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多少の大人の知恵というものもないわけでもない ほろ苦いものではあるとしても

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父性像と自己愛

健全な自己愛は必要だけれど
未熟な自己愛は成熟とともに克服されなければならない

克服されないと
未熟なままで
自分の都合で現実を歪めて認知して
結局嘘とかうぬぼれで辻褄が合わなくなるようなことになる

そのときただ単に現実を告知されるのはかなりつらい
希望も一緒に見えていればいい

父親像はそのようなものだ

子どもの自分をいったん否定するが
大人になれば父親のように現実と折り合いがつけられると希望を持てる
そうなれば自惚れている必要もないし嘘をつく必要もないし
社会の受け入れられる自分を見つけることができるはずなのだ
モラトリアムもつまらないと思えるはずだ

私はモラトリアムはすてきだし
しばらくそのままでいいとは思う
人生は長いのだから
そして夢は大きい方がいいし
不可能にもチャレンジした方がいいと思うから

でもそれは社会が複雑になったせいで
また本人の目標が高いせいで
修行期間が長いのだと思いたいのだが
一方で父性像の欠如により
いつまでも足踏みしていることもあるだろうと思う

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白檀

今年は暑い夏が終わってから、
白檀を焚くことが習慣になった。

風呂に入るとき、下着と寝巻き、明日のワイシャツを広げておく。
その下で、香炉にいれて炊く。

ほんの少しでいいと決めている。
そうでないと、来客がお寺かと思ってしまう。



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竹の住まい

竹の住まいは好ましい
冬の雨が葉をぬらす
雫は静かに光っている

玄関であなたの声がすると
竹の葉も喜んでいる
かすかに揺れている



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『憔悴』 中原中也

昔私は思っていたものだった 
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

けれどもいまでは恋愛を 
ゆめみるほかに能がない
『憔悴』 中原中也



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ゲゼルの思想 資本主義でも社会主義でもない新しい社会 ポイント

エンデの遺言―「根源からお金を問うこと」日本放送出版協会 1575円
という本がある。

児童向けの著作で有名なミヒャエル・エンデが晩年に構想していた経済の話。

*****
エンデは、シルビオ・ゲゼルという思想家に出会う。  
シルビオ・ゲゼルは、マルクスと同時代の人間で資本主義でもなく共産主義でもない、
もう一つの経済システム「老化するお金の理論」を考えた人物であり、スタンプ貨幣で有名。
インフレもデフレもなく流通する通貨制度の話。

ゲゼルが考えた自由貨幣は月に1%価値が下がる。持っていては無駄なので使う。経済が回るので失業者が減る。

*****
現在政府が企画している定額給付金について、
普段の生活費に使われてしまうと、結局あまり意味がないことから、
なにかアイディアはないかといわれ、
期限付きで使えなくしてしまえばどうかとか議論されている。
そのなかでゲゼルの思想が紹介されている。


*****
成長を前提にし、成長を強制する性格をもつ現行の金融システムが、現代の矛盾を生み出している根本原因

簡単に言えば利息が問題だ

*****
アマゾンの紹介を採録すると、

「パン屋でパンを買う購入代金としてのお金と,株式取引所で扱われる資本としてのお金は,まったく異なった種類のお金である」。こう語りかける本書は,NHKで放送されたドキュメンタリー「エンデの遺言--根源からお金を問う」を1冊の本にまとめたものだ。
ドイツの作家であるエンデ(故人)は,「個人の価値観から世界像まで,経済活動と結びつかないものはない。問題の根源はお金にある」と提起する。エンデへの取材をもとに,彼の蔵書,貨幣社会の歴史を紹介しながら,現代の金融システムが引き起こす弊害に警鐘を鳴らすのが本書の目的だ。

本書では,事例や寓話を取り上げて,貨幣経済の仕組みと問題点を分かりやすく説明している。たとえば---。

豊かな漁師町に,貨幣経済の導入と一緒に銀行ローンもやってきた。漁師たちはローンで大きな船を買って,効率が高い漁法を採用。そのおかげで,ローンを返すためにたくさん魚をとり,結局最後には魚が1匹もいなくなる---。

