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前田真三的景色

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景色1

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景色などいかが?-2

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景色などいかが?

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恋ひ死なん命はことの数ならでつれなき人の果てぞゆかしき 永成

永成 は えいしょう と読みます。

私はこの恋の悩みで死んでしまうだろう
しかしわたしの命などはもうどうでもいいことだ
ただこんなにもわたしをつれなく無視するあなたに
どんな未来が待っているのだろう

-----
「果て」というので、「どんな死に方をするのか」と解釈するのですが、
あんまりだと思いまして、変更してみました。

でも、恋が実らない時、そこまで思い詰められると、
とても困ります。
こんな風に困らせて女性に言い寄るなんて、
やはりすてきとは言い難い。

でも女は言い訳を確保したいもので
あの人が卑劣な手段を使ったからと言い訳をして
微妙に共犯者になりたがることだってある。


知らざりつ袖のみぬれてあやめ草かかる恋路におひんものとは

恋路はこいぢで、「泥」につながる。
あやめは菖蒲と文目(条理)をかける。

知りませんでした
袖が濡れる それは恋の涙 
恋の花・菖蒲がこんな泥に咲くとは
恋路は条理もないほどに涙で濡れているとは

みちのくのをだえの橋やこれならん踏みみ踏まずみ心まどはす

藤原道雅のナイスショット!

みちのくに
「をだえの橋」があるという
をだえは「緒絶」、
をだえの橋は蔓も紐も朽ちかけている古い橋
もうぼろぼろのはずの橋
それならこれに違いない
もう崩れ落ちそう伝説の橋
をだえは「を絶え」、
女が返事をくれないことをいう
何度文を送ってもあなたからのお返事はなく
ただ昔の文をとりだして文見、香りし、手に触る
わたしはつやのない男に違いない
才なき男になすすべもなし
この朽ちた橋に
朽ちた男
踏んでいいのか悪いのか
とまどいながら
暮らす日々
あなたに焦がれ
暮らす日々
文見 文見ず
踏みつつ 踏まず
暮れる日々

見わたせば花も紅葉もなかりけり裏の苫屋の秋の夕暮れ

藤原定家
和歌の見本としてよりも
美意識の典型として学ばれる。

私にとっては人生の教訓そのものでもある。
人生を振り返ってみれば
何もない
それは戦慄するような寒々しさなのだが
やはりなにもない
しかし
むしろそれでいいのだ
寒々しさの中にすべての季節は宿り営みは続いている
青春は終わったとはいえ
回顧の感覚の中にすべてはいまだに宿っているのである

