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右の頬をなぐられたとして

些末なことのようですが、
右の頬をなぐられたとして、相手が自分の右の頬をなぐるには左手でなぐることになる。右ききのひとだと仮定して、右手でなぐると一発目は左の頬になる。
だから利き手ではない側の左手で一発目をなぐっているのであって、本気ではないし、すこしだけのためらいも、愛情さえも見えるのだという話を聞いたことがある。だから安心して左も差し出して、相手の深い気付きを引き出すのがよいとか、そんな話。

おとぎ話もいい加減にしようね。
悪い人は本当に悪い。

妥協の余地はないし
弁護の余地もない

誰にもエゴイズムもあり
ナルシズムもあり
生存欲求もあり
種の保存欲求もあり
諸事情があることを勘案してもなお
悪い人がいる

生活していくこと
家族の生活を守ることと
おとぎ話の時間は別だ


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さっさと偉くなるしかない

忙しくって仕事が減らせないし疲れるし
どうしようかという場合
頑張って成績を上げてさっさと偉くなるしかないのではないだろうか


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自分にとっての報酬系

脳の中に報酬系と呼ばれている部分があって

たとえばラットの報酬系に電極をつないで刺激するようにして

レバーを押せば報酬系が刺激されるようにしておくと

ラットはほぼ限りなくレバーを押すなんていうことが

科学読み物には出ている

自分にとっての報酬系を把握しておけば

自分のやる気をコントロールすねことが出来るのかもしれない

おおむねは、お金、食べ物、安全などの個人の生存にかかわる物質的報酬、

性的報酬や子育ての満足など種の保存の本能の報酬、

プライドとかメンツ、社会的体面、名誉、評判など、

また健康の保持、増進など。

そのことのためなら自分はやる気が出る、頑張りがきくという領域がないだろうか。

あるならそこで頑張るようにする。

また逆に、そこで、大きく傷つかないように慎重にも考える。

金か異性かメンツかなどという場面は結構あるものだと思うので、

そこが各人の価値観だと思う。

お金が10万円くらいあったとして、

貯金するならお金が大事、

異性への送りものにするなら異性が大事、

メンツを保つために使うなら社会的評判が大事という具合になる。

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そろそろ 新しい おもちゃ ちょうだい!


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赤い靴

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ABCマートならわかるけれど
普通の靴屋さんがどうして
やっていけるのか不思議だ。


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心が貧しい人と愛

心が貧しい人は幸いである

その人はイエスの愛に満たされて天国に行く

*****
愛の軸は
正しいとか謙虚とかそのような軸とは別の軸である

愛する人は天国に行く

愛される人は天国に行く

誰からも愛されず
誰をも愛さなかった人も
イエスが愛してくれるし
イエスを愛すればいい

その気持ちは具体的な行動としては
隣人愛としてあらわれる

*****
心が貧しい人の心には隙間がたくさんあってがらんどうだ

そこにイエスの愛を入れることができる

心が貧しくない人は

心ががらくたで一杯だ

イエスの愛を入れたくても隙間がない

がらくたを全部捨てるのがよい


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遅刻

生まれて初めて遅刻をしたら
課長から、理由書を提出しろと言われた

寝坊しただけに決まっているのに
こんなことを言われるのは憲法違反の人権侵害だと思ったので
本人訴訟をすることに決めた

とりあえずは仕方がないので理由書を書いた

遅刻理由書
我が家には理由あって戸籍に登録していない1歳半の女児の私生児がいまして、
それが今朝、わたしが家を出ようとしたときに、
隣の犬に噛まれて首と腕から大出血して死んでしまいました。
隣の奥さんに文句を言ったら、うちの犬は噛むはずがないと言い張ります。
仕方がないのでカメラで写真を残そうと思いましたが、
デジカメの電池が切れていて、充電するのに時間がかかりました。
カメラの充電ができてから
写真を撮ろうと思いましたが
娘をとっただけでは証拠として弱いと思いましたので、
犬にもう一度娘を噛んでポーズしてくれるように頼みましたが
面倒だなどとうちの課長のようなことを言いますので
殴り殺して、娘を噛んでいるポーズに固定して、写真を撮りました。
3枚目のシャッターを切ったとき、
「ママ、痛いよう」と血まみれの娘が言うので、死んでいないのだと分かりました。
とにかくこの写真があれば訴訟には勝てると思いましたので、
わたしにとっては戸籍に載っていない娘よりも会社の給料が大事ですし
課長に心配をかけることだけは人道上死んでも出来ないことですので
そのまま会社に急ぎ、結果として25分の遅刻となりました。
たかがこの程度の事件で会社の業務にご迷惑をかけてしまい
課長の朝のお茶が遅れたために、課長の朝のパソコンゲームとエロサイトの巡回が
調子良く行われなかったことは、
ひとえに私の不徳にいたすところでございます。
深く反省し、課長の名前を出会い系サイトに血まみれの娘の写真とともにさらすことといたします。
今後二度と血まみれの娘などには関わり合わないことを誓います。

