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ベーシック・インカムへの取り組み

採録

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ベーシック・インカムへの取り組み 

私が五木さんに関心を持つ大きなきっかけとなったのは『大河の一滴』(このブログでの記事)でした。

貧弱なライ麦が命を支えるために11,200kmもの根を伸ばしてゆく生命力の神秘を讃える箇所が、うつ病に苦しんでいた当時の私を助けてくれました。貧弱に見えるライ麦でさえ、生きるのにそれだけ懸命になっていると切々と訴えるフレーズが、生きていていいのだと私を力づけてくれました。

しかし、かたや社会に出ると、マスコミが猛々しく「自己責任」を唱え、自助努力して生きることができない奴は死んでしまえというメッセージが蔓延していました。そして、貧困のために生活保護を申請しても「水際作戦」で断られたり、アルバイト生活をしていては雇用保険に入ることができなかったりして、貧弱なライ麦を踏み潰さんばかりの残酷さを目の当たりにしました。

労働組合を頼っても、当時は正規雇用の労働者を守ることにしか関心がありませんでした。非正規は人にあらずという空気が充満していました。貧弱なライ麦はどこに生息すれば良いのか、とため息をつかんばかりでした。

うつ病の人には「がんばれ」と言ってはいけないというのがコンセンサスになりつつありましたが、その一方でがんばらなくては生きていけない社会体制が厳然として立ちはだかっていて、「がんばらなくてよい」というのは、まさに絵に描いた餅でした。

私はその後、残酷な社会体制には深い関心を持たずに現実逃避して、ほめ屋活動など自分の好きなことを追求していましたが、ベーシック・インカムという魅力に満ちた制度があることを、かなり後になって知りました。つい2年ほど前のことです。

ベーシック・インカムとは「基礎所得」の意味で、生活保護のように条件を問うことなく、無条件で1人あたり、例えば月8万円を給付するという仕組みのことです。これは、誰もが飢え死にすることはないし、自殺者が激減することが予想されので魅力ある制度だと思いました。しかし、1億2千万人×8万円×12ヶ月で100兆円を超える財源は、国家予算の一般会計が数十兆円であることをふまえれば、あまりにも無理があるのではないかと思い、それ以上の興味がもてませんでした。

ところが、去年から金融恐慌が深まり、日本を支えてきた自動車産業が大きな危機を迎え、年越し派遣村で見られたような雇用崩壊の現実を目の当たりにして、私はベーシック・インカムの可能性を再検討することにしました。

その中で、今年の3月8日に東京で行われた講演会で、関曠野さんがベーシック・インカムについて話してくれることを知り、それに参加しました。

関曠野さん講演録「生きるための経済」全文

その中で分ったのは、利子がつかない公共通貨を発行し、正当価格でインフレを調整すれば、ベーシック・インカムは決して不可能ではないということです。用途が不明確な「政府紙幣」ではなく、ダグラスという経済思想家が提起したこの枠組みの中で循環する公共通貨を発行すれば、私たちにもお金が循環するのです。

今回の金融バブルとその崩壊で話題になった金融商品は、レバレッジ(てこの原理)で信用を膨らますことで成り立っていたことが明らかになりつつありますが、その信用創造の機能をマネーから剥奪することで、無用なバブルを膨らますことがなくなり、お金は切符のような交換手段として機能することができるのです。

いろいろ金融の歴史を調べると、高橋是清が世界恐慌後の1930年代に、日銀に国債を引き受けさせて景気を回復させるなど、紙幣の発行が国を恐慌から救う事例があることも分ってきました。同時代人のダグラスはこの政策を評価していたようです。

残念ながら、高橋是清の時代はその使途を定めていなかったために、戦費に転用され、日中戦争が始まるきっかけになった上に、彼は二・二六事件で暗殺されるなど、悲劇の結末を迎えてしまいましたが、ベーシック・インカムという意味合いの中で公共通貨を発行すれば、私たちのために大きな利益をもたらしてくれると思います。

生活保護や雇用がほとんど機能しなくなった現在、このベーシック・インカムは実現の必然性が日に日に高まっていると思います。派手なニュースこそないものの、身近な伝統ある会社に民事再生法が適用されたり、工場の操業が週に3日になって給料も4割カットになったという話はざらにあります。

そんな中で、「ベーシック・インカムは私の価値観には合わない」とか「働かざる者食うべからずだ」とかいった昭和の景気が良かった頃の価値観が根強いのもまた事実です。

五木さんは連載小説の『親鸞』を執筆していますが、今の状況はまさにあの戦乱の時代に近似しつつあります。もちろん、生活水準は当時とは比べ物にならないくらいに良くなりましたが、貧困のために餓死する人や自殺者が多発する状況は、当時に匹敵する「地獄」であることは間違いありません。

そんな中、こんな折にも相変わらず、「食えない状況に至るまで努力しなかった奴が悪い」などと自己責任論を唱える人は、「自力作善」を信じ込んでいる鼻持ちならないパリサイ人のように思われてなりません。工場で長年腕を磨いてきた職人さんでさえも容易に給料カットの憂き目にあうのです。こんな異常な時代だというのに、そんな時代認識ができないだけでなく、苦境で悩む人たちを見下す発言は撤回してもらいたいものです。

「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」ではありませんが、貧困の人にも生存権があることを訴えるベーシック・インカムは社会制度にしかすぎませんので、浄土真宗とは何の関係もありませんが、どこか親鸞の精神を引き継いでいるような気がしてなりません。

ちょっと空想めいた話で脱線して恐縮でしたが、上記の関さんの講演を主催した「ベーシックインカム・実現を探る会」では、7月12日にも勉強会が開催されます。私も出席します。

次回の勉強会のご案内

私もまだ分っていないこと、認識できていないことも多々ありますので、ともに学んでいく方がおられれば、それに勝る喜びはありません。何と言っても世界中のどの国でも、「負の所得税」という類似した制度を除けば、いまだ実現したことのない制度です。

時代をさかのぼれば、律令国家において田畑を均等に分配した均田制はベーシック・インカムのようなものだという説もありますが、それにしてもあまりにも時代が遠すぎて、私たちの価値観からは遠く隔たったものであることには間違いありません。とにかく、「生きていることは大変なことだ」という実感に見合った社会制度を、手探りで探していく必要があります。

私も、日々勉強の精神で行きたいと思います。


ベーシック・インカム入門 (光文社新書)
ベーシック・インカム―基本所得のある社会へ

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関曠野さん講演録「生きるための経済」全文 採録

関 曠野 講演録

「生きるための経済」

― なぜ、所得保証と信用の社会化が必要か ―

第2回ベーシック・インカム入門の集い講演録
2009年3月8日 於:タワーホール船堀

講演者:関 曠野

主催:ベーシックインカム・実現を探る会/フォーラム・スリー

この講演録は、関曠野さんがお話しされた内容に加筆・訂正していただいたものです。

メルトダウンに向かう経済

関 曠野さん

話し手:関 曠野さん

1944年生まれ。評論家(思想史)。共同通信記者を経て、1980年より在野の思想史研究家として文筆活動に入る。思想史全般の根底的な読み直しから、幅広い分野へ向けてアクチュアルな発言を続けている。著書に『プラトンと資本主義』、『ハムレットの方へ』(以上、北斗出版)、『野蛮としてのイエ社会』(御茶の水書房)、『歴史の学び方について』(窓社)、『みんなのための教育改革』(太郎次郎社)、『民族とは何か』(講談社現代新書)などがある。また訳書に『奴隷の国家』ヒレア・べロック(太田出版)がある。現在、ルソー論(『ジャン=ジャックのための弁明 ― ルソーと近代世界』)を執筆中。

どうも、関です。寒い中を私の話を聴きにお集まりいただきまして、ありがとうございます。

私はかねてから日本の世論に訴えたいことがありました。それがこのように話す機会を与えられまして、しかもこれほどの方々に集まっていただいた。これはやはり日本という国が変わる徴候ではなかろうか、そういう感じがしております。それで、今日はみなさま方にはお聴き慣れない話も出てきますので、あらかじめポイントを少し話しておきたいと思います。

まず第一に、私たちの置かれている状況は不況ではなくて恐慌だということです。不況と恐慌はどう違うかということでは経済学者の間でもいろいろ意見があるようですが、私の見方では、不況というのは資本主義のシャックリやくしゃみのようなもので、企業の在庫調整で片が付く。これに対し、恐慌は資本主義の原理的な矛盾や欠陥に起因するもので、その矛盾や欠陥にラディカルに取り組むことなしにはどうにも解決しないものである。これが第一ですね。

第二にそのような資本主義の矛盾や欠陥を正せる方策は、私の考えでは今日のお話ですけれど、ただひとつしかない。ベーシック・インカム。すべての国民に一律無条件に生涯にわたり一定の基本所得を保証すること。そしてもう一つは信用を社会化すること。

この信用の社会化というのはどういうことかはおいおい話させて頂きます。

ただ私がこう言ってもですね、世界の政府はどこでも今の事態は不況だといっている。恐慌と言いません。相変わらず recession だと言っている。

これには誤魔化している、現実から逃げているという面もあるんでしょうが、それだけじゃなくて政策能力に問題があると思うんです。つまり不況だと言っている限りはパターンの不況対策をやって、それを政策に見せかける。公共事業とか利下げとか。これが恐慌だということになれば、何をしていいか分からない。それでこれは不況だ不況だと言い張って、その結果としてオバマ政権であろうがどこの政府であろうが、やっている政策は何の効果もないどころか、むしろ事態を悪化させている。

はっきり言って世界経済はどん底に向かっている。恐慌と言うよりはむしろメルトダウンと言っていい状況だと思います。しかし目下の事態が恐慌である証拠に、かつて1930年代に恐慌の見事な分析を行ったジョン・メイナード・ケインズの名が復活してきております。ところがどうも私から見ますと、ケインズの一番つまらない側面、景気刺激策として一次的に赤字公共事業をやって……というようなケインズの一番つまらない面だけが評価されていて、ケインズのラディカルで面白い面は相変わらず忘れ去られたままであると思っています。

ケインズ「我々の孫たちの経済的諸可能性」と
リッチマン革命

ジョン・メイナード・ケインズ

ジョン・メイナード・ケインズ

1883-1946

このケインズのことを話の皮きりにしたいんですが、1930年代の大恐慌のさなか、ケインズはスペインのマドリードで珍しく一般人相手の講演を行いました。「我々の孫たちの経済的諸可能性」という講演です。その中で彼はどういうことを言っているかと言うと、まず人間のニーズ、欲求を2種類に分けます。一つは絶対的欲求、つまり衣食住などの基本的な要求です。もう一つは相対的欲求。これは基本的に人に差を付けたい欲求。お前はカローラだけれど俺はベンツだみたいな、そういう他人に差を付けたい見栄とか見せびらかしに関係した欲求です。そして1930年代においては、未だに産業革命は完了していないと彼は考えていた。ですから彼は今しばらく貪欲というものはそれなりの役目を果たすであろうと言っています。しかし我々の孫たちの時代においては、人間は経済というものに関心がなくなるだろう、基本的欲求の充足はもう何ら問題でなくなって、おそらく我々の孫たちは経済には関心がなくなり、芸術や学問など文化的な活動に忙しいだろうと言っています。

ところがこのケインズの死後、1960年代に先進国では若者の反乱がありました。あの若者たちは丁度ケインズの孫の世代に当たります。彼ら60年代の反乱する若者はゲバラや毛沢東を引用しましたけれども、彼らの思想と行動はむしろケインズによって説明できる。つまりは当時の若者たちのメッセージは、もうこんな豊かさはたくさんだ! この管理社会、この抑圧、この差別、この競争を代償とした皮相な豊かさはもうたくさんだ! 人間らしい感性豊かな生活をしたい。それが60年代の若者たちのメッセージであったように思います。その点ではケインズの予測は的中したと言っていいのではなかろうか。

そして60年代の反乱の後の1970年代、この時代はいろいろな意味で巨大な転機の時代でありました。

ケインズは、自分たちの孫の代には資本主義は老衰で安楽死するだろうと考えていたわけですが、実際資本主義の安楽死を予感させるような状況が生まれてきました。

つまり市場の飽和、技術革新の停滞、資源と環境の危機と言う形で、資本主義の成長の限界がはっきり表面化してきた。そして思想家としてもイリッチやシューマッハーのような人の著作が熱心に読まれました。さらに70年代から全世界的に先進国の企業の収益が低下し始め、今なおこの収益低下が続いております。かつての活力を企業は二度と取り戻せないように見えます。それが現在の恐慌まで行き着いてしまったと言える。しかし資本主義がこのまま安楽死するかと思ったらあにはからんや、1980年以降、レーガンとサッチャーによってこの資本主義の停滞と混迷に対する悪あがき的な富裕層の反撃が始まりました。

この反撃については、新自由主義とか市場原理主義とか、サプライサイド経済とか、いろんな言葉が使われていますが、一番わかりやすい言い方はリッチマン革命でしょう。

金持ちの贅沢と安楽への要求を突破口、経済の刺激剤にし、それで経済を活性化する。庶民にはいわゆるトリクルダウンで少しは富裕層のおこぼれが滴り落ちるはずだというレトリックで富裕層や大企業に対する優遇を正当化した。ところがこのリッチマン革命は見事に挫折しました。ケインズ自身は良き古き英国紳士だったので、人に差を付けたいという欲求だけで動く経済がありうるとは夢にも思わなかった。だが1980年代以降の先進国の経済はまさにケインズのいう相対的欲求、人に差をつけたいという欲求で動く経済でした。しかしそんなことではやはり経済は回って行かなかった。そしてレーガン時代にアメリカは世界最大の債務国に転落し、貧富の差が拡大し、さらにグローバル化によってアメリカ国内の産業は空洞化するという状況になりました。といってその後のクリントンにせよブッシュにせよ、レーガンからの方針転換をやったわけではない。結局レーガン革命の延長線上であれこれバブルを起こして何とかレーガン路線を復活させようとしてきた。そこでバブルをあれこれ起こした挙句、3度目の正直で今度の住宅バブルでこけたということだと思います。

現代は過剰資本の時代

してみると1970年代に資本主義はやはり安楽死を迎えていたのではないだろうか。それを変な悪あがきをしたものだから、この恐慌と言う形で悶死状態に陥るという……その悶死状態に我々は巻き込まれちゃってる、そうみた方がいいんじゃないか。それではケインズはなぜ資本主義が安楽死すると予想したのか。

資本主義とは要するに資本が貴重なものである経済システムのことです。資本がありふれたいくらでもあるものだったら、それは資本主義ではなくなってしまう。資本が貴重ということは、それが常に不足気味だということですね。どんどん拡大する市場があり斬新な技術革新があって一攫千金の素晴らしい投資のチャンスがあるのに、それに比して資本が乏しい。経済学用語風にいえば、資本の希少性(scarcity)ということになりますが、それが資本主義を成立させている。産業革命期には資本家はやたらに儲かった。儲かる以上は誰でも資本が欲しいので、資本の希少性、不足が生じていた。ところがケインズの孫たちの時代になると経済は完全投資(fullinvestment)の状態になる。投資すべきものはすべて投資されてしまい人間の基本的欲望はほとんど満たされてしまって、資本には価値がなくなる。言ってみれば資本は空気や水のようなありふれたものになってしまう。そういう状況を彼は想定していたんです。そして今の恐慌は資本の過剰から生じています。

もう人間の必要はほとんど充たされてしまった経済状況の中で使い途のない資本をどうするか。今の経済は過剰資本の処理で困っている。かつてマルクスが描いた産業革命の時代には資本が不足していて、そのせいで資本家による労働者の搾取ということが起きました。だが現代は反対で、資本の過剰が恐慌の原因になっている。その点では、資本の不足がえげつない資本家を生んでいた時代の「蟹工船」と言った小説、今読んでもあまり意味ないと思います。時代錯誤じゃないですかね(会場笑い)。

むしろ現代社会を考える上での重要な視角は完全投資ということでしょう。新規の大規模な投資のチャンスが消滅してしまった。こういう完全投資と過剰資本の時代を分析した点ではケインズは正しかったと思いますが、他方で私はケインズに対して異論があります。今しばらくは産業革命を推進しなければいけないという彼の議論には大変疑問があるのです。私の本来の分野は金融論・経済ではなくて歴史学ですので、歴史と言う観点からみますと疑問がある。

