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モンスターペアレントというドラマ

モンスターペアレントというドラマがあり
毎回モンスターぺアレンとが登場して、
しかし結局、そのモンスターの理由が徐々に解き明かされるという話のようだ。
解き明かされればハッピーというものだが
解き明かされない場合には病気ではないかということになる。
明白に病気という認定が出ないときには
裁判上の手続きで決着点を見出すことになる。
ただし長い時間と多大な費用がかかることになる。
短く安く済ます方法もあるが弁護士の家計の必要上、
ゴルフの費用なども稼ぐので、高くなることになる。
弁護士がつつましい生活を送っていれば、
人びとの事件は小さく早く終わることになるだろう。
このことはもっと意識して良いことだと思う。

そして良心的な弁護士が少ないのは
絶対数が少ないからである。
絶対数を多くすれば良心的な弁護士も多くなる。

*****
弁護士問題は別として、
モンスターペアレントがクリニックに来ることもある。
家族が困っているからである。
家族は通常の理性を維持している場合があり、
モンスターの異常な感情や判断に巻き込まれず、
むしろ批判的に見ている場合がある。
そしてときに自分に災いが降りかかろうとした時に
クリニックにきて事情を説明し、
モンスターが如何に異常であるかを語る。

ただし、そのことは、ここまでモンスターが相手にしていた側には語らない。
その人には関係がないからである。
家族内で自分に面倒が及びそうになったとき、はじめて、
対策を考える。
これは普通ではない。
しかし、お互いの長い付き合いの中で、相手を常識の判断内に連れ戻すことが如何に
困難であるかを知り尽くしているのもまた家族なのであって、
興味の関心が自分以外に向いていてくれるなら
それが一番幸福なことなのだ、その人にとって。

これは不幸だともいえるし、
不幸の中でも、かろうじて幸福の形を整える方法に到達した、
やや幸せな家族のケースとも言えるだろう。

*****
とにかく微妙で難しく自己保身と擬似的な愛情が絡み合う、
まったく持って時間ばかりかかり、いいこことはほとんどないケースなのだ。
診断は妄想性人格障害のあたりが多い。

*****
ほとんど誰も共感できない感情に、
子どもと母親だけが共感の砦を築いて閉じこもっているとしたら
誰もどうしようもないのが現実である。

母と娘という組み合わせであれば社会に出て活動する必要がなく
妄想訂正の機会が失われる
たいていはお金を取って食い物にする新興宗教関係か自己啓発関係かにかかわって
金品を貢いでいる。

*****
どうしようもないという
怒りとため息と怨念が聞こえてくる

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新国立美術館にてピカソ展-7 ゴヤの図録発見

3階の奥には美術関係の図書館がある。座席は少ないのだが、蔵書はとてもいい。
展覧会のカタログが世界中から集められているようで、
ゴヤを探してみたら、ミュンヘンの美術館で開かれたかなり大きな展覧会の図録があった。
最近のものなので印刷は鮮明で格段に分かりやすい。
発色がかなりいいと思う。
いままで調べた範囲での出版物としてはこれほど充実したものはなかった。

しかしこの図録にしても、ゴヤの晩年のあのわけの分からないような不気味な絵の収録は一部分だけで、
展覧会としてはあまり重視していない様子だった。
おまけにドイツ語で書いてあるので、所々の単語を拾う程度になってしまう。

この図録を翻訳できたら、
そして堀田善衛の本と結合できたら意味があるだろうなと思う。
私はやらないが。誰か。

美術図書館の向かいはポール・ボキューズ。
クレーム・ブリュレを今の形にしたのはポール・ボキューズで、
映画「アメリ」で有名になったとのこと。
今日はレストランはすいていて、私も食べる気がしない。
すいているというよりも、さびれた感じを受ける。

一階と地階の食事コーナーは通路と仕切りがなくて、
それが新しい感じだったと思うのだが、
今日見たところでは、高齢者が多く陣取っていて、
なんだか歩く人の方を見ている感じもあって、
楽しいと言うよりも、厳しい感じを受けた。
オープンな感じを演出しているのだと思うが、
明るい感じではないのだった。



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新国立美術館にてピカソ展-6

ピカソ展の隣では日展
日展は力作揃いで技術も高いと思う
大きな絵が多いし
とにかく手間暇がかかっている

ピカソの絵と比較してずいぶんと分かりやすくて
これは労作だと納得させられる作品が多い。
大きいと言うだけで苦労しているはず。

あんなにぎっしりと並べなくても良さそうなものだけれど、
あれだけ数が多いのも、日本人がどれだけ絵が好きかということだ。
工芸は相変わらずいい。これが一番好きだ。
書のコーナーもなかなか皆さんすばらしい。
ふつうはこんなには書けないものだ。

個人的には日展を眺めてとてもおもしろい。
現代の日本人が実際に書いたもの。

個々に感動があると感じて書いたもの。
何を書こうとしているか。
大半はその流派の中での得意なモチーフを真ん中において何か描くということになるのだが、
それもまた興味深い。
どのような力学があるものか。

日展もまたすばらしい。

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新国立美術館にてピカソ展-5

ピカソの絵はばらばらで部分ごとに拡大率が異なり部分ごとに時間がずれていて視点がずれていて
それらの部分を総合する作業を見る側に作業として委ねている
ここが不親切なところだし
しかしそのせいで大幅に表現の可能性が広がった