*****
こんなのを昼までかけて書いたけど
そのあいだ一個も仕事はなかった。
電話もなかった。

遅刻したおかげで午前中が無駄になった。


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豆が食べたい

豆が食べたいと思うので
スーパーで豆を買う


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心の貧しさとは、謙虚の欠如である。

心の貧しさについて書きたくなったのは、
心の貧しさに直面したからだ。

謙虚について書きたくなったのは
謙虚の欠如に直面したからだ。

心の貧しさとは、謙虚の欠如である。

*****
傲慢は心の肥満である。


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貧しい人は幸いである

その人もわたしも
都合のいいときだけのカトリックである
ときには聖書の話などもする

「貧しい人は幸いである」という言葉がある
多義的な解釈を許す言葉である

「心が貧しい人は幸いである」としている日本語訳も英訳もある
英語の単語は poor  があてられている

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)

イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。』(40~41)。

目の見えない人、自分を小さな者、愚かな者と知る人には神が見え、
目が見える人、自分を賢い者と誇る人には神が見えない。

つまり、わたしが若い頃この言葉と接したときのように、
心が貧しいを謙虚と読み替え、
その反対を傲慢として解釈します。

学者さんも、修道院も、神父さんももっと深いことを歴史の中から言っています。
でも、わたしは一回りしてきたあとで、最初の素朴な解釈に落ちついています。

自分が正しいと思うとき、謙虚ではない。
激しい言葉で他人を責めるとき、謙虚ではない。
他人が間違っていると思うとき、謙虚ではない。
他人が過剰に甘えている、他人が過剰に依存している、そのことを許せない、
そう思ったとき、謙虚ではない。
そんなとき、「貧しいことは幸いである」を思い出す。

*****
心が貧しいことと経済的に貧しいことの関係は難しい。
                                                                               
│                  │ 金持ち       │ 経済的に貧しい│                          
│こころが謙虚      │ 少ない       │ むしろ美しい │                          
│こころが傲慢      │ 多い         │ 多い         │                          

金持ちが天国の入り口を通るのはラクダが針の穴を通るくらい難しいというわけだ

金持ちと貧乏で同じ謙虚という言葉を使っても、何だか意味には微妙に違いがあるようでもあり、
同じように金持ちと貧乏で傲慢という言葉を使っても、意味がずれているような気がする。
だからこのあたりは粗雑な言葉ではなくてもっと精密な言葉が必要なのかもしれない。

また
金持ち・貧乏、謙虚・傲慢の二軸だけがどうして取り出されているのかもよく分からない。
人間にはもっといろいろな要素がある。

*****
金持ちで傲慢なら徹底的に救われず、
金持ちで自分は品行方正で正しいと思っているような人は救われないけれど、
そんな人たちは現世で少しは報われているからそれでいいのかもしれない。
金持ちで謙虚なのは残念ながら天国には遠い。金持ちであるということ自体が、謙虚の質を変質させる。

貧乏で謙虚な人は美しい。それが天国に近いのだし、イエスの苦労を減らしてくれる。
そのようでありたい。
星飛雄馬のお姉さん。

貧乏で傲慢な人は、
イエスが言っているようにイエスはもっとも悪い人やもっとも救いから遠い人を救うためにやってきた。
だとすれば、貧乏で傲慢な人たちは、金持ちで傲慢な人たちの次に救われるのだろうから、それはそれでよいことだ。

イエスの計画では結局みんな救われるのだから、何も心配しないで、それぞれの道を行けばよい。

悪人正機にも近いのであるが、ここでパラドックスが生じる。
心が貧しいとは、傲慢なことなのか謙虚なことなのか。
もっとも表層的に言えば、傲慢は貧しい、謙虚は心が豊かとなる。

しかしよく考えれば、謙虚こそが救われるのだから、謙虚が心が貧しいに対応するだろう。
反対に傲慢が心が豊かに対応するだろう。

そして謙虚な人は天国に近いとなるのであるが、
イエスはなんと傲慢な人を天国に入れるために来たのだ。

そこでは傲慢な人が天国に近いのだ。

そうなると結局心が貧しい人はどのような人なのか、誰が天国に近いのか矛盾をはらむことになる。

言葉の上ではこのような矛盾を含みながら、
しかし実際に我々が生きる場面を考えると、
なるべくイエス様に迷惑をかけないように
自分なりに考えて傲慢でもなく、自分だけが正しいと言い張ることもなく、
他人を批判は過ぎることなく、柔和に、心の貧しい様子で、生きるのがいい。

結局どんな人でも天国に行きますよとイエスは約束しているのであるから
まあまあ、あまり厳しく考えなくてもいいようだ

*****
経済的に貧しい人が天国に近いというのも、はずれているわけではない。
貧乏にもいろいろな問題があるが
金持ちにはさらにいろいろな問題がある
金もちと貧乏のどちらが謙虚になれるかというのも難しい問題であるが
現代日本くらい豊かになると経済条件はあまり関係ないのかもしれない

*****
結局、あのどうしようもないやつが天国に近いのかもしれないと思うかもしれない

イエスが愛するのは罪人なのだから となってしまうかもしれない

そのあたりも言葉のそのままを考えるのではなくて
全体の構図を頭に入れておかなければならない

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あそぼ!


