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世界中どこでも生きていける戦略

日本でしか生きていけないと将来破滅するリスクがあるので、世界中どこでも生きていける戦略のご紹介 


あなたは、日本依存症にかかっていませんか?


日本依存症とは、日本でしか仕事を得られず、

日本でしか生活ができなくなる、危険な病気です。


日本依存症は、国家依存症の一種であり、会社依存症とよく似ています。



会社依存症の恐ろしさとその回避策


会社依存症とは、ある特定の会社でしか通用しないスキルばかり蓄積して、他の会社では通用しない人材になってしまう病気です。


会社依存症にかかると、その会社の経営が悪化して、どんどん待遇が悪くなり、給料を下げられ、「このままここにいても、少しもいいことがないまま年を取っていくだけ」という状況になっても、ひたすらその会社にしがみつくしかなくなります。

また、会社の都合で延々とつまらない仕事をさせられたり、いまいち納得のいかない降格や減給をされても、なかなか拒否しにくくなります。

上司や同僚と相性が合わず、人間関係がこじれてギスギスした雰囲気になり、毎日会社へ行くのが憂鬱になっても、そこに居続けるしかありません。


なぜなら、その会社を辞めると、ほかに行くところがなくなり、路頭に迷ってしまうからです。


このため、このことがよく分かっているエンジニアなどは、その会社の独自製品や独自環境でしか通用しないスキルしかたまらないような仕事をできるだけ避けるようにします。

そして、「広く普及しており、かつ中長期的に需要があり、供給が不足ぎみで、かつ陳腐化しにくいスキル」を戦略的に蓄積します。

たとえば、以下のようなものが考えられます。

●要求分析、要求仕様定義、システムアーキテクチャ設計、RDBスキーマ設計、サーバの負荷分散設計、各種サーバのパフォーマンス解析・チューニング、デザインパターン、マルチスレッドプログラミング、システム管理、ネットワーク管理

●マネージメント、プロデューサ・デザイナ・経営者・営業・顧客との交渉スキルや連係プレースキル

●普遍性の高いコンピュータサイエンスの基礎

●Unix、RDB、正規表現、Java、Perl、TCP/IP、.NET、C#


日本にはたくさんの会社があり、それぞれが浮き沈みを繰り返しています。

いまいる会社が今後もずっと浮いたままだという保証はありません。

一つの会社に依存しきると、その会社が沈むとき自分まで一緒に沈んでしまい、酷い目に会います。

いまいる会社が沈みそうになったら早めに別の会社へ移れるように準備しておくべきではないでしょうか。



国家に依存する危険性


国家に対しても同じことが言えます。

政府は全ての国民を幸せにするような政策を実行するべきですが、必ずそれに成功するとは限りません。

ときに間違った政策を行い、多くの犠牲者を出すこともあります。しかも、その犠牲者を救済するための政策が実行されないこともあります。

もっと最悪なことに、間違った政策で、国全体が沈んでしまうようなことすらあります。


もちろん、そうならないように、われわれは選挙で正しい政策を実行してくれる政治家に投票すべきですが、常に正しい政策を実行してくれる政治家が自分の選挙区から立候補してくれるとは限らず、自分以外の人々が常に正しい政策を実行してくれる政治家に投票してくれるとも限らないというのが、世の中の現実です。


だから、どんなに自分が正しい政治行動を取っていても、おかしな政策が実行され、自分の将来が危うくなるリスクは常に存在します。


たとえば、金持ちばかりが得をし、平均的な労働者が搾取される最悪の格差社会になってしまうかもしれません。

あるいは逆に、今後スキルアップし、キャリアアップし、実力を身につけて高い年収をゲットしようと思っているのに、高額所得者の所得税が大増税されて、酷い搾取に苦しむようになるかも知れません。

あるいは、少子化対策で、実質的に独身税をかけられたのと同じような状態になり、結婚するつもりも子供を作るつもりもない人たちの生活の質がかなり落ちるかも知れません。

あるいは、国の医療システムが疲弊しまくって、まともな医療サービスを受けられなくなるかも知れません。あるいは、まともな治療を受けようとしたら、恐ろしく高い料金を徴収されるようになってしまうかもしれません。

あるいは、地方格差を埋めるため、都市部の住民を徹底的に搾取し、地方にじゃんじゃんばらまくような政治が行われるかもしれません。そうすると、田舎に住む人間の暮らしはよくなるかもしれませんが、今後も都市に住み続けるつもりの人間の暮らしの質が大きく低下するかも知れません。

あるいは、非正規雇用を減らし正社員を増やすという名目で、おかしな規制がかけられ、予期せぬ副作用が出て逆に多くの人が職を失うことになるかも知れません。余波で、自分まで失職するかもしれません。残された正社員の自分に酷いしわ寄せが来るかも知れません。

労働者保護や消費者保護という名目で、過剰に企業の手足を縛るような規制がかけられて、企業の活動が阻害されて経済が悪化したり、企業がどんどん日本から逃げ出すかも知れません。雇用が減り、治安が悪化し、日本が住みにくい国になるかも知れません。


要するに、投資において、全ての資産を一点がけするのが危険な投資戦略であるように、自分の生活基盤となる国家を一カ所だけに限定してしまうのも、極めて危険な賭なのです。


今までは日本が世界一豊かな国だったので、

この国にずっと住み続けるのが一番賢い戦略でした。

しかし状況は変わりました。

いまや日本よりも豊かな国や都市がどんどん生まれつつあります。

日本などよりも、はるかに先行きの明るい国や都市がたくさんあります。


本来、この惑星には、たくさんの国家があり、それぞれ浮き沈みを繰り返しています。

いまいる国家が、今後もずっと浮いたままだという保証はありません。

一つの国家に依存しすぎると、その国家が沈んでいくとき、酷い目に会います。

いまいる国家が沈みそうになったら、早めに別の国家に移れるように、準備しておくべきではないでしょうか。*1



国家依存症と愛国心は別の話


こういうことを言うと、「おまえに愛国心はないのか?」と言い出す人間が時々いますが、依存症と愛国心とは別の話です。

これは、結婚において、夫を愛していることと、夫に依存することが異なるのと同じことです。

経済的にも精神的にも自立していることと、夫を愛することは両立します。

夫婦仲は冷め切っていて、夫の暴力に怯えながら暮らしているにもかかわらず、夫に経済的に依存しているためにガマンし続けているような状態は、とても健全だとは言えません。

むしろ、特定の国にまったく依存していないにもかかわらず、その国を愛し、その国に貢献することこそ、純粋に打算抜きの愛国的な行為なのではないでしょうか。


そもそも、「いろんな異性とつきあってみて、そのなかから最高のパートナーを見つけ出して結婚する」というのは、少しもおかしなことではありません。

「1人の異性しか知らず、最初につきあった異性と一生添い遂げなければならない」というのはいかにも古めかしい道徳観念です。これは国家についても同じことです。たまたま日本に生まれたからと言って、日本と一生添い遂げなければならないということはありません。

むしろ、さまざまな国に住んでみて、そのなかから、自分にいちばんあった国に落ち着き、添い遂げる、という人生も十分にありなのではないでしょうか。



日本以外にも快適に暮らせる国や都市はたくさんある


日本以外で暮らしたことのない人々の中には、日本だけが世界で唯一暮らしやすい場所で、日本以外には暮らしやすい場所などないと信じて疑わない人もときどきいるようですが、そんなことは決してありません。


むしろ、日本よりもはるかに、晴天の日が多く、気候が温暖で、からっとさわやかで、毎日気持ちよく暮らせる国や地域がたくさんあります。

食べ物も美味しく、人々も気持ちよく、街の各種施設も充実しており、遊び場所もたくさんある快適な都市は世界中にたくさんあります。

どんなところでも、けっこう住めば都なのです。


また、日本以外の国は治安が悪くて暮らしにくいという偏見を持っている人もいますが、どんな国でも、きちんとした安全対策を講じ、危険な地域に近寄らないようにすれば、それなりに安全に快適にくらせるものです。


それに、どうせネット環境さえあれば、世界中どこでも、twitterやtumblrやmixiで遊べるし、ブログのコメント欄でクネクネすることもできるし、2ちゃんでだらだら過ごすことも出来るし、エロ画像をダウンロードすることもできるし、はてブで脊髄反射的なコメントを付けることもできるし、はてなスターを連打しまくって顰蹙をかうこともできるのです。


「わたしは(この国に生まれたというより)この惑星に生まれたのだ」という感覚を持ちながら生きるというのは、広々とした感じがして、なかなか気持ちの良いものです。

せっかくこの美しい惑星に生まれたのに、日本という小さな小さな島国に引きこもったまま一生を終えるのは、じつにもったいないことではないかと思えてきます。



依存症からの脱出は難しい


ギャンブル依存症、アルコール依存症、買い物依存症、恋愛依存症、セックス依存症、たいていの○○依存症は、そこから抜け出すのに苦労するように、日本依存症も、一度それにかかると、そこから抜け出すのにかなり苦労します。

簡単に日本依存症を抜け出す方法などありません。


また、タバコ依存症から抜け出すために、さまざまな方法があるように、日本依存症から抜け出すにも、さまざまな方法があります。



資産運用、または、プチ資産運用による脱日本依存


日本依存症から抜け出す一番効果的な方法は、実は、英語力をアップすることではなく、日本の外でも安定した収入源を得られるようにすることです。(もちろん、最低限の英語力は必要ですが)

特定の国家に依存しない収入源を確保するわけです。

これに一番効果的なのが、資産運用で暮らせるようにすることです。


利回りのよい債権や株式に自分の資産を分散投資し、運用することは、どこの国に居住していてもできます。

日本の国債や株式で資産を運用していたとしても、日本に住んでいなければ運用できないということはありません。世界中どこに住んでいても、日本の国債や株式で資産運用することは可能です。

それどころか、そもそも、日本の国債や日本の株式で資産を運用しなければならないということはありません。

むしろ、全資産を円ベースに一点がけしてしまうと、今後円安が進んだときに、自分の資産が大きく目減りしてしまうというリスクを抱え込むことになります。

資産は、全世界に分散投資しておいた方が安全だし、世界全体の経済は、多少の波はあるものの、中長期的にはつねに成長し続けているので、正しくポートフォリオを組んで、世界中に分散投資しておけば、それほどひどいことにはなりません。


だから、いったん資産運用で暮らせるだけの資産を蓄積してしまえば、日本依存症からの脱却はかなり容易になります。


ここで、「日本がキャピタルゲイン課税の大増税を行ったら、資産運用では暮らしていけなくなるのではないか?」という疑問がわく人もいるでしょうが、そうでもありません。


まず、税金の徴収には、属人主義と属地主義の二つの方式があります。

属人主義とは、その人間の国籍のある国に税金を納めること。

属地主義とは、その人間が居住している国に税金を納めること。


日本は属地主義なので、自分が居住している国や地域に税金を納めることになっています。

このため、日本でキャピタルゲイン課税の大増税が行われたとしても、海外で暮らしている限り、影響を被ることはありません。*2


現在、属人主義を採用しているのは、アメリカとフィリピンぐらいなもので、極めて例外的なケースです。

ですから、今後日本が属人主義に変更するリスクは、とても低いと思われます。


また、万一、日本が属人主義に切り換えたとしても、ある程度の資産を持つ人間に国籍を与えてくれる国は、けっこうあります。

日本が属人主義に切り換え、さらにきわめて重いキャピタルゲイン課税をかけてきたら、単に国籍を切り換えればいいことです。


ただ、問題は、資産運用で暮らせるようになるほどの資産を蓄積することが難しい、ということです。


そのため、当面は、収入の全てを資産運用だけで稼ぎ出すのではなく、収入の一部だけでも資産運用で稼ぎ出すような状態を目指してみてはどうでしょうか。

資産運用というより、プチ資産運用です。

そうすると、日本がヤバくなったので、脱出して海外で職を得たのはいいが、最初のうちはまだ英語にも不慣れで、十分な収入を得られないというようなケースでも対応できます。



世界標準のITスキルによる脱日本依存


たとえば、前述のUnix、Web、RDB、Java、Perl、.NET、C#など、世界中に普及している技術の場合、そのスキルを身につけることで、日本依存から抜け出すことができます。

また、これらに関連する要求仕様定義、オブジェクト設計技術、デザインパターンを適切に使いこなしたクラス設計、プロジェクトマネージメント、スケジュール管理なども、特定の国家に依存しないスキルです。

これらのスキルを身につけたITエンジニアは、さまざまな国で職を得ることが出来ます。

実際、ボクの知り合いでも海外で働いているプログラマーがいます。

むしろ、日本よりも快適に働いているようです。


もちろん、これらの技術は、会社依存症から脱却するための技術としても有効で、きわめて安全性の高い技術だと言えます。


これらの標準的なITスキルは、このように、会社や国家を超越して有効ですが、それ以上に驚きなのは、かなりの長い時間をも超越する力を持っているということです。

たとえば、unixの基本アーキテクチャはボクが知っているだけでも十数年、ほとんど変わってません。マルチスレッドプログラミングやデザインパターンも十数年前に身につけたスキルは、かなりの部分、いまでもそのまま役に立ちます。はるか昔に覚えた、クロージャや再帰を使ったさまざまなプログラミングテクニックも、RDBのスキーマ設計のスキルも、ほとんどが、いまだに現役です。

TCP、UDP、IP、HTTP、SMTP、POPなどのプロトコル類もいまだに基本はほとんど変わりません。新しく登場した.NETやC#にしても、過去にマスターしたスキルにほんのちょっと上積みしたぐらいのわずかな薄皮でしかなく、いままで蓄積した基本スキルはそのまま通用します。Haskellのような関数型言語ですら、似たようなコンセプトのプログラミングアーキテクチャは昔からあり、十数年前にマスターした技術の延長線上でなんなくマスターできます。

このように、長期的に安定した技術やスキルを選んで身につけるようにすれば、会社、国家、時間を超えて、安定した収入源を確保できるのです。


ただ、注意しなければならないのは人材の需給バランスです。とくに、インドや旧共産圏からのプログラマの大量供給は要注意です。

一方で、ヨーロッパ、BRICs、VISTAなど、世界中で急速に経済が発達しており、ITエンジニアの需要が今後も全世界的に巨大化し続けるのは確実です。


ここでのポイントは、下級エンジニアや中級エンジニアは、需要はそれほど拡大しそうにないのに、供給は膨大になると思われるので、リスクが大きいということです。

つまり、下級エンジニアや中級エンジニアの場合、海外に行くと、日本にいたとき以上に悲惨になる可能性があります。安易に日本から出て行くべきではないでしょう。


一方で、上級エンジニアは技術分野にもよりますが、今後、世界中で爆発的に需要が拡大することが見込まれていますが、供給が不足する可能性は十分に考えられます。

従って、自分が今後上級エンジニアになる可能性があると考えている人たちは、この戦略に沿って日本依存症から脱却しておいたほうが良い可能性が高いです。


あと、もう一つ考慮すべき点は、上級エンジニアになるような人は生産性が高いため、今後、高額所得者になる可能性があるということです。


現在日本では、格差是正の機運が大きく盛り上がっています。

今後、この機運の盛り上がりに押されて、高額所得者を狙い打ちする形で大増税が行われ、酷い搾取の対象にされるリスクもあります。


このリスクに対する保険という意味でも、早めに日本依存症を治療し、いつでも仕事と生活の場を海外に移せるようにしておいた方が安全かもしれません。



スモールビジネスによる脱日本依存


日本人が海外で暮らしてみると、さまざまな小さなニッチビジネスのチャンスに気がつくことがあります。


たとえば、日本にはあって当たり前なのに、その国にはない商品やサービス。

それは、日本のやり方を現地方式にアレンジすれば、それなりに繁盛する商売ができるかもしれません。


あるいは逆に、その国のおもしろい商品やサービスで、アレンジすれば日本でもウケそうなもの。


もしくは、現地の安い人件費を利用して、何かを作らせ、日本に持ち込むというパターンもあるでしょう。

実際、ネパールに小さな工場をもっていて、そこで自分のデザインした服を作らせ、日本に輸入して販売しているという女性に会ったことがあります。


こういうビジネスのネタをみつけたとき、スモールビジネスを興すスキルを持っていると、そのチャンスを活かして、その国で商売をはじめることができたりします。


とくに、最近急速に豊かになったアジアの国々では、日本がかなりブランドになっています。

とくに富裕層は、日本のさまざまな質の高い品々やサービスを求め、日本の産物に信仰のようなものを抱いています。

これをうまく利用することで、いろいろなニッチビジネスを作り出すことができるかもしれません。


スモールビジネスのスキルとは、小さな会社向けのマーケティング、マネージメント、経理などのスキルです。

たとえば、どんな小さなビジネスでも、どんな商品を、どんな顧客に売るのか、そのために、商品にはどのような魅力がなければならないのか、顧客は、どういう理由でその商品にお金を払うのか、どのようにして利益が出る構造になっているのか、などのビジネスモデルを組み立てなければなりません。