それさえ根こそぎ奪うのが
アルツハイマー型痴呆である。
見わたせば花も紅葉もなかりけり裏の苫屋も秋もまたなし
となる。

咲きそむる梅ひとえだの匂ひより心によもの春ぞみちぬる

伏見院

梅一枝 → 心によもの春

枕だに知らねばいはじ見しままに君かたるなよ春の夜の夢

和泉式部

枕はすべてを知っている のだ

春の夜の驚く夢はあともなし閨もる月に梅が香ぞする

光厳院

このような作を見ると、よく勉強した人ほど、
あれこれの言葉やイメージに縛られて、大変なのだと納得できる。

春の夜の夢、花の香、春月、梅花、これらをコラージュのように利用している。

春の夜に夢を見て目が覚める
月が射して梅の香りがする

別訳
春の夜 女の傍らでふと眠ってしまい
目が覚めてみると
梅の香と女の匂いにまみれている
女は眠っているようだ

うぐいすの宿しめそむるくれ竹にまだ節なれぬ若音なくなり

藤原定家

ここでも、鳴く鶯は女であり、
竹は男である。

ここでは節は竹にも鶯にもかかる
一方は若竹、一方は節も慣れず若音を鳴く鶯である。

若竹の林で、若い鶯が鳴いている
一方で節は慣れず、一方で節は慣れない

夜をこめて鳴くうぐいすの声きけばうれしく竹を植ゑてけるかな

藤原基俊
鶯に梅は当然であるが、
鶯に竹もなかなかお似合いである。

まだ夜が明けないうちに鳴く鶯
その声が聞けるならとよろこんで
竹を植えた

さて、春の夜明け前、鳴いているのは鶯ばかりではなく、
女もまたしかりである。
鶯は女と見れば、竹は男と見える。

別訳
夜更けまで鳴いている鶯の声を聞けば、
竹の手入れにも気持ちが入ることだ

花のいろは霞にこめて見せずとも香をだにぬすめ春の山風

遍昭

花は咲いたけど
霞がひどくて見えないよ
春の山風よ
せめて花の香りを運んでおくれ

まことにきれいなイメージであるが、

霞がたれ込めて見えない桜とは、深窓の令嬢である。

別訳
令嬢の姿が無理なら香りだけでも

というわけだ。

崇徳院 別の歌 うたた寝は……

うたた寝は 荻ふく風に 驚けど ながき夢路ぞ 覚むるときなき

うたたねならば
荻を吹き外を渡る風に
目が覚めたりもするものであるが、
人生という長き夢路は
覚めるときがない

と解釈され、まことに素晴らしい。

長き夢路で見る夢は
どうしたらよいものだろう
夢と捨てておくには苦しすぎるが
時がたてばすべては夢に過ぎないと分かってもいるのだ

人は覚めたままで人生という夢を見るのだ

*****
崇徳院という特別な人が
ながき夢路ぞ 覚むるときなき
と歌うのは尋常の言葉ではない

それを文芸として保存する日本人もまた尋常ではない

人生という長い悪夢はどうやっても醒めない

悪い人生がうたた寝に見る夢であったならと思うわけだ

しかし変わりはない
夢も物語も人生も変わりはない

崇徳院の数奇な運命

崇徳院は祖父と母、つまり嫁との間に生まれた。
異母弟に追い出された。保元の乱で敗北、讃岐に流されて、
配所にて死す。怨霊は後世の人々を恐怖せしめた。

朝夕に花待つころは思い寝の夢のうちにぞ咲きはじめける

花が咲いた、散ったを歌うのは当然であるが、
花が咲くのを待っていたら夢の中で咲いてしまったものだ
との趣向であり、
これもまた、花が咲くとは、女性が咲くことであり、
咲き始めるのであるから、まだ一度も咲いたことのない女性のはずであり、
思い寝とは、出会いの日を思い焦がれて寝ることであるから、
結局のところ、まあ、そういったような、ことで、
かぐわしい処女を夢にまで見ているよということである。

君ならで誰にか見せん梅の花いろをも香をも知る人ぞ知る

和歌が恋愛の大切なアイテムであった時代、
花を歌うことは、花のように咲く女を讃えることであった。

女も自分を花として詠んだ。

あなた以外の誰にも見せません
梅の花の色も香も
そのよさを知っているのはあなただけ

ということになるが、
大人の社会では、

あなた以外にはこの梅の花を見せません
私の花の色も香も
そのよさを知っているのはあなただけ

となるだろう
こどもには梅の花のことだよと言っておけばよいのである

いろをも香をも
という場合、
控えめに言えば、肌の色、黒髪の香り、という程度であろうか。
無論、幅広い解釈を許容するし、
それはその人の体験の深まりによるのだ

このような大人の文化は好ましい


行く春や鳥啼き魚の目は泪 芭蕉

有名であるが、
魚の目に泪との趣向は、あまり、著しいものではない。
鳥は天と地を往還するものであり、魂の象徴である。
鳥が泪するならそれは詩韻がある。
ところが俳句の中では「鳥啼き魚の目は泪」となっていて、
鳥と泪の関連は保持されていると解説にある。
そうした古典の原則は維持しつつ、
俳諧は大衆に諧謔を提供するのであるから、
いつも海の中にいるはずの「魚の泪」と言った。

鳥-啼く-泣く-泪・涙-人の怨み悲しみとひとつながりとなり、
古来多くの歌がある。
雪のうちに春はきにけりうぐひすの氷れる泪いまやとくらむ
二条后
は特に有名で、
鶯の涙は冬の間凍っていて、その涙が解けることが春の兆しだというのである。

それはそうとして、なんといっても芭蕉の名文である。

 弥生も末の七日、明ぼのの空ろうろうとして、月は在明にて光をさまれるものから、不二の峯幽かにみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどいて、船に乗りて送る。千住と云ふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに別離の泪をそそく。
 行く春や鳥啼き魚の目は泪

これだ。わたしの目指すものだ。

金魚


大晦日 鄙の家にも ふたあかり

大晦日 鄙の家にも ふたあかり

鄙の家は 自分の家のこと
鄙びた家を理想として住んでいるのでこのように呼ぶ

ふたあかり は灯りが二つ灯っているということ

*****
こんな情景はずっと昔のことで
いまは暮れても明けても
明かりは一つだけである

そしてそれでいいと思っている
心が通じないなら
むしろ独りがふさわしい


哺乳類の記憶

バイソンにしても
象にしても
草食性で
春の新しい緑の草をことのほか好む

イネ科の草は
成長点が根元にあり、
従って動物が草の先端を食べたとしても、
成長は維持される。

私たち人間が
若芽の季節にことのほかうれしく
命を祝福したくなるのは、
こうした哺乳類の記憶が脳の一部に格納されているからだと
納得される。

そして新年を迎え、
新緑の季節に向かうのである。

お世話する自分とお世話される自分

おかしな事だけれど
最近は自分が自分を世話する感覚がある

たとえば親が子どもの世話をするみたいに
私の一部分が私の一部分を配慮する

少しは栄養のあるものも食べさせないといけないなとか
あんまり苦しい思いばかりさせてもいけないなとか

自分のことならばいくらでも我慢すればいいのだと思ってしまう
そうではなくて適正な我慢の限界はどのあたりかということを配慮してあげる
そのためには何か擬似的にお世話する自分とお世話される自分がいるとうまくいきそうな感じである

世の中にはいろいろな人がいていろいろなことがあるわけだけれど
体も心も栄養失調にならないように注意して生きてゆくつもり

百合の花の強い香りが正月にふさわしい

正月にふさわしい百合の花の強い香り

元旦各紙

元旦の新聞を読み比べる
読売、朝日、毎日の順におもしろかった。
日経はこれから芽が出そうな産業の話が満載でこれも参考になった。
普段の仕事は日経紙面で書かれていることのさらに現場の状況を聞いているようなものだと思っている
働いている人はずいぶん日経に影響されていると思う

朝日31日と毎日元旦で2008年の秋葉原事件に関した記事が載っていて
これを切り口にして世相をとらえたいという気持ちが伺える。
31日の記事は社会学の見田氏の話で社会学者は相変わらずこういうものかと思わせられる。
どうも本人は本質を直感しているらしいのだが
説得力は薄いように思う。
私は立場上このような事件に関しての社会学系の評論には意地悪になるのかもしれないが
それにしても見田先生には教養で単位をもらったけれどそのころから胸に響かない
そうは言っても大御所の意見なので参考にしたいものだと思う

