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強迫性傾向+マゾヒズム+教養主義的宗教

私は地獄がなければならぬと思います。
その時に、同時に必ずその地獄から免れる道が
無くてはならぬと思うのです。
それでなくてはこの世界がうそだという気がするのです。
この存在が成り立たないという気がするのです

私はどんなに親しくその人たちをながめたろう。
皆許されねばならないような気がした。
世の相をあるがままに保っておくほうがよいという気がした。
「このままで、このままで」と私は心の中に叫んだ

聖者とは
罪の感じの人並みすぐれて深い人のことを言うのだよ

仏様のお慈悲は
罪人としての私たちの上に雨とふるのだ。

なにもかもよかったのだな。
わしのつくったあやまちもよかったのだな。
わしに加えられた傷もよかったのだな。
ゆきずりにふと挨拶をかわした旅の人も、
何心なく摘みとった道のべの草花もみなわしと
はなれられない縁があったのだな。
みなわしの運命を成し遂げるために役立ったのだな

人間の純な一すじな願いをつき詰めて行けば、
皆宗教的意識にはいり込むのだ

恋するとき人間の心は不思議に純になるのだ。
人生のかなしみがわかるのだ。
地上の運命に触れるのだ

わしは今日までさまざまの悲しみを知って来た。
しかし悲しめば悲しむだけ此世が好きになる

『出家とその弟子』倉田百三

*****
強迫性傾向+マゾヒズム+教養主義的宗教

強迫性傾向+マゾヒズムは王貞治と同じ(私の内部のイマジナリーな像として)



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品性

人より人に及ぼす感化は、
その雄弁よりも主義よりも、
信仰よりも学識よりも、
実に品性の力量を深甚なりとす

国木田独歩

品性とか品格という言葉は好きな言葉だったけれど、
マスコミでこの言葉を流行させた男性と女性の顔が浮かんできて、
恥ずかしくてもう自分では使えない。

decency と表現した方がいいかもしれない。

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国木田独歩

喫驚したいといふのが僕の願なんです。
不思議なる宇宙を驚きたいといふ願です。
国木田独歩

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女は産みたいという 男はどうか?

少子化だけれど
女性たちは産んで育ていたいと言っているぞ。
おかしいじゃないか。

産みたくないのは男の子たちなのかな。
妊娠しましたと女性から言われて、
腰が引けてしまうのだろうか。

そこで、是非産んでくれ、というのが男らしいことで
人間として価値のあることで
それをしないならとても恥ずかしいことなのだと
思うようにしたらどうだろうか。

立派な父親というもののイメージを植え付けなくっちゃ。
まずそこからだ。

それだとカトリックの国みたいになるかな。
祝福いっぱいの赤ん坊の方が良いよね。
できちゃったから仕方なくと、父親が浮かない顔なのもいまいちだ。

子どもができたら自動的に大喜びして産むように女性を説得し
周囲にも産んで育てると雄々しく宣言しよう。

考えてみると、「男らしい」って、それに尽きるんじゃないかな。

「俺の子ができた?
よくやった!
是非産んでくれ、幸せにする!」
くらいの勢いがなくてどうする。

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シングルマザーもいいかも

日本の将来を憂慮した私は
内需を喚起してかつ日本語を守るために
是非子どもを増やしたいと考えました。
まず8丁目でインタビューをしました。

そうねえ、それは子どもは大好き。生めたら生みたいな。三人でもいいわよ。

みんなそうじゃないかな、子供は産んでみたいし育ててみたいって思っている人が多いと思うな。
私のまわりではそんな感じ。子育ては大変だっていわれるけれど、してみたい。

大変なのはやっぱり仕事との兼ね合いでしょう。
何年かキャリアが中断になるから、
産休、育休があっても、それを使うということは実質、競争から降りるということだものね。
優秀な人ほど嫌でしょう。

わたしはべつに普通だけど、それでも子どもがいるから早く帰るっていうのは言いにくいし、
居心地が悪い。
私だったら3年か5年くらいは専業主婦になる。
そのあとは自営業。喫茶店とか居酒屋とか。あたしって、ママさんが似合うわきっと。
お店出さして。

子ども一人産んだらいくら、三人だったらいくらとか、少しは足しになるけど、
それが大きいとは思わない。
たとえばね、子どもをおんぶして仕事ができる職場とかいいと思う。
そしたらキャリアは続けられるし。
赤ん坊がいたって会社の仕事はできるよちゃんと、きっと。
そういう世の中にすればいいんだよ。

