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何を治療しているのか 統合失調の場合

たとえばの話、
右足を骨折して、
それをかばって左足に力が入って疲労して
筋肉が固くなってしまったという場合、
とりあえずは、左足の筋肉をゆるめればいいわけだけれど、
そうなるとその人はほとんど歩けないことになってしまう。

歩けないけれど、
痛みはなくなる。

それもとりあえずの治療だろうか。

統合失調症の場合に、
そんな問題が起こる。

ドーパミン過剰があって、幻聴とか妄想とかが起こると伝統的にいわれているのだけれど、
(幻覚と妄想をこのように同列に並べるのはなんだかセンスのないことのように私には思えるのだが)
それならばドーパミン遮断薬が効くだろうということで、
結果としては効くのだけれど、
陰性症状が前面に出て、意欲も起こらずという状態になる。
(陰性症状、陽性症状という分類もとても問題な分類のように私には思える)

右足が動かないのは陰性症状で、
それをかばうために左足が疲れてしまうのが陽性症状だとすると、
陽性症状を抑えていると
結局動けなくなってしまうはずだろう。
それでいいはずはない。

というわけで最近はこのあたりに大きな進歩があり、
右足の骨折は治し、左足の筋肉痛は、これも治すという、便利なうたい文句で、
なんだか都合がよすぎるのだった。

そもそもの右足の骨折を治すのが一番の仕事であるはず。
それがまだ謎なのである。

統合失調症の場合、謎のプロセスXがまずあって(これは多分遺伝子レベルの問題)、
それがプロセスYが起こることで症状として現実化し(これは多分環境因子、またはライフイベント因子)、統合失調症が成立する。
このとき、生体は反応としてドーパミン過剰状態となるので、ドーパミン遮断薬を使う。
するとドーパミンレセプターは増えてしまい、ますますドーパミンに対する過敏性が準備されることになる。
そこでますますドーパミン遮断薬が必要になる。ますます過敏性が準備され、以下、悪循環が続く。

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統合失調症のニューロン新生障害仮説について-1

統合失調症のニューロン新生障害仮説について
大隅典子氏の論文があるので読んでみる。

2004年「実験医学」11月号。

●はじめに
●統合失調症、自閉症、気分障害などの機能性精神疾患は
ストレスの多い現代社会において増加傾向にある。

○機能性精神疾患という言い方は微妙。
症状を呈しているということは機能に異常があるということなのだし、
機能に異常があるということは、それを裏打ちしている解剖学的、形態学的異常が必ずあるというのが、
共通認識である。
だから、機能性異常というのは、
「一見したところの形態学的な異常は見られない」という程度の意味である。
詳細に調べれば、機能異常に対応する形態異常が必ずあるはずである。

○この、機能と形態の対応は、生理学と解剖学の関係である。

○ストレスの多い現代社会という。本当にそうなのだろうか。
少しでも楽な、快適な社会を作ろうとして努力してきたはずで、
さしあたっての感染症、栄養不良、治安の悪さなどで命を落とすことは少なくなった。
そういった意味でのストレスからは解放されつつあると思う。

しかしそうでない意味でのストレスはじわじわと人々を苦しめているということになる。
でもやはり、現代社会でなければストレスは少なかったとは言えないだろうと思う。
現代社会特有のストレスは何かを特定して問題にすべきなのだと思う。

●なかでも統合失調症は発症率が比較的高く(生涯発症率として約1%)、
重篤な精神症状を呈し、長期間にわたり入退院を繰り返すケースが多いため、
精神科入院患者のかなりの部分を占めることになり、大きな社会問題となっている。

○重篤な精神症状とはいうものの最近は軽症化がいわれている。
理由は不明。

○生涯発症率1パーセント、地域差もあまりない、といわれる。
歴史上どうだったかは興味があるところ。
たとえば幻聴があってもそれは神のお告げであったり、
テレパシーであったり、動物の話が分かったりと解釈されていたのかもしれない。
古いもの語りではネガティブな記述としてみられるものは少ないと思う。
「たまに特別な人がいるものだ」と言う程度の認識ではないか。
はっきり病気として認識されたのはやはり産業革命とかそのあたりの動きと連動しているらしい
とは議論されている。
妄想産生というプロダクティブな面をとらえれば、
現代でもやはりいろいろに適応的な面も考えられると思う。