各紙力の入った広告であるが日立が各紙に宮沢りえと佐藤浩市を起用した全面広告を出していて
目立っていた。省エネでがんばりますとのこと。

出版社系の広告がたくさん。こんなご時世なので携帯もネットもやめてテレビもあまり見ないで新聞を読むことにしたという人もいる。自分の時間ができたそうだ。

テレビではシャープが太陽光エネルギーの会社になるのだと吉永小百合の語りで宣伝していた。
これはずいぶんすっぱりしたメッセージで好感が持てる。

読売が阿部慎之助の決意、朝日が松井と上原の対談で巨人選手が売れている。

朝日で吉田秀和と丸谷才一の対談。
私にはこれが一番いい記事だった。

英字新聞はガザがどうしたとかでまったく読む気なし。大問題だとの気持ちは分かる程度。かさばる一方である。

心と耳と目で聞く

耳と心を使って聞くのが「聴く」で、
漢字もそのように出来ています。
これをアメリカ人にいうと、
漢字の意味深さを誉めてくれます。

で、残りのこれはなんですか?
と聞かれて、わかりませんでした。
目もあると考えていのかな。
目が横になっている。

すると、心と耳と目で傾聴するとなって、
ますますありがたい教えになる。

藤堂漢和なら何か書いていると思うので、
調べてみます。

心で聞いて
耳で聞いて
目で聞く
これが傾聴

人の話を聞くことは大切。


分断

一人ひとりはやさしい人なのに
どうして分断されて憎み合っているのだろう

民族同士が言葉が通じなくて分断されているというバベルの塔の話は
聖書以前からのことだけれど、
現在もまた、一人ひとりが、本当の言葉も通じなくて分断され孤立させられているのだ。
その冷たさ。
なぜ普段は忘れていられるのか、それも不思議だ。

言葉は、用が足せればいいというものではないだろう。
事柄そのものの他に、何かたっぷりと乗っているものだろう。
そんな言葉にだんだんと見放されて行くのである。


挫折を体験している17歳が多い 人生を投げずに生きている

ほんとうにみんな生きることを諦めていないですよ
だけど、今、社会で起きている悲しい出来事を見たり聞いたりすると、自分は社会や物語から弾かれたと感じて、心が氷結していく人が存在する事実と、このギャップをどうやって埋めていくのか、繋いで行くのか、というのが表現に関わる僕らの仕事だという気がします。アートの存在意義というのかな」
彼らとの出合いを重ねて行く中で、20年前の17歳の撮影の時と比べて、いまの17歳は、想像以上に、なんらかの挫折を体験している17歳が多いのが驚きでした。社会との折り合いを上手くつけられない現状が有る半面、そんな17歳たちが人生を投げずに生きていることは、ある面、生き方が多様になっているということでもありますよね。たぶん社会の仕組みが現実に追いついていないことでもあるけど、なんか嬉しかったですね、皆が模索している姿にふれられて、でも当事者たちは必死でしょうけど。

*****
よく生きる意志
vs
自分は社会や物語から弾かれたと感じて、心が氷結していく

このギャップを埋めるのが表現、アートだという。

*****
20年前の17歳に比較して挫折体験が多いというのも驚きだ。
むしろ挫折を回避する生きたかを選択して引きこもると考える人たちもいると思うのだが。
挫折を回避しているから免疫が身につかないし成長もしないことになると考えられている。

社会との折り合いを上手くつけられない現状が有る
という場合に、
社会とは、一人一人の生き方の総和ではないかと考えるが、
そうでもなくて、
社会というものが個人に先行して変わりつつあり、
それに個人が合わせていかなければならないというイメージなのだろうか。

そしてその反面、生き方は多様になっている
と言われていて、
実際多様になっているはずなのに
生きにくく
息苦しくなっているのはなぜなのだろうと思う。

連帯と孤立と携帯

みんなどこかしら、おびえている。学校で孤立した友達がいかに悲惨な状況か、いやというほど見てきている。そこで、彼らにどこまで伝わったかはわからないけれども、『今でも僕は変わらないけど、僕らの青春の頃は、連帯は求めるけれど、孤立は恐れなかった』と話してあげると、彼らは、なんだこのおじさんという顔をしていたけど(笑)。でもどこか真剣な顔つきでしたよ。

 で、言葉を置き換えて、『つるむけど、一人になることを怖がらないことだよ』。そのために僕はカメラを手にしたんだ、という言い方をしています。でも僕の生き方なんて特別なケースなわけであって、リアルではないですよね」

人と目を合わせることがなかなかできないということに悩んでいたり、ぼんやりとひとりでいることが楽で、話すことが苦手という子供たちが多いことに、あらためて驚かされる。

人間と人間を、友達と自分を、分断しているものの正体は、僕らが便利だ思って使っている道具ではないのか。便利なものが、人と人の関係を壊している。たとえば待ち合わせをするにも、ケータイ電話が無かった頃は、友達が現れるまで会えるかどうかわからない。でも来ること信じていくわけでしょう。信じることも学ぶし、信頼関係も築ける、人間力は連続性の中で培っていけるわけだから」

これからの時代は便利なものを使うのはいいけれど、必要なだけの便利を選択して捨てていくことも必要になっていくと思うんです。

新しく生まれた文明の力を、個人がどこまで採り入れて捨てるか。


目が生きている

印象深いのは、みんな目がしっかりしていることです。気力がないとか言われるけれど、そんなことはない。ちゃんと目が生き、こちらを見ている。

「新しく『17歳』を撮ろうと決めたときから始めたことですけれども、『自分の心の中で何回も自分の名前を叫んでほしい、それは写るから』と言うようにしたんです。

 気持ちは写るんです。だから、1、2枚とって、カメラになれたかなと思った頃に、『名前を心の中でつぶやけば表情にでるから』って」

*****
目が生きているなら
生きている


先入観と思い込み

僕ら=世間は、あふれるほどの情報のなかで、いろんな先入観と思い込みで、目の前に居るひとを見ていると思うんですね。でも、僕の本を見たたくさんの人が、彼ら彼女の思いに触れて、いい意味で裏切られるんですよ。自分の言葉できちんと自分をしゃべっているし、社会全体が破滅に向かって行きそうな中でもなんとか生きたいと思っている。どんな17歳も、人生を投げてはいないですから。学校に行っている子も、行ってない子も。