そして、いざ、ビジネスプランが出来たら、場合によっては人を雇い、契約を結び、信頼関係を作り上げ、法律に則って取引しなければなりません。関係者全員が気分良く仕事できるように、win-winの構造を作り出す必要があります。

また、さまざまな法律を調べ、その法律に則ってビジネスを運営する必要があります。

さらに、会社を設立し、会計ソフトで帳簿を付け、経理と資金の管理をする必要があります。

また、予算計画を立て、融資なり出資なりで資金を調達する必要もあります。


こういう小さなビジネスを最小限の規模ではじめてみて、いざ、顧客の反応が上々だったら、しだいに規模を拡大していけばいいのです。

思ったより反応が悪ければ、早期に撤退するか、あるいは、やり方を変えて再度トライしてみたりすればいいでしょう。


そして、スモールビジネスの醍醐味は、たまたま大ヒットしたときのうまみです。

日本のサラリーマンの頂点とも言える、上場企業の社長の年収でも、たかだか4000万円にしかなりません。

これに比べ、スモールビジネスをヒットさせた場合、実質的に年収1億円を優に越えてしまうということは、それほど珍しくないのです。

実際、ぼくの知り合いにもそういう人がいます。

「たかが自営業」とばかにできるようなもんでもないのです。

自営業は、あたると凄いんです。



共通して必要な日本脱出アイテム


どのようなモデルで日本依存を脱却するのであれ、共通して必要なアイテムがあります。

それは、英語と資金です。


英語は当然として、なぜ資金が必要かというと、

海外で安定した収入源を確保するまでには、どうしても少しタイムラグが出るので、その間貯金を食いつぶしながら、生活する必要があるからです。また、引っ越し資金や、あちらで家具を買いそろえるお金も必要でしょう。

また、スモールビジネスを立ち上げるのなら、そのための自己資本も必要です。


このため、日本依存から脱却するためにも、日頃から英語力を磨き、しっかり貯金してお金を貯めておく必要があるのです。


おわりに


とりあえず、資産運用、ITスキル、スモールビジネスの3つを紹介させていただきましたが、これら以外にも、日本依存から抜け出すための方法は、まだまだいろいろあるでしょう。方法は自由です。


また、この記事では、おもにリスク回避という点から国家依存症から脱却する方法をいろいろ検討しましたが、そんなことよりも、たった1回しかない人生ですし、この小さな島国に引きこもったまま一生を終えてしまうのは、あまりにももったいないと思いませんか?


そろそろこの島ばかりに引きこもるのをやめて、この青く美しい地球という惑星を縦横無尽に味わい尽くしてみてはいかがでしょうか。

*1:もちろん、この銀河にはたくさんの惑星があり、それぞれ生成消滅を繰り返しています。いまいる惑星がヤバくなったら、別の惑星に居住できるように、準備しておくべきではありますが、それは、われわれの子孫に託すとしましょう。

*2:ハリーポッターの翻訳者が、スイスに居住していたのに、日本の税務署から税金を徴収されたのは、単に脱税目的の偽装だったからです。実際には、日本に会社を持ち、その会社経由で仕事をうけ、また、しょっちゅう日本にも来ていて、仕事の実態がほとんど日本であったのにもかかわらず、スイスに居住しているという事実を作り上げ、スイスの安い税金で済ませようとしたのが問題だったわけです。あれが、本当にスイスで会社を作り、スイスで仕事をしている日本人が、翻訳の仕事を受注し、かつ、一年のほとんどをスイスで暮らしていたなら、日本から税金を徴収されることもなかったでしょう。



共通テーマ:日記・雑感

ホリエモン以上に詐欺的なベンチャーの内情

ホリエモン以上に詐欺的なベンチャーの内情 


注意!:以下の文章は、全くの創作であり、フィクションです。

実際の人物・団体等とは、一切関係がありません。

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ぼくは、堀江さんとはあまり面識がない。ただ、仕事で会って、実務的な打ち合わせをしたことぐらいはある。だから、ぼくの名刺ボックスには、堀江さんの名刺が入っている。ライブドアの別の取締役の名刺も。なんか意味もなく怖いから、シュレッダーにかけたいというような非合理な気分になる。(← たかだか、名刺もってるだけで捕まったりしないって(笑)) でも、そう考えてしまう自分は、裏切り者的で、なんかやだ。彼がやったことが正しいと思ってるわけじゃない。彼を庇うつもりも擁護する気もまったくない。思う存分司法の場で裁いてくれ。ただ、ちょっと風向きが変わっただけで、手のひらを返すようなヤツって、サイテーだとおもうのだ。実際、彼はすごく頭の切れる人物だ。実際に具体的なビジネス案件を彼と討議してみると実感できる。性格は悪いけど。はっきりいって、ムカツクやつだし、個人的には嫌いだけど。外部の人間の目の前で、部下をコテンパンにこき下ろすようなヤツなんだ。

こんなことやればすぐに捕まるということすら分からないのはバカだからだ、とおもう人もいるだろう。まあ、ぼくもそう思わないでもない。読みきれてないとしか見えない。でも、だからといって、彼の頭が切れないと決めるけるのは愚かだ。彼をバカよばわりする人のほとんどは、彼よりずっと頭の回転が鈍い。状況認識能力も、判断能力もはるかに低い。ただ、彼ほど勇気がなく、彼ほど有能でなく、彼ほどクリエイティブでなく、彼ほどチャレンジングじゃないから、結果として、そもそも捕まるようなことをしでかす能力がない。つまり、ほとんどの人は、彼のような悪巧みをする能力があるのにもかかわらず、その気高い道徳心からしないのではなく、単に、その能力がまるでないから、それをしようという気すら起こらないだけだろう。

これは、何千万円もの借金を抱えている人を、貧乏人といって嘲笑うのに似ている。その人は、何千万円もの借金ができるほどの社会的信用力があったのだ。ほんとうの貧乏人は、信用がないから、そんな何千万円も貸してくれる人はいないって。あなた、銀行に行って、お金を貸してくれるように頼んでみなよ。あなたという人間の価値が何円になるか、銀行が査定してくれるから。たいていは、落ち込むほど安く見積もられるから。

また、堀江さんのことを、詐欺師だの錬金術師だのといって悪者と決めつけている人がいるが、そういう人は自分は彼よりもずっと善良だと思っているのだろうか。もちろん、彼は詐欺師だし、悪だ。ただ、「彼と同じ能力をもち、彼と同じ環境におかれて、まったく詐欺的にも悪にもならないという人間はかなり少ない」ということは、ほとんどの人が想像すらできないだろう。

堀江さんだって、善になりたかったさ。詐欺なんかしないで、正々堂々と人々に喜ばれるサービスをつくって、それでまっとうにビジネスをして成功したかったんだ。むしろ、普通の人以上に、はるかに理想に燃え、夢を語っていた。なんでそんなことが分かるのかって?

ぼくのケータイには、六本木ヒルズにあるいくつかのITベンチャー会社の経営陣の電話番号が入っている。ぼくが、ヒルズで彼ら経営患部^H^H幹部と行った議論時間の合計は、1000時間は優に超える。

六本木ヒルズを中心とした、日本のITベンチャー経営層は、とても狭い村だ。経営幹部のほとんどが、個人的つきあいで結ばれている。だれかが何かをすれば、女子校での噂話よりも速く広がる。毎週経営会議で各アジェンダを議論するとき、他の会社の事例がしょちゅう引き合いに出される。それは、MBAの教科書にのっているような、殺菌消毒されたケーススタディーを、スーパーで、きれいに洗われ、形を揃えられ、蛍光灯に下に陳列された野菜だとするなら、畑の中からいままさに掘り起こしたばかりの、泥つき、虫つきの、形の不揃いな野菜だ。とてもじゃないが、そのままでは外には出せないような生々しいものばかりだ。

なぜ、泥つき野菜ばかりが、経営的意思決定の際に参考にされるのか? いくつか理由がある。まず、第一に、 MBAの教科書にのっているようなビジネスモデルや経営手法のうち、参考になるものはもちろん多いのだが、参考になり方が、本質的な部分でしかないからだ。本質的な部分で参考になるなら、それで十分じゃないか、と思われるだろうが、実際には、本質的な部分で同じビジネスモデルが、具体的なディテールの部分で勝敗を分けてしまうのだ。MBA的な意味での本質は、はずしちゃいけないけど、だからといって、それで条件が満たされるというものでもないのだ。

なぜか?

ソフトウェアシステムと同じで、ビジネスモデルもカオス的性質があり、ディテールの部分に神が宿る。具体的なディテールの部分が参考にならない事例は、事例そのものが参考にならないことが多い。だから、よく、アメリカでMBAをとってきた自信満々の新人が、MBAで習った事例を用いて、ベンチャーの経営陣にビジネス提案をして、コテンパンにけなしまくられて、社長はビジネスの本質が分かっていない、と言って辞めたりすることがよくある。

もう一つの理由は、たぶん、あなたのご想像どおり、MBAの教科書にでてくるケーススタディーが、きれいごとだからだ。世の中のほとんどの人は、「価値あるサービスを消費者に提供できた企業が成功する」と思っているだろう。また、ベンチャーが成功するのは、「革新的なサービスを消費者に提供できたからだ」と思っているだろう。これは、完全に間違っているわけではないが、正しくもない。少なくとも、そういうナイーブ(世間知らず)な考えで起業すれば、ほぼ間違いなくスッカラカンになる。

現実には、「価値あるサービスを消費者に提供できた企業成功する」のではなく、「価値あるサービスを消費者に提供するビジネスを「独占」した企業が成功する」のだ。もっというと、「市場を独占支配することで、消費者から強制的にお金を徴収する構造をつくった企業」が成功する。

そして、恐ろしいことは、これは、一部のあくどい企業の話じゃなく、ほぼすべての企業がそうであるということだ。六本木ヒルズの価値観を、一般化するなって? あのね、六本木ヒルズのITベンチャーは、ITだけでビジネスが成立するわけじゃないんだよ。オールドエコノミーの企業との、取引、アライアンス、共同ビジネスもとても多い。だから、旧産業の人たちが、どのようなスタイルでビジネスをしているか、身に沁みてよーく分かっている。実際に彼らと仕事をしている人ならみな知っているが、オールドエコノミーの方々のビジネスのやり方の方が、むしろ醜悪なことも多い。

もちろん、醜悪でない、基本的には善良な経営者もそれなりにいる。でも、善良な経営者って、独占や寡占の上にあぐらをかいているケースがとても多い。あるいは、小さなニッチなので、他の企業がそのニッチ市場にわざわざ乗り込みたいという動機が弱く、比較的無風地帯のニッチ市場でビジネスしている中小企業もよくあるパターンだ。彼らは、とくにお金に困っていず、脅かされてもいない。だから、がつがつしないだけだ。しかも、表面的に善良に見えるから、善良とはかぎらない。みんなに人格者と思われているオールドエコノミーの大企業の取締役が、カジュアルな席で、いかに自分たちがそれを独占するかって、そいういう話をするのを何度も聞いた。

もちろん、基本的には、善良でないと、ビジネスはうまくいかない。しかし、善良にやると、やはり上手くいかないのだ。ビジネスをやっていると、いつもその矛盾に悩み続ける。なぜ、善良でないとビジネスが上手くいかないかというと、あくどいことするヤツだと思われると、取引相手が警戒して、腹の探り合いばかりになり、交渉にコストがかかりすぎるからだ。いつ裏切るか分からないやつとビジネスしたい人なんてまずいない。いつ警察に捕まるか分からないやつと関わり合いになりたい経営者なんて、まずいない。だから、どの経営者も、それはそれは真剣に法令を遵守しようとするし、経営会議では、いつも、「それは仁義に反する。」「それはビジネスモラルに反する」という台詞が頻繁に出される。むしろ、一般人の何倍も、法律にも道徳にも気を使う。それは、ヒルズのITベンチャーだけでなく、オールドエコノミーでもどこでも同じだ。

一方で、いくらすばらしいアイデアを出そうが、革新的なサービスを開発しようが、それはすぐにまねされ、コピーされてしまうという現実がある。他社にまねできないような革新的なサービスを開発すればいい、というのはきれいごとだ。人々にとって価値あるサービスは、たいていはマネできる。他社にマネできない技術やノウハウというが、実際には、そんなものはめったにない。あったとしても、それは宝くじ的なものであり、宝くじにあたることを前提としてビジネスモデルを組み立てるほど愚かなことはない。

それだけでない。後発の、より資金力や集客力のある企業が、同じサービスをはじめれば、資金力のないベンチャーなんて、あっと言う間に破れ去る。

こんなことを言うと、マイクロソフトもgoogleも昔はベンチャーだった。だから、ベンチャーが成功できない、というのは、いい訳にすぎない、という人がいる。また、実際に、新興市場にたくさんベンチャーが上場しているじゃないか、という人がいる。しかし、どちらのロジックも完全にインチキだ。

マイクロソフトもGoogleも、本質的には、ある特定の市場を独占もしくは寡占しているから、儲かっているにすぎない。そして、彼らが既存の巨大プレーヤーのすきをついて独占を行った手口は、いまとなっては広くあまねく知れ渡っており、だれしもが、できるならその手口をまねしようと隙をうかがっているし、また、既存の巨大プレーヤーも、その手口で新たに独占させないように、警戒している。みんな次のMS、Yahoo、Googleになりたいし、次のMS、Yahoo、Googleにならせまいとしているのだ。ある人は、それを、「マイクロソフトは誰だゲーム」だよね、と言っていた。そんな警戒されまくった状況で、だれがMS的な独占をできるというのだろう?

そして、新興市場のベンチャーは、その財務諸表やIR資料をきちんと分析・理解すれば、その時価総額の数十分の1の価値もない企業がほとんどであることが分かる。ただ、ヒルズIT村の外部の人間は、だれもそれをやる情報とスキルをもたないというだけの話だ。それは、ヒルズのIT村の公然の秘密だ。

今回のライブドアショックで、リバ狙いの勝ち組個人投資家のインタビューが笑えた。ある個人投資家は、「みんな、価格だけを見て買っているから、下がり出すとどこまで下がるか分からなくなって、怖くなってパニック売りしちゃうんだよ。ぼくは、企業の価値を見ているからね、その価値以上に下がった株があると、安いと思って買うのさ。」そして、紹介された新興市場の銘柄を見て、オイラは、椅子からずり落ちそうになった。いんちきプレスリリースをだしまくって、株価をつり上げまくっている、実質的にはライブドアと五十歩百歩の企業の銘柄だったからだ。実名を出すのは、問題がありすぎるので、出せないけど。

しかし、ほんとに一部の例外をのぞき、ほとんどすべてのITベンチャーがインチキプレスリリースをだしまくって、株価をデタラメに水膨れさせてるのに、なぜ、警察に捕まらないのか?