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結局どんな人でも天国に行く-追記

後輩は書きました。

*****

迷い

 お世話になります。
 ふと、分からなくなりました。

 「結局どんな人でも天国に行きますよ」とイエスは約束している・・・。
 すばらしいことです。
 もろ手をあげて賛成です。
 安心させられました。
 自分の不安も除去されました。

 人間を信じたい。信じてよかった。
 しかし、いまだに迷いや疑問があります。心が貧しいのでしょうか。

 悪をなす人たちは、反省や悔い改めることもなく天国へ行くことになるのでしょうか。
 これではヤリ得ではないでしょうか。

 私が現在、悩み苦しんでいるのは、自分を攻撃してくる人たちとの対応です。
 その人たちは、いろんな理屈を繰り出してきますが、よく見ると自分の保身と損得が基本だと思われて仕方ありません。
 その結果、他人を下敷きにすることに躊躇していません。

 下敷きにされた人は、苦しんでいます。経済的問題にも波及し、自分だけならまだしも家族も影響を受けることになると、心穏やかではありません。

 こうした人たちは、何ら罰を受けることなく、天国へ行くのでしょうか。
 私の心が貧しいことは承知していますが、悔しさもあります。
 懺悔しないと赦さないと言っているわけではありません。苦しんでいる人の存在を知ってほしいだけです。
 そして、神はどうみているのでしょうか。

*****
確かに、ごもっともです。理不尽です。

 悪をなす人たちは、反省や悔い改めることもなく天国へ行くことになるのでしょうか。
 これではヤリ得ではないでしょうか。

はい。そうです。
しかし人間には、ヤリ得だと分かっていても、できない人がいます。できる人もいます。
ヤリ得だから俺もやろうとはできないはずです。
ヤリ得でなくてもやる人はやります。
そこのところは損得勘定ではないようにも思います。

結局よく分からないですが
ある種の小心者なのでしょう
ヤリ得だから、機に乗じて、自分はやる、そんな人間であると考えたとき
どんなに惨めな感情になるでしょうと
思いますが
自己評価をそんなにも傷つけてわずかの利益が欲しいでしょうか
それはヤリ得のチャンスが与えられなかった者の考えかもしれません

戦争が終わって
誰の所有か分からない土地があったとき
俺の者だと強く言い張る人を思い出します
損得というより
もう根本的にそのような人間だと思うしかないようにも思います

懺悔などしてもらったところで
過去が訂正されるわけでもありません。
どんなに八つ裂きにしても気が済むということもないでしょう。
一族を含めて100年の間、苦しめ続けるくらいの仕組みを考えないと
リンチとしても不十分。
毎年確実に税金を徴収してやりましょう。
(これが最大の罪滅ぼしかもしれない。自分は税金を使う人、あちらは税金を払う人、そう考えれば痛快かも。
現実に存在しているのが怖いですが。)

 私が現在、悩み苦しんでいるのは、自分を攻撃してくる人たちとの対応です。
 その人たちは、いろんな理屈を繰り出してきますが、よく見ると自分の保身と損得が基本だと思われて仕方ありません。
 その結果、他人を下敷きにすることに躊躇していません。

はい、そうです。その部分に関しては、彼らに痛みの感受性がありません。共感の感受性もありません。
それが人間の実態であると、絶望的すぎるかもしれませんが、わたしは思います。
人間は気まぐれに共感するだけです。
むしろ、余計な共感が起こらないような仕組みをあれこれ考えているように思います。
共感すると損をしますから。
自分と自分の子孫、つまり自分の遺伝子が、ばらまかれて生き延びる方向に、感情も行動も、淘汰されて残っていきます。

 下敷きにされた人は、苦しんでいます。経済的問題にも波及し、自分だけならまだしも家族も影響を受けることになると、心穏やかではありません。

そうですね。しかしあなたに損失が出た分、その無神経な人たちは経済的な利得もあったわけでしょう。
あなたはいいことをしたわけです、一種。
現代ではおおむねゼロサム・ゲームですから、いやむしろ縮小するパイの取り合いの社会ですから、どの人の神経もすり減ります。
利己主義者と同じ原理で利己的に闘うとしても、やはり勝者と敗者は生まれます。

ここから先は難しく微妙ですが、この局面での勝者と敗者は、必ずしも、人生の幸せと重なり合いません。
言ってみれば、ただ甲子園で勝った負けたとそれだけのことです。
経済的困窮は実際大きな問題で、自殺する人も大半は、経済問題です。
しかし貧乏も困窮も神の割り当てた運命です。それを生きてみて何を考えるかと神は私たちに問いかけています。私たちは神の問いに行動で応えましよう。この難しい状況を与えられ、人間として何ができるか、神に応えましょう。
経済的困窮にもかかわらず、仲良く、ユーモアを忘れず、芸術も失わず、生きることができると、そのような形で、神の問いに答えましょう。、