ということは見る側の「準備性」も問われることになる
その人それぞれに見えるものしか見えない

そのことは実はどんなに平明な分かりやすい画面でも同じであって
自分の見て感じていることと他人が見て感じていることとはずいぶん違うかもしれない
本当はここの部分に不安定な裂け目があるのだが
現実生活では不自由のない範囲で
だいたい同じ事を感じると仮定している

モネならば似たような感覚を共有できるのだろうが
ピカソだとそれぞれ違うということになりそうだ

そこの不親切さが厄介なところだ

たとえばみんなが気持ちが和やかになりそうな場面を見て
一人だけ怒り出したりするとして
その人が異常なのだろうか
解釈の可能性を拡張しているのだろうか

日本の短歌とか俳句は似たようなところがあって
読者の内面の状態を反映する

逆にゲームなどはどんな人でも楽しめるように下準備もいらない世界が構築されている

ピカソは任天堂のゲームよりは
短歌や俳句に近いと思う

ピカチューのゲームは点と点をくっきりつないでくれて何が面白いのかもくっきりと分からせてくれる
俳句はそんなわけには行かず、点と点をつなぐ作業は読者に託されたままである。



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新国立美術館にてピカソ展-4

ラファエロなどで絵画としては完成していて
そのあとはどうすればいいのかと
多分悩んだと思う

同じ事をやっていても多分超えられない

同じ事情はたとえば
ニュートンとそれ以後と似ている

ニュートンの答えは完璧だったし
科学はかくあるべしという模範解答だった

同じ事をしていても
ニュートンは超えられない

そこで周辺部分への拡張を考えることになる
宇宙の端っこではどうなっているかとか
光速ではどのように振る舞うかとか
原子の内部ではどのように振る舞うのかとか

そんなことが分かっても分からなくても
ニュートンの結論は変わらない

しかし科学はそういった、人間のサイズとは違った、極端な世界の探求に向かった
たしかに成果は得られて
ニュートンの世界観は拡張された

しかし
それはあくまでも拡張的理解である
世界を記述する場合に、
いちいち量子力学を持ち出して行き詰まりを感じる必要はなく
人間サイズのことならばニュートンの世界観で充分だ
またいちいち宇宙の方程式を出して
まだ結論が出ていないんだれけどもか
直感では理解しにくいが四次元時空の歪みがあってとか
そんなことは考えなくてもニュートンの世界観で正しくこの人生を生きることができるのである

そのような関係はラファエロとピカソにもある
子どもが絵を見て
こんな絵を描きたいとか
教会で見て感動したと思うのはやはりラファエロでありミケランジェロである
教会で合唱して美しいと思うのは
バッハとかベートーベンであって
現代音楽の可能性を追求した意欲的な作品も
子どもは寝てしまうだけだろう

デートの時に武満徹を聞きに行こうというのは
少し考えものだろうとおもう

多くの人に受けるなら
東山魁夷でいいし平山郁夫でいい

長く残したいならラファエロでいい

しかしピカソは自信過剰だったので
ラファエロの拡張を目指した
確かに拡張はできた
すばらしいものだ

しかし子どもに向かってこれが美のモデルだとは言えないし
家に飾るならモネの睡蓮の方が好きだし
子どもが何か書きたいというなら
モネみたいなのはどうかといいそうだ

幸い子どもはいないのでそんな場面を想定して悩む必要もないのであるが
とにかくピカソはアインシュタインとかシュレディンガーとかと似ていて
自然の直感に訴えてすばらしいと納得させる種類のものではなかった

長い伝統がある芸術とか学問の分野ではそのようにならざるを得ない

だから最近のアニメ映画とかCG技術とかが
直感的にも感動に近いものを作り出していて、
伝統的な楽器で音楽を作るということになれば、
次々にすばらしいピアノソナタが作曲されているというわけではない
できているのはピカソ的なピアノソナタである

そのことを考えてもやはりピカソは偉いということになる


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新国立美術館にてピカソ展-3

巨匠ピカソと書かれていて、思い出すのは、
料理番組で広尾の巨匠とか六本木の鉄人とかそんな言われ方をしているようなこと。

ピカソに巨匠などということばをくっつけるセンスのなさを思う。
ピカソと巨匠を比較すれば、ピカソのほうがはるかに偉大だと思う。

音声ガイドは500円、テレビ朝日の人たちで作ったようだ。
内容は特にどうということもない。
女性遍歴の中で、この絵はどの人とどうしたときとかそんな話。
ないよりはいいという程度。

