SSブログ

泉屋博古館(京都)

http://www.sen-oku.or.jp/kyoto/exhibit/index.html 

泉屋博古館(京都)〈せんおくはくこかん〉は
住友コレクションの展示場です。
東京に分館があります。
収蔵品の一部がネットで写真公開されています。

すでに完璧の域に達していると思います。







共通テーマ:日記・雑感

依存中毒嗜癖のストッパー 筋肉とコンピュータ

依存中毒嗜癖についていえば、
楽しいこと、快楽のすべては嗜癖に移行する可能性がある。

人間の進化の過程で古いタイプの快楽には自然のストッパーがある。
筋肉は神経よりも早く疲労する。
性的快楽についても、筋肉が収縮していったんピークを迎えると、
そこでひと区切りつく。
食べることといっても、食料が無限にあったわけではない。昔の環境では
たくさん食べたら多分おなかを壊していたはずだ。

そんなわけで、快楽には自然に限界が設定されていた。
最近の新しい生活様式に伴う快楽は、おおむねすべて、嗜癖に移行する可能性がある。
筋肉活動を伴わない快感の形式は危ないはずだ。

たぶん、ロールプレイイングゲームでは嗜癖がいくらでも起こるが、
Wii Fit では嗜癖は起こりにくい。
Wii music も嗜癖は起こりにくいのではないか。

神経を直接刺激されて、神経だけが興奮して快楽を感じる、こうしたタイプのものが
嗜癖に移行しやすい。
たとえばワーカホリックという場合でも、筋肉労働者はそうなりにくい。
頭で考えているだけの人たちはなりやすい。

ネットというものは脳とネットが直結しているようなもので、
神経が疲れて睡眠を欲するのでなければ、
やはり休憩を入れにくいし、
基本的に興奮が持続するから嗜癖になりやすい。

人間の体で、筋肉が嗜癖のストッパーであったように、
コンピュータという「筋肉の代理」にも疲労のインデックスを付けて、
一定時間一定出力で活動したら
休むようにしてもらえばずいぶん違うと思うのだが、
休まないコンピュータに改造するサイトが流行するのだろうか。



共通テーマ:日記・雑感

佐々田雅子 ハードボイルド

8丁目で聞きかじりをしたところでは
ハードボイルドの翻訳では佐々田雅子さんという人が評価が高いらしい。
その人は小鷹信光も評価していた。

そもそもハードボイルドとは
客観的でビデオカメラみたいな描写を積みかさねる手法で、
心理説明などしない。

ヘミングウェイから始まって、チャンドラーとかカポーティが有名である。

いろいろ言っていたがあまり覚えていない。
Wikiで調べたらだいたい同じ事を書いてある。

私なりの理解では、
「彼は決心した」と書かないで、「彼は樅の木を見上げた」と書く流儀である。
映像化には向いているのだろう。

簡単に落ち込んだり、簡単に驚いたりしない。

私にとって一番分かりやすいのは
ハンフリー・ボガードのカサブランカである。
新宿鮫と濱マイクもテレビで見たが、
濱マイクはマイク・ハマーのもじりだけあって、
ハードボイルドになりきれず主題歌が妙に記憶に残っている。
くちばしにチェリー。

ハードボイルドは固ゆで卵だけれど、
たしかに固ゆで卵はつらそうだ。
弱くなれよと言ってあげたい気もする。

*****
「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」
というタイトルだけで
もうすっかり固ゆで。

私はミステリーは読まない方で、
ずっと昔の正月に、ミステリー好きの人に勧められて、
入門編はアガサ・クリスティーと横溝正史だとの指導を受け入れ、一冊ずつ読んだ記憶がある。
横溝は確かに映画よりも小説がおもしろかったような気がする。
でもこれは推理小説とかミステリーだからハードボイルドとは別。