それは、それがインチキであることを証明できないような、プレスの打ち方をしているからだ。たとえば、○○○という電子決済プラットフォームが、いま、まさに急速に普及しつつあり、世間の注目を集めていたとする。そして、そのベンチャーが、そのプラットフォーム上で、画期的な新技術を開発し、画期的な新サービスを開始しました、というようなプレスリリースが打たれる。しかし、その技術やサービスは画期的かもしれないが、その基盤となるプラットフォームが世間の注目を集めている段階では、まだ、普及しはじめの時期であり、最初のうちは、スケールメリットがきかず、赤字垂れ流しが続く。そして、そのプラットフォームが十分に普及し、やっとこさ単黒か、というころには、そのコピー商品があふれていて、値崩れしている。それどころか、政治力と資金力を兼ね備えた大手が参入してきて、資金力にものを言わせて、テレビCMをうち、Yahooとアライアンスし、とにかく、大艦隊で攻めてくる。で、結局、最初のベンチャーがだしたサービスは、いつのまにかひっそりと開店休業状態になっており、減損会計で、目減りしたソフトウェア資産として、財務諸表からも靜かに消えていく。

なんで特許をとらないのかって? 画期的なアイデアと、画期的な技術に基づく、画期的なサービスなら、特許にならないはずはないだろうって? それが幻想なんだよね。アイデアのすばらしさと、特許になりやすさは、まったく関係がないんだ。

まず、ほんと知らない人が多くって困っちゃうのだが、「アイデア自体は特許にならない」んですよ。特許になるのは、そのアイデアを実現する装置の「実装方式」だけなんですよ。そして、画期的なアイデアというのは、たいていは、それを実現する複数の実装方式があるものなんだ。だから、ライバル企業が、アイデアだけぱくって、別の実装方式で実装すれば、まったく問題にならない。いくらでもパクれる。じゃあ、そのアイデアを実現する実装方式をすべて特許にとればいいだろうって? 実際には、それはほとんど無理なことが多い。実装方式なんて、たいていの場合、無数にあるし、それに、どんなものでも特許になるというものではない。新規性がないと、特許にはならない。そして、アイデアやサービス自体は、ユーザ的に、あるいはビジネス的に画期的で新規性があっても、その実装方式は、ごく普通のソフトウェア構造の組み合わせでしかなく、単なる組み合わせは、特許にはならない。

しかも、これらすべてをクリアして、特許をとったとしても、ライバル企業がその特許に抵触していることを証明できないければ、そんな特許はないのと同じだ。特許というものは、そもそも、実装方式についてのものだが、実装方式は、のうち、特許にとれそうな部分が目に見えるとはかぎらない。ライバル企業が、その特許に抵触していても、それが目に見えない部分であれば、それを裁判で証明するのは、とてつもなく困難だ。まだ、特許に抵触しているかどうかも分からないうちに、強制捜査に入れるわけでもなんでもない。特許というのは、特許をもっている側が、相手が特許を違反していることを証明しない限り、まったく効力をもたない。

さらにやっかいなのは、上記すべてをクリアして、最高の特許をとったつもりでも、それでもまだだめなんだ。どんなすばらしい特許であっても、たいていの特許は、金さえ出せば、つぶせる。ぼくは、その現場に立ち会った人間から直接話を聞いたことがある。ある大企業が、新サービスを立ち上げることになった。そのサービスは、すでに特許がとられまくっていた。そこで、世界中からその技術に詳しい弁護士、学者、エキスパートを札びらで頬をひっぱたいてつれてきて、何億円もの金を使って、世界中研究室という研究室にメールを書きまくって、電話をかけまくって、どっかのすごーくマイナーな論文のかたすみにでも、そのその特許と類似した技術・仕組みに関する記述が、その特許以前に公表されてないか、探させた。それが見つかれば、その特許を無効化できるからだ。なぜなら、すでに公知となっている情報では特許はとれないからだ。そうして、すべての特許がつぶされた。

もちろん、決定的な特許がとれることはある。あるビジネス的な価値のある商品を、ある特定の実装方式でしかつくることができないような場合で、その実装方式自体に新規性がある場合で、しかも、それが、目に見える部分の場合で、かつ、世界中のどんな論文のどんな隅っこにも、一切それがかかれていない場合だ。でも、画期的なアイデアを思いつくこと自体が、それほど多くないのに、その思いついたアイデアの実装方式が、たまたまそのような特許をとりやすい構造であることなど、宝くじにあたるような確率になってしまう。とくに、ITビジネスでは、この傾向が顕著だ。ITシステムなんて、実装方式に新規性があったとしても、たいてい目に見えない裏側の部分だ。

そして、偶然、そのようなすばらしい特許をとった人が、テレビで紹介され、そういうことは、よくあることだと人々が思い込む。ついでに、ユーザにとって価値のある、画期的な新サービスのプレスリリースをだしまくっている、成功したベンチャー会社の多くが、そのような特許をもっているのだと、思い込む。もちろん、多くののITベンチャーは、実際に特許を出願し、プレスリリースに「特許出願中」と書く。しかし、それは、完全にこけおどしだ。99.99%の確率で、あるアイデアを実現するための、たくさんある実装方式の一つを特許にとったにすぎない。また、裁判で侵害を証明するのが現実的でない特許だ。そして、一般に人たちの通念とは異なり、個人投資家だけでなく、機関投資家も、いや、その分野の専門家と称するアナリストですらも、そのこけおどし特許に、あっさり騙される。もしくは、騙されたフリをする。その方がとくな場合はね。もちろん、後日それが問題となったら、まさか偽装があるとは思いませんでした、私こそ被害者ですって証言するでしょうね。

これは、特許以外の、すべての参入障壁も、似たようなものだ。たとえば、うちは、ケータイのオークションサイトの最大手であり、会員数が、倍々ゲームで増加増加しており、そのビジネスの潜在規模はどのくらいで。。。。と発表するベンチャー企業の時価総額は、本来の価値の何十倍にも膨れ上がっている。みんな、将来的にケータイオークションマーケットが巨大化したときに、とてつもない収益を手にすることをイメージして、株価をつけているけど、実際には、そのベンチャーがその収益を手にする日は訪れる可能性は非常に小さい。このビジネスが崩壊するパターンなど、いくらでもあるが、たとえば、Yahooが参入してきたら、あっと言う間に、二番手になり、しばらくは、「二番手、三番手でも十分にビジネスになる」といいながら、しばらくは実際にしょぼい利益を出し続けるが(マーケット自体が急速に拡大し、network externalityからくるマイナス効果を相殺し、なおかつ、余剰が出るので)、ある時点で、network externalityが臨界点に達し、かつ、マーケット自体の拡大速度が減速すると、一番手以外は、めちゃくちゃしょぼいビジネスで落ち着く。いまの時価総額での1/10以下(もっと少ないかもしれない)の価値で落ち着くわけだ。それまでにえられると予想される配当をDCFで逆算しても、その株価はまったく説明がつかない。いや、そのオークションサイトのユーザは主にF1層であり、われわれはそのユーザのココロをつかめるような、他社にマネのできないノウハウをもっていますとか、いや、うちはケータイキャリアと共同出資で会社を設立していて、すでに独占的利権を確保してますから、とかいろいろいう事はいうし、みんなそれに騙されるんだけど、他社のまねできないノウハウなんて、そんな簡単につくれるようなもんじゃないから。通信キャリアだって、他のでっかいケータイポータルの方が圧倒的に優勢になってきて、苦しくなってきたときに、その後発の大手サイトがより有利な条件を提示すれば、あっさりそのジョイントベンチャーごと切り捨てるってば。

こうやって、一つずつ崩壊シナリオを説明していくと、「いや、その経営者は、若くて優秀だから、株高を利用して、増資して資金を調達し、その資金を使って、画期的なサービスを開発し続けるはずだ。そして、そのうちどれかはヒットするだろう。みんな、それを期待している。」とか言う人もいる。そして、それはたしかに一理ある。そして、それが、現在の新興市場の株価を説明する、唯一の説明なんだ。つまり、ITベンチャーの時価総額が大きいのは、その時価総額の大きさを利用して、優秀な彼らが画期的な「何か」をやってくれるから、というそれだけの理由だ。そう考えると、楽天やYahooのようにすでに独占がほぼ成立しているような企業は別として、ほとんどのITベンチャーは、ライブドアと似たような状態にある。

ここで、もっとも重要なのは、それらITベンチャーが、虚業をやっているということではない、ということだ。むしろ、旧態依然とした業界に、つぎつぎに新しいサービス、新しい手法、新しい価値を創造しつづける、その豊かな才能と斬新な発想で、社会に大きく貢献しているということだ。彼らは、たしかにわれわれの未来を創造しつづけている。それは、彼らと直接話してみれば、とてもとてもよく分かる。証券アナリストが彼らのところを訪問して、今後のビジョンを尋ねると、彼らは、常人ではとても思いつかないような、すばらしい見識と洞察とアイデアを振りまく。アナリストたちは、それにすっかり心酔し、彼らこそが、まさに未来の創造者だと確信する。そして、その確信は、極めて正しいことが多い。

しかし、彼らが未来を創造できるということと、彼らの会社が、利益を出せることは、まったく別のことなのだ。彼らが画期的サービスを出しても、他社がそれをパクって、実際の利益は、別の会社がもっていくのだ。しかし、アナリストたちは、そこのところの仕組みを見抜けない。あるいは、見抜いているのかもしれないが、見抜けないフリをする。この構造を、知っていて、黙っている。

熱く理想に燃えた、才能と創造性にあふれた起業家が、こういう構造に放り込まれて、何年か揉まれると、どう変質していくか、想像がつかないだろうか? いくら優れたアイデアを出しても、画期的サービスを世に出し続けても、パクられまくって、利益に結びつかない。そして、こけおどしのプレスリリースを打ち続けると、面白いように、新聞やテレビに取り上げられて、ちやほやされる。そこで、自分の経営信念や理想を語る。ビジョンを語る。みんなにもてはやされる。株価は面白いように膨らんでいき、ホンモノの資本力を手にすることができる。資本力さえ、オールドエコノミーに負けないぐらいになれば、想像力でも実行力でも負けはしない。ようやく、自分のやりたいビジネスができる。

頭の切れる人間が、こういう状況に放り込まれたら、どう行動するかは、自明だ。ここで第一にやるべきなのは、インチキプレスリリースをうちまくって、とにかく時価総額を膨らます事だ。資本がないと、なにも始まらない。

つまり、マジメにいい商品、いいサービスを、開発する、という、世の中への貢献行動は、マイナスの条件付けをされる。そして、インチキのプレスリリースをうつ、という詐欺的行為は、プラスの条件付けをされる。まるでこの業界全体の構造自体がが、善良な人間を悪の手先に変える、サタンの洗脳機械のようなものなのである。あの円筒形のビルでは、サングラスをかけた、額に傷のある、かなり悪そうなパブロフの犬が日夜量産されているのである。

もちろん、こういう状況にありながらも善良な人間はいる、と主張されるかたもいるのだろう。たしかに、そういう人間がまれにいる。しかし、実際にいっしょに仕事をしてみれば分かるが、彼らの方が、むしろたちが悪い。彼らは、キリストのような一流の詐欺師に共通して見られる特徴をもっている。すなわち、自分のうそを自分でしゃべっているうちに、自分でも信じ込んでしまうという特徴だ。

今回、堀江さんが家宅捜索を受けているのは、彼が、もっとも悪だからではない。道義的には彼と五十歩百歩の詐欺行為をやっているITベンチャーなんて、いくらでもある。単に、堀江さんは、法律的に立証可能な詐欺行為をやったので、刺されたというだけだ。他の詐欺師たちは、単に法律的に立証不可能な完全犯罪的に株価のつりあげをやっているというだけの話だ。

時価総額の膨れ上がったIT企業が、なぜ企業買収をするかといえば、それが利益確定行為だからだ。一時的にイメージだけで膨れ上がった時価総額に、実体はない。いつ消えても不思議のない、不安定なガス状のものだ。それのガス状のものを、証券会社だの旅行ポータルサイトだの、実質的な価値を持つものへ、交換する事で、個体にし、片端から、実体化、固定化し、時価総額をほんとの価値として固定化しようとしているのだ。それは、まさにウソからでたマコト戦略とでもいうものだ。最初はインチキによって膨れ上がるが、やがてそれが、株価に見あった実体を持つようになれば、それはあながち詐欺とも言えなくなっちゃうんじゃないか、という気もする。ま、ぼくに言わせれば、たとえそうであったとしても、詐欺は詐欺だけどね。

こうしてみると、堀江さんはたしかに詐欺師かもしれないが、もともと悪人である堀江さんが、ウソにウソを塗り固めて、個人投資家からお金を巻き上げてきたにすぎない、という見方が、とても表層的なものの見方のように思えてくる。

もし、若き堀江さんが放り込まれた世界が、逆のパブロフ条件付けをする構造を持っていたら、どうだろう? つまり、世の中への貢献行動は、プラスの条件付けをされ、インチキプレスリリースはマイナスの条件付けをされるという構造をもった世界だ。ぼくが思うに、もちろん、あのキツくて傲慢な性格は変わらないだろうけど、こと社会への貢献という点に絞ってみれば、ほぼ間違いなく、彼はすばらしく善良な人間となり、メディアに向かって夢と理想を語りまくっていると思う。そしてそれは、彼にとって幸せな状況であるだけでなく、この社会にとってもとても幸せな状況だろう。

もちろん、だから堀江さんも被害者なのだと主張するつもりは毛頭ない。たとえ、環境がその人間を悪にしたのだとしても、悪事をした責任は、その人間自身がとらなければならない。たとえ、ほんとうに親の教育が悪いせいで少年が犯罪を起こしたとしても、その少年がその犯罪の責任をとらなくてよいということにはならない。

ただ、堀江さんの向こう側にある、本当の黒幕について、もう少しだけ立ち止まって考えてほしいと思うのだ。

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上記の内容のメールが先程匿名で届きましたので、ここに掲載しておきます。

もちろん、ぼくは六本木ヒルズなんかに行ったことはありませんし、ベンチャーに知り合いもいません。;-P



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単なるプロフェッショナルを超える、「感動を生む仕事」をする人の13の特徴

単なるプロフェッショナルを超える、「感動を生む仕事」をする人の13の特徴 


本物のプロフェッショナルというのは、とても有能で、頼りになる。

知識があり、スキルがあり、責任感があり、決断力があり、前向きで、建設的で、戦略的で、実用的で、結果を出す。


しかし、ただそれだけだ。


プロフェッショナルになるための努力をいくら積み重ねても、

「感動を生む仕事」ができるようになるとは限らない。


「感動を生む仕事」をする人というのは、

アマとプロを結んだ直線の延長線上にはない。


「感動を生む仕事」をする人というのは、

頭がいいとか、知識があるとか、センスがいいとか、責任感があるとか、

そういうことじゃないんだ。


そういう「感動を生む仕事をする人」にはいくつかのタイプがあるが、その一つのタイプの特徴を、以下に列挙してみた。


アマ プロ 感動を生む仕事をする人

 

1. 現状に甘える

 

 

1. 人間的成長を求め続ける

 

 

1. 人間と社会に対する容赦のない洞察を積み重ね、結果として人間的に成長する

 

 

2. ぐちっぽい

 

 

2. 自信と誇り

 

 

2. 自信や誇りにとらわれず、現実をありのままに直視する

 

 

3. 目標が漠然としている

 

 

3. 常に明確な目標を指向

 

 

3. 目標よりも目的にこだわり、より本質的な目的とは何か?と問い直し続ける

 

 

4. 自分が傷つく事は回避する

 

 

4. 他人の幸せに役立つ喜び

 

 

4. 人々の幸せとは何か?役立つとは何か?について洞察を重ね、より本質的なレベルでの幸せを追求する

 

 

5. 経験に生きる

 

 

5. 可能性に挑戦し続ける

 

 

5. 目の前の可能性に安易に飛びつかず、より優先して挑戦すべき可能性を見極めて挑戦する

 

 

6. 不信が先にある

 

 

6. 思い信じ込むことができる

 

 

6. それが仮説でしかないことを骨の髄まで自覚しながら、渾身の一撃を打ち込む

 

 

7. 気まぐれ

 

 

7. 自己訓練を習慣化

 

 

7. 生きる姿勢が優れているために、自然体の行動が、結果として高度な自己鍛錬になっている

 

 

8. 時間の観念がない

 

 

8. 時間を有効に習慣化

 

 

8. 無理のない自然体の行動が、結果として、高いレベルで最適化されている

 

 

9. 失敗を恐れる

 

 

9. 成功し続ける

 

 

9. 単なる成功ではなく、成功の質にこだわる

 

 

10. 享楽的資金優先

 

 

10. 自己投資を続ける

 

 

10. 気の向くまま自然に行動しているが、結果として効率のよい自己投資になっている

 

 

11. 途中で投げ出す

 

 

11. 使命を持つ

 

