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Mitakaで宇宙旅行

Mitakaというフリーソフトがあり
宇宙の中のいつどこでと指定すると
そこから見える景色が表示される。

http://4d2u.nao.ac.jp/html/program/mitaka/

06.jpg

惑星が見える程度

07.jpg

もっと離れるとすばるなどが見える

*****
Mitakaを含む国立天文台のページは
http://www.nao.ac.jp/

お楽しみダウンロードとか
映像とか今日の星空とかいろいろあって
また時間が足りない。

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共通テーマ:日記・雑感

ジェンダーフリー ジェンダー

最近、男女共同参画社会実現のための大切な視点のひとつとして、
「ジェンダーフリー」という言葉が使われるようになってきました。

でも、この「ジェンダーフリー」という言葉が、
「女性を、今の男性並みにする」という意味に使われていたり、
「ジェンダー」という言葉が、
女性と男性の「違い」として肯定的に使われていたりして、
とても残念に思うこともあります。

「ジェンダー」という言葉は、
「社会的・文化的な性差」と訳されます。
簡単な言葉で言えば、
社会的につくられた「女らしさ」「男らしさ」ということでしょう。

もともと、女性と男性とでは、生物学的な性差があります。
ただ、わたしたちは、その生物学的な性差ではないものまで、
たとえば、性格や特性、役割などまでも、
女と男という2つのグループにふり分けてしまっています。

そういうものは、性別によって決まるわけではなくて、
一人ひとり、個人差があるものです。
ですから、女と男という2つのグループに分けて、
そのグループごとに性格を考えたり、役割を決めたりすることに、
意味はないと思います。

でも、そのようにして、
「女とは、または男とはこうあるべき」というような思い込みが
つくり出されていきました。
それが、「ジェンダー」です。

つまり「ジェンダー」とは、生まれつきの男女差ではなくて、
生まれた後、
まわりから教えられたり自分で見て覚えたりして、
しだいに身につけてきた「らしさ」です。

これまで生まれつきだと考えられていたものも実は、その多くが
「ジェンダー」で説明できるようです。

この「ジェンダー」は、
男女差別を差別だと思わせないからくりだとも言われています。

1.あなたのまわりで
今どき「女らしさ」「男らしさ」なんて
わたしはこだわってないと思っている人も
いるかもしれません。
でも、実は自分が思っているよりもずっと、
わたしたちは「ジェンダー」に影響を受けています。

そして、自分で意識している、いないにかかわらず、
わたしたちは、相手の性別によって、
接し方を変えたり、基準を変えたりしているようです。

たとえばこんなことが…

 子どもがおなかの中にいるとき、
 元気に動いていれば
 「元気、いいね。きっと男の子よ」
 と言われました。
 また、おとなしくしていると、
 「おとなしいね。女の子なのかな」
 と言われました。

 おなかの中の子が男の子だとわかってから、
 母とベビー布団を買いに行きました。
 わたしはピンクの布団の柄が気に入ったので、
 それがいいと言ったら、
 「男なんだから青なんじゃない?」と言われました。
 「せめて黄色にしたら」とも言われました。

 息子が座れるようになった頃のある日、
 目の前に、赤いボールと青い自動車、
 白いぬいぐるみを置いて、
 「どれがいい?」と息子に聞くと、
 彼は赤いボールを選びました。すると
 「さすがに男の子ね。将来は野球選手かな?」
 と言われました。

 娘が生まれたときにも、同じことをしてみました。
 娘も同じように、赤いボールを選びました。
 すると、「え?女の子なのに、
 ぬいぐるみよりボールが好きなの?」と言われ、
 隣にいた人からは、
 「きっと女の子だから、赤が好きなんじゃない?」
 と言われました。

 子どもたちが転校してきた小学校には、
 標準服がありました。
 女の子はスカートです。
 それまでほとんどスカートをはいていなかった娘は、
 スカートでは鉄棒やサッカーなど、
 運動がしにくいことに気がつきました。
 そして、しだいに休み時間には、運動場に出るよりも、
 教室でおしゃべりをして過ごすようになったようです。