谷川俊太郎が推理小説について書いている

*****
現代に生きる我々が推理小説に求めるものは、
平和、静けさ、単純さ。
テレビドラマの水戸黄門と同じである。
すべては説明され、すべては理詰めである。

現実は混沌としていて、死の意味すら与えられていないのに、
推理小説の中には、美しく構成された、論理的な、完結した世界がある。
死には明確な意味が与えられている。
推理小説の中では、無意味に死ぬ者はいない。
その大いなる安心感。

*****
無意味な死はない理詰めの世界。

ひょっとしたら、現代人は精神病になるのは理由があると思っているのかもしれない。

無意味な精神病
は耐え難いですか。

これは非常にハードボイルドかもしれない。
自分の理性が失われてゆく恐怖。
途切れ途切れに理性が戻る、その気まずさ。

拷問ならば意味があるが、
苦しみがあっても意味がないのである。

*****
海外名作文学の新訳相次ぐ
 海外の名作文学の新訳を出版する動きが相次いでいる。新潮社は今月末、米国の作家カポーティの小説『冷血』を手始めに、10月にセルバンテス『ドン・キホーテ』、11月にナボコフ『ロリータ』を連続刊行。岩波文庫もモーム『月と六ペンス』の新訳を7月に出すなど、積極的な取り組みが目立つ。

 新潮社の3作は、単行本として出した後、適当な時期に文庫版も訳を切り替える。「訳を新しくすると、今までと違う読者が生まれる。出版社の使命感のようなものもある」と語る。

 一方、岩波文庫は数年前から文庫の年間販売部数を調べ、需要が大きい物について新訳を出すか検討している。2000年以降、チェーホフ『ワーニャおじさん』や、モーパッサン『脂肪のかたまり』など計19冊を出版した。「すぐ売れ行きに影響が出る訳ではないが、長いスパンで効果を考えたい」という。

 新潮社から出た『冷血』は、米中西部の農村で大農場を営む一家4人が殺害された事件を、綿密に取材したノンフィクション・ノベルだ。警察と犯人の取り調べ中のやり取り、死刑執行まで再現した内容は圧倒的な迫力がある。犯罪小説などの翻訳で定評がある佐々田雅子氏が担当した。

 〈ペリーがやったんです。わたしには止められなかった。やつが全部殺したんです〉(龍口直太郎の旧訳)

 〈やったのはペリーだ。おれには止められなかった。やつがみんな殺したんだ〉(佐々田雅子の新訳)

 新旧の訳を比べると、殺人を犯した2人組の1人が自白する場面を例にとっても口調がかなり異なる。佐々田氏は「殺人犯2人の関係性を考えて、会話で自分を呼ぶとき『おれ』『お前』など、どの人称がふさわしいか考えた。文章も読みやすくするため区切った」と語る。1967年の旧訳より全般的に文章が現代的でこなれていて読みやすい。

 名作の新訳を出すのは、簡単ではない。出版社は投資が必要になる。「今回は少なかったが、自分と前の訳文が重なった時どうしようか考えた」(佐々田氏)と語る通り、新しい訳者は先人と常に比較される。文学作品の翻訳は手間がかかるのにハウツー本などに比べて部数が少なく、訳者の収入が低くなりがちという翻訳界全般の問題もある。

 日本人が海外文学を読み継ぐには、古びた翻訳を更新することが欠かせない。地道な努力を積み重ねる人々の仕事は、もっと脚光を浴びていい。(待田晋哉)

(2005年9月29日  読売新聞)
 



共通テーマ:日記・雑感

ピンチで力が出る原理

カロリー制限で中高年の記憶力向上

【ワシントン=増満浩志】健康な中高年が摂取カロリーを制限すると、記憶力が向上するという実験結果を、独ミュンスター大学の研究チームが26日、米科学アカデミー紀要電子版に発表した。

やせ過ぎていない50~79歳の男女49人を3グループに分け、19人にはカロリー摂取量をふだんより30%減らしてもらった。別の20人は認知症の予防に役立つという説のある不飽和脂肪酸の摂取をふだんより20%増量し、残る10人は従来の食生活を続けた。

