.4))に対しても、「抗うつ剤で病気が改善し自殺が減るから早期に治療すべきとは素直に解釈できない」とする。
  東京慈恵会医科大学精神医学講座の中山和彦氏は、「日本で自殺者が急カーブで上昇し3万人を超えたのはバブル崩壊後の1995年から1999年ごろだが、うつ病患者の急増期はむしろ2002年以降、自殺者数が横バイとなった時期」と指摘している(臨床精神薬理8(4)585-591(2005.4))。 うつ病の治療は「抗うつ剤」と「気分安定剤」による薬物療法が主要な選択肢となる。そのうち、「炭酸リチウム」を代表とする気分安定剤は、双極性障害に対し、抗躁作用と抗うつの双方向の作用を有する薬剤という概念で用いられている。
  炭酸リチウムの抗躁効果は1949年に発見された。日本でも1968年頃から治験が行われ、1972年の日本精神神経学会で躁うつ病治療が紹介され、1980年2月に大正製薬が「リーマス」として発売した。
  炭酸リチウムには抗うつ剤が持つモノアミン系に対する際立った作用はないが、抗うつ剤の増強療法で併用される気分安定剤として最もエビデンスが多く、ガイダンスの多くで推奨されている(Prog Med 27(7)1999-2004(2007.7))。
  その他に、気分安定剤として抗てんかん剤の「テグレトール」(カルバマゼピン)とデパケンなどの「バルプロ酸ナトリウム」が、それぞれ1990年と2002年に双極性障害への適応追加が承認された。
  うつ病の薬物療法の主役となる抗うつ剤は、日本では1959年以降1998年までに13種類が発売された(表3)。このうち、モノアミン酸化酵素(MAO)阻害剤の「サフラジン」は、肝障害などの副作用のため1997年に製造中止となった。これを除き、12種類の第一世代・第二世代の抗うつ剤が販売されてきた。

 第一世代と呼ばれる三環構造のイミプラミンに抗うつ効果が発見されたのは1957年。同剤は1959年に日本で発売された。その後、イミプラミンの化学構造の一部を変えた三環系抗うつ剤(TCA)が開発され、日本にも1960年代から1980年代に導入された。
  1980年代になり、TCAの副作用の原因となる抗コリン作用、抗アドレナリン作用、抗ヒスタミン作用を改善した四環系抗うつ剤が開発され、順次日本でも発売された。
  だが、TCAや四環系抗うつ剤と同様に「うつ病のモノアミン仮説」に基づく作用メカニズムを持ちつつ安全性、忍容性の面で従来の抗うつ剤よりすぐれることから、欧米で専門医に限らず一般診療科医にも広く用いられるようになったSSRIやセロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害剤(SNRI)などの次世代では欧米に10年遅れることになった。2006年の「ジェイゾロフト」(セルトラリン)まで日本ではSSRI3剤とSNRI1剤が登場したが、海外ではすでにSSRIは6剤、SNRIは3剤が発売されている(図2)。

 新世代の抗うつ剤が欧米の1/3以下しか発売されていない原因の1つに、日本の臨床試験実施基準(GCP)が国際化への移行期にあったことが挙げられる。もう1つは、日本の医師の約9割が精神科領域の臨床試験でプラセボを使った対照試験に強い抵抗感を持っていることが新しい抗うつ剤の開発を困難にしたとも指摘されている(医学のあゆみ219(13)937-942(2006.12.30))。



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時間栄養学

同じカロリーを食べる場合にも、
朝食べれば消費は速くてエネルギーになりやすくて
夜中に食べれば脂肪になりやすいことは
分かりやすいが、
それは寝るということの他に、
代謝そのもの、酵素の誘導とか、いろいろな物質が現実にかかわっているらしいとも言われる。
時間栄養学という。

*****
一方で、三度の食事が体内時計の時間合わせに役立っている。
三度がいいのか二度でもいいのか、二度がいいのかについては、決定的な意見はないが、
三度が多数派、二度が少数派である。



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精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」 中安

シリーズ対談 心の科学 [第二回]
精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」
不安から妄想へ、精神分裂病の再適応過程 Chap.1

精神病の代表的な疾患である精神分裂病は、
ときに哲学や心理学の自我の概念を用いて分析されてきた。
しかし、精神分裂病の成因論を自我論から解放し、
仮説としてのモデルに基づいて患者の心的体験を詳細に検証していけば、
神経心理学に接続できる新しい「心のモデル」を構築できるかもしれない。
ガン細胞さえ正常に戻してしまう「発生の場」
<土屋>
人生の悩みなんていうのは誰でも持つわけですよね。何日も仕事が手につかないとか、みんな一度は経験していると思います。そういう症状と、精神疾患――いわゆる精神病と呼ばれるような症状とはどのように区別なさっているんですか。

<中安>
精神疾患は成因的に大きく二つに分けられます。まず一つは、正常心理の延長線上・・・いわゆる正常者の心理の中にもあるものが日常生活に支障をきたすほど量的に肥大したケースです。例えば、神経症の一つに強迫神経症というものがあります。その中の代表的なものに確認強迫といいまして、ガスなどの火の始末を何十回も確認せずにはいられないために外出できなくなったり、不潔に対する恐怖から手の皮がむけるまで手を洗うといった症状が出ます。こういうことは正常者の心理の中にもありますね。つまり質的には正常者の心理と同じなのですが、ただ量が異常に多い場合です。

もう一つは、明らかに脳の障害であると理解し得るものです。まだ脳の異常だとは確認されていない疾患もありますが、薬理的な根拠などから脳の障害だろうと思われるものですね。この場合は、正常者の心理の中にまず現れないような、質的に全く異なる体験が現れます。例えば、精神分裂病などはまさにそうですが、幻聴、幻視、あるいは興奮・・・興奮といってもわれわれが喧嘩して興奮するような質のものではなくて、一目見ればわかるという激しい興奮状態が出てくるわけです。精神疾患というのは、わかりやすく言えば心の病と脳の病、大きくはこの二つに分かれるのです。

<土屋>
つまり前者の方は、原因は脳ではないとみなされているのですか。

<中安>
その辺が難しい。精神医学の進歩で、かつては量的な異常であると考えられていた疾患から、質的な異常、脳の異常が見つかってきているのです。例えば、強迫神経症も、私が20数年前に医者になった時には、心理的ストレスによって起こるために、治療はカウンセリングしかないといわれていました。でも、カウンセリングでは全然治せなかったわけです。ところが、ここ4、5年ですかね。特効薬が見つかってきて、その薬を使えばたちどころに治るというような状態になってきています。薬が効く、つまり化学物質が効くということは、脳内の化学的な異常があるんだろうということになります。そして今や強迫神経症の原因は、脳の障害として考えられるようになりつつあります。

ただ、まだ非常に多くの疾患が正常心理の延長線上――つまり量的な異常と理解されています。病的な体験の裏に脳の異常があるのかどうか、実際のところまだはっきりわからない。むしろ否定的ですね。そういう場合は、心の病といった方がいいだろうと思います。

<土屋>
現在では心の原因は脳であるとされていますね。脳の構造に対応して機能のモジュールがあり、それらがお互いに情報交換し合って認知的なプロセスが動いているという一つの圧倒的なパラダイムがあります。ですから、心に何か変なことが起きているとすれば脳が変な状態にあると考えるのは極めて自然だと思うんですが、にもかかわらず、やはり心の病があるとお考えになる理由は何なのでしょうか。今、先生がおっしゃったような、成因論的に脳に戻っていかない、脳の異常を原因としない精神疾患――真の意味での心の病といえるものがあるのでしょうか。