 

11. 使命に縛られずに、その時々で、最も意味のあることを成し遂げようとする

 

 

12. できない言い訳が口に出る

 

 

12. 出来る方法を考える

 

 

12. そもそもの目的を問い直し、「出来る方法を考える」必要自体を無くしてしまう方法を考える

 

 

13. 他人のシナリオが気になる

 

 

13. 自分のシナリオを書く

 

 

13. 大木の枝のように広がる、無数に分岐するシナリオが絡み合う森が、脳の中でダイナミックに組み変わりながら蠢いている

 


「感動を生む仕事をする人」たちは、一人一人固有の宇宙を持っていて、その宇宙で仕事をする。

それは、我々の住んでいる宇宙とは異なる物理法則に支配された異次元空間で、

我々一般人の目から見ると、ときにそれは「狂気」に見える。


プロフェッショナルになる努力をいくら積み重ねても、「感動を生む仕事をする人」にはなれない。方向性が違うのだ。

「感動を生む仕事をする人」になるには、単なる努力ではなく、生き方のスタンスそのものを変えなければならない。

逆に、生き方のスタンスさえ確立してしまえば、もはや努力など必要がなくなる。あとは、自然体で行動するだけで、それが高度な自己鍛錬になり、効率の良い自己投資になり、最小のコストで最大の成果をもたらすようになる。



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「努力すればスキルが向上して上に昇れる」というのは幻想

「努力すればスキルが向上して上に昇れる」というのは幻想 

なんですよ。

まさか、面白い仕事とおいしい年収をもらえるポジションにいる人たちが、豊かな才能と地道な努力によってそれを獲得したなんていうインチキを信じている人なんて、まずいないと思いますけど、念のため補足しておきます。

夢のない話なんですが、実際には、どんなに努力しても、人が育ってポジションにふさわしい人材になるということはほとんどないんですよ。現実はその逆で、「ポジションが人を育てている」というのが実態です。

プロジェクトリーダーの能力を身につけるには、実際にプロジェクトリーダーというポジションにつけられ、プロジェクトリーダーの権限と義務と責任を持ち、それに適応するために悪戦苦闘するのが、圧倒的に能率がいい。

平社員というポジションのまま、プロジェクトリーダーの能力を身につけようと努力する場合の数十分の一の努力と、数十分の一の時間で、プロジェクトリーダーの能力を身につけられるんです。下積みの苦労なんて無意味なんですよ。

だって、プロジェクトリーダーになると、プロジェクトの目的、目標、方針、ビジョン、ロードマップを練り上げ、それに沿って、それぞれの部下の仕事の目的、目標、仕事内容、スケジュールを定義する作業をし、プロジェクトリーダーとして、経営会議に予算を要求し、目標とスケジュールを約束し、今後の戦略や具体的な施策についての質疑応答に答えるわけですよ。やってる仕事内容が、平社員と、ぜんぜん違うわけです。平社員が、平社員の仕事をしながら、プロジェクトリーダーの仕事を手伝うくらいで、身につけられるような薄いスキルじゃないんですよ。

だから、現実には、平社員としての基本スキルがある程度身についたら、目標とする仕事をするためのスキルを身につける地道な努力なんかしてる場合じゃなくって、さっさと自分のなりたいポジションを強奪する狡猾な作戦をたてて、実行しなきゃならない。そうしなきゃ、自分のやりたい仕事をできるようになるころには、ジジイorババアになってしまってるわけで。だから、それは、もう、きれいごとなんか言ってる場合じゃなくって、ちょっとでも隙ができたら、徹底的につけこまなきゃ、いつまでたっても下っぱから抜け出せないわけで。

たとえば、売れっ子のプロジェクトマネージャーが、たくさん案件をかかえすぎて、手が回らなくなっているなんて、よくあることで、そんなところを見つけたら、すかさず、腹の中で乗っ取りを企てる。たとえば、どれかのプロジェクトが問題をかかえているまま放置されていたら、すかさず、その問題を分析・整理し、解決策の案を3つぐらい作成して、それを簡単なドキュメントにまとめて、プロマネのところにもっていき、「どの案でこの問題を解決しましょうか?」って指示を仰ぐ。そして、プロマネがどれかの案を選択したら、それを実行するために、だれに、どのような指示を出すのかを考え、「じゃあ、それをやるために、この人にはこんな指示、こっちの人にはこういう指示でいいですね? 期限は、この日ということで、いいですね? じゃあ、プロマネから、そういう指示があったって、ぼくのほうから伝えておきますね。」というふうにやる。これを繰り返す。いくつものプロジェクトをかかえる売れっ子プロマネは、忙しいものだから、そのうちめんどくさくなって、そのプロジェクトにおけるかなり重要な意思決定まで、ほとんど任せっきりにするようになったりする。そうすると、そのプロジェクトメンバーへの指示だしは、どんどん自分が肩代わりするようになり、また、プロジェクトメンバーも、どんどん自分のところに相談しに来るようになる。それを繰り返すと、そのプロジェクトに関する重要な情報は、ほとんど自分が握れるようになり、その売れっ子プロマネは、そのプロジェクトに関する意思決定をしようにも、細かいところの感覚がいまいちわからず、逆に、こちらの方に、どのような意思決定をすべきか、聞いてくるようになる。そうなると、もう、どちらがリーダーだかわからなくなってくるわけで。

そのうち、「あのプロジェクトを実質的に動かしているのは、○○さんらしいわよ。」という噂が社内に蔓延し、それが会社の上層部にもつたわる。そして、その売れっ子プロマネに、さらに新しい案件がふってきて、そのプロマネがオーバーフロー気味になると、耐えられなくなって、「このプロジェクトの実質的なリーダーは、いま、この子がやってるし、もう、このプロジェクトのリーダをこの子に移管しちゃおうと思うんですけど。それが、この新しいプロジェクトをわたしが引き受ける条件です」などと上層部へ言いにいくというわけだ。

で、ほかにも、プロジェクト乗っ取りの手口はいろいろあるんだけど、とにかく、戦国大名のように、確信犯的に、計画的に、プロジェクトの乗っ取りをがんがんしかけて行くべきなんですよ。泥仕事を地道にやっていれば、おいしい仕事が回ってくるなんてウソは、絶対に信じちゃいけません。この世界では、こういう「たくらみ」を腹にもって行動するやつが、ずっと少ない努力で、ずっとおいしいポジションを独占するようにできているんですよ。

もちろん、安易に「努力さえすれば報われる」なんてことを信じてる人なんて、いないとは思うんだけど、人が育ってポジションにつくのではなく、ポジションが人を育てるのだというシビアな現実があるということすら知らない世間知らずなニート君がいる可能性もあるので、念のため、補足しておきました。



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「地道な努力」よりも、はるかに人生を好転させる努力の仕方

「地道な努力」よりも、はるかに人生を好転させる努力の仕方 

  • 現状を変える一発逆転があると思うかもしれないけど、どうやら近道はないみたいです。
  • 毎日少しずつ、少しずつ努力を積み重ねるしかない。まったく人生ってやつは。まったく。

違うよ。全然違うよ。


「現状を変える一発逆転」はいたるところにある。

多くの人は、勇気がなかったり、ぼんやりと生きていたりするために、

一発逆転のチャンスが目の前を通り過ぎるのを

見過ごしてしまっているだけだ。


むしろ、「近道を探す努力」こそが正しい努力であって、

「近道や一発逆転を狙わないで地道な努力を積み重ねる」という姿勢が、

自分と周囲を不幸にし、

格差と貧困を生み出し、日本を衰退させてきた。


それは、「ハゲタカ」というレッテルを貼られて悪者扱いされてきた人々が

どのようにして人々に豊かさをもたらし、何十億ものお金を稼いでいるのかを見るとよく分かる。


たとえば、3000万円の工作機械が故障したとする。

仕組みが複雑すぎて、どこが故障したのか普通のエンジニアには分からない。

だから直せない。だから、その工作機械はほとんど価値が無くなった。

そこで、その工作機械の持ち主は、その工作機械を廃棄処分することにした。


そこに、ハゲタカエンジニアがやってきて、その工作機械を30万円で買い取ってくれることになった。

その機械の持ち主は、捨てようと思っていた機械を30万円で買い取ってもらったので、

ハッピーな気分だった。


ハゲタカエンジニアは、その工作機械の複雑怪奇な構造を理解できるだけの

高度な知能と知識とセンスを持っていたので、どこが故障しているのかを5分で突き止め、

5分で修理した。


これによって、たった10分で、無価値なゴミでしかなかった壊れた工作機械が、

3000万円の価値のある工作機械に生まれ変わった。

時給1億8千万円分の仕事をしたことになる。*1

これは詐欺でも錬金術でもない。純粋な価値創造労働だ。


そして、実際のハゲタカたちは、企業や不動産に対して同じことをやるのである。

「故障」して機能不全になり、赤字を垂れ流し続けるホテルやゴルフ場を安く買い叩き、

それを「修理」して、より価値あるサービスを消費者に提供し、利益を生むように作りかえ、

それを転売して大金を稼ぐのである。


もちろん、ハゲタカたちは詐欺まがいの買い叩きと転売、犠牲者を多く生み出す企業解体をやることも多く、

負の側面も多いのだが、だからと言って、こういう価値創造の側面を見過ごすと、その本質を見誤る。


ハゲタカたちの巨大な価値創造力の源泉は、

「少しの労力を投入するだけで、巨大な価値を生むポイントを見抜く眼力」

と、

「失敗した場合に、損失を引き受けること」

の2点である。


たとえば、先ほどの壊れた工作機械を買い取ったハゲタカエンジニアは、

それを買い取る時点では、本当に修理に成功するかどうかの保障はない。

しかし、失敗したときに30万円の損をすることを覚悟で、

あえて、その故障した機械を買い取ったのである。


日本の多くの会社では、大企業も中小企業も、

このようなハゲタカ的努力が欠落しているために、

多くの非能率と不幸が生み出され続けている。


たとえば、あるケータイコンテンツ会社で、

赤字を垂れ流し続けるサイトがあったとする。


そして、「地道な努力」教の信者たちは、

地道な努力によって、そのサイトのコンテンツを充実させ、

こつこつとユーザビリティを向上させるわけである。

そして、ますます赤字が拡大していく。

会社も、従業員も、顧客も、だれもが不幸になっていく。


それを見かねた経営陣が、そのプロジェクトに

ハゲタカプロデューサを投入する。


そのハゲタカプロデューサは、

「そのサイトに欠けているのは、コンテンツの充実でもユーザビリティでもなく、

単に、そのコンテンツが、そのコンテンツを求める客に認知されていないのだ」

ということを見抜く。


そこで、そのハゲタカプロデューサは、まず、そのケータイコンテンツの

コンテンツタイトルを変更した。コンテンツの内容を表すタイトルではなく、

そのコンテンツの潜在顧客の注意を引くようなタイトルに変えたわけである。


次に、そのコンテンツのメニューカテゴリを、その潜在顧客のいるカテゴリに変更した。

さらに、そのコンテンツとシナジーを引き起こすサイトとアライアンスを行い、

相互リンクを張ったり、データベースの相互利用ができるようにした。


これにより、そのサイトは、

エンジニアやグラフィッカーの工数をほとんど投入せずに、

利用者を飛躍的に伸ばし、そのプロジェクトは高収益プロジェクトに大化けした。

従業員も、会社も、顧客も、みんなが幸せになった。


実際、こんな話はそこら中にあり、

少しも珍しい話じゃない。


そして、これは、スキルアップでもキャリアアップでも

ボランティア活動でも、

ほとんどあらゆる努力について、

同じようなことが言えるのだ。


たとえば、英語力を向上させたければ、

毎日地道に英会話教材をコツコツ勉強するなんて、能率が悪すぎる。


自分を熱くさせるような議論が英語で行われている空間や集団を見つけて

思い切ってそこに深くコミットしてしまった方が、

はるかに能率よく、しかも、実践的な英語力が身につく。


そういう熱い議論や空間に巻き込まれ、

寝ても覚めてもその議論のことが気にかかり、

夢の中でも、英語でやりあっていたり。

気持ち的にも引っ込みがつかなったり。

このまま引き下がってはいられない、という気持ちに駆り立てられたり。


血が沸騰するような興奮の中で相手からまくし立てられ、自分でもまくし立てた英語のフレーズは、

完全に血肉となり、身体化する。

英語で行われる重要な会議で、ここぞというタイミングで、実に効果的に口から出てくる。

退屈な英語教材で地道に覚えた英語力なんかとは、戦闘力が桁違いなのだ。


つまり、地道な努力を積み重ねるのではなく、

「自分を英語に没頭させてしまう」というキッカケ、空間、タイミングを探し、

見抜き、ここ一発というところで、すかさずそのチャンスを捕まえてしまえば、

あとは自動的に、坂道を転げ落ちるように簡単に英語力が向上していく。


その、分水嶺、運命の分かれ道を、意識を研ぎ澄まして見極める努力こそが、

本当に効果的な努力なのではないだろうか。


そして、これは日本社会全体の構造で見ても同じだ。


たとえば、この国の外では、何十億もの膨大な人口が、

豊かさを求め、日本の製品やサービスを欲しがっているのに、

それにろくに答えようとせず、

すっかり飽和した日本市場向けに商売することばかりを考えているから、

生活が楽にならない。


実際、海外の人々に製品やサービスを提供する企業はここ数年で急成長しているが、

日本国内向けの商売ばかりやっている企業は、むしろ衰退している。

こうして、いざなぎ越えと言われる好景気の中で、格差と貧困が広がっていった。


こういう状況でするべきは、

飽和した国内市場と、急成長する海外市場という全体構造を見抜き、

正しい方向に努力することであって、闇雲に「地道な努力」をすることではない。

国内市場向けに「地道な努力」をすることよりも、

海外市場向けに「効果的な努力」をした方が、何倍も、いや、何十倍も報われやすい。


また、非正規雇用が増大し、必死で「地道な努力」を重ねたにも関わらず

ワーキングプアに転落する人々が増える一方、

日本社会のあらゆるところで、

「ちょっと修理すれば高収益な企業or不動産or利権に生まれ変わる案件」

=「最小の努力で膨大な富を生み出せる案件」を

目を皿のように探し回っている「近道を探す努力」の権化のような、

ハゲタカ金融マンは何千万円~何億もの年収を稼いでいる。


これは、農家、干物屋、イラストレータ*2などの自営業者も同じだ。

ひたすら「地道な努力」を積み重ねるばかりの人は、

顧客も、自分も、家族も不幸にする。


逆に、最小の手間と予算で、

自分の持つサービスや商品を、もっとも的確な潜在顧客に合わせ、

その人たちに正しく届ける「効果的な努力」をする人たちは、

顧客も、自分も、家族も幸せにする。


30年くらい前に少年ジャンプで人気だった

「努力と根性で成功する」というタイプのマンガだって、

よく考えてみると、常に「正しく、効果的な努力」によって

主人公は成功を手にする。


巨人の星だって、挫折するたびに、ひたすら創意工夫して、

新しい魔球を開発し続けて成功するストーリーなのであって、

ただただ地道に筋トレや投げ込みや走り込みをし続けて

成功するストーリーではないのである。


しかしながら、広く一般に世論調査をすると、たいていの場合、

「実績を上げた人が報われる社会」

よりも、

「努力した人が報われる社会」

を望む声が多いという。*3


これは、非常に根深い病なのだと思う。


だから、こういう記事を書くと共感より反感の方が多いことは容易に想像できる。*4


マルクスでさえ、「労働価値説」を信じていたぐらいだし、

ほとんど動物的なレベルで「努力に比例して価値が生み出される」ということが

正しいと思えるのが、人間という生き物なのだろう。


しかし現実には、

常日頃から「一発逆転」するポイントを検出するための鋭敏なアンテナを張り巡らせ、

徹底的に「近道を探す努力」をし続けた人間こそが、

自分と、周囲と、社会と、世界を豊かにし、幸せにするのである。


「近道はない」などという、「地道な努力が報われる」教の信者の妄言に

惑わされて、1回しかない人生を台無しにしないようにしたい。



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「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法