産業革命が人類をそれまでの衣食住にも事欠くような貧困から救いだしたことは否定できない。しかしそういう destitution というか、人々が衣食住にも事欠き、しかも不衛生な生活をしている窮乏状態を解消するという産業革命の使命は20世紀初頭ぐらいまでに達成されていたのではないか。というのも人間の基本的な欲求というものははたかが知れたものだからです。多分20世紀初めくらいまでに人間の基本的欲求はほぼ満たされる状況が成立していたのではないか。それならそれ以降資本主義は何をやってきたか。産業革命の使命が果たされてしまったので以後は、無駄なものを作る、がらくた、贅沢品を作る、危険な兵器などを作る。こういう状態の資本主義になったんですね。これが20世紀が戦争と環境破壊の世紀になった根本原因であります。

そういう意味でケインズの見方は間違っている、すでに20世紀の初頭に産業革命がほぼ完了し、資本が過剰になる時代が始まっていたと私は考えます。

クリフォード・ヒュー・ダグラスという人物

そして今日の問題は資本が過剰になっているのに、資本が不足だった時代の制度が恐竜のように生き残っていることなんです。それが現代の根本問題で、その最も典型的な例が銀行なんです。資本がもう不足じゃない時代に、ことさら資本を貴重なもの、不足しているものとして演出しているのが銀行です。そういう銀行のパワーをどのようにして解体するか。それを考えた人が今日お話しするスコットランド出身の始めはエンジニアだったクリフォード・ヒュー・ダグラスという人であります。

彼の思想は、社会信用論(Social credit)と呼ばれています。その社会信用論の一環をなすものとして彼はベーシック・インカムを提唱し、それを今日のベーシック・インカムをめぐる論議には見られない徹底した理論的・経済的根拠を持って基礎づけています。この人は1890年(※他の資料では1879年とのこと)くらいに生まれて、1952年に死んでいます。世代的にはアメリカの制度派経済学者のソースタイン・ヴェブレンとほぼ同世代で、ヴェブレンに大変共感を持っていた。この二人は時代を批判する視点を共有していたのです。ただヴェブレンは当時のアメリカ資本主義の大変辛辣な批評をしただけですけれども、ダグラスは金融資本のパワーを解体するための思想と運動を作り出した。

クリフォード・ヒュー・ダグラス

クリフォード・ヒュー・ダグラス

社会信用論を提唱。1879年マンチェスター郊外の町ストックポートに生まれた。ケンブリッジ大学で数学の名誉学位取得後、優秀なエンジニアとしてインド、南米で活躍。イギリスの地下鉄建設に携わった後、第一次大戦中に王立航空機工場の工場長補佐を務める。これらのプロジェクト管理の経験から生産資本の流れにおける矛盾に気づき、「A+B理論」を着想。論壇誌に次々に論文を発表し、社会信用論へと結実した。世界恐慌時代に一躍注目を集め、世界各地で講演活動や政策提言を行った。1952年9月29日スコットランドの自宅にて没する。

このダグラスという人がベーシック・インカムを史上はじめて提唱した人です。昨今はドイツのヴェルナーなどの本が訳されて、日本でもベーシック・インカムという言葉がだいぶ人口に膾炙してきました。しかし忘れられているダグラスこそが最初にそれを提唱し、それも単なる人道的発想からではなくて、資本主義の原理的分析に基づいて提唱した人です。

まずどういう人かと言うことを紹介しますと、彼はケンブリッジ大学に行きましたが大学がつくづく嫌になって中退してしまった。しかし優秀なエンジニアになりインドやアメリカのウェスティングハウス社などで働き英国の地下鉄の自動化装置とか様々なプロジェクトに携わりました。この人が第一次世界大戦中に空軍の大佐としてファーンボローの航空機生産工場の会計監査の仕事をやって、その時に企業の会計にはいろいろおかしな点があることに気づいたんです。最初に彼が発見したことは、労働者は企業から賃金給与配当を貰うけれどもそれでは絶対に企業が生産したものを総体として買い取れないということでした。労働者が生産したものの価格は労働者の所得をはるかに上回るということを発見した。これはどうもおかしいというので、100以上の工場の会計を調査しましたが、どこへ行っても同じで、労働者の所得の総体は決して消費にまわって商品の総体を買い取ることができない。価格と所得の間、生産と消費の間にとんでもないギャップがある。なぜそんなギャップが発生するのかを研究して彼は社会信用論に行き着いたのです。

しかしダグラスはですね、エンジニア出身で学会などにいた人ではありませんので経済学者などからは変人奇人扱いで相手にされなかったんです。一部の社会主義の雑誌が彼のエッセイを載せてくれるぐらいだった。

ところがそこへ1929年の大恐慌が発生して、ダグラスの言うことはすべてあたっていたということになった。

それで出し抜けに世界的な脚光を浴びまして、ダグラスは「経済思想におけるアインシュタイン」と言われ、カナダや英国の議会で証言したり報告書を提出したり、ニュージーランドの財政改革案を作ったりしています。日本にも国際会議で来ています。戦前には彼の著書も邦訳が出ています。英国以外でもアメリカ・カナダ・ニュージーランド・オーストラリアなど英語圏で彼の支持者は非常に多くて、そこから彼の社会信用論は社会信用運動に発展していきました。また彼の社会信用論は文学者にも共感をもって迎えられ、T.S.エリオットやエズラ・バウンドなどが信奉者でした。それからチャップリンがダグラスの本を読んであわてて手持ちの株と債券を全部処分し、おかげで大恐慌による被害を免れたという話もあります。

先ほどお話したケインズのラディカルで面白いところは、ほとんどこのダグラスの剽窃と言っていいんですね。ただエリート経済学者なのに堂々とダグラスを剽窃し、変人奇人扱いしないでダグラスの言っていることの正しさを認めたという点ではケインズという人はやっぱり偉かったんでしょうね。ケインズは友人にあてた私信でも「文明の未来はダグラスかマルクスかによって決定されるだろう。そして自分はマルクスは嫌いだ」と書いているそうです。

ところが大恐慌時代にこれほど脚光を浴び注目されたダグラスは大戦後には全く忘れられた人になってしまった。喉もと過ぎればっていうことなんでしょうね。恐慌がうやむやな形で大戦によって終わったものですから、ダグラスは一気に忘れられた人になってしまった。私自身もダグラスの名前を知ったのは、ケインズの「雇用、利子および貨幣の一般理論」の最後のところで彼の名前が出てくるからです。それで初めてこういう人がいたのかと思った。

過剰資本を視野においたダグラスの社会信用論

そこでこれからダグラスの思想と理論について話していきたいと思いますが、所得保証論は彼の信用社会化論、ないし社会信用論、その一環として出てくるものです。

先に申したように人間の基本的で強烈な衣食住の欲求が満たされてしまうと資本は過剰になってしまう。この資本の過剰を作り出したひとつの要因は市場の飽和ですが、もうひとつは19世紀末以来産業のオートメ化が進んだということがあります。オートメ化が人間の基本的な欲求を効率的にどんどん満たしてしまう。その意味ではオートメ化は基本的には結構なことです。ダグラスも「オートメの製品は味気ないと言うけれど歯ブラシや鉛筆とかそんなものを手仕事で作ってどんな意味があるのか」と言っています。オートメ化できるものはどんどんオートメ化すべきだ。オートメ化が進むことによって、人間はつらい、単調な労働から解放されるのであると。問題はむしろオートメーションがちっともそれに見合う恩恵を庶民にもたらしていない、豊かさをもたらしていないことです。逆に人々を機械による失業などで苦しめる形になってしまっている。こうして豊かさの中の貧困というべき現実が生じている。

ダグラスがこういう議論をしていた20世紀の初頭でさえオートメ化が相当進行していたわけですが、いろいろな研究によると現代ではオートメ技術をフルに活用するなら全労働人口の四分の一程度ですべての生産ができてしまうようですね。ですから大半の現代人は潜在的失業者であるわけです。この事実を見据えないと、「雇用を守れ」とか言ったって、どうしようもないですね。そしてダグラスは、現代においてはオートメーションと市場の飽和、基本的欲求の充足により生産の問題はすでに解決した、現在の問題は分配であると主張します。

ところが相変わらず生産の時代を演出して分配の問題の解決を妨げるパワーが存在する。資本が過剰な時代に、ことさら資本を貴重なものにしたがるパワーが存在する。それが金融資本なんです。その金融資本が企業には資本が足りない、労働者には所得が足りないという状況を演出していることを彼は徹底的に問題にするわけです。ですからなぜ豊富の中の貧困という事態が発生するのかは、金融機関、銀行が何をしているのかという問題を抜きにしては説明できないのです。このように銀行というものを徹底的に問題にしたことが彼が忘れられ黙殺された一因でもあります。経済学者はダグラスの名前を知っていても口にしない。そういう状況は今でも続いています。

経済学者というのは間接的に銀行に雇われているんですね。マルクス系の人は別にして。そう思わざるを得ません。それならば、まず銀行と、銀行を可能にしているマネーの在り方、それを変革しなければならない。

しかしダグラスの場合、マルクスとはまったく違って彼は個人の自由を思想の根本に置き、市場も企業も否定しません。しかも全体として見ると、富が効率よく最も望ましい形で社会的に分配される、そういうシステムを彼は考えたわけです。ですから、まず金融資本、資本過剰の時代に資本不足を演出している銀行と言うものについて議論をしたいと思います。先ほど申し上げたように、銀行はジュラシックパークの恐竜みたいなものです。つまり資本が不足だった産業革命初期の時代とか、その前の英国が植民帝国になってイングランド銀行が出来た17世紀、そういう過去の遺産を時代錯誤的に背負っている恐竜です。

銀行制度の歴史

そこで銀行制度の歴史ですが、1694年に英国でイングランド銀行が創設され、その後できた世界の銀行は大方このイングランド銀行がモデルになっております。

イングランド銀行創設のきっかけは、英国とフランスの戦争です。この当時から国家間戦争の戦費は巨額なものになってきて、王の税金徴収能力だけではもうそれを調達することができなくなった。そこで英国王はロンドンの金貸しから借金することにした。金貸しとは金細工師のことです。彼らは金を人から預かっていて、その預かり証を紙幣として流通させて金融業をやっていた。そして国王は彼らから金を借りて、その代りに彼ら民間金融業者に公認の通貨を発行する権利を授けた。王と金貸しが一種の癒着をやったのです。

こうして銀行なるものは国家が金貸しに借金するという形で始まった。銀行は銀行券を発行する特権を王から与えられたのですが名前がイングランド銀行なので、それはあたかも国家の紙幣であるかのように見えます。けれども、実際は銀行の、銀行による、銀行のためのマネーなんですね、これは。今の日本銀行でも、アメリカ連邦準備銀行でもどこでも、銀行にはそういうカラクリがあるんです。

これは大変不思議なことと言えます。たとえば、ローマのコインを見てください。皇帝の肖像が刻んでありますよ。どこでも通貨というものは為政者が発行するのが決まりだった。日本だってそうです。世界中そうでした。なぜ、イングランドに限って国家が銀行から金を借りて見返りに銀行に通貨発行の特権を与えるという妙なことが起きたのか。それは当時の英国の歴史的事情に起因していると思います。宗教戦争の後、英国王は税金を集める能力を失ってきた。近代戦の戦費を調達できるような税金調達能力がなくなっていた。一方ではロンドンの金融業者は王とは比較にならないほどリッチになってきて、事実上イングランド王国の陰の支配者になっていた。その結果、私利私欲で動いている銀行がまるで公的機関のような顔をするようになり、しかもそれが全世界の銀行のモデルになってしまった。それに加えて17世紀以降の英国経済は巨額の長期的投資を必要としていました。

例えば英国の場合は、カリブ海地域に植民地をつくりプランテーションで黒人奴隷を使って砂糖やタバコを栽培してそれをヨーロッパに運んで売ればぼろ儲けができました。しかしこういうことは大事業ですから、長期的な膨大な投資が必要であって銀行のレベルでないとその資本は調達できないということがあったでしょう。さらに産業革命期になると企業はどんどん製造過程を機械化し設備投資する。これには大変金がかかって、やっぱり銀行から融資を受けないとやっていけない。

幻のマネーが経済を動かしている(信用創造)

そこで銀行は何をしているのかを改めて考えてみたいんですが、まず、銀行の特徴は fractional banking 、部分準備制度にあります。つまり銀行は預かっている預金の何倍ものお金を貸し出しているということです。だいたい8倍から10倍は普通ですからね。これが今の金融危機の焦点になっているデリバティブだとベースの50倍から80倍という例もあるようです。

そんなの一旦不良債権になってしまうとメガバンクでも返せません。それからもう一つの特徴は、信用の創造、無からの幻のマネーのでっちあげです。例えばAさんが銀行に100万円預金したとする。そこにBさんがやってきて銀行から企業の運転資金を100万円借りたとする。しかし銀行の帳簿をみると、Bさんに100万円を貸したからと言って、Aさんの預金を帳簿から削ったりしていない。それは相変わらず帳簿上に残っているんです。そしてBさんに100万円貸したことが銀行の資産として帳簿に載っている。そういうことで、預金を右から左に動かすような事をしないで無から新しい金を創り出している。

つまりBさんに貸した金は銀行が帳簿の上で無からつくり出した金なのです。Aさんの預金とは実は関係ないわけです。しかもBさんに貸した金は、Bさんには気の重い負債でも銀行にとっては期限内に利子付きで戻ってくる資産になる。そういうかたちで銀行は信用を創造する、クリエーションする。無から信用というものを作り出す。

してみると銀行は、有りもしないものを売って丸儲けしているとも言える。言ってみれば空気を売って儲けているみたいなもので、これは詐欺の一種じゃないか。実際銀行業には詐欺の要素がありまして、アメリカのテキサス州は20世紀の初めまで銀行業を不道徳なビジネスとして禁止しておりました。不動産屋は家を買いたい人と売りたい人を仲介して、その手数料で食っている。不動産屋が有りもしない物件を売ったら直ちに詐欺で御用でしょう。ところが銀行は有りもしないマネーを売って、しかもその影響力で影の政府にまでなってしまっている。こんなおかしなことはありません。

部分準備制度ということは、銀行マネーははじめから幻のマネー、不良債権だということです。しかもそれが経済を動かしている。なぜこういう無からの信用の創造という詐欺まがいのことが可能なのか。

銀行信用の功罪とは

そこで考えてください。人々が協力してアソシエイトし結合して何かを始めると個人個人ではできない新しい富が生まれてくるものです。ひとりではせいぜい何か小さな木工品しか作れない。1,000人が一緒になれば自動車でも飛行機でも何でも作れる。そうした協力と結合から生まれる富というものがある。銀行は言わばそういう富をくすねている。人々の協力と結合から新規の富が生まれる過程を私的に横領している。寄生虫的に横領している。

だから「無からの創造」が怪しからんのではなく、私的横領が怪しからんのです。そして銀行は負債の網の目で社会を覆いつくす。しかもこの銀行信用こそ社会を組織するもっとも強力な力であります。銀行こそ隠れた政府であります。というのも、我々がスーパーのレジで支払いに使っているような紙幣や硬貨は実際は経済を動かしているマネーの数パーセントを構成しているにすぎません。実際の経済を動かしているお金は、ほとんど銀行信用であって、お金の90パーセント以上は銀行マネーです。現代経済は銀行から借りたお金、負債で動いている。もっと正確に言うと負債を返済する義務で動いている。もしもですが、国家も企業も個人も銀行からの負債を100パーセント返しちゃったとします。すると経済は一瞬の間に全面的にストップしてしまう。そういう経済です。現代経済というのは。

そして人間は誰でも借金というものは嫌なんですけど、銀行にとってはこれは逆なので、銀行にとっては他人の負債が資産である。だから日本国家に800兆の負債があるということは銀行にとっては大変な資産なわけで、これは返してもらっては困るんですね。永遠に国を借金漬けのままにしておいて利子を払ってほしいわけです。千円札や一万円札など日本銀行券というのがありますが、日銀の帳簿でみるとあれは負債等なんです。負の帳簿につけているんですよ。日銀券が負の帳簿というのはおかしいように見えますが、銀行にとっては紙幣・カレンシー・通貨の本質は負債であるということを日銀券は象徴しているのだ思います。