 こうした人たちは、何ら罰を受けることなく、天国へ行くのでしょうか。

はい。ドストエフスキーの罪と罰でラスコーリニコフは金貸しのおばあさんを殺します。神が裁かないのなら、自分が裁くというわけです。しかしラスコーリニコフとて幸せになったわけでもなく、女性の無限の愛に救われるまでは、苦しみ続けます。
天国は広いですから、彼らが行っても、狭くなることはありません。彼らも行けばいいではないですか。
過去は私たちの心の中にしかありません。たったそれだけのものです。
認知症の人たちは過去をきれいさっぱり忘れています。
すべてはなかったことになってしまいます。
それでいいのでしょう。
多分、天国に入るときは、すべてのメモリーがリセットされるような気もします。
過去はその人の心の中にしかありませんし、
その人がうっかり忘れると、本当に消えます。
それでいいと思います。
ヤリ得をした人もただそれだけのことです。損をした人もただそれだけのことです。

 私の心が貧しいことは承知していますが、悔しさもあります。

悔しさも自然で、かつ、必要な感情です。悔しいから、自分を高めて、自分に勝つようにしましょう。

 懺悔しないと赦さないと言っているわけではありません。苦しんでいる人の存在を知ってほしいだけです。
 そして、神はどうみているのでしょうか。

勝者は敗者の苦しみを知りません。しかしまた、勝者には勝者の苦しみがあります。人から受けるはずの嫉妬も、自分のプライドも、人からの賞賛も、思ったほどではないはずで、誰も自分には興味がないのだと分かります。
勝つと言っても、もっと勝っている人はいますし、上には限りがありません。その意味では、必ずみんな負けるのです。鈍感なものだけが平気で生きていられます。
あなたは鈍感になって、図々しく生きたいですか。繊細なままで苦しく生きたいですか。きっとほどほどのラインがあるはずで、人によって、妥協のラインは上下があると思いますが、それだけのことでしょう。
誰をも苦しめないで生きてきた人もいないわけですし、
微細に見れば、結局お互い様なのだろうと思います。

苦しんでいる人の存在を人は知らないと思います。
どの人も自分の努力は報われないと感じているでしょう。これに例外はありません。
泥棒であっても、こんなに努力したのに、どうしてこんなつまらないものしかとれないのか、これでは子どもを喜ばせることができないと思います。泥棒という行為そのものが子どもを喜ばせないのだと気付くには、多分百回くらい輪廻転生しないと無理でしょう。

そして神はすべてを見て、
できることならば現世の内に報われるようにし、
できない場合には、来世で報われるように手配をするわけです。

そして不思議なことですが、来世で報われるのだと考えて、心が穏やかになれば、そのときからすでに、心は報われているのです。この点を考えると、神は単なる思考装置であると考えることもできます。
実在としての神の証明は別になります。

来世で報われるのは確実なのだから、現世で善行を積もう、そう考え、実際に行為して、一日の終わりに、人に感謝され、神に感謝して、終わる。それは幸せではないでしょうか。わたしはそれだけでいいと思います。

ぼろぼろになってもたかだか70年生きるだけです。豪華な衣装を身にまとい、預金通帳にゼロを蓄えたとしても、それだけのことです。たいてい使いきれないものです。高級レストランに行けば、下らないものを食べさせられ、下らない話を聞かされます。ご飯に目玉焼きを載せて、ソースをかけて一人で、または愛する人と食べているほうがずっといい。

他人を下敷きにする人から、逃れられれば、幸いです。
しかしいま現在目の前にいて、日々新しく、下敷きにされる感覚を苦しむ場合には、
話は難しいものがあります。

苦難があるとき、「にもかかわらず幸せに生きる」ことができるのであって、それが信仰の力です。それが神の力です。
神の愛は具体的には隣人愛として現れます。苦難があるとき、隣人を愛し、配慮し、心を遣うなら、そこには神の愛があるのであり、苦難があるにもかかわらず、神の愛が出現しているのです。
神が私たちを愛しているのですから、私たちは隣人を愛するのです。

イエスは汝の敵を愛せよと教えています。
敵もまた隣人であれば、愛の対象です。

旧約聖書での発展段階では、人を下敷きにする悪人はしかるべき罰を受けます。そのようであって欲しい人は、ユダヤ教がいいと思います。
愛の宗教であるキリスト教は拒否したいと言って、サミー・デイビス・ジュニアは、正義の宗教であるユダヤ教に改宗しました。

新約聖書の段階では、汝の敵を許せ、汝の敵を愛せ、敵のために祈れ、右のほほを打たれたら左のほほも差し出せと、無理難題が続いています。しかしそこで言われているのは、正義ではなくて、愛であるという、大きな転換です。

相手がわたしを搾取していても、なお愛しなさい。
自分を下敷きにした人を、イエスが愛するのですから、わたしも愛するのです。
イエスがそうするから、わたしもそうする。それだけです。

これは神父さんのと解釈とは違うと思いますが、隣人を愛するのは、隣人が好きなのでもないし、隣人を許せるからでもありません、ただ一点、隣人の心の中にも、小さな小さなキリストがいるからです。わたしはそのキリストを愛し、奉仕するのです。