 学校で、混合名簿を採用するところも
 ずいぶん増えてきました。
 子どもたちの小学校では、
 途中から混合名簿になりました。
 でも中学校で、また元に戻ってしまいました。
 子どもたちはそうなってはじめて、
 男女で分けられ、
 男子が前ということに違和感を感じたそうです。

 高校生になった息子が、
 携帯電話を買いたいと言いました。
 ホームページで機種を確かめ、
 彼が選んだ色はパールピンクでした。
 申し込みに行ったとき、
 お店の人はほんとうにこれでいいのか、
 何度も確かめました。

このような経験は、多かれ少なかれ、わたしたちは全員がしています。
家庭の中で、学校で、地域で、テレビや雑誌などを通して、
わたしたちはいろいろなことを教えられてきています。

そして、それぞれの性にふさわしい性格や行動などが
あるかのように思い込み、
自分自身もそれに沿うように努力をしますし、
まわりの人にもそれを期待するのです。
そのようにしてジェンダーは、これまで伝え続けられてきました。

2.ジェンダーの影響
最近は、ずいぶん「女だから」「男だから」ということに
こだわらない人も増えてきました。
職場で仕事をする女性も増え、
家事や育児をする男性も増えてきています。

それでも、家事労働の時間は圧倒的に女性が多く、
男性は「手伝う」という感覚でしかない人がほとんどのようです。
また、家族の気持ちを聞いたり考えたりするのは、
圧倒的に女性が、その役割を担っています。

あなたは、男の子が泣いていたり、
ままごと道具や人形をほしがっているのを見ると、
何となく情けなくなったり、違和感を感じたりしませんか?

また、女の子が自分の考えを、しっかりとした口調で話していたり、
家事が苦手だったりすると、
何となくかわいげがないと思ったり、心配になったりはしませんか?

そのようなときわたしたちは、自分の考え方や価値観で
「いや、そのように考えてはいけない」と修正したりもしますが、
一番最初の、ちょっとした違和感を感じとってみると、
案外いろいろな場面で、
ジェンダーの影響を強く受けているのがわかります。

それは、わたしたちがまだ遅れているとか、
間違っているというより、
それだけこの社会の中に、ジェンダーが
当たり前のように存在しているということなのでしょう。

わたしたち女性は、
「やさしい」「受け身」「従順」などの女性イメージを期待され、
「自分の気持ちは置いといて、まわりの人の要求や気持ちを推測し、
それを優先していく」ことを求められています。

あなたやわたしや、まわりの女性たちが、
そのイメージや役割とは違う個性や能力があっても、
それは「女らしくない」とされるため出しにくく、
また、期待されているものが苦手だとしたら、
「女のくせに」と責められるために、つらい思いをするのです。

そして、「女らしく」しようと努力することで、
自分の気持ちや要求はとりあえず横に置きますが、
それでその気持ちや要求が消えてなくなるわけではありません。
しかもその自分の率直な気持ちを表現することは、
「女らしさ」の理想像とはかけ離れていますので、
なんとなくいけないことのような気になり、
なかなか率直に表すことはできません。

そしてその結果、
わたしたちの中でさまざまな葛藤が起こります。

そして、わたしたちは、
率直でない方法で自分の気持ちを表してしまったり、
自分の可能性を狭めたり、縛ってしまったりします。
そしてそのうち、自分の正直な気持ちは心の奥の方にしまい込んで、
自分自身でもほんとうの気持ちを
つかめなくなってしまうこともあるのです。

3.維持されていくしくみ
女性と男性に対してわたしたちが共通に持っている思い込みを、
「ジェンダー・ステレオタイプ」と呼びます。
そのステレオタイプの影響を受けたわたしたちは、
無自覚なままに、またそれを維持していっているようです。

そのとき、わたしたちの心の中では、いろいろなからくりが働いています。

たとえば、あるグループの人たちの特徴を把握するとき、
たまたま自分が見聞きしたことを、グループ全体に当てはまるかのように
思い込んでしまうことがあります。
それによって、自分のまわりのあるひとりの、または何人かの
女性(男性)の特徴を、
「女性」(「男性」)というグループそのものの特徴であるかのように
錯覚してしまうのです。

