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浦浦浦浦

三つ目の浦は三浦で
いまならスイカがおいしい

六つ目の浦は六浦で日大の獣医学部がある
園芸科もあるようでバラを売ってまくれる。

芝の浦は芝浦で
東芝がある

新しい浦は新浦である

田の浦は田浦である

五つ目の浦は五浦である

春先には浦浦している午後もあり

浦と
裏は
語源としてつながる部分があるかまたは混同される部分があるはずで、
浦ら、浦ら、浦、浦ら、

浦は外界に開かれた表であるはずだが
それが裏というのだから意外でおもしろい。

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日光菩薩と月光菩薩

日光菩薩と月光菩薩はほぼ左右対称で
片足を少しだけまげて
腰を少しだけひねり
首を少しだけ曲げて、
指をおしゃれに結んだりして、
粋な感じのインディアンダンスである。

キマッテル。

このダンスをこの時代の人は見たのかな。

キュートでセクシーなボサツちゃんだ。

やっぱりモデルになってくれたキュートちゃんとそうなってしまっただろうな
昔の仏師も

誘惑しないモデルはありえないし
誘惑されない仏師はがらくただ

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田んぼの見える宿

8丁目のお店の隅で飲んでいると
手が空いたときに声をかけてくれる。
いびきをかかれたら困るし、
突然死されても困るから。

こんなときは東京を抜け出して温泉宿でも行きたいわねえ、
などと本気でないことをいう。

そうだねえ、田んぼの見える宿がいいね、
寝転がってかえるの声でも聞きたいね、
という。

田んぼの風景ね、
いいな、わたし絵を描きたいわ、
その様子を写真にとってね、
などという。

昔は日本画を描いていた人だ。
最近筆を持つのは自分の顔を化粧するときだけだ。
軽く笑った時に唇のかたちがもっとも魅力的に見えるように描いている。

葬式の写真にでもするかといい、
そういえば先月死んだ人の葬式で、
20年も前の写真しかなかったのだという話を
聞いた。
20年も写真を撮っていなかったとは、
あきれたやつだった。

田んぼの見える宿ねえ、
田んぼ、田んぼ、とつぶやきながら、
頭の中で田んぼの絵をかいている。
サインペンでケント紙に描く。

そういえば、この間の、岩手の地震でね、
地面が傾いて、田んぼに水が引けないんだ、
田んぼはきちんと水平に張らないといけないし、
水の入り口と出口を作って、
適当な水面を保たないといけない、
あれはやはり几帳面でないとできないことだねえ、
などと言い、
頭の中でせっせと苗を描き続けている。

そうか、斜めの田んぼはダメね、
なんて言って新しく来た誰かに挨拶をしている。

営業用の笑顔は百発百中で決まるのだが、
年をとってから、サービスが薄くなってきた。
東京の水はおいしいと言い張って、水道水で水割りを作っている。

東京の水がおいしくても、
最後の水道管が多分ダメでしょう
このビルの下からここまで、だいぶぬるくなってるでしょう、と
言うと
新しいとこにお引越ししなきゃなんていう。

まだ続けるつもりなのかと
いう。

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腹持ちがいい

今日の昼は特にすることもなく
あまりにも暇だったので
ランチを二回分食べてしまった。

夜になってもおなかが空かない。
腹持ちがいいなどという言葉を昔聞いたことがある。
貧しい時代の言葉だ。

それにしても暑い。
べたつく。
こんな日にもお化粧はしなくてはいけない。
それがばかばかしい。

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今年は2008年

時々いまが何年か分からなくなることがある。

認知症じゃないかと疑われ、診察室に連れて行かれ、
白衣を着たバカみたいなやつに、今日は何年の何月何日ですかと聞かれれば、
かっとして、見当はずれなことも言ってしまいそうなものだ。

私なら徹底的に黙秘してやろうかとも思う。
でたらめを言って、試験を無意味にしてやろうとも思う。
逆に歴史的年代などを聞き返してやろうかとも思う。

新聞を見て2008年平成20年と確認した。

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芭蕉と母性社会

松尾芭蕉の半生を綴った番組があり
見ていて吐き気がした
松平というアナウンサーが何か喋っているが
わたしは芭蕉は好きだし尊敬しているのでなおさら失望し
見なければよかったと思った
世間はそんな風に考えているのだろうか