しかも実際の日銀券を裏付けているのは、日銀の持っている日本国の国債です。それ以外にも日銀は金とかいろいろ持っていますが。国債というのが最大の財産です。国債というのは要するに納税者を人質に取った借金証書ですから。納税者を人質に取った国家の借金、それが日銀券の価値を裏付けているとも言えるわけです。

しかもそれに利子がついているわけですね。利子をつけて返さないといけない負債。しかも場合によっては複利でとんでもない額にどんどん増えていく。そういう利子つきの負債。

利子の性質は現実にそぐわない

この利子とは大変不思議なものです。利子というものは一旦決まったらもう変わらない。

企業は利潤追求でよく批判されるけれども、利潤は市場の動向で増えたり減ったりします。ところが利子にはそんなことは無い。絶対に変わりません。何があろうと。自然界に似たようなもの、物理法則で似たようなものは全くありません。ですから「阪神大震災で俺のマンションつぶれちゃったから利子を負けてくれ、住宅ローンの利子を負けてくれ」と言っても銀行は認めません。この絶えず増大するだけで絶対減ることの無い利子というもの。これがある意味で果てしない経済成長というものの根本要因です。利子を廃止しないかぎり環境にやさしい経済なんてできないでしょう。それから近代国家の特徴として銀行からの借金で食うようになったということがある。国家は銀行に国債を買ってもらう。それが税金以外の国家の財源になっている。

もしも国家に税金しか財源が無かったら、国家は税収の枠内でそこそこにやるしかない。ところが銀行に国債を売ってカネが入るとなると、国家はこれで勝手なことができるようになる。もちろん国債は借金だけれど、そんなものは納税者にツケを回せばいい。だから国債の発行が近代国家のやりたい放題の運営を可能にしていると言えます。そして利子つきの負債である銀行信用が、経済の中でますます大きな割合を占めてくると、その分だけお金が不足してくる。つまり自由に使える流通するお金が減ってくる。利子付き負債というマイナスのお金が自由に使えるお金の量を制限してくる。人々が自由に利用できるマネーの量を制限し、それによって、企業にとっても庶民にとっても資本を貴重な常に不足しがちなものにする。それが銀行という商売のカラクリなのです。ではどうしたら、そういう銀行の罠に嵌らずにマネーを潤沢に供給されるものにできるのか。

パブリック・カレンシー(公共通貨)

第一に必要なのは、利子付き負債というものをなくすことでしょう。利子付き負債で動いている経済を解消する。それから、絶えず新しい富を生み出す人々の結合と協力を象徴するような、そういう通貨を作りだす。

その場合、それは人民の結合と協力から生まれる通貨ですから、公共の通貨として国家が発行することになる。銀行券ではなく日本国紙幣です。そしてその公共通貨による融資には利子は付けない。付けるとしても事務的な経費に充てるためのごく僅かな利子がつくだけです。当然そういう通貨でも借りたら国に元本は返さないといけませんが、銀行のように他人の負債を増やすことを目的として発行される通貨ではありません。

そういう社会の合意と協力の徴である通貨を作り出す必要がある。それがダグラスの社会信用論から出てくる、第一の結論です。

しかも歴史上は、このように国家が直接通貨を発行することは、古代では普通のことであり、近代でもその例はざらにあります。

たとえばアメリカでは、独立革命以前の時代にペンシルベニア州がそうした通貨を発行し、そのお陰で州の経済は大いに繁栄しました。フランクリンはアメリカの植民地が繁栄している理由を訊かれて、それはこの通貨制度のお陰であり、英本国の方は皆銀行からの借金で喘いでいるけれどアメリカ人民は借金に無縁だと言ったそうです。一説では、それで困ったイングランド銀行が英国政府に圧力をかけて植民地を重税で締め付けようとし、この通貨制度をめぐる争いがアメリカ革命の一因になったそうです。その後も、例えば南北戦争が勃発した際に北部には膨大な戦費の調達が必要となり、リンカーンがそれをヨーロッパの銀行から調達しようとしたら、足元を見られ30から40パーセントとかそういう利子を吹っかけられた。そこでリンカーンはグリーンバックという政府通貨を発行することにした。この英断のお陰で北部は南北戦争を戦い抜くことができ何の問題もおきなかった。

ただ、リンカーンの暗殺にはこの通貨改革が絡んでいるという説もあります。今世紀に入ってからでは、ジョン・F・ケネディが連邦銀行が勝手に民間資本として通貨を発行しているのはおかしいと考え、政府通貨を発行する計画をたて準備しているところで暗殺されてしまった。これも通貨改革がらみという説があります。

日本の場合は、明治政府の太政官札、あれは政府貨幣ですよね。また戦前に高橋是清内閣が大恐慌の時代に国債の日銀引き受けということをやった。これは日銀と日銀券をそのまま使っていますが、政府貨幣の発行と事実上は同じことです。この政策で日本は、各国の中でもいち早く恐慌から脱却することができた。ただこの日本の例を見ると、太政官札は暴走インフレを起こしてしまった。高橋是清の政策は、ダグラスも、「私の言う政府発行貨幣とちょっと似ているな」って言っていますが、折角これで恐慌から回復した経済力は日中戦争に注ぎ込まれてしまった。

だから政府が自ら通貨を発行すること自体はいいんですが、何が公共の利益かについてのしっかりした人民の合意があり、その合意を反映する政府があり、それをきちんと実行する財務当局があること、それが政府通貨の発行に不可欠な条件です。皆さんもご存知のように、最近自民党の一部で政府紙幣をやったらいいという議論が出てきています。自民党は散々利権バラ撒き型公共事業をやってきたけれど、今は国家財政の大赤字のせいでそれになんとかブレーキがかかっている。そこに政府紙幣の話が出てきて、これはいいアイディアだ、これでまたノーブレーキでバラ撒きができるわいと思っているのなら、とんでもない話です。

ダグラスのA+B理論

それでは銀行と企業の関係はどうなのか。先に申しましたように産業革命以来、生産の機械化、オートメ化が進み、それまで家内工業だった企業がいわゆる機械制大工業に変貌して膨大な設備投資が必要になりました。これは企業自身の資金では無理なので企業は銀行から融資を受けるようになり、こうして金融業界が実体経済に介入するようになった。その結果何が起きたかをダグラスは問題にするわけです。

この環境では、たとえ大企業であろうと、もう銀行なしに企業の経営はありえません。どの企業でも銀行に負債を負っています、今中小企業に対する銀行の貸し渋りが問題になっていますが、銀行が大企業に優先的に融資するから、中小企業に資金が回ってこないわけですね。逆に言うとそれくらい大企業だって銀行を頼りにしている。

トヨタの無借金経営とかあれはデマですからね。大企業であればあるほど相当内部留保があるにしたって、設備投資や研究開発や市場の開拓のために銀行からの融資が必要です。

そしてダグラスは第一次大戦中に企業会計の現場を経験する中で経済に一体何が起こっているのかを発見した。生産コストは常に労働者に対する賃金や給料をはるかに上回る、一国の商品の総価格は勤労者の総所得を上回るので勤労者は所得=購買力の不足に悩まされるということを発見した。この事実をダグラスはA+B定理として定式化しました。このA+B定理で彼は基本的には単純なことを言っているのです。

彼はまず企業の生産コストをAとBに分けるAは労働者の賃金とか、給料とかでこれは人々の所得になり購買力になる。ついでにいうとこの購買力(purchasing power)もダグラスが作った言葉です。Bというのは減価償却費とか、銀行への負債の返済、他の企業への支払いなどです。そのほかいろいろな外部費用、取引先の接待とか。そうすると小学生でも分かることですけれども、AよりA+Bの方が大きい。だから労働者は決して企業が生産した生産物の総体を買うことができない、ということです。これが商品の価格になるとこの生産コストのA+Bにさらに利潤がつく。ところがダグラスは利潤のことは大して問題にしていません。利潤はせいぜい企業会計の3%とか5%くらいもので、それが勤労者を苦しめているとはいえない。企業への金融の介入、これが問題なんだと彼は言っている。ところで皆さんは、AよりはA+Bの方が大きいのは当たり前じゃないかと思われるでしょう。

人件費とか労務費とかは企業の総経費の中のほんの一部に過ぎないということは当たり前じゃないかと。しかるに20世紀の初めの英国では、これは決して当たり前ではなかったのです。スミスやリカドゥの古典経済学がまだ幅を利かせていて、生産は必ず所得になって労働者はそれによって商品を自由に買って消費するとされていました。というのも古典経済学は独立自営農民などを経済のモデルにしていたからです。だからそれは後の機械制大工業には全く当てはまらない議論なのに、それがまかり通っていた。ダグラスはそれが時代錯誤の議論であることを指摘した。

ただしダグラスが真に問題にしているのは、Aより A+Bの方が大きいという単純な事実ではなく、マネーの流れです。時間と共に生産費用の中でAに対してBの比重がどんどん増える、逆に言うとAの比重がどんどん減っていくという構造を明るみに出したのです。

労働者に払われる賃金は銀行ローン

企業の製品というのは様々な中間段階を経て、最終製品になる。例えば自動車をつくるためには、まず鉄鋼やガラスやプラスチックを生産しなければならない。中間段階の製品を作っている企業は消費者に関係なしに生産してるわけです。だがそういう企業の生産費用も最終的には消費者が買う商品の価格に全部転嫁され、そこに集積されている。そういう何段もの段階を経て、最終製品になるような高度な工業製品は、その分だけBの部分をどんどん増やしAの部分を減らすことになる。

それから、労働者に給料を払うということの意味です。5月分の給料をもらうとする。その5月分の給料で労働者は実は何ヶ月も前に出荷され販売された既存の商品を買っている。ところが企業は現在進行中の労働者の作業に給料を払っているわけです。この進行中の作業を企業は投資活動としてやっているのであって、その投資活動の一環として雇用があって労働者が働いている。しかも企業の投資活動のかなりの部分が銀行からのローンに基づいている。

とすれば労働者に払われる賃金も実際にはかなり銀行からのローンである。だから労働者は一生懸命働いて自分の労働の成果として給料があると思っているけれど、実際はローン生活者みたいなものなんですね。そして労働者が賃金をもらってそれで商品を買うと、それを生産した企業の収益のかなりの部分は銀行に負債の返済で戻ります。そうするとなんのことはない、労働者はローンで暮らしていて、しかも商品を買うことで銀行にローンを返済していることになる。銀行ばかりが肥え太り労働者の境遇は一向に良くならない。そういうことになっている。これは銀行の融資によって成立している企業活動のいわば宿命でしょう。

もちろん企業の収益はみんな銀行への返済に充てられのではなく企業の内部留保に充てられる分もあるでしょうが、それを企業は再投資に使うでしょうから、これも勤労者の所得や購買力にはなりません。こういう形で労働者は、働けば働くほど、商品を買えば買うほど自分を追い詰めていく。といっても、労働者が賃金をもらって消費者として商品を買ってくれることだけが企業にとって市場であるわけです。だから労働者の所得が減ったら企業自身も販売不振に苦しむというジレンマがある。この問題をどう解決するのか。

消費ギャップをいかに埋めるか

このギャップをまたまた銀行からの借金で埋めるというのがひとつの手です。そうなると、企業自体も蟻地獄に嵌ったみたいなもので、金融化経済の矛盾をさらに銀行信用で埋めていくことになっていく。もうひとつは、貿易ですね。商品を輸出する。輸出で黒字になって外国の市場でもぎ取ってきた金というのは、銀行資本とは関係ない、利子も負債も関係ない、もろのゲンナマですから自由に使える。こんなおいしい話はない。だからどの国の企業も貿易戦争で勝って輸出で儲けようと必死になる、ということです。してみると輸出!輸出!貿易!貿易!と騒ぐということは、いかに企業自体の内部矛盾、労働者の所得は減る一方、設備投資などで負債は増える一方という矛盾が拡大しているかの証拠です。

このA+B定理からするととにかく、勤労者の購買力は驚く程限られている。ダグラスは、生産諸経費が価格の形をとり、それでいろいろな要素が消費者に転嫁されると、実際の勤労者の購買力は実質的な企業会計の数パーセントにすぎないのではないかと言っています。

その限られた購買力を奪い合わねばならないので、企業は激烈な競争をすることになる。購買力が限られていることが競争の主要な原因です。資本・購買力・マネーの不足のせいで企業間で激烈な競争が展開されることになります。それでも労働者の賃金以外に商品が売れて捌ける経路はありませんから、労働者がその賃金、給料で企業が何ヶ月も前に作った商品ならなんとか買えるようにしておかないと企業は破綻してしまう。どうしたらいいのか。

絶えざる生産の拡大、近代企業の宿命

絶えざる生産の拡大。生産さえ拡大していけば、それに付随して労働者におこぼれで回る部分が ある程度増える。企業が拡大すればその分だけAの部分が名目上は多少絶対的に増える形にはなる。こういうことから、企業は絶えざる生産の拡大に駆り立てられる。そういう意味では経済成長というのは、近代企業の宿命なんですね。そしてA+B定理の矛盾がありながら企業がすぐに潰れずに生き延び恐慌が直ちに起きない理由もそこにあります。絶えざる経済成長で名目賃金は多少上がり、しかも勤労者は何ヶ月も前に生産されたものを買っているので、それが矛盾を多少は緩和します。だがそれだけに、経済成長がストップすると直ちに深刻な不況や恐慌が発生します。

しかし生産の拡大といっても、消費者が欲しがっているものは、ほとんどすべてもう作ってしまっている。では企業は何をやるか。苦し紛れにガラクタを作る、贅沢品を作る、全くの浪費でしかないものを作る、危険なものを作る。それが今の企業がやっていること。しかしながら、企業にはどっちかというと銀行の被害者の側面もあるわけです。銀行から金を借りちゃったんで、こういうことをやらざるを得なくなってしまう。企業自身も利子付き負債というものに悩まされている。

根本問題は、マネーが、生産や消費の現実とは全く無関係に銀行の金融的利益になるかどうかという尺度で融資されていることにあります。もちろん銀行も融資先の査定はやるでしょうが、結局銀行のそろばん勘定だけが肝心なのです。こういう形で銀行は、マネーを発行する権利を独占している。そしてマネーに見合う需要を作りだすような形でマネーを発行していない。現実の需要を見極めたうえでそれに見合う形でマネーを発行するということをやっていない。

しかも銀行の論理、利子付き負債の論理でマネーを発行し、企業に貸している。その結果として企業においては負債の累積的増大があり、労働者においては所得の継続的減少がある。これをいろいろ誤魔化したり、先送りしたりする手はありまして、だから簡単には破局にはならないんですけれども、根本的にはこの構造は変わりません。

この構造を解消するためには、負債経済、利子付き負債を返済する義務に基づく経済と縁を切って別のマネーの流れを作り出す必要があります。それから今言った、企業の投資によって雇用が産まれ、その雇用によってしか所得が生じない、しかもその労働者の所得だけが商品が買われ消費される経路であるというジレンマがあるわけですね。

労働による所得は雇用によって生まれ、雇用は企業の投資から生まれ、投資の背景には銀行の融資がある。この連鎖を断ち切らなければ、人々は所得不足、企業は販売不振に苦しむ状況はいつまでたっても変わらないでしょう。ということは、雇用と所得を一定程度切り離す必要があるということです。雇用と所得を切り離して人々の購買力を保証する必要がある。そうしないと経済は恐慌になってしまう。このように負債経済を解体すること、その一環として雇用と所得を切り離して円滑なマネーの流れを作り出すこと、これが社会信用論の課題であります。

適正な価格の形成

ここでこれまでの話を一旦まとめましょう。理解して頂きたいのは、ダグラスが問題にしているのは「労働者の搾取」といったことではなく、市場経済の要である「価格の形成」であることです。