実験前と3か月後に言葉を覚えるテストを行った結果、カロリーを抑えた19人の点数は約20%も上昇。他の2グループは成績に変化が見られなかった。カロリー制限によって、体内の血糖値を調整するインスリンが効きやすくなった人ほど、成績の伸びが著しかった。

(記事提供:読売新聞)

*****
こんなレポートはいつもネタになっていて、
人間の他にいろいろな動物でカロリー制限が長寿になったり
生殖率が上昇したり
作業能率が上昇したりなどあって、
理屈としても危機反応で分かりやすい。

企業が、業績を上げるために、職員を危機状態に置くことの理由にされなければいいがと思っている。



共通テーマ:日記・雑感

グリーン、ホワイト、ブルー、グレイ

ホワイトカラー、ブルーカラーに対比させて、
グリーンカラーという言葉がある。
単なる言葉の綾、レトリックでしかないけれど、
新しい響きではある。

環境・エネルギー関係の未来型産業について、
政府主導で誘導すればいいというのだが、どうだろうか。

現状で石油100円のところ、太陽エネルギー1万円として、
政府が補助を9900円出せば釣り合うことになる。
9950円の補助が出るなら新エネルギーを選択することになる。

しかしこのタイプの誘導は行政単位にとどまる。
政策転換があると無駄になる。
国際競争力を維持できるかといわれると難しい。

規制も補助もグローバルな場合に意味がある。

本質的には新技術に投資して太陽エネルギーが100円で手に入るところまで技術開発を続ければ
あとは問題ない。
補助で下駄を履かせているわけではないので本質的な変革である。

それができるのか、怪しい。
それができなければ、人類の未来はないといわれるけれど、それも、怪しい。

軍事はグレイカラーと言ってもいいのかもしれない。
結局それが経済を調整するには役立つらしい。

共通テーマ:日記・雑感

真理絶対主義と真理相対主義

真理絶対主義と真理相対主義

真理というのは人間がどう考えても考えなくても元々そのようにあって今もそのようにあってこれからもそのようであり続けるもの

人間の知性はそれにだんだん近づいていけるとするのが
真理絶対主義

人間の知性は真理には近づけないだろう
むしろ個々の文化の枠組みの中で、しかもそれぞれの発達段階の中で、
相対的にのみ真理であるというのが
相対主義

たとえば哲学科の先生も倫理学科の先生も
肺炎になると抗生剤の点滴を受けて
高血圧には降圧剤を飲み
そのようにして生きていながら
なんとなく科学に冷たいのはなぜなのか不思議である

科学というのは真理絶対主義
先日のノーベル賞でも理論屋と実験屋がいて
理論屋が理論を組み立てて実験屋がそれを実際に実験で検証して
それが確認されてからノーベル賞が与えられる
何が科学的理論に適格であるか、それが真実であることを確認するにはどのような手続きがあればよいかについては一応の了解事項があり
それに則って真実が積み上げられる
たまに間違うこともあるがそれにも理解できる理由があるのであって
人間は自分たちの理性を信じていいと感じられている(やや楽観的に)

科学は日々絶対主義の体系を築きつつある

その典型は大きなものでは天体力学とか小さなものでは素粒子論とかになるのだが
規模が桁外れになると人間の常識がなかなか通用しないので直感とは、ずれた感じになる
人間の直感がちょうどうまく当てはまるのがニュートン力学であり、
偉大な成功であり、なにしろ微分法という数学上の魔法のような操作が
現実世界の秘密と関係していたのであるから
もう興奮してしまう

わたしはこの興奮を高校生くらいを対象にして何度でも教え歩きたい気分である

実験できる領域では、いろいろな意見が出たところで、
考えを整理して、実験でこのような結果が出たらどれが正しいだろうというようなことになる

実験できない領域については
理論ということで留保がついている

最近の遺伝子研究のようなことは
いずれ誰かが見つけるにきまっているはずのものを
先陣争いをしているだけで特に知的な興奮はない

ただ特許の関係があるのでお金があるうちに特許を取ってしまおうとしているだけだ
先行者利益の確保である

真理絶対主義でいうと
先進文明と後進文明は絶対的真理への近さによって測定されることになる
そして時間がたてば理性を備えている限り
必ず絶対真理に近づくという考え方になる

