病院とコンピュータ
昇進した途端、うつ病に!という記事
アダルトチルドレンが抱える問題
クロックチャート 緑内障
緑内障による視野の欠けは、クロックチャートを回してチェック!
2009/10/14(水) No.M008949
ファイザー株式会社は10月18日より、日本人の40歳以上の20人に1人が罹患しているといわれる緑内障の啓発活動として、その主な症状である視野欠損のチェックツール「クロックチャート」を新聞展開すると発表した。「クロックチャート」は、近畿大学医学部眼科学教室教授 松本長太氏により開発されたもので、真ん中の赤い点を片眼で見つめたままチャートを回し、周りの生き物が消えるかどうかで視野の欠けをチェックする。
緑内障は、日本における中途失明原因の第1位であり、なかでも、眼圧が正常であるにも関わらず視野が欠けていくタイプの「正常眼圧緑内障」は全体の約7割を占めている。
同社は、より多くの人に緑内障による視野欠損への意識を高めてもらうため、視野欠損のチェックツール「クロックチャート」を新聞広告として掲載するとのこと。同時に、40歳を過ぎたら年に一度は眼科専門医で定期的に検査を受けてほしいとしている。また同社はキャンペーンの一環として、年内にクロックチャートプレゼントキャンペーンも実施する予定だという。
感情のエレベータ理論
エレベータで移動するとき、
扉が開くとまったく違う景色が広がることがあり驚かされる。
人間は体験を脳の中に収納する時、
分類記号として、感情のインデックスをつけるのではないかと思う。
感情インデックスの種類は、
その人の成長に従って、分類し直され、細分化され、あるいは統合される。
人間の体験の記憶全体をデパートと考える。
体験には、「楽しい」「悲しい」「悔しい」「秘密のドキドキ」などの感情インデックスがつけられる。
感情インデックスの最初は、「快」「不快」の二種なのだろう。
成長するにつれて、複雑になり、細分化される。
例えば、「悲しい」も、清々しさを含むものや、悔しさにつながるもの、恨みと直結するものまで、さまざまになる。
子供の頃であれば、たとえば10階建てのデパートに体験を分類収納するようなものだろう。
そのような体験デパートを、人は新しい体験をした時に、
エレベータに乗って、移動していく。
「悲しみ」の時には、悲しみの階でエレベータが停止して、
昔の『悲しみ』と再度対面し、今回の悲しみについて、想いを深める。
その階には、見渡す限りの、「悲しみ」が貯蔵されているのだ。
こんな具合であるから、
快感を感じている時には、過去の快感体験が次々に思い出される。
うつの時にはうつ場面が次々に回想される。
それは脳における「うつ」の体験貯蔵地区が活性化され、
再体験されるからだ。
しばらく忘れていた『うつ』を再度経験することで、
いま対面している『うつ』とどう付き合えばよいか、考える参考となるはずだ。
従って、「うつ場面連続想起」が起こる。
成長するとは、
感情インデックスが細分化され、
同時に、
ひとつの体験について、複数の感情インデックスをつけることができるようになる。
例えば、野球の試合で負けた時にも、
「悔しい」「悲しい」と同時に、「スポーツマンシップの心地よさ」「一体化の快感」など、別の面の感情も意識できるようになる。
人間のひとつの体験は、感情としても多面体であるということになる。
上から見ても横から見ても怒りのみ、といったことは少なくなり、
一面では赤であり、他面では青であり、別の面からは、海の色、そんな感じになる。
成熟してくると、ばかばかしい断言は少なくなるものだ。
時と場合、立場や事情によって、感情には違いがあるのだと知るようになる。
達人になれば、
悲しい時にだけ悲しみの貯蔵庫にアプローチするだけではなく、
自分の感情をコントロールして、
いろいろな部屋へのアクセスができるようになる。
それは一般には成熟である。