*****
先入観というものは確かにある。
たとえば優等生を見ると勉強ばかりしているのだろうと思い込む。
先天的に勉強が分かってしまう人のことなど、たいていの人は知らないだろう。

先入観と言うけれど、
結局、自分の基準で見てしまうと言うことだ。

野球部は自分の得意な野球で他人を測定する。自分が物差しなのである。
それは仕方のないことで、原理的にそれ以外に物差しなど考えられない。

*****
僕らは、偏った情報のなかで生きているということを、この本を見ることでわかってもらいたいなというのは一つの思いとしてありますね。いかに世間に流れている情報というものが、流す側の都合で供給されているというのがこれでわかると思う、それと17歳を、社会を生きているパートナーという意識が欠落していて、消費の対象にしか見てないから、情報がかたよるのだと思いますよ」

*****
情報を流す側の都合、消費の対象としか見ていない、このあたりのことは、消費社会、コマーシャル社会という下部構造があって、それが大人たちの上部構造を決定していて、子どもたちのそのような側面しか見なくなるということだ。

17歳への質問

写真家は

「一緒に住んでいる人」

「今朝の朝食」

「好きな音楽」

「最近読んだ本」

「今まで行った一番遠い所」

「現在の収入」

「これまで就いた仕事」

を尋ねて、その人の輪郭を知るという。
それが写真にあうのだろう。

このようにフォーマットを決めて数を集めれば
立派なフィールドワークになる。

17歳を教育している高校の先生はどのように感じているのだろうか。

ビデオならば生の声で語らせることができる

個々を糸口として17歳が語りやすい質問ということなのだろう。

たしかにまず一言で答えやすくて、
そのあとさらに一言説明を加えたくなるような質問だと思う。


17歳の写真に写っている 自己愛

17歳の写真に写っているものは
何だろうと改めて考える

記事では

そこで撮られてもいいと答えるということは目立つということ、友達の外から出るということになる。とにかく、いまの少年たちは目立たないように、目立たないようにというふうにして周りを気にしながら生きている。それは気の毒だなぁと思ったし、恐ろしい事実ですよね、いつも周りを気遣って生きなきゃいけないということは。

と語られていて
私は昔風の「対他配慮」は性格成分としては少なくなっていると思っていたので、
この表現には考えさせられた。

目立たないようにしているけれど
自分はすごいと少しだけ誇大的に思っているようで

たとえば野球の上手な中学生の男の子がいたとして、
野球の名門高校に進学する。
当然のこととして、運動もできないような男の子をうんと見下していて、
生意気盛りだ。
しかし高校の野球部ではさすがに楽々一番というわけでもなくて、
かなりの苦労もする。

そんなときの17歳は多分、
野球部の外ではかなりの天狗だ。
野球部の中ではお互いに牽制し合い、
かなり気を遣いながら生きている。

野球部の中では対他配慮なのだけれど
外ではかなり自己愛的である

そんな感じが普通の子どもにも広がって、
みんながみんな大変になったという説明はどうだろう

野球部の場合は
野球がうまいという価値観はかなり完成していて
コースもだいぶ決まっている
落合さんなどは格別の人で
そのほかにもいろいろな格別の人がいるのだろうが
たいていはあまり語られないで終わる

普通の子どもたちがどの局面で対他配慮的で
どの局面で自己愛的で共感不全で誇大的か
その描写ができればいいのだけれど

野球部は自分で選んだアイデンティティともいうべきものだから覚悟がある
しかし
公立学校のクラスなどは何も特殊な要素はなく
アイデンティティとするには不足のようだ

塾やお稽古やスポーツ教室や親と行くボランティアとか
むしろ学校世界は子どもの全部ではなくなっているように思うのだが
世界の一部でしかなくアイデンティティ・グループにもなっていない集団に
気を遣い続けなければかなり居心地が悪いという現実

強制して収容されて管理されている気分

*****
手がかりは
未熟な自己愛から
社会に公認されたアイデンティティへの
乗り換えがうまくいくかということだろうか

たとえば、現代では、大学や大学院を終わっても、
会社に行って使い物にならないと断定される
それはつらい

集団行動スキルや対人行動スキルの練習の場所としての学校の機能は低下している
学ばないままで社会に出ると
段差がきつすぎて一休みしたくなる
そのままフリーターになってしまう