特に、数が少ないものは視覚的に目立ちます。
ですから、男性(女性)が多い職場にいる女性(男性)の特徴を、
「女性」(「男性」)というグループ全体の特徴であるかのように
錯覚してしまうこともあります。

また、わたしたちは、たとえ「らしくない」事実を見聞きしたとしても、
それを「例外」だとしてしまい、
そのことで「らしさ」そのものの書き換えをするようなことは、
めったにないように思います。

たとえ「女(男)らしくない」と感じるような女性(男性)が
まわりにいたとしても、「あの人は○○(職業だったり家族構成だったり、
ときには「変わったヤツ」というものも!?)だから」という、
性別とは違う理由をつけて、その人を「女性(男性)」の例外のように
受け取ります。
そして「女(男)らしさ」そのものを問い直すことなど、めったにしないのです。

一方、自分のことを考えるときには、
たとえ今の自分の立場が弱かったり、差別されていたとしても、
自分の価値は下げたくないので、
そんなことはないと思いたい気持ちが働くようです。
また、「わたしはまだまし」だとか、
「わたしはうまくやれている」と思いたい気持ちも働きます。
でもその結果、わたしたちは、ジェンダーの悪影響を見ないように
してしまっているのではないでしょうか。

そのような状態で、他の差別されている女性を見たときには、
それを、ジェンダーによる女性差別だと思えないことがあります。
そして差別されているのは、その女性に何か原因があるのだと
思いたくなるのです。
そうでないと、自分にもそのような差別がふりかかることを
認めることになってしまいます。
「わたしはあの人とは違うからだいじょうぶ」と思いたいために、
その女性自身に、原因を求めてしまうのです。

それが、女性差別という点で、
本来同じ立場として共感し合えるはずの女性が、
他の女性をおとしめてしまう理由のひとつなのだと思います。
そしてそのことで、女性が不利益を受ける社会環境はなかなか変わらず、
ジェンダー・ステレオタイプも維持されてしまうのです。

4.性差の生物学的な証拠?
「男女差は生まれつきの生物学的なものだ」という主張をよく聞きます。
でも、はたしてそう断言できるものなのでしょうか。

「左右の脳の分業の仕方と脳梁の太さが女性と男性とで違っていて、
これが男女の言語能力の差をもたらしている」
つまり、「女性は言語活動で左右の脳を使い、脳梁が太いから
言語能力にすぐれている」という説について

 実は、半球分化が進んでいる方が能力が発揮されやすいという説もあり、
 左右半球の機能差と能力とを結びつけるような確証は、
 まだ得られていないそうです。

 また、ある種の能力や傾向と脳の構造や機能との間に
 たとえ相関があったとしても、
 どちらが原因で結果なのかはわからないとは思いませんか。

 わたしたちが生まれたときには、脳は15%しか成育していないと
 言われています。
 残りの85%は、生まれたあとで起こるさまざまな刺激によって
 成長していくのです。

 たとえ今、女性の方の言語能力がすぐれているという
 実験や観察の結果があるとしても、
 「女性だからそのように生まれついている」というわけでは
 ないのかもしれません。

 子育てを任され、家族の世話をし、人間関係に配慮すべきだとされる
 女性の方が、現状として、結果的に言葉をより多く使うことになり、
 その経験の結果が、脳の機能差を生み出しているとも
 考えられるのではないでしょうか。

「女性は地図が読めない」とか「女性は空間図形が苦手」などの説について

 これも、「女性だからそう生まれついているのか?」という疑問がわきます。

 そもそも、地図を読むためや数学の空間図形を考えるのに必要な
 空間的な思考は、まわりの環境を探検し、からだの能力を発達させることと
 密接に結びついていると言われています。
 つまり、幼い頃の肉体的な自由が、空間的な思考のための技能を
 発達させるのだそうです。