職業的に必要な人もいて、例えば、俳優である。悲しくなくても、全身が悲しみの表出をするように、制御する。
人の話を聴く人もそうで、目の前にいる相談者の感情に同調させて、そのあたりの体験を掘り起こす。
その上で、相談者の感情インデックスの細分化や精密化に手助けできるかどうか、
試みる。
ネット社会の万能感
確かにそういう傾向だとは思うが、
万能感なのだろうかと疑問には思う。
クリック一発でいろいろな欲求が満たされる
便利なネット社会である。
あるいは自分が出会いたい言葉、画像、人間に、
しばらく何かしているとたどり着ける、
昔ならできなかったことができるようになった
画期的なネット社会である。
しかしそれを使っていて
万能感と実感したことはない。
当たり前にできるはずのことができているだけで
万能と感じるはずもない
omnipotencyというような言葉なのであるが
皆さんは万能感などを感じているだろうか。
ひとつの呪文で現実のあらゆることが解決する、
呪術的思考というものは昔から根強くあり、
宗教的思考の一部はそのようなものを取り入れている
儀式もそのような形式の一部だろう
しかしコンピュータがそのような意味での万能感を提供してくれているとも思わない
ゲームの中では何か実現できるのかもしれないが
万能のスイッチがあれば当たり前に起こることが起こるだけだ
有能感は増大しているだろうか
それも怪しい
誰にでもできることができても
自分を有能だとは思わないだろう
他人と比較するから有能感が生じるのだろう
世代間での差はあるかもしれない
ネット社会のある部分で流通している情報に親は疎いかもしれない
当然疎いだろう
そんな時、親よりも自分は優れていると思うだろう
そしてその反映で親は劣等感を感じ
そのことを最近の若い人は空想的な万能感を抱いていると
表現してしまうのかもしれない
正確に言うと
親が持っている情報とは違う
しばしば役に立たない間違った情報で
子供だけが知っている情報があり
それを知っている自分を
間違って有能だと思い込んでいる事態であり
たとえば間違ったダイエット法などがある
子供が親の言うことを聞かず
悪い仲間の情報に支配されることは
昔からあったことで
新しいことではない
しかしこのように大規模に徹底的に起こったこともないはずである
しかしながら
ネットは食べ物をくれないし生活費をくれないのだから
親の優位は決定的なのだけれど
それをありがたいと思わずに
生きていける現代の便利生活が
実際本当にありがたいもので
子供が多少変な具合になっていても
親としてももう昔には戻れないのだろう
人の目を見て話すこと
人の目を見て話しなさいとよく言われる。
そのせいで対人恐怖症になったりもする。
携帯やネットで暮らしているならば人の目を見ることもない生活である。
人の目は言葉以外の情報を多く含んでいるからだ。
ネット上の情報は人間の発する情報の重要な、しかし一部分だけを急拡大したものである。
視線恐怖という言葉があり、
他人の視線が気になって仕方がないという場合である。
自分の視線が人に不快感を与えているという場合もある。
目と目で通じ合うとすればすごく面倒だと感じるのは
すでにネット社会に汚染されているのだろう。
視線を恐怖して、引きこもるのであるが、さらに進んで、
活字として表示されている言葉の微妙な部分に反応するくらい過敏になっている。
*****
風呂や洗濯の習慣という下部構造が人間の清潔に対する意識を決める
不潔に対する鈍感さを決める。
同様に他人の視線や他人の言葉との接触の度合いが
認容性を決定しているとも言える。
いいやつなんだけど誤解されているという場合は多いものだ。
恋人に会えない淋しさを慰める為に、いろいろなこと
解説によれば、万葉集においては、
恋人に会えない淋しさを慰める為に、いろいろなことをしている。
どんなこと?