すいているわけでもないが混んでいるわけでもない。
順番に見ていく。時々順路が分からなくなる。

ピカソという人はそれぞれの時期で傑作を残していて、やはり文句なしにすごいものだと思う。

ピカソらしさはあって、それが限界といえば言えるのだけれど、
しかしその領域内で振舞っていても、創作の限界はあまりなかったようで、次々に作品は生まれている。

描きかけなら描きかけでいいものだし
触るものすべてを黄金に変えるという趣である。

このように感じるのは、私の感じている絵画というものが
まだピカソの影響範囲内にあるということなのだろう。

絵画のスタイルを変えることと
女性を遍歴することとが関連付けられている。

確かにそういうことはピカソの場合にはあっただろう。
それがいいことかどうかといえば
コメントは難しい。

女性がいなくても変化は起こっただろうと思うが。

年をとっても新しい女性に興味があり
それが満たされるというのは
芸術家であることとは
たぶん本質的な関係がないだろう
世間のお金持ちの中にはよくあるタイプだ

女性の中にも、社長よりも芸術家がすきという人もいるのだろう。
作家や芸術家の場合にはこのようにして話題になることがある。



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新国立美術館にてピカソ展-2

新国立美術館にて巨匠ピカソ展、もう終わってしまうのでかろうじて出かける。
雨と風が強く銀杏の葉が大量に降り散っていた。

傘をさして出かけ、バス停でバスを待っていた。そのバス停には屋根があったのだけれど、
先頭付近の人がずいぶん間を開けて立っていたので
最後のほうの人は屋根の下に立つことができない。
お年を召した方であるが、詰めればいいのだが、
そんなことは思いつかないようで何か話している。
風もあったので雨の中で傘をさして待っていたのではひざから下がぬれてしまうので、
隣にあって、違う方向行きのバス停の屋根の下で待っていた。
程なくバスは来て、乗ることができた。
公衆道徳に鈍くなっているのは若者だけではないのだ。

バスに乗って東京の街を見る。
不況だと思うからか、テナント募集とか閉店とかの張り紙が目立つような気がする。

バスの中では老齢のご婦人方がお話をしている。
聞くともなく聞いていたが、敬語とか丁寧言葉が身についているようで、
聞いている方がもどかしくなるくらい冗長なのである。
これが習慣の力というものであるし、それらの言葉で間合いが取れる分、
次の言葉を考える余裕ができるのだろうと思う。

ひっきりなしに続く噂話である。よどみなく話すのは脳がしっかりしている証拠だ。
こうして友人同士で会って、話を交換し、また別のところで、そういえばね、と話し続けるのだろう。

ご婦人方のファッションは確かに傾向があり、やはり近年の流行を反映しているようだ。
頭髪にしても染めているし付け毛はするし、また入れ歯にしてもそのようで、
眺めていると全身フル装備の半分サイボーグのようなものである。

どんな人生を送ってきたものかと考え、
一方で、Tシャツにジーンズ、入れ歯でもなくコンタクトも入れていない、
生き物として、そのままの状態に近い人を思い出していた。

おばあさんは広尾の日赤下で降りた。
このあたりの人なのだろう。

降りるバス停もはっきりしなかったけれど、
見当を付けて降りてみた。だめだったらタクシーに乗る。
バスから降りてどちらに歩けばいいものか、
六本木のあたりは地理がよく分からないのだが、
見上げるとヒルズが見えていたので、それを目印にして、
六本木の交差点はあのあたりかと見当をつけ、それならば
新国立博物館はこのあたりだろうと歩いてみる。

誰かに道を聞きたかった。暇そうな人たちが見えたので、前まで行ったら、
アメリカ軍の施設だった。面倒なので聞かないでそのまま通り過ぎる。
偶然、美術館が現れ、ほっとする。こんなに近かったとは。よかった。
なんだか自分の運を使い切ったような気分にもなる。
こんな場面ではもう少し苦労してもかまわなかった。

この時期は大半が日展の展示のようだった。
券売り場ではなかなか進まない。
各人が学生証を見せたり、何かの割引券を提示したりして、
また、都内の美術館に共通の何とかなど説明を受け、
説明するほうも長々と続け、そんな様子を眺めながら、順番を待つ。
人生は待つことなのか。

ペアで来た人たちは、二人で並んでいると人と、
一人は行列から離れて待っている人とがいて、
私だったら行列から離れて待つだろうと思う。
普段からずっと一人で行動しているので関係ないことであるが。

ペアでピカソなんか見て面白いのかなと思ったり。
傘を収納し、手ぶらになった。
日展の前を通り過ぎて、ピカソの展示にたどり着く。

やれやれ、ここ数ヶ月、行かなくてはと思いつつ延期していたピカソである。

 



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たばこ税

ひと箱1000円でもいいじゃないかという話を流しておいて
結局は一本3円の値上げで、
全体として年間1000億円程度の財源と見て、
医療・社会保障関係の2200億円削減の一方でこの部分を見込んで予算を組もうという話だ。

JTというたばこ屋さんは財務省の天下り先でももあり、
したがって増税には反対だというらしい。
増税したら会社が危ないと分かっていて、
自分のところは増税しないらしい。
ちゃっかりしている。

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ピカソ展-1

ピカソの手法にもいろいろあるが、そのひとつはコラージュ技法だと思う。

今風の説明をすれば、
デジカメでいろいろな角度の写真を取っておいて、
あとでそれらを使ってコラージュを作れば、
一枚きりの写真よりはいろいろなことを語ることができるはずだ。

このコラージュ技法を視覚領域で実行するとピカソのようになるのだと思うが、
現実認識とか物語としての認識ということで言えば、
さらにコラージュ的な認識をしている。
黒澤の映画、羅生門で、それぞれの人間が語る物語が少しずつずれていることが
描かれている。
ずれている物語の三つを総合しても真実が合成されるわけではない。
真実はどこにあるのか分からない。

家族インタビューでは似たようなことが起こる。
それぞれの立場でそれぞれの真実を語るのであるが、
少しずつずれている。

裁判ではないから真実を認定する必要はないのであるが、
それにしても、人間の認識は不安定なものだと感じている。

たとえばトイレの正面の壁にある模様が
人により時により人の顔に見えたり体に見えたり、笑っていたり、走っていたり、
さまざまである。

それらは模様の性質を語っているのではなく、
見る人間の脳の中身を語っている。



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性格の悪い人も他人の性格の悪さについては認識している

性格の悪い人は
自分の性格については分からないのだと思う。
分かっていたらその不利な性格を訂正するだろう。

他人の性格についてどのように認知しているのだろうか、興味があるところだ。
たいていの場合、他人の性格の悪さについてはきちんと認識していると思う。

他人を見る目を自分に適用することができない人たちである。



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嫉妬 堀田善衞「ゴヤ」15

-----タイトル「理由」の文章を承けて-----
そうねえ、それって、嫉妬でしょう。
世の中にはよくあるんですよ。
「ゴヤ」を読んだって書いてましたよね、えーっと、この絵、見たでしょう。