物理学はそのような営みであって、
最終的には神なしで全世界をすべて説明したいと願っている

しかし神学の側では、物理学がすべてを説明したとしても、
神がそのような物理学を用意したのだといって、
神を物理学の上位に置く世界観を提示できるので
何も困らない
むしろ物理学がすべてを説明した時点で神学とほぼ対等に話ができるといった程度である。

ニュートンに代表されるような物理学的世界観の影響力は大きかった。
当然自由意志の存在は疑問が持たれ、
ひいては安易に無神論が言われたりした。
しかしもちろん実験的な裏付けがあるわけではなく、
無神論を言うに当たってもまだまだ神学的領域である。
無神論を神学的に言ったのでは説得性はない。

真理絶対主義では暗黙の内にヨーロッパ文明が先頭であることが前提とされ
キリスト教が先頭であることが前提とされるようだ

アメリカが民主主義と自由を普遍的真理だから全世界に広めるなどと公言しているのもこの流れである

プラトンのイデア論とか遠く離れてドイツ観念論なども、
人間の外に客観的絶対的真理があり、
人間はそれをどのように知ることができるか、どのようになったとき知ったと確信できるかなどについて議論された。
読んでも余りよく分からない議論は、結局できの悪い議論なのだと考えて差し支えない。
超越論的直感などというのであるが、結局、理性はそれが真実であることが「超越的直感によって分かる」というのであって、まともな議論ではない。
相手にしなくていいし、最近は誰も話題にしない。

そんな議論が分からなくてもよく生きられるし、
せっせと働いた方が幸せになれるからだ。

現実に医学が世界の貧しい子どもたちの命を救っていることは大切だと思う。
哲学も大切だとは思うが。

わたしの考えは真理絶対主義で人間は間違いながらも真実にだんだん近づいているのだろうと思う。

宗教などどちらが正しいのかという議論になる。頭のいい人たちは、宗教的真理相対主義をとっていて、富士山に登るのはどちらの口から上っても、頂上は一つだろうと説得する。
各宗教は、登り方が違えばそれは違うことなのであって、頂上が同じだからいいというものではないという。それはそうだ。
たとえば、悪の道を究めて善を悟る方法があるとして、それがいいこととも思わない。プロセスが悪い。

では各宗派で優劣を決めようという話にもなり、
昔空海が仏教とその頃の各流派を比較して論じた比較宗教学の始まりのようなものがある。

それは実験で決められないので、決着はつかないが、説明する理論はあって、マルクスにさかのぼる。
マルクスは、人間の考えというものは、人間が実際に存在する諸条件によって違うものなのだといい、それを下部構造が上部構造を規定するといった。

風土を書いた和辻哲郎とか風土がどのように人間の精神に影響しているかということで、一種の、下部構造を通して上部構造を理解する試みであると言える。

たとえばもキリスト教内部でも、ユダヤ教、原始キリスト教、カトリック、そしてその内部の変遷、異端派との戦い、プロテスタント、新宗教、等々、時代によってあらゆる動きがあった。
これをただ次第に進歩しているととらえれば新しいものほど真理に近いことになりそれは暴論に違いない。
「なぜそれらの宗教が起こり、廃れたか」を説明することができるので、それは、人間の暮らしがどのような条件にあったかを考えればいいというのである。マルクスは生産関係というような言葉を使うのだと思うが、人間がすぐ死んで祈るしかなかった時代、食べ物もなかった時代、食べ物はあったが殺し合う時代、伝染病が蔓延した時代、鉄器が成立、食料の保存、農耕の開始、貨幣経済の開始、奴隷制の開始、税金の仕組みの開始と変遷、荘園の成立、そのような下部構造の変化と精神構造の変化を関連づけて、主に下部構造の変化に応じて上部構造は変わるものなのだというのが史的唯物論なのだと、史的唯物論のきわめて一面を切り取ってもいいだろうと思う。
批判されているのは、そうだとすれば、生産関係というものは、第一次産業革命など、画期的な構造変化を遂げているわけで、精神構造はその後を追って変化するしかなく、実に無力で自律性のないものといわざるを得ないことになる。そして実際そのようだということになる。