 このような技能は、およそ8歳くらいまでは、女の子と男の子のあいだで
 差はないと言われています。
 そしてその後、子どもたちの技能に、少しずつ違いが現れ始め、
 思春期の頃に、その違いは最もはっきりするそうです。

 8歳というと、そろそろ女の子たちに対して、「おてんばではいけない」
 「女の子らしくしなさい」と言われはじめる頃ですよね。

 そして思春期の頃の女の子たちの行動の自由は、
 男の子たちに比べて、かなり厳しく制限されています。

 また、ほとんどの女の子たちと同じように、
 のびのびとからだを動かすことをあまりよしとされなかった男の子たちにも、
 この技能に関して、女の子たちと同じような発達の傾向が見られる
 という事実があるそうです。

 ですからこれらの能力は、生まれつきではなく、
 その後の経験によるものであると言えるのだと思います。

現在、確かに男女による能力の差や脳の違いなどが測定されています。

でもそれは、生まれつきのからだの違いが原因だとばかりは
言えないのではないでしょうか。

からだの違いと能力差は、どちらが原因で結果なのかはわかりません。
また、たとえからだの違いが原因だとしても、
それが生まれつきであるとは限りません。
育てられ方によるものなのかもしれないのです。

今、観察されている性差は、乳幼児期からの経験や学習によって
もたらされた社会的な性差(ジェンダー差)であり、
今後、男女の経験が似たようなものになるにつれて
その差は縮まっていくのではないかと、わたしたちは考えています。

参考文献:『ジェンダーの心理学――「男女の思い込み」を科学する』
/青野篤子 森永康子 土肥伊都子/ミネルヴァ書房

『ほんとうの自分を求めて ―自尊心と愛の革命―』
/グロリア・スタイネム 道下匡子 訳/中央公論社

5.「わたしらしさ」のために
今、ジェンダー・ステレオタイプには、少しずつ変化が起きてきています。
ファッションにしても、スポーツの記録にしても、仕事や役割の部分でも、
少しずつ男女差が縮まってきています。

それでも、ジェンダーにそってしまう意識から解放されるのは、
結構難しいことです。

何かしたいことがあるとき、「でも、やっぱり女だから無理だろう」、
「男がこんなことをして、変に思われないだろうか」などと
ためらうことはないでしょうか。

誰かが何かを成し遂げたり、何かに失敗したとき、
「やっぱり女(男)はこんなことが得意なんだ」、
「やっぱり男(女)はだめだ」と、
その原因をその人が「女であること」や「男であること」のせいだと
してしまわないでしょうか。

わたしたちは、自分でも気づかないうちに
「女であること」や「男であること」に縛られているようです。

ですから、自分がジェンダー・ステレオタイプを持っていることを自覚し、
そのステレオタイプが、自分やまわりの人に対しての見方を
歪めてしまうことを知っておくことは大切なことだと思います。

また、自分や誰かがステレオタイプとは違うとき、
それを「例外」とはせず、今までの価値観の方を疑ってみる、
多くの人と語り合い、自分とは違う価値観に触れてみる、
「何か変」だと感じたら、その違和感を大事にする、など、
わたしたちにできることはたくさんあります。

「女だから」「男だから」ではなく、
「わたし」はどうしたいんだろう…と自分に問いかけ、
「わたしらしさ」を大切にする練習を始めてみませんか。

グループのメンバーのひとりが変わると、グループ内のバランスは
変化します。
そしてひとつのグループが変わると、社会全体のバランスが
変化します。

ほんの少しの変化でさえ、大きな違いをつくり出すこともできるのです。

わたしたちひとりひとりの変化は、
そのための第一歩になるのだと思います。

もちろん、個人が変わるだけではなく、社会制度を変えていくことも
必要です。

この社会の不条理なしくみを変えるために、
あなたの中の思いをぜひ言葉にし、行動に移していってほしいと
わたしたちは願っています。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~with3/gender/gender.htm

 



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子育て

1 「子育て」って?