貧しくても心豊かに暮らす人々の前に,時間貯蓄銀行から来たという「灰色の男たち」が現れる。男たちは人々から時間を奪おうとする時間泥棒で,「時間を節約して銀行に預ければ,利子が利子を生んで,人生の何十倍もの時間を持てるようになる」と言う。彼らの誘惑にのせられた人々は,余裕のない生活に追い立てられて人生の意味までも失ってしまう---。

こうした身につまされるストーリーは,「将来」を輸入する一方で環境を消費し,地球の資源を食いつぶす現代人に向けた痛烈な批判だ。資本主義経済におけるお金は,より高いリターンが得られる場所に移動し,その結果,利益はごく一部の人に集まり,一方で利益を奪われ続ける多数の人々が存在する結果になったという指摘もうなづける。

お金を銀行に預けると利子が増えるというのが現代の常識だが,本書では面白い事例が紹介されている。世界大恐慌直後のオーストリアのある町では,お金を保有していると1カ月ごとに価値が1%減少するという金融制度を導入し,経済活動を活性化させたという(最後は国家権力が制度を廃止させた)。プラスの利子は短期的な利益に向かい,マイナスの利子は長期的で人間の豊かさをもたらす有意義な投資に向かうというのは,現代社会の中に生きている我々にはなかなか思いつかない発想だ。

お金の病にかかっていると指摘するエンデの予言は,とりわけ日本の経済状態を厳しく批判しているように感じた。本題の解決を先送りして,国と地方を合わせた長期債務残高は先進国の中でも最悪で,GDP(国内総生産)をはるかに上回っている。「人々はお金を変えられないと考えているが,それは違う。お金は変えられる。人間がつくったものだから」という本書の主張に,現代人はいつ目覚めるのだろうか。

*****
ゲゼル で検索するとかなりたくさんの情報がある。地域通貨とか、マイナスの金利とか。
http://www.grsj.org/report/report/endenoyuigonsinario.html

食べ物でも衣類でも住宅でも、だいたいお金で買うものはみんな時間とともに価値が落ちていく。
それなのにお金だけは利息が付いて価値が上がっていく。
このあたりに資本主義が数%の経済成長を仕組みとして内包しつつ存在する根源があるらしい。
従って、
食べ物が腐るように、腐る貨幣を考えて、利息は付けない。
そうすれば、人々はその貨幣を手元に蓄えておかないでさっさと使うようになる。

*****
アメリカのイサカでイサカアワーがある。
利息が付かないので金利に苦しむことがない。
http://www.tradition-net.co.jp/door/door_esy2000/3tsuka.htm

貨幣は物々交換の不都合を回避するための単なる交換手段から始まったが次第に自己目的化した。つまり、貨幣の機能は交換手段と価値保蔵(利子の発生)とに別れてしまい、これらが矛盾しながら同居して存在している。貨幣を持っている者は時間とともにどんどん強くなり、持たないものは利息を吸い取られて弱くなる。

*****
現代では電子マネーが使えるので、
いろいろな新しい仕組みを考案することができるらしい。
新しい社会への突破口になればすばらしい。

*****
ポイントとかマイルなどは
利息が付かないし期限がつけば無効になるしで、
老化するお金の理論に近いかもしれない。

取引の一部にポイントを組み合わせることで、現在のお金に並行するものとして
もっと価値ある使い方ができるのかもしれない。

*****
日本でも二宮尊徳が農民に無利子貸付制度を作ったとのこと。



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瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ(崇徳院)

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ(崇徳院)

新平家物語では崇徳のことはあまり強烈には描かれてはいない。
しかしやはり日本の怨念話の雄である。

先日日本映画「阿修羅城の瞳」にて
鶴屋南北の戯曲の中で
瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
の歌が使われていた。
http://shinagawa-lunch.blog.so-net.ne.jp/2009-01-04-1

興福寺の阿修羅像の表情と
宮沢りえの表情と
崇徳の怨念とが重なり合う。

さらにはもう一つの日本怨念話の雄、アニメ版四谷怪談にも崇徳のこの歌が出て来ていて、
「岩」とあるので、目の前にいる女がお岩の亡霊と分かる仕組みになっている。
したがってお岩の怨念のイメージと、
それらが重なり合い、さらに牛若、常磐の話で、
ここ二日眠れずに過ごしている。