<中安>
心の機能・働きをすべて脳に還元して考えるならば、量的な変異といえども脳に何らかの変調があるだろうと考えられますね。そうすると、すべて脳障害という考えが出てくるのも不思議ではありません。

ですが、臨床的に見てみますと、この人の、この人生において、こういう出来事があったが故に、この人は今の状態になっている、と考えると納得できる場合があるわけですよ。例えば、境界性人格障害という、性格が極度に不安定で激しくなるために、通常の社会生活を送ることが困難になってしまう精神疾患があります。この場合、生い立ちからして、あるいは生活史上の出来事からして、故に患者さんはこうなったんだというのを心理的に了解できるんです。もちろん、そういうイベントが脳に変調を与えたんだといって脳障害に還元することはできますけれども・・・。

<土屋>
脳に異常が起こったと言及することなしに、十分にシステムとして了解できる、そういう現象があるということですね。

<中安>
そう。逆にいうと、脳の障害に還元できる疾患の患者さんたちには、そういう原因は見当たらないんです。精神分裂病、躁鬱病の人たちはみんな、症状がパターン化しているんですよ。分裂病や躁鬱病の患者さんを、半年、一年診ていると、パターンでわかってくるんです。ところが、正常者をパターン化するのはとにかく難しい(笑)。何よりも薬が効くことが、分裂病が脳の病であることを保証していると思いますね。ただし、分裂病の成因に関しては、学者の意見も分かれています。私は分裂病脳病論の方ですけど。

<土屋>
薬が効いたというのは、基本的には症状がなくなるということですか。

<中安>
そうですね。

<土屋>
脳の状態が改善されたことを客観的に確かめる手段はありますか。

<中安>
今のところないですね。心的体験とはどういうものか、心のあり方とはどういうものかと考える場合でも、精神科医は患者さんの体験陳述から始めるしかないんです。

症状の詳細な記述から心のモデルへ
<土屋>
確かに身体の場合だって、症状を訴えることから始まりますね。

<中安>
むしろ身体の場合は最近は症状が軽視されていますよ。計測機器を使えば異常がすぐにわかるというふうになっていますからね。ところが精神疾患、ことに精神分裂病の場合は、わかっているのが症状と経過しかないんです。だから診断するのも症状と経過を拠り所にします。ただ従来の精神病理学で問題だなと思うのは、心的現象の記述・記載が極めて不十分だったということなんですよ。

<土屋>
症例報告に出てくる記載がですか。

<中安>
そうです。少なくとも分裂病における病的体験の記述は不十分です。例えば精神病理学では、現象記述とは体験のありのままの記載だという考え方がありますが、体験をありのままに記載するなどということはできないはずです。せいぜい医者として記載しているのは患者さんの言語陳述に過ぎない。患者さん自身が自分の体験を話す過程で何らかの修飾が加わってくる可能性が十分にあるわけですからね。

<土屋>
非常に共感します。精神科のお医者さんの書かれた現象学的記述を拝見すると、素直に、極めてナイーブに症状の記述を……ある意味で、それを常識的な意味で理解して、それをもとにして心のモデルを作られてきているなという感じがしていました。だから今おっしゃったことはよくわかります。それに、今の認知科学や哲学、あるいは生理学、物理学でアプローチする人たちも、心理学的な事実の表現について全然分析を加えていない。つまり心的現象の記述が全然できていないわけです。そうすると、こういう心的現象は脳の中にこういう対応物があるんだという話をしようにも不可能です。

<中安>
もう一つ言うならば、ありのままの記載では学問にならないと思うのです。やはりわれわれは、ある種の概念で現象を切り、分析していくわけですから・・・。患者さんの陳述を概念化してこそ初めて「学」といえるものになるのであって、ありのままの記載なんてできないと思います。

<土屋>
こう言い換えてもいいんじゃないでしょうか。患者さんの体験陳述が出てくる。それをただ常識的な意味で受け取って、それに対応する物理的、生理的な原因を探すだけではだめで、理解するためのモデル化が必要だということですね。

<中安>
そうです。例えば幻覚というものがありますね。分裂病の場合の幻覚は、あるものが実際に聞こえたり見えたりするわけです。それを幻覚、すなわち幻の知覚という形でまとめてしまう。ところで、これを知覚の障害だと理解する向きが圧倒的に多いんですよ。そして錯覚と幻覚を同じように捉えています。

<土屋>
そうなんですか。それは違うでしょうね。

認知科学が実験室から出られれば
<中安>
錯覚というのは知覚素材あるいは対象があって、それが変容して認識される現象です。一方幻覚は、そもそも知覚対象がないわけですから、それを知覚の異常、知覚の障害と捉えることはできないはずです。それを単に形式の類似性に基づいて、幻覚は知覚の障害、妄想は思考の障害であるとこれまでは理解されてきているわけです。私は精神症候学というか分裂病の症候学から、最終的には分裂病の脳、神経心理学的なものに橋渡ししたいと思っているんですけど、これでは全く橋渡しできません。 ただ、先ほども申し上げましたように、分裂病はまだ症状と経過でしか規定されておらず、患者さんの心的体験は言語陳述的にしか表出されないのは事実ですから、われわれは少なくとも最終段階の体験陳述を対象とするところから出発せざるを得ません。そして、最終的な体験陳述が出てくるまでのいろいろなプロセスを個別に見て、それをもとにモデルを作って初めて、分裂病を科学の対象にすることができます。その際に、私も認知科学には非常に興味があるんですが・・・。

<土屋>
底が浅い(笑)。

<中安>
底が浅いというよりも・・・ちょっと使えない。認知科学は実験室内――つまり限定された条件下で調べるわけですね。でも患者さんは条件が限定されない日常生活の中で、ありとあらゆる刺激物と出会っているわけです。その点を考慮して、私は非常に卑近な正常者の日常体験から出発せざるを得ないと思ったわけですよ。

<土屋>
それは多分、私の考えていることと近いかなと思います。実験室の心理学では、知覚体験を考える場合にしても、伝統的には顔を固定したまま目の前に物を見せて調べるわけです。でも、そんなふうにして物を見る人はいません。しかし、そうしないと条件がコントロールできないと実験心理学者は言うんですが、実際の人間が体験しないような条件でコントロールすることにどれくらい意味があるか疑問です。今認知科学でも、実験室的でない現象をどのようにして理論化するかというところに関心が移ってきていると思います。リアルワールドで、人間というかエージェントが、相互作用をしながら何か一定の目的を追求している場面をなんとかモデル化したいという状況になっています。

そんな中で出てくるのは、1人の人間が心を持っているとした場合、その中で記述が閉じてくれるかどうかという疑問だと思うんですね。例えば知覚体験にしても、心という能動的な主体があって外界という客体があるという静的なイメージでは理解できないはずです。もう少し進めて考えると、ギブスンという心理学者が昔アメリカにいて、生態学的な知覚論と称するものを展開しているんですが、知覚というのは人間と環境の相互作用であるというような言い方もされるようになります。そういう面からも、実験室的なモデルは、すこし調子が悪くなってきていることは事実なわけですよ。

<中安>
そうですか。私も実験室内で形成された認知のモデルを持ってくるだけじゃだめだろうと思っています。正常者の日常的な体験からある認知モデルを作る。そのモデルの中で、この分裂病者の体験はどうなのかということを解析する必要があると考えています。それまでバラバラな精神機能の障害として見られていた症状が統合的なものとして理解され、なおかつ症状が併存するとか、あるいは症状が変わっていくといったことが、実際の患者さんの言語陳述を通して臨床の現場で確認されれば、そのモデルが正しいことが証明されるでしょう。