「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 


どんなにステーキが大好きな人でも、

毎日、朝昼晩、ステーキだけを強制的に食べさせられ続けたら、

だんだん苦痛になってくる。


本当にステーキが好きな人なら、最初の1ヶ月くらいは毎食ステーキだけでも天国かも知れないが、

それが半年もつづけば、もはやステーキを見るだけでウンザリするだろう。


プログラミングが好きでプログラマーになってしまった人は、

これと同じ種類の拷問にかけられる。


どんなにプログラミングが好きな人でも、毎日休まずプログラムを書き続けないと

生活できないとなると、それはだんだん苦痛になってくる。

好きなことを仕事にして生きていく、というのは、本質的にそういうことなのだ。


そもそも、人は、その瞬間、瞬間で、いろんなことに興味をもち、

いろんなことをやりたくなる、自由で軽やかに発散していく欲望を持っている。


どんなにプログラミングが好きな人でも、

朝起きて、今日は空が青くて気持ちいいな、と思ったら、そのまま電車に乗って、

海を見に行きたくなったりする。


電車でかわいい女の子を見かけたら、

プログラミングなんかするより、その子を眺めていたい。


美味しそうなチョコレートパフェの店頭ディスプレイを見かけたら、

午後のプログラミングは中止にして、喫茶店に飛び込んで、

チョコパフェを食べてまったりしたくなる。


しかし、職業プログラマーは、常に納期に追われている。

だから、自分の中からわき上がってくるこれらの純粋で自然な気持ちを殺して、

しぶしぶプログラミングをする。

どんなに気分が乗らなくても、どんなに苦痛でも、プログラミングするしかない。

どんなに疲れていても、体調が悪くても、納期が迫っていれば、無理してプログラミングするしかない。


好きなことを仕事にしたとたん、「好き」はあなたを縛り付け、苦痛を与え続ける拷問台になる。


これに気がついたとき、ぼくはプログラマーを辞めた。

「好きを仕事に」という牢獄から脱獄し、

「ショーシャンクの空に」みたいに両手を広げて空を仰ぎ、生きている喜びを味わうことにした。



夕日に染まる美しい落ち葉の林を歩くとき、

ぼくは、自分が何者でもないことに感謝する。


もしボクが写真家だったら、ぼくはこの美しい光景を、

どうしたらきれいな写真に収めることができるか考えるだろう。


もしボクがミュージシャンだったら、この美しい光景を

曲にすることを考えるだろう。


もしボクがビジネスマンだったら、この美しい光景で、

金儲けをすることを考えるだろう。


もしボクが哲学者だったら、この美しい光景を見て、

哲学的な思索をはじめるだろう。



しかし、ぼくは何者でもない。

だから、この美しい光景を、

単にその美しい光景、それ自体として、そのまま素直に受け入れ、味わい、楽しむことができる。


ぼくはできるだけ、そのときどきの自分の中にわき起こってくる自然な気持ちに従って生きることにしている。

企画をやりたいときには企画を、法律に興味をもったら法律を、

デザインをやりたいときにはデザインを、会社を作りたくなったら会社を、

女の子と遊びたくなったら女の子と、

金儲けゲームをしたくなったら金儲けを、ブログを書きたくなったらブログを、

絵を描きたくなったら絵を描くことにしている。


だから、ぼくには趣味と言えるものがない。

好きを貫いてもいない。

ぼくは「好きという呪い」から自由であろうとする。


「好きを仕事に」というキャッチフレーズは、

社会を維持し、食っていくためにいやいや仕事をやっているという現実から

目を背けるための、モルヒネでしかない。


毎日朝昼晩、ステーキばかり強制的に

食わされる生活が幸福であるはずがないのだが、

「ぼくはステーキが好きだから、

毎日ステーキを食べられるボクは幸せなはずなんだ」

と無理矢理自分を洗脳し、誤魔化しているだけだ。


そして、社会も「好きを仕事にしている人たちは輝いている!」という

インチキ宗教を絶賛キャンペーン中である。


なんで、人々はこのようなインチキ宗教を信じてしまうかというと、

単にその方が経済効率がいいように思えるからだ。


なんで社会がそれを推奨するかというと、

それによって、人々を社会の歯車(≒奴隷)として社会システムに組み込むのに

都合がいいからだ。


ビジネス戦略の基本は、「選択と集中」である。

ぼくのように、そのときの気分で、デザインをやったり、企画をしたり、

ビジネスモデルを組み立てたり、法律を調べたり、設計をしたり、プログラミングを

したりしていると、どの分野のスキルも中途半端になってしまい、

売り物になるほど専門性のあるスキルが確立できない。


これが原因で、人々は、しかたなくどれか一つの専門を選び、

そこに「選択と集中」をすることで、自分の専門性を確立し、

それをウリにして生計を立てるのである。


たとえば、法律ばかりを徹底して極め、法律家になったり、

企業の法務部門のスタッフとして職を得ることができる。


この選択と集中を行うのと行わないのとでは、

生涯で得られる報酬が大きく異なる。


報酬には、直接金銭で支払われるものと、非金銭的なものがあるが、

その両方とも、選択と集中を行った方がはるかに多くなる。


自分の専門性を確立した方が、よりよい職位を得られる。

そうするとまず、当然、より多くの年収が得られる(金銭的報酬)。

また、職位が高いのでステータスが高く、より多くの人に敬意を払われるので気分がよい(非金銭的報酬)。

さらに、よりやりがいのある面白い仕事が優先的に回ってくる(非金銭的報酬)。

異性にもモテるだろう(非金銭的報酬)。


これは、なにも大企業に雇われているサラリーマンだけではない。

フリーランスでもベンチャーでも、本質的な構造はなんら違いはない。



このように「選択と集中」は、とても甘い果実だ。

それは、人生に多大な豊かさをもたらしてくれる。


しかし、その甘い果実には、ジワジワと人生を蝕み、腐敗させる、イヤらしい毒が含まれている。

その毒に犯され腐敗していくさまざまな希望と可能性を、ポリバケツに放り込み、

臭いが漏れないように塞ぐためのフタが、「好きを仕事にする」という免罪符なのだ。



もちろん、だからと言って、全く選択と集中をしないでそのときの気分だけで生きていたら、

毒にもあたらないけど得られる報酬が少なくなりすぎる。

だから、この果実を食べること自体は必要悪だ。

なので、あとは、いかにこの果実の毒抜きをして上手に料理して食べるかがカギとなる。


たとえば、プログラミングに興味をもったら、最初の数年は、

そればかりやっていても、意外に楽しめる。

この状態では、果実の甘みと栄養が身体にどんどん吸収されているが、

まだ毒はあまり出ていない。


しかし、何年かたつと、毒がまわりはじめる。

そして、そのタイミングが、決断の時だ。


もしここで、プログラミングへの選択と集中をやめて、

そのとき興味をもった別の分野の仕事に移ろうとすると、

収入は大幅にダウンする。


なぜなら、いまの自分の給料は自分の専門性に対して支払われている

ものであって、その専門性を捨ててしまったら、自分は何者でもなくなって

しまうからだ。


さらに言うと、選択と集中によって専門性を確立し、年収600万円になっている

ころには、人は既にある程度の年齢になってしまっており、

そこから他の職種に職種変えしようにも、そもそもそんな高年齢の新人など、

どの分野でもろくな待遇で受け入れてくれないのである。


なので、多くの人は、給料や待遇のダウンがイヤで、

いまの専門分野以外の職種につけないまま、一生を過ごすことになる。


これにより、それ以降の人生を、

自分の中にわき起こってくる、みずみずしく透明にきらめく、

多様な好奇心と欲求を、血まみれになりながらナイフでえぐり取り、

素知らぬ顔でゴミ箱に捨て、腐らせながら歳をとり、

灰色の時間で一生を塗りつぶすことになる。


これが、「好きを貫いて生きる」ということの身も蓋もない現実だ。



しかし、そもそも、自分の専門性の蓄積によって得られている現在の高収入・好待遇を

前提として生活設計していること自体が、大きな勘違いなのではないだろうか?