○長期間にわたり入退院を繰り返すというのも現在では正しいとも言えないだろう。
薬物療法が進歩している。

○精神科入院のかなりの部分を占めるので、
デイケアとかグループホームなどで地域医療に変化させたいわけだ。
しかし最近の問題は患者さんたちの高齢化で、身よりもなく、生活力もなく、
しかも身体疾患の合併が多くみられる。
病院内適応状態が続く。
しかしその様子を見ていて、病気のせいではなくて、人間はそのようなものなのだろうとも思う。

●これまでに多くの臨床研究から、統合失調症発症には、
遺伝的素因と環境的要因の両方が関わることが明らかにされてきている。

○ストレス脆弱性仮説といったもの。
もともと骨の弱い人が重い荷物を持ったら骨が折れたとか、そんな感じ。
two-hits-theoryなどもおもしろい。

●例えば遺伝学的な連鎖解析から多くの候補遺伝子が指摘されている。
臨床データとノックアウトマウスにおける結果が一致しているのは、
ニューレグリン、カルシニューリン、そのた少数のみである。

○どの部分かの遺伝子変化がまずあって、
その上で、何かのイベントが起こったときに症状が成立するのではないかと自然に考えられるが、
そして統合失調症というものがいろいろな原因で起こる不具合の集合体だとすれば、
複数の遺伝・環境の組み合わせがあって良いはずである。
そして、少なくとも、ひとつくらい、この遺伝子変化があって、
この生活史上のイベントが起こったときに、
統合失調症のひとつのタイプのものが起こると確定的に言えるようだとそれは大きな突破口になる。
しかしそれもまだ難しい。

●一卵性双生児における同胞罹患率は50パーセント前後であり、
遺伝的背景が同じであっても、統合失調症を発症しないケースが多くあるということは、
明らかに、統合失調症の発症には環境要因の影響があることを意味している。

○それはそうだ。
最近では(実は昔から)一卵性双生児研究は蓄積があり、
統合失調症家系と双極性障害家系とのクロスがみられたりして、
最近のように統合失調症の薬をうつ病に積極的に使う流れのひとつの淵源となっている。

病気の分類自体に問い直しが迫られていて、
次回のバージョンであるDSM-Vではずいぶん違う世界になるかもしれないとも言われている。

●胎生後期におけるウィルス感染、分娩時の障害、低栄養などがその原因としてあげられている。

○妊娠中にインフルエンザに感染しなかったかとかを執念深く調べている。
メカニズムは不明だけれど、とにかく統計的な有意が出るかどうか。

そのほかには、妊婦の摂取したアルコール、たばこ、その他薬剤。
また妊婦がさらされたストレス。

○分娩時の障害は、たとえば低酸素状態がどの程度の時間続いたかとか、そのようなデータ。

○低栄養は最近では何も食べ物がないということもないのだけれど、
たとえば妊婦が糖尿病だったとか、そのあたりから何か手がかりがないかとか。

○妊娠中のインフルエンザ感染は、
ひょっとしたら子どもの糖尿病の発症に関係していないかとかデータがとられている。

○気道系のウィルス感染ならば冬の方が感染しやすい。
そこで、患者さんの生まれ月と症状をクロスさせて統計的に検討したりもする。
夏だったら蚊に刺されやすいだろうとか。

●遺伝的要因は多因子である可能性が高い。

○だからなおさら研究は難しい。


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統合失調症のニューロン新生障害仮説について-2

●最近、成体の脳でも新しくニューロンが産生されることが明らかになり、
その分子機構や認知、記憶などの脳の高次機能への影響、さらに気分障害との関連について研究が盛んになっている。

○脳ではシナプスの新形成や消滅は起こり、それが学習であると考えられてきた。
しかし、新しい神経細胞の産生については否定的で、
だから、脳血管障害などで脳神経が損傷された場合に、
再生は絶望的とみられることが多かった。
それが、特定部位に限ることではあるが、脳でも新しく神経細胞が産生されていると分かり、
これが統合失調症研究の手がかりとならないかということになっている。
この点はかなり画期的だ。

●われわれは数年前から統合失調症様の行動異常を示すラット変異体の解析を行うとともに、
脳の生後発達におけるニューロン新生の様態の解析を行ってきた。
その過程で、統合失調症発症の素地としてニューロン新生の障害があると考えるに足る証拠が多数散見されることに気付いた。