シリーズ対談 心の科学 [第二回]
精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」
不安から妄想へ、精神分裂病の再適応過程 Chap.2
曖昧にしか規定されていなかった「心的体験」を捉え直す
<中安>
そこで私はまず、そもそも患者さんの心的体験とは何なのかについて、見直してみようと考えました。従来の精神医学では心的体験の捉え方が極めて曖昧で、有名な精神病理学者のカール・ヤスパースですら、「体験とは比喩的に意識の流れと名づけられ」としか述べていません。私は、心的体験とは、主体と客体とが営為によって結びつけられ、その全体を主体が対象化したものだと思います。

<土屋>
先生のモデルは、主・客を分けて対立させているように思えて、そこに私は少しひっかかるのですが・・・。心を持った主体の側――つまり、心の営みを重視しすぎている感じがします。

<中安>
表現の仕方が悪かったかもしれません。この場合「視る」「聴く」といった能動的なことだけを心的営為と考えているわけではなくて、「視る」じゃなくて「見える」、「聴く」じゃなくて「聞こえる」というふうに、主体が能動的じゃなくて、むしろ客体の方が迫ってくるような――主体が受け身的な部分もモデルの中には入ってます。必ずしも能動、受動というイメージじゃないんです。

<土屋>
日本語の場合には、「聞こえる」とか「見える」とか「浮かぶ」とか、自生的な言葉で表現されることが多いですね。

<中安>
分裂病の初期症状の中でも一番特徴的なのは、自生体験――自ずから生ずる体験なんです。過去の記憶がワッと浮かんでくるとか、まさに主体が客体にさらされる状況ですね。非常に面白いところです。

私が主・客をことさら強調したのは、旧来の精神医学に対する不満からなんです。従来の精神科の教科書では、自我意識と対象意識をはっきり分けていました。全く別の扱いなんですよ。でも考えてみてください。例えば、私がコップを見ているとしますと、私という主体とコップという客体が、それを見るという営為で結びつけられますね。これが一つの心的営為です。そして、それを対象化しているのがまた同じ私という主体であり、そうして形成された心的体験を私が陳述したものが体験陳述です。つまり、対象意識の背後には自我意識があって、両者は実は一対のものなんですね。そのことを主張したいがために、主体、客体、営為というモデルを出したのです。

<土屋>
なるほど。わかりました。何か行為がある以上は、対象意識と自我意識とが両方あるはずだということですね。

<中安>
そうです。もともと二つは一対のもので、主体と客体、それをつなぐ営為の三者で構成される心的営為全体を対象化するベクトルを少し主体に傾けたのが自我意識、少し客体の方に傾けたのが対象意識ということでして、どちらに焦点化したかというだけの違いなんです。

<土屋>
それならわかります。そうすると、従来自我意識とされていたものが、むしろ行為に対する意識という位置づけになってくるわけでしょうか。

<中安>
行為における主体のありようが自我意識でしょう。

近代の自我論では精神疾患を説明できない
<中安>
そうなんですか。離人症の患者さんは、今ここに自分が存在しているという感覚が希薄になるんです。これは従来の精神病理学では自我の障害だといわれていました。もう一つ、体感異常という症状があります。こうした患者さんの場合、胸に10センチくらいの空洞があるとか、目の奥に3センチくらいのしこりがあると実体的に感じます。そして、離人症は自我の障害だとする一方で、片方は体感の異常だと区別する。ところがこの二つは併存することが多くて、離人症にかかった人が同時に体感異常を訴えてくるんですよ。さらにいうと、そういう患者さんは実体的意識性――いわゆる気配ですね――をありありと感じるという症状も併存することが多いんです。これは従来意識性の障害と理解されてきました。つまり、それぞれの症状が併存しているのに、全然統合できないんですね。私は、離人症をはじめとするこれらの症状を対象化の障害と考えています。つまり、正常の対象化では知覚の素材、いうならば形象に、対象化に伴って生じるある性質、いわば実感が付与されると考えるんです。そしてこの対象化に障害が起きると、一方では「対象化性質の脱落態」、いわば「実感なき形象」になってしまうわけで、これが離人症なんですね。他方はその逆で、「対象化性質の幻性態」、「形象なき実感」となって、これが体感異常や実体的意識性というわけです。このように対象化の障害という観点を導入することによって、それまで全く別の障害と考えられていた症状の臨床的合併が統合的に説明できるようになるわけです。

分裂病もそうです。従来、自我障害こそ分裂病の最も典型的な症状だという議論があるのですが、私はそうじゃないと考えています。例えば、自我障害の典型的な例として「させられ体験」というのがあります。どういう症状かというと、自分が今、水を飲むとしても、これは自分がやっているんじゃない、何者かにさせられてる、と患者さんは言うんですよ。それを「させられ体験」といって、原因は自我の障害だとみなされてきました。ですが、これは「させられる」と患者さん自身が語ってますよね。語っているという能動的な自我が存在している、もしくは語る以前に「させられている」と感じている自我がいるわけです。それは極めて能動的な自我です。したがって、「させられ体験」というのは自我が障害されているかのような形を取った、何か別の障害だと思うんです。

<土屋>
「我思う、故に我あり」ですね。つまり、「我させられるが故に我あり」というか「我感じるが故に我あり」というような。

<中安>
「我させられると感じるが故に我あり」ですね。私自身は、近代の自我論は、精神医学、中でも分裂病の理解にはほとんど無関係だと思っているんです、実は。私自身は精神病理学を近代の自我論から解放したいのです。

分裂病は状況意味を失認する病
<土屋>
自我論からの解放というのはわかるような気がします。それでは、先生は分裂病というのをどのように捉えていらっしゃいますか。

<中安>
私は分裂病は直接的には状況意味失認が基本障害だと思ってます。状況意味というのは、ある個別のものがこの状況において、どんな意味を持つのかという話ですね。例えば、財布が私の机の上に置いてあれば、これは私がただ置いているんだとなりますね。しかし、道路に落ちている場合だと、財布は財布なんだけど、これは誰かがうっかりして落としたんだろうというふうに意味づけられる――つまり他の対象物との相互関係の下にその個物の状況における意味は転変していくわけです。で、分裂病における状況意味失認とは、状況意味を認知する中枢機構があって、そこに障害が生じているんだと考えるわけです。

一番わかりやすい例が、分裂病の代表的な症状である妄想知覚ないし被害妄想ですね。例えば前の方から2人の人が歩いてきて、通り過ぎる時に、2人がフフッと笑ったとします。通常であれば、たまたま自分とすれ違う時に2人で面白い話でもしたんだろうと、すれ違った時にたまたま笑ったのだと考えますよね。ところが、分裂病の患者さんであれば、自分を当てつけて笑った、あざ笑ったと思ってしまうんです。つまり患者さんは、「通り過ぎた人が笑った」という事実――私はこれを即物意味と呼んでいますが――は正常に知覚しているのですが、状況意味を誤認しているがために「自分をあざ笑った」と考えてしまう、ということです。シュナイダーという有名な精神病理学者がいたんですが、「妄想知覚とは、知覚は正常だがその意味づけが誤っている」と言っています。まさにその通り。妄想知覚というのは、即物意味は正しく認知されているけれども、状況意味が誤認されているということなんです。そういうことから、意識上・自覚的認知のレベルで状況意味誤認が生じる元は何かというと、意識下・無自覚的認知のレベルでの状況意味失認だと理解していいだろうと思います。

