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著作権フリーとウェブの幸福な関係

梅田氏の新刊を「みんなで翻訳」 著作権フリーとウェブの幸福な関係

 ベストセラー「ウェブ進化論」などで知られる梅田望夫氏の新著「シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代」。将棋を世界に普及させようと、梅田氏が「だれが何語に翻訳してウェブにアップすることも自由」と著作権フリーを宣言したところ、東大法学部3年生の薬師寺翔太さんがさっそくブログで見知らぬ同志を募り、わずか5日間で300ページ近い本を英訳してしまった。ウェブの可能性を自分の手で確かめたかったという薬師寺さんに、プロジェクトの手ごたえを聞いた。
――みんなで翻訳しようと思ったきっかけは?
 2年前に「ウェブ進化論」を読んで梅田さんのファンになりました。その梅田さんが「将棋を指さない将棋ファン」として新刊を出したというので、読んでみたら勝負のアヤや棋士の世界観がとても面白い。友だちから著作権フリー宣言があったことを聞き、1冊丸ごと翻訳したら梅田さんに会えるんじゃないかという下心がわきました。しかし、1人で全部をやるのは無理。英語に自信がある友だちも周りにいませんでした。「じゃ、ネットでさがそう」と思い立ち、自分のブログに協力者を募るエントリーを立てたのが4月29日。その日のうちに梅田さんがブログで紹介してくれ、たった半日で10人が集まりました。
――インターネットらしいスピードですね。
 英訳メンバーの10人はいずれも日本人で、日本在住が7人、英国2人、米国1人。学校の授業があるので、「ゴールデンウイークの5月5日までに終わらせる」と大見得を切って始めました。どうしてこんなにエネルギーを集中できたのか、今でも分かりません。これまでだれもやっていないことをやっているという興奮はありましたね。ともかく翻訳を5日間で終え、5月8日にベータ版となる「Yoshiharu Habu and Modern Shogi」を公開しました。

――英訳の出来はどうですか。
 参加者はネイティブではないので、改良は必要です。ウィキペディアに準じたサイトを作り、「おかしいなら直してくれ」と注文しておいたら、毎日のようにネイティブスピーカーの人たちが編集してくれました。5月末の段階で、梅田さんの米国人の友だちから「内容は十分伝わる。他国語に訳せるレベルになっている」とお墨付きをもらいました。
――英語版以外の翻訳も進んでいるのですか。
 英訳に触発されて、仏語訳をやりたいという新しい仲間が加わり、ブログで参加者を募りました。いまは5人ぐらい集まり、コツコツと訳している状態です。その人はターゲットを広げるために、日本にある各国の大使館にメールして、翻訳を打診しました。これまでにポーランド語、スペイン語、韓国語、ハンガリー語のプロジェクトがネイティブの人たちの下で正式に発足して、韓国語はすでに一部公開済みです。また、日本人の大学生がドイツ語への翻訳を手がけています。日本語のニュアンスを各国語に直接訳すのは難しいので、翻訳は英語版をベースにしています。
――知らない人との共同作業に違和感はありませんでしたか?
 ぼくは実名でブログを公開しています。英訳メンバーからは実名でメールをもらいました。氏名の公開に躊躇した人はいませんでしたね。彼らとは毎日連絡を取り合ったし、同じ志を持てば、普通にないような濃い人間関係ができることが分かりました。東京在住の人たちが集まったオフ会は梅田さんにもご参加いただき、念願がかないました。女性はいませんでしたが(笑)。
――将棋の腕前はどれくらいですか?
 実はぼく、将棋はまったく知らないんです。個人的にいえば、将棋を世界に広めたいというインセンティブすらありません。もちろん、将棋の普及を理由にしたメンバーはいますが、ぼくのようにウェブのオープンさの可能性を確かめたかったメンバーもいます。他のブログでの反響があって、当初の目的は達成できたかな、という気持ちはあります。今後の方向性としては、日本文化をネットで伝えて「wisdom of crowds(集合知)」につながるようなことに挑戦したいですね。


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うつ病産業

躁病産業があると思う一方でうつ病産業もある

これはわたしがこうしてブログを書いて

公告を掲示許可にしておくといろいろと掲示される

クリニックの案内もあるし

健康院などのたぐいもあり

自己啓発から怪しい本から

もう次から次に怪しいものが表示される

あまりにひどいのでこのブログでは広告表示はなしにしている

これらすべてがうつ病ターゲット産業かと思うと

実に悲しい

*****
躁病産業のほうが儲かるに決まっているので伸びる

現代社会は躁病に圧倒的に親和性があるからその点でも違和感がない

コマーシャルとかミュージカルとか、わたしには躁病そのもののように思える

ましてや演劇の稽古場とかミュージカルの稽古場などは躁病のるつぼのように感じられる

躁状態が常識である当たり前である世界

*****
宗教は喪失や死を扱うという点ではうつ病産業の一つと考えていいと思う

躁病産業では主におだてて金を使わせるのであるが

うつ病産業では主に脅して金を出させる

自責の念につけ込んで金を出させる

坊主に金を出したって死者の霊魂とは何の関係もないことくらいは分かっているはずだが

自責があり、恐いし、世間体もあるし、それやこれやで無駄な出費をしてしまう。

あとで冷静になったときにもう一度脱力する。

うつをもっとうつにするのがうつ病産業である。


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トロッコ問題

新聞で紹介されていた。

トロッコが線路に沿って走っている最中、制御が利かなくなった。このままでは線路の上に立っている5人がトロッコに轢き殺されてしまう。そこでトロッコを別路線に引き込んで5人を助けたいが、この場合別路線に立っている別の1人がトロッコに轢き殺されてしまう。トロッコを別路線に引き込むべきであろうか?