学校は職業訓練学校としても機能していないし、
教養訓練校としても機能していないし、
さらに忍耐訓練校としても機能していない

親の意識が変わったし
それにつれて先生の意識も変わった

それなのに会社は変わらず仕事で結果を出せといわれる
その段差に耐えられない

その段差がそのまま
自己愛とアイデンティティの段差なのではないか

その段差を昔は17歳で超えていた
だからなんだかんだ言っても18歳で医学部とか工学部とか決めることができた
今は決められないで25から30歳くらいまでかかる

昔は18歳で決めていたアイデンティティを
今は30歳で決める、
そんな様子だ

だんだん博士課程にたまる人が増えて
そうでなくてもモラトリアムのままで過ごす人が増えた

情報化社会、消費社会、権利主張社会、価値観拡散社会、
他人にも事情があると気がつかない社会、お互い様の消えた社会

お互い様がないというのが自己愛の特徴だ
何と言っても自分だけ特別なのである

写真集で出ている17歳はむしろ
まじめで自分に与えられたものをどうやって開花させるか
懸命に生きている感じがする

これは大人の側のものの見方の反映でもあるのだろう
この写真家のように見れば、そのようにも見え、
別の物差しで別の角度から見れば、そのようにも見える。

このような場合に、17歳に何かの物差しを当てて、一発で測定できるというなら簡単でいいのだけれど。
今できることは何か考えてもらったり計算をしてもらったりして
脳の活動がどのように変化しているか
画像でとらえること

それが何を意味しているのかはまだはっきりとは分からず
とりあえずデータが集まりつつある

ピークの17歳

いろんなことを学んで
魂は汚れる

そういうことらしい

17歳は一種のピークだと思う
振り返っても

頭の構造としても
多分できあがっていてあとは空き部屋に何かを入れるだけ

がらくたを頭に詰め込んでどうする?
博覧強記はもうコンピュータで充分だ

17歳は性的にもピークだろう
あとは経験で補うだけ

大変な世の中を我々大人が作ったのだと
思う

20年前の「17歳」と何が変わっただろう 先入観について

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写真集『17歳 2001-2006』を撮影した写真家・橋口譲二さんのインタビュー。

 「考えると不安になる」という少年。/「酒鬼薔薇少年と同い年です」という少女。/「自分の考えだけ言う人とかにはなりたくない」という少年。/「レギュラーはきわどいところです」と語る野球部の少年。/「お客さんの感じでだいたい何を買うかがわかってきた」と話す、コンビニでバイトする少女。/お母さんから髪を染めたらと言われるけど「私はイヤ」という制服の少女。

 「朝鮮名を名乗っているのは僕一人です」と話す少年。/「島から出たくない」と語る日焼けした少年。/女子は4人の工業高校の少女は、同級生がふたり続けて自殺した理由を考えていた。

 「どっちやねんと思います」と語るのは、2002年に撮影された大阪・生野の少女。拉致報道に誰を信じていいのか戸惑う、白い体操着の胸の「朝鮮高校」の刺繍が鮮やかだ。/仕事を辞めたいと思うたび上司が引きとめてくれたと話すのは、定時制高校3年の少年。/「家に月2万入れて、ケータイに5万ぐらい消えて、あとは貯金してます」という道路建設の現場で働く少年は、高校に入りなおしたいと思っていた。

 写真からインタビューの文章に目を移すたび気持ちいいほどに、先入観が裏切られる。

 「人がキレそうになる現場にいると、怖くて泣きたくなります」という少年がいて、嫌なことばかり考えるからボーッとしないという少年がいる。「限界みたいなものに挑戦してみたい」と語る詰襟の少年もいれば、視線がこわくて「人の顔とか見れない」という金髪の少女がいる。「鏡は朝見て、トレイに行った時に見るぐらい」と語るポニーテールの少女も、「働いてよかったのは、知らない大人と話せるようになったことです」と語る少女がいる。どれもが、大人が抱く17歳のモデルからほんのすこしずつズレている。それが「個」性だ。

1988年の『17歳の地図』も、今年出された『17歳 2001-2006』も、撮るだけでなく、一人ひとりに丁寧にインタビューをされていますよね。それで、共通の質問項目の中にある「好きな音楽」「最近読んだ本」の二つ、20年前に出された写真集でも同じ質問をされていて、面白いのは、女子だと漫画の『ホットロード』をあげる人が多かった。音楽は、男子は尾崎豊とハウンドドッグ。女子は、BOOWYなんですね。

「ああ、懐かしいなぁ。ツッパった格好をしたひとたちが多かった。今度の本では『ハリーポッター』と『いま、会いに行きます』だっけ。あと『“IT”(それ)と呼ばれた子―少年期ロストボーイ』が多かったかな」

「(カバーにも使われている、背景に団地がひろがるページを開き)これがいまのニッポンですよね。いま、郊外の県営住宅はどこも中南米からの帰民の人たち、あるいは東南アジアからの難民、中国残留孤児の人たちの姿が多い、公営住宅の役割が変わったということですよね」

── 20年前に撮影されたときと今回との大きな違いとして、撮影を断られることが多かったと「あとがき」で書かれていますよね。昔は、探すことに苦労はしなかったけれど、声をかけても今は断られ続けると。

「そうですね。ほんとうに、時間がないからという人もいたと思うんだけど、でも多くは、あとがきに書いたように、目立ちたくないということが大きな理由だと思う。

 僕は、仲間でいるうちの一人だけを撮影したい。それは誰でもいい。でも、そこで撮られてもいいと答えるということは目立つということ、友達の外から出るということになる。とにかく、いまの少年たちは目立たないように、目立たないようにというふうにして周りを気にしながら生きている。それは気の毒だなぁと思ったし、恐ろしい事実ですよね、いつも周りを気遣って生きなきゃいけないということは。でもこのことは17歳にかぎったことではないですけど。僕は後書きで書いていますけど、魂が殺されているということですよね。もっと言うと僕ら=社会は、魂の殺人者だということになる」

「ああ。彼は、『だめ連』(※「だめ人間」であることを積極的に表明した生き方模索集団)で紹介してもらいました。それで、靴下が破れて親指が出ているでしょう。このカットは、あえて選んだんです。