選択と集中の果実の甘みであるその高収入・好待遇を

その毒にやられることなく味わえるのは、

最初の数年であることを自覚して生きているべきなのだ。


選択と集中によって現在年収600万円になっている人間は、

選択と集中という牢獄で一生を終えるという

奴隷契約書にサインをしないかぎり、

その年収は維持できない。


だから、選択と集中という牢獄につながれて一生を終えたくなければ、

現在の年収や待遇が、あくまで、ごく一時的な、仮のものとして生きていかなければならない。


高い待遇を仮のものとすれば、いつでもそれを捨てられる。

また、高い待遇を目指すために、ガマンして勉強したり仕事したりすることに

時間をとられることも無くなる。*1


そうすることによって、その時々の気分で、少しずつ自分の専門分野以外に、

ふらふらと足場をずらしながら、気分良く生きていくことが出来る。


たとえばボクの場合、最初は大学で心理学をやっていたけど、心理学データを処理する

プログラミング自体に興味を持ち、あっさり心理学を捨ててプログラマになってしまって、

今度は研究所で人工知能システムを作り、その後、業務ソフトから、エンタメソフトまで、

いろんなプログラムを開発した。そのうちプログラミングに飽きてきたら、

最初はITの新技術をレポートする雑誌記事を書きはじめ、

そのつてで、技術書の監訳の仕事が来て、さらに英語に興味をもち、翻訳をするようになり、

今度は自分の本を書き、また、知り合いも増えて、一緒に起業することになり、

あるいは、全然別分野で、巨大プラットフォームのAPI策定をするようになり、

国際会議にでてアメリカ人とかフランス人とかと議論したり、海外講演することになったり、

ユースケース分析、マーケティング、企画、そして、さらに、

デザインや法務や人事や経営の仕事にも首をつっこんだ。


仕事ばかりしてたわけではなく、むしろ、単に気分が乗らないという理由で

しょっちゅう仕事をズル休みして、ニフティのフォーラムで遊んだり、

一日中DOOMをやっていたり、出会い系でいろんな女の子に会ってみたり、

歴史、文学、経済、科学、哲学、マンガ、など、いろんな分野の本を読み、

フランス、タイ、シンガポール、インドネシア、メキシコ、韓国、アメリカ、ネパールなど、

世界中をバックパッキングし、2チャンネルでレベルの低い厨房文学論争をやってみたり、

NOVAのVOICEルームで外人のお兄ちゃんお姉ちゃんたちと社会問題の議論をしたり。


ようは、肩に力を入れず、頑張らず、努力せず、いやなことから逃げまくって、

そのときの気分しだいで、その時々のやりたいことだけやって、

いいかげんに生きてきた。


もし、ボクが選択と集中という牢獄につながれて生きることを選んだなら、

もしかしたらぼくは、何者かになって、それなりの地位と名誉を確立していたかも知れない。


しかし、それと引き替えに、多様な料理を味わう自由を失い、

「大好きなステーキだけを朝昼晩強制的に食わされ続けるという地獄」

で一生を終えなければならなかったとしたら、そこまでして

そんな地位だの名誉だのを欲しいとは、とうてい思えないのである。


ましてや、オープンソースだのネットコミュニティのリーダーとなって、

そこに「人生を埋める」生き方など、たとえ出来たとしても、まっぴらごめんだ。

そりゃ、ほとんど「人柱」でしょ。すこしもうらやましいとは思えない。


もちろん、現実には、「大好きなステーキを毎日強制的に食わされる牢獄」から

飛び出したところで、そこが常春のお花畑かというと、そんなことはない。

そこには、過酷な自然があり、春夏秋冬があり、ときには稲妻と嵐の荒れ狂うこともある。

牢獄の中よりもはるかに高いレベルで、知恵と勇気を振り絞らないと生きていけない。


それでもなお、その牢獄の中の灰色に塗りつぶされた空間などより、

よっぽど人間らしく生きていけるのではないかと思うのだ。



そもそも、id:umedamochio氏の提唱する「好きを貫く」という生き方は、

いかにも「近代人」的だ。

首尾一貫した自立した個人が、理性と主体性をもって社会を形作っていくという、

近代の夢見た一つの理想的人間像だ。


梅田氏は、大組織に縛られた生き方以外の「けものみち」を提唱しているが、

その生き方も結局のところ、近代の美しい夢であった「自立した個人」が

理性の力で対等に結び合って社会を形作るという、思想の枠、

お釈迦様の手のひらの上からはみ出せていない。


しかし、その後の歴史において、この近代の理想的人間像に隠された欺瞞と

インチキと弊害が、さまざまな哲学者や思想家たちによって徹底的に暴かれぬいた。

後に、ポストモダニズムと総括されることになる多様な思想の潮流群だ。


彼らによって、そもそも、首尾一貫した自立した個人などというものが、

ずいぶんと頭のヌルい幻想でしかないことが白日の下に晒された。


「好きを仕事に」とは言うが、そもそも、そんな確固たる「自立した主体」などという

ものは存在しない。

「ほんとうの自分」がどこかにあるはずだと、「自分探し」を続ける若者がよくいるが、

多くの場合、自分なんかいくら探したって見つかりゃしないのである。


自分の「好き」はいつもふらふらと移り変わっていて、

そんなふうに、カチっと定義づけることなどできやしない。

それを、無理矢理「ぼくは○○が好きな人間なんだ」などと定義づけるから、

「好きなステーキを毎日強制的に食わされる牢獄」などに閉じこめられてしまうのだ。


また、意識と無意識の境界も曖昧で、ぼくたちは、いつでも理性によって正しい

判断とやらをしているわけではない。ぼくたちの行動の多くは、多分に無意識に支配されている。

自分とは、そういう、茫漠としてつかみ所が無く、その時々の状況や気分でふわふわと

移り変わっていくところがあり、当然のことながら「好き」だって、ふわふわと移り変わる。


こういうことが、すっかりバレちゃっている現代という時代において、

いまさら、古めかしくかび臭い「近代の理想的人間像」などを持ち出しで

「好きを貫く」などと言われても、少しもピンとこない。


もちろん、これら、ポストモダンが突きつけた思想的課題を克服した上で

それでもなお、「好きを貫く」という思想を構築したというのなら、

それはそれで一本スジの通った主張であり、傾聴に値する。


そして、ぼくが梅田氏に期待したのは、そこの部分だった。

ポストモダンは、近代の安易な理想を徹底的に破壊し尽くしたのはいいのだけど、

壊すだけ壊しておいて、その後に、あるべき人間や社会の理想像を構築できた

かというと、いかにも心許ない。


その点において、少なくともニーチェは、キリスト教、民主主義、科学、哲学など、

既存のメジャーな価値体系が隠蔽している欺瞞と汚物をえぐり出し、徹底的に

その正当性を破壊し尽くした後、「では、人間が目指すべき理想像とはどのようであるべきか」

という、その後の価値創造に腐心している。

あんまり成功したとはいえないけど(笑)。


これに対し、ポストモダンの思想家たちの多くは、近代の理想を、

ぶっ壊すだけ壊しておいて、その後の価値創造において、見るべき成果がない。


だから、現代社会における現実的な諸問題

(たとえば、日本の教育システムはどうあるべきか)などの

解決策を議論するとき、多くの場合ポストモダニズムはものの役に立たない。


むしろ、ポストモダンが徹底的に批判し尽くし、欠陥商品であることがバレバレになったはずの

ヘーゲル思想の方が、人々の間にコンセンサスを作り出し、より多くの人を納得させる

よりよい教育システムを構築するために、はるかに思考のベースとして役に立って

しまうほどだ。


この意味で、一見、上から目線で近代をこき下ろし、

すっかり近代を乗り越えたはずのポストモダンは、

ボク的な感覚では、とてもじゃないが、きちんと近代を乗り越えたとは言えない。


だから、ボクは梅田氏に、本来、広がり伸びていく人間の自由な精神を、

堅苦しい枠に閉じこめて殺してしまう、古めかしくかび臭い近代の

呪いを破壊し尽くしたポストモダンを、さらに乗り越えて、

その向こうに新たな理想の生き方を示してくれることを期待した。


しかし彼は、あの、すっかり欠陥商品であることが

バレバレになってしまっている、古めかしい「近代」に、WebとかITとかいう

ペンキを塗り直して持ち出しただけだった。


もちろん、Web時代にはWeb時代の生き方がある。

たとえば、Webは、それまで企業しか持ち得なかった「販売チャネル」を

全ての「個人」に解放したという、ただそれだけの側面を捉えただけでも、

社会的、文化的、経済的に、とてつもなく巨大な革命であり、

その販売チャネルを使って「自分という商品」を売り込まない手はないし、

そうすることで、企業と個人の関係は劇的に変わっていくはずだし、

とうぜん、社会の構造も、文化も、個々人の生き方も、

いままでとはドラスティックに違ったものになっていくだろう。


しかしそんなことは、数世紀前に歴史の歯車の回転の速度が上がり始めてからは、

いつの時代も起こり続けてきたことで、現代の変化だけがとりたてて特別だと言うこともない。


印刷機のないところに印刷機ができたり、

陸地に閉じこもっている時代から大航海時代になったり、

近代教育システムのなかったところに、近代教育システムができたり、

普通選挙の無かったところに普通選挙ができたり、

鉄道の無かったところに鉄道ができたり、

テレビの無かった世界にテレビが出来たり、

飛行機の無かった世界に飛行機が出来たり、

農業主体の経済から工業主体の経済になったり、

軍事主体の世界から経済主体の世界になったり、

電話の無かったところに電話ができたり、

人類史上初めて全世界規模で高齢化社会になったり、

共産主義が一時的にはかなりの成功を収めながら、結局は崩壊したりして、

社会構造や人々の生き方に、その都度とてつもない大革命を引き起こしてきた。


そのたびに、人生の戦略とビジョンを、根本から見直さなければならないほどの、

大革命が起き続けてきた。

それは絶え間ない大変化であり、それぞれに区切りをつけようと思えばつけられなくはないが、

それらは多分に恣意的なもので、区切ることにさほどの意味はない。


このWeb時代の進化は、ますます加速度的に大変化をしていく連続的な

流れの中に埋まっており、それだけが他と比べて特別な「革命」というほどでもない。


むしろ、軍事主体の世界が経済主体の世界にパワーシフトしたことの方が、

経済主体の世界が知識主体の世界にパワーシフトしたことの方が、

無限に成長すると信じられていた日本経済の高度成長が終わったことの方が、

Web進化なんかより、はるかに人々の人生戦略へのインパクトは大きかっただろう。


こういう何百年も続く絶え間ない大変化の中で、

われわれがどう生きていくか、新しい人間像や生き方のモデルを指し示すには、

単に新しい時代の変化に適応するための場当たり的な処方箋を示すだけでは、足りない。


過去に我々がひとたび理想と信じ、そして夢破れた教訓をふまえ、

その上で、新しい人間像を提示して、はじめて地に足がついていると言えるのではないだろうか。


その意味で、近代が夢見た理想の人間像に、つぎつぎに欠陥が見つかり、

それを暴き立て、破壊し尽くしたポストモダンを乗り越えて、

さらにその向こうに新しい人間像、人間の生き方を示すことなくして、

「現代という時代にそった新しい生き方」を提示すると、どうしても陳腐になってしまう。



実は、この問題意識は、このブログ自体のテーマでもあり、

「分裂勘違い君劇場」というタイトルは、そこから来ている。


私は何者でもなく、私の意識は分裂して、多重人格で、勘違いの上に勘違いが重なり、

しょっちゅう自分で言ったことの正反対のことを言っていて、

一貫性がないどころか、わざと一貫性のない態度をつらぬき、

一貫した思想をあがめ奉る人々に対して、

真正面から挑戦状をたたきつけている。


そして、そこに、近代が生み出した理想の人間像という呪いの

拘束具を食い破って自らを解放し、人生を謳歌するための鍵が埋まっているのではないかと感じている。


イメージ的には、ちょうど「生物と無生物のあいだ」という本で描かれている

「生命体の本質」に近い。

。。。私たちが食べた分子は、瞬く間に全身に散らばり、一時、緩くそこにとどまり、

次の瞬間には身体から抜け出ていくことを証明した。

つまり、私たち生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り立っている

分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。

<略>この「動的平衡」論をもとに、生物を無生物から区別するものは何かを、

私たちの生命観の変遷と共に考察したのが本書である。

(強調は引用者による)


生命体が「流れ」そのものであるように、いろんな思考、アイデア、感情、感覚、欲望が

常に入れ替わり、移ろいゆき、「流れ」として自分の精神を形作っている。

それは動的平衡を保つという形でのみ「自分」を形成しており、どこかに

固定化された静的な「自分」などというものがあるわけではない。


「自立した個人」という近代の理想的人間像が人間を拘束し、灰色の部屋に閉じこめ圧殺してしまうのは、

人間の精神が静的なものであることを前提とするという過ちから来ているのではないか。


人間の精神が静的なものでない以上、自分の中の「好き」も静的に固定化することなど出来ず、

そんな静的な自分を求めて、インドやタイに「自分探しの旅」に出かけたところで、

「本当の自分」などという静的な状態を見いだすことなどできやしない。

好きを貫こうにも、そもそもそんな静的な「好き」など存在しない。


好きというのは、努力して見いだして貫くようなものではなく、

自然体で生きているうちに、結果として動的平衡として好きなことをやっている自分という

状態になるのではないか。


そして、ボク的には、そのイメージが、2ちゃんねる管理人のひろゆき氏の生き方に重なる。

いかにも古めかしく暑苦しい近代的な梅田思想に比べ、

肩の力の抜けたひろゆき氏が自然体で語りかける言葉の一つ一つは、

はるかに現代的で洗練されており、次の時代を生きるためのヒントがあるように思う。


必死で努力し、ガマンして毎日ステーキを食べつづけなくても、

肩の力を抜いて、ふらふら、だらだらしながら、自然体でサービスを作り出した方が、

むしろ、より次の時代にふさわしい、新時代を切り開くような洗練されたサービスを

開発できるのではないだろうか。


真に強烈な打撃は、脱力とリラックスから生み出されるというのは、

さまざなまスポーツと格闘技の基本だ。


これが、ステーキが大好きな僕が、いま、血の滴るステーキではなく、

納豆かけご飯と塩鮭とほうれん草のおひたしを食べ、

バランスボールをポヨンポヨンさせながら、この記事を書いている理由であり、

明日もまた、やはりステーキの好きな僕は、オニオンスライスとシーチキンの

和え物でも食べようかと思いつつ、気が変わってカレーライスでも食べているかも

しれない理由なのである。



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「努力すればスキルが向上して上に昇れる」というのは幻想

「努力すればスキルが向上して上に昇れる」というのは幻想 

なんですよ。

まさか、面白い仕事とおいしい年収をもらえるポジションにいる人たちが、豊かな才能と地道な努力によってそれを獲得したなんていうインチキを信じている人なんて、まずいないと思いますけど、念のため補足しておきます。

夢のない話なんですが、実際には、どんなに努力しても、人が育ってポジションにふさわしい人材になるということはほとんどないんですよ。現実はその逆で、「ポジションが人を育てている」というのが実態です。

プロジェクトリーダーの能力を身につけるには、実際にプロジェクトリーダーというポジションにつけられ、プロジェクトリーダーの権限と義務と責任を持ち、それに適応するために悪戦苦闘するのが、圧倒的に能率がいい。

平社員というポジションのまま、プロジェクトリーダーの能力を身につけようと努力する場合の数十分の一の努力と、数十分の一の時間で、プロジェクトリーダーの能力を身につけられるんです。下積みの苦労なんて無意味なんですよ。

だって、プロジェクトリーダーになると、プロジェクトの目的、目標、方針、ビジョン、ロードマップを練り上げ、それに沿って、それぞれの部下の仕事の目的、目標、仕事内容、スケジュールを定義する作業をし、プロジェクトリーダーとして、経営会議に予算を要求し、目標とスケジュールを約束し、今後の戦略や具体的な施策についての質疑応答に答えるわけですよ。やってる仕事内容が、平社員と、ぜんぜん違うわけです。平社員が、平社員の仕事をしながら、プロジェクトリーダーの仕事を手伝うくらいで、身につけられるような薄いスキルじゃないんですよ。

だから、現実には、平社員としての基本スキルがある程度身についたら、目標とする仕事をするためのスキルを身につける地道な努力なんかしてる場合じゃなくって、さっさと自分のなりたいポジションを強奪する狡猾な作戦をたてて、実行しなきゃならない。そうしなきゃ、自分のやりたい仕事をできるようになるころには、ジジイorババアになってしまってるわけで。だから、それは、もう、きれいごとなんか言ってる場合じゃなくって、ちょっとでも隙ができたら、徹底的につけこまなきゃ、いつまでたっても下っぱから抜け出せないわけで。

たとえば、売れっ子のプロジェクトマネージャーが、たくさん案件をかかえすぎて、手が回らなくなっているなんて、よくあることで、そんなところを見つけたら、すかさず、腹の中で乗っ取りを企てる。たとえば、どれかのプロジェクトが問題をかかえているまま放置されていたら、すかさず、その問題を分析・整理し、解決策の案を3つぐらい作成して、それを簡単なドキュメントにまとめて、プロマネのところにもっていき、「どの案でこの問題を解決しましょうか?」って指示を仰ぐ。そして、プロマネがどれかの案を選択したら、それを実行するために、だれに、どのような指示を出すのかを考え、「じゃあ、それをやるために、この人にはこんな指示、こっちの人にはこういう指示でいいですね? 期限は、この日ということで、いいですね? じゃあ、プロマネから、そういう指示があったって、ぼくのほうから伝えておきますね。」というふうにやる。これを繰り返す。いくつものプロジェクトをかかえる売れっ子プロマネは、忙しいものだから、そのうちめんどくさくなって、そのプロジェクトにおけるかなり重要な意思決定まで、ほとんど任せっきりにするようになったりする。そうすると、そのプロジェクトメンバーへの指示だしは、どんどん自分が肩代わりするようになり、また、プロジェクトメンバーも、どんどん自分のところに相談しに来るようになる。それを繰り返すと、そのプロジェクトに関する重要な情報は、ほとんど自分が握れるようになり、その売れっ子プロマネは、そのプロジェクトに関する意思決定をしようにも、細かいところの感覚がいまいちわからず、逆に、こちらの方に、どのような意思決定をすべきか、聞いてくるようになる。そうなると、もう、どちらがリーダーだかわからなくなってくるわけで。

そのうち、「あのプロジェクトを実質的に動かしているのは、○○さんらしいわよ。」という噂が社内に蔓延し、それが会社の上層部にもつたわる。そして、その売れっ子プロマネに、さらに新しい案件がふってきて、そのプロマネがオーバーフロー気味になると、耐えられなくなって、「このプロジェクトの実質的なリーダーは、いま、この子がやってるし、もう、このプロジェクトのリーダをこの子に移管しちゃおうと思うんですけど。それが、この新しいプロジェクトをわたしが引き受ける条件です」などと上層部へ言いにいくというわけだ。

で、ほかにも、プロジェクト乗っ取りの手口はいろいろあるんだけど、とにかく、戦国大名のように、確信犯的に、計画的に、プロジェクトの乗っ取りをがんがんしかけて行くべきなんですよ。泥仕事を地道にやっていれば、おいしい仕事が回ってくるなんてウソは、絶対に信じちゃいけません。この世界では、こういう「たくらみ」を腹にもって行動するやつが、ずっと少ない努力で、ずっとおいしいポジションを独占するようにできているんですよ。

もちろん、安易に「努力さえすれば報われる」なんてことを信じてる人なんて、いないとは思うんだけど、人が育ってポジションにつくのではなく、ポジションが人を育てるのだというシビアな現実があるということすら知らない世間知らずなニート君がいる可能性もあるので、念のため、補足しておきました。



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身も蓋もない仕事の法則

身も蓋もない仕事の法則 


  • 「単なる知り合い」と「人脈」は全くの別物である。人脈とは、自分のことを高く評価してくれる権力者のことである。
  • 20代の時にあちこちに恩を売りまくっておけ。そいつらはいろんな組織で成長して権力を握り、30代半ばには、強力な人脈になる。
  • 自分とは違うタイプの優秀さを持った人間を「無能だ」と決めつけて切り捨てるのは、致命的な機会損失である。
  • 客観的なビジネスプランはたいてい役に立たない。自分の熱い主観を企画書にぶち込め。
  • みんなの良い意見を集めても魅力的な企画にはならない。優れた企画は、たいてい誰かの個人作品である。
  • 目下の人間にも、上司に対するのと同じだけ敬意を払い、「さん」付けで呼んでおけ。自分の部下を「君」付けで呼んでいると、そいつが抜擢されて自分の上司になったとき、「さん」で呼ばなければならなくなるという屈辱を味わうことになる。
  • ほとんどの人は、建前ばかり並べて会議をするので、思考力が失われ、無難で退屈な結論にしかたどり着けない。
  • プライドも建前もかなぐり捨て、身も蓋もない真実を徹底的に追いつめると、人々の感動を生むビジネスプランが出来上がる。
  • 魂を込めて濃い本を書くと、それは転職の時、強力な名刺として使える。
  • ほとんどの人は「会社がお金を儲けること」へのこだわりが薄い。だから、「会社がお金を儲けること」にこだわって仕事すると、上司からも会社からも高く評価される。
  • 「ほとんどの人が疑わない常識」を疑うと、大量のビジネスアイデアがあふれてくる。
  • 「好きなことをやる」ことではなく、「やりたくないことをやらない」ことを優先しろ。
  • 講演をすると、ヘッドハントの手紙、メール、電話が来る。
  • 自分の欠点だと思っていることが、他人から見ると長所になることは意外に多い。たとえば「自分の意見をもたない」人が「他人と衝突しにくい」という点が評価されて、組織の長に抜擢されたケースがある。


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やがてくる大増税時代に豊かに生活するために準備すべきこと

親切にいろいろと書いてくれているので採録
いつの間にか消えてしまうことも多いので。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20091012/p1#seemore

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やがてくる大増税時代に豊かに生活するために準備すべきこと

現在の日本の置かれた状況をよく考えてみると、数年~十数年後に大増税を行わざるを得なくなる可能性がけっこう高い。

大増税時代になっても豊かに暮らせるようにするには、今のうちから準備しておかないと、あとで後悔することになることがある。

この記事では、それについてまとめてみた。


トピックハイライト


  • 大増税を回避する政策はあるが、それが実行される可能性が低い理由。
  • 中所得者と高所得者のどちらに大増税されるかは不透明。
  • 高所得者を搾取して遊んで暮らす戦略。
  • 具体的にどの税金を、どのように回避するために、今からどのような準備が必要か。
  • 重い所得税を払わずに逃げ切る合法的な方法
  • 重い消費税を合法的に回避する方法
  • 高収入で贅沢をしても消費税も所得税もかからないようにする方法
  • 税金を全く取られずに生産、流通、消費を行うさまざまなテクニック。
  • 「高所得者に重税をかけると海外へ出て行く」というのは金持ちのポジショントークに過ぎない側面がある。
  • 今は消費したら負けの時代。自分の未来を捨ててまで社会に貢献したい人だけ消費すればよい。
  • これからやってくる大増税時代は働いたら負けの時代
  • 重税国家が持続可能かどうかはまだ不透明。重税国家スウェーデンでは国民の稼ぎの7割を国家が徴収しているのに税収が不足してきている。福祉に寄生する人が増え、若手の優秀な人材が流出し、財源不足で福祉サービスはどんどん劣化してきている。
  • 日本は条件が違うので、スウェーデンなみに重税にしても、スウェーデンほどの福祉にはならない可能性がある。
  • 共産主義体制ですら破綻までに数十年かかった。日本の富が寄生者に食いつぶされ、人材が流出し、やがて破綻するとしても、破綻までには数十年の歳月がかかる。重税高福祉体制が破綻するとしても、それが自分が死んだ後なら、あとは野となれ山となれと考える人も多いだろう。
  • インフレから貯金を守る方法