まず、生産はあくまで人々の消費のためにあります。だから経済は生産と消費がプラスマイナスゼロで過剰生産とか過少消費がないことが望ましい。それゆえに価格は、それによって生産と消費が均衡するようなものであるべきなのです。ところがダグラスが実際の商品の価格を調べてみたら、その大部分を構成しているのは生産設備の減価償却費や銀行への返済や将来に備えた研究開発費などで、労働者の賃金給与は僅かなものでしかなかった。つまり機械制大工業の時代には、価格は需要と供給の均衡によって自ずと決まるという古典経済学の説はもう通用しないのです。

そしてこの価格の歪みという問題の解決策は市場の中から自然に出てくることはない。というのも、その根本原因は、銀行が自分の金融的利益の観点で実体経済に介入し社会の生産と消費を左右していることにあるからです。

そして負債経済を解消する方策としては、国家による通貨の発行、パブリック・カレンシー、公共通貨を発行し企業その他に利子なしで融資するということでいいわけです。他方で雇用と所得を一定程度切り離さないと、近代企業経済はそのジレンマから抜け出せない。そしてこの切り離しをやるための方策が、ベーシック・インカムであるわけです。

国民配当と文化的遺産(カルチュラルヘリテージ)

ところでダグラスは、ベーシック・インカムではなくて国民配当(National dividend) という言葉を使っています。これは配当なんだと。どういう意味で配当なのかというと、まず、社会の結合と協力から新しい富が生まれるんだということですね。

個々人の労働の成果とか対価ということではなくて、人々が結合し協力すること自体から新しい富が生まれる。そうした富は言うならば、共通の富のプールをなしている。その共通のプールから富をもらう、引き出す権利は誰にでもある筈だということなのです。それは誰がどれくらい懸命に働いたかとか、そういうことには関係ながない。しかし生産は個々人の労働能力の結果や成果であると考えているかぎり、この発想は出てこないでしょう。富とは共通のプールをなすものという発想がないとね。そこでダグラスの独特の主張なんですが、彼は文化的遺産、カルチュラルヘリテージというものを強調します。これは彼のエンジニアとしての現場体験から出てきた認識です。

彼によると、生産の90%は道具とプロセスの問題で、労働者の能力は大した役割を演じていない。道具とプロセスが生産というものを大方決定している。そうならば生産を決定しているのは共同体の文化的な遺産や伝統にほかならない。道具や知識や技術は、そうした遺産や伝統である。人類は何万年もかけて、そういう知識と技術の膨大な蓄積を行ってきたのであり、だから現代人は改めて火の使い方を学んだり、車輪を発明したりする必要はない。過去の何千という世代が蓄積したものを我々は享受しているのでありまして、すべての人間は人類のそうした偉大な文化的遺産の相続人である。そういう相続人として配当をもらう権利があると彼は言っています。

富というものは、共通の富のプールとして人々の協力と結合から生まれると同時に、文化的遺産として過去の諸世代もその創造に関わっている。そういう認識が国民配当を正当化します。

それからこれは私の個人的考えなのですが、自然は驚くべき富を人類に与えながら何の見返りも要求していない。その意味では、富は神ないし自然からの人類への贈り物と考えるべきです。宗教の安息日という習慣は、富は人間の労働の成果ではなく神の贈り物であることを忘れないためにあるものです。こういう思想も国民配当を正当化するひとつの論拠になると思います。それから先に申しましたように、国民配当で人々への所得、購買力を保証しないかぎり、経済は恐慌になっちゃう。現に恐慌になっています。だから恐慌を予防する経済的方策ということも国民配当を正当化する理論的な論拠になります。

この国民配当は内容的にはまさにベーシック・インカムのことですが、この国民配当という言い方のほうがいいと私は思うんですね。ベーシック・インカム、基礎所得保証という言い方をすると、通常「所得」は雇用や労働に結びついている観念なので、何で働かないでそんな所得をもらえるんだと反発や疑問が出てくる。その点、国民配当という言い方だと、より分かりやすく受け入れられやすいのではないか。

もっともこれは社会信用論の立場に立たないと出てこない、ヴェルナーなんかの所得保証論からは出てこない言葉かもしれません。つまりこの言葉には、こういう配当をやらないと資本主義は恐慌で崩壊してしまうという含意があるのです。

社会信用論とベーシック・インカム

ところで昨今は日本でもヴェルナーなどの本も翻訳され、ベーシック・インカムという言葉がかなり広まってきました。ただ、従来のベーシック・インカム論議は、どうも論拠とか思想的根拠がもやもやしていて曖昧なんですね。

人道的な配慮からやることなのか、福祉国家を完成させるものなのか、それとも福祉とは別のものなのか。そういうことがはっきりしていない。その点では社会信用論においては、所得保証をやらないと恐慌になるという理論的にはっきりした論拠があるわけです。そしてベーシック・インカム論の論拠に関しては様々な人が様々なことを言っていますが、ダグラスの社会信用論の究極の目的は、銀行と大企業の高度に組織された権力、影響力から個人を守り個人の自由を確立することです。ですから個人の人格の自由な発展という思想こそが社会信用論の、いわば哲学的基礎と言えるでしょう。

ところで、これまでのベーシック・インカムをめぐる議論は、必ず財源の問題で躓いてきました。

これを所得税でやるとすると、まず足りないでしょう。膨大な費用がかかりますから。それに所得税でやったら、ベーシック・インカムとは金持ちのカネをむしって貧乏人にばらまく階級闘争だと思われて非常にぎすぎすした社会になる。それでは、消費税でやったらどうかというのがドイツのヴェルナーの意見ですが、とんでもない率の消費税になってしまう(会場笑い)。せっかく所得を保証されても、商品が高すぎて何も買えない。ところが社会信用論に立脚するなら、財源の問題は一切心配する必要はないんです。パブリック・カレンシーでやりますから。しかし、これは紙幣を勝手気ままにじゃんじゃん刷ってばらまくということじゃない。生産能力があり、人民の必要ないし需要があって、その統計データを踏まえて通貨を発行して企業に融資するならば、経済は順調にまわっていきます。

「財源が難問」という発想は、国家の収入源は税金と国債しかないという発想から出てくるものなのです。とにかく公共通貨で基礎所得保証をやるならば財源のことは考えなくていい。その場合に問題になるのは、庶民がそれを通貨として受け取るかどうかということだけです。しかし折角所得を保証をしてくれる通貨なのに、馴染みのないお札だから受け取らないという人はいるでしょうか。みんな喜んで受け取るんじゃないでしょうか。福沢諭吉の日銀券じゃなくて、なにか別の図柄のお札だったとしても。そういうことで、財源の問題は心配しなくてよろしい。

「所得への権利」という思想

しかしながら所得というものについては我々はまだまだ古い考え方にとらわれておりまして、所得は雇用によってしか得られないものという考え方は日本の世論の中に深く根を張っています。

雇用による以外に富を分配できなかった過去の時代の発想という点では自民党も共産党も似たようなもので、だから口をそろえて「雇用を守れ」と騒ぐ。しかし現代という時代が要請しているのは「雇用を守れ」というスローガンではなく、「所得への権利」という思想なのです。そもそも企業の使命は消費者に良質の商品を効率よく提供することであって、雇用を維持することではありません。従業員の雇用を守るために材料費を削って粗悪な製品を作る企業を世間は認めるでしょうか。そしてマネーこそまさに「先立つもの」で、所得があってこそ潜在的需要が有効需要になって市場が活性化する。そこで企業活動も活発になって雇用が拡大する。だから「まず雇用を守れ」というのは全くの本末転倒なのです。

もちろん目の前に派遣切りで失業した人がいたら私だって何とか就職口を斡旋してあげたいと思うでしょう。しかし経済システムを全体として分析してみれば、雇用至上主義はまったく間違ったナンセンスな立場でしかありません。

そして冒頭で申し上げたケインズの言葉ではありませんが、基礎所得が保証されたらビジネスはやらずに芸術や学問や文化活動に携わる、そうした人たちがいっぱい出てきて、どこに問題がありますか。そういう人たちは購買力で経済に貢献してくれればいいんです。そういう文化で社会に貢献する人々こそ真の国力を作り上げるでありましょう。有能でバリバリ働く人が環境を破壊し社会の存続を危うくしている、それが現代という時代です(会場笑い)。

やっぱり我々はマネーというものに対する呪物崇拝に陥っているのですね。報道で、定額給付金をもらったおばあちゃんが神棚に給付金を祀ったという話がありましたね(会場笑い)。しかるにダグラスはマネーを切符に喩えています。

生活インフラとしてのマネー

鉄道の切符を買ってそれを神棚に祀る人はいないでしょう。切符はそれを使って電車に乗って移動するためのものです。お金もそうしたもので、あくまで自分の欲する財やサービスを円滑に手に入れるための手段、その目的で富の分配を効率よくやるための手段である。

ダグラスがA+B定理で言っていることの根本はそこにあります。マネーは本来分配の手段であるのに銀行の利益がそれを生産の手段にしちゃっているから、企業にとっても労働者にとっても次々におかしなことが起きてくるということです。

つまり現代においては生産の問題はすでに解決している。今日の問題は分配であり、それゆえにマネーを分配の手段として考える視点が必要である。そうしてこそマネーというものを客観的に、サイエンティフィックに考察できる。そういう意味でマネーは切符のようなもの、経済生活に参加して社会から排除されないための切符なのです。これを逆に言えば、現代の「貧困」とはたんにビンボーということではなくて、社会から排除され人間として否認されていることなのです。

別の言い方をするならば、現代においてはマネーは一種の生活インフラ、電気や水道のような生活インフラだということです。それを呪物崇拝で、マネーとは何か神秘的な力を発揮する力や特権の源泉と思う、そういう発想は根本的に間違っています。結局マネーを価値を保蔵する手段とみなすこと自体が呪物崇拝なのです。そういう意味で、人民が合意した公共の利益に基づいて発行される公共通貨ならびに国民配当は、マネーを人々の生活インフラに変えていくための制度です。もちろんチャンスがあったら商売をして儲けることは否定されていません。しかしマネーはそれ以前に基本的に生活インフラでないと困るということです。さもないと経済がおかしくなります。

社会信用による資本の分散化

この点では社会信用論を資本の集中か分散かという観点から捉えることもできます。

英国が東インド会社を創設して海洋商業に乗り出した17世紀、さらに産業革命が進展した19世紀以降の時代には、資本の巨大な集中が必要でした。銀行は資本を集中させる目的で作られた制度なのです。日銀や連邦準銀が「中央」銀行と呼ばれるのは、そこに資本が集中しているからです。しかし今のような資本過剰の時代に資本を集中させておくと、資本はウオール街のカジノ資本主義の元手になって世界経済のメルトダウンを惹き起こします。これに対しベーシック・インカムは資本を個人という究極の単位にまで徹底的に分散させ、それによって経済を安定させるものと言うことができます。

といっても、パブリック・カレンシーの発行には同意してもベーシック・インカムには反発する人が多いだろうと思います。思うに、働かないで所得をもらうのはおかしいと言う人たちはね、お金というものを「報い」だと思っているんですよ。報い。辛い苦しいことに耐えてね(会場笑い)、その報いとしてお金を授かるという。人生は辛い、悲しいものと思っている人たち。人生は楽しむべきものと考えない人たちが、雇用によらずに所得があるのはおかしいと言うのではないか。

社会信用論の三つの支柱

ところでダグラスは、国民配当、ないしベーシック・インカムだけで民衆の購買力を確保できるとは考えていませんでした。社会信用論には、実は三つの支柱があります。

  1. 公共通貨 = パブリック・カレンシー
  2. 国民配当 = ベーシック・インカム
  3. 正当価格 = ジャスト・プライス

パブリック・カレンシーがひとつですね。それから国民配当。そして三つめの支柱として正当価格・ジャスト・プライスというものがあります。これはどういうことかというと、それによって生産と消費が均衡するような価格だけが「正当」な価格だということです。具体的に言うと、例えば直前の四半期の日本経済の国民経済計算をやってみて、仮に、生産の総計が100、消費の総計が75だったとします。すると25%の消費ギャップがあります。これをどうやって埋めるか。それならこのギャップに等しい割合で小売価格を一律に引き下げたらいい。販売部門ですべての商品の価格を25%ディスカウントする。それによって価格は生産と消費の均衡を表すものになります。

といっても小売部門をいじめて損をさせようということではありません。小売部門は売上伝票をとっておいて、国家は割り引きした25%の分を後で小売部門に対して補償します。だからダグラスはこのジャスト・プライスのことを補償される割引(compensated discount)とも呼んでいます。これは消費税とは180度反対のものですね。

こういう形でやって(以下の図3を参照)、販売部門に関しては売れば売るほど儲かるという商業の論理は否定されていません。ただ価格をつり上げることで儲けることが否定されている。このディスカウントによって消費と生産が均衡し、インフレが起きなくなります。そしてこの正当価格によって、すでにベーシック・インカムで補強された庶民の購買力がさらに強化される、拡大される。そういう意味では正当価格はいわば消費保証の措置とも言えるでしょう。消費保証であり、また小売部門に対する所得保証でもある。

この三つの支柱が組み合わさることで、生産と消費が完全に均衡し通貨が円滑に流れて経済の動脈硬化の原因になったりしない経済が可能になると彼は言っています。ところが社会信用論を「要するにおカネのばら撒きだ」と誤解して受け取って、そんなことをやると暴走インフレが起きると心配する人がいます。もともとインフレやデフレ、不況や恐慌は銀行が実体経済の生産や消費とは無関係に自分の都合でおカネを出したり引っ込めたりすることが原因で起きるものです。社会信用論では、通貨はあくまで国民経済の潜在的な生産と消費の能力を示す統計データの集計、分析、予測に基づいて供給されます。

ですから経済がもしもインフレ気味になったとしたら、それはデータに誤認があるか分析に誤謬があるせいです。だからどこに誤認や誤謬があったのかを検討して政策の再調整をやればインフレは解消する筈です。これはいわば気象庁が天気予報の修正をやるようなものです。

社会クレジットの資本フロー

これまでお話ししてきたことをちょっと図式(図(1)~(3))にします。

図1:社会信用論の基本構図

図2:通貨の発行

生産の目的は消費である。 通貨はこのことを円滑に実現するために発行される。 即ち通貨は、(1)人々の間の潜在的需要をマネーに裏打ちされた有効需要に変え、(2)消費のための生産を促進する目的で供給される。 その発行は直前の四半期の国民経済計算のデータに基づき、企業と一人ひとりの国民に供給される。

図3:通貨の回収

生産の目的は消費なのだから、経済においては生産と消費が均衡して、プラスマイナス・ゼロであることが望ましい。 そこで、国家は勤労者/消費者に対し所得保証を実施するだけでなく、需要ギャップが生じた場合には、それに等しい割合で小売価格を一律に引き下げることを小売り部門に要請する。 そして、割り引いた分は、後で国立銀行によって小売部門に補償される。

私のまとめ方がまずいので、分かりにくい方もおられると思いますので、ダグラスは通貨の管理をやる部局をナショナル・クレジット・オフィス、国家信用局と言っていますが、一応、国立銀行と書きましょう。日銀と違います。これは本当の国立銀行です。公共貨幣を発行しそれを利子なしで融資します。この公共通貨は、教育や医療や公共インフラの整備といった、公共性の高いものにもちろん融資されますけれども、問題は、これと企業の関係ですね。

企業に対しても公共通貨は無利子で融資される。企業はそれで自分の好きな商品を作っていい、儲かると思ったものを作っていい。企業が出荷した商品は、問屋を経て小売りに行く。これは生産の面です。

一方企業は自分のところで働いている労働者に賃金を払う。勤労者はその賃金をもって小売部門に買い物に行って消費者になる。小売り段階で生産と消費が出会う。しかし勤労者に対しては国民配当が、月に10万なら10万出ています。その一方で小売商は衣料品を売りたいので、国立銀行から商品を仕入れるために1,000万円を当座貸し越しで借りるとします。そして衣料品をディスカウントした正当価格で売る。それから小売商は売り上げ金の中から無利子で借りた資金を銀行に返す。国立銀行の方はその際にディスカウントした分を小売商に補償します。