カンガルー方式ね。
しばらくの間はカンガルーみたいに袋に赤ん坊をいれてどこにでも出かけたらいいのよ。
うるさいとか言うかもしれないけど、
そうね、でも、赤ん坊って、場の雰囲気を和ませるし、いいモンだと思うけどな。

託児所とセットでもいい。手元で自分が見られるときは見ていて、
それができないときは会社の託児所に預けて、仕事をする。
共同育児は意味があると思う。
テレビに育児をさせるよりはずっといい。
週刊誌のコマーシャルの見出しに、テレビ育児のことで出ていたね。

会社内って、女性のことを性的には見ているけれど、母親としては見ていないって感じがある。
不倫はするけど、子どもが熱を出してるって言うと、だから女はダメだなんて言われて。
会社っていう組織はそうなのかも。

でもこれからは、会社で働く男性の奥さんもどこかで働いている場合が多いわけだから、
変わっていくでしょ。

友達でね、結婚はしたくないけど、子どもは欲しいなって言う人は何人もいる。
シングルマザーで育ていたっていうの。
精子バンクで人工授精するって。

結婚すると、旦那が、お茶とか、食事とか、旦那の親戚とか、いろいろ面倒なわけじゃない。

そんなときね、聖心女子大ですとか言えば、家庭のことはお任せだけど、
それは二人分の給料が稼げる男性が前提よね。

私たちにはそんな人は回ってこない。

フランスみたいに、社会がシングルマザーを応援すればいいと思う。
そしたら、結婚のためにじゃなくて、子どものためにいい遺伝子を選ぶようになる。
長い目で見ると、それが一番いいかもね。

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川端康成

日本の子供には、
もっと孤独を教えないと、思想は生まれませんね

なんとなく好きで、
その時は好きだとも言わなかった人のほうが、
いつまでもなつかしいのね。
忘れられないのね。
別れたあとってそうらしいわ。

死んだ者の罪を問わないのは、
今は生きていてやがて死ぬ者の、
深い真理かもしれませんよ

人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合っているのだ

私は恋の痛手をいやすために、
あらん限りの努力をしてみたいと思いましたとき、
初めて自分の恋の深さを知りました

川端康成



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ゾラ

私は今、我が家の庭で、
自分を取り巻くすべての生き物を見守り、
悦びに満ちた午後を過ごす。

老いが深まるにつれ、
すべてのものが私から去っていくことを感じ、
だからすべてのものを、
今まで以上に情熱を込めて愛する

ゾラ



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見たまま聞いたままにとらえることの困難

最近思うのだが
人々はものを見たままに経験していないようなのだ
聞いたことを聞いたままには経験していないようなのだ

だから絵を見てもつまらないのだろうし
景色を見ても感動しないし
言葉は誤解が多くあり
誤解の大半は被害的な言葉になる

壁のシミが人間の顔になり
エアコンのうなりが自分への悪口になる

理解の不足、誤解、邪推、そして推定はたいてい被害的な内容になるようだ、
これも不思議であるが


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ネット社会がどうして問題社会になったか

たとえばネット社会では日本語が使えなくて、
しかも技術的にかなり専門的な人でなければアクセスできないものだったとしたら、
誹謗中傷や人を自殺に追いやる発言はあっただろうか。

誰にでもアクセス可能でしかも匿名可能であると思ったとき
そのようになるのは必然なのだろうか。

それとも現代人の一部の層では
鬱憤がたまっているということなのだろうか。

はき出す場所としてなぜネット社会なのだろうか。
友達もいない?

悪口を他人にも聞かせたいというのはどのような心理なのだろう。
必死で賛成して欲しいのではなくて、
攻撃している自分にうっとりしているような自己愛性の心理なのだろう。

友達や親や兄弟はなぜやめさせないのだろう。
知り合いのたった一人もその人の書き込みを見ていないのだろうか。

そして日本ではその人の友達が死んでしまった。
韓国では女優が死んでしまった。

女優は女優であるというだけで
どんな書き込みも我慢しなければならないのだろうか。
そんなはずはない。

主には反撃の有効な方法がないということが困難の一つなのだろう。

ネット社会の悪い面ばかりがどんどん拡大されてゆく感じだ。

便利に有効なものとして使っている人たちには
あまり関係のない話である。

実社会で問題を起こす人はネット社会でもやはり問題を起こしがちだろうと思う。
むしろ実社会でおとなしい人たちの一部が
ネット社会で他人に迷惑をかける存在になってしまうことが
不思議な問題だということになるだろう。