アメリカがグローバルスタンダードだとか他人を高飛車にテロリストだと指定したりするのは、こういった視点が根底にある。あるいは、こういった視点を暗黙の内に利用している。

*****
こうした一連の大きな流れに逆らって出てきたのが相対主義的な考察である。
構造主義の人たちなどは世界の人々のいろいろな生活を調べると、単に発展段階としてくくるには無理なほどの、膨大な細部があるのであって、ヨーロッパ近代理性主義と拮抗して存在するに足るだけの中身があるのだと主張して、それは説得力もあり、何より、偉そうにしていたエスタブリッシュメントたちをやり込めるのに利用された。
簡単に言えば田舎の人たちに喜ばれた。ヨーロッパ近代理性主義は何しろ極端に自分中心主義なので、たとえば黄色人種が何か言っていても、オリエンタリズムであり、理性の範囲外の神秘主義なのであった。時間がたてば西欧に追いつくだろうと思われていただけだ。それが、ヨーロッパ近代理性主義に対してのプロテスタントとして、構造主義的な論調は利用され、日本人などもややそれの方が都合が良かったと見える。
もちろん、中央アカデミック論壇は良き伝統を続けていて、特に動じることもなく、それらの田舎ものの珍しがりを眺めているのだ。
地方がいいとか縄文時代がいいとか、田舎ものは酔っぱらっていうものである。中央穏健派は特に反対もせずにいわせておく感じだ。

これは簡単に言うと、世界観に優劣はなく、それぞれ独自でまとまりがあるものであって、それぞれにいいというものだ。たしかにうちのおばあちゃんは、あまり勉強をしなかったが、自分の世界観を整合的に過不足なくまとめ上げていた。なぜ生きてなぜ死んで死んだらどこに行くのかはっきり納得していた。むしろ我々の方が何も知らないのである。

ある特色ある原始的文明が、外部の文明と接触してどのように変化するのかも詳細に報告されている。おもに富の分配と性の統制が軸になっている。輸入品と女性を交換したりしてびっくりしている。

比喩的に言えば、文化は、球の表面を任意に分割する行為であり、どのように分割しても、あまり変わらないだろうというものである。

もう一歩比喩を進めると、事柄を脳のどの部分で処理するかは、文化によって任意であり、脳の処理能力がさして変わらない以上、機能をどのように分割してもさして代わり映えしないことになる。
ある方面で細かく考えている人たちは、別の方面では簡単に済ましておくしかない。脳の情報処理能力には限度があるから。



共通テーマ:日記・雑感

親からもらったもの

親から不動産や株をもらって裕福に生きている人たちがいます。
嫉妬されますから、そんな人たちはあまり大きな声で言わない。
でも、私など、自分で稼ぐしかない人間にとって見れば、
夢のようなご身分である。
もちろん、中には可哀想な人もいる。
知恵にふさわしくない財産をもっていると、悪い人が寄ってくる。
そしてあっという間に不幸なことになる。
財産を失うだけならやり直しもできるが、
配偶者を失い、結局のところ健康を害した人もある。

ある弁護士さんはとても優秀、かつ、勤勉。
人柄も温厚、謙遜。言うことはない。
ここで考える。これはその人の苦労の賜物なのだろうか、
それとも、親からもらった物なのだろうか。
多分、親からもらった知性と感情が、現実の人生の中で鍛えられて、
こうなったには違いない。
これだって、不動産を相続したのと同じようなものだ。
あるいは、どうせ相続するなら、
知能と人柄の方がいいと誰でも考えるだろうか。