これによってインフレは起きないし庶民の購買力は確保される。人々は買った商品の代金を小売店に支払う、小売店はそれで企業から出荷された商品の代金を払うと共に銀行に仕入れの資金を返済し、企業は小売から来た代金で国に融資された資金を返済する。これが通貨が回収される過程になります。お金の流れは完全に生産と消費のリズムに一致していて、それに即して通貨が供給され、回収される。だから経済のどこにおいても、マネーが滞留して経済が動脈硬化を起こすことがない。すべては絶えず順調に流れるようになっています。

重要なことは、こうして通貨が潤滑油になって経済が順調なサイクルを形づくって回っていくことであります。これが社会信用論のポイントだと考えていただいて結構です。ところでベーシック・インカムをやるとするなら、その額はどれくらいが妥当かがいろいろ議論されています。私の考えでは、社会信用論に立脚するならば国民経済計算から引き出されるある程度客観性のある支給額の目安が存在するように思います。

たとえば、今のアメリカで社会信用運動を代表しているリチャード・クックという人がいます。この人は最近オバマ大統領にクック・プランというアメリカ経済の再建案を送ったのですが、まあ、オバマが相手にしてくれる可能性はゼロでしょう。このプランで彼はすべてのアメリカ人に月10万円。子どもには5万円のベーシック・インカムを支給することを提案しています。これに要する総費用が3兆6千億ドルで、丁度アメリカ人の個人負債の総計に等しいそうです。だから彼の案は、アメリカの勤労者が所得不足をクレジットカードなどのローンで補ってきたことを反映しているわけです。日本の家計の場合はアメリカほどのローン地獄ではないので、クックと同じ論理を使うわけにはいきませんが。

とにかくベーシック・インカムが月50万円ではインフレになっちゃうし、月1万じゃ経済循環の支えになる役目を果たさない、やはりどこかに目安があるだろうと思います。

財政赤字解消、社会信用による公共事業、税金の廃止

それからパブリック・カレンシー、公共通貨の問題ですけれども、これをきちんと制度化できれば、日本国の800兆といわれる財政赤字をぜんぶチャラにできます。というのも、先ほど言いましたように、マネーというのは、人がマネーと思って受け取れば、石ころでも木の葉でもマネーになるわけです。そうすると、この公共通貨で所得保証ということになれば、みんなそれを喜んで受け取ると思うんですね。みんなが受け取ったら、それはもう流通しちゃったんで、立派なマネーなんです。

そうなったら銀行も拒否できない。しかも日銀券と兌換性をもつようなマネーとして発行すれば、銀行も当然取引対象に使う。そうすると、銀行がもっている膨大な日本国国債を順次公共通貨で買い取ってチャラにすることが可能になる。銀行にしてみれば自分の資産が減ることになるから、抵抗するでしょうが。もっとも一挙に800兆を返したら経済が大混乱するから段階的に返済ということになるでしょう。

それから、公共事業を社会信用論でやるとしたらどうなるか。

かりにどこかの自治体が橋をつくることになり、業者が入札するとします。A、B、C、Dという業者が入札して、Aが10億円で落としたとします。そこでAは国から無利子でこの橋の工事をやるための資金を融資してもらう。そして橋が竣工したら自治体がAに10億円を払う。Aはそれで当座借越していた資金を国に返済する。そして橋に高い公共性が認められたら国はそれを自治体に回す。結果的には国が直接自治体に融資したのとほぼ同じことですが、入札の可能性を組み込んで自由経済と公共通貨を両立させる。

ただこの先に減価償却費という問題が出てきます。何十年か経つと橋が痛んでくるので建て替える必要が出てくる。その減価償却費がたとえば毎年500万円だとします。それをどうするか。住民から税金を徴収してそれで賄うか。しかし先に言った正当価格という方策がある。この500万円の分だけ正当価格を上げて増収分を公共事業関係費に充てればいい。25%のディスカウントなら、それをたとえば24%にして増収分で公共事業の減価償却費を払ってしまうということです。その結果、じゃんじゃか公共事業をやると、すぐに物価に響いてくることになります。そうなると、公共事業のあり方について人民はきわめて敏感になるのではないでしょうか。

それから先ほど国の財政赤字をチャラにできると言いましたが、将来パブリック・カレンシーがきちんと制度化されたなら税金というものを基本的になくすことができます。税金は政府の人民に対する強盗行為みたいなもので、本来あってはならないものだと思います。要するに税金は弱いものいじめの制度です。金持ちにはいくらでも脱税や財産隠しの手がある。大企業はどれほど法人税を課されても、それを商品の価格に転嫁してしまう。その一方でサラリーマンは給与から天引きで源泉徴収、そのうえ会社からの帰りに憂さ晴らしに居酒屋で飲むビールや焼酎も税金のかたまり。これではまるで中世の農奴です。

それでは税金をなくすにはどうすればいいか。教育医療インフラの整備など現代国家の公共サービスはどれほど金食い虫でも手抜きや縮小は許されません。そこでですが、先ほどまで公共通貨は無利子で融資されると申しましたが、これに1~2%の利子を付けて、それを国家の収入源にしたらどうか。公共通貨による融資は国民経済の大動脈をなしているので、たとえ1~2%の利子でも国の収入は膨大なものになる筈です。そしてこの方策には税金と違って不正や不公平ということが全然ありません。

実はこの方策には実例が現存しています。アメリカの北ダコタ州には北ダコタ銀行という20世紀始めに西部の農民運動が生み出したアメリカで唯一の州立の銀行があります。これは地域経済の繁栄と発展のために創設された銀行で、今のアメリカのメガバンクの危機の中でもビクともしていません。そしてこの銀行の利子収入は州政府の収入になります。そのお陰でアメリカ50州のうち46州がほぼ破産状態なのに北ダコタ州の財政は黒字です。この実例をみても、国家の収入源が税金と国債ということがいかに経済と政治を根本から歪めているかが分かります。

衆知を結集したプランづくりを

それから最後に強調しておきたいことは、ベーシック・インカムにせよ公共通貨の発行にせよ、いざ実施するとなるとそのやり方は国情や歴史の違いゆえに国毎に千差万別になるだろうということです。だから私がみなさんに関プランというものを出して押しつけることはできません。

会場には120名以上の市民が詰めかけた。

会場には120名以上の市民が詰めかけた。

参加者のなかには小沢修司さん(京都府立大学教授)、田中康夫さん(新党日本代表)、曽我逸郎さん(長野県中川村村長)の姿も。(後ほど公開予定の質疑応答参照)

日本の国情にいちばん適して、みんなが望む案はどういうものか衆知を集めて考えるしかありません。公共通貨、国民配当、正当価格、この三つの原則さえ守れば具体的なやり方はいろいろある。ですから、今日会場で資料をお渡ししましたのも、家に帰ってから資料を読んでいただき、どういうやり方がいいか、みなさんなり、グループなりで考えていただきたいからなんです。

たとえばです、公共通貨で企業に融資するとして、公共性の高い企業に融資するのはいいけれど、パチンコ屋に融資するかどうか、ちょっと考えちゃうと思うんです。といっても、パチンコ屋が庶民の娯楽であることも否定できない。融資しないのもおかしいのではないか。ですから、もし公共通貨が実現したとしても、民間銀行に一定の役割はあるだろうと私は考えております。しかし部分準備制度に基づいて無から幻のマネーを作り出すことは絶対に認めてはいけない。これが諸悪の根源なんですから。あくまで預かっている預金を必要な人に貸して手数料を稼ぐだけの堅実なマネーの仲介業者であってほしい。他方で、民間銀行なんかなくしてしまえ、国立銀行と公共通貨一本やりでいいんだという考え方もありうる。

さっき、リチャード・クックについて言及しましたが、彼のクックプランでは、月10万円ほどのベーシック・インカムを紙幣でなくバウチャーで配ることになっています。ベーシック・インカムはあくまで衣食住に使ってもらいたい、酒や博打に使われちゃ困るからバウチャーでやる、ということなんです。私としてはベーシック・インカムを酒や博打に使う人がいたって構わないじゃないかと思うので、バウチャーでやるというのはきついなあと感じます。それはとにかく、これもやり方がいろいろある一例です。

それから、公共通貨の発行にしても、そのために国立銀行を新たにつくるのか。日銀なり日銀券をそのまま残して中身を換骨奪胎してやるという手法もありえます。だから社会信用論の具体的なあり方は、歴史と国情に即して実に多様なものになります。

社会変革の道具としてのベーシック・インカム

ここで私個人の考えを申し上げますと、日本という国には明治維新以来の東京一極集中という一大害悪があると思います。東京だけがグローバル都市になり地方は植民地化されてきました。今はもう植民地どころではなく棄民地域みたいになっている地方もある。それだけに地方が再生すれば、その農業、地場産業、中小企業なりが再生すれば、そこから新しい形の経済、たぶんよりエコロジカルな経済が誕生するでありましょう。

そう考えると、ベーシック・インカムを実施する際には首都圏を5年くらい所得保証の対象からはずしたらどうだろうと(会場笑い)、そうすれば、地方に行けば基礎所得が保証されるというので、首都圏に集中している人口、とくに若年層がどっと地方に移動して、自動的に人返しができる。

たとえば東京のサラリーマンで、できれば脱サラして地方で有機農業をやりたいと思っているような人。しかし農業でそれなりに自立するには10年やそこらかかるでしょう。ベーシック・インカムがあれば、その間安心して農業の習得に専念できる。そして地方に若者が来る、人が来る、それだけで需要が生まれ、ビジネスが生まれます。だから首都圏は一定期間保証の対象からはずした方がいいというのが私の意見です(会場笑い)。

まあ私の案に皆さんが賛成するかどうかは別にして、ベーシック・インカムはこんな風に社会の変革にも使えるということはとても大事なことだと思います。

皆さんもお分かりのように、目下の経済危機はたんに経済的なものではありません。恐慌に加えて地球の温暖化や原油生産の逓減というダブルパンチになっています。これはいわゆる“緑のニューディール”で太陽光発電を普及させたくらいでは到底乗り切れない危機、文明の転換点だと言っていいと思います。こういう転機には、学者や役人はもう頼りになりません、文明の転換のためには、無数の無名の人々が草の根レベルで試行錯誤して新しい生き方を模索することが必要でしょう。そしてベーシック・インカムは、そうした人々がいろいろな実験を試みることを容易にします。失敗や挫折を恐れない生き方を可能にします。

ベーシック・インカムというと、雇用や所得をめぐる不安がなくなるというその福祉効果に我々は気をとられがちなのですが、社会的な実験が容易になることにその最も重要な意義があることを強調しておきたいと思います。

党派を越えた議論に期待

締めくくりにあと二点ばかり申し上げたいことがあります。とにかくベーシック・インカムは決して党派的な主張にしてはならない。戦前の社会信用運動が挫折した理由のひとつが、なまじカナダでダグラスの議論が大評判になって党派ができちゃったことなんです。社会信用党という党が結成され、しかもそれがアルバータ州で政権の座に就いた。ところが州政府の権力を握ったのはいいけれど、結局社会信用運動の名に値することは何もやらなかった。そして最後には世論に一種の右翼政党とみなされてしまった。ダグラスは当初はこの党に助言していましたが、すぐに見切りをつけ批判の文章を書いています。そのような苦い経験があるわけです。

ベーシック・インカム、公共通貨、正当価格は、理性と良識に基づく超党派のポリシーでなければならない。これには、財界人でも賛成する人がいるかもしれないし、貧乏人でも絶対反対という人がいるかもしれません。とにかくこれはイデオロギーとか階級階層の問題ではないと思います。

まず社会信用論についてネットなどを駆使して世論を啓発する。そして説得と討論、ひたすら理性と良識に基づく説得と討論に頼るしかないのです。その点で、社会信用運動はまさにデモクラシーの実践そのものです。それに、考えてみてください。社会信用論を実行して損をする人は誰もいないのです。個人も家庭も企業も国家も、みんな得をします。まあ銀行だけは損をするかもしれません。しかし銀行だって恐慌で破産するよりは堅実な地域銀行として生き延びた方がましでしょう。

ただし現在の歪んだ社会構造のお陰で個人的に権勢や特権を享受している権力亡者だけは、自分の地位と影響力の低下を恐れて反対するでしょう。しかし反対する人たちの大部分は、たんに論理がよく呑み込めていないだけでしょう。

そして締めくくりとして皆さんに申し上げたいことは、現代はもう右翼か左翼かの時代ではないということです。全く別の焦点が生じているのです。所得は雇用によってのみ生じるものなのか、それとも人間の基本的な自然権、ナチュラルライツに属するのかという焦点です。

現代社会は今後、この焦点をめぐって揺れ動くことになるでしょう。そして問題をさらに掘り下げてみると、これはマネーについての考え方の対立であることが分かります。マネーは特権と権力の行使を可能にする神秘的な呪力を発揮するものという考え方。そうではなくて、マネーは万人が人間らしい生活を自由に享受するために社会の連帯から生まれた生活インフラの一種であり、マネーによって人間は美しく楽しい不安なき人生を生きることができるという考え方。この二つの考え方の対立なのです。

そして現に、これは時代の争点になってきています。オバマ・ブームのアメリカでも、経済危機が深まる中で社会信用論に近い主張を掲げる動きが随分広がってきています。連邦準備銀行を廃止せよ、ベーシック・インカムを実施せよ、という議論は少なくともオンライン・メディアではすでにありふれたものになっています。そしてアメリカ人は、アメリカで最初にベーシック・インカムの実現を訴えたのは公民権運動の偉大な指導者マーチン・ルーサー・キング牧師であったことを思い起こしています。日本でも似たような動きが連鎖反応のように広がる可能性があると思います。それにこそ期待しております。

そして冒頭に申し上げましたように我々が直面している現実が恐慌であるとするなら、恐慌は社会信用論が提示した三つの方策、公共通貨、国民配当、正当価格、とくに最初の二つですね、これによる以外に解決されることはないであろうと確信しております。

どうも、たいへん時間をオーバーしてしまいました。申し訳ありません。ご静聴ありがとうございました。(拍手)



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学生運動世代

学生運動世代もそろそろあの世という人が多い
それぞれの人間の生き方を見ていると
やはり考えさせられる

じっとじっと自分の道を進む人あり
途中からマスコミ受けして安田講堂の時のことを商売にしている人もあり

天国に行ける人は誰だろうかと
見守っている

いやどんな人も天国に迎えられて欲しいと
祈っている
「そんな人でさえ」


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タルコフスキー監督「ノスタルジア」

相変わらずタルコフスキー監督流で、
水浸しの画面が多い。

象徴的な表現が多いので、
解説を参考にしながら何度も見なければ、
何を描こうとしているのかよく分からないと思う。

しかしその画面画面の美しさは独立した価値のあるもので、
話の内容を別にしても、魅力的である。

言葉も、すべてを言い切ってはいない。
言わずに飲み込む言葉の多いことを想像する。

この映画で、人間は組織ではない。社会ではない。
むしろ、水や草と地続きの、壊れやすい何かである。
われわれが常識として持っていて自分たちを支えている観念を
引きはがされたあとの、むき出しの人間がただ一人、
横たわっているようだ。

それこそがわれわれが死ぬ時の情景である。

映画を見ていて、ケン・ウイルバーの「プレとトランスの錯誤」を考えた。
ケン・ウイルバーは物質世界と精神世界の関係を歴史として考える時、
1.呪文や呪術で物質世界をコントロールできると夢想した時期。これが古代。
2.物質科学の時期。精神世界の現実の力はなし。これが現代。
3.精神世界が物質世界に影響を与えることができる、未来の世界。
というように大雑把に分けて、
3.の未来を語る時、理解しない人は、それを1.の古代と混同してしまうと批判する。1.の古代が「プレ」であり、3.の未来が「トランス」である。

たとえば先日読んだ「空海」の呪術体系の中に、どれ程のプレがあり、トランスがあるのか、吟味してゆく作業は、大変意味があるだろうと思う。ひょっとしたら全部がプレで、空海のいかさまぶりがあらわになるかもしれず、逆に、大変多くのトランス部分が含まれていて、人類にとっての大鉱脈を提供してくれているのかもしれない。