女性の演じる見事な曲芸。
こんな曲芸、不可能に決まってますけどね。
精神分析の人たちはこの馬を男性とか言ったりするわけだけれど、
堀田善衞は、
それよりも、背景の民衆たちに注目して、
女たちは、「落ちればいいのに!」と嫉妬の目を向けているのだろうと
書いていますね。
痛烈です。
そんなものでしょうね。この日本の現実は。目障りになったんですよ。
偉い人に敬意を表さなかったでしょう、あなたは。
むしろ挑戦的な態度だった。
そして急ぎすぎた。
バックがいなかったでしょう。
むしろ、後ろ盾をかってでた人と喧嘩をしたわけだから。
徒党を組んで仲間を増やすことも大事だった。
あなたはいいエンジンだけれども、やはり経験がなかった。
参謀が必要だったんだな。いまにして思えば。
権力っていうのは、そんな不遜で有能な人を取り除いて、
仲良し組合の利益を守ることが仕事なんでしょう。
長い時間が経てばどんな組織もそうなるんですよ。
利益権益の絡まない集団ならばきれいなままでいられるけれども、
その場合でもやはり、どっちが上かという意識は常にあるわけでしょう。
その社会にあった、上昇速度があるんですよ。
それを無視したら速度違反になっちゃう。
いずれにしても、簡単に縮めて言えば、嫉妬です。
世の中を知らない専門職の人はこんなことがあるんです。
まあ。世の中ばっかりしか知らなくて、自分じゃ何も作り出せない人ばっかり多くて、
それで日本はいま困っているんですけどね。

早い話、法律家がたくさんいて裁判がたくさんになると、
幸せにならないでしょう。頭脳があるなら、
農業でも工業でも生産部門に集中した方がいい。
法律家のわたしが言うのも変ですけどね。
それが健全で、「青年」的な社会ですよ。
やたら法律家が多くなって、著作権を延長しろなんて言い始めるのは、
「老齢化」した社会なんです。
著作権延長はまさに既得権益そのものです。
若い人はそんなもの気にせずに、「本質を模倣」して、法律に触れないように、
鮮やかにコピーすればいいのですよ。

話がそれましたが、
こんな風に人生を学んでいこうということです。
最悪じゃないですよ。
まだまだ。

お金の使い方ってことも考えなくちゃ。
これから裁判だとかなんだとかいろいろ時間も金もかかる。
それを考えたら、事前に賢く使っておくのも方法だった。
いまなら分かるでしょう。
必要経費だし、布石なんです。
ちょっと局所戦を急いだということもあったな、多分。
人生の大局を見て、布石も必要だった。

もっと言うとね、あなたがどんどん伸ばしていった、その方向に、
向こうはしっかり布石してあったということ。
あなたに一人勝ちをさせないように、
あなたに限らず誰にでも、一人勝ちはさせないんですよ、
そのために事前に投資しているんだ、彼らは。
その事前の布石に、まんまとひっかかったということだな、今回は。

サッカーで言う、オフサイドトラップなんかが分かりやすいかもしれませんね。
オフサイドトラップを卑怯者ということもできますが、
まあ、精神が許せないかもしれないが、戦術のひとつですから、
それも頭に入れて対処するしかないですよね。
対処の方法はあるわけですから、
賢くなればいいだけなんですよ。
未来を向きましょう。

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堀田善衞「ゴヤ」14

〈引用〉おれはまだ学ぶぞ。
●何という健康な肉体と精神だろう。
●もともと健康なのだといえばその通りなのだが、なにか根本的な楽天性とか、鈍感とか、そんなところがあるのではないか。くよくよしない、過敏にならない、そのような特性が有利なのかもしれない。

●表情が気味が悪いのだ。そう思っていたが、昔の写真を見たりすると人間の表情はこんなものだったようにも思う。多分、そうだ。

〈引用〉69歳のゴヤは営々と働いている。不安と危惧の日夜をまぎらすためには働くより他に方法はない。
●働くことは精神安定剤である。
●働くということは、つまり、人体でたとえれば、肝細胞になって全体に奉仕しつつ、自分も生きられるということだ。体細胞生物になって生きていくよりも、生存確率は上がる。しかしそのためには、自主独立の細胞でいることは諦めて、特殊細胞になる必要があるのだ。それがいいとも思わないが、それ以外に生き残る展望を持ち得ないようだ。

〈引用〉これは絵画芸術ではない。なぜなら第一に、ここには、したり顔で読みとらねばならないものがひとつもない。第二に、含意するところの意味がない。そう、正統派の画家たちはつぶやいて、もう見向きもしない。
●版画集「闘牛技」と地下画帳のすばらしさ。一瞬を描き止める技。2000分の一秒のシャッターチャンスを正確に決定している。
●版画集「妄」では、かなり奇妙なことになっている。狂気や暗黒に近い。しかしそれは精神が暗黒なのではなく、現実が暗黒なのだと思われる。それは現在も本質は変化していない。