どうも京都に行きだしてから不眠である。
怨念だと思っている。


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地味な花だぜ

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バレリーナ

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人間としてすずやかに生きたいのです

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新平家物語・吉川英治

古本屋で全巻まとめて出ていた本。
昭和27年の初版本で紙質は非常に悪い。
紙にシミが沢山浮いている。
印刷はずれているものもあり、活字が不鮮明になっているところがある。
昭和のその頃とはそのような時代だったということなのだろう。

はじめの方の巻は読んだあとのようなものがあり、
手で触ったところが紙のシミのようになっているようだ。
途中からは読んでいないらしい。

配本ごとに栞がついていたようで、
一緒に綴じ込んである。
読んでみると執筆当時の様子が伝わる感じで面白い。
まじめである。

清盛の話から展開して鞍馬山に移り、
話は活劇じみてくる。
天狗という存在が生々しく感じられる。

このようにも精神的距離を変えてしまう筆力に驚く。
鮮やかである。

牛若と常磐の交流は読む私にいろいろな要素を喚起した。
第六巻「稚子文状」で描かれる幼い手紙と稚子舞の片袖。
私も年をとり親の気持ちに半ばなっていて
しかしまた半ばは
お母あ様のお身につけていらっしゃる物を何か一つくださいとの
牛若の言葉に一体化していて、
おもしろいものだと思う。

麻鳥の繰り返し説く、無用な戦乱はよくないとの話はよく分かるのであるが
それにもましてどうしようもなく牛若を駆動する力もまた描かれていて
その仕方なさが切ない。

吉次とのやりとりの中に見える自己愛の肥大の様子も興味深い。
このような自己愛の肥大と形成が共感を持って迎えられる。
そうだろうと思う。

有名な伎王の話などはむしろさらりとしたもののように思った。

というようなわけで、まだ大分お楽しみがある。

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2009冬

朝、お茶をいれたあと、
急速に冷めてしまうので
冬なのだと思っている。

夜、おんぼろアパートの風呂には追い炊きもないので
急速に冷める。
そのことも冬を感じさせる。

二日続けて不眠。
吉川英治の新平家物語などで時間を過ごす。
アパートの外で深夜も工事が続いているのか、
断続的に作業音がしている。

最近は風呂上がりに目のまわりが乾いている。

眠れずに起きていると
おなかがすいて何か食べたりする。
そんなことも少し苦しい。

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葉っぱは定型の美である



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葉っぱ3



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かさかさと葉っぱ



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屋根



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ただの葉っぱ



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それだけのこと

そういえば
あの日
僕たちの逢った最後の日
君は家の車で駅まで迎えに来て
近所のくつろげるところというので
動物園のついたレストランに行ったよね
少し小雨が降っていて
君は上手に馬に餌をあげていた
何とか牧場という名前のレストランでステーキを食べた
そのあと別の店でアイスクリームを食べた
いろんな動物がいて
みんな少しずつ雨に濡れてかわいかった
馬はりりしかったな動物園の中にまっすぐな道があって
両脇に背の高い木が植えられていて
その中に君が立って写真を撮るととても絵になる景色だった

あとで別れようといったとき
いままでの写真は処分してねと
あなたは言った

それだけのこと


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朝までテレビ改革案

本を読むのに疲れていたので食事をしながら朝までテレビという討論番組を見た
みんなよく細かい数字をならべている
その意味ではよく勉強していると思う
テレビカメラの前であんな風に言えるのはやはり訓練されていると思う
数字を並べるのが議論のテクニックであることは昔からだ

この人たちは議論の仕方というものを理解していないけれど
このくらいの方がテレビ向きだし司会も恣意的に結論をまとめやすいのだろう
しかし改革が必要だ

司会者の権限を高めて人の話を聞くようにしたいならば
マイクをコントロールして不規則発言をなくす
指名されていない人のマイクは切ってしまう
テレビカメラも指定された発言者を映す