プレとトランスを区別することは難しいのだが、映画「ノスタルジア」の中では、
プレではない、トランスだと明確に主張する人物が出てきている。
それが狂人なのか、いかさま師なのか、天才なのか、凡人の我々には区別がつかない。
最後にろうそくは消えず、希望を残してくれる。

*****
宗教的人間というものは、人間本来のあり方なのか、
あるいは、神経症的なもので、現実に対する不適応の一種なのか、
このような映画を見ていると、人間は本質的に宗教的な存在であると感じられる。

*****
イメージの発火点のようなものがぎっしりと埋め込まれている。
なぜなのだろう。
見ているうちに果てしなく誘発されるものがある。



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訴訟の報道の非対称

訴訟の報道を見ていると、たいていは、
訴えて、勝訴した側の言い分は、充分に報道される。
一方の、訴えられて、負けた方の言い分は、たいてい大企業とか役所であって、
「今後充分に検討してから」とか
「まだ判決本文を読んでいないから」とか
逃げのコメントをわざわざアナウンスしているので、
ばかげている。
それでは、充分に検討した結果、どうなのか、
時間をおいてもいいから、きちんと伝えてほしいものだと思う。

それがないと報道としては非対称であって、
正確な印象形成ができない。

どうしてそんなばかげたコメントを許すのだろう。
いままで裁判で弁論を展開してきたのだから、もっとましなことが言えるはずだ。

*****
判決というものは突然出るわけではないから、
会社や役所としてもコメントを用意する時間は充分あるはずで、
検討を要するとは、ノーコメントということだ。
しかも、そのあとで控訴することもあるのだから、それならば、
ノーコメントは許されないだろうと思う。

正しい主張を伝えればいいではないか。

反省するなら反省しますと発表すればいいし、
判決が納得できないならできないできちんと伝えて、
主張をアナウンスした方がいいように思う。

少なくとも、和解せずに、判決まで引っ張ったのだから、
自分たちの主張はあるはずだと思うのだ。

なぜそれをチキンと説明しないのだろう。
たぶん理解されないから、もう一般向けには何も言わないということなのだろうか。
裁判の過程ではきちんと主張を組み立てているはずだから、それを言えばいいだけではないか。

なぜ、検討をするとしか言わないのだろう。


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米の小児心臓移植、日本人患者に高額請求…4億円前払いも

米の小児心臓移植、日本人患者に高額請求…4億円前払いも 

日本人の心臓移植希望者を唯一受け入れている米国で、日本の小児患者が移植費用として、1億6000万円を請求される症例が昨年あったことが17日、わかった。 

今年3月には、医療機関へ事前に支払うデポジット(前払い金)として、別の小児患者が4億円を求められた。値上げの理由について、医療機関は明らかにしていないが、米国で も臓器不足は深刻なため、外国人の医療費を値上げすることで自国の待機患者の不満を解消するなどの意図があるとみられる。 

調査したのは、国立成育医療センター研究所の絵野沢伸室長。米国と今年3月に新規受け入れを中止したドイツで、1998年~2008年に心臓、肝臓などを移植した日本人患 者66人を対象に、集めた募金額や医療費などを分析した。 

このうち、医療費が他の臓器よりもともと高かった心臓移植を受けたのは42人。うち、米国で07年までに移植し、費用明細が判明した23人の医療費は、集中治療室(ICU )に入った重症患者など3人(99年~04年)を除くと、すべての症例が3000万~7000万円台で推移していた。これに対し、08年は4人すべてが8000万円を超え 、うち南部の小児病院と西海岸の大学病院で移植を受けた2人は、1億6000万円と1億2000万円を請求された。 

米国に次ぐ数の日本人が渡航していたドイツでは費用明細がわかった8人の平均額が約3900万円で済んでいた。 

4億円のデポジットを請求したのは西海岸の大学病院。デポジットは患者の医療費支払い能力を確認するため、医療機関が請求する。額は医療機関の裁量で決まり、値上げ理由は 示されないことが多い。安く済んだ場合、残金は返済されるが、追加請求される症例の方が多い。 

渡航移植には渡航費、付き添い家族の滞在費などもかかる。絵野沢室長は「医療費は今後も上がる可能性があり、国内で移植を完結できる体制を整えるべきだ」と指摘している。 
(2009年6月18日03時03分 読売新聞) 


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20歳代後半の男性、結核で死亡…大阪

20歳代後半の男性、結核で死亡…大阪

大阪市は25日、同市中央区の飲食店でアルバイトをしていた20歳代後半の男性(同区在住)が2月に結核で死亡し、同僚や友人ら20~30歳代の男女9人が感染したと発表した。
若年層の死亡、集団感染例は珍しいという。飲食店の客への感染は確認されなかったという。

市保健所によると、死亡した男性は一人暮らしで、2004年頃から同店の厨房(ちゅうぼう)で勤務。07年1月にせきが出始め、昨年9月以降、たびたび体調を崩し、同12月には働けなくなるほど容体が悪化したため退職。今年2月10日、一人で立てなくなった状態で救急搬送された病院で結核と診断され、専門病床で治療を受けたが、13日後に死亡した。市保健所が男性の接触者18人の血液検査を行ったところ、9人の感染を確認。治療を続けているが、いずれも症状はないという。

(記事提供:読売新聞)


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百回優しくされても

百回優しくされても
一回だけ冷たくされたことが
何度も思い出されるというのが
人間というものではないだろうか

損な回路になっている

で、雨がつらい

--*--*
百回に一回は冷たくされるんだなと
冷静に受けとめることができれば
ずいぶんちがうのだけれど


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銚子の次は旭

銚子の公立病院が大いにもめて
次は旭だろうとずっと言われていて
実際に旭でもいろいろとあるらしい

公立病院の運営のどこが問題なのか
分かっているのに
言えないこの社会が
問題なのだと思う


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いしだあゆみ Ishida Ayumi  " ブルー・ライト・ヨコハマ "

http://www.youtube.com/watch?v=oKZuHI9j4G8

ずっと昔、青山を歩く恋人同士よりも横浜を歩く恋人同士になりたいと思った

実際に横浜を歩いた
元町が買い物の中心であったこともあった
みなとみらい地区を使っていた時期もあった

でも歌にあるようなすてきなことは何もなかった
すてきな散歩というよりも中華街で食べていることが多かった

それはいいとして
横浜にはもうずっと行っていない

国際学会にちょうどいいような気もするが
偶然かどうか最近は横浜で開催されていない

あとは何の用もない
横浜の美術館で何かあっても
面倒で行かない

ブルー・ライト・ヨコハマ
とか
恋人も濡れる街角
とか
歌の中での横浜はすてきだ

たまには古い知人を訪ねてオフィスに
立ち寄ってみようかと
少しの間考えたが
邪魔だろうと思うのでやめた

このあたりでもう一歩考えを進められないところが
人生を楽しくできない原因ではないかと思う

馬車道のオフィスだ

*****
わたしが寂しいのだから
向こうだって寂しいときもあるはずなんだと
自然に思えたら
気分も楽なんだけどな

そうもいかないだろうな
もう、遠い世界だ


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井筒俊彦先生の「意識と本質」(岩波文庫)

井筒俊彦先生の「意識と本質」(岩波文庫)

人間の本質を解き明かそうと瞑想していくと、精妙で純粋な、限りなく透明感のある意識に近づいていき、自分自身が存在するという意識はハッキリとあるのですが、それ以外の五感はすべてなくなり、最後には「存在」としかいいようのない意識状態になります。

それと同時に、森羅万象すべてのものが、存在としかいいようのないものから成り立っていると意識できるようになる。その意識状態こそが人間の本質を表しているというわけです。

 僕というひとりの人間が意識することで、「花」という言語はそこに生きている「(花と呼ばれるべき)存在」にも影響をもたらします。

何故ならその存在が「花」という僕の意識のなかから生まれた「花」を多様なすがたで演じてくれているからだといいます。

 「花が存在している」のではなく「存在が花をしている」。

これは故井筒俊彦氏が「意識と本質」というテーマで論じられていることを思い切り簡略にした要旨ですが、このことを、心理学者の河合隼雄氏は、実にやさしい言葉で言い替えておられます。

—「あなたという存在は花を演じておられるのですか。私という存在は河合を演じているのですよ」とその花に語りかけたくなる、と。

 上述の「五感がなくなり存在感だけが残る」のくだりは、まるで般若心経 Heart Sutra の導入部かあるいは禅のメディテーションをしている感覚ですが、井筒先生のご専門はイスラームとその哲学でした。