つまり5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか、という問題である。

トロッコに6人乗っていて、
一人を犠牲にしてブレーキにして、
5人が助かったとすると、
引き込み線に1人いて、本線に5人いるのと、状況は同じになるとも思える。

ここでは、誰か一人、という条件が出てくるので、違うと思われる。
たていては、一番年寄りが、という話になって、
後期高齢者医療と同じになる。

自己犠牲精神のある人が率先して犠牲になり、そういう遺伝子が残らないという矛盾も抱える。

三浦綾子「塩狩峠」に描かれている。

もっと過酷な条件は、
子供のうち誰か一人を犠牲にするなどというもので、
これは親にとっては、選択しようのない問題である。

ウィリアム・スタイロン「ソフィーの選択」ではそんなことも描かれている。
ソフィーの「選択」はそれだけではないのだが。

他の者たちは死んだのに、
どうしておまえは生き延びたのか、
あのアウシュビッツの収容所を、
どのようにして生き延びたのか
と問われれば、
いま生きている全員が
太宰治のように
生きているということはインチキをしているということだ
生まれてきてすみません
というようなことにもなる。

*****
トロッコ問題では、
どうせ誰かが犠牲にならなければならない、
と割り切ることのできる脳の人もいて、
ヂクヂク悩む人の脳とはかなり違うらしい。

*****
サバイバル・ロッタリーの話もあり、考えると深刻だ。
よく分からない。

話は違うが、
我々が食べている魚を養殖するために
アフリカの人々が苦しい思いをするという映画があった。

 

*****

サバイバル・ロッタリー

仮に、重病な患者がふたり居たとします。ふたりとも末期的で、このまま放っておくと確実に死んでしまいます。しかし、ひとりは心臓を、もうひとりは肺を、それぞれ他人から移植してもらえれば助かるとします。

この場合、ヒトとして正しい行いとは、いったいなんでしょう?

例えばくじ引きで犠牲になる方を決定し、もう一方に臓器を与えれば、少なくともひとりは助かります。これは、このまま放っておいてふたりとも死ぬよりも、おそらくは正しいことだと言える……かな?
 
 
さらに、もうひとり健康な人を入れて、3人の場合を考えます。

ここで、3人目の健康な人に犠牲になってもらいましょうか。すると、この不幸な犠牲者から肺と心臓をもらった瀕死のふたりは、幸運にも生きながらえることができるはずです。3人中2人が確実に死ぬはずが、1人の犠牲ですんだわけです。人の命は地球よりも重いそうですが、3人の命の重さが等しいと考えるのなら、2人死ぬより1人死ぬ方がマシなはずです。健康な人の命はもちろん大事ですが、病人の命だって同じように大事です。この策に対して、感情的なもの抜き反論するには、どうしたらよいでしょう?
 
 
お話をもっと広げます。

日本国民全員がクジを引きます。例えば一日に1人づつ当選者を決めて、問答無用でその人の臓器を必要な人に分け与えるとします。臓器移植の技術は日進月歩ですから、おそらくクジの犠牲者の数よりも、それにより救われる人の数の方が遙かに多いでしょう。

仮に、クジには一切の不正がなく、救う人の選択も適切で、移植技術が完璧であるとした場合、この国民総くじ引き制には問題があるでしょうか? 一日1人というと、交通事故や自殺による死者よりも遙かに少ない数ですから、身の回りの人が当選する確率はほとんどありません。また、くじ引きには不健康な人も平等に参加してもらいますので、健康な人だけが一方的に不利ではありません(老人や瀕死の人が当選した場合は、使える臓器も少ないでしょうが、それは仕方がないとします)。

純粋に最大多数の最大幸福を求めた場合、この理屈に対して、不合理な感情ではなく、あくまで論理的に反対する術はあるでしょうか?
 
 
世の中の倫理学者達は、実際にこんな問題を自問自答し、激しく悩んでいるそうです。

*****

サバイバルロッタリーというのは、最大多数の最大幸福を求める倫理学の一派(功利主義)が自らを皮肉ったもので、多くの人が反対できない倫理観を作ろうとして、実際に論破が難しい行為を考えついたのに、なぜか多くの人が嫌悪感を感じてしまう、という矛盾を楽しむ(?)ための理屈なわけです。

 



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メンタル・チェック・サービス

検診のついでにメンタル検診というわけで
きれいなチェックシートを開いて
記入してもらい
業者が回収して結果を返す

いくつか業者があって
どれがいいでしょうかと
企業さんから相談を受ける

どれもいいはずはない
普通の人なら自分をどう見て欲しいかを書くだけでおしまいだ

メンタル相談をしたい人は
疲れ切っていると書くけれど
そのことに意味があるというなら
その制度に意味がある

*****
企業によっては
自己申告の際にメンタル自己申告の欄もあって
いまの仕事はやりがいがあるとか
人間関係はいいとか
仕事量はちょうどいいとか
そんなことを書かせる

なぜそんなことを書かせるか
なぜその答えをそこに書くか
両者の思惑が高い次元で交錯する

*****
妙な具合である



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あなたのせいで夫は家を出て行ったわ

妻が怒って
あなたのせいで夫は家を出て行ったわ
といったら

勝った!という気持ち

こんな女に負けないというわたしの自尊心が満たされる

泣いてみせるけど
わたしの勝ち


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