発言したい人は要点のメモをワープロで書いてスクリーンに映しておく
それを常時テレビ画面に映しておいて
それを見て司会が発言を求めるようにする
そうすれば視聴者は司会の不公正も見抜ける

声の大きい人や組織の代表者に多くの発言を割り振るのでは意味がない
それは権力側の宣伝番組というものだ

理性を練り上げることを目指すこともできるはずだと思う
そのためにはまず人選である

政治の改革も必要だけれど
まず朝までテレビの改革から始めたらいいだろう



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山月記 中島敦-3 賞賛を求める

 袁サンは部下に命じ、筆を執って叢中の声に随(したが)って書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡(およ)そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁サンは感嘆しながらも漠然(ばくぜん)と次のように感じていた。成程(なるほど)、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処(どこ)か(非常に微妙な点に於(おい)て)欠けるところがあるのではないか、と。

*****
思わせぶりな書き方であるが、何が欠けているのか

はたして何が欠けているのか

たぶん秀才故の孤絶と自負、そして共感性の欠如

この人が忙中閑ありの態度でのぞみ、人生の体験を蓄えていけばおそらく第一流になったと思う

しかし多分時代が移り人性が移れば欠如は欠如ではなくなるだろう

だから李徴も気にしないで悠々と作品を作り続ければよかった

第一流かどうかなど気にしても仕方のないことである

そのように割り切れることが秀才の孤絶としては必然である

大衆の心をつかむのは二流であり、大衆に先駆けてしまうのが第一流であるから
理解されないのは必然である

自己愛性の心性は賞賛を求めるからそのように割り切れないことになる

まったく李徴は自己愛の方程式通りに屈折しているのだ

*****
専業作家というものはえてしてこのようになりやすい。
書く技術は持っているのに、書くことが何もないのである。
書けば人を納得させるものは書ける。
しかしそれは経済的な動機であって、
内発的な動機ではないのだ。

ましてや文学者として成功して豊かにもなりひとかどの文化人として処遇されてもいるとき
書斎を公開して万年筆やカメラの手入れの蘊蓄を語るとして
やはりここにも李徴の声が響いているのである。



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山月記 中島敦-2 自己愛の肥大

 何故(なぜ)こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依(よ)れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己(おれ)は努めて人との交(まじわり)を避けた。人々は己を倨傲(きょごう)だ、尊大だといった。実は、それが殆(ほとん)ど羞恥心(しゅうちしん)に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論(もちろん)、曾ての郷党(きょうとう)の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云(い)わない。しかし、それは臆病(おくびょう)な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨(せっさたくま)に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍(ご)することも潔(いさぎよ)しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。己(おのれ)の珠(たま)に非(あら)ざることを惧(おそ)れるが故(ゆえ)に、敢(あえ)て刻苦して磨(みが)こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦(かわら)に伍することも出来なかった。己(おれ)は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶(ふんもん)と慙恚(ざんい)とによって益々(ますます)己(おのれ)の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有(も)っていた僅(わず)かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為(な)さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄(ろう)しながら、事実は、才能の不足を暴露(ばくろ)するかも知れないとの卑怯(ひきょう)な危惧(きぐ)と、刻苦を厭(いと)う怠惰とが己の凡(すべ)てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸(ようや)くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼(や)かれるような悔を感じる。