言葉遊びを反省して、
こころを見つめたんだとか
そんな感じの言葉

*****
古池や 蛙飛びこむ 水の音

の句については

蛙には山吹が伝統で、
それを廃止した点、
蛙は鳴くもので鳴き声を話題にするのが伝統だったが、
それを廃して飛びこむ音とした点、
などが新味といわれる。

古池も目の前にはない
蛙はいない
飛び込む音ももちろんしない
ただ静寂である
そんな解説を読んだこともある

古池はあっただろう
しかし蛙の音はしなかっただろう
飛び込まないし鳴かない
そんな情景を詠んだものだろう
という説もある

いや実際に音がしたと想定してもいいだろうとも言われる

*****
私としては、この句に限らず、
俳句というものは、17文字の制約の中で、
読む側の常識が過剰に必要とされるとても非民主的な産物だと理解している。

読む側は、いろいろと解説を読んで、その上でやっと感動していいのである。
俳句を作るときにも師匠の許可が大切らしいが、
俳句を鑑賞するときも、師匠のお墨付きが必要な具合で、
こういうものは、日本が「母性社会」であることの分かりやすい現れであると思う。
現代芸術がいろいろな解説を必要とすることも同根である。

母性社会では、
法律で人と人とのけじめをつけていくというものではなく、
母親みたいに、よく分かってくれる人がいて、
相手の常識によりかかって
こちらが舌足らずな事をいっても、
隙間を大幅に補完して解釈してくれる事を期待してよい。
そんな社会なのだ。

集団の共有するイメージシステムがとても深く強固に非言語的にしみこんでいる。
だからこそ、
17文字でありがたいと思えるのだ。
そしてその常識が共有できない人にとっては、
まったくつまらない17文字になってしまう。

背景にあるイメージシステムに依存しすぎる文学。
それが俳句であり短歌である。

芭蕉の句なども、句会の全体を読む、意見や推敲のあとを丹念に読む、
旅日記のかたちで芭蕉の言語活動の全体を読む、
そのようにすることで、
母性社会的、相手のイメージシステムに依存しすぎる傾向を
少しは脱色できるのだが、
それでも、やはり、説明が足りないし、不充分である。

こんな風土の中では、
「わたしには分かる」という自称理解者、
客観的に見れば感激屋の無羞恥心屋が幅を利かせることになる。
その人たちの言葉は対象にまったく迫っていない。
芭蕉のこの句でもあの句でも、
他の人の句でも、鑑賞として成り立つような具合のものだ。

日本以外のどこかで
理想的な文学鑑賞が行なわれていると信じているわけではない。
しかし日本的な母性社会的解釈過剰は世界的に見て幼稚で未熟なものに映ると
知っておいてもいいだろうと思う。

フロイトが見たら、
とんでもなくブレエディパールな産物と評しただろう。

*****
とはいいながら、
日本語というイメージシステムの、
泣き所をポンとつつかれて、
気持ちよいこと、限りない。

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プレッシャー面接

プレッシャー面接で泣かせてしまい
パニックにさせてしまう

そんなことまでしなくても分かるだろうに

人間はいやな武器を持てばいやな武器を使ってみたくなるもののようだ

ーーーーー
戦争兵器にしても、
インターネットにしても、次々に悪用を考え付いて、
いいほうの利用はあまり考え付かない。
人間とはそんなものだったのだと思い知る。

一人一人はいいやつだと信じたい。
しかしそれも怪しい。結局やっているのは一人一人なのだ。

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法隆寺四天王 モディリアーニ

法隆寺四天王
モディリアーニ

感激屋が舌足らずのやっつけ仕事をしている。お前のうわごとなど聞きたくない。
事実関係だけを豊かに語って欲しい。公共の電波である。

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成田善弘「精神療法家の仕事」―15

治療者の側の、象徴化の能力
が決定的に重要である。

象徴の次元でのイメージ操作ができるかどうか。
うまいかどうか。
そこが問題だ。

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自由だから恋愛ができる

自由だから恋愛ができるともいえるし
自由だから恋愛ができないともいえる

自由な中での恋愛とは
ビクニックの気軽さの中での初恋のようなものだ

いかに深く一人の人間を愛し、
その愛を多元化・多重化できるか。

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成田善弘「精神療法家の仕事」―14

包み込んでくれる人が欲しい
→包まれていたいの、にそれが得られないことは辛いことですね(共感)
→あなたはなぜそのような人を必要とするのか?(直面化)