はじめに

「この先、大増税が行われる可能性が高い理由」については、話が長くなるので、後述する。

ここではまず、「この先、大増税が行われる可能性が高い」ということを前提として話を進める。



大増税時代には、外食するとバカみたいに税金をむしられまくる


レストランで出される料理の値段には、そのレストランを運営している役員や従業員が受け取る給与にかかる所得税の一部が転嫁されている。*1

それに加えて消費税までかかるので、レストランで食べる料理の値段にはかなり税金がかかってしまうことになる。


それだけではない。レストランで支払いをするお金は、自分で働いて稼いで、所得税をむしられた後のお金だ。


いまは、税率が低いので、これらの問題が顕在化していないが、税率がぐんぐん上がって大増税時代になると、外食するのは、税務署のカモにされにいくようなものになる。


これは、お総菜でもコンビニ弁当でも同じだ。

それらは、会社組織によって組織的に作られるのでその会社組織で働く人にかかる所得税の一部がが商品価格に転嫁され、さらに消費税もかかる。




重税国家でサバイブするコツは、貨幣システムが介在しない生産と消費を心がけること


一方で、自炊をすると、材料費と光熱費にしか税金はかからないから、むしられる税金はずっと低くなる。


要するに、重税社会というのは、貨幣システムの利用料がバカみたいに高くなる社会だ。

だから、大増税時代には、貨幣システムを使わずに、生産と消費をするのが、基本戦略の一つになる。


自炊というのは、ようは、自分で商品を生産し、自分で商品を消費するということだ。

自分で生産したものを、自分で消費するのだから、そこに貨幣取引は介在せず、所得税も消費税も一切かからないわけだ。


もっと正確な言い方をすると、出来上がった料理の価値と原材料の価値の差分が付加価値で、自炊すると言うことは、この付加価値を生産し、消費するということになる。外食をすると、この付加価値の生産と消費の両方にさまざまな形で課税されるが、自炊の場合は、付加価値の生産にも消費にも課税されない。





より美味しいモノを食べるのに取るべき戦略が変化する


いままでは、より美味しいモノを食べるには、より多くお金を稼ぎ、高いレストランに行くのが正しい戦略だった。

しかし、大増税時代においては、この戦略では、税負担が重すぎて疲弊してしまう。


大増税時代においては、より美味しいモノを食べるには、自分で自炊の腕を磨き、自分で美味しい料理を作れるようにすることに時間とエネルギーを注ぎ込むことが正しい戦略となる。




大増税時代に適した自己完結型の生産と消費の方法にはどんなものがあるか


  • 家庭菜園を借りて自分で育てたものを食べる。
  • 自分で食事を作る。自分の好みの料理を、好みの味付けにできるので外食よりも美味しいことが多い。
  • 作り置きのお総菜も、自分で作って冷蔵庫や冷凍庫に保存しておく。
  • 服は自分で作る。体型が変わったときのサイズ調整もできるし。
  • 子供は塾へ通わせるより、極力自分で教える。
  • 部屋にぴったりサイズの本棚を自分で作る。
  • 飲み会は居酒屋ではなく、誰かの自宅で行う。

これらは、どれも自分で生産し、消費しているため、所得税も消費税もほとんどかからない。




稼げば稼ぐほどむしられるだけ。稼ぐことではなく、生産消費スキルの獲得に時間とエネルギーを使う


所得税の税率が高くなると、働いても働いても、国家にむしり取られるだけだ。

だから、仕事時間を減らし、自己完結型の生産消費に必要な知識とスキルを身につけることに、時間とエネルギーをより多く割り当てるのが正しい戦略となる。

具体的には、たとえば以下のようなことをする。

  • ためしてガッテンの料理系の番組のような料理スキルをアップさせる番組を録画して見る。
  • 料理の本をよく読んで、勉強する。
  • クックパッドを使いこなす。
  • SNSやtwitterで、料理の得意な人と友達になって、いろいろ教えてもらう。
  • 時間があれば、料理教室に通う
  • シャトルシェフ、ビタクラフト、チタンの中華鍋、マーブル加工のフライパンなどを使いこなす技術をいろいろ研究する。
  • 冷蔵庫、冷凍庫、電子レンジの使いこなしスキルをアップさせる。
  • おいしい珈琲や紅茶の入れ方も、本やネットで勉強する。
  • 家賃の高い快適な部屋に住むよりも、安い部屋をいろいろ工夫して広く快適に使うスキルを磨く(つっぱり棚を上手に使うとか、収納を工夫するとか、ものを捨てる技術を磨くとか)
  • 家庭菜園で、手間なく美味しい野菜を育てる方法を学ぶ。
  • 子供に効率よく学習させるための教え方のコツを、本、ネット、ビデオ教材などで学習する。
  • 服に興味があるなら、自分で作れるように、その手の学校に通う。



重い所得税を払わずに逃げ切る方法


日本は中所得者の所得税が異様に低いので、

中所得者と高所得者の両方に大増税されるシナリオや、

主に中所得者に大増税されるシナリオもありうる。


高所得者や中所得者に重税がかけられるようになったら、

中高所得者は、単に働く量を減らして低所得者になれば、所得税はあまり取られない。

低所得者でも貯金がたくさんあれば十分に豊かに暮らせる。

だから所得税の低い今のうちにできるだけ貯金し、所得税が高くなったら、たとえば1年のうち4ヶ月だけ働くようにすればいい。

そうすれば、大増税時代においても、あまり所得税を払わず、短い労働時間で、貯金を取り崩しながら豊かに暮らせる。

たとえば、年に4ヶ月だけ働いて年収200万円稼ぎ、所得税を20万円払い、ベーシックインカムを年120万円もらい、資産運用や貯金取り崩しから年100万円補填すれば、手取りで年400万円の生活費になる。

年4ヶ月労働で生活費400万円なら、かなり優雅な生活ができるだろう。




大増税時代にそなえて貯金しても、インフレで貯金が目減りしては元も子もない


せっかく貯金しても、インフレが起きたら貯金が目減りしてしまう。

なので、インフレが問題になり始めたら、日本円の現金以外の形(貴金属、土地、株式、外国の通貨や株式)で資産を保有するようにする。そうすれば、たとえば日本円の価値がインフレで1/10になったら、相対的に保有している貴金属の価値が10倍になるだけなので、資産は増えも減りもしない。

手持ちの日本円の現金は最小限にしておき、日本円の現金が少なくなったら、外貨建てor貴金属建ての貯金を少しずつ日本円に換えて使うようにする。

また、インフレが問題になりはじめたら、そもそも銀行の金利はインフレ率よりも高くなるだろうし、インフレヘッジ用の金融商品や金融サービスも多く出回るだろう。


それらのインフレヘッジ対策にまで税金がかかるようになったら、インフレの懸念の少ない外国の通貨を現金で所持するか、金、銀、プラチナなどの貴金属の小片の現物で資産を保有するようにする。それらを日本円に現金化するときに税金がかかるのが問題なら、直接外国通貨や貴金属の小片で個人間取引を済ませるようにする。

たとえば、銀1g片は50円、金1g片は3000円と数える。冷凍ミニトマト200gを銀1g片と交換する、など。




重い消費税を払わない方法


重税高福祉国家において、重い消費税がかけられるとしても、全ての品物に一律にかけられるとは限らない。

高福祉国家においては、貧困層には重税がかからないように、生活必需品などには消費税がかからなくなる可能性が高い。


そして、贅沢な生活必需品にだけ重税をかけることは、現実には困難だ。

畑で完熟した1個300円の贅沢トマトには重税をかけて、効率重視で未熟なまま収穫された1個50円の大量生産トマトには税金をかけないようにするのは、現実的ではない。季節による値段の違いもあるだろうし、大きさの違いもあるだろう。


だから、生活必需品というカテゴリの範囲内なら、それなりに質の良い商品を買っていても、それほど重税はかからない。

ルイヴィトンやシャネルやベンツや100インチの大型テレビや非常識に家賃の高い部屋に住むなど、昭和の金持ちのような「分かりやすい」贅沢をすれば、贅沢品税がかけられる可能性はあるが。


なので、年400万円程度の生活においては、実質的な消費税はそれほど重くならないようなライフスタイルが送れる可能性が高いと思われる。





高収入で贅沢をしても消費税も所得税もかからないようにする方法


さらに、実質的には年500万円の所得があっても、300万円を経費として落とし、税務署からは年200万円の所得にしか見えないようにすることは、それほど難しくない。

だから、年500万円の所得を得ても、あまり税金を払わず、実質的に年500~700万円の生活費のそこそこ贅沢な暮らしをすることもできる。

重税高福祉国家になって、徴税体制がどんなに厳しくなっても、これは原理的に十分可能だ。


基本は、自分で法人を設立し、仕事場と自宅を一体化してしまうことだ。

本棚、パソコン、プリンタ、ドキュメントスキャナ、デジカメ、電話、FAX、データ通信カード、携帯電話、ソファー、家賃の一部、光熱費通信費の一部など、実にたくさんの支出項目が、生活と仕事の両用にできる。

それらにかなり贅沢なものを買ったとしても、それらには所得税も消費税もかからない。(払った消費税は還付される)


なぜなら、税務署は、徴税のコストパフォーマンスが高いところだけ厳しく審査し、税金を取り立てるしかないからだ。

年商5000万円の法人の財務諸表の中の、額の大きな支出項目を吟味して、経費として認めるかどうかを厳しく審査すれば、場合によっては税金を追加的に取ることができるかもしれない。

しかし、いちいち年商500万円しかない超零細法人の経費で落とされている10万円のやや贅沢なドキュメントスキャナの使用状況を隠密調査してなんとか見つけ出し、「半分以上はマンガ本をPDF化するのに使っていますね。仕事の書類は半分しかない。だから、半分しか経費で落ちません。」「いえ。そのマンガ本のスキャンは、ある個人の顧客から仕事を受注するためのバーターのサービスとして行ったのであって、仕事の一環です。」などという押し問答をやっていたら、徴税の手間の方が大きくなってしまい、採算割れしてしまうのだ。


ようするに、各項目が経費でないことを証明する義務が税務署にあるため、その証明コストが大きく、額の小さいものは、プライベートで使われる割合が大きかったとしても、実際には課税することが難しいことが多いのだ。




現在は「消費したら負け」の時代


時間リッチな人と、時間プアな人では、お金の価値がまるで違う。


たとえば、予算20万円を使った旅行でも、

半年の休みをとれる時間リッチな人は、

あらかじめじっくりと時間をかけて旅行先の国の地理や歴史や文化の本を読み、

片言ぐらいには言語を話せるようにし、

ネットで十分な情報を集め、シーズンオフに格安の航空券を使い、

現地の味のある安宿をぶらぶらと泊まり歩いたり、

現地の露店マーケットの売り子さんや宿の人と片言で交流したりしながら、

気に入った小都市に長期滞在したり、現地で友達を作ったりしながら、

ゆったりとバカンスを楽しむことが出来る。


一方で、時間プアな人は、予算20万円の旅行でも、

連続して休みが取れるのはたった7日間で、実質現地で過ごせるのは5日間に過ぎず、

仕事の疲れもあまりとれないうちに、

都市や遺跡の歴史的背景も、現地の人々の文化や置かれた政治的立場もろくにわからぬまま

現地の人との交流もろくにないまま、観光名所をあわただしくまわり、

高級ホテルにとまって贅沢気分を味わうのが関の山だったりする。

いかにも貧しい旅行だ。


また、美味しい料理を作るのでも、

時間リッチな人は、本やネットでじっくりと時間をかけて、

最高にオイシイ調理方法を試行錯誤を重ねて研究しながら料理を作れるので、

同じ材料費でも格段に美味しく食べられる。


時間プアな人は、忙しいのでたいして調査もできず、

加熱時間を絶妙にコントロールして最高にオイシイ野菜炒めを作る方法などを

極めている余裕などないから、

せっかく高いお金で高級食材を買ってきても、

味も香りも飛んでしまって、台無しにしてしまったりする。


さらに、仕事が忙しくて、食事中まで仕事のことが頭から離れない人は、

美味しいものを食べても、その価値は半減だ。

ゲームを買っても、それをじっくり楽しむ時間もない。


要するに、仕事で忙しいときにはお金を使うのは損なのだ。


一方で、いくら時間リッチでも、お金がないと海外旅行もできないし、

美味しい食材も買えないので、美味しい料理を作るのにも不自由してしまう。


だから、仕事でバリバリ稼いでいるときには消費を控えて貯金をし、

あとで時間的な余裕ができてから、貯金を取り崩してじっくりと消費を楽しむのが、

トータルでは、もっとも豊かな生活を楽しむことができる。


そして、集中して働いて貯金を積み上げるなら、

所得税の低いいまのうちであり、

大増税時代が到来して所得税がバカ高くなったら、仕事をぐっと減らして時間リッチにして、

貯め込んだお金をじっくり味わって使うのが、

とられる税金を最小化し、得られる楽しみを最大化する方法となる。


そうしてみると、いまは、

「稼ぐが勝ち、消費したら負け」の時代と言える。




楽天ポイントを現金の代わりに使えば課税されない?


たとえば、日本円の代わりに、楽天ポイントでさまざまな取引ができるようにしたとしよう。

楽天が、リアルにもどんどん進出し、楽天に加盟したたくさんのリアル店舗ができたとする。


そして、楽天加盟店のレストラン、スーパー、コンビニ、映画館で働く従業員は、報酬の一部を楽天ポイントで受け取ることができる。楽天ポイントで受け取った分は、限界税率の所得税が減免される形になるので、大幅な所得税減税となる。

そのうえ、楽天ポイントを楽天から購入するときの消費税もかからない。


そして、楽天の加盟店のレストラン、スーパー、コンビニ、映画館などで、楽天ポイントで支払うと消費税がかからない。


しかしながら、ここまでやってしまうと、政府は楽天ポイントにも所得税と消費税をかけるようにするだろう。

だから、楽天ポイントのような代替貨幣で所得税と消費税を逃れるというプランはあまり現実的ではないと思われる。




タバコ、焼酎、チタン、マグネシウム、銅、銀、金を疑似貨幣として使った取引


タバコ、焼酎、チタン、マグネシウム、銅、銀、金など中間物を疑似貨幣として使う物々交換はどうだろうか?


たとえば「年末の大掃除のお手伝いをしてほしい」という人がいたら、一日分の作業と引き替えに、1gの金の粒を5個受け取るなど。

あるいは、冷凍ミニトマト1kgを銀1gの粒を4つか、もしくはタバコ一箱と交換する。


これも、このような形の疑似貨幣があまりにも流通したら、課税されるようになる可能性がある。金や銀だけでなく、チタン、マグネシウム、銅、あるいや、タバコや焼酎も法律上の疑似通貨として定め、それらとのモノやサービスの物々交換に課税するのだ。


ただ、これはどこまでやってもグレーゾーンは出てくる。

たとえば、掃除の手伝いと交換に、お米10Kgを受け取ったとする。

そして、そのお米10kgのうち、1kgをトマトと交換し、1kgをキャベツと交換した場合、お米は疑似貨幣として機能する。

この場合、お米との物々交換も、疑似貨幣として税務署の査察が入るようになるのだろうか?