*****
実にこのような人がいくらもいるものである
最近のように豊かな社会になればますます増える傾向である
自己愛の肥大と表現してもいい部分もある

自己愛性の心性は「傲慢、賞賛欲求、共感不全」かつ「臆病」
といわれていて
上記の自尊心、尊大、倨傲、そして羞恥心、臆病と一致している。

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山月記 中島敦-1

 隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)は博学才穎(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉(こうなんい)に補せられたが、性、狷介(けんかい)、自(みずか)ら恃(たの)むところ頗(すこぶ)る厚く、賤吏(せんり)に甘んずるを潔(いさぎよ)しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山(こざん)、カク略(かくりゃく)に帰臥(きが)し、人と交(まじわり)を絶って、ひたすら詩作に耽(ふけ)った。下吏となって長く膝(ひざ)を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺(のこ)そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐(お)うて苦しくなる。李徴は漸(ようや)く焦躁(しょうそう)に駆られて来た。この頃(ころ)からその容貌(ようぼう)も峭刻(しょうこく)となり、肉落ち骨秀(ひい)で、眼光のみ徒(いたず)らに炯々(けいけい)として、曾(かつ)て進士に登第(とうだい)した頃の豊頬(ほうきょう)の美少年の俤(おもかげ)は、何処(どこ)に求めようもない。数年の後、貧窮に堪(た)えず、妻子の衣食のために遂(つい)に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。一方、これは、己(おのれ)の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥(はる)か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙(しが)にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才(しゅんさい)李徴の自尊心を如何(いか)に傷(きずつ)けたかは、想像に難(かた)くない。彼は怏々(おうおう)として楽しまず、狂悖(きょうはい)の性は愈々(いよいよ)抑え難(がた)くなった。一年の後、公用で旅に出、汝水(じょすい)のほとりに宿った時、遂に発狂した。

*****
発狂もよし

思索と詩作にふけるもよし

また
鈍物の下命を拝するもよし

賤吏せんりに甘んずるもよし

みな、よし

固く考えるべからず

うまくいくかどうかは時の偶然だ

挑戦しない限りは成功はない

李徴りちょうがどの道を進もうといいことだ

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ダーウィンの悪夢 渋谷で上映

渋谷でこんな映画をやっている
渋谷も捨てたものではないのだ
シネマ・ライズ



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写真1



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退役軍人の3割が精神的外傷―米調査報告

退役軍人の3割が精神的外傷―米調査報告

 【ロサンゼルス18日宮城武文】米シンクタンク・ランド社がこのほどまとめたイラク、アフガニスタン戦争の退役軍人の調査報告で、3人に1人が心的外傷後ストレス障害(PTSD)など戦争による精神的障害を患っていることがわかった。

 米陸軍が先に行った調査では6人に1人の割合で、重度の障害を患っているとの報告が出されていた。ランド社の調査は戦争体験による障害がかなりの退役軍人の生活に影を落とし、しかも今後の職務への不安から障害に患っていることを明らかにせず、治療も受けていないことが明らかにされている。

 最新調査報告によると、戦争体験で脳損傷のみを患っている退役軍人は全体の12・2%。うつ病・PTSDのみを患っている人は11・2%。うつ病・PTSD・脳損傷すべてを患っている人は7・3%。イラク、アフガニスタン戦争に従事した退役軍人170万人のうち約30%が障害を持っているとしている。

 イラク、アフガニスタン戦争経験者がそれ以前の戦争よりも精神的外傷を患っている割合が多い理由については、イラク、アフガニスタン戦争では、テロリストや反乱組織による攻撃が自爆など24時間いつどこでも起きるリスクにさらされていることと、民間人の犠牲者を頻繁に目撃する機会が多いことなどを挙げている。

*****
人類は戦争と共にあったのだから、
たぶん、PTSDとともにあった。
それを癒す方法も、いろいろあった。
宗教があり、
芸術があり、
癒しの物語があり、
来世の物語があり、
性愛があり、
迎え酒のように更なる戦争もあった。

***



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ストレス→うつの兆しを見逃さない

ストレス→うつの兆しを見逃さない

 ストレスを受けると、脳や身体各部に様々な影響が出てくる。しかし、これらの変化の多くは目に見えないため、周囲の人間には分からないし、自分自身も認知できていないことが少なくない。

 そこで今回は、自分のストレス状態を自分自身が認知するために、またストレス状態にある職場の同僚に気付くことができるように、ストレスをいくつかの段階に分け、各段階で起こる「外側から見える」変化について説明していく。

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図1 ストレス→うつの段階
(1)「過剰適応」段階
 最も軽症のストレス状態では、すぐに元気がなくなるのではなく、むしろ元気な感じになる。何かストレスがあっても、普通以上にきちんと適応できているかのように見える。この状態を「過剰適応」と呼ぶ。この時点では、本人はストレッサーに曝されていることに全く気付いていないことが多い。

 過剰適応が問題なのは、本人が無理をして適応しているため、いつかは適応のためのエネルギーが枯渇して、ストレス状態が次の段階に進んでしまったり、身体的な病気(心身症)になったりする可能性が高いからである。