<土屋>
即物意味とは、考えてみると意味すらない状態とも言えますよね。

<中安>
状況意味を正しく認知できない状態になると、動物というのは生きていけないのです。

<土屋>
「意味の世界」に住んでいるのは人間だけではないということですね。

<中安>
ですね。

シリーズ対談 心の科学 [第二回]
精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」
不安から妄想へ、精神分裂病の再適応過程 Chap.3
不安から逃れるために架空の恐怖を作りだす
<中安>
妄想知覚、被害妄想は、状況意味失認の次に生まれるんですよ。他人がフフッと笑った、なぜだろうと困惑する、不安になる。そこであれは当てつけなんだと意味づけて理解してしまう。そういう被害妄想が生じるというのは、非常に自己防衛的な反応なんです。人間にとっては、失認で生じる不安よりも、妄想の恐怖の方が楽なんです。特定の対象に対する恐怖の方が、わけのわからない不安よりもよっぽどいいんですよ。なぜそうなるのか、なぜ統合しようとするのか。それは、状況意味を認知しよう、意識下で状況を認知しようというのが、自己保存にとって必須の機能だからだということになります。さらに情報入力が意識上に上がってきても、脈絡がないから統合できないんですが、そうなると、自己保存の危機という意識が一層醸成されるので、何とか統合しようとするわけですね。

重要なことがもう一つ、状況意味というのは蓋然性の世界なんですね。つまり可能性です。だから、「こんなの絶対に間違っている」と言って患者さんにブレーキをかけられないんです。実際、妄想患者と議論しても、延々と平行線をたどるばかりで議論になりません。「でもこういう可能性があるじゃないか」と患者さんから反論されれば、可能性ですから、確かにそうかもしれないとなる。結局患者さんは、偽りの統合――偽統合しちゃうんですね。今述べた妄想あるいは幻聴というのは、患者さんにとっては非常な恐怖、苦痛を与えるものですが、ある意味でそれらの症状は防御反応、再適応過程なのです。

<土屋>
状況意味失認というのは、よくわかります。要するに人間でも相当下等な動物でも意味の世界に住んでいる。それは非常に重要ですね。そこで、意味っていうのは何だろうと考えた時、先ほど先生がおっしゃったように、ある種の安定した相関関係がある出来事に結びついている時に、意味というものが出てくるだろう。で、それが崩れるか、蓋然性の低いものが出現した時に、確かに驚いたり、警戒したりすることは事実だろうと考えられます。そうすると、どんな動物だって意味的な理解がなければ、生活をオーガナイズすることはできないだろうと思うのです。

そして、話を人間の方に持ってきた場合に、そういう意味の世界は極めて複雑になっていて、あるいは予測不可能な部分もいろいろあって、大体いつもこういう関係にあるんだよということでないようなこともよくあります。どう理解していいのかわからないというケースもたくさん出てきます。同時に何かが起きたりすると意味が捉えられなくなって、その瞬間パニックになってしまうこともありますよね。

<中安>
まさに先生がおっしゃったように、分裂病の中には意味がとれなくなってパニック状態になったものがあるんですよ。それが緊張病状態です。緊張病状態になると、興奮あるいは昏迷という状態になる。興奮というのはランダムな動きです。ダーッと走り出して、壁にぶつかったり、ころげまわったりします。一方、昏迷は一切の自発性の停止なんですよ。目をあけたままボーッとしている。相当な刺激を与えても、無反応です。実はこうした興奮や昏迷と似た反応が動物にもあって原始反応といいますけど、パニックになった時に運動乱発といってランダムに動いたり、擬死反射といって無反応になったりします。

そして、パニックにならない場合に妄想形成するんです。妄想によって意味を見いだしてパニックを回避するわけです。これが再適応なんです。分裂病で見られる妄想形成は、生物の自己保存本能から必然的に生じる再適応過程なんですね。

<土屋>
先生がおっしゃるとおり、状況意味失認という概念は非常に大事ですね。自我というような曖昧な概念ではなく、ある意味ですべての生物に適用可能なレベルの概念で説明できるということを示すところが、実は非常に重要じゃないでしょうか。

分裂病は人間固有の特別な病気ではない
<中安>
私は分裂病というのは、そもそも人間固有の病ではなくてホモ・サピエンスという動物の病だと思うんです。こんなことを言うのは、精神科医の中でもやや異端かもしれません。ある学者はサルや金魚にも分裂病があると言います。極端な意見ですが、私は正解だと思っています。分裂病は動物としての病だと考えているんです。一般的に分裂病は120人に1人かかるといわれていますが、私はもっと多い・・・そう、80人に1人くらいはかかると思います。ですから、分裂病は特別な病ではないし、ましてや差別の対象になるような病でもない。動物としての人間がかかる、よくある病気の一つなのです。そういった意味では、精神科という呼称はやめてしまって、脳内科という言葉をつけたいくらいです。脳外科に対応した言い方ですが、精神科という言葉はよくないですね。いかにも人間としての特別な病という印象を受けますから・・・。

<土屋>
脳内科というのはいい言葉ですね。

<中安>
分裂病を動物の病であると考えると、他の病気と同様に治療できる可能性があることを意味します。ガンと同じで、早期に診断を下し、適切に投薬できれば、将来治癒できる確率が高まると思うのです。そこで重要になってくるのが分裂病であるかどうかを早期に判断することで、そのために私は、分裂病の初期症状の詳細なデータを積み重ねる研究をこれまで進めてきたわけです。

<土屋>
今のお話でどんな生き物でも分裂病になりうるのだとすると、認知科学が考えていることとつながるような気がします。人間の知覚にせよ、行為にせよ、人々とコミュニケーションをとるという場面にせよ、確たる近代的自我が利益を最大化するような話では決してないでしょう。むしろ動物と同じように、意味的に完成される余地の残っているさまざまな対象を、ある状況の中で解釈可能な意味づけを与えることによって、理解しようと試みているのだと考えられます。もしそれが上手くいかない時には、確かに病的なことが起こるかもしれない。ただ、その時だけ上手くいかないという場合もあるし、今後もずっと上手くいかないという場合もある。後者の場合には、それが精神病だという形で分類されることがあるかもしれないというあたりのところまでは、かなりの人が同じ方向で考えているんじゃないかなという感じがします。

これまで私は、精神病理学というのは難しいというか、論文を読んでも漢字が多くて近づきにくい世界だと思ってましたが(笑)、先生のお話を伺ってきて、精神病理学の言葉を認知科学の言葉に対応させると、もしかしたらお互いに新しい視点を獲得できるのかなという感じがしました。認知科学をやっている人にも精神疾患について理解しよう、治療とはいわないまでも何かプラスになるような形のことができないかと考えている人たちがいます。しかし、その人たちもある意味で非常に古いタイプの精神病観を持っているのかなと思っていましたので、むしろ先生のような発想を翻訳して伝えてみるのも面白いという気がしました。

<中安>
それはありがたいことですね。

精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」/END

精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」■参考文献一般向け
中安信夫・編:対談 初期分裂病を語る、星和書店、1999
クラウス・コンラート:分裂病の始まり、岩崎学術出版社、1994
カール・ヤスパース:精神病理学研究1、みすず書房、1969
カール・ヤスパース:精神病理学研究2、みすず書房、1971
土屋俊:心の科学は可能か 認知科学選書、東京大学出版会、1986
ダニエル・C.・デネット著(土屋俊・訳):心はどこにあるのか サイエンス・マスターズ〈7〉、草思社、1997
土屋俊、広松渉:徹底討議・知性をもつハードウェア―認識から行為へ(対談)(特集・ロボット―思考なき知性)、現代思想、1990年3月号
専門向け
中安信夫:初期分裂病、星和書店、1990
中安信夫:状況意味失認と内因反応―症候学からみた分裂病の成因と症状形成機序、臨床精神病理11:205-219、1990
中安信夫:分裂病症候学―記述現象学的記載から神経心理学的理解へ、星和書店、1991
中安信夫:初期分裂病/補稿、星和書店、1996
中安信夫:方法としての記述現象学―<仮説―検証的記述>について―、臨床精神医学28(1):19-29、国際医書出版、1999
中安信夫:精神病理学における「記述」とは何か、臨床精神病理14:15-31、星和書店、1993
土屋俊:移動ロボットの設計原理に関する基礎的考察、『哲学』第39号抜刷、1989
David Israel, John Perry, and Syun Tutiya : Executions, Motivations, and Accomplishments, The Philosophical Review, Vol.102, No.4, 1993