18歳か、16歳か。それは微妙。でも、共通するものがある。ある種、不安定。成熟と未成熟の間にある」

 「青年海外協力隊に行きたい」という、細身の彼女は山道を自転車で通学していた。/お父さんとメールを始めたと語るのは、母と妹と暮らす少年。/「子供の面倒を見ないような大人にはなりたくない」という別の少年の家庭にも、父がいない。/「化粧をすると自分に自信がつく」という目のくりくりしたペルー生まれの少女。/八方美人な自分が好きじゃないという少年。/駅伝をやっている女子高校生の不満は、「もうちょっと顔が良くなりたい」。/原爆の映画を見て、「人間がわからない」というギャルふうの少女もいる。

 カンボジア生まれの鉄筋工の少年は「何か親にプレゼントしてあげたい」と言い、中3から眉毛を剃りはじめた少年は「失敗せずに揚げられた時は嬉しい」とバイトのチキン揚げのことを話した。

 「部屋の中に5個鏡がある」と話す少女は「珍しい大人になりたい」と言い、養護学校の少年は、好きな子がいるけれど言うのは恥ずかしいと打ち明けた。「普通の大人になりたい。サラリーマンとか」と夢を語るのは、渋谷のセンター街で店の呼び込みをしていた中国名の少年だった。

 日本で暮らすのを当たり前と思っている少女や少年は、漠然とした未来への不安をもらし、「僕は」「私は」と答えながら、不安な境遇をにじませる移民の子供たちがいる。偶然街で声をかけられた、ひとりひとり。写真と対のインタビューから覗き見えてくる内面は、希望と不安で膨らみ、繊細で、いびつなぶんだけ芳醇だ。

── 写真を撮る前に、インタビューをされるんですよね。それは、どれぐらいの時間?

「だいだい一時間ぐらいですね、話を聞くのは」

── 「一緒に住んでいる人」「今朝の朝食」「好きな音楽」「最近読んだ本」「今まで行った一番遠い所」。用意されている質問が、この5つというのは何か理由があるんですか?

「そんなに難しく考えてはいないんですけど。この質問の答えを読むだけでその人となりや日常が分かるでしょう。引き続き『世界』で連載している『WOMAN』では、「現在の収入」と「これまで就いた仕事」を加えています。そのひとが今日までどうやって生き抜いてきたか。いま、どういう境遇にいるのかがわかるように。

── それって、いいですね。インタビューを読むと、彼女が仕事に責任感をもって、やりがいを感じているのが伝わってきます。

〈大切にしていることは、真面目にしていることかな。やる時はやる。農園の仕事は1年半続けていて、まだ遅刻とか欠勤とかもしたことがないです。一番若いけど仕事は全部まかされている。(中略)今は葉牡丹とシクラメン。土日、休みだから3日目の月曜日が気になってしょうがない〉

「朝山さんは驚きだとおっしゃるけど、僕ら=世間は、あふれるほどの情報のなかで、いろんな先入観と思い込みで、目の前に居るひとを見ていると思うんですね。でも、僕の本を見たたくさんの人が、彼ら彼女の思いに触れて、いい意味で裏切られるんですよ。自分の言葉できちんと自分をしゃべっているし、社会全体が破滅に向かって行きそうな中でもなんとか生きたいと思っている。どんな17歳も、人生を投げてはいないですから。学校に行っている子も、行ってない子も。

(写真集を手に、ちょっとツッパった男の子のところでめくる手を止め)彼なんかも『キレるように見えるかもしれないけど、自分の好きなところはキレないところ』と言ったりする」

── 体格がしっかりしていて、野球の清原っぽい風貌をしている。定時制高校に通っていているその彼が、保育士になりたいと答えているのがいいですね。

「僕らは、偏った情報のなかで生きているということを、この本を見ることでわかってもらいたいなというのは一つの思いとしてありますね。いかに世間に流れている情報というものが、流す側の都合で供給されているというのがこれでわかると思う、それと17歳を、社会を生きているパートナーという意識が欠落していて、消費の対象にしか見てないから、情報がかたよるのだと思いますよ」

 橋口さんは、偶然に出会ったひとを撮る。撮るのは「誰でもいい」という。その「誰でもいい」というのは、撮る側の重要な意図にもなっている。

 なかには、はきはきしゃべれない少年もいる。人と目をあわせるのが苦手という少女もいる。インタビューは、そんな一人ひとりのテンポにあわせて行われたものだというのが、工夫されたモノローグからも読み取れる。

「一人ひとりのモノローグを読んでいると、胸がつまるし、せつなくなるんですけども、トータルして全体でみると、みんな生きようとしているなという希望みたいなものが伝わってくる。さっきも話しましたけど、ほんとうにみんな生きることを諦めていないですよ。

 だけど、今、社会で起きている悲しい出来事を見たり聞いたりすると、自分は社会や物語から弾かれたと感じて、心が氷結していく人が存在する事実と、このギャップをどうやって埋めていくのか、繋いで行くのか、というのが表現に関わる僕らの仕事だという気がします。アートの存在意義というのかな」

「彼らとの出合いを重ねて行く中で、20年前の17歳の撮影の時と比べて、いまの17歳は、想像以上に、なんらかの挫折を体験している17歳が多いのが驚きでした。社会との折り合いを上手くつけられない現状が有る半面、そんな17歳たちが人生を投げずに生きていることは、ある面、生き方が多様になっているということでもありますよね。たぶん社会の仕組みが現実に追いついていないことでもあるけど、なんか嬉しかったですね、皆が模索している姿にふれられて、でも当事者たちは必至でしょうけど。