*****
久々にこんな文章に接してみているが
考えてみると
ケン・ウィルバーの指摘するプレとトランスの錯誤がこのあたりにも潜んでいて、
それをきちんと明示することは結構難しいように感じる。

*-****
ポエムに対して
ポエムで応じているだけかもしれず
それはそれでいい

あるいは本気なのならば
それはそれでどうなのかと言わざるを得ないかもしれない。

学校のイスラム学の先生としてはそれでいいのかもしれない。

大局的に見て 期待される役割を演じているのだから
それでいいということになる

**-**
どうしようもなくつまらない


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嫉妬

日曜の昼くらい、短い番組
古本の町、神田神保町でインタビュー
あなたにとって大切なもの

中で一人
鉄人28号のおもちゃが大切という人がいて
「もし、人手に渡ることになったら、自分の手でぶっ壊します」
と語っていた

*****
愛着とはそのようなものかと
何だかよく分かったような気がする

*****
愛しているのになぜ破壊するのか

自分と対象との特別な関係がこの場合の愛なのであって

誰か他の人とその対象が「愛」の関係に入るとすれば、それは許せない

嫉妬である

自分だけ不幸せに取り残されるくらいなら

愛している鉄人28号を打ち砕くという気持ちである

*****
嫉妬が連鎖して どこまでも続くようだ


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DNA検査の威力

以下を採録

*****
情報の技術インターネットを超えて 日垣隆
2
事件
誘拐殺人事件が起きる前日の夕方も、若い父親は娘を連れてパチンコに興じていた。
四歳八ヵ月になる真実ちゃんは、父親から見ても「わんぱくという表現がぴったりの、明るくて活発
でおしゃまな子」だった。幼児語も抜け、大人に対する受け答えも明快で、「理由もなく知らない人に
誘われてついていくような子ではありません」と母親も断言する。保育園の担任によれば、「とにかく
はっきりした活発な子というイメージでした」。
JR足利駅と渡良瀬川のほぼ中間にある「ニュー丸の内」と「ロッキー」は、同じ経営者による隣接
したパチンコ店で、栃木県足利市はもとより群馬県からの来客も多い。渡良瀬川寄りの駐車場の一角で
3
前夜八時ころ、ロッキーの女性従業員は真実ちゃんに、「こんな所で遊んでいると変な人に連れていか
れちゃうよ。変なおじさんがお菓子をあげるといっても、ついていっちゃあだめだよ」と話しかけ、真
実ちゃんは、「絶対ついてなんかいかない」と答えたという(以上は各「調書」による)。
だが、事件は翌日の夕刻に起きた。一九九〇(平成二)年五月十二日、土曜日。父親はこの日も午後
六時半ころ(検察側はのちに午後五時五十分に訂正)から真実ちゃんを連れて同じ店に入った。真実ち
ゃんが見当たらないことに父親が気づいたのは八時前後(司法解剖により死亡推定時刻が五月十二日午
後七~八時前後と報告されたためか、同じく父親が真実ちゃんの不在に気づいた時刻を午後七時三十分
に訂正)、足利署に届け出たのは九時四十五分だった。百人近い捜査員が投入され、警察犬も出動した
が、真実ちゃんは見つからなかった。
翌朝から捜索を再開。午前十時二十分、河川敷で真実ちゃんの遺体が全裸で発見された。
焦燥
一週間たっても、犯人に結びつく有力な手がかりは得られなかった。犯行現場が県境であったことか
ら、群馬県警とも協力態勢をとることになった。群馬県の太田市や尾島町にも捜査の網を広げていくこ
とに決まったのは、五月十九日に開かれた警察庁と群馬県警の幹部を交えた合同捜査本部の席上である。
泊まり込みが続く捜査本部には、県内各地から激励の手紙や差し入れが間断なく届けられた。足利市
の地域婦人連絡協議会は連日、炊き出しをして捜査員を励ました。
周辺住民にとって真実ちゃんの事件は、まさに三たびの悪夢を呼び覚ますものだった。十一年前(七
4
九年八月三日)には当時五歳の万弥ちゃんが行方不明となり、六日後にパンツ一枚でリュックサックに
詰められ遺体となって発見された。その遺棄現場も渡良瀬川の河川敷、しかも今回の真実ちゃんが捨て
られていた目と鼻の先の対岸だったのだ。
それだけではない。五年半前(八四年十一月十七日)にも、足利市内のパチンコ店で両親が出玉に熱
中する間に行方不明となった当時五歳の有美ちゃんは、その一年四ヵ月後(八六年三月七日)に白骨死
体となって自宅近くの畑から発見されている。有美ちゃんも衣服を脱がされていた。
足利市にほど近い群馬県尾島町では、三年前(八七年九月十五日)に小学二年生の朋子ちゃんが行方
不明となり、利根川のアシ原で白骨死体となって発見されたのは一年二ヵ月あまりたってからだ(八八
年十一月二十七日)。
これらはいずれも未解決だった。足利市民が騒然としたのも、また捜査への協力を惜しまず「幼女連
続誘拐猥褻殺人事件」の犯人逮捕を熱望したのも、その背後には三件もの未解決の類似事件があった。
おおむね共通して絞殺であり、性的犯罪の痕跡があり、目撃証言によれば、十一年前の事件では二十代半
ばの男性、三年前の事件では三十代半ばとされていることから、犯人は同一人物なのではないか、もしそ
うなら今回の真実ちゃん殺しの犯人は四十歳前後になっているのではとの憶測もなされた。
焦燥を深める捜査本部が俄然、勢いを取り戻すのは事件発生から一ヵ月後のことだ。
B型の男
六月十二日の各紙朝刊には「犯人の血液型B型と判明」との見出しがつけられている。これは、栃木
5
県警察本部刑事部科学捜査研究所(科捜研)技術吏員によって提出された「鑑定書」に基づく報道であ
る。鑑定書によると、川底から発見された真実ちゃんの衣服を精液検査(酸性フォスファターゼ試験)
したところ、陽性反応があったのは半袖下着だけで、その背面に希薄な精液が点在して付着し、「その
血液型はB型の反応を示した」と明記されている。ただし注意深く鑑定書を読むと、「精液の点在」や
「B型の反応」は相当に危うい断定だったことがうかがえる。精液が認められたとされる半袖下着の背
面の二ポイントのうち、一点からは「精子の頭部を2個発見(陽性)」、他の一点からも「精子の頭部を
1個発見(陽性)」、そして、「弱くB型の反応」を示したと書かれている。普通、一ミリリットルの精
液には一億個の精子があるというのに。
たとえ黄色いしみが精液斑たったとしても、それが犯人のものと断定できるのか(一昼夜も川底にあ
った下着から精液斑を採取できたのが本当ならば、父親のパンツと一緒に洗濯すれば精子の二百個や三
百個がついていても不思議はない)。犯人は変質者や男性とは限らず、また他人の精液を付着させた可
能性さえ否定できない。
ともかくこうして捜査本部は犯人像を、「土地勘のある、B型の、ロリコン男」と断定、八班に分か
れた捜査員百八十四名は足利市内全域にローラー作戦を展開した。両パチンコ店の常連客千五百人を特
定しただけでなく、事件発生当日にパチンコ店にいた約四百人、運動公園にいた約七百人、河川敷にい
た約三百五十人、釣りをしていた約二十人のすべてに面接調査を実施。群馬県警の協力も得て、性犯罪
前歴者のみならず、周辺のレンタルビデオ店でロリコンものを借りた男性のデータを各店長に「任意提
出」させて、約千五百人にアリバイを問いただした。
6
唾液の任意提出には足利市内の数千名の全男性が応じざるをえず(県警は唾液から血液型を判別する
自動検査機を事件直後に千六百万円で購入した)、B型の男はみな疑わしい目で見られ、ましてや一度
でもロリコンものに手を出したとなれば窮地に追い込まれる、といった事態も決して冗談ではなかった。
鑑定
この足利事件には、DNA型鑑定の威力を、マスコミを通じて大蔵省にも認知させるべく警察庁の多
大な期待がかかっていた。警察は、後に逮捕される菅家利和容疑者に過去の二事件についても嫌疑をか
け、最新の科学捜査によって逆転満塁ホームランを打つとさえ、事件当時の警察庁刑事局捜査一課長·
山本博一氏は講演会で明言した(九一年十二月十八日)。警察庁刑事局長(容疑者逮捕当時)は國松孝
次[ 前] 警察庁長官であった。國松刑事局長が、衆議院予算委員会で初めてDNA型鑑定のPRを行う
のは九一年五月二十九日のことだ。山本捜査一課長は、事件後(九〇年九月)、栃木県警本部長に栄転
して総指揮に当たり、一審の有罪判決時に警察庁鑑識課長だった森喬氏も、九四年七月から栃木県警本
部長として控訴審の維持に努めた。
警察庁の科学警察研究所(科警研)が、MCT
118
型という第一染色体上の特定部位に目をつけたDN
A型鑑定を実用化するのは九〇年十月。栃木県警がマークした菅家利和さん(当時四十四歳)の尾行を
開始するのは翌月からである。ポルノ·ビデオを百本あまり(ただし、ロリコンものはなかった)とダ
ッチワイフを所有し、幼稚園バスの運転手であり、B型であったことから、菅家さんは有力容疑者とさ
れたのだった。二人の尾行者の目的は、幼児への異常な行動を監視するためと、DNA型鑑定に必要な
7
体液を本人に気づかれることなく入手することである。丸一年間にわたって尾行したが、幼児がらみの
不審な行動は皆無だった。
ただし尾行開始の半年後に、菅家さんが出したゴミ袋からティッシュペーパー五枚を入手することに
成功する。唾液にはDNAが含まれておらず、令状もなしに(たとえあっても)血液採取を強いること
はできないから、相手が男の場合には自慰射精した使用済みのティッシュペーパーが、捜査員の標的に
されたのである。おちおちティッシュも捨てられぬ世の中になったものだ。
ところで、警察庁の科警研が九一年十一月二十五日に作成した鑑定書(これがDNA型鑑定であり菅
家さん逮捕の決定打になる)には、なぜか同じ真実ちゃんの半袖下着の、(県警の科捜研が一年半前に
行った鑑定書に記された位置とは)ややずれた二ポイントの「斑痕からは、ほぼ完全な形態を示す精子
及び精子の頭部が少数認められた」。これを鑑定人は法廷で「一万五百から一万二千個」と証言した。
しかし、当時の捜査状況をよく知る関係者によると、科警研は栃木県警からの再三のDNA型鑑定依
頼を、付着精液が微量すぎるため鑑定不能との理由で辞退していた経緯があるという。しぶしぶ鑑定を
引き受けて(九一年八月二十一日)から(八月二十八日には警察庁が大蔵省にDNA型鑑定機器導入の
ための初年度の概算要求を行った)三ヵ月もかけて鑑定がゆっくりなされ、この前後に半袖下着に付着
していた精子の数が「頭部のみ三個」からいきなり「一万五百から一万二千個」に、なぜか増えたので
ある(科警研によれば「最初の鑑定時にすぐ精子が見つかれば『頭部のみ二個』というのは別に珍しい
ことではなく、ありふれた普通の話」だそうです)。
身内の研究所の同一鑑定人が、対照すべき二つの資料(ティッシュの精液と半袖下着の精液斑)のD
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NA型を同時に鑑定する、というのは、模範解答を最初からマインドコントロールされたようなものだ
が、しかもあとで裁判所や弁護人が検証できる余地までなくした(半袖下着に付着していた精子を全部
使ったうえ、精液斑を焼却してしまった)のだ。とにかく一致さえしてくれれば、全道府県警にDNA
型鑑定の特別室と機器が新設され消耗品が恒常的に確保できる絶好のチャンスとなる。
これまでにも科学鑑定がらみで、よそから毛髪をもってきたり(大分みどり荘事件では短髪の容疑者
から長髪が採取されたことになっていた)、陰毛を入れ替えたり(鹿児島夫婦殺害事件)、しばしば逮捕
と公判維持のため警察官にも魔が差すことがある。
逮捕
さて、科警研の鑑定書によれば、ティッシュと半袖下着の精液斑ともに、ABO式血液型がB型、ル
イス式は
Le
(a-b+ )分泌型、MCT
118
型についてのDNA型鑑定では
16
26
型であった、という。
のちに科警研はMCT
118
型に使っていたマーカーを途中で新しいものに変更し、この
16
26
型との判
定を
18
30
型として修正しているのだが、それは後の祭り。これらを掛け算した確率頻度(千人に五人
程度)など、「黒髪で団子鼻で二重まぶた」という程度の組み合わせ頻度(これらもすべてDNAの塩
基配列上の問題)と、まったく変わるところはない。けれども、当時はまさにDNA型鑑定といえば葵の
御紋であったのだ。「この方法で、判定をまちがう確率は一兆分の一とも言われている」などと報道
されたこともあった。
さてこうして、科警研がDNA型での「一致」を認めた鑑定書を作成し終えるのは九一年十一月二十
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五日である。栃木県警本部は、菅家さんに事情聴取する段取りを十二月一日に設定する。もちろん、地
元の新聞社(および全国紙の支局)は知るよしもない。
しかし十二月一日(捜査本部が菅家さん宅に向かう当日の朝)には、読売新聞の一面トップに「幼女
殺害/容疑者浮かぶ/
45
歳の元運転手/DNA鑑定で一致」、朝日新聞は社会面トップで「足利市の保
育園女児殺し/重要参考人/近く聴取/毛髪の遺伝子ほぼ一致/市内の
45
歳男性」、毎日新聞は「元運
転手、きょうにも聴取/現場に残された資料/DNA鑑定で一致」と大々的に報じた。
これを見て驚いたのは、地元の下野新聞と栃木新聞と、完全に抜かれた産経新聞や共同通信その他と、
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そして菅家さん宅に向かおうとしていた捜査員であった。警察庁がDNA型鑑定機器導入のために重ね
る大蔵折衝が通るかどうかの、まさに瀬戸際であってみれば、十二月一日付全国紙へのリークは実に大
きな意味をもった。
全国紙を見て百人近い報道陣が詰めかけ、十二月一日の足利署は異様な雰囲気に包まれた。今か今か
と待ち構える報道陣を階下に、自白調書の作成が急がれた。橋本文夫警部から菅家さんは肘でなぐられ、
髪の毛を引っ張られて「馬鹿面しているな」と罵倒されたという。「なぜ死体にお前の精液があったの
だ、本当のことをいえ」と十五時間も繰り返され、おびえきった菅家さんは、深夜には最初の自白調書
に捺印した。そうすれば眠らせてくれるという約束だった(菅家さんによる)。
翌二日に逮捕。四日にはティッシュを押収した警部補や自白調書を執筆した警部ら八人が県警本部長
から表彰されている。二十一日に宇都宮地検は菅家さんを起訴、二十六日にはDNA型鑑定機器導入費
用が復活折衝で満額認可された。
菅家さんはまた、七九年の万弥ちゃん殺害事件と八四年の有美ちゃん殺害事件も「自供」し、二十四
日には万弥ちゃん事件で再逮捕される(万弥ちゃん事件で菅家さんは翌九二年一月十五日に処分保留と
なり、有美ちゃん事件と合わせて九三年二月二十六日に不起訴となった。あの一連の「自供」はいった
い何だったのだろう)。
菅家さんが逮捕された当日の朝刊には、「否認突き崩した科学の力」(下野新聞)、「一筋の毛髪決め
手」(読売新聞)、「DNA鑑定切り札に」(毎日新聞)、「DNA鑑定が決め手」(産経新聞)、翌日も「ス
ゴ腕DNA鑑定」(朝日新聞)と、絶賛のオンパレードだった。
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足利署に連行され「自供」を強いられたその日曜日は、職場の同僚だった保母さんの結婚披露宴に、
菅家さんは参列する予定だった。父親はその二週間後に心労のため急逝する。
調書
十二月一日に作成された調書は、以下のとおりである([]内は判決文や日垣による事後検証など
に基づいて補った)。
「本件犯行当日、私は、勤め先の旭幼稚園を午後一時すぎに出て、自宅へ戻り昼食後、自転車で渡良瀬
川沿いにあるパチンコ店『ニュー丸の内』へ行って遊んだ後[同店に立ち寄った痕跡はなく、目撃者も
ゼロである]、三、四千円儲けて両替所で現金に替えたが、その時、両替所の近くの駐車場で遊んでい
た四歳くらいの赤いスカートに、色は忘れたが短いTシャツのような上着を着た女の子が目についた。
その子は非常にかわいい顔をしていたので、『自転車に乗るかい』と声をかけたところ、『乗る』という
ような返事をしたので、私の自転車の荷台にまたがるようにして乗せ、そこからすぐ近くの渡良瀬川ま
で乗せて行った[きわめて急な坂道が続くため、ひとりでも自転車をこぎ続けるのは競輪選手でもない
かぎり無理だろう]。
河原で自転車から女の子を降ろし[そこでは菅家さんをよく知る人たちが野球をしており、にもかか
わらず誰も菅家さんを見た者はおらず、そんなところに自転車を止めたら、危ないから未知の人でも絶
対に注意したはずだと野球部監督は法廷で証言した]、手をつないで歩いている途中、自然にいたずら
するという気分になり、騒がれては困るという気持ちから、女の子の首に手を掛け、うつ伏せの状態に
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して、両手で首を絞めて殺してしまった[発見直後に撮影された写真を見ると、鼻腔や口腔から泡沫液
が流出し、しかも被害者の目や鼻には砂が詰まっており、溺死を強いた可能性が強いが、捜査段階や一
審はその可能性をまったく問題にしていない]。
殺した場所は、渡良瀬川の北側の河原で、私の背丈くらいある雑草が茂っていた[この場所に初めて
行ったのは現場検証のときだと、菅家さん本人はいう。五月の午後七時半といえば真っ暗なため懐中電
灯なしでアシの茂った河原を自在に歩くことは無理であり、まして犯行の全行程を三十分でやったと見
なすのは、しんどい。現場周辺での目撃者もゼロであることから、誘拐は自転車ではなく車による拉致
であり、殺害現場は別に存在し、死体は深夜に遺棄されたものと考えるのが妥当であろう]。
その場所から一〇メートル位岩井橋の方へ[のちに百メートルに訂正される]、女の子を抱きかかえ
て、雑草の生い茂った場所に移動し[なぜわざわざ移動する必要があったのだろう、鬱蒼と茂ったアシ
の茂みの暗やみの中を]、女の子が履いていたスカートと上着、運動靴、パンツなどを脱がせて裸にし
[真実ちゃんはパンツを二枚重ねで履いていたのだが、そのことは橋本警部も知らなかった模様である]、
そこで自分の陰部を出して自慰行為をして精液を出した。精液が、女の子の両足の下の方にかかったと思
うがはっきり憶えていない[死体からも地面からも精液はまったく検出されなかった]。
女の子のスカートなどについては、その付近に捨てたように思うが、後でよく思い出してお話しする。
女の子を全裸で仰向けにして、そのまま逃げて自転車で福居町に借りている借家に行った[現場検証で
菅家さんは死体遺棄現場を指定できずに警察官が場所を教え、警察官に倣って指差した瞬間、カメラの
シャッターが押された]。真実ちゃんを誘い出した時間は、午後六時過ぎころだったと記憶している。
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詳しいことは後にお話をする」
逮捕翌日(十二月三日)の菅家容疑者の調書は、さらに詳細に作成された。
「[前略]女の子の手を引いて歩いているとき、ムラムラしてしまい勃起した。気持ちがよくなり、小便
をしたくなったので、コンクリートの道路から南に向かって小便をした時、女の子がかわいい顔をして
いたので[午後七時で真っ暗なはずだが]、気持ちがムラムラとしてしまい、女の子を殺していたずら
しようと考えた。そのいたずらは、殺した後、裸にして陰部や体をなめたり、陰部の中に指を入れたり
してオナニーしようと思った[中略、死後]丸裸にした女の子を抱いて、私の口を女の子の口や頬っぺ
た、額、おっぱいなどにくっつけてなめた[後略、この後に延々と凌辱のデータが続く]」
事件の翌日に行われた司法解剖による鑑定結果で「同女の、頚部、腹部、陰部、左大腿部等に、唾液
の付着が認められた」とあり、捜査官はそれを踏まえたのだろう。ただし、このくだりは何も、取り調
べの密室で暴力的に強要されたものでは必ずしもない。いったん、「DNAという科学の力でお前の犯
行は百パーセント」と断言され、「知能が薄弱境界域にあり小心で迎合的」(冒頭陳述)な菅家さんは「オ
ナニーはどうやってやってるんだ?」とか、「エッチなビデオでどんなやりかたを覚えたんだ?」という
質問に対して、正直に一生懸命答えたにすぎない、という構図が浮かび上がる。
誘導
検事による調書は、たとえば以下の質疑応答の結果、作成された。
問「『自転車に乗るかい』と声をかける前に、君は何か言わなかったか」
14
答「……」
問「『何しているの』とか『どうしたの』とか言葉を掛けなかったか」
答「掛けたかもしれません」
問「では、それに対し、真実ちゃんは何と答えたのか」
答「……」
問「覚えていないのか」
答「はい」
問「何か返事をしたことは間違いないのか」
答「……。よく覚えていませんが、そんな気もします」
問「そのあと『自転車に乗るかい』と声を掛けたのか」
答「……。はい」
問「その頃はだいぶ暗かったのだが、真実ちゃんは何か言わなかったか」
答「……。『もう暗いね』とか言ったかもしれません」
問「(よく覚えていないのは)真実ちゃんにいたずらしたいという気持ちが高ぶっていたためもあるの
か」
答「……。はい」
問「人に見られずに真実ちゃんを殺して、いたずらする場所をさがしていたためでもあるのか」
答「はい」
15
一審では、実兄が五十万円で依頼した梅澤錦治弁護士(奥澤利夫弁護士に応援を頼んだので二十五万
円ずつが報酬のすべて)は、たとえば次のような質問を発している。
問「この事件だって、えらいおかしな事件でしょう。小さな子ども殺して、いたずらしているというん
だからね。あなた、正直言って、死んだ子をなめたり何かしたんだろう」
答「……」
問「検事の調書にはそう書いてあるよ」
答「……」
今でも梅澤弁護士は、菅家さんが「やった」と思っている。ただし、「拘置所の面会でも『やったの
か、やらないのか、やったんだな』と聞いたら、コクリとうなずいた。だが今にして思えばあのとき、
『やっていないんだな』と聞いてあげていれば、ハイとうなずいたかもしれない」という。
菅家さんが法廷で犯行を否認すると、梅澤弁護士は、「信頼関係を崩された気分だ。今後も否認を続
けるなら、辞任もありうる」と公判後の記者会見で語っている。菅家さんは、否認したことを詫びた。
だがすぐに、菅家さんは弁護士に直訴する。
「[前略]梅沢先生どうか私を助けて下さい判決も近いのにごめんなさいだけどもう殺っていない
のに殺ったといえません梅沢先生すいません[後略、あとは当日のアリバイが詳細に書かれ、のちに
控訴審の弁護団によって裏付けがとられてゆく]」
こうして被告人が否認したのに、「やった」ことを前提に弁護するという希有な裁判がそのまま結審
し、無期懲役の判決が下されたのだった。
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菅家さんは逮捕以降、家族にあてて一貫して無実を訴え続けていた。
「[前略]俺は事件などおこしていませんDNA鑑定はちがっていますもう一度しらべてもらいたい
ものです無実の人間が犯人にされてはたまらないですまったくとんでもない事ですそれから親父が
亡くなって一年だと思いますがたしか命日が十二月十五日だと思いますが俺は親父の死に目にあえなか
った本当に残念でなりません俺は親不孝をしてしまったでも事件の事は無実です昨年の十二月
一日調べをうけている時顔を上げろといわれて頭の毛をひっぱられましたそして馬鹿面してるなと刑
事にいわれました俺はくやしかった本当にくやしかったくやしくてもどうする事もできませんで
した警察の調べはごういんですやっていない事でもやったと言うまでしつこくていやでした[後略]」
別の手紙で、菅家さんはこう書いている。「私は罪をおかしていないのに犯人にされました。だから
DNA鑑定はおかしいのです」。「俺は犯人がにくい、真犯人をぜったいゆるさない」とも書いた。
このような手紙に対して、検事は論告で、「無残にも殺害された被害者へのいたわりやその家族への
思いやりがまったく表明されていない。……自己のことしか考えない……真摯な反省も認められない」
と非難した。宇都宮地裁の久保眞人判事は、「大事件を起こしたとして肉親からの面会もなく寂しかっ
たことから、見捨てられるのを恐れ、[家族に]無実を訴えた可能性が高い」と判決文で断じた。
最高裁へ
東京拘置所で菅家さんはいう。
「取り調べの橋本警部さんが法廷でも後ろに座っているのではないかと怖かったんです。弁護士さんに
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は、兄が頼んでくれて世話になっているのに逆らえません。遠山の金さんみたいに裁判官が、すべてお
見通しで最後に私の無実を晴らしてくださると思ってましたけど、違いました。だから、すぐに自分で
控訴しました」
控訴届の理由欄には、菅家さんの字で「無実」とだけ書かれている。
控訴審では、資金切れのため国選弁護人がつくことになった。が、やる気のない、というより、本人
が無実を訴えているのにそれを重大事と認識できないその国選弁護人と電話で話していて、ついカッと
なった佐藤博史弁護士は無料の私選弁護人を買ってでる。佐藤弁護士は、DNA型鑑定に最も造詣の深
い法曹人のひとりだった。手弁当で弁護団を結成し、まず控訴趣意書だけで四百八十五ページ、弁論は
五百八十ページ(四百字詰め原稿用紙にして二千三百二十枚)を書き上げた。
「DNAが証明していると断定され、新聞でも大々的に報道されてしまい、だれも味方をしてくれなか
ったら、どんなひとだって自白の一つくらい迎合的にしてしまいます。そんな状況に陥った被告を、裁
判所でもみんなが寄ってたかっていじめたという構図です」
DNAの前に法曹関係者がひれ伏してしまったのであってみれば、その構図を指弾するだけでなく、
検察側を凌駕する専門性と常識(批判精神)が弁護側には必要だ。
それほど遠くない将来、ヒトDNAの全情報が解読された暁には、ヒトに共通する塩基配列以外の、
つまり個人によって異なる塩基配列もすべて特定される。もし指紋鑑定のように「DNA鑑定」による
個人特定が可能になれば、憎むべき性的凶悪犯罪の解明にも決定的な証拠として採用されうるだろう。
しかし現状は、ある染色体のごく一部の塩基配列のパターンを比較するにすぎず、あくまでDNA
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「型」鑑定でしかない。血液型鑑定を精緻化したにすぎない現状のDNA型鑑定に、ある人物が「犯人
でない」ことを証明すること以上の役割を担わせるべきではないのである。しかも弁護側が事後検証を
できず、警察だけが鑑定を独占するようなシステムは時代錯誤というべきであろう。個人特定が可能と
される指紋鑑定では十二ヵ所の厳格な一致が必要なのであり、たとえ十一ヵ所が一致しても他の一ヵ所
が不明であれば「一致せず」と報告される。そのような厳格さは、現状のDNA型鑑定に欠如している。
だが、DNA型鑑定=葵の御紋との暗示にかかってしまった東京高等裁判所第四刑事部の三人の判事
は、九六年五月九日、多くの疑問点を一蹴して原審を全面的に支持、控訴棄却の判決を下した。三人の
判事は公判途中から判決に至るまで、一審の宇都宮地裁で無期判決を下した久保眞人判事と、東京高裁
第四刑事部の新しい同僚として席を並べていた。
判決文朗読の直後、「何かいいたいことは」と判事に問われた菅家さんは、手をあげて、「私はやって
いません。はっきりいえます」と声をふるわせた。
こうして徹底検証の場は最高裁に移された。彼は自分で、上告の手続きを済ませたのだ。
*私が初めて菅家さんを東京拘置所に訪ねた日に偶然、驚愕すべき報道がありました。
「群馬県太田市のパチンコ店で七日昼、……ゆかりちゃん(四つ)が行方不明になった事件で、ゆ
かりちゃんは不明になる直前、母親の光子さん(三〇)の所に来て『いいおじさんがいるよ』と話
していた……。ゆかりちゃんは帽子をかぶった男性と並ぶように座っていた……」(『読売新聞』九
六年七月十一日)。ゆかりちゃんは現在もなお行方不明のまま、公開捜査が行われています。
これが一帯での五件目の事件にならないことを祈るしかありません。「九六年八月」