ここではまず、「家にいて、毎日毎日ずっと子どもと関わる」とは
いったいどういうことなのかを考えてみましょう。

赤ちゃんや子どもといるとき、たいていわたしたちは、
その子が何を感じているのか、何を言いたいのかを知ろうとします。

でも、小さな子どもたちはまだ、言葉ではうまくコミュニケーションをとれません。
そこでわたしたちは、頭で考えるよりもむしろ、
その子と一体になるような感じに自分の感覚を総動員して、
その子の欲求や感情を、からだ全体で感じ取ろうとするようです。

それでも、子どもの要求を完璧にわかるわけではありません。

そのうえ、子どもたちはいつも機嫌がいいわけではありません。
ときには泣いたり、怒ったり、こちらのお願いを聞かなかったりします。
忙しいときに限ってぐずるように感じたり、してほしくないことに限って
するように感じることもあります。

育てるのに大変だと感じてしまうようなタイプの子どもたちもいます。

また、赤ちゃんや小さな子どもは、絶えず危なっかしく動き回ったり、
ベッドや階段などから落ちそうになったり、滑ったり転んだりします。
小さなものを口に入れそうになるし、危ない物、熱い物でもさわりたがります。
テーブルクロスを引っ張ったり、大切なものを引っ張り出したり、
後かたづけが大変なものをばらまいたりします。

ですからわたしたちは、小さな子どもと一緒にいると、絶えずハラハラします。

つまり、子どもと一緒にいるということは、毎日のように出会ういろいろな危険から、
年中無休の24時間態勢で子どもを守り、また、子どもからいろいろなものを
守ることでもあるようです。

そのうえ、わたしたちは、自分のかかわり方がその子の性格や人格、
将来をも左右してしまうように感じてしまうこともあります。
ですから、自分ひとりで子どもと関わっているときには、
とても責任の重い仕事を引き受けてしまっていると感じてしまうようです。

そのような状況の中で、
わたしたちはイライラしたり、ワクワクしたりドキドキしたりしながら
毎日を過ごしているのです。

2 楽しさとイライラ

子どもを見ているとかわいいし、飽きないし、さわると柔らかくて
癒される感じがする人が多いと思います。
笑顔を返してくれたときなどは、うれしくなりますし、子どもといるだけで、
ほんわかした幸せな気分になることがあります。

また、子どもたちは言葉の裏の意味など考えませんし、
「常識」というもので自分の感じ方や考え方に制限を与えたりはしません。
そのような純真で独創的な子どもたちと一緒に何かをしたり考えたりすることは、
思わぬ発見のある、ワクワクするような経験です。

しかし、子どもは結構気まぐれですし、要求ばかりしてきます。
子どもの世話というのは、自分の意志や欲求というよりも、
子どもの都合で動かざるを得ないようなところがあります。
夜眠れなかったり、昼間もずっと目が離せなかったり、ずっと抱いていなければ
ならないこともありますので、肉体的にも疲れることです。
そのようなときにイライラしたり不満を感じたりするのは、ごく当たり前の
反応なのだと思います。

また、いつまでも子どもが泣いたりするときには、どうしていいのかわからず
混乱してしまったり、自分が責められているような気持ちになったりして、
自分も泣きたくなったり、泣いてしまったり、逆に怒ってしまったりもするでしょう。

それでもわたしたちは、そのときそのときに、子どものためになるべく
よりよいことをしてあげたいと思い、そのための努力をしています。
そしてそのように努力をするがゆえに、さまざまなことで罪悪感を感じたり
不安になったり、気持ちがゆれたりするのでしょう。

そのうえ、まわりの人たちから、甘やかしているとか厳しすぎるとかいろいろと
干渉され、不安がつのったり、イライラしたりすることもあるかもしれません。

自分がうまくやれていないと落ち込み、子どもを傷つけてしまったのではないかと
心配になり、子どもの寝顔に「ごめんね」と謝ったことがある人は、
多いのではないでしょうか。

ときには子どもから逃げ出したいと思ったとしても、
それは間違っているんだと感じて、逃げたいと思ってしまった自分にまた、
罪悪感をもってしまうこともあります。

そして、そのような毎日を送り続けながら、まわりから遮断された、
狭い世界でしか生きられていないような気持ちになったり、
自分だけ、まわりの社会や友だちから取り残されたような気持ちに
なることもあります。
そんなとき、わたしたちは、焦ったり悲しくなったり、不満に思ったり
怒りがわいてきたりするのでしょう。