〈引用〉「妄」と「黒い絵」は精神病理学者の好餌となっている。しかし難解な医学用語の羅列以上の成果は上がっていないようである。
●このよう総括されたのでは、どうしようもない。多分、その通りだろう。
●そして、その程度のことしかできないことが明白であるような人たちが、病者については、診断も治療もしている。「難解な医学用語の羅列以上」のことができているとは想像できないのだが。



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堀田善衞「ゴヤ」13

〈引用〉67歳、妻に先立たれ、年を取るに連れて一層強烈に政治的、社会的関心を燃やして行く。
●このあたりの、盲目的なまでに生命的で、強いゴヤ。
これは見習った方がいいのではないかと思われてくる。
●単純にいえば、欲しいものは手に入れる執念といってもいい。
そのためにはエレガントも何もない。使える手段は何でも使う。それが人間の総合力である。
●そのためには、「欲しいもの」を自覚することが必要である。そこがぼやけているとき、大きな力は出ない。

〈引用〉肖像画では画家とモデルは争うことが出来る。この弁証法が奥深いところで働いて画面の人物を押し出してくるのである。
●肖像画は不思議なものだ。そうか?そうではないかもしれない。単にあがめているだけなのかもしれない。同一人物を複数の画家が描いている状況で比較検討すればいいのかもしれない。
肖像画が人物の内面を照らしだとなんていう言い方も、ロマンティックすぎるのではないか?
何か適当に画家としてテクニックを駆使して描けば、あとはそこに、見たい人が見たいものを見るだろう。それだけのことだ。いくら何でもそれは見えないはずだといっても、そんなものは、ガリレオ・ガリレイの、それでも地球は回っている、との発言に似たものだ。
その時、ガリレオ・ガリレイは、立派だったのではなくて、人間集団の力学を理解していなかっただけである。

〈引用〉ゴヤの後に続くものは文学の他にはあり得ない。スタンダールであり、トルストイとドストエフスキーである。
●この点については、堀田先生は何度も言及している。トルストイとドストエフスキーがロシアに登場し、スペインに登場しなかったことについて、唯物史観的説明を求めているかのようである。

〈引用〉「五月の三日」は「美」とは何の関係もない。美であるどころかむしろ醜である。絵画でありながらも正視するに堪えない真実である。
古典主義的な美と芸術の離婚がここに開始されている。文学への接近が開始されている。「ここから現代絵画の幕が切って落とされるのである。」(アンドレ・マルロオ)
●いいことだ。宮廷お抱え画家の時代は終わるがいい。日本ではまだ続いているようだ。しかしそれはまた、日本の画家たちが、自分の無力を知り、ロマンを抱かず、ただ絵を描いて、火宅を生き、それで人生なのだと了解している、大人だからである。大人というものは子供にはいつでもみじめな現実主義者に見えてしまう。子供は生活費を心配しなくていいのだ。

〈引用〉人間を見るについての不信から発したリアリズムの時代のあけぼのである。絶望からの出発である。
●不信から出発するリアリズム。絶望を根本として、そこから組み立てる哲学。そんなことをむかしバートランド・ラッセルも書いていた。
●不信から出発して絶望に至るなどという底の浅い一直線の哲学ではない。不信と絶望という、それ自体行き止まりの事態から出発して、なおも、生きる力を発生させる哲学を求めている。盲目的と言ってもいい。断層があり、そこを、不可思議の力で乗り越えるのだと言ってもいい。そこにはどんな力が存在するものか、今のところ合理的には説明できていない。科学の諸仮説は、どれも、そうしたロマン主義的な力を否定する方向で発展している。たとえば宇宙論、進化論。そういえば複雑系の話など、たとえ話に持ち出されるだけで、人類の頭を少しでもよくしただろうか?



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堀田善衞「ゴヤ」12

しばらく間があいてしまったが、継続。

〈引用〉スペイン・ゲリラの、勝利後の運命は実に苛酷なものであった。
●勝つということが何を意味するのかの問題。
たとえば、少し脱臼した連想を記せば、
無意味に肥大した冠を振りかざして、メスを獲得した雄の鳥。
子供を育てて長生きするという目標を立てるなら、とても馬鹿なことを次々にしている、現代人である。

〈引用〉版画集は、特にゴヤの場合、普通の美術品を見るように見るものではなくて、それはむしろ読むものなのである。古典主義時代の絵画の大部分もまた図像学上のさまざまな約束に従って、見るよりも読むものなのであった。読む美術というものもまた、今日では消え失せてしまったのである。
●読むという感じは実によく分かる。今日は川居玉堂の絵をまじまじと眺めていた。絵を見ることは体験することである。
積極的に関わって、「読みとる」ことができるはずなのだ。
咀嚼力、吸収力が強くないと、それはできない。
むしろ現代の文化は、過剰に優しく分かりやすく説明することを目指していて、
それが大衆の情報読解力を著しく低下させている。
読み書きができるということが、結局は、統治者の言いなりになるということだったのかと
思ってしまう。
本日投票の都知事選は石原氏の勝利。なぜだ?
選挙というものの、真の目的と、現在の制度とが、ここまで解離してしまったということである。

徳川時代に生類哀れみの令〈だったと思うがはっきりしない〉を、何度も何度も繰り返し交付して立て看板を更新し続けた。なぜなら、何回やっても無視されたから、その上に何回も続ける必要があったという。
つまり、その時代には、大衆は、統治者の言いなりになる回路がなかった。
現在は回路ができている。まずテレビが大きい。
そしてかろうじて読み書きできるということが、被支配を容易にしている。
愚かな話なのである。

