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NHKドラマ 「お買い物」

NHKドラマ 「お買い物」
久米明、渡辺美佐子、市川実日子他。

なかなか味わいがあっておもしろかった。
脚本がいいと役者も生きるということか。

渡辺美佐子さんは最近なんだか老けた役が多い印象がある。
市川さんは最近の若者らしさ演じている。
ぶっきらぼうで短い言葉で祖父母を批評するが、最終的には暖かい。
地味、変質者などと批評する。

久米さんはちょっと物忘れがある事を演じている。
よくこんなセリフを覚えられるものだと思う。

寝るときに脚の間に布団を挟んでいないと悪い夢を見るという変なおじいさんで
このエピソードはおもしろかった。
出会った事はないけれど
いそうだと思う。

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もうろう大臣 珍道中

もうろう大臣は例の記者会見のあと
かねて楽しみにしていたバチカンに出かけ
ラオコーンでは柵を越えて台座に触り
禁止区域では足を踏み入れて警報を鳴らしてしまうなど
珍道中だった様子。

あの会見の15分後にしょんぼりなんかしないで
出かけるというところが実に興味深い。


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煮込みスパゲッティ

聞いた話では、
スパゲッティをゆでるときに、
ソースと別々に作らないで、
煮込みうどんみたいにして、
トマトソースやホワイトソースのスパゲッティを作ってしまえば、
いい味も出て、とろみも少しついて、ソースの絡みもいいし、
鍋はひとつでいいし、バターも使わなくていいので、
簡単でいいのだそうだ。
オレンジページとかそんな系の料理雑誌で紹介されていたという。

なるほどそうかもしれない。
横着は発明の母だ。

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毒をもって毒を制する

毒をもって毒を制する
原理があり、
古く西洋ではホメオパチーと言う。
同毒療法。
一般にはよく理解されないし、
患者さんによっては、
わたしはめまいがするのだから、めまいを止める薬を出して欲しいのだと
素直に考えている。
それは素直でいいのだが、
わざとめまいをひきおこす物質を少量使うことで、
めまいを止めるという不思議な技もあり、
しかし高度ではあり、いまどきの患者さんは「自分で理解したい」ので、
「理解しがたい技」はなかなか使えない。
全部任せてもらえれば、
いろいろとできるのだけれど、そんな時代でもないようだ。
むしろ、標準検査による疾患の確定、その後は学会標準治療による対応、
それが求められているようで、医者の腕も、標準が求められているだけのようだ。
そもそも保健医療では、標準的治療しかないのだ。
スーパーでも、青山や高輪や広尾のスーパーは高いのだけれど、
お医者さんは青山でも銀座でも値段が同じである。
それならば、土地が安い地方で経営した方がいいに決まっているのだ。
地方のお医者さんはみんなお金持ちではないか。

毒をもって毒を制する
の話に戻ると、
ある学会で、激しい「毒」をはく先生がいて、その日も盛んに吐いていた。
みんな気絶しそうになっていたのだが、
そこに、さらに「猛毒」の先生が登場して、
どうなることかと思ったところ、
不思議におだやかに収まったのだ。
先輩が言うには、これこそ「毒をもって毒を制する」であり、
「あのくらいの猛毒でないと無理だった」とのことだった。
同毒療法は生きている。

「毒食わば皿まで」というのもあり、考えると深い。

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幾人もの尊い心

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それでもおな耐えろという
なおも復讐をとどまれという

たぶん私ひとりならばとどまることはできなかったに違いない
しかし幸いにも私を理解し共に苦しむ人々がいる

大げさな言葉を使うならこれが奇跡なのだと思う

自分のことではないのに
苦しんでくれるこの現象を
どう理解したらいいのだろう

苦しみなどは考えてみればただそれだけのものだ
極端な話、忘れやすい心には何ほども残らない
ある施設では苦しみの果てに風船バレーなどで時を過ごしているのである

一方私に与えられるこの共感は何だろう
温かなこの固まりは何だろう
なぜ私などがそのようなありがたいものの恩恵にあずかることができるのだろう
なぜこの魂の浄化を実感できるのだろう

ここに至るには幾人もの物語がある
幾人もの尊い心がある
そして現在がある

苦しいことではあった
しかしそれを補って余りある啓示であった
人間であることはよいことだ
生きることはよいことだ

人の憎しみの一方に人の愛があり
私は深く神に感謝する
涙さえふさわしい

苦しみもいまは何ほどのこともなく
ただ朽ちてゆく枯れ葉のように認知されているだけだ

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ボーアと迷信

ニールス・ボーアは教科書にも出てくる量子力学の大先生。
コペンハーゲン学派のドン。
ハイゼンベルク、シュレーディンガー、アインシュタインなどと同時代を生きた。

ボーアの家の壁には馬の蹄鉄が釘で打たれていた。
科学者たちは中傷した。
彼らはボーアがこのような迷信を受け入れるとはとうてい信じなかった。
ボーアはいつも「迷信なんか信じていないさ」と答えた。
だがしかし、「たとえ迷信を信じていなくても、効き目はあると教えられてきたのでね」