本当は、本格的に隣人を愛さなければならないのですが、
現実のわたしには難しい場合も多いのです。
そのときは相手の心の中にいる小さなキリストへの愛と読み替えます。

逆に、人は自分の心をがらくたで一杯にしないで、隙間をたくさん空けておいて、風通しをよくしておかなければなりません。その状態で初めて、イエスキリストはわたしの心にも立ち寄り、少しの間休んで、また風に吹かれて、どこかに行きます。その、キリストが休んでいるしばしの間、それがわたしの心の浄化される瞬間です。ただそのために生きていると言ってよいでしょう。

ニーチェはこれを奴隷の道徳と言いました。
英雄的に生きることを考えろと言いました。
しかしわたしはそうは思いません。
奴隷の道徳のようでいて、高貴な英雄的生き方です。

食べるために生きているのではありません。
イエスのために生きているのです。
ここで妥協してしまえば、現代社会では、きりのない欲望が預金通帳の数字の形で追いかけてきます。ほぼ全員を不幸にして、追いかけ続けます。全員が、あと少しだけお金があったらいいのだけれど、と慎ましやかな希望を抱いています。しかしそれは叶えられることがありません。いつでもその先があるからです。

過去も未来も整理して、現在に集中すれば、今日食べるものと、キリストに対しての祈りがあれば、充分幸せだと思います。猫は貯金をしません。未来を考える脳がありません。
猫は泣きません。過去を悲しむ脳がありません。
ただ脳の発達に応じて機能が付加されているだけですから、猫と人間の関係のように、現代人と未来人の間には
多分大きな違いが生じるでしょう。
この先、人間の脳がどのように進化するのか、興味深いことです。
なんとなく猫が幸せで、命の営みにぴったり合っているような気がしないでもありません。

わたしを下敷きにしている人もためにも祈りましょう。
その人たちも苦しいからこそそのような行いに及ぶのです。
その人たちにも動機はあり、そうせざるを得ないのでしょう。
及ばないながら、愛の力で、神の計らいで、幸せになるように、祈りましょう。

わたしがすべきことは、そのような人たちに、かすめ取られても、なお、笑っていられる余裕を持つことです。
そのためには本当に強くなければなりません。

そして考えてみれば、何が幸せなのか、そんなことは人間には分からないことです。
食べたほうが幸せなのか不幸なのか、あるものが手に入ったほうが幸せなのか不幸なのか、誰にも分からないことです。長い目で見て初めて幸不幸が見えてくるのかもしれません。しかしそれではどれだけ長く見ればいいか?どれだけでも長く見るしかありません。

もうそんなことも忘れて、今日一日よかったことを感謝し、明日一日の予定をお願いし、それだけでいいではありませんか。猫は余計なことを悩まないようです。

悔しさは自然な感情です。抑圧する必要もありません。心のここに悔しさがあると確認しておけばいいと思います。
でも、それだけのことです。人間はただ生きているだけでどれだけの人に苦しみを与えているでしょうか。
大卒なら高卒の人に苦しみを与えています。
健康なら病気の人に苦しみを与えています。
すべて、優位に立つ人は、劣位の人に苦しみを与えています。
そうしたすべてのことについて、反省しなければなりません。そしてその優位の分を社会還元しなければなりません。

もっと極端な悪の場合を考えてみます。
理由のない犯罪に巻き込まれて、命を落とす人がいます。
どのようにして嘆いたらよいでしょうか。
あるいは報復は許されるでしょうか。

報復の感情は当然あるでしょう。わたしにもあります。しかしそうした気持ちが自分の中に確かにあることを観察することで、大人になれるのだと思います。
人間の心の中にあるものは美しい感情ばかりではありません。
サディスティックな攻撃性もあるし、性的な衝動もあります、自分を守るために嘘をつく弱い人はいます、自分を守るために認知を歪め神経症レベルの心理メカニズムで対応する人は多いものです、そのような諸々のことも観察して、存在を確かめましょう。それでいいではありませんか。はっきり認識すれば、症状が治まるのだと、フロイトは考えました。確かにそのような側面があると思います。

わたしを踏みつけにしたあの人と同じ心がわたしにもある、ただ、わたしはそれを現実化する機会がなかっただけだ、そのように納得することができます。チャンスがあればわたしもそのようにしたかもしれない。多分しただろう。そのチャンスがなかったのは幸運だった。

わたしの人生の目標はここ40年にわたって「魂の浄化」ですが、
ただそれだけが目的と考えれば、どんな苦難も、魂を磨く機会です。
魂を浄化し、軽く軽くして、自然に天国に昇っていくようにしましょう。

それを妨げるのは、悪い人ではなく、むしろいい人です。
地上が美しすぎて、人間が美しすぎるとき、わたしは魂の浄化の運動が鈍ると感じます。
徹底的に汚濁した現世が、魂の上昇の浮力になります。

昔でいう、厭離穢土の感覚でしょうか。
即身成仏の考えはわたしは、非常に興味を持ちますが、所詮は私には合わないものだと感じています。
生きている限り悟ることもないと思っています。

*****
追記

最後に一言したいのは私的復讐、リンチについてである。
必殺仕事人、必殺仕置き人などで、はびこる悪を、司法手続きによらず、裁いている。

個人的には、多分そうするしかないと、消極的にであるが、思わないでもない。
テレビを見ている人が同じようなやりきれなさを抱えていて、
それがドラマの中で代償性に解消されるとすれば、
この世界はやはり間違っているのだと思う。