 写真集では触れていないことですけど、友達同士でも僕に話したような内容のことを話すかどうか、みんなに尋ねたんですね。『いや、話さない。学校でこんな話をしたら浮くから』という。『浮くとか怖いというのは、みんな思っていることだから、話してごらんよ』『でも、みんな、きもい。学校でうざい存在になるから』『でも、話してごらん』と僕は話してきたんです。

 みんなどこかしら、おびえている。学校で孤立した友達がいかに悲惨な状況か、いやというほど見てきている。そこで、彼らにどこまで伝わったかはわからないけれども、『今でも僕は変わらないけど、僕らの青春の頃は、連帯は求めるけれど、孤立は恐れなかった』と話してあげると、彼らは、なんだこのおじさんという顔をしていたけど(笑)。でもどこか真剣な顔つきでしたよ。

 で、言葉を置き換えて、『つるむけど、一人になることを怖がらないことだよ』。そのために僕はカメラを手にしたんだ、という言い方をしています。でも僕の生き方なんて特別なケースなわけであって、リアルではないですよね」

 写真集のページをめくるごとに、人と目を合わせることがなかなかできないということに悩んでいたり、ぼんやりとひとりでいることが楽で、話すことが苦手という子供たちが多いことに、あらためて驚かされる。

 孤独や将来に対する不安な胸のうちを語る言葉は、とても素直で、そしてみんな、目はしっかりとこちらを見ている。気弱な子も。

 20年前の17歳の撮影時との違いといえば、頻繁にケータイの着信音がすることだ。その都度、橋口さんは、怒った。『ケータイを切りなさい』と。

「僕は『17歳』を角川書店で再版したときには、ただ絶版になっている本を復活させたいからという理由だけではなくて、社会状況に僕自身がとてもいらついていて、何かを発したかったから。僕は、あの本の後書きで、新しい文明を疑うことを伝えたかった。

 人間と人間を、友達と自分を、分断しているものの正体は、僕らが便利だ思って使っている道具ではないのか。便利なものが、人と人の関係を壊している。たとえば待ち合わせをするにも、ケータイ電話が無かった頃は、友達が現れるまで会えるかどうかわからない。でも来ること信じていくわけでしょう。信じることも学ぶし、信頼関係も築ける、人間力は連続性の中で培っていけるわけだから」

── 待つことには、来ないかもしれないという不安はありますよね。

「そこに人間の関係ができるわけですよね。だから、これからの時代は便利なものを使うのはいいけれど、必要なだけの便利を選択して捨てていくことも必要になっていくと思うんです。

 新しく生まれた文明の力を、個人がどこまで採り入れて捨てるか。これからの時代は、個人が今まで以上に判断を迫られることが増えていくと思います。それに耐えられなくなると、人間は全体主義に身を預けてしまうから、今は本当に恐ろしい状況ですよ。その意味においては、今度の本で出会った17歳は一人ひとりが、自分の方法で戦っているのが確認できて良かった」

── 若いだけに、自分のことを利用しようしているのかどうかということについては敏感なセンサーを働かせるでしょうし。そんな少年や少女たちの写真集を見ていて、印象深いのは、みんな目がしっかりしていることです。気力がないとか言われるけれど、そんなことはない。ちゃんと目が生き、こちらを見ている。

「新しく『17歳』を撮ろうと決めたときから始めたことですけれども、『自分の心の中で何回も自分の名前を叫んでほしい、それは写るから』と言うようにしたんです。

 気持ちは写るんです。だから、1、2枚とって、カメラになれたかなと思った頃に、『名前を心の中でつぶやけば表情にでるから』って」

*****
すごいものだ。
本当に、何が変わったのだろう。


鄙の家 音なく人なく 金もなし

鄙の家 車も絶えて 鐘突に

鄙の家は自分の家のこと
年末年始は車道が空いている
年越しの鐘突の順番札をもらおうとして行列に並ぶ

Tuija Hakkila のフォルテピアノMozart: Piano Sonata

Tuija Hakkila のフォルテピアノでMozart: Piano Sonata  K.282
モーツァルトの時代のピアノと言うことでモーツァルト自身はこんな感じの音をひいていたらしい。
残響が少なくてチェンバロに似た音。だけどピアノみたいに太い音。
確かに古い味わいだけれど
私は現代のピアノでいい。


寒空に 鄙の家から 飛び立たん

まだ寒いけれど
家の中で暖かくしていても
やはり体調は悪く風邪をひくのだった
人生が萎縮して行く悪い感覚があり
何とかしなくてはと思うけれど
それができないと今度はイライラしてきたりもする
飛び立つことが必要だ
自分の望む環境を積極的に探して手に入れよう
自分を守ってくれる環境に佇むだけでは
人生は再起動できない

積極的な幸せのビジョン

病気になって損をする人の一つは
積極的な幸せのビジョンを描くことが億劫になることだ

それは明らかな損なので
是非未来の幸福について明確な肯定的なビジョンをもって欲しい
それが一番大切だ

自分自身をどのように教育するか

自分自身をどのように教育するか
方針を決めることが有効だと思う

日本経済の将来構図

要するにお金を稼げる人がたくさん稼いで
税金の仕組みを使ってもいいし
企業内での分配を変えることによってもいいので
うまく働けない人を養うという構図になる

それしかないだろう
金持ちから財産を取り上げればいいと言っている
まあそれが国家権力というものだろう

何もできない人には国家権力といえども何もさせられない

建設業労働者を農業労働者に振り向ける計画で公共投資したらとの意見は
多分正解だと思う
1兆円の投資で50万人程度の雇用が見込まれると言っていた。

また1兆円で介護医療福祉分野に投資して将来の基盤を作る。

社会福祉予算は本来自然増で毎年1兆円増えるところを2200億円増にとどめる政策だったので
それをまず撤廃して、むしろ自然増を上回って手厚くする

日本、アメリカ、ユーロなどがまず環境規制を強くして法律を決めれば
高い技術力が有効になって結局日本の産業保護になる

発電関係、未来型自動車などで規制を強めればかなり有効だろう。
テレビの買い換えを強制したように自動車の買い換えを強制できるはずだ。
そしてそれは環境のためという大義名分があるし、
石油資源からの脱却という大義名分もある。
戦争の関係で石油の供給はまた不安定になるようなのでチャンスである。
発電も脱石油を明確に打ち出して政策として進めれば
ここ数年の内需拡大に役立つ。