例えば野山を遊び歩いたり、
花を植えたり、
恋人ゆかりの地へ行ってみたり。
しかしなぐさめる為にする行為は結局はなぐさめにならない。
恋人に会うこと以外に淋しさは解消されないのである。
なんて解説にある。
まさか。そうかな?10代ならば、そうかな。
これじゃ高校の教科書だな。
わたしなら、異性に逢うこと以外にたくさん淋しさ解消がある。
異性はむしろ煩わしい。愚かで幼くて貪欲である。
わたしの美しさにしか興味がない(!)。
万葉の時代はあまり楽しみがなかっただろうし、
時代を経て残るのは、
こうした感情なのだろうけれど、
また、説明しやすいし、高校生や大学生向けに説明しておけば、
マーケットで価値が出るのだろうけれど、
いつまでも高校生の性欲やどきどきが続くものでもない。
・・・わが恋ふる 一重の一重も 慰もる 情もありやと 吾妹子が
止まず出で見し 軽の市に・・・ 人麻呂 2-207
・・・ここ思へば 胸こそ痛き そこ故に 情和ぐやと 高円の
野にも山にも うち行きて 遊び歩けど 家持 8-1629
・・・酒宴 遊び慰ぐれど 射水川 雪消溢りて 逝く水の
いやましにのみ・・ 家持 18-4116
・・・見るごとに 心和ぎむと 繁山の 谿辺に生ふる 山吹を・・・家持 19-4185
恋繁み慰めかねてひぐらしの鳴く島陰に廬するかも 15-3620
レズビアン夫婦の子ども
男性同士の場合も可能である。
法律的にどうであっても、技術的に可能であるから、存在してしまうだろう。
そのような未来しか人類にはないだろうと思う。
それが悪いかどうかといえば、面倒なだけで、善悪の話ではないだろうと思う。
注文にあわない子どもだと業者が訴えられたときの法律はできて、また警察や弁護士の仕事が増えるだろう。
ーー
子育て支援金の支給と遺伝子操作支援金の間には大きな差があるが
質的な差かどうかはよく分からない
国家が子どもを必要としている限り、法律はどうとでも作ることができる
ーー
隣国は大々的に遺伝子操作を始めたから我々もやりましょうというキャンペーンにどう対処するのかは謎だ。
『強いられる死 自殺者三万人超の実相』 角川学芸出版
恵比寿三越 おせちの準備
野菜の値段がいつもの1.5倍から2倍になっている。
おせち料理は少量でいいので、自分では作らず、
もらい物か買ったものですませる。
ないと気分が盛り上がらないが、
これだけで他はいらないというものでもなく、
一応用意するという感じだ。
でも、日本人だという感じはして、
さらに、2006年の年末だという感じもする。
今日はジョアンのパンがおいしそうに見えた。
いつもはメゾンカイザーなどのパンが好きなのだけれど。
客は結構たくさんいた。駐車場もかなり混んでいた。
子ども連れがいないので動きやすかった。
最近入った新しい見せもあり、実演販売していた。
新しい店といっても、あまり新奇なものは売れないし、
売れるものは見慣れたものだしで、難しい商売だと思う。
帰り道、目黒駅近くで、信号待ちをしていて自動車内から150円珈琲を見つける。
この立地でこの値段で珈琲屋を維持できるのか。その秘訣は何か。気になる。
恵比寿三越では一風堂とか、恵比寿あたりの人気ラーメン店の企画した商品が入っていた。店に行って食べる方がおいしいと判断して買わなかった。
また、インスタント麺も入っていて、サッポロラーメンが二種類、カップ麺ではどん兵衛とカップヌードルが入っていた記憶がある。
もう食べたいものといって特にないのだが、そばを何種類か購入。わたしはそばのつゆは不要だと思うので、そばだけを食べる。味気ないという人もあるが、そばだけでおいしい。
そのようなそばに慣れると、こんどは、そばつゆでそばの味が消えてしまい、驚く。
私たちは何を食べているのか。せっかくそばを食べているのに、つゆの味しかいないなんて、倒錯しているのである。
例えば、そばでも、うどんでも、そうめんでも、さらにはスパゲッティでも、ゆで加減を見る時に味見すると思う。その時の味をおいしいと思いませんか?私はそれだけを食べたい。
値段の比較でいえば、日本橋高島屋などが比較的安いようだ。