そしてしだいに、子どもを愛したいとか、子どもにやさしくしたいと思っても、
それが難しくなってしまうこともあるようです。

自分が子どもの頃、親から愛情をもらったという実感がない場合、
子どもに愛情を注ぎたいと思っていても、具体的にどうしたらいいのか
わからないこともあります。

また、なんらかの背景があって、自分ひとりだけで精一杯だと感じているとき、
自分より弱い者を守り、その世話をしなければならない育児というものは、
自分をなお一層追いつめ、窮地に立たせるようなものに感じることもあるでしょう。
そのようなとき、育児というものに怒りや憤りの気持ちがわいてくることも
あるのだと思います。

このように、わたしたちは子どもを育てながら、不安や不満、イライラ、
焦り、罪悪感など、いろいろな気持ちを感じています。
そんな気持ちを、率直に話ができる、安心できる場をもつことが、
とても大切なことだと思います。

3 「母性神話」

わたしたち母親が、イライラしたり不安になったり罪悪感をもってしまう背景には、
社会からのプレッシャーがあるようです。

わたしたちのまわりには、根拠がないにもかかわらず、
ほとんどの人が信じてしまっている、さまざまな社会的な思い込みがあります。
これらは「神話」と呼ばれています。

その中でも、まず「母性神話」について見てみましょう。

「母性神話」とは、
「女性にはもともと、母性が備わっている」とか、
「子どもを産めば、自動的に母性がわいてきて、自然に子どもの世話をしたくなる」
というようなものです。

つまり、「女性にとっては母性は本能である」、
そして本能であるがゆえに「女性は常に母性を感じている」ということなのでしょう。

この「母性神話」があるために、
「ダメな母親だ…」と、母親が自分で自分を責めるだけでなく、
夫、親やきょうだい、友だち、近所の人など、まわりの人から
「母親のくせに」と非難されることもあります。
残念ながら、医者や看護師、保健師、カウンセラー、保育所や幼稚園の先生など、
専門家と言われる人たちから言われることもあるようです。

でも実は、子育ては本能ではなくて、学習なんだと言われています。

「母性」本能と呼ばれるものは、小さくて弱いものを見ると守りたいと思い、
世話をしたくなるような、種の保存のための本能ですが、
これは生まれつき、ほとんどの人の遺伝子の中に組み込まれていると言われています。
しかもそれは、女性だけにあるのではなく、男性にも同じようにあるのです。

つまり、「母性」本能は男女ともにあるのですから、
「母性」本能という名前そのものを変える必要があると考えます。

また、その本能を行動に結びつけるのは、睡眠中に作られるホルモンと、
それが伝達されやすくなるための経験だということがわかってきました。

つまり、たとえ本能があったとしても、それを行動化するためには、
充分な睡眠と学習が必要なのです。

ということは、睡眠不足の疲れがたまっている状態では、
たとえ「母性」本能があったとしても、それを発揮しにくくなるということでしょう。
また、男女とも、子どもを育てる中で、
少しずつ行動化できるようになってくるものなのだと思います。

また、わたしたちは、本能があってそれを行動化するための条件が整っていても、
いつも確実に行動に移すかというと、そういうわけでもないとは思いませんか。
わたしたちは、本能のままに生きているわけではなく、
それをすることをためらうようなものがあったり、先に延ばす理由があったりすると、
本能に忠実に動くわけではありません。

現実のわたしたちは、子どものことをかわいいと思い、世話をしたくなるときもあるし、
そうでないときもあります。

つまり、「最初から、いつもいつも愛情深く子どものことだけを考える母親」というのは、
幻想でしかありません。
ですから、自分やまわりの母親たちの誰かが、
幻想の通りでないからといって、その母親を責める必要はないのです。