国民の金融資産総額として1500兆円とかなりの蓄えがあるのだから
その一部で自動車の買い換えと太陽光発電パネルの設置、
さらには風力発電などのファンドに投資してもらう。

*****
しかしながら、稼げる人からむしり取る構図にすれば、
その人たちは海外に逃げてしまう
どうするか
金の卵を産む鶏を絞め殺していいのか
それについては、医療福祉の分野は海外に出ることはできない、
また先端技術分野のトヨタなどは海外に出たくても中国でトヨタ車は生産できない、
海外移転できる業者はもうすでに移転を完了したとの意見だ

しかしこれも必ずしもそうでもなくて
医療福祉分野でも外国資本の大規模経営主体が増えると
医薬品や医療器具などは多分海外品を使うことになるので
だいぶ様子が違ってくるだろう
それも合理化と言うことはできるのだろう

ハイテク製品にしても実際中国人労働者がそれほど日本人等比較して劣るはずもないだろうと思われる
数年はそうだとしても追いつくのは時間の問題だろう
ハイテク技術にしても特許で囲い込むしか方法はないと思うが
それでも追いつかれない保障はないのだと思う

ハイテクで優位に立つ作戦をとるとして技術開発費が年々増えていくことになるだろう
それはある時点で限界点に達するだろうと思う
アメリカが日本に追いつかれたのと同じ事が多分起こる
インドや中国に追いつかれるだろう
難しい面はあるけれどそれしか道はないのも確かだろう

ソニーは韓国メーカー・サムスンと組んだりしているのだから

農業株式会社は直接土地の権利が関わってくるので難しい面もあるらしい
しかしいずれにしても農業の再生は第一に重要なことだろう
国が税金で投資するよりも株式会社などで投資した方が能率がいいだろう
その場合に土地の権利がどのように評価されるのかという問題があるのではないかとの指摘
農業生産に投資するのではなく土地の権利に投資する人も出てくるだろうとの予測

農協が理想的に機能していれば株式会社よりもずっといいと思うけれど
現状では農協がいろいろな点でのボトル・ネックになってしまっているということのようだ
社会主義がだめというまさにその理由で農協はだめらしい

忙中閑あり (忙中につかんだ閑こそ本当の閑である)

忙中閑あり (忙中につかんだ閑こそ本当の閑である)

実際そうだと思う
退職して無限に時間はあり
時間ができたらあれもこれもやってみたいといっていた人が
実際は何もせずに仕事をしていた頃のことを思い出してばかりいて
アルバイトを続けていたりしている

脳は一人の人間の中でもマルチタスクをこなしているようで
必死に仕事をしている間にも
別の回路が働いて人生について見つめている
そして仕事の合間に書き留める言葉が真実の言葉なのだろうと思う

中国の詩文はどちらかと言えば
ドロップアウト、アウトサイダーの詩文である
敗者復活の場面のようだ
これを敗者と言っては中島敦・山月記に申し訳ないが
一面から見ればそういうことになる

個人的には必死に仕事をしてその結果いいことを思いつくならばいくらでも仕事をしたい

そのくらいのマルチタスクをこなす能力が脳にはあるのだと思っていいのではないかと思う

*****
文学関係について言えば、
表現の力はあっても、何を主張したいのかがない人というものがいるといわれる
たとえば大江健三郎とか村上春樹は専業作家というもので
人生についての切実な体験がどれだけあり
真実訴えたいこと、書き残したいことは何であるかの点で弱いという評価もある
全般に恵まれた幸せな人生だったのだからそれでいいし
そんな人が何を書きたいのかを読んでみるのもいいことだと思うのだけれど
人によってはそれでは物足りないと思うもののようだ
何か書くことが目的になっていないかという反省である

本当に書きたいことをつかむためにも人生を生きることが必要だという
忙中閑ありに通じる

温家宝 問題はまだ秋だということだ

中国温家宝首相は「春は遠くない」と人々を激励した。
「問題は、まだ秋だということです。本当の冬はこれから来る。」
朝日新聞2008-12-31

あけましておめでとうございます2009年

あけましておめでとうございます。2009年。

今年もあまり期待はしない。
むしろ何も期待しない。
絶望の上に計画を立てるべきだ。

*****
均衡財政を考える。
必要な分働いて働いた分は全部使う。
働き過ぎはもはや意味がない。

Calling You BAGDAD CAFE

Holly Cole Trio - Calling You
http://jp.youtube.com/watch?v=BpuE_0MafLI&feature=related

「Calling you」 Jevetta Steele 『BAGDAD CAFE』
http://jp.youtube.com/watch?v=UHkW0Cw5w94

Céline DION - Calling You New Version
http://jp.youtube.com/watch?v=GZ7VuB7K51k&feature=related

Holly Cole は何度も来日しているようで
その話になって「ああ、Calling Youの人」と言ったら
それを言わないで、という具合でやんわりと笑われた。
そんなこともあるCalling You。


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