〈引用〉われわれはただ名目だけのキリスト教徒である。その証拠にわれわれはイエス・キリストの広大な正義の法廷よりも、異端審問所の地下牢の方を恐れている。

●そうです。そのとおり。キリスト教を解説してあげると言って、異端審問観は権力を手にしてしまう。そんなものだ。何一つ、信じるに足るものはない。
信じることについて最も分厚い本を出している教会が率先して徹底的に人をだます。
病気について最も詳しい専門家は、病人から金を搾り取る。
正義について語ることの好きな弁護士は最も正義の定義に遠い種族である。
●実際、イエス・キリストがいまこの世に現れたとして、多分、有効な活躍はできないだろう。
そしてまず第一に、キリスト教について、反撃を始めるだろう。

〈引用〉○ゴヤの反教会、無神論的傾向に、研究者たちは閉口している。(そのことについて、いろいろに言いくるめて、ゴヤはすばらしいキリスト者であったと論証しようとする)カトリック教徒というものは、それだけでも一考に値する。
●日本のキリスト教徒という人たちは、特有の視野狭窄病にかかっているようだ。たとえばブッシュならば、日本にいれば原則のない多神教に、イスラムに生まれればアラーの神を崇拝、といったところだろう。日本にいてキリストをあくまでも信仰する人たちの精神は、実に特有のものがある。



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堀田善衞「ゴヤ」11

〈引用〉狂気の沙汰というものを含まぬ、あるいはそれを囲い込んで排除した、いわば理性一本槍の人間観というものは、人間観としては、人間世界にあって通行権を持たぬものだ、と画家によってわれわれは告げられている。
●狂気の排除。なるほどそうかと思われる一方、「狂気」をどう定義して、そのなかでどのような「狂気」を「人間界にあって通行権がある」と考えるのだろうかと思う。
●また一方、「狂気」全般を排除する傾向にも世間としては理由があると考える。狂気を受け入れてきたのも世間であり、近年になって拒否し始めたのも世間であり、その世間というものは、確かな方針に沿って整合的に判断しているのでもないだろう。

〈引用〉時代の証言者としての芸術家、という、存在ののあり様は、ここに全的に成立している。
●ルポルタージュの活動。
●ブリジストン美術館で出会う、エジプトの、頭がライオンで体が人間の立像、前足が長い長い聖なる猫、それもまたエジプトという時代の証言と見える。

〈引用〉「気まぐれ(Caprichos)」という言葉を自由の代替語として解するならば、
●なるほどね。でも、すこし不賛成だな。

○ゴヤが戦争の悲惨を客観的に描くにとどまらず、その悲惨な現実が彼自身に何を感じさせ、考えさせたのか。一個の人間として何を感じ何を考えたのかを刻んだ。
●先日の川井玉堂などはこのあたり希薄。

〈引用〉すでにわれわれは、人間が何をやらかすことが出来るものであるかについて、きびしい警告をうけていたのであった。
●そんな脳を持った人間が、武器と戦術についてはどんどん発達するわけだから、とめどがない。ピンポイント爆撃とか。あるいは、アメリカのどこかの銀行では、預金をするとピストルがもらえるとか。

〈引用〉喧嘩はしても戦争というものをすることのない動物の世界との対比。

〈引用〉ナポレオンによって創設された近代国家と、それに付随する装置としての近代的国民軍というもの。

〈引用〉スペインからヴェトナムにいたるゲリラ。そこでわれわれの国家単位の現代が終わることになってもらいたいという、いわば現代終焉願望が、この「戦争の惨禍」をくり返し眺めていると私は自分の中に澎湃として湧き起こってきてそれを押しとどめることが出来ないのである。おそらく、この秘められたる願望が私をしてこの「ゴヤ」を書かしめている情熱の根源をなすものなのであろうと思う。

〈引用〉帝国主義とデモクラシイが両立し得ないものであること。



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堀田善衞「ゴヤ」10

〈引用〉生まな情熱ーー憤怒と憎悪は、芸術の生成にとってもっとも厄介なモティーフであり、人がそれに駆られて画布に、あるいは原稿用紙に向かった場合、成功する率は、ほとんど無であるのが常態であろう。
●そうかもしれない。

●実にゴヤは勤勉である。常に描き続けている。描くこと、観察すること、発見することが本能であるかのようである。しかし考えてみれば、人生はそのようであるべきである。自分を鍛えてゆくしかないだろう。

〈引用〉ミシェル・フーコー「狂気の歴史」
●やはり大切な本らしい。今度読もう。

〈引用〉無機質の工業製品によって、つまりは顔のない暴力装置によって大量の人間が一度にまとめて殺される時代が到来する。われわれはゴヤによって、その時代の開始期に立ち会わされている。
●まことに、暴力的破壊装置と、移動装置は、人間の限界というか適性を超えて発達してしまった。そしていま現在は通信手段が人間の脳の限界を超えて発達しつつある。誰にとっても幸せではない事態。

〈引用〉人間のやらかす一切の所業に耐える。現実としてのみの怪獣をあえて描き出す。
●怪獣、といえばそうかもしれない。多分、そうだ。人間同士だから、相手の気持ちを推し量る。やってはいけないはずだと考えていることを敢えてやってしまう。そんなものなのだろう。しかしそこで気持ちが折れてはいけない。あくまでも毅然と立ち続けよう。相手は怪獣でも、自分まで怪獣になっていいはずはないのだ。