自立した個であると信頼しているから、直面化もできる。

*****
アタッチメントでいう、安全基地が欲しいということのようだ。



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成田善弘「精神療法家の仕事」―13

解釈は 脳と対象の関係
共感は 脳と脳の関係

しかし共感と解釈は連続している
共感するから解釈も生まれる
共感すれば自然と解釈が生まれる



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成田善弘「精神療法家の仕事」―12

生活史の再構成のまた再構成

患者が語る時に自分の生活史を再構成し
治療者が書くときや考える時にさらに再構成している

幾度も語りなおされる物語

再構成しているうちに、癒されてゆく



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成田善弘「精神療法家の仕事」より―11

神経症水準の患者
頭痛とか不安発作とか手洗い強迫とかの明確な主訴を持ち、
その解消を治療者に依頼する。
治療者との関係を主訴解消のための手段と考えることができる。

境界水準の患者
主訴が不明確で漠然としている。
不安を限局して自我異質的な症状として主観的に悩むという能力に乏しい。
「自分がない」「居場所がない」「救われたい」などと言う。
治療者との関係を手段視することができなくて、それ自体を目的としてしまう。治療者との人間関係を持ちたいというのが彼らの望んでいることである。

*****
散髪に行ってもタクシーに乗っても、
世間話や身の上話は無用なのであるが、
多少の話は役に立つこともある。
散髪の席で、またタクシーの座席で、
「私は死にたい」とか「何のために生きているのか分からない」「もう自分がなんだかわからなくなった」などと言われても、それはそれで愚痴の一部として流して置けるわけで、散髪したり、目的地に着けば、それでお互いに忘れることができる。
散髪の用もないのに床屋に行って、「何のために生きるのか」などと言うようなら、相手にされないはずだろう。
ところが精神療法の場合はこれで充分に大切な情報になる。そのような事をしたがる人たちを一群のものとして観察している。

*****
精神療法の場合には多少の話は周辺的な情報として役に立つことがあるので、治療者としても、話しを拾い上げる。しかしそのうち、患者の側では治療者に会うこと自体が目的になってしまうことがある。つまり、面接は、症状を治すことと、治療者に会うこととの、二重の目的を達成していることになる。そうなって初めて、その患者特有の人間関係のあり方が明らかになる。

*****
そして、さらにその奥のことを考える。こうした奇妙な事をするのはなぜだろうか。このような奇妙な事をして、患者に何の利益があるのだろうか?たとえば、治療者と仲良くしたいのならば、普通の意味で仲良くすればいいのであって、「死にたい」とか「あなたは悪い治療者だ」などと言ってまとわりつくのでは、仲良くしようと思っても、できるものではない。しかしながら、仲が悪いながら、奇妙な人だと思いながらも、面接は続く。これは友達ならばありえないことで、上司・部下とか、夫婦とか、患者・治療者とか、暫定的ではあっても、関係を続けることを前提とした上での、ネガティブな関係である。そのようなおかしな関係を強要する人たちがいるものだ。好かれたいならそんなことをするはずがないし、嫌われたいと思うくらいなら離れていけば合理的だと思う。
離れないで嫌われるようなことをして、お前は夫だ、上司だ、治療者だ、それでいいのかと居直る。

ボクシングのクリンチのようなもので
どうも具合が悪い。
けんかしながら、煩いの元となりながら、それでも関係は維持したいらしい。
そのあたりが謎である。
けんかしながらも、離れたくない。
そのような人同士であればそれもよいが、片方がそれを望んだとしても、もう片方がそのような関係を望まないとしたら、不幸なことだ。しかしそれでも、会社、夫婦、治療という枠組みがあるので、壊れないですんでいる。

*****
患者・治療者でいえば、
症状を治す、会う、の二つの目的と言うことになるが、
上司・部下の関係で言えば、仕事をすることのほかに、個人的な負担をかけることだ。
夫婦で言えば、夫婦でいることのほかに、過剰な負担を強いることに、目的と喜びを見出しているようである。
純粋な友人同士ならば、それで終わってしまう関係であるが、会社、夫婦、治療の関係であるから続く。そうした場所で病理を発展させる。

見捨てられ不安が強いので、見捨てられることはない立場を確保することに必死になる。

*****
境界水準の患者さんには、治療目的が何であるか、確認を続ける。
元々は、症状を主訴として、治療を開始したのだということを確認して、

再スタートする。
その最初の地点を忘れてしまい、途中の問題に係わっていると、いつまでも関係は終わらず、それが結局、患者の望む、いつまでも続く関係になってしまう。

そんなことでいったい誰かが幸せになるのか、考え直す必要がある。



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