対面場面では抑制されているものが、
ネット場面では抑制されない、そういうことになるだろう。

場面による人格の著しい違いは、
場面緘黙とか
多重人格とか
内弁慶とか
重いものも軽いものもいろいろとある。
その一つと考えていいのか。

ネット社会に入り込んだときにどうしてそのような迷惑な存在になってしまうのか、
謎がある。
その前提として、その人の場合は、実社会とネット社会がかなり切れていると考えられる。
実際に顔を合わせている人たちがその書き込みを見ているとしたら
実社会での自分とあまりにも落差のあるものは書けなくなるはずだろう。

よく分からないながら、そのようなタイプの問題のある人が
ネットの特性を利用して集まってしまい、より先鋭化するのだろう。
自分たちの悪さを鍛え合うようなところがあるのだろう。
ある種の純粋培養器である。



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よきネット社会

ネット社会の書き込みが原因で自殺する人まで出てしまうのは
どうしたことだろう

本来ネット社会の参加者は
そのような誹謗中傷を書く人がいるとしても
集団の中では諫められるしあるいは無視されて
ほんのわずかのノイズの程度で収まるはずで、
大半の人たちには、もっと話したい内容があって、
そのための最新技術だと考えられていた。
検索していろいろな細かい情報にたどり着けるのは大変ありがたい。
中には嘘もあるし勘違いもあるが
そのようなものはより分けて欲しい情報を見つけていけばいい。

近くの友人には経験がないことでも、
遠くの誰かまで範囲を広げたなら、
体験を比較検討することもできるかもしれず、
それは大変有用だと考えられた。

時間を超えて、数年前の経験が役に立つ局面もあるだろう。

*****
ところがネット社会の一角にに出現したのはトイレの落書きのようなものだった。
誹謗中傷、デマ、個人攻撃、人間の心の醜さと低劣さがこれほど広く支持されるとは
考えていなかったはずだ。
ところが人間の心はそれを欲していた。
書く人も多かったし見る人も多かった。

ノイズとしてはそれもあるだろうと思われていた程度のものが、
ネット社会といえばそのようなものだと思われる程度にまで拡大した。

また一方で、アダルトサイト、出会い系サイトの問題もある。
一部に問題サイトはあったとしても、見る側の分別があれば、対して害にもならないだろうと思われた。
しかし実際には大きな害悪となっている。

なぜなのだろう。

知恵と体験を持ち合い、普通の友達づきあいのように、しかも遠く離れた人同士でも友人として、
脳と脳とを並列に結合できる。
男と女さえ、関係なく、結合できる。
そのはずが、男も女もことを殺すような言葉を書いていた。

これが人間の本性なのか。

よきネット社会と思って始めたものは
そのまま、悪しきネット社会だったのか。

現実人格とネット人格の落差についても、信じられない思いがあるくらいだ。
なぜそのような違いが生じるのだろう。
興味深いがよく分からない。

女子学生が友人に死ねと書いて、書かれた方は死んでしまった。
本当に死ねというつもりではなかったというのだが。



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理解と被害的と誇大的

物事を理解するのに十分な情報がない場合、
あるいはその情報を十分に理解する理解力がない場合、
人はしばしば被害的になり、
場合によっては誇大的になる。

被害的になれば危険から自分を守ることができる。
誇大的になれば、くよくよする時間をなくすことができる。
いずれも自分にとって部分的な利益がある。
本当はきちんと理解して正確に現実的に対処するのがよいのだが、
いろいろな事情でそのようにはできないことも多い。

妄想や迷信
という記事にあるのだが、
人間は危機的状況、自制心を失ったとき、精神のコントロールを失って理性を失ったとき、
妄想や迷信に逃げ込み、
あるいは壁のシミが人間の顔に見えたりする(過剰相貌化)。

感情の制御を失うと、
空想上でもいいので、秩序を求めるようになるという。

逆に、ある特定の単純な考えを刷り込みたいときは、
危機的状況を演出すればいいことになる。

振り込め詐欺で、電話を受けたおばあちゃんが、
孫が株で損をして困っていると聞いただけで動転してしまうというのはどうしてなのだろうと思うが
とりあえずそういうものらしく、
危機的状況の演出には成功していることになる。

危機的状況を演出するのは視野を極端に狭くする目隠しをつけるようなものだ。
わずかに見えているその部分しか見えなくなる。
それが事実のすべてになる。

それは程度こそ違うが日常生活でもしばしば起こっていることだ。
他の可能性はないか、他の選択枝はないか、考えもつかなくなる。

そのような極端な視野狭窄状態の時に、
被害的になって自分を守ることは、一面で合理的である。
またその場合に、誇大的になるのも、情報不足または情報理解不足から理解できるところでもある。