また、「母性神話」によるもうひとつの弊害があります。
それは、「母性神話」によって、
「女性は子どもを産んでこそ一人前だ」というような思い込みも生まれることです。

そのため、出産歴のない女性にプレッシャーを与えてしまいますし、
出産歴のある女性に比べて、出産歴のない女性が半人前で劣る人だと
見られてしまうこともあるのです。
女性を分断してしまうそのような考え方は、
ぜひ、なくしていきたいと考えています。

4 「三歳児神話」

では、次に「三歳児神話」について見てみましょう。

「三歳児神話」とは、
「子どもが三歳までは家庭の母親のもとで育てないと、
 後々取り返しのつかないダメージを子どもに与える」というものです。

これも、科学的に証明されているわけではなく「神話」なのですが、
それでも結構信じられているため、子どもを保育所に預けようとしたときに、
「三歳までは母親が自分で育てないと、子どもがゆがむ」と言われたり、
「子どもがどうなったとしても、自分のやりたいことさえできればいいのか!」
などとまわりから非難されてしまうのです。

つまりこの「三歳児神話」によって、母親だけが、
子どもの成長にとって大切な人間なんだということにされてしまい、
母親と子どもだけを、家庭に閉じこめることになってしまうのです。

その結果、子どもを預けて仕事をする母親は、
子どもに悪影響があるのではないかと不安になったり、
自分は母親として無責任なのではないかと罪悪感をもってしまいます。
一方、子どもと家にいる母親は、自分しか子育てをする人間はいないし、
その自分の関わり方が子どもの人生を決めるのだと、
必死にならざるを得なくなるのです。

また、三歳までが大切だと力説されるために、
母親の焦る気持ちを引き出してしまうことにもなってしまいます。

子どもに何か困ったことが起きると、すべての責任が母親だけにあると受け取られ、
母親の何か、たとえば仕事をしているとか、関わり方が厳しすぎるとか甘すぎるとか、
とにかく何か理由を見つけられ、母親だけが責められてしまうことになるのです。

実は、この三歳児神話を生み出すもとになった観察や実験の報告があります。

スピッツの「ホスピタリズム」についての論文や、
ボウルビィの「母性剥奪(喪失)」についての論文、
また、ロレンツのハイイロガンの「刷り込み」の研究や、
ハーローのアカゲザルの実験結果なども利用されることがあります。

しかし、実験や観察の結果をどう考察するのかは、
その人の価値観や思い込みがかなり反映されてしまいますので、
実験の方法や考察の仕方によっては、全く違う結果が導き出されるものです。

しかも、スピッツやボウルビィの出した結論を、
使う側がまた、歪曲して使っているようなところもあります。

結論を出した人やその結論を使う人の思い込みにより導き出されたものは、
科学的な根拠にはなり得ないと考えます。

本来子どもは、まわりの人たちと、さまざまな関係をつくりながら育っていくものです。

母親との関係も大切だとは思いますが、
それと同じくらい、他の人との関係も大切なものです。
大切なのは、「母親かどうか」ということよりも、
まわりの人たちがその子と、どんな関係をつくっていくのかということです。

また、なるべくたくさんの人が子どもと関わっていく方が、
誰かひとりに負担がかかることもないですし、
子どもも幅広く、いろいろなものを受け取ることができるのではないでしょうか。

また、子育てに遅すぎるということはありません。
三歳までに完璧なものを作り上げていないと、後々とんでもないことになる、
などということはないのです。

もし「神話」が真実なら、何らかの理由で赤ちゃんのときに母親と別れた人は、
全て、とんでもない人生を送ることになります。
しかし、そのような状況の中でも、一生懸命に自分の人生を生き、
幸せになっている人はたくさんいます。

子育ては、少しずつ少しずつ長い時間をかけて、子どもと一緒に
人間関係をつくりあげていく過程です。
いつからでも、何かに気づいたときから変更可能なのです。

小さい頃に時間を戻すことはできませんが、
その子との関係性のあり方に変化を起こすことは、いつでもできるのです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~with3/kosodate/youji/youji.htm