 



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深尾憲二朗: 自己・意図・意識- ベンジャミン・リベットの実験と理論をめぐって

深尾憲二朗: 自己・意図・意識- ベンジャミン・リベットの実験と理論をめぐって. 中村雄二郎,
木村敏編: 講座生命7. 河合文化教育研究所,

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リバタリアンの古典 フリードマン 資本主義と自由

資本主義と自由 (NIKKEI BP CLASSICS) (単行本(ソフトカバー))
ミルトン・フリードマン (著), 村井 章子 (翻訳)

*****
アマゾンから引用

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』、フリードリッヒ・ハイエク『隷従への道』と並ぶ自由主義(リバタリアニズム)の三大古典の1冊。

本書が出版されたのは1962年。100万部近く売れた大ベストセラーだったが、国内で書評に取り上げたのは、アメリカン・エコノミック・レビュー誌の1誌だけ。ケインズ派を中心とした経済学の主流派やメディアからは完全に黙殺された。なぜ? フリードマンが書いた内容があまりに「過激」だったからだ。

本書第2章に、政府がやる理由がない政策が14列挙されている。●農産物の買取保証価格制度●輸入関税または輸出制限●農産物の作付面積制限や原油の生産割当てなどの産出規制●家賃統制●法定の最低賃金や価格上限●細部にわたる産業規制●連邦通信委員会によるラジオとテレビの規制●現行の社会保障制度、とくに老齢・退職年金制度●事業・職業免許制度●いわゆる公営住宅および住宅建設を奨励するための補助金制度●平時の徴兵制。「自由市場にふさわしいのは、志願兵を募って雇う方式である」●国立公園●営利目的での郵便事業の法的禁止●公有公営の有料道路

マルクス主義が20世紀を代表する思想だとすれば、フリードマンの自由主義は21世紀の主要思想になるはずだ。多くの復刊希望に応えての画期的な新訳で、リバタリアンの真髄が手に取るように理解できる名著。

日本では1975年にマグロウヒル好学社から翻訳出版されたが、絶版になっていた。本書は、2002年にシカゴ大学から出版された40版アニバーサリー版を元にベテランの翻訳家の手で見事な日本語訳となった。竹中平蔵元大臣の補佐官、内閣府参事官として郵政改革を仕上げた高橋洋一氏(東洋大学教授)の解説付き。

*****
個人的には
連邦通信委員会によるラジオとテレビの規制
が特筆に価すると思う。
規制の理由がないというのは控えめな言い方で、
規制はすでに害悪である。

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人権問題について、国際社会と大きな感覚のズレがある 読売社説

聖火護送リレー 「平和の祭典」からはほど遠い
 テレビ中継を見ながら、「こうまでして聖火リレーをする必要があるのか」と感じた人も、少なからずいたことだろう。
 人権問題について、国際社会と大きな感覚のズレがある。

 中国政府は、ようやくチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世側との対話を再開する姿勢をみせたが、五輪のためのポーズで終わらせてはなるまい。
(読売社説)

*****
大きな感覚のズレというのは
重大な表現で、
「感覚」のズレならば、他人がとやかく言うべきものではないということにもなるだろう。
「とやかくいうべき何か」なのではないか?
しかしその根拠は何か?
人権問題は感覚の問題なのか?

あなたは間違っている、
なぜなら、と理由を述べて、相手が納得するような実験や証拠を用意できるか?
そこまでしなければ、
中国には土地もあり人口もあり資源もあり技術もあり歴史もあるのだから、
感覚がズレているというだけの表現で引き下がるとは思えない。
あなたが正しいと証明してみなさいと言われるだけだ。

知り合いの中国人はもちろん、よくないです、と言っているが、
中国政府の言い分としては、
感覚のズレならば、向こうからみても、こちらがズレているはずだ。
多数決で決める問題なのか?
一人一票なら中国は強い。一国一票ならアフリカも強いしEUも強くなった。
GDP換算で多数決をしたいところだろうがそんな制度はない。
G7とかで多数決をする?

各国で歴史に違いがあるのだから、感覚にズレがあるのは当然のことだ。
アフリカでの性習慣が、エイズその他と関係し問題があることを連想する。
少しずつ理解してもらうしかないが。
そのような発展段階なのだと安易に言うことも最近は批判されると思う。

たとえば中国には宦官がいたし、纏足があった。もともととんでもない国である。
しかしまた西洋ではカストラートはましな方で、
魔女裁判から自己去勢まで。まけずにとんでもない。
そうした自己抑制の宗派がドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟に絡んでくる。
遠い話ではない。
捕虜を去勢された奴隷として使用しようとする目的で去勢していたのは
ずっと昔のシュメール人。
家畜を去勢すると従順になり命令に従い易くなることを知っていた応用したらしい。
アフリカではいまだに女性器切除があり、FGMと呼ばれている。

人間はこんなもので、
だからこそ中国はズレたままでいるのだし、
誰もどうにもできないのだと思う。
長い時間が必要だと思う。

それより、聖火リレーはごり押しで通すくせに、
年金問題は解決不能だし、
健康保険問題はもう明らかにまずいし、
どうして地道な日常的な活動がきちんとできないのか問題だ。
個人で言えば、運動会だけは張り切って、
普段はでたらめな学生のようだ。
運動会なんかやめなさいとお仕置きしたくなる。



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世界観

宇宙論とか世界観に関しては書きたいこともある
しかし散々書かれた後であり
わたしとしては付け加えるものもない
自分なりの表現ができるというだけで
実際Paul Davies, "God & the New Physics"などのような説得力を持っては書けないし、
J.C.Eccles先生のように強い確信をもって書けるわけでもない。

懐かしく思い、いまJ.C.Ecclesを検索してみると、
googleでしばらく眺めてみたところ、
神経科学者としての業績と
二元論者としての業績が取り上げられているようで、
amazonではさらに乏しく
The Self and Its Brain K.R. Popper , J.C. Eccles のみが本格的な著述として残っている。

神経の抑制性シナプスと促進性シナプスの二つがあることを実証してノーベル賞を受けた。
伊藤正男先生がEccles先生のところに留学して弟子となり、
日本の大学で弟子を育てたから、わたしなどは弟子とはいえないが、世代としては、
Eccles先生の孫弟子ということになる。

晩年は二元論の立場で積極的に発言し、
創発性(emergency)唯物論などを攻撃していたが、
若い唯物論的陣営からは、
棺おけに片足を突っ込めば優秀な人でも信仰に頼るものだ、その例として、などと引用されたりもした。
K.R. Popperと一緒に三世界論などを展開、
多分、二元論の変形と解釈されるものだろう。

わたしが勉強していたのはその頃の話で、
唯物論と二元論と言っても、
デカルトとかパスカルの方面の話であって、マルクスはまったく関係がない。

現代の脳科学者ではJ.C.Eccles、脳外科医ではWilder Graves Penfieldが二元論を唱えた。
Penfieldは1933年てんかんの治療のために行われる開頭手術の際に脳を電極で刺激すると、鮮明な記憶がよみがえることや手足が動くこと、感情が刺激されることを発見し、脳の部位別機能図を作った。
EcclesやPenfieldのように実際に神経や脳を研究している人が二元論をまともに言うのだから、興味がある。