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万葉集の一歌とカルティエ

万葉集巻20-4311 大伴家持

秋風に 今か今かと 紐解きて うら待ち居るに 月傾きぬ

あきかぜに いまかいまかと ひもときて うらまちをるに つきかたぶきぬ

家持が作った、女が「待つこと久し」の歌である。
この歌は七夕の歌らしく、一年に一度しか会えないならば、
「今か今かと 紐解きて」の織女も分からないでもないが、
待たせている牽牛はよくない。

万葉集の当時、愛する男女は、同居していない。夜に男が女の家を訪れる。男は、自分が行かない夜には、女が何をしているのか知ることができない。

万葉の男はおおらかで、人妻に宛てての恋文もたくさん残している。私も他人の妻に恋をするから、他の男も私の妻に恋をしなさいと歌うものさえある。
その一方で、貞操帯のように、別れる時に、お互いの下着の紐を結び合った。次に逢う時まで、その結び目をほどかないのが愛の誓いであった。
そしてこの歌では、女が待ちきれなくて、「自分で紐を解いて」待っていたのに、月も傾いてしまったことだ、というのである。

怪しい。あなたが来てくれないから自分で解いたというのである。嘘をつけというところだ。

ここをあからさまに、あなたが来てくれないから寂しくて、他の男性と、の意味にとってしまってもいいし、万葉の世では多分そうだっただろう。しかし言葉の上では、「紐解きて」とだけ言っていて、さすがに、家持である。分かる人にだけ分かればいいという態度なのだ。「自分で紐を解いた」と言って、あとは俯いていてもいいのである。

貞操の観念の発達は、私有財産制の発達と並行している。
女にすれば自分の子どもであることは確かであるが、
男にすれば、誰の子どもか、確証はない。状況を読むしかない。
その表情、そのたたずまい、微妙な抑揚の中に、真実を読む。

私有財産制よりも、共同財産制の色彩の強い社会では、
誰の子どもかということは、あまり詮索されないだろう。
しても仕方がないし、趣味が悪い。
兄の子であっても、弟の子であっても、一族の子であれば、
同じ敷地の中で平等に育つといった事情もあっただろう。

そんな中でも、やはり独占欲はわいてくるもので、
相手の下着の紐を結んでやる時に、独自の複雑な結び方を考案する。他人には結べない。解いたら、そのことが分かってしまう。そんな結び方を考えては、あちらこちらの女の下着の紐を結んでいたものだろう。

現代では、あからさまな貞操帯がどの程度使用されているか、不明である。
しかし例えば、カルティエには「現代の愛の貞操帯」ともいうべき商品がある。
ブレスレットであるが、専用のドライバーが付属している。解除する時は一人でもできる。しかし、装着する時には、誰かに助けてもらわなければできない。片手では難しいように出来ている。
女が浮気をしたとして、相手の男にドライバーを回してもらうだろうか?そこまで卑屈な男に、女は興味を持続できるだろうか?多分、できない。
多分に心理的な貞操帯である。
だから、女と、浮気相手の男が、非常に程度の低い人間ならば、簡単に装着もできるのだ。その場合は、男としても、諦めがつこうというものだ。恋心も醒める。



一方、女性が男性に対して用いる、心理的貞操帯もカルティエは用意している。例えば、100万円の腕時計がある。一目でカルティエと分かり、値段も分かる。そんなものをつけていたら、新しい女は興ざめである。
女は自分の選んだものを身につけさせたい。腕時計でも、ネクタイでも。
男はカルティエをはずして、他の時計を着用する。そうすると、このカルティエは機械式で、しかも、設計上、すぐに止まってしまう。セイコーやシチズンならば、いつまでも動いてくれるのに、である。そこでオートワインダーを使って、腕につけていない時にも、巻き続けなければならない。それは自宅であってはならず、携帯するのもおかしなもので、職場か、そうでなければ、秘密の場所になる。
そこまでの事情を考えると、この腕時計はかなりやっかいである。
デザインに存在感があり、重量感があるのも、難点といえば難点である。ただ時間を知るためではなく、ステイタスを誇示するためでもなく、ある種の貞操帯なのだ。
そして男は何か理由をつけて、時計の装着を怠るようになる。女は愛の冷却を感じる。