 過剰適応は色々なきっかけで生ずるが、例えば、仕事を始めたばかりの研修医や、異動したり勤務地が変更になったばかりの医師によく見られる。具体的には、新しい環境に早く慣れようとして、遅くまで仕事をしたり、ミーティングなどでも積極的に発言するなどの行動が観察される。

 もっとも、この過剰適応は、真面目な医師が「新しい職場で頑張ろう」という気持ちが強いときに表れる行動パターンであり、適応のためには、むしろ必要な段階であるとも言える。

(2)「神経過敏」段階
 過剰適応の段階を過ぎると、精神的に過敏になり、イライラしたり、怒りっぽくなったりする。見た目にも疲れが見え始め、タバコの本数が増えたり、些細な刺激にも過敏に反応したりする。同僚と口論やけんかをしてしまったり、後輩をいじめたり、上司に対しても口答えするようになり、さらに悪くなると、看護師に当たり散らしたり、患者や患者家族とのトラブルに発展する場合もある。これが神経過敏の段階である。

 神経過敏は、私生活にも影を落とす。自分の家族や恋人、友人とも、ちょっとしたことでけんかしてしまうことが多くなってくる。

 この時期の、もう一つの客観的指標は「酒の飲み方」である。しばしば見受けるのは、酒を飲みながら職場や仕事について愚痴ってみたり、上司や同僚の悪口を言っている場面である。また、一緒に飲んでいる同僚や友人にからんだり、喧嘩をしてしまったりもすることもある。「最近、悪酔いしやすくなった」という人は要注意である。

(3)「無関心」段階
 さらに悪化すると、いよいよ周囲に対して関心がなくなる段階に入っていく。それまで一生懸命がんばってきたのとは正反対の状態で、仕事への積極性もなくなってしまう。さらに、積極性や生き生きした感じが失われるだけでなく、仕事中も「うわの空」のように見えるようになる。その結果、つまらぬミスをしてしまい、それが大きな医療ミスの原因になる場合もある。そのことについて、上司から注意されたり、叱られても、特別に罪悪感を感ずることもなくなってしまう。

 しかし、無関心だからといっても、これは「抑うつ的」とは違う。抑うつ状態のように、悲しいわけでも、憂うつなわけでもなく、心身が消耗した感じで「何も感じない」状態なのである。

 この無関心段階では、休憩時間や自宅に戻ってからも、何かを積極的にすることはない。その代わりに、雑誌やネットで「求人広告欄」をボンヤリ眺めていたりする。とはいえ、この段階の人は、現在の仕事をやめて新しい職場を積極的に探しているわけでない。そんなエネルギーは、もうこの段階ではなくなっているのである。「ただ、なんとなく」というのが、この段階には一番ピッタリくる表現である。

(4)「引きこもり」段階
 無関心段階を過ぎると、さらに周囲との接触を避けるようになる。具体的には、遅刻が多くなってくる。また、「神経過敏」の段階のように、外で同僚や友人と酒を飲んでウサ晴らしをするわけではなく、家で独りで飲酒するようになり、その結果、二日酔いの状態で出勤することも少なくない。医師の6人に1人はアルコール性肝障害と言われるが、このような段階に達している医師が多いのかもしれない。

(5)「抑うつ」段階
 引きこもりを超えると、次は「抑うつ」段階である。この段階では、憂うつ、寂しい、悲しい、つまらない、といった抑うつ気分を本人もはっきりと自覚し、言葉にすることもできる。また「集中力がない」とか「頭が働かない」というような精神機能の低下や、「忘れっぽくなった」という知的機能の低下も見られるようになってくる。

 さらに「何も手につかない」とか「何をするのもおっくうだ」といった具合に、運動性の抑制も見られるようになる。これらの症状が、朝や午前中に特にひどいという、「日内変動」も見られることがある。このように、この時期には、いわゆる「うつ病」の患者と全く同じ症状が認められるようになる。

