SSブログ

明け方の夢 精神医療改革のジャンプ

明け方にまた有意義な夢を見ている
今のところ方法は成功している

*****
精神医療改革である
その病院は理由があって精神科医療が遅れていた

そこを改革に乗り出す
青写真を作って改革はスタートする

しかしそこに現れ始めたものを見て
私は失望し、これは違うと、異を唱える

一体どうしたのかと
周囲が心配する
その説得を始めるがどの場面でもぴったりの言葉が見つからない、もどかしい

古い停滞したままの精神医学に理由はあった
原理的な理由があるのである

私はその事を否定しない
しかし原理的に乗り越える事を主張する

現実の病院改革は原理的な乗り越えがなくただ原理の乗り越えの議論そのものを忘れようというものだった

病院改革は次第に進み新しい医療が姿を見せ始めるが
その姿はただ今ある普通の医療なのだった

私は失望する
ただ単に今ある普通の病院にしたいのではないのだ
そのような目標があることは理解できる
しかしそのことは原理的には退化なのである
原理的に退化することなしに
病院機能を回復し
むしろ原理的にもう一歩先を見ていたい

先というのは一体何のことなのか
分かろうとしない人たちが説明を求める

言葉をつないで説明するが矮小な解釈に還元されてしまう

これはここだけで起こったことではない
どの場所でも起こってきたことだ
そしてそれに対して言葉を工夫してきたはずだ
私は語り始める

三次元から四次元への拡張は自然である
しかしそれを五次元に拡張するこことは自然な一歩とはいえない
ところがそれは必然的な一歩なのだと示すことができる
そして患者のための医療として確実な前進の一歩なのだと
示すことができる
それなのに、そうした方向を採用せず、
現在が四次元だとすれば、
病院の方向は、三次元への退縮なのである
実につまらない退縮なのである

そのことは理論的にも分かる
しかしそれは躁病的な夢というものであって
現実の人間にそのような事を期待してはいけない
現実に動いているのは俗物である人間なのだ

具体化するには三次元にまずいったん退縮させて、
その後にそれを確実に具体化するということになる、
それを逆に五次元の方向に進めておいて、
そのことを現実化しようというのは、それは原理的に無理な話なのだ
そのような議論になり
またその間、どの人も忙しく立ち振舞い、
たいていは昼食を共に食べながらの話になるのだった。

精神科医療で起こっている事をどう解釈するか
他人の脳を、自分の脳と同等のシステムと解釈するか、あるいは他人の心臓や肝臓と同じシステムと解釈するか
それはその二つの解釈のどちらも正しいのであって
その混合となるべきである
当方の脳と同等のシステムである脳が脳血管障害や脳腫瘍や酵素欠損や発達障害によって
肝臓などと同じレベルで障害されているという現実はある
それがまず第一歩である
さらにその上に脳はシステムとして異常に反応する
その反応の仕方も個人に特有のものもあり脳として一般的なものもあり、
そのあたりの観察と区別とが必要になる。
さらに治療的介入というものは、
肝臓に対する介入と同じ次元ではなくなる。
同じ次元の介入もあるのだが、より高次の介入もある。
それは脳と脳が情報を処理しあえるということだ。
普通の言葉で言えば精神療法が可能ということである。
治療者の肝臓からの信号が患者の肝臓に治癒に役立つ影響を与えるなどとは考えにくい。
しかし脳と脳の場合にはそのことが起こりうる。
また逆の反治療的な情報介入も起こり得る。
その事を踏まえて、精神科医療は構築されるべきであって、
単に医療保険報酬制度に沿った形の病院を作ればいいというものではないのだ。

そんなこと言われても困惑する。
どの教科書にも書いていないのだし。
そもそもまず普通の教科書に書いてあることが実現できる仕組みをつくろうよと
良識ある意見が流通する。
それはそれで良い。しかしそれでは不足なのだ。決定的不足。

私はそのための一歩を実現できる病院案を提示するが
それを解釈する人たちは結局のところ
現状の教科書と医療報酬制度を実現しようとしてしまう。
矛盾はないのだ。
素直な人たちなのだ。
とりあえずできることはそれだ。とりあえずすべきこともそれだ。
分かった上での話だ。

でも、結果は違う。
話せば分かってくれるのに、図面が出来てくると結局、思考は次元退縮しているのである。
形になった途端に、三次元に退縮している。
五次元の構築物としても矛盾はないのだが、五次元を提示してはいないのだ。

*****
あと、多少の対人関係場面。
実際の夢ではこのような言葉で話しているわけではないのだが、
言葉で説明すればこんな風。

共通テーマ:日記・雑感

高校野球ついに決勝

高校野球を新聞などで見ていて思うのだが
ジュニアチームなどを通じての選抜システムがいきわたっていて、
しかもそのあとの育成システムは、
個人的な信念というよりは、いろいろ科学的な方法論もあったりして、
最近はかなり収斂してきているのではないかと思う。

「伝統校」と言われるものの実態は、
強い選抜システムと強い育成システム、そして経済的精神的支援のシステムである。
だって選手は年ごとに入れ替わるわけだから、
残るのはスタッフだけなのだ。
だから、「スタッフ力」に関しては、「伝統校」という言い方も、「強豪校」という言い方も可能である。

常葉菊川・静岡がまたしても決勝に残ったのはどうしてなのだろう。
静岡は、身体能力の高い子供はサッカーに行くはずで、
しかし、それゆえ、静岡代表になるのはたとえば神奈川代表よりも、やさしいだろう。
そう考えれば、毎年代表になって登場したとしても、
勝ち残るのは難しいのではないかと思う。

金属バットになった時に、
どんどん打つ野球を進めて新しい方式とか、そんなものは今の野球にはありそうもない。
あったら、あっという間に拡がりそうである。

にもかかわらず静岡・常葉菊川はなぜ強いのか。
選抜システムがいいのか。

よく分からないが、少子化時代の学校生き残り戦略のひとつと考えれば、
悪くない投資だろうと思う。
スカウト、部長、監督、学生寮、生活指導、遠征試合、そんなものをセットにしておいて、
甲子園に行くから寄付金を下さいといえば、ある程度集まり、
そうなるとステイタスは確かなものになり、
勉強は出来ないけれど、地元の有名校だということになり、
高校だけではなくて関連の女子高とか小中とか大学・専門学校まで、
少しは宣伝になるのかもしれない。

選手は、そうしたシステムを通り抜ける存在であり、
また別の利益を追っている。

「選手」と「学校システム」は微妙に寄生しあって、「共生関係」をつくっている。

共通テーマ:日記・雑感

トラウマ

人間を支配し操縦する体系がトラウマである

心を傷つけ、抑圧し、搾取し、自尊心を奪いつくし、自己評価をゼロにする、
そのようにして支配を確定する。

支配することは当然心地よいのだが
奇妙なことに支配されることは心地よい側面がある。
そして自分がこの悪しき支配の再生産のプロセスの一部となり、
たとえば子供にトラウマを与える。
たとえば生徒にトラウマを与える。
たとえば心身の弱った老人にトラウマを与える。

弱者・強者は比較の問題でしかない。
いつでも、誰にでも、トラウマを与える人間は出現しうる。

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。