ドラマの中でどうして正しい手続きがとられないのか。
司法によって解決されるとは思えないので、
たとえば、周囲の人たちにアピールして、隣人の力により、解決に至るとか。

暴力によるリンチでは
正義がどこにあるかの検討は曖昧で
要するに自分が正しいという観点しかないので
そこはきつい留保が必要であるが
司法で正義がどれだけ実現されているのかはまたかなり疑問である

たとえばかんぽの宿問題や郵政人事でも
正義との言葉が見えているが
いったい正義とは何で、自分の正義を確認するためにどのような手続きを経過すればよいものか
それもはっきりしない

科学実験のように
定義をはっきりさせて結果が再現されるかを見るような手続きを明確化すればよいのだけれど
正義についてはそのようなことも難しい

自分を下敷きにしてやりたい放題やっている人間に対しては
必殺仕事人も、あるいはそれだけが、有効であるかもしれない。

この報われなさをどうしたらいいのだろう。

*****
このように記してきて、
我々にできることは、この報われなさを共有し、連帯し、
せめて理解し合って、
報われなさがあるとしても
孤独な報われなさではないようにしたいものだと思う。

*****
書かないほうがいいことだと分かっているけれど、
何だか長くなったので、ついでに書くと、

いじめる、いじめられるの関係が発生しているとき、
いじめられる側の対人関係能力が疑問視されることがある
最近はいじめる側の問題だとの議論も盛んだけれど
とりあえずはいじめられる側の特徴が議論されたりする

いろんな人がいるんだから子分になってもおせじをいってもいいから
うまくくやっていけばいいじゃないかと
世の中の半数くらいの人は思うらしい

しかし世の中をそんな風にうまくわたっていける人ばかりではないことも理解して欲しい

うまくわたっていけない人は損をするけれど
どの程度の損をするものか
ということが問題だと思う

ほどほどの損ならば
その分を努力で補う
そのくらいはみんな覚悟しているのである
対人関係が苦手であることを有利な条件だと思ってはいない
不利な条件だけれども生まれつきだし仕方がないと思っていると思う

もともと対人認知のモードが違うのだと思う

たとえば戦争になったときのことを考えてみると
いじめる側の人たちはさっさとまとまって安全地帯に立てこもる
いじめられる人たちは、前線に無理矢理に押し出されて、敵と戦って死んでしまう

そんな感じだろう

報われないことおびただしい

ここで注意を喚起したいのだが
大規模宗教のすべては
いじめる側が作ったものだということだ
戦争になって安全地帯に立てこもり
いじめられている人たちを戦いに駆り立てる人たちが作ったものだ

いじめられる側の宗教など完全に抹殺されている

何かの間違いでいじめられる側・弱者の側の宗教が優勢になったとして、
その教義を取り仕切る人間はやはりいじめる側の頂上の人物なので
結局はいじめる側の道具になってしまう

神は自己犠牲を説いている、神は忍耐を説いている、
神はあの世で報われると説いている、
そういって、現世の悦楽は彼らが独占し、
つらいところは人に押しつけている

いつまでたっても原理的にそのような構造でしかあり得ない
革命があったとして
いじめっ子が新しいいじめっ子に交代するだけである

だからキリスト教は足萎えの道徳であると
ニーチェは言う
奴隷の道徳であるという

宗教など所詮そのようなものであって
社会の中心にいる権力者は道具としか思っていないし
本気でキリスト教など信じている人は
一番最初に神の国の犠牲者になってしまう

そんなばかばかしい宗教であるが
知性があればどんなものでも教訓にできる
毒も適切に使えば薬になり調味料になる

解釈を変えれば役立つものになるのだと思っている

*****
さらに追加

個人的にはこの報われなさについて
不正義の横行について
黙っていられない
断固抗議したいけれど
今のところどうしようもない
ちょっとの間忘れているしかないのが現実だ

しかしわずかな救いもある
私に慰めを与えてくれる人たちがある
その人たちに何か直接の利益があるわけでもないが
それでも私を慰めてくれる
それが愛情というものだろう

それはとてもありがたいことで
人間のすばらしさだと身にしみて感じる
これは苦しい思いをした人でなければ分からないものだろうと思う

だから苦しい体験がいいものだとは思わないが
慰めもあるということだ

神とか天国とかの概念装置がなくても
人と人とが助け合うことができれば
苦難に立ち向かうこともできる

人と人との助け合いだけで充分かといえば
これは人の性質にもよるのだろうけれど
私の場合は
神も天国も必要だと感じている

人と人との輪が水平方向の救いだとすれば
神や天国は垂直方向の救いだと思う

*****
わたしの場合、もう一つ大切なのは多分、
いつも話をしている人が、ほぼ全員、わたしと同じくらいか、それ以上に苦しんでいる人だということだ

通常の友達づきあいをしている人でも
先輩は結構不幸せだし
後輩も結構なくらいに不幸せだし
嫉妬するくらいに幸せな人はあまりいない

わたしとして満たされない思いはあり
この世界の造られ方そのものに異議があるけれど
しかし
とりあえず目の前にいる困っている人を少しでも援助したいと思う
そのことの中でわたしは自分についての
どうしようもない行き止まりの問題についても
しばらくは忘れていられる