 この「抑うつ」段階も、精神症状を自覚できれば、評価や診断はそれほど難しいことではないが、精神症状がほとんどないこともある。例えば、不眠、食欲不振、体重減少といった身体症状だけしか認められない場合である。身体症状は、頭重感、頭痛、肩凝り、腰痛といった症状のこともあるし、下痢や便秘ということもある。このように、抑うつ感がないか、あってもごく軽度で、その代わりに身体症状だけが目立つうつ病を「仮面うつ病」という。

(6)「行動化」段階
 この「抑うつ」段階が続くと、最終的には様々な「行動化」が見られるようになる。誰でも色々な感情や欲望を持ち合わせているが、それが行動という形で発散されてしまう場合を、心理学や精神医学では「行動化」と呼んでいる。外からは、衝動的で未熟と評価され、時に危険でもある。
 具体的な行動化としては、例えば、無断欠勤もそうだし、何の将来的な展望もないのに、いきなり「退職願い」を提出すような衝動的な転職も行動化である。また、アルコール依存や薬物依存(これらは精神医学的には物質依存としてまとめられることもある)も行動化の表現型の一つであるし、さらにそれが極端になったのが自殺である。

 


 



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泉屋博古館(京都)

http://www.sen-oku.or.jp/kyoto/exhibit/index.html 

泉屋博古館(京都)〈せんおくはくこかん〉は
住友コレクションの展示場です。
東京に分館があります。
収蔵品の一部がネットで写真公開されています。

すでに完璧の域に達していると思います。







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依存中毒嗜癖のストッパー 筋肉とコンピュータ

依存中毒嗜癖についていえば、
楽しいこと、快楽のすべては嗜癖に移行する可能性がある。

人間の進化の過程で古いタイプの快楽には自然のストッパーがある。
筋肉は神経よりも早く疲労する。
性的快楽についても、筋肉が収縮していったんピークを迎えると、
そこでひと区切りつく。
食べることといっても、食料が無限にあったわけではない。昔の環境では
たくさん食べたら多分おなかを壊していたはずだ。

そんなわけで、快楽には自然に限界が設定されていた。
最近の新しい生活様式に伴う快楽は、おおむねすべて、嗜癖に移行する可能性がある。
筋肉活動を伴わない快感の形式は危ないはずだ。

たぶん、ロールプレイイングゲームでは嗜癖がいくらでも起こるが、
Wii Fit では嗜癖は起こりにくい。
Wii music も嗜癖は起こりにくいのではないか。

神経を直接刺激されて、神経だけが興奮して快楽を感じる、こうしたタイプのものが
嗜癖に移行しやすい。
たとえばワーカホリックという場合でも、筋肉労働者はそうなりにくい。
頭で考えているだけの人たちはなりやすい。

ネットというものは脳とネットが直結しているようなもので、
神経が疲れて睡眠を欲するのでなければ、
やはり休憩を入れにくいし、
基本的に興奮が持続するから嗜癖になりやすい。

人間の体で、筋肉が嗜癖のストッパーであったように、
コンピュータという「筋肉の代理」にも疲労のインデックスを付けて、
一定時間一定出力で活動したら
休むようにしてもらえばずいぶん違うと思うのだが、
休まないコンピュータに改造するサイトが流行するのだろうか。



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佐々田雅子 ハードボイルド

8丁目で聞きかじりをしたところでは
ハードボイルドの翻訳では佐々田雅子さんという人が評価が高いらしい。
その人は小鷹信光も評価していた。

そもそもハードボイルドとは
客観的でビデオカメラみたいな描写を積みかさねる手法で、
心理説明などしない。

ヘミングウェイから始まって、チャンドラーとかカポーティが有名である。

いろいろ言っていたがあまり覚えていない。
Wikiで調べたらだいたい同じ事を書いてある。

私なりの理解では、
「彼は決心した」と書かないで、「彼は樅の木を見上げた」と書く流儀である。
映像化には向いているのだろう。

簡単に落ち込んだり、簡単に驚いたりしない。

私にとって一番分かりやすいのは
ハンフリー・ボガードのカサブランカである。
新宿鮫と濱マイクもテレビで見たが、
濱マイクはマイク・ハマーのもじりだけあって、
ハードボイルドになりきれず主題歌が妙に記憶に残っている。
くちばしにチェリー。