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ドラフト1

0.パソコン通信の時代と JUNET の時代

パソコン通信は最初から匿名の世界のまま終わることができた。
JUNET は実名の世界で、お互いを顔を確認でき、接続するための技術がないと、接続できなかった。

インターネットについては、米国の DARPA が、大規模な核戦争が起こった場合の、生存状況を把握するための研究が起源である。

1993年のWIDE と PC-VAN の相互接続実験から、インターネットがパソコン通信同様に、匿名の世界に変質していった。匿名が主になると、現実の世界と仮想世界との区別が曖昧になりやすい。人間に内在する一部の傾向を拡大する。

匿名社会は人格障害者の格好のすみかになる。
常識的な態度を装って障害を隠すことも多い。
とんでもないようにみえるメッセージを書く人と会ってみると、常識的な人ということがよくある。
対策の基本としては、実名の世界か匿名の世界かを見抜き、
仮想世界と現実世界を混同しないことである。

その後はインターネット中毒が社会問題になっていて、それに関する文献も多く出ている。

1.ネット社会の歴史と現状 
Win95とブロードバンド(世界の拡大、グローバル化)
オンラインゲームとチャット(強烈な吸引力、リテラシーの必要、裏サイト、アダルトサイト、出会い系サイト)
情報ハイウェイ(将棋と翻訳)

2.ネット社会と情報化社会の中でどのような人格傾向が適応的か
一時的で仮の人格
自己愛性
シゾイド
逃避型

少子化が王子様を生んでいる⇒脆い自己愛⇒自己愛型うつ病 とでもいうべきもの

ネットがレバレッジになっている 促進的に働く
現実は訂正的に働く

3.現実不適応とネット社会
一時的で部分的なアイデンティティ確保が容易になった
それは逃げ場である
安易な退却の場

4.子育ての現場
子どもの場合のゲーム脳
子供の心の育成 クリエイト リクリエイト
小児科会からの提言

5.現代的な人格がうつになったときの病像……各人格がうつになったときの病像
自己愛⇒ディスチミア親和型うつ病 恐怖症、パニック症の病像をとることもある
境界型⇒抑うつ神経症
逃避型
メランコリー型
シゾイド型
未熟型 ⇒未熟型うつ病
 ⇒非定形うつ病
 ⇒逃避型うつ病
 ⇒退却神経症
 ⇒その他、各病型
自己不確実型⇒強迫性、統合失調症
6.
病理とネット
Mad ……MAタイプははまりやすい
time delay ……仮想と現実……なにを取り込めばいいのか分からなくなる

msdは仕方なくネットに退却する
現実生活では適応不全だがネット世界ではスーパーマンだとしたらどう考えるか

*****
メディアの中で何を学ぶか、性差がある。女性は痩せ願望を学び、男性は性暴力を学ぶ。

*****
匿名性の問題。
村落と都会の違いは、匿名性である。

ネット社会でも匿名性に類似したことが都会では起こっていて、
問題が指摘されてきたが、それがむしろ都会の利点である。

ネット社会での匿名性も、利点があるのであって、その点は意識すべきである。

ネット社会といいつつ、結局は大半は企業のカタログ展示場である。

個人が発信したとしても、企業広告の中に埋もれてしまう。

*****
0.は専門的な話

メインストリームは
1.
現代的情報化社会・ネット社会の現状をまず描く。
2.
そこに生きる人々は自己愛型性格が適応的で全体の中での比率が大きくなっている。
しばしば過重労働型の職場に配属されて、過剰適応になり、疲弊する。
自己愛型性格者がうつになったとき特有の病像を呈する。(症例をひとつ)
ディスチミア親和型に近い。不安、恐怖があり、身体的愁訴が強い。
完全に治るというイメージとも少し違う。
適応障害と名付けるのが適切な場合も多い。
適応改善のためと予防のための提言をいくつか。

参照は
http://shinbashi-ssn.blog.so-net.ne.jp/2008-09-07
http://shinagawa-lunch.blog.so-net.ne.jp/2008-09-19-5
http://shinagawa-lunch.blog.so-net.ne.jp/2008-09-29



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