夕食を食べながら-2
夕食を食べながらテレビを眺めていた
カンブリア宮殿では風力発電の会社の話をしていた
オーディオで有名だった山水の技術者で
現在は風車の開発と販売をしている
なんて夢のある、開発力のある人だろう
夕食を食べながら
夕食を食べながらテレビを眺めていた
JR西をめぐる情報漏洩の問題であるが
旧国鉄時代の先輩後輩とか飲み仲間とかいわれているが
「鉄道模型のプレゼントがあったりした」
という意味のことが言われていて
この報道はそのような次元の興味で行われていたのかと驚いた。
偶然にあらわれたものに人生の軌道を乱されてはいけない
最近、日々ますます思うのだが、
自分の人生の中に偶然にあらわれたものに
自分の人生の軌道を乱されてはいけない
いろいろな偶発的な事柄は起こるだろう
しかしそれに乱されないで
自分の長い目標に向かって
歩けるかどうかが大事だ
偶然に起こった事柄に対応して
人生のすべてを費やす人の何と多いことだろう
それだけの人生と言えばそういうことなのだし
仕方がないけれど
いろいろあるが乱されずに
自分の道を行く
それがわたしの好みだ
複数の推測
わたしも事態や他人に対して推測をするけれど
なるべく決めつけないで
多様な解釈が可能かどうか
確かめてみることにしている
一見そのように見えるけれど
深く考えてみるとそうではない可能性もあるのだと
心にとめているだけで
ずいぶん違う
ある人がわたしにとって味方である可能性も常にあり
敵である可能性も常にある
期待で目を曇らせてはいけない
また逆に猜疑心で心を曇らせてもいけない
ただありのままに見て
可能性の範囲を推定するのである
ーー
こうした習慣が認知の硬直化を防ぐ
認知療法の目標はこのあたりにあるだろうと思う
毎日毎日「別の可能性は?」「別の推定は?」「別の考え方は?」と
言い続けていると、やはりいやでも、別の考え方はないかをチェックするようになるものだ
認知療法的変容は、実はわたし自身の内部において一番大きいのかもしれない
21世紀のため息
二十一世紀になったのはしばらく前のこと
いま何と2009年で
店には2010年のカレンダーがにらんでいるし
2010年の手帳が配られている
わたしは20世紀と21世紀をまたいで生きた
あの野蛮な20世紀
ガソリンの臭いの20世紀
21世紀はグリーンニューディールに違いないのだ
緑の風が発電する世紀
私の構想では光合成の回路に介入して、そこから直接に電力を取り出す世紀
貧富の差はあまりにも拡大して
富めるものはばかばかしくなり
全財産を使って財産の平準化に向かう
少しの差はうれしいものだが
あまりに大きな差はうれしいものではない
現状では人々は会社でも家庭でもコンピュータ・モニターに向かっているが、
徐々に本来のインターフェイスである対人関係に立ち戻るだろう
こんなふうにポリアンナみたいにいいとこ探しをしてみてもじきに疲れてしまい
21世紀のためにため息をついているのである
なんとなく先が長い