いまから思ってみると、カナダ、アメリカ、オーストラリアなどでの宗教的環境はそのようなもので、日本とはかなり異なるということだ。
その頃からニューエイジサイエンスとかトランスパーソナル心理学とかの流れがあり、
アメリカ西海岸を発信地としていた。
ドラッグとかヒッピーとかの流れでもあり、東部エスタブリッシュメンツからは嫌われていたようで、
わたしなども、
フロイトは天才で100点の中で90点くらいだと思うが、
ユングもかなりの天才で70点くらいはいくだろうと思っていて、
しかしユングには問題があると評価が辛い人もいて、
そんな人たちはおおむね、ニューエイジとかトランスパーソナルへの点数も辛いようだ。

わたしは同時代人の中ではミルトン・フリードマンとケン・ウィルバーが天才で90点くらいだと思っているが、
どちらも日本では点数が辛い。

ケン・ウィルバーは、「プレとトランスの錯誤」を解説していて、
近代の知性は、原始的神の観念と、トランスパーソナルな超越の観念を混同してしまう、
それは無理もないが、訂正していきたという趣旨のことを書いている。
もっともだと思う。

アメリカの風土は、キリスト教で当たり前で、無神論とか唯物論というのは、
文明以前の存在で、
日本人であるわたしが神については不可知、唯物論の一種と思ってくださって結構、
みたいな発言をすると、
かわいそうに、愛されなかったのね、
幼児期に何かあったのね、
発達が阻害されているのね、
と来るのもだから、かなり影響されて、
結局、神はいるということで話がまとまるのだと思ったら、
今度は日本では、神などないものとして話が進んでいるのだった。
多分、原始的多神教の世界と受け取られていて、ヤスクニなどはそのシンボルと思われているのだろう。
戦争で突撃されたのは向こうなのだし。
17歳の飛行士がアンフェタミンを飲まされて片道だけの燃料を積んで体当たりで突っ込んでくるのだから、
一種のトラウマだろう。

そんなこんながあって、アメリカと日本は精神風土がと違うのであって、
世界観についても、最初の合意事項が違うようだった。
もういまはそんな議論に入って行こうとは思わないし、
世の中は、その後養老先生がマスコミに脳の話を広め、
その後も脳科学の話は好まれ、茂木健一郎先生が最近ではリードしている。

Ecclesが神経に針を刺して電位を測定した頃から、
根本的に進歩したことといえば、脳の機能を画像で見ることが多少は可能になった程度で、
方法論的に根本的な、測定問題が前進していない。

科学哲学としてはかなり複雑になり、認知科学として一派を形成し、
立派な商売をしている。
この20年では精神科系薬剤が大幅に進歩し製薬会社が巨大化したのが一番だけれど、
思想の世界では認知科学や心の哲学ということになる。

たとえばこんなレビューがいいと思う。
*****

学問小史:認知科学――心の哲学へ至る潮流

明治大学図書館紀要「図書の譜」第5号,pp.72-80 (2001) に掲載


1.認知科学とは

 認知科学(Cognitive Science)とは,「心とは何か,心はどのように働くのか」という疑問を追求する学問分野のひとつであり,1970年代から学問分野としてのアイデンティティを確立し始めた比較的若い学問である。歴史的には心理学,情報科学,神経生理学,言語学,人類学などの諸学問の学際領域から発展してきたものであり,その萌芽は1930年代にまで遡ることができる。
 認知科学が基盤とする方法論は「モデルによる理解」である。我々人間が行い得る「知的行為」が,これこれの心的表象をこれこれの形式で計算操作すると,そうした行動が生み出されると説明できる「認知モデル」を構築することが,認知科学の中心課題である。このモデルの妥当性は,心理学的な実験との整合性,神経生理学的な知見との整合性,モデルに基づいて構成される情報システムの実効性の観点から評価される。
 しかし「心とは何か」という疑問は,哲学が永らく相手にしてきた問題であり,認知科学がモデル理解という方法論を確立したからといって,そうした問題ににわかに決着がつく見通しが立ったわけではない。問題点を整理する有力な観点が提供されたのであり,むしろ問題の根深さはより顕わになったとも言えよう。
 本稿では,諸学問から認知科学が生まれ,発展してきた歴史を三領域からそれぞれ簡単に振り返ることにする。そして最後に,哲学の分野との最近の結びつき,すなわち現代の「心の哲学」を語るうえにおいて認知科学の研究活動がいかなる位置を占めているか,を解説する。

2.情報科学からの展開

 認知科学の成立には,情報科学の計算にかかわる理論と,それを実行する機械であるコンピュータの技術が不可欠であった。この分野の発展は,20世紀初頭の記号論理学に基礎をおいている。記号論理学から,論理体系で世界を明瞭に記述するという発想が生まれたからである。この発想に加えて,論理規則による演繹を機械仕掛けで普遍的に実現できることが,チューリングマシン(A.M.Turing 1936)の概念で示され,「考える機械」の研究の端緒となった。
 40年代になると,情報システムの制御理論であるサイバネティクス(N.Wiener 1948)や,デジタル信号の符号化と通信理論(C.E.Shannon 1948)が発表された。同時に実用的なコンピュータが開発され,その後,徐々に性能をあげていった(J.von Neumann 1958)。
 「心とは何か」という疑問は,コンピュータ技術の発展の前では,「機械は心をもつか」あるいは「人間は機械なのか」という形で現れた。機械が心をもつ判定基準にチューリングテスト(A.M.Turing 1950)が提案され,それを目標に,いわゆる「人工知能 AI」の研究がスタートするのである。「人工知能」という名称自体は,1956年のダートマス会議において命名された。
 人工知能の初期の成功には,論理命題を証明するプログラム(A.Newell and H.A.Simon 1956)や,対連合学習システム(E.A.Figenbaum and H.A.Simon 1962)があげられる。その後,複雑な知識の表現方法やその処理方法として,関連語を有向グラフで結ぶ意味ネットワーク(M.R.Quillian 1968),推論式を基本にした一般問題解決器(A.Newell and H.A.Simmon 1972),概念階層の枠組み記述(M.Minsky 1975)などが提案された。一方で,状態推移に関する記述の研究(J.McCarthy and P.J.Hayse 1969)のなかからは,計算のうえでの量的な問題としてフレーム問題が指摘された。
 こうした基本技術は,80年代に入ると,実用的なエキスパートシステムの開発へとつながっていった(N.J.Nilsson 1980)。膨大な知識をコンピュータに蓄えようという巨大プロジェクトも生まれた(D.B.Lenat 1983)。しかし,先のフレーム問題を始めとした論理的な記号表現の問題点が表面化し,一転して停滞への歴史を歩むのである。ここで,記号表現に代わって,神経回路を模した結合表現が脚光を浴びることとなる。この原理は,コネクショニストモデルあるいは並列分散処理モデル(D.E.Rumelhart and J.L.McClelland 1986)と呼ばれた。エキスパートシステムのなかには,記号表現に加えて結合表現を採用するハイブリッドシステムも多く現れたが,それも停滞の救世主とはならなかった。
 90年代を迎えると,膨大な情報を蓄えたうえでよく考えて解を出す,という設計思想を根本的に考え直す動きが現れた。サブサンプションアーキテクチャ(R.A.Brooks 1990)がそれであり,外界の部分的な情報に即応するモジュールの連合体として知的行動を実現する思想である。こうした潮流から,人工生命(C.Langton 1989),エージェントシステム(J.C.Brustolini 1991),といった研究も発展してきている。