ハードボイルドは固ゆで卵だけれど、
たしかに固ゆで卵はつらそうだ。
弱くなれよと言ってあげたい気もする。

*****
「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」
というタイトルだけで
もうすっかり固ゆで。

私はミステリーは読まない方で、
ずっと昔の正月に、ミステリー好きの人に勧められて、
入門編はアガサ・クリスティーと横溝正史だとの指導を受け入れ、一冊ずつ読んだ記憶がある。
横溝は確かに映画よりも小説がおもしろかったような気がする。
でもこれは推理小説とかミステリーだからハードボイルドとは別。

谷川俊太郎が推理小説について書いている

*****
現代に生きる我々が推理小説に求めるものは、
平和、静けさ、単純さ。
テレビドラマの水戸黄門と同じである。
すべては説明され、すべては理詰めである。

現実は混沌としていて、死の意味すら与えられていないのに、
推理小説の中には、美しく構成された、論理的な、完結した世界がある。
死には明確な意味が与えられている。
推理小説の中では、無意味に死ぬ者はいない。
その大いなる安心感。

*****
無意味な死はない理詰めの世界。

ひょっとしたら、現代人は精神病になるのは理由があると思っているのかもしれない。

無意味な精神病
は耐え難いですか。

これは非常にハードボイルドかもしれない。
自分の理性が失われてゆく恐怖。
途切れ途切れに理性が戻る、その気まずさ。

拷問ならば意味があるが、
苦しみがあっても意味がないのである。

*****
海外名作文学の新訳相次ぐ
 海外の名作文学の新訳を出版する動きが相次いでいる。新潮社は今月末、米国の作家カポーティの小説『冷血』を手始めに、10月にセルバンテス『ドン・キホーテ』、11月にナボコフ『ロリータ』を連続刊行。岩波文庫もモーム『月と六ペンス』の新訳を7月に出すなど、積極的な取り組みが目立つ。

 新潮社の3作は、単行本として出した後、適当な時期に文庫版も訳を切り替える。「訳を新しくすると、今までと違う読者が生まれる。出版社の使命感のようなものもある」と語る。

 一方、岩波文庫は数年前から文庫の年間販売部数を調べ、需要が大きい物について新訳を出すか検討している。2000年以降、チェーホフ『ワーニャおじさん』や、モーパッサン『脂肪のかたまり』など計19冊を出版した。「すぐ売れ行きに影響が出る訳ではないが、長いスパンで効果を考えたい」という。

 新潮社から出た『冷血』は、米中西部の農村で大農場を営む一家4人が殺害された事件を、綿密に取材したノンフィクション・ノベルだ。警察と犯人の取り調べ中のやり取り、死刑執行まで再現した内容は圧倒的な迫力がある。犯罪小説などの翻訳で定評がある佐々田雅子氏が担当した。

 〈ペリーがやったんです。わたしには止められなかった。やつが全部殺したんです〉(龍口直太郎の旧訳)

 〈やったのはペリーだ。おれには止められなかった。やつがみんな殺したんだ〉(佐々田雅子の新訳)

 新旧の訳を比べると、殺人を犯した2人組の1人が自白する場面を例にとっても口調がかなり異なる。佐々田氏は「殺人犯2人の関係性を考えて、会話で自分を呼ぶとき『おれ』『お前』など、どの人称がふさわしいか考えた。文章も読みやすくするため区切った」と語る。1967年の旧訳より全般的に文章が現代的でこなれていて読みやすい。

 名作の新訳を出すのは、簡単ではない。出版社は投資が必要になる。「今回は少なかったが、自分と前の訳文が重なった時どうしようか考えた」(佐々田氏)と語る通り、新しい訳者は先人と常に比較される。文学作品の翻訳は手間がかかるのにハウツー本などに比べて部数が少なく、訳者の収入が低くなりがちという翻訳界全般の問題もある。

 日本人が海外文学を読み継ぐには、古びた翻訳を更新することが欠かせない。地道な努力を積み重ねる人々の仕事は、もっと脚光を浴びていい。(待田晋哉)

(2005年9月29日  読売新聞)
 



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