○というわけで、本論に突入する。

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シャガール 続き

シャガールは重力からも、遠近法からも、色彩法則からも、時間の制限からも、
自由であるようだ。
つまり時間と空間の物理法則から自由だ。

一方、イメージと概念の連関については、
新しい結合を促しているようである。

夢を見ている時間は、体験している時間の主観的な長さに比較して、
短いような気がする。

 

 



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あるがままに

森田療法の標語

●症状をあるがままに
●常に何かをする生活
●形を正す
●気分本位をやめる
●愚痴を言わぬ
●病気の中に逃げ込まない
●完全欲にとらわれない
●自信をもとうとしない

*****
昔の人は
やっぱりすごい

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食事の経験

食事というものは、どこまで贅沢をしてもきりがない。

自分で食事の支度をするようになれば、
手間暇の限界も悟る。
文句をつけていても食事が急においしくなるはずもない。
経済的な限界もある。
次第に何も考えずに食べるようになる。
不思議なことに自分の作った食事ならば、
まずくても食べているのだ。
なぜまずいのか自分で理解しているからだろうと思う。
理解していれば、まずくても、食べられる。
多分、そうだ。

食事に対する欲望も衰えつつあるのかもしれない。
一応食べられれば、それでいい。
売られている総菜は一般に塩が多い。
それでも、食べられないわけではない。
白米を多く食べればいいのだ。
米の水分で塩分も薄まるだろう。
最近は玄米などを混ぜて炊いている。
総菜の
味が薄ければ、それはそれでいい。
塩は少ない方がいいからだ。

わたしはそばを茹でて食べる時、
めんつゆは使わない。
そばそのものに塩味がある。
そうめんも、うどんも同じ。
乾くのがいやだったら、
茹でたお湯を少しだけとっておけばいい。
慣れれば、麺自体の塩分が味わえるし、
何より、粉の味がする。

外食や総菜が塩分過剰なのは、
何より、素材の臭みを消すためだろう。
素材がよければ、無駄な味付けはしなくていい。

わたしは豆腐には何の味付けもしないで、冷や奴のままで食べる。
醤油はどれもしょっぱすぎる。
高い醤油ほど、おおむねしょっぱい。あるいは、味がしすぎる。
うすくち醤油も、味が薄いわけではない。
減塩醤油も違いは分からない。
豆腐に何かかけたい気分の時は、だしつゆを使う。
ない場合には、一番安い醤油がいい。
牛丼屋で使っている醤油である。
これは厳密に言えば、醤油ではない、何かの味かもしれない。

白米も、玄米も、そのままで、何の総菜もなく、食べられる。
例えば錦松梅はしょっぱすぎる。

パスタを茹でる時に、塩を入れるのは、自分では塩加減がうまく行かないので、いっそのことと思い、廃止してしまった。
いまは塩を入れないで茹でる。それでいい。
大して違いはないし、味は安定している。慣れてしまえば簡単な方がいい。

そんなことを言いながら、
わたしは、スーパーでは、タイムサービスの赤札ものしか買わない。
賞味期限が切れても、一週間くらいは平気だ。
だから、本当に新鮮なものは食べていないかもしれない。
調理済みのものは、
本当に怪しいことに、冷蔵庫に入れておけば、かなりもつ。

同じ味が続くことにも苦痛はない。
最近は何を買っても、パックだから、何回かに分けて食べなければならない。
たとえばプリンとかを食べ続ける。
たとえばエビチリソースとか、酢豚を何回かに分けて食べる。
一人分を買うのは経済的ではないし、赤札で買うから、
なるべく早く食べた方がいい。
そんなわけで、何度か同じ食事が続く。
しかしそれでも、一ヶ月くらいトータルで考えれば、同じことだ。

冷蔵庫の中のものが完全に把握できないのは困ったことだ。
よく見ると見覚えのないもの、見覚えの薄いものが、冷蔵庫の奥にある。
先日は笹かまぼこが見つかった。
おそるおそる食べてみたら、特に問題はなかった。
新聞でノロウイルスの危険が言われていることでもあり、
気をつけなければならない。

人間は自分の作ったものならまずくても食べる。
それが私の発見した定理である。

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