SSブログ

枕より あとより恋の せめくれば せむ方なみぞ 床なかにをる 読人知らず

枕より  あとより恋の  せめくれば  せむ方なみぞ  床なかにをる 読人知らず 

枕の方からも足の方からも恋が迫ってくるので、しかたがないので寝床の真中にいる

あと ・・・ 足 (跡)

これは解釈できそうでできない

大人にはこの事情が分かるのだろうか

ーーーーー
玉簾あくるも知らぬ枕よりあとより香る窓の梅が香

というのが この歌を引用しているようだが 平凡

元の歌の解釈の手がかりにもならない

ーーーーー
よひよひに  枕さだめむ  方もなし  いかに寝し夜か  夢に見えけむ
夜ごとに、枕を置く向きも定まらない、どの方角に向けた時にあの人が夢に現れたのだろうか

これなどは恋しい人と夢で逢うための枕の方角または位置を模索している

夜の衣を返してぞ着る
袖折り返し
我が衣手を折り返し
など全部そのたぐいのおまじない

ーーーーー
その点からすれば、頭を枕につけると枕から恋がせめてくる、足を伸ばして寝ていると足のほうから恋がせめてくる、夢の中であなたに逢ってしまう、
仕方がないので、枕も使わず足も伸ばさず体を丸めて寝床の真ん中辺で寝ている

などと解釈すればいいのかもしれない

夢であまり逢いたくない人
夢で逢ってしまえばまた恋しくなるような人 そして甘く苦しいばかりの人

1240070653406.jpg

これは本当なんだろうか
骨の数が合うのだろうか
あまりに甘美ではないか
あまりに現代的ではないか


共通テーマ:日記・雑感

個別理論と包括理論

個別のケースについて
いろいろと思いつく理屈はあるので
そのことを説明すると理解していただける

そのような個別のケースを包括するような理論があるのかというと
そこがよく見えない

見えてくるのは多分時代が大きく変わるようなときなのではないか

トンネルから出て突然景色が変わるとき
自分のしてきたことを理論化できるのだと思う

たいていは
トンネルの出口が
また別のトンネルの入り口で
暗いことにかわりはないのだけれど
ハンドルを15度くらい回したことは分かるだろう

そのあとはまたまっすぐ進むだけで前と変わらないだろう

15度ハンドルを回しましたなんていうことは
誰もあまり興味はないと思う


共通テーマ:日記・雑感

身を捨てて ゆきやしにけむ 思ふより 外なるものは 心なりけり 

人をとはで ひさしうありけるをりに あひうらみければ よめる

身を捨てて  ゆきやしにけむ  思ふより  外なるものは  心なりけり 凡河内躬恒

ある人を訪問しないで久しくなっていた時に、夢で逢い、それまで逢わなかったことを悔やんで詠んだ

体を離れて勝手にこころが行ってしまったようだ、

本来思ったことより外にあってコントロールできないものは心なのだな

ーーーーー
体を離れて心が勝手に行ってしまいました 

思いのほかの強さであなたを思っていました ということだろう

あひうらみければ がいまひとつ不明であるが お互いに恨みに思って ということだろうから

逢わなかったことを悔やんで つまり、強く思い出して、

ということではないだろうか。

そうとしても、「あい」が分からない。

わたしはあなたを強く後悔と共に思い出した というなら意味は通じるが

あひうらみければ というので よく分からない。

ーーーーー
体を離れて心がゆくというのは 夢の場合に使いそうだけれど

あひうらみければ を 「夢で逢い、後悔した」とすれば

意味が分かるのだが。


共通テーマ:日記・雑感

身は捨てつ 心をだにも はふらさじ つひにはいかが なると知るべく  藤原興風

身は捨てつ  心をだにも  はふらさじ  つひにはいかが  なると知るべく  藤原興風

 藤原興風は古今集に17首収録されている。読み人知らずの意味不明歌でもないはず。

はふらさじ ・・・ 離さない、葬り去らせない (はぶる:放る/葬る)

この身は捨てたが、心までは離すまい、最後にはいったいどうなるのかを知るために、という歌という。

"身を捨つ" ……世間から離れて、出家の身となった

心をだにも  はふらさじ……心は離さない、心は死なない

"つひには" ……最後は、あるいは死後は

としても意味が通らない。

ーーーーー
政治的策略によって失脚したこの身であるが、心まで葬られたわけではない、

最後にはどうなるか、見届けてやるぞ(場合によっては祟ってやるぞ)

というくらいならば意味は分かるが、そうでもないらしい。




共通テーマ:日記・雑感

何をして 身のいたづらに 老いぬらむ 年の思はむ ことぞやさしき

何をして  身のいたづらに  老いぬらむ  年の思はむ  ことぞやさしき

何をしてこの身は無駄に老いてしまったのだろう、「年」がそれをどう思うかと想像すると身が細る思いだ

「やさしき」の語は「身が細る」「身が細るほど恥ずかしい」で、心根が優しいとは違う意味のようだ。

痩すが動詞で、痩さしが形容詞。

ーーーーー
ここで「年」がわたしの人生の時間をどう判定するだろうか、

それを思うと恥ずかしいと思うなどというのであるが、

このあたりの思考は平安の思考としては面白い。

神とかえんま様とか、エジプトの天秤を持った神様とか、

そんな人たちが、人生を判定するのは分かる

しかし「年」がわたしの人生をどう判定するか、気になるというのである。

この方面では、次のようで

(1)引きずる派……因果応報、輪廻転生、地獄

(2)水に流す派……悪人正機

どちらかと言えば、引きずるのが素朴派で、水に流すのが高等宗教の傾向だけれど、

そこには記録者とか判定者が当然介在するものだろう

それを「年」と表現した何かが登場しているので、これは何だろうか

ーーーーー
それとも、意味の取り方が間違っていて、

無駄に年をとったなと、重ねた馬齢のことを考えると身が細る思いだ

くらいでいいのかもしれない

\\\\\
追記

考えてみれば、人間は年をとるごとに内面的には成熟するものだと思う
成熟しない人もいるので
変化するものだと一応しておけばいいのかもしれない

そうすると、意味のある人生にしようと思って懸命に過ごした時間が
自分の内面の価値観が変化することによって
大変無意味なものになってしまう危険がある

たとえて言えば
自分はピッチャーがいいとずっと思っていたけれど
バッターの方が本当は良かったとか

かつての軍国少年などは後悔の典型である
しかしそれでは後悔しない永続する価値観は何だろうと言われて
なかなか答えられない

抽象的な言い方をしておけば間違いはないかもしれないが
生きる指針とするには物足りない

むしろ、昔あんなにもいいと思ったものが、いまは価値がないと思えるというその自分の内面の変化の仕方に
感慨がわく

年をとって内面の変化もあるのであるが
身体の変化も大きくて
これはどうにもならない
そのことも価値観の変化に大きな影響を与えていると思う

年をとってみると
いろいろな価値観があって
どれも相対的で
どれも一応の存在理由もある者なのだと知るようになる

一方では、自分の信じた価値観も一面的で一時的なものであったと知る
また一方では、そのような若い思い込みも、仕方のないものなのだと知る
むしろその若い情熱がいとおしくもある

結局無駄なことと知りつつも
若い人の情熱を応援してやりたい
そんな気分はある

そんな気分で
何をして 身のいたづらに 老いぬらむ 年の思はむ ことぞやさしき
の歌を眺めてみると

いったい何をしてこの年月を過ごしてきたものだろう
無駄に年をとってしまったものだ
しかしまた過ごしてきた年月を思うと優しい気持ちになって世界を肯定できる面もある


共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。