これは問題は本質的には解決されていないのに
忙しくして、あるいはいま自分の意識を占めるものを入れ替えることで
当面忘れるという防衛機制の一つであるが
それはそれでいいと思っている

このことの利点は、
困っている人を助けるという点で社会的に肯定されているということ、
(必殺仕事人はやはり社会的に公認はされない)
仕事として、仕事に打ち込んでいる分には、社会はそれでいいと認めてくれることである。

また、宗教は
弱者への視力を更新してくれると思う

*****
さらに追記

宗教に対しての態度は難しい
良いところは参考にする
良くないところはその由来や構造を認識する
ということだと思う

たとえば
「自分自身や他人を傷つけていなければ、他人があなたを傷つけるなどあり得ません。
自分で自分の現実を作り、物語を書いているのです。
他人との葛藤は自分自身の葛藤の反映です。
内面の問題を解決することで、世界の問題を解決できるのです。」
などと書いてある。

もちろん前後の長い全体を理解して、
その上で、この部分を理解すべきなのだけれど、
これだけ読んでも、すでに充分におかしい。

大切なことを言っている、参考にすべき要素は含んでいる、
しかし、この言葉そのものは、やはり真理のなかの非常にせまいものを言い当てているに過ぎない。

「自分自身や他人を傷つけていなければ、他人があなたを傷つけるなどあり得ません。」
などという言い方は、
典型的に、学校に問題はないと言いたい学校の先生と、いじめっ子の言いそうなことなのだ。

わたしは、
「自分自身や他人を傷つけていないのに、他人があなたを傷つけることがある。」と言うべきだと思う。
当然すぎることではあるけれど。
理由もないのに攻撃され、搾取されることがある。

たとえば、いじめられる理由として、「あなたが目立つからですよ」と言われたとして、
納得できるだろうか。
そのように「いじめる-いじめられる」「搾取する-される」の関係があるとして、
第三者として放置できるだろうか。

「いじめられている人は、自分自身をいじめている人なのです」などといわれて
納得できるだろうか。

およそ全部、優位者の、現状維持の倫理であり、破綻していると言うべきである。

こんな変な部分もあるけれど、
隣人が困っていたら親切にしようというのは確かに賛成だ。
そのように読む側で判断しながら、読む側も成長しながら、接していきたいものだ。


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結局全員が地獄行き

聖書に書いてあることによれば
世の中を生きた全員はとりあえず
地獄行きである

聖書なんか読まなくても
わたしが普通に考えても
全員が地獄行きだと思う

地獄にもランクがあって
どの地獄に行くかについては
多生の裁量もあるということになるだろう
ダンテも書いているし、日本の地獄観もそのようだ
往生要集のはじめは地獄・餓鬼・畜生・阿修羅についてである

それはいいとして
とにかく聖書では全員が地獄行きである
そしてイエスが登場して全員が天国行きである

その点では個人の努力を無にする言い方なのである

どんなにいいことをしていると思っている人も、
あなたは罪人だと言われる
納得できるので全員地獄行きも仕方がない

どんなに悪いことをしている人も
イエスが救ってくれるという
これで安心というものだ

詰まるところ個人の努力とか心がけとか
性格とか偶然とか
そのようなものすべては
神の目から見れば些細な事柄であって
天国と地獄の話で言えば何も関係はない

一応そんな事情になるのだけれど
そんなことを言われて
いい人たちはもっと深く反省して行いのレベルを高める
悪い人たちは人間はそんなもんだろうということで行いのレベルをそのままにする
死ぬ直前の悔い改めだけは一応しておく

そんなことになるだろう
イエスの教えの効果は
いい人をますます生きにくくして
悪い人をますますそのままにする
その程度の効果であると思われる

いい人たちにとっては
ハードルの高い目標を設定してくれているので
うれしいとも思うだろう
いい人たちは目標が高ければやる気が出るのである
おかげでこの社会が
この程度の混濁ですんでいる
ありがたいことである

つまりは
いい人にもっとがんばれと言っているのだ
下敷きにされても搾取されてもなぐられても
隣人愛を実践しなさいといっている

個人的にはトライには大賛成である
できなかったら、できないじゃないかと神様に抗議しよう
神様も、謝ってくれるだろう

でもできるところまででいいと思う
結局わたしは神様に少しだけ褒められたい
その素朴な感情である
そのあと結局地獄でも仕方がないと思う
神様の期待には全然応えられていないのだから
仕方がない


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現実・言語・精神

人間は「もの」そのものや「こと」そのものを経験することはできないし、それを伝えることもできない。
人間の感覚モードは限られているからだ。
電磁波を発する物体の「もの」そのものをどのようにしても知覚はできない。ある種の物理学的変換をして、初めて、知覚可能になる。
「こと」そのものをも経験できない。人間はその部分を経験するだけである。「象との出会い」と考えてみても、象の全体との出会いではない。「羅生門」のようであり、すべての裁判は、そのような体験領域の違いを言い合っていて、政治力が裁判官の理解領域を決定する。