被害性と誇大性は微妙に関係がある。
なぜ自分だけがこのような被害に遭うのだろうと考えると、
それは自分が特別だからだという結論に至る。

孫の場合でいえば、孫についてのわずかな誇大性がやはりあるように思う。
それを基盤にして、容易に操作されてしまうのだろう。

*****
事実を事実のままに受け入れることが難しいのだ。
そんな単純なことが難しい。

たとえば人間は嘘をつく。誇大性が嘘をつかせることが多い。
相手が嘘をついていなくても、嘘をついているに違いないと疑う。
疑うのは被害性である。
そしてそれぞれの裏側にそれぞれが潜んでいる。
嘘をつく人間の心には誇大性があるが、さらに被害性が潜んでいる。
だから嘘をつかざるを得ないこともある。

相手の嘘を疑う心理についていえば、
被害的になっているから疑うのであるが、
なぜ被害的になるのかといえば
自分は被害のターゲットにされるくらい特別なのだという誇大感がうっすらと存在していることも多い。

被害感と誇大感の同居は広範囲に見られる。

*****
解決は事実を正確に認識することであるが、
それは普通の人間には難しいことだ。

フロイトは、未来の人間には可能なことだと希望を抱いていたかもしれない。
現状ではまだ無理だとフロイトに報告するしかない。

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並列型コンピュータ配列 ネット社会

ネット社会の利点は、個人の狭い考えを、ネットが並列配列してくれて、
考えや感じ方を訂正してくれることではないかと思う。

会社などの組織の大半は、直列型の接続であって、
上が間違っていれば下も間違うということになる。
間違った状況判断を実行するだけという局面が多い。

しかしネットのように並列配列がほぼ無限につながっている状態では、
自分だけが孤立して間違い続けるということがほぼできない。

情報操作する場合でも、直列型の場合のように簡単ではない。
いきなり削除すれば削除が話題になる。
横から間違った判断が出た場合は、同等の権限を持つ立場で
理性の検閲が始まる。強制力はないが、理性には充分な説得力がある。

そのようにして、ネット社会では個人の癖や間違いを訂正しつつ、
しかし全体として強制はせず、質を保つように、みんなが教育しつつされつつ関わる。
それがネット社会のいい点ではないだろうか。

誰かが一方的な権威でもなく
謙虚に、理性に従い、教育し、教育される。
高圧的にならず、卑屈にならない。
ネット社会での対等の個人として尊重しあう。

長い目で見て理性が勝利を収める仕組みであると思う。

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少年の正義と大人の分別

少年の正義は教科書に書いてある通りの正義で、
誰も反対はできない。
どんなときにも通用させようとする。

大人は分別があるので、正しいものも時と場合によるのだと
諭そうとする。

その様子がなんだか大人の側の都合の良さであり、おもしろいものだと思う。
正しいのは圧倒的に少年が正しい。
人に親切にして何が悪い。

大人は親切にするのは自分がまずきちんとしてからだなどと言うのだが、
理屈は少年の方が勝ちだ。
自分を犠牲にしてまで親切を実行する少年を止めることはできない。

しかし大局的な目で見て、
それが少年の、大人に対する反抗に過ぎないことは分かるし、
少年の自虐であることも分かる。

入り組んでいてわかりにくいが、
少年は自分で解決するだろうか。

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内需振興策 子どもを増やす

外需に頼っているとともすればモラルを外れることもしてしまう。
いくらでも借りてください、いくらでも買ってくださいと
積み上げたのはいいが、今回のような危機になる。
直接の罪人はいないかもしれないが共犯者である。
一部実行・全部責任の共同正犯と言えるだろう。

今後どうすればいいかと言えば内需の拡大なのだが、
私の意見は、必死になって子供を産むことだ。

子供を産めば儲かるという、あからさまなインセンティブを設定する。
早く結婚すれば儲かるというのでもいい。
同棲している男女はたくさんいるのだから、その人たちに、
どうせ同居しているのなら早く入籍して、子供を産まなくっちゃと思ってもらうようにする。
教育は全部無料。学校にいけば給食が食べられて、最速のPCが使える。
塾もお教室も学校の校舎を使って、援助をどんどん出す。
世界的な学者とかエンターティナーとかスポーツマンを育てる。
日本人が蓄えてきた教育力を最大限に生かす。

世の中にはどんな仕事があって、どんな生活になるか、教える。
昔だって子供は労働力だから一所懸命産んで育てたはずだ。
それと同じくらい親が得する仕組みを作ればいい。
金持ちしか子どもを産めない、育てられないという障壁が、
日本を弱くしている。