3.心理学からの展開

 心理学の分野では,1920年頃から,内的な心理状態を除外して,もっぱら動物の反応と条件付けを研究対象とする行動主義が主流となっていた。行動主義は30年以上にわたり心理学研究を支配したが,50年代に研究方法の革命的転換が起きるのである。「認知革命」として知られるこの転換を後押しした研究には,短期記憶のチャンク構造の研究(G.A.Miller 1956),概念形成にかかわる認知過程の研究(J.S.Bruner 1956),言語の文法構造の情報表現(N.Chomsky 1957),認知における注意の役割を示すフィルター理論(D.E.Broadbent 1958)などがあげられる。
 認知革命後の心理学は,心的状態を表すモデルを積極的に認め,そのモデルから知的な行動がいかに機能的に説明できるかを問題にした。ここですでに認知科学の方法論が確立したといえるが,当時は「認知心理学 Cognitive Psychology」(U.Nisser 1967)と呼ばれていた。もちろん,これらのモデル構築には,次々と提案される情報科学の先端理論が影響を与えるのだが,心理学分野では,それまで十分に研究されてこなかった部分の,知覚・記憶・思考・言語の研究が大きく開花した(P.H.Lindsay and D.A.Norman 1977)。
 認知心理学の興味の中心を一口で言うと,言語行為を代表とする人間の知的活動が,人間が記憶する知識体系からいかなる思考プロセスで生じるか,となろう。ここで重要な位置を占めるのは知識の記述表現であり,場面に応じた知識活用法の研究(R.C.Schank 1975),概念知識の構造カテゴリーの研究(E.Rosch 1978)などが相次いだ。視覚イメージの心的回転実験(R.Shepard 1971)からは,心の中のイメージ情報は,アナログ表現(S.Kosslyn 1980)かそれとも記号表現(Z.W.Pylyshyn 1984)か,という論争が巻き起こった。
 70年代後半から認知心理学は,大脳の神経生理学との関連性を徐々に深めていき,認知心理学から認知科学と呼ばれることも増えてきた。1977年に学術誌「認知科学」が発刊され,1979年にはアメリカで,認知科学会 The Cognitive Science Sciety が発足した。
 80年代は,究極の知識表現や単一の中心判断機構といった考え方よりも,多様な記述表現や分散的な判断機構といった考え方が優勢となってきた。人間の記憶は,手続き記憶,エピソード記憶などの多種の機能の複合体として分類された(E.Tulving 1983)。不確実な状況での判断の研究(A.Tversky 1982)からは,人間のもつ多様な思考方略が明らかにされた。そして知的な行動とは,状況についてのメンタルモデル(P.N.Johnson-Laird 1983)をもつことから実現されるとみなされた。脳の中には部分的な機能を担うエージェントモジュールが多数存在し,全体として「心の社会」(Minsky 1986)を形成しているのだという主張も,広く受け入れられた。
 また,霊長類サルを使った比較認知科学の研究も多くなされ(T.Matsuzawa 1991),霊長類の認知機構と人間のそれとの類似性・連続性も指摘されるところとなった。こうした研究は90年代に入り,心の働きを生物進化の文脈に位置づける研究分野の成立につながる。この分野は「進化心理学 Evolutionary Psychology」(L.Cosmides and J.Tooby 1992)と呼ばれ,ある特定の認知方略が確立された根拠を,その方略の進化上の優位性から説明するのである。

4.神経生理学からの展開

 神経生理学は,人間の知的活動の源である脳の解明・理解という目標を目指して発展してきた。40年代に,単一の神経細胞の数理モデル(W.S.McCulloch and W.H.Pitts 1947)と,神経細胞相互の学習則(D.O.Hebb 1949)が提案されたのが,この分野の発端と言えよう。その後,神経細胞の信号伝達モデル(A.L.Hodgkin and A.F.Huxley 1952),細胞間のシナプス結合の可塑性や興奮・抑制結合(J.C.Eccles 1957)などの重要な発見が続いた。
 脳への展開としては,神経細胞の集団によって判別学習装置を実現するパーセプトロン(F.Rosenblatt 1959)の発見があげられよう。これと同等の仕組みが後に小脳で見つかることとなる(M.Ito 1984)。また,特殊環境で生育したネコの視覚一次野から神経細胞の反応選択性(D.H.Hubel and T.N.Wiesel 1962)が,脳梁切断の症例から大脳半球の機能差(R.W.Sperry 1966)が判明した。
 70年代に入ると脳の研究がいっそう盛んになった。大脳辺縁系における海馬では,信号の長期増強(T.V.Bliss and T.Lemo 1973)が見つかり,心理学的な記憶研究と接続した。また,脳外科手術の多くの症例にもとづき,大脳の部位と心的機能との関係がまとめられた(W.Penfield 1975)。視覚系においては,計算論的モデル(D.Marr 1982)が提案されるなか,色判別の神経回路網の生理学的解明(S.Zeki 1983)が進んだ。
 80年代後半は,神経回路網の理論が進み,先のパーセプトロンが任意の判別関数の学習まで拡張(D.E.Rumelhart and J.L.McClelland 1986)され,コネクショニストモデルとして情報科学と密に結合することとなった。同時に,PET,F-MRI,SQUIDなど,人間の大脳の活動を非侵襲的に測定する技術が進み,心的活動における大脳部位の活性化の状況が時間を追って測定されるようになってきた。こうした研究動向から,大脳全体として思考がどのように実現されているかという情報モデル(B.J.Baars 1988)も提案され始めた。
 90年代以降になってようやく,「心がいかにして脳から生まれるか」という,神経生理学本来の目標が射程に入ってきたようである。だが,神経回路の集合体でどのように心的機能が実現できるか,あるいはそれが進化の過程でいかにして自然に発生してきたのか,という問題は依然として難問である。細胞群の同期発火(F.Crick 1994)やカオス的挙動(W.J.Freeman 1994)にその手がかりを求める試みはあるが,複雑系物理学や量子物理学(M.Jibu and K.Yasue 1995)のさらなる発展が必要に思われる。