歌に戻る。
今か今かと 紐解きて とはまたなんと愛らしい。自分の女ならば。そして他人の女ならば、なんとあさましい。

うら待ち居るに。この「うら」は、「うら悲し」「うら寂し」などと用いる時の「うら」と通じるものだろう。
家持の歌に「うらうらに 照れる春日に ひばりあがり こころかなしも ひとりしおもへば」があり、「うらうら」と用いている。
「はるるのに かすみたなびき うらがなし このゆうかげに うぐいすなくも」ここでも「うら」が登場する。

さらに時代はくだり、阿久悠作詞、山本リンダ歌、都倉俊一作曲、「うらら うらら うらうらで うらら うらら うらうらよ……この世は私のためにある」と、「うらら うらら」と歌うものまである。万葉から昭和まで、通底している。

うら待ち居るに とは うらうらして待っていました ということだろう。
こんなことを、職業歌人の家持が歌い、自分で万葉集に採録しているのである。

あなたにつけてもらった
カルティエのリングを自分ではずして
約束を待っていたのに
もう今夜は来ないのね
でもいつでも携帯を鳴らしてね
待っています

というところだろう
最後にもう一度だけ言うが、
わたしを待っているなら、
自分ではずすな!



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歌と詩のあいだ 

歌と詩のあいだ 和漢比較文学論こう 岩波書店

月を望んで、歌人は懐旧の情に耽り、詩人は二千里外の友を思う。
和漢の言葉の黄砂の上に成立する歌と詩。
万葉集から幕末の漢詩人までを視野に入れる。
漢語表現の受容と変容。

序説――「月」をめぐる和漢比較文学論攷
 
I 部  歌語と詩語
 
  一 歌と詩のあいだ
  二 「吹」と「ふく」――和習の背景
  三 酒坏に花を
  四 酒坏の月,水の上の花影
  五 目に見ぬ花
  六 道をうづむ花
  七 餞別の扇
  八 形見の鏡
  九 和漢聯句ひろいよみ
 
II 部  漢文学の受容と変容
 
  一 夢
  二 唐紅に水くくるとは――業平の和魂漢才
  三 『蜻蛉日記』と漢文学
  四 聞き紛う音
  五 蕪村の発句と漢文学
  六 青頭巾の問い――江月照松風吹,永夜清宵何所為
  七 成島柳北の青春
 
あとがき

*****
この手のものが一番好きだ。
漢詩は不思議なもので、
元の意味もいいし、
文字で書いたときの形もいい。
中国音もいいのだと思うけれど、
それは時代と地域によっても違うようで、
しかし日本語で読み下しても、とてもいいのが不思議だ。

それがいいのだと何度も教育されて、
そのような美意識が日本語の中に溶け込んでいるから、
日本語を読み書きするうちに、漢詩が好きになってしまうのだろう。

日本語にしても偶然いいのではなくて、
いいと思うように日本語の中に仕組みが仕込まれているということだ。

*****
しかしそれにしても、漢文学を受容し、日本的な美意識の中に取り込み、感動しているなどは、
ご先祖とはいいながら、見事なものだ。

漢方薬でもそのようなことは実はあって、
日本の漢方は、中国の漢方のそのままではない。

富山医科薬科大学では、
和漢薬と呼んでいる。漢方を基本にして、日本的にしたものであり、独自のものである。

本書の歌と詩のあいだにならって言えば、
漢方薬と、和漢薬のあいだということになる。

面白というべきか複雑というべきか、中間には朝鮮半島があり、
「チャングム」さんも漢方処方していて、おもしろかった。
脈診したり望診、舌診したり、結果として日本の現在と同じ名前の処方をしたり、
共通言語として通じる部分がある。

*****
最近は日本語の自由さをとても感じている。
横書きで書くことさえ承認すれば、
ヨーロッパ各国語も、カタカナでもいいし、原語のままでもよくて、取り入れられる。
各変化もないし、単数複数も気にしなくていいし、
名詞には男性も女性もないから気楽でいい。

原語のままで書いておけば、
日本語の中で一層際立ち、
何がポイントなのか、わかり易くなってありがたい。

機械翻訳でもありがたいと想うのは、そんな事情もある。

大事な単語さえ分かれば、大体は推定できる。
読むべきものを選択したら、あとは細かく検討すればいい。

そう思えば、かな文字というのは、大体は読み飛ばしてもいい文字となる。
漢字の塊と、カタカナの塊、そして英語の塊を注意すれば、大体は足りる。
日本語はかなり便利だと思う。
純化しようという圧力がないから大変よい。
中央政府そのもの、文部科学省そのものが、カタカナ英語を頻発して、
翻訳しようとする意志がまったくない。
そしてそれはいいことだと私は思う。漢語と英語をかな文字でくっつけていけば、
意味が分かるのだから、大変高級なのだ。



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