その人は、苦しんで自分を律して、その結果立派というのでもない。
ただ自然にその人らしくしていて、周囲の尊敬を集めている。
そんな人だ。

志を立てたとしても、誰でもそうなれるはずもない。
その人はやはり恵まれているのだ。
恵まれた人は自然と円満に幸せになる、ように思える。

だとすれば、結局、人生は途方もなく不平等だということになる。
こんなことでいいのだろうか。
これは私のひがみなのだろうか。

昔から哲学者は、すべてのことは帳尻が合うようにできているのだと説明する。
宗教者はなおさらだ。
そして現世で償いがつかないことについては、
あの世で神様が調整するのだとも言う。
そうであったらいいですな。是非。

共通テーマ:日記・雑感

恵まれていることを頑張ったに置きかえちゃうと

頑張った、頑張らないもそれは重要だからモラルハザードは起こさないようにしなければいけないんですけど、恵まれている人が、恵まれていることを頑張ったに置きかえちゃうと非常に危険だと思うんですね。

たまたま自分はいろんな意味で運がよかったからいい思いをしてるのを、自分が頑張ったからだと勘違いすると、非常に冷たい社会になる。



共通テーマ:日記・雑感

睡眠不足で肥満と糖尿

睡眠が5時間未満だと肥満リスクが高く、
寝不足でも寝過ぎでも糖尿病になりやすい。

睡眠時間が5時間未満だった人は5時間以上だった人よりも肥満発症リスクが1.36倍に、
高血糖発症のリスクが1.27倍に高まった。
肥満の人は睡眠時間が短くなりやすかった。

別のデータの分析では、
睡眠が6時間未満か8時間以上の場合、7―8時間睡眠の人より高血糖のリスクが最大4.96倍で、
女性では睡眠時間が短すぎても長すぎでも高脂血症になりやすかった。

*****
5時間を切ると、健康に本当に悪いらしい。

起きている時間が長いと、多分、あまり動き回ることはできず、
つまみ食いとかして、太る。
寝ないということ自体がストレスだから、
対抗しようとして、何か食べる。

精神病院に入院して、
いっそのことずっと寝ていれば、一時的にはやせることが知られている。
病院食のカロリーでは、
寝ているだけでもやせるということだろう。

今回は、寝すぎても、糖尿病、高脂血症のリスクが高まるとしている。
これは、入院しているわけではないので、
睡眠時間が長くても、日中はよく食べていて、
寝る分だけ、カロリー消費が少なくなるのだろう。

寝すぎてもだめ、寝不足でもだめというのは、
常識に合った結論で、受け入れやすい。
寝すぎだとカロリー消費が落ちて、
寝不足だとカロリー摂取が増えるらしい。

最近のサラリーマンさんは5時間は少ないが、6時間は多い。
7時間だと、ゆっくり寝ているほうだと思う。

*****
用があってコンビニに行ったのだが、ついでに一回りして、
私の欲しいものは何もないことに驚く。
みんなが欲しいものの最大公約数のはずなのに。



共通テーマ:日記・雑感

耕し続ける 心も畑も

懸命に努力を続けない限りは
現状を維持することができず
ただ生きるためにも必死の努力が必要だった

それが人間の現実だった

物語文学にしても歌日記にしてもさらに軍記物にしても
ただ生きるための必死の努力とは
別の戯れ言が描かれていて
宮廷のお姫様の暇つぶしに使われたものだろう

現代はたぶん昔の宮廷のお姫様と同じくらい
退屈な日常なのだ

技術は圧倒的に進歩しているのに
コンテンツはずっと変わらない

これが人間の限界なのだろうと思う

こんなにもすばらしい技術があっても
報道されるのはくだらない詐欺事件なのだ

音楽教育は進歩した
すばらしい演奏家がいくらもいる
NHKの演歌の番組でバックでバイオリンを弾いている
これもおかしなことと思う

xx (127).jpgxx (128).jpg

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。