そして、なお困ったことに、経験そのものを伝える方法もないのである。
言葉は限定された伝達手段であり、その他のモードでの伝達手段にしても、限られた部分しか伝達できない。絵でも音楽でも。

*****
人間が言葉を語り、他人の理解を期待しているとき、それは共有の言語に依存しているのであって、全く新しい経験を提出することは原理的に難しい。その言語にすでに内蔵されていたもの・ことを再提出して、共有することが人間のできるせいぜいのことである。

共有の言葉の水平次元を超えて垂直方向に拡大することは共同言語は拒むだろう。
水平次元への拡大はお手軽なもので基本的には認められるし、おもしろがられる。時代によって言語は水平方向に移動しつつ、変形している。

言葉を共有することは人類には決定的に大きな出来事であったが、人間を決定的に、「ものそのもの」「ことそのもの」から遠ざけた。
体験する前から、何を作文すればいいか、何を叫んだらいいか、分かってしまっているのである。

女とは何かについて、徹底的に教育されてから、女を経験する。

*****
ものそのものに刺激されて発する垂直方向の言葉は共感さえ拒絶している。それでいい。それは、いわば「ものそのもの」としてそこにあるのであって、理解されるためにあるのではない。

言葉は普通は理解されるべきものであって、理解されようとして生成されるのであるが、そのような共有性とは関係なしに、ただ「ものそのもの」として存在することが可能である。まれであるが。絵画も、映画も、音楽もそうである。

水平運動の典型はたとえばいわさきちひろであり東山魁夷であり平山郁夫であり葉祥明であり、絵はがきであり、絵本の挿絵であり、子どもに見せたい絵である。

よい親とよい子の共有するよい絵である。

その反転としての、おどろおどろしいもの、まがまがしいもの、エロス的なもの、それらすべては
よい絵の水平反転であり、垂直方向の運動ではない。
祭りの夜店の幽霊屋敷に予定されている、予定通りの出し物なのである。
それらも水平方向の運動である。

*****
しかしなかには、ものそのものやことそのものとも関係なく、言語習慣とも関係なく、精神の内界から生成される、垂直方向の突出運動がある。
理解しようとしない人は理解しない。理解したという人も方向違いのことも多い。訂正する手段もない。
人間の精神は、ものそのものと同じだけの固さの存在を作り出すことができる。
その垂直方向のズレは衝撃であるが、見ようとしない人には見えない。

*****
人間は現実の部分に触れることができるが現実そのものに触れることはできない。

人間は言葉(または絵画、映像、音楽、その他)を共有していて、言葉の内部だけで生きることができる。約束の内部で伝えることができると信じている、その範囲で伝えることができる。

人間は約束の範囲の外部で密かに体験してしまうことがある。そのことを伝えようとしても、言語その他は拒む。垂直方向の拡大は予定していないからだ。

*****
このように
現実、言語、精神内界はお互いに少しだけの接点をもちながら存在している。

人間にとって、特に教育された人間にとって、言語の領域は大きい。言語で拾い上げることのできる現実が現実である。言語で拾い上げることのできる精神内界が精神内界である。

しかしそれがすべてではない。
ところが人間は現実そのものに到達できず、精神内界そのものに到達できない。

到達できないが、物理学は成立している。
ならば、精神内界についての科学も成立するだろう。
そのようにして精神科学は成立する。

単に脳科学への還元ではないのである。

*****
この先の議論としては、
結局のところ、
現実、言語、精神のどの領域にしても体験する主体は
「限られた感覚モードで、限られた脳で、教育された言語を用いて」経験しているという
決定的な制約である。

これは入れこ細工のように構成されていて、
一見したところ奇妙なパラドックスのように見える。

こうして考えてみると、こんなことを考えているよりは、
美しい世界を味わったほうが幸せである。

しかしながら、精神病とはなにかを考えるときはこういった
枠組みからの思考が必要になる。

脳内のセロトニンの伝達がよくないということで
膵臓のインシュリンの不足と同じように解釈できる部分の、
その外側に、精神科学の固有の領域が存在する。

セロトニンやドパミンによる精神病の説明は
水平方向の説明であって
精神病について垂直方向の衝撃を何も説明しない

*****
というようなことを
精神は共有の言語で考えて水平方向に発言しているのだから
原理的に愚かな行為である
と絶望している


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相手の幸せが大事に思えてくる

長い間ひとりの人を思い続けていると
自分の幸せより
相手の幸せが大事に思えてくるんだ

彼女のためなら
俺は身を引ける



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ここから先わたしは何をしたいのだろうか

ここから先、
わたしは何をしたいのだろうか
そう考えて
もうあまりないんだと気がつく

今年の梅雨は寂しい

無謀な目標は目標として意味がない
時間もない
根気もない

手の届く範囲のことは
何となく分かったような気もする
全部を実際にやってみる必要もない

山を経験したいと思ったらいくつか経験すればそれでいい
すべては必要ないだろう

すべての酒もいらないし
すべての音楽も必要はない
すべての本を読むことは意味がないだろう

偶然出会ったいくつかのものから
世界のすべてを想像的に再構成することができるはずだ

そのようなことをしてみたい


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