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堀田善衞「ゴヤ」(9)

馬それ自体よりもウエリントンの顔の方が馬の顔に似ている。

 堀田氏がこのようにふざけて記すというのも、ゴヤは馬が下手で、堀田氏はここまで何度もその下手さ加減を非難しているからである。晩年、闘牛を描いたものはかなりうまいので、ゴヤが本気にならなかっただけなのだろう。
 それにしても、画家というものが一瞬をとらえる技はすばらしいものだ。人が建物の5階から飛び降りて、地上に激突する直前の、表情や身体の各所の伸び縮みを性格に描くことができて、初めて、デッサンの出来る画家だという説明があった。

 ウエルズレイは、従って、スペインのゲリラを、心底では深く軽蔑しながらも、これを使いこなすなどはお手のものであった。
 この英国人は、まことに英国人らしくつねに冷静かつ沈着な計算家で、勝利にあっても敗北にあっても決して狂喜も絶望もせぬ現実主義者なのである。彼にとっては、徹底して現実が問題なのであって、想像や空想には一切縁がない、必要もなかった。
 彼は何らの幻想ももっていない。冷静な観察と計算、それがすべてである。ちょっとやそっとのことで「血が熱く」なったり、ましてや自分のアタマで釘を打ったりはしないのである。
 ウエリントン像の下に、もう一人の、別の人間の騎馬像があることが分かった。しかもその人間が、ジョセフ・ボナパルトかもしれず、またあのゴドイであるかもしれず、どちらとも決定できないというのである。
 軽蔑には軽蔑を!

  私はむしろそのようでありたいと思う。実務家であることを望む。
  芸術家や、評論家の、底の浅い感激癖にはうんざりなのだ。



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堀田善衞「ゴヤ」(8)

堀田善衞「ゴヤ」読了。

全四巻で、最初の三分の二くらいはだいたいがスペイン宮廷の愚劣な歴史である。
後半三分の一になって歴史から脱し、堀田氏の筆も乗ってくる。

写真が白黒で不鮮明、しかも網羅的ではないのが残念である。

ゴヤの絵については、少ない知識の範囲では、まず着衣と裸の二つのマハ。
それから、子供を食べてしまう気味の悪い絵の系統の、いくつかの絵。
記憶の範囲では、色彩は古めかしく、赤が鮮やかで、黒が深い。
レンブラントに似た色。題材はおどろおどろしい印象であった。

いま読了して、まったく恐ろしいほどの人間がいたものであると思う。
堀田善衞ほどの人がこれだけ力を入れるのだから、多分、
すばらしいのだろうと思って読んだが、実際にすばらしい。

別の画集でゴヤの一連の絵を見ると、やはり低い評価しか与えられないと思う。
正当に評価されていない。正しい評価がされていれば、
絵の選択が異なると思う。



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堀田善衞「ゴヤ」(7)

1816年、アルゼンチン独立宣言、
1819年、コロンビア独立宣言、と書物の中にある。

先日ユニセフの事務所を訪れた時に、コロンビアで、
子供たちはつらい目に遭っているのだという掲示を見たばかりである。

ゴヤの当時から200年たって、現在のコロンビアがあり、
わたしは一方で歴史を読み、他方で現実を目にしている。

コロンビアの子供たちよ、
君たちにとってサルトルの文章なんか何の意味もないんだよね。

歴史というものは、逃れようのないただ一通りの事実である。
そのことが重い。

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堀田善衞「ゴヤ」(6)

・読んでいて、著者は本当によく勉強したものだと思う。読むだけでも結構大変だから、書くのは難儀だっただろうと思う。
 なるほど肖像画が一枚あれば、それにまつわる人物紹介と歴史を語ることができるわけで、そのようにして書かれた文章も沢山ある。それらをスペイン語やフランス語で読みつつ、それぞれの文章の偏り方をも判定しつつ、解きほぐしていくわけだ。堀田氏独自の強い主張というものはあまりないように思う。多分、まじめに大量の資料を読み込んだ上でのレポートと思われ、読むのも大変なのだから、書くのはさぞかし骨が折れたことだろうと思う。
 学術論文で言えば、オリジナルレポートというよりは、総論のようなものだろうと思う。とりあえずの見取り図を手に入れるにはちょうどよいはずであるが、それすら、予備知識がないとなかなか大変である。

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堀田善衞「ゴヤ」(5)

・だんだん頭がつまってきた。気分転換しないといけない。

・いくつもの肖像画
 ゴヤの描いた肖像画は意外なことにすばらしい。画家が人格を描写するということについてどう考えるか、考えまとまらず。不思議である。「このような人生を送った人だ」との観念を抱いて見れば、それなりに見えるものなのかもしれない。

・堀田氏は宮廷の腐敗を徹底してえぐり出しているのであるが、多分、実にその通りであっただろうと思う。

・朝日ジャーナル
 この文章が最初に発表されたのは朝日ジャーナルである。
 昔、大学生は週刊誌は朝日ジャーナル、月刊誌は世界を読むべきだなどと言われた。
 一時は電車で通学途中に朝日ジャーナルを読んでいた。
 いまでは廃刊である。
 右傾化のメカニズムはどういうことなのだろう。これが分からない。

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堀田善衞「ゴヤ」(4)