産婦人科がいないというが
人工中絶や人工流産を考えるといないわけもない。

一家に初孫が生まれると、それはもう大騒ぎである。
家が必要である。車が必要である。エアコンを買い換える。
おもちゃとかビデオとかカメラとか印刷機とかテレビ電話とか。
衣類も新しいのがほしくなる。
とにかく孫のためならお年寄りはお金を使う。

近頃の若者は体力がなくて怠惰なので
お金を払ってサービスを買う。
子どものためなら言い訳できるのでお金を使う。
教育産業も伸びる。
最近はピアノ教室とピアノ屋が全然儲からない。
日本の中古ピアノを新興国に輸出するのだという。
それはそれでいいから、日本では新しいピアノを買って与えたいと
思えるように内需を起こそう。
新しい変な楽器もどんどん作って、子どもを芸人に育てよう。

しばらくたてばその人たちの一部は介護産業の担い手になるのだが、その前に、
自分の家のお年寄りの面倒を見てほしい。
これは金銭の出入りを伴わないのでGDPにはカウントされないが、
それが人間というものだろう。

地面を掘っても資源が出てこない国なのだから、
お互いの子どもを大切にしてみんなで育てて未来を託すしかない。

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経済の現状2008-10-14

新聞などを読んでいるとおおむね次のようなことらしい。

1.
今回の金融危機に際して米国マーケット主義は
米・ユーロ・日本その他の共同での大幅な介入は、新自由主義の敗北宣言であり、アメリカの社会主義化であるとの言い方もあるようだ。威勢のいい言い方である。そうであるなら私としては歓迎だが、世の中そんなはずはなく、大出血したから一時試合を止めるというたぐいだろう。試合再開すればまたルールは同じだろう。本当に反省していればルールを変えるだろうが、彼らはインセンティブの原則は変えないだろう。そして、今度こそ、本当に自己責任でいいから、やらせてくれと言い張るだろう。そしてまた、風船がはじけるまで、競争するだろう。いつまでも子どもで困ったものだが、半ズボンをはいた少年には一分の正義があり、却下しきれない。

2.
何が難しいのかについて二つくらいあげられている。

2-1.
米国の場合の不良債権の処理は、サブプライムを含めた債権が細切れされて複雑に証券化されているために、それを整理計算して損失を確定するのに膨大な時間がかかるとのことで、不良債権買取と公的資金注入の技術的困難があちこちで言われている。どこの銀行からどれだけの金額で不良債権を買い取って、どれだけ資本注入するか算定と判断が難しく、銀行と政府の両方が納得できる線を引くのが難しいらしい。

2-2.
一方、FRBの資産が問題の本質であるとする意見がある。米国政府の国債発行余力の問題であり、また、米国債を引き受ける市中銀行がない。

3.
将来に向けて
健全なマーケットとは何かについて議論がまとまって有効な対策が打てればいいのだが、どんな対策を打っても、その裏をかく、または、抜け道を探す人たちがいて、たぶん、抑えきれない。ウィルス防止ソフトのようなもので、出てきてから手を打つしかなく、それは仕方のないことだと考えられる。

4.
日本では、二つの勢力がある。

4-1.
経団連と官僚機構は消費税増税と外国人移民の門戸開放で対応しようとしている。
外国人労働者が増えれば、賃金は下がり、労働者の地位や権利はさらに不安定になり、地域の治安も悪化し、公共教育にも悪い影響が出て、日本の市民社会は壊れ、なにより日本語が壊れる。しかし一方で、多様な遺伝子配合がなされ、日本と世界にとって貴重な遺伝子が生まれる。文化の混合も進む。言葉の混合も進む。日本語は守りたいが、変化はしても、守ってくれるだろうと信じる。ここでも、正しい日本語にインセンティブを与えて強力に誘導する。これは何が何でも国策としてオペレーションする。

4-2.
一方で非経団連・非官僚勢力としては、小泉改革の誤りを認め、金融立国論は間違いだったと認めよとの声もある。官僚機構の無駄を削ぎ落とし、予算を適正に配分し、社会保障を充実させて国民の生活を安心させることを求める。そして、非正規雇用を減らし、賃金を上げて、国内の消費市場を拡大させる方向での成長を求める。賃金を上げろ、内需を拡大しろといいことばかり言うが、無理というもので、どこかで画期的な手を打たないと突破できないはず。第一、国内労働力はすでに劣化が進行していて、日本の労働力は、高くてしかも使い物にならないと言われている。新興国の方が、たとえばインドの方が、優秀で忍耐強く忠誠心があり、宗教的に考えても謙虚である。安価な労働力がほぼ無尽蔵に存在する。しかも英語が話せる。そんな中で、日本人労働者は何をするのかをよく考えなければならない。



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