5.哲学への展開

 認知科学とその発展をもたらした諸科学は,哲学との接点を歴史上いくつももってきた。それらには,助け合う関係もあれば反目し合う関係もあるが,終始刺激的なものであった。その刺激の度合いは最高潮に達しながら21世紀にもち込まれようとしている。
 20世紀初頭にウィーンから発した論理実証主義の運動は,20世紀前半における科学の哲学的基盤を形づくった。情報科学の基礎となった記号論理学もこの運動から生まれた。実証的事実の記述とそれらの間の論理的関係を明白にすることが,科学の営みであるとするのだ。心理学における行動主義もこの運動に支えられたと言えよう。
 しかし,論理実証主義に基づく科学論は,50年代から批判にさらされる。言語はゲーム規則(L.Wittgenstein 1953)のように恣意的であり,客観的と思われる科学的観測は我々の理論に依存する(N.R.Hanson 1958)というのだ。こうした指摘により,世界は神から与えられたという「所与の神話」が崩壊していく(W.Sellars 1963)。この傾向から,実証が容易ではない心的構造が容認され,「認知革命」へと至ったとみることもできる。
 その後実証主義は,反証可能性(K.Popper 1959)の概念を取り入れ,モデル構築による科学的方法論として整備された。だが,科学が対象とする事象の「実在性」は揺らいだままであった。「科学革命」は観測事実でなく理論が起こすというパラダイム論(T.Kuhn 1962, 1970)は広く受け入れられるものの,実在性を否定した相対主義(P.Feyerabend 1978)を招くのである。こうした動向は,科学は社会状況によってつくられるのだとする社会構成主義(K.J.Gergen 1985)にもつながっていく。
 哲学の分野で科学的方法論が議論されるなかで,認知科学はモデル構築による方法論で着実な歩みを進めていた。しかし,いざ「心をもつ機械」などと理想を語ったときには,哲学的な議論は避けて通れないのであった。「心」とは何である(とする)かということは,「心身問題」と呼ばれる哲学上の積年の課題であるからだ。古くはデカルトの「心身(心脳)二元論」まで遡れる。
 認知科学者が,心を研究対象とする前提は,外界との入出力関係と心的状態同士の関係という機能的プロセスで心を捉えようとするところにあり,この立場は機能主義(H.Putnum 1961)と呼ばれる。心と脳とを一元的に扱うひとつの試みであるが、「心」を重視する立場からは異議のあるところである。
 「心をもつ機械」と称する「心」に,初めて積極的に異議を唱えたのは,現象学哲学者(H.L.Dreyfus 1972)であった。ハイデガーが言うように,我々人間は世界内存在であるはずであるのに,世界から切り離されたコンピュータが心をもつとは何を意味するのかといった具合である。我々がもつ「心」という感覚に訴える批判も現れた。他者の心はいったい理解できるものなのか(T.Nagel 1974),言葉を理解するとはどういうことか(J.Searle 1980)といった議論である。こうした批判を受けて,人工知能研究から方向転換する研究者(T.Winograd 1986)も現れた。
 一方で,認知科学の成果を取り入れ哲学的な議論を展開する認知哲学者も現れている。信念や欲求といった通俗心理学の用語を記述していくことで,心の記号表現への還元がなされるとする機能主義をつきつめた立場(J.Fodor 1981)と,脳のなかの神経回路網における活動を記述することで,心の結合表現への還元(あるいは心自体の消去)がなされるとする消去主義の立場(P.M.Curchland 1985)での論争も続いている。
 哲学者が問題にしているような「心」を認知科学の枠内に含めるには,「志向性」と「感覚質(クオリア)」の自然化を行わねばならないと言われる(N.Nobuhara 1999)。志向性とは,意味が何らかの対象に対して現れるという性質であり,感覚質とは,我々が「赤い」とか「痛い」とかに伴って感じる純粋な感覚である。両者とも,「意識主体」に不可欠な要素であり,かつ何か物的な事象に帰着させることが不可能に思われる。けれども認知哲学者の一部は,意識の多元的草稿理論(D.Dennett 1991)などで,こうした難題に果敢に挑んでいる。近年、「心」にまつわる哲学的議論はとくに盛んになっており、「心の哲学 Philosophy of Mind」と呼ばれる分野を形成しつつある。
 心の哲学のなかで、認知科学の動向に照らして優勢な状況にあると言える立場は、生態学的実在論(J.J.Gibson 1979)である。人工知能は、外界から独立した知性を実現するのでなく、環境に埋め込まれて行動する知性の実現に向かっている。またそれは,進化のシミュレーションによって実現されるとも,しばしば主張される(S.A.Kauffman 1986)。認知的学習も状況に埋め込まれて達成されると捉える理論(J.Lave and E.Wenger 1991)が注目される。意識の心理学的理解と生理学的理解はともに、生物進化の歴史を背景にして成立する(N. Humphrey 1986)とみなされてきている。生態学的実在論は、ひとつの心、あるいはひとつの主体を論じるときには、それを含む環境とそれをもたらした歴史を空間的・時間的な全体として,合わせて捉えようとする。それは相対主義の脅威をかわし,実在性を維持する立場ともなるのである。そんななかで、ダーウィンの進化論が再び強力な思想として浮上している(D.Dennett 1995)。
 現在、心の哲学は興味深い状況を呈している。哲学者が科学と接近し、心の自然化や、心の一元論的理解(D.J.Chalmers 1996)を試みる一方、神経生理学者(J.C.Eccles 1989)や数理物理学者(R.Penrose 1994)などの科学者が、二元論的立場で心の独自性を主張しているのだ。攻守ところをかえた状況である。また、思想を語る営み自体が自然化の枠内に入ってしまうと、我々は心を適切に語るところまで進化していない(C.McGinn 1992)という可能性も出てくる。考えてみると,その指摘もなかなか的を射ているような気がしてくる。今ますます、心の哲学がおもしろい。

参考文献
・ポール・サガード「マインド:認知科学入門」共立出版, 1996
・橋田浩一他「講座認知科学(1)認知科学の基礎」岩波書店, 1995
・N.A.スティリングス他「認知科学通論」新曜社, 1987
・スタン・フランクリン「心をもつ機械」三田出版会,1995
・ジョン・アンダーソン「認知心理学概論」誠信書房, 1980
・松本修文編「脳と心のバイオフィジックス」共立出版, 1997
・苧阪直行編「脳と意識」朝倉書店, 1997
・門脇俊介「現代哲学」産業図書, 1996
・S.Bem and H.L.deJong: Theoretical Issues in Psychology, SAGE, 1997

*****
物理学の世界でもなぜか停滞していて、
物理学の先端の成果を世界観に生かす仕事はほとんど進展していない。
量子力学と相対性理論と、極微の世界と極大の世界と、うまくつないで話ができるかどうかということで、
結局、有能な語り手としてのPaul Daviesとか
『皇帝の新しい心』のRoger Penrose、
『ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環』のダグラス・R・ホフスタッター
とかがいるだけで、
本質的な前進はないものと思う。

*****
昔は量子力学の本も読み、方程式もいじったように思うし、
相対性理論も理解し、特殊相対性理論と一般相対性理論について、先輩と議論し、
加速度の扱いについて、勝利したことは覚えているのだが、
その後はすっかり忘れてしまい、ただの思考練習だったかとも思う。
多世界解釈は今でもわたしをとらえているし、
それはわたしが自分でもよく考えた結論として、
自分の言葉で説明できる。
人間中心主義は、やはりキリスト教的な考え方だろと思う。
しかし2000年のカトリックの蓄積は大きく、
うかつに批評などできないものと思う。
いくらでも資料があり、膨大な蓄積がある。

カトリックに反抗したグノーシス派などはいまでも興味深い。
このブログはエピファニオス(315?~403)の『パナリオン』をもじったものだ。
Panarionでは畏れ多いので、Panalionとふざけている。
Panarionは毒蛇にかまれたときの薬箱という意味である。
グノーシスは毒蛇であり、かまれたら即時にカトリックの信仰で解毒する必要があるとされた。
グノーシスのもとの文献は徹底的に廃棄されたが、
グノーシスに反論するカトリック側の文章は残り、それを検証してみれば、
当時、グノーシスがカトリックの何を批判したかが分かってくるという、
回りくどい話だった。
それが昨今は死海文書やナグ・ハマディ写本の翻訳も進んだ。それがグノーシス的なのだと言われている。

大体このように、ナグ・ハマディ、グノーシス、フロイト、ユング、Eccles、トランスパーソナル、ニューエイジ、精神医学、精神薬理学と並べてくると、ろくでもない傾向がくっきりする。
要するにカトリックに対してグノーシス、
脳医学に対してフロイト、
フロイトに対してユング、
近代知性に対してトランスパーソナル、
内科に対して精神科、
なぜかそのような流れである。

最近は、上司はなぜ部下をいじめるのかを日々話を聞いて研究している。
Discipline & Domination & Submission & Manipulation & Sadism & Masochism
の系列の問題なのだと見当をつけている。
病名としては、うつ病、恐怖症、パニック障害、不安性障害、自律神経失調症、心身症など。

世界観の問題は、脳の中の「世界モデル」問題として、わたしの内部では引き継がれている。



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