・アルバ公爵夫人
 その無邪気さで人を傷つける。
 しかし若くして死ぬ。

・人生の栄華の一瞬、一日、誰にもそれがあるものだ
 しかし確かに思い出す栄華の一瞬もないとしたらどうしたものだろう
 自分の人生の、ああ、これが絶頂の一瞬かとおもうとき、下降の感覚が始まる。それがつらい。
 いつまでも、さらなる絶頂を夢みたいのだ。

・耳が聞こえないままで生きる人生
 ゴヤは47歳で音を失う。
 余計なことを聞かないですむ利点もあるというものだ

 極端に視力が悪い私も似たようなものかもしれない。

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ガネーシャ 12月4日放映分

相変わらずおかしな誇張で笑う
いいものだ
涙を忘れられる

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風のガーデン 12月4日放映分

老人は泣いていた
我慢しすぎていたおじいちゃんと父と姉とその少年のために泣いた

我慢しすぎることはよくない
すべてのものを台無しにしてしまう

もう我慢しないでください
自分の人生のために

花は毎年 咲き続ける
愛しい人の思い出のように

風もあの日のように 私をなでて吹きすぎる

和解は不可能ではない
和解が望まれている

私は一人ではなかった
そのことが私を慰める

老人は泣いた
自分の人生がかわいそうで泣いた
こんな人間の人生になったばかりに
苦しみを耐え続けている

取り返しのつかない罪に泣いた

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解決へ

邪悪で小ずるい小人の好き勝手に振る舞う世界でいいはずはないのだ

世の中の人はどの人も自分流の物事の解決の仕方をしてよいはずだろう

私の得意な方法で解決させていただく
これまではそちらの流儀だったと思う

非常につまらない話で
気乗りもしないが
しかしやはりここを解決しないと
すっきりした気持ちで前に進むことができない

計画的に
私なりに
時間をかけて着々と
解決させていただく

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何のために今まで苦しみ続けてきたのだろう

ある主人公のセリフ

どうして僕は一人なんだろう
そして何のために今まで苦しみ続けてきたのだろう

苦しみ続けるにもほどがある
苦しみを精算して苦しみの原因に対して要求するものを要求していいはずだと思う

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性格と将棋

性格は何種類もあるけれど無限にあるわけでもなくてある程度パターンとして考えていいと思う

たとえば将棋の駒みたいな感じ
それぞれで独特な動き方が決まっている

すると特別な組み合わせで得意と不得意が生じる
桂馬みたいなもので角と金が両方引っかけられてどちらかが犠牲になったり

金と銀の関係だと後ろ向きの動きが独特でそこで個性が生じて
何ともいやな関係になったり

こんな事が各種の性格傾向の間で微妙に生じていて
だからかなり混乱する


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性格障害者の隣にいる人

性格障害者の隣にいる人で
困っている人はかなりいる
だいたいの人が諦めている
不幸なことだ
誰にとっても
どうしたらいいのだろう

何とかできればいいのだが
どうしようもない場合が多い

そこから派生して
結果が暴力とか離婚とかになったとして
結果だけを見ることが多い

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PFI契約を解除

滋賀県近江八幡市の冨士谷英正(ふじたに・えいしょう)市長は1日、民間資本を活用して建設、運営するPFI方式を導入した市立総合医療センターについて、PFI契約を解除し、市が一括で買い取る方向で、運営主体の特定目的会社(SPC)「PFI近江八幡」と合意したと明らかにした。病院の経営難や重い金利負担が理由で、市の直営に転換する方針。

 内閣府によると、PFIを導入したり予定したりしている公立病院は全国で12施設あるが、解除は初。自治体の財政負担を減らす妙案とされるPFIが失敗した形で、ほかの病院にも影響を与えそうだ。

 冨士谷市長は1日の市議会で「今の病院の収支状況を続けると経営破たんに向かう」と述べた。

 医療センターは、病院としては全国に先駆けてPFI方式を導入、2006年10月に開院した。ゼネコン大手の大林組を代表とするSPCが約145億円で建設、運営。医療センターが建設費を分割払いし、30年後に所有権を市に移す契約だった。

 しかし入院患者数が伸びず、当初計画で年間100億円と見込んだ医業収益が、07年度は84億円にとどまり赤字となった。さらに建設費に加えて支払う総額約99億円の金利も財政を圧迫し、市が財政再生団体に陥る恐れが指摘されていた。

 冨士谷市長は1日、病院施設を一括で買い取るために市が約118億円の借金をする病院事業債発行の議案を市議会に提出した。

 契約解除で市はSPCに多額の違約金を支払わねばならず、金額について交渉を進めている。

 PFI近江八幡の平山賢一(ひらやま・けんいち)取締役は「まだ協議中なのでコメントできない」としている。

▽PFI

 PFI 「プライベート・ファイナンス・イニシアチブ」の略で、民間の資金やノウハウを活用して公共施設を整備する手法。事業に参加する民間事業者でつくる特定目的会社(SPC)が建設から維持管理、運営を担う。刑務所や図書館で導入され全国での事業数は約320件。財政難で解除した例は「名古屋港イタリア村」がある。病院では高知医療センター、島根県立こころの医療センターなどが導入し、最近では東京都や大阪府、神戸市が導入を決定した。

*****
やっぱりなあという話。

医者は経営が分かっていないから儲からない、
経営の専門家がちょっと関与しただけでずっとよくなると
どの専門家も豪語する

高知も同じケース
PFIではまず関連業者からの物品購入をおしつけ業者が利益をとる

赤字垂れ流しても全部市がかぶるという
無駄な契約内容

土台収支が合わないので公立病院はみんな赤字



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