*****
足利事件は国策捜査だった
当時、菅谷元受刑者の捜査を極秘に進めていた県警は、地元メディアに一切悟られることなく逮捕準備を進めていたのに、なぜか中央の警察庁から捜査情報が複数の全国紙にリークされる。それをリークしたのは、当時、警察庁刑事局捜査一課長・山本博一、警察庁刑事局長・國松孝次の二人です。
  警察庁は、当時導入を計画していたDNA分析機の予算要求を大蔵省に要求して一度拒否されていた。彼らは、DNA検査の威力を国民に認知させるための大きな事件を欲していた。
<略>
 これはまさに、国策捜査でした。刑事事件に於ける国策捜査です。でもその時リークして貰ったマスゴミさんは、国松さんの所にコメントを取りに行くようなことはしないでしょう。あるいは、天下り法人のトップを務める山本博一氏の責任を問うて辞めさせるようなことはしないでしょう。彼らは同じギルドの仲間だからです。
(せめてあの時、捜査情報をリークして貰った記者は名乗り出るべきだろうが、たぶんそれもしないだろう)  マスゴミは逮捕を急がせた。文系バカの特徴で、DNAという聞き慣れない科学用語が出て来た途端に思考停止に陥った。しかし、日本警察が大事件で証拠のでっち上げを躊躇わない組織であることは、駆け出しのサツ周り記者ですら知っていなければならないことです。仮に今日、何かの事件が起こり、DNAが一致したという警察情報があったとしても、それが真に容疑者のものかどうかは全く別の問題であることを記者は疑って掛かる必要がある。
 彼らは裁判までフォローしたはずなのに、この事態を許した、せめて一審が終わった後に、まともな弁護団が結成されるべきだったのに、そのチャンスも逸した。この国策捜査に加担したマスゴミの罪は重い。



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長いスカートをはく女子高生たち

関西の、主に奈良の地域で、長いスカートをはく女子高校生が増えているという。

全国の県民性を分析している県民性協会の矢野新一会長は
「奈良は『お嫁さんにしたい女性ナンバー1』の常連、と語る。

東京文化に対する対抗意識と、
県民性の反映と、などの要素があるとの解説。

チョンチョン(短いスカート)はもうださい」と高2年。
「スカートの形がかわいく見える」と17才。
他にも「ポッキー焼け(靴下の跡がつく焼け方)をしたくないから、
靴下とスカートをつなげてはく」との意見もあり。

*****
奈良といえば
妊婦救急車受け入れ不能事案があった場所。


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退却地点からの退却

生きることは
それ自体で悲惨なことだ

悲惨さを少なくしようと思って退却したのだが
退却したその場所でも悲惨さは積み重なった

結局退却したその場所をさらに退却する

勇気が出たから進軍したのではないのだ
退却した場所からさらに退却しただけなのだ

たったこれだけのことを言うために
時間を費やし言葉を費やしている

何という無駄な人生
臆病な人生だ

たったこれだけのことを知るために
途方もなく苦労をしているのだ

生きるに値するだろうかと問い
しかしそんな問いかけは
ただ甘えているだけで
何の解決にもならないのだった



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夜ホタル

暗くなると ベランダから 羽田の 離着陸する 飛行機の光が 見えます
 
夕暮れ時から 眺めていると 目が慣れてくるのと 
 
少しずつ 暗くなっていくのと 重なって
 
最初の光を 認めたときは まるで一番星を 見つけたかのような 気分になります
 
 
飛行機にも ラッシュアワーが あるみたい
 
あんなに 接近してて 大丈夫かしら などと 心配してしまうほどです
 
ひっきりなしに 降りてきますが 降下角度に 違いがあります
 
 
上空で 旋回しながら 待機している 飛行機も みえます
 
こちらは 結構 大きく 回っている感じです
 
 
遊園地の 絶叫系マシンなンて とんでもないですが
 
飛行機は 大丈夫です
 
 
旅立つなら 夜間飛行が イイですね 


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ペットが大事なのは

ペットが大事なのは
いろいろな側面があると思うが
そのひとつは養育本能の満足なのだろうと思う
頼られることが満足をもたらす
子どもでもアル中の夫でもギャンブル好きの愛人でも

その中では相手が猫ならば合理的な選択だろう

わたしが ペットを飼っている人を 基本的に信頼しているのは
ペットをほったらかして 気ままな旅に出たりしない性格だろうと 推測するからだ
もちろん 家族などで 住んでいれば 旅行も自由だが
ひとり暮らしで 近所にあずける人もなくて 飼っている人は
かなり信頼できる人だろうと思う

ペットホテルもペット同伴可能なホテルもあるわけだけれど

*****
ペットという存在は 養育されることが自然であるという 本能を持っているらしい
いつまでも子どもの特性を持っていると言えばいいのだろうか

その点では 人間の側の養育本能と
ペットの側の養育される本能が一致していて幸福だ

ペットロスという形で破局は訪れる
どうしても人間のほうが長生きだからだ

亀などをペットにすればペットロスは回避できるが
亀は人になつくのだろうか

昔研究室で緑亀の飼育をしている先輩がいた
亀の網膜の色覚細胞は人間より一個多くて
とかそんな研究をしていた

いったいどんな風に見えるんですかと
答えようがないことを知っていてからかった

亀を実験に使っていても実益はなかったが
ウナギを使った先輩は多少の実益があった
食べるのだが
しかしそんなにうまくはできない
やはりうなぎ屋に行った方がいいということで
みんな関心がなくなり
その先輩もウナギの飼育をやめた
飼育というか生魚を買ってきて神経を切ってその変性を見る

*****
最近、日比谷公園の池に亀が住んでいる
食べられないのか心配だ

*****
スッポンと池にいる亀はかなり違うものなのだろうか
味付けでごまかせるなら
日比谷あたりの中華屋でスッポン料理になっているかもしれない

スッポン料理は「類感呪術」の一種だと思うが
食べると実際に体がぽかぽかして
あたたかくなる

一緒だった女性は わたしは食べないと言って わたしが二人分食べた




共通テーマ:日記・雑感

映画 珈琲時光

小津安二郎の生誕100周年記念作品という。
確かに、カメラを固定したまま、
画面とは関係のないセリフが語られていて、
小津安二郎の流儀である。
画面が説明にならない。
われわれの日常生活はこんな感じに近いとは思う。
洗濯物を干しながら電話をしている。
カメラワークは、まるでパーソナルビデオを回しているかのような、
親しげな感じ。
古本屋が出てきたり、
いろんな電車、駅の情景、
犬、猫、
これらも親しみを感じさせる。
生活と人生の手触りがある。



共通テーマ:グルメ・料理

陽射しを浴びる猫



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お風呂のフタの上でシャワーの終わるのを待っています

090628-003307.jpg

 ∧ ∧  
 ≡^:^≡   

なんていい子なんだ!

*****
写真の 真相は シャワーから お湯を 飲みたい 一心なンですよ
 
シャワーが 終わるのを 待ってるところです
 
何なンでしょうね
 
お水が 用意してあるのに
 
シャワーから 直接 お湯を 飲みたい
 
キッチンの シンクから 直接 お水を 飲みたい みたいです
 
基本 濡れるの 嫌いなくせに 飲みたい気持ちが 勝るようです
 
あまりに 必死に 飲むので それも カワイインですけど (笑)
 
***** 
猫さんは 買主が几帳面でなくて 大丈夫です
 
キレイ好きだし くさくないし
 
何より 一人あそびが 得意です


共通テーマ:日記・雑感

夜中に電話が鳴っていた

夜中に電話が鳴っていたような気がする

彼はそのことを気にして ずっと前に 家を出て行った

その少し前に 電話番号を変えた 覚えやすい番号だったのに

しかしそのあとも 電話はあった

今時 プライベートな用件で 固定電話に かけてくることなんかないでしょう?

でも 彼は だからこそ その 不敵な感じが耐えられない などという

繊細な人だった

うちは ナンバーディスプレイでもないので 電話に出ないで そのままになってしまうと それきり分からない

可能性としては ワン切り業者のいたずらの可能性が高いと思うのだけれど

そこまで わたしが 責任をとることが出来るはずもない

彼は繊細だけれど ちょっと弱すぎだよと 思う


共通テーマ:日記・雑感

男性を繊細にしてしまう呪文

男性はごまかしのきかないところがあって
とても繊細な生き物なのだということが分かる

男性を繊細にしてしまう呪文があるそうで
女の人たちはそれを使うらしい


共通テーマ:日記・雑感

現代版「満たされ」方

若者はたんたんと書きました。

*****
現代版「満たされ」方


現代においては、精神的に、満たされることは少ない

「満たされないことが多い」という表現の方が、いいのかも知れない

そこで、「満たされなさ」を、共有してはどうか

「満たされなさ」を共有すると、どうなるか

他の人と、同じ気持ちを共有することで「満たされる」

たいへん、矛盾しているようではあるが、

「満たされなさ」を共有して、「満たされる」

なかなか、いい方法ではないか


共通テーマ:日記・雑感

朽ち果てる小鳥よ

悲しみの鳴きかたも知らず
ただ朽ち果てる小鳥よ

お前には罪はない
お前には運もない

そしてお前には
神の祝福もない

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口中苦味あり

近年にないことであるが
たくさんの夢を見て
いろいろと考えさせられた

起きたらとても乾燥していて
口がからから
口中苦味あり

今回の夢は現実のいろいろが
組み合わせを変えて
登場しており

結局は自分の想像力ながら
驚いた

夢でも疲れるなんて
疲れる人生である


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現実と向き合う作業

若者はしみじみ書きました。

*****
現実と向き合う作業


現実と向き合うのは、非常に難しいと思う

できれば、向き合いたくないという人も、多いと思う

現実というのは、事実、受け入れたくないことが多い

うまくいかないことの方が、多いからだ

しかし、見方を変えてみれば、みんなそうなのだ

みんな、受け入れがたいものなのだ

そう思って、もう少し辛抱してみようと思う

そうすれば、人生が開けるなどとは、全く思えないが

人生は、その繰り返しであることが、わかるはずだ

そうすれば、少しは現実を、受け入れやすくはならないか?

*****
Yes.
もう少し辛抱してみようと思います。


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腐ってる暇があるなら。

腐ってる若者が書きました。

*****
腐ってる暇があるなら。


誰もが、腐るには、まだ早い。

腐ってる暇があるなら、その暇をなくせ。

腐ってる暇があるなら、創造せよ。

腐ってる暇があるなら、もっと尽くせ。

腐ってる暇があるなら、時計を見ないで打ち込め。

腐ってる暇があるなら、普段できないことをせよ。

腐ってる暇があるなら、心を温めよ。

腐ってる暇があるなら、次に備えよ。

それでも腐りたければ、放っておけ。

/****
、のつくるリズムが心地よい。
この人は音楽をやるといいのではないか。

町田康とか

腐るって、やまいだれじゃないから、
やっぱり発酵食品とかその系統のいいことが
昔の人の念頭にあったんだろう

君の場合は腐敗しているのではなくて
成熟しているのだと思う


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大衆食堂の蒸しタオル

大衆食堂の蒸しタオル

は 実際 使うかどうか 迷うところだ

蒸し暑い日などは 顔の汗を 拭いたくなり

多分他の人も同じだろうと思うと やってはいけないことと思う

臭いは強烈な 塩素の臭いだ

プールの臭いがする

使い捨て紙タオルと どちらがいいのだろうと 思う


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越中・風の盆 石川さゆり 1998年

http://www.youtube.com/watch?v=T4Ebjh1RRLg

里の秋(ギター伴奏) 石川さゆり 1992年



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