相続税
農業政策論争
夏の薬
ブリキの太鼓 オスカルのエディプス
深く読解するにも手に余るのだが
エディプスの物語として読む人たちには
父の後妻と通じて子供を儲ける、このことでエディプス・コンプレックスを
満たしているという意見がある。
父の後妻と通じるのは源氏物語でも同様で
家族の中ではよく起こることの一つだったのだろう
源氏物語をエディパールな物語として解釈するのも一つの道だと思う。
父を乗り越えるために強くなったという形跡はあまりないのであるが。
*****
主人公オスカルは、叫ぶとガラスも割れてしまうという超能力を持っている。
それは幼児的全能感であり、3歳で成長を止めて、幼児的全能感を維持し、その中で暮らしている。
父を象徴的に抹殺して、自己愛の幻想の中で生きている。
戦後の我々一人一人がオスカルである。
あちこちで叫びを上げて自分たちの社会の土台を割り続けている。
回避して安心していられるからくり
現実原則からも
社会の約束からも
逃れたままで生きていられる。
だから自己愛が肥大するが、
自己愛が肥大しているから現実も社会も否認するようにもなる。
そもそも
おなかがすいたら何か食べるものを手に入れるという現実原則にしても、
他の方法で手に入れられていればそれでいいわけで、
親がいる限り、あるいは社会保障がある限り、現実原則はこっそり免除してもらっても、
最低限生きていくことはできる。
社会の約束にしても、最近の風潮としては絶対でもなく、なあなあの部分がある。
むしろ新聞やテレビで毎日流れているのは、
このなあなあの部分ばかりである。
そのような状況の中で、
自分は逃げているとは感覚しないで、
自分はすごいのだから免除されていいのだという考えかたをする。
実際は疲れるのがいやで近道を通っただけなのだけれど、
それは自分の才能であると考えたりする。
自分は近道しか選べないと考えず
自分は近道が選べた、だからすばらしいと考える。
うまくできているものだ。
豊かな社会になって選択肢が増えて、
ぬくぬくとした自己愛の選択も可能になったということだ。
喜ばしい一面もあると思う。
私も妻子にはぬくぬくと生きて欲しいと思っている。
自己愛とネット社会のまとめ-4
おもしろくないから学校に行かない
スイッチを押すだけなら平等で全能
自然法則と自己愛
快楽を遅延延期させる能力
先天的刻印を拒否する
集団権威の解体と自己愛の肥大
ブリキの太鼓 オスカルのエディプス
父の否定
自惚れにくるまれて死ぬことができたら幸である
自己愛的管理職
努力しない自己愛者または努力の方向が違っている自己愛者
自己愛はいつかは妥協する
アイデンティティ人間の死に方
言葉で作り出すもう一つの現実
自己愛を保つためには現実を否認するしかない
分を超えた理想を求める
コンピュータのもたらす全能感
必需品ではなく自己愛商品。
欲求の階層
子どものポジション変化
隣人愛
自己愛満足中毒
同調性の高い自己愛人間
資本主義はお金で画一化する
マスコミは自己愛を総和して
品格問題
自分優先主義
唯一信じられるもの
22歳の段差
マスコミは父性像を消去する
父性像と自己愛
父性像の消滅
内因性うつ
子どもも大変
KY と 日本語の構造
自己愛性人格障害
「うつ病」の外延-正常な憂うつ、正常な疲弊
目的反応としての「軽症うつ病」
ソフト・シゾチミア性格者について
不安気質 不安・抑うつ発作Anxious-Depressive Fit
逃避型抑うつとディスチミア親和型うつ病
ディスチミア親和型うつ病および逃避型抑うつの対比
逃避型抑うつと退却神経症の相違点
同調圧力と匿名度
公共マナーの同調圧力
同調圧力(peer pressure) 対他配慮
新しい理論と言葉
性愛と利他主義
必死に仕事をする
ネットで生きている部分的空想的全能感
人格障害タイプとネット社会の特性
自分の愛する相手の生を生きること
過去の不幸を消すために現在幸せになろう
人格を全否定するようなしかり方をする上司
「強くなれ!」と言われたって、なかなか強くなれるものではない
グーグルとマーケット
進化論の帰結
人生の要点は
他人を見て自分を発見する
アブラハムの口愛期の一体化願望
過酷な現実に遭っても幸福は消え去らない
未熟な人格
過去を笑って見送る
トランスジェンダー
世界のグローバル経済と子ども社会の情報化のアナロジー
心の細やかな人
ほんとうの生き方
倒産しても破産しても明日がある
情報についての情報 知識についての知識
過食症は衝動的ではない
報われない人
喪失の痛みは理解可能なのか
生きづらさの自覚を異物化して解放する
低音障害型感音難聴
知識をコントロールするための知識 知恵
自己中心性
自己愛からアイデンティティへ
ネット社会と自己愛とディスチミア
携帯というゆりかご
OSと脳
慰めのない不幸が必要である。
まったく執着から離れきるためには、
単なる不幸だけでは十分ではない。
慰めのない不幸が必要である。
慰めがあってはならない。
そうベイユは宣断する。
それなら世界に満ちている。
慰めのない不幸という契機は満ちているのに、
恩寵は存在しない。
またベイユは続ける。
これといってかたちに表わせるような慰めが少しでもあってはならない。
そのとき、言葉に言いつくせぬ慰めが、ふりくだってくる。
まだ不幸が足りないと?
慰めがあると?
最近の文学はすべてがゆるいと評していた人がいる。
不条理が描かれていたとしても、ゆるい。
仲間内で許容しあえるものだけを描いている。
そう語る。
慰めのある不幸だけを描いているのだ。
しかし、
解決できないものは描かないのも、ひとつの流儀ではある。
解決しようと思えば、
超越を導入する必要がある。
対立するものも、対立し切っていない。
こころとかたらだも、健康と病気も、
むしろ対立としないでとらえたほうがいいのだと、
理解ばかりが早い。
俗人の悟り方ばかりがある。
自分を託せる安心感
世の中にはもっとましな人もいるの、
わたしが教えてあげる。
恋愛のことも書いているけれど、そして、
平安貴族のことも書いてあるけれど、
あの人たちは、財産のための結婚は別にきちんとしていたの。
恋愛ごっこして貧しくなるなんてないのよ。
その上で、遊ぶために、あんなふうに、プロの歌人に歌を作らせて、
贈ったり贈られたりしていたわけ。
そのとき、「本気」が一番困るの。
パーティなんだから。
ほんとはね、女が欲しいのは、情熱とか本気じゃなくて、
安心なの。
親が、結婚式で、この男性になら娘を託せる、なんていうでしょう、
あれが本心。
女性が自分を託せる安心感、これがまず第一だと思う。
いろんな女性がいるから、例外はあり、もちろん。
だから、男性は、任せられたときに、
きちんと守って相談に乗って安心させてあげる
力が大事なの。
それは多少軍人風でも、多少詩人風でもいいの。
お姫様って何かっていうと、
守ってくれる軍隊がいるということ。
でもその上で、詩人に言葉で安心させてもらって、眠りたいの。
この先何があってもわたしはOKだって思えたら、
幸せ一杯でしょう?
生命保険は嘘だけど、
嘘じゃない本物の安心が欲しいわけ。
時々は暴走があるけれど、
あれは、例外なの。
暴走なの。