個人間取引は徴税が困難


法人を介在した取引と異なり、個人間の取引はそもそも徴税が難しい。

法人がお米10kgとキャベツ20個を交換した場合、税務署に届け出ることを義務づけられるが、個人はそうではない。


だから、個人が年末のお掃除の手伝いとお米10kgを交換したことや、お米1kgとキャベツ5個を交換したことを、税務署が把握するのはとても困難だ。

もちろん、インターネットで取引相手を探すならともかく、普段からつきあいのあるご近所や、クローズドなSNSで付き合いのある人達と仲間内だけで、現物手渡しで物々交換する分には、税務署がそれを把握するのは極めて困難だろう。


この手の個人間取引には、以下のようなものが考えられる。

  • 作り置きのお料理を3日分まとめて作り、キッチンとトイレの掃除もやります。
  • ワードとエクセルの使い方を家庭教師します。
  • 犬小屋を造ってあげます。
  • ベビーシッターします。
  • 写真の撮り方を家庭教師します。
  • 庭でとれたジャガイモを一箱。
  • 庭でとれたでっかいカボチャ4つ。
  • 冷凍ミニトマトと冷凍モロヘイヤおひたしのセット



電脳化された物々交換は、貨幣システムそのものを回避する


日本円や楽天ポイントだけでなく、お米、タバコ、焼酎、チタン、マグネシウム、銅、銀、金など、あらゆる疑似貨幣による物々交換を、徹底的に税務署が監視し、厳しく徴税したとする。

その場合、物々交換をより便利にすることで、徴税を回避することができる。


そもそも、重税国家に搾取されない究極の方法は、貨幣システムを使わずに取引することだ。

科学技術が高度に発達した現代においては、貨幣システムを使わないからといって、

単純に貨幣経済以前の不便なバーター取引と自給自足経済に戻ってしまうわけではない。

現代には、貨幣システムを使わずに取引するためのテクノロジーがたくさんある。


たとえば、自宅の庭でとれすぎたモロヘイヤとミニトマトを交換したいAさんと、

自宅の庭でとれすぎたミニトマトとモロヘイヤを交換したいBさんがいたとする。


貨幣経済以前には、AさんとBさんがバーター取引を行うのは容易ではなかった。

なぜなら、Aさんがとれすぎて余っているモロヘイヤがだめになってしまうまえに、Bさんに出会う方法がなかなかなかったからだ。

情報伝達手段が貧弱すぎて、AとBさんは相手を見つけることができないし、

そのうえ、モロヘイヤやミニトマトを高速に運搬する手段もないし、

それらがダメになってしまわないように保存する手段もない。


しかしながら、現代においては、インターネットによる自動マッチングが使える。

AさんとBさんが、それぞれバーターしたいものをネットのDBに登録しておけば、

地理的にもっとも近いところにいるAさんとBさんが自動的にマッチされ、通知される。


さらに三者間バーターのようなことすらできる。

Aさんの庭ではモロヘイヤがとれすぎ、Aさんはミニトマトを欲しがっていて、

Bさんの庭ではミニトマトがとれすぎ、Bさんはジャガイモを欲しがっていて、

Cさんの庭ではジャガイモがとれすぎ、Cさんはモロヘイヤを欲しがっていたとすると、

その三者間をマッチングして、三者間バーターを成立させることができる。


さらに運搬手段としては、貨幣経済以前の凸凹道のかわりに、

舗装された道路があり、自転車があり、バイクがあり、電車があり、バスがあり、自動車がある。

そして、保存手段としては、冷蔵庫や冷凍庫がある。

こういう風に、保存&流通テクノロジーの発達した現代においては、

貨幣経済以前には、保存や流通の問題からバーター取引が不可能だった生鮮食料品まで結構バーター取引が可能になってしまう。

ましてや、古着や家具などは、保存も流通もはるかに楽だ。


これ以外にも、バーター取引ネットワークに乗せられる商品やサービスはたくさんあるだろう。

フォトショップの使い方を家庭教師します、しゃっきしゃきの野菜炒めを作るコツを教えます、ワードやエクセルの使い方を教えます、使わなくなったホームベーカリー上げます、マンションのイントラネットの管理をしてくれるなら、一室の家賃をタダにします、とれすぎたナス、ジャガイモ、カボチャを上げます、自転車やっぱ使わないので上げます、パソコン新しいの買ったので古いヤツ上げます、Webサイト作ってあげます。。。

それらを持っている人は、ネット上のバーター取引サイトから、好きなものを選んで、バーターすればいい。




重税国家における負け組は、高所得サラリーマン


高所得サラリーマンは、会社勤めのため、実際に仕事で使っているものであっても経費で落とせず、本来なら課税されるべきでない必要経費にまで重税をかけられまくることも多く、税負担は実際の税率以上に過酷なものになる。


また、高所得サラリーマンは、部署の責任者であることも多く、年に4ヶ月だけ働くような働き方が許されず、労働時間を減らすことで低所得者になって税額を減らすこともできないケースも多いだろう。


高所得サラリーマンは、その高所得と引き替えに、プロジェクト全体の責任を負うなど、ストレスも大きいことを考えると、どんどん割に合わない労働になっていく可能性がある。

そして、割に合わないとしても、多くの中高年の高所得サラリーマンは逃げ場がないので、搾取され続けるしかないだろう。


もちろん、将来ビッグになろうという野心あふれる若い学生は、重税国家になったら海外留学→海外就職が増えていくだろうが、前述したようにそれによって日本の人材市場が空洞化して国力が衰退するのは何十年も先の話になると思われる。




大増税が行われる可能性がけっこう高い理由


「税金の無駄遣いを無くせば増税しなくて済む」というのはウソだ。

無駄な公共工事や天下り法人を無くして捻出できる額はそれなりに大きいけど、それだけで増税を回避できるほど大きくはない。


今後高齢化が進むと、高齢者の医療、介護、年金の費用がどんどん増大していく一方、税金を払う労働人口は減っていく。

税金を使う人が増えて税金を払う人が減るのだから、財政が厳しくなるのも不思議はない。


「経済成長すれば、それほど酷い増税にはならない」というのは、理屈の上では正しいかもしれない。

「国の抱える借金も、経済成長が続くなら、それほど大きな問題ではない」というのも正しいし、

「経済成長を促す政策はある」というのも、理屈の上では正しいだろう。

しかし、それらの政策が実行される可能性は低い。

なぜなら、20年続いた長期経済停滞で国民が経済成長を信じなくなったからだ。


「努力すれば成功する」が、概ね本当か概ねウソかは、状況による。

景気のいい時代が長く続くと、努力が報われない経験が多い人よりも努力が報われる経験が多い人の方が多くなる。

だから、「努力して成功しよう」を正当化しようとする人が多数派になる。

一方で、不況が長く続くと努力が報われない経験が多い人のほうが、努力が報われる経験が多い人よりも多くなる。

だから、「努力しても成功しない」ことを正当化しようとする人が多数派になる。

なので、20年にわたって経済が低迷した日本では、

「努力しても成功しない」ことを正当化したくてたまらない人が多数派になった

そして、

経済成長を信じない人は、不況で困窮したら、経済成長よりも福祉の充実による解決を望む。

自分以外の人間から重税をとりたて、福祉で自分の実質所得を増やすことを望む。


それに加え、日本の不幸な人間には、幸福な人間が転落して苦しむのがメシウマだという人が多い。

高所得者が重税に苦しむようになるのは、まさに他人の不幸は蜜の味だろう。


「セイフティネットを充実すれば、起業が増え、経済成長が起きる」というのもウソだ。

セイフティネットは必要だが、それを整備したからといって起業が増えたりはしない。

そもそも起業してビジネスを創り出せるような人達の多くは、起業に失敗しても転職先を自力で見つけられる人達だ。

「セイフティネットがないと、起業に失敗したら路頭に迷うから怖くて起業できない」なんてウソっぱちもいいところだ。


「セイフティネットを充実すれば、消費が増え、景気が良くなる」というのも根拠の怪しい議論だ。

いくらセイフティネットができても、政治が流動的な間は、そのセイフティネットがいつまで続くか分からない不安がある。

後期高齢者医療制度ではないが、政治に振り回されてセイフティネットがぐらついているようでは、安心してセイフティネットによりかかって、手持ちの金を景気よく使ってしまう気にならないだろう。

「低所得者は消費性向が高いから、低所得者に所得を再分配すれば消費が増えて景気が良くなる」というのもウソだ。

所得の再分配は必要だが、それは経済成長とは別の話だ。地域振興券の例が示すように、いくら低所得者にお金を配っても、将来に不安があるかぎり、彼らはたいして消費を増やさない。そして、充実したセイフティネットが覆されるリスクが全く感じられなくなるほど政治が安定するのは、いったいどれくらい先のことになるか、まるで見通しが立っていない。

また、年金制度が確実に保証されれば、老人達が貯め込んだお金を安心して使うなんてこともない。

年金が保証されているからといって貯金を使ってしまうと、「何年か後に大きな買い物をしたくなったとき、まとまったお金がないのでそれを買えない悔しい思いをしながら墓の中に入らなければならない」というリスクを抱える。若い人は、どうしても別荘が欲しくなったら、一生懸命働いてお金を稼ぎまくって貯金して夢を実現できるが、老人達は、手持ちの貯金を使ってしまうと、後から欲しいモノができても、若者のように激しく働いて新たに貯金を創り出すことができない。

だから、老人達にとっては、貯金は希望そのものであり、貯金を使ってしまうことは今後生まれる全ての夢を諦めることであり、年金が確実に保証されているかどうかに関係なく、希望=貯金のない余生を送るのはいやなのだ。

だから、

「セイフティネットが充実すれば、

老人達が貯め込んだお金を使うようになって、

景気が良くなる」というのは大嘘なのだ。


また、「まともな金融政策を行えば、そこまで酷い増税は必要ない」というのも、理屈の上では正しいかも知れない。

しかし、国民の大多数はまともな金融政策を実行する政治家や政党に投票してこなかったし、これからもそれは変わりそうにない。


なので、経済学上の正しい理屈はどうあれ、現実的には近い将来大増税が避けられなくなる可能性は十分にあると思われる。

そういう状況では、国民としてどう政治に参加するか、という話とは別に、個人としてこの状況にどう適応するかを考え、来るべき状況変化への準備を今からしておいてもいいだろう。




高所得者を搾取して遊んで暮らす戦略


「高所得者に重税をかけると、海外に逃げられてしまう」というのは、

一部の金持ちのポジショントークに過ぎない側面がある。

「日本から出る出る詐欺」だ。


実際には、日本の高所得者の多くは、本人の能力も仕事場も日本語経済圏に依存しており、重税をかけられても日本からは逃げられない。

高所得者に重税をかけると海外に逃げ出すのは、将来高所得者になる見込みの大きい才気あふれる若者達でしかない。

才気あふれる若者達はこれから海外に適応していける柔軟性を持っているが、中高年はそうはいかない。


それに加え、

優秀な若者達が国外に流出しても、すぐには経済には影響しない。

そもそも優秀な人材が海外流出すればすぐにでも経済が衰退するという論調自体、

金持ちのポジショントークに過ぎないところが多い。


そもそも、日本の科学技術を支える技術職や研究職におけるエリートはそれほど高所得を得ているわけでもないし、

上位5%の優秀人材が海外に流出すると、次の5%が二軍から一軍に昇格して穴を埋めるという効果もあるだろうし、

少ない手取りでもばりばり働くエリートだってそれなりにいる。

だから、優秀人材がかなり流出してしまっても、しばらくの間はけっこう社会はまわってしまうものだ。


もちろん、若手の優秀な人材が海外に流出し続ければ、

世界経済を牽引するようなすごい産業はますます日本語経済圏では生まれにくくなるし、

世界経済の知識化が進む中で高度人材の流出が続けば、

長期的には、美味しいフロンティアはほとんど英語経済圏に食われてしまうだろう。


しかし、それによって日本の国力が衰退するプロセスは緩慢なものであって、

たとえ最終的に重税高福祉体制が破綻するとしても、それまでには何十年もの長い歳月がかかる。

実際、共産主義体制ですら破綻するまでに数十年かかったのだ。


だから、日本では高所得者に大増税されるというシナリオもありうるし、

そうなったときの個人の適応戦略の一つは、

重税高福祉体制が破綻するまでの数十年間は、

日本から逃げられない高所得者から

可能な限り多くの富を搾取して

その富で豊かに暮らすことだ。


数十年後に重税高福祉体制が破綻するとしても、それは我々の死んだ後かも知れない。

だとしたら、そもそも破綻したときの準備なんてするだけ無駄だ。

万一生きている間に破綻したときは生活に困窮してもかまわないと覚悟を決めて、

破綻までの数十年間を太く短く豊かに暮らすという選択だってある。




一時的に向上した福祉は、じわじわと劣化していく


重税高福祉国家の未来がどうなるかは、ある程度スウェーデンが参考になる。


スウェーデンは国民負担率7割という重税国家にもかかわらず、

税収が不足してきている。


そして財源不足からスウェーデンは福祉がどんどん劣化してきている。

たとえば、医療サービスなどの劣化は深刻だ。しかも、今後ますます酷くなる見込みのようだ。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1606?page=2

 しかし、財政難は医療現場にも押し寄せている。「国は住民への医療サービスを行う義務がある」と法律上は高らかに謳われているものの、実際に医者に診察してもらうまでは一苦労だ。

 3歳になった直後、長男が高い滑り台からジャンプし、唇の端をザックリ噛み切ってしまった。ボードセントラーレン(Vardcentralen)という、自治体に属する診療所に連れて行ったが、状態がひどいので総合病院に向かった。

 ルンド大学病院へ運んで専門医に診てもらい、切れた唇を縫合するため全身麻酔を行うことになった。長男は飲まず食わずの状態で、痛みに震えながら真夜中まで待たされた。夫が怒りをあらわにして「いつまで待たされるのか」と大声を上げていなければ、もっと時間が掛かっていたはずだ。

 病院内のスタッフは、同じ病棟内でも携帯電話で互いに連絡を取り合い、迅速且つ効率よく仕事しているのだが、それでも医師・看護師の不足はスウェーデン医療の深刻な問題になっている。

 それに追い打ちを掛けるように、削減項目が1000を超える医療サービスコストの見直しが進められている。一部の総合病院では入院病棟のベッド数が3分の1~2分の1まで削減され、外来救急は救急車搬送の患者以外を受け容れなくなった。


なんでこれほど重い負担にもかかわらず財源不足におちいるかについては、働かずに福祉に寄生して生きる人が多いということと、人材の国外流出が原因ではないかと言われている。


日本の場合、高齢化はスウェーデンよりも酷く、政府債務もスウェーデンよりもずっと大きいので、スウェーデンよりもさらに条件は悪い。

日本では、大増税されても税収のかなりの部分が増え続ける高齢者の医療費や介護費に吸い取られてしまったり、借金の返済に当てられてしまい、福祉へ回されるお金はそれほど大きくならず、福祉はスウェーデンよりも深刻な財源不足に陥るかもしれない。


日本も、重税福祉国家になった後、働かない人が増え、才気あふれる若者が国外へ流出していくに従って、ジワジワと国力が衰退し、福祉サービスは劣化していくだろうが、着地点はスウェーデンよりも悪い場所になる可能性がある。



日本に居続けるのは貧乏くじの可能性もある


だから、人によっては必ずしも日本に居続ける戦略が最適でないケースも多いだろう。

英語経済圏で自分の居場所を見つけられる才覚と気力のある若者は、いまのうちに英語と専門スキルを磨き、早めに英語圏経済圏に脱出する方が賢い選択である可能性も高い。


もちろん、英語経済圏で居場所を見つける才覚も気概もない若者や、年を取って適応力を失った人は選択の余地はないから、劣化していく福祉のなかで、なんとかサバイブする方法を見つけていくしかない。




貯金の保有には税金はかけられない


せっかくいまのうちから貯金していても、大増税時代になったら、貯金の保有に税金がかかってしまうのではないか、と思う人もいるだろうが、その心配はいらない。

貯金に税金をかけるのは無理だ。実際、貯金の保有に税金をかけている国は、少なくとも先進国では存在しない。

固定資産税はあっても、金融資産税というものは、どこにもない。

なぜなら、固定資産は国外へ逃げられないけど、金融資産は国外へ逃げられるからだ。


たとえば、100億円の不動産を持っている人がいて、その不動産の保有自体には、固定資産税をかけることができる。

その税額をいくら上げられても、その不動産を持って、国外へ移住することはできない。


しかしながら、100億円を現金で持っている人に、その100億円の現金の保有自体に多額の税金をかけたら、その人はその現金を国外に移住してしまう可能性が高くなる。

国外に移住しても、国籍が日本である限り資産保有税をかけるような法律にしたら、その人は国籍を変えるだろう。

それを防ぐには、その人が国籍を変えるときに、多額の国籍変更税をかけて財産の大部分を没収してしまうようにすればいいが、それはもはや先進国ではなくなってしまう。そんなことをやっている国は、先進国ではどこにもない。


このように、資産の保有そのものには税金をかけるのは困難なので、貯金の保有自体に税金がかかる可能性は低いと思われる。




為替変動リスク


日本語経済圏が衰退すると、円安が進行して、貯金の価値が目減りしてしまうリスクがある。これに対する対策も、インフレ対策と同じだ。外貨立てて貯金をするようにする。そのころには、その手のサービスがたくさん出回っているだろう。

それにまで課税されるようになったら、金や銀などの小片としてタンス預金しておくことになる。そこまできたら、もはや経済は末期的な状態だろうが。




相続税を増税されないのか?


所得税や消費税のようなフローに対する課税を強化しすぎると経済をゆがめてしまうので、ストックに対する課税である相続税を強化するのが、理屈の上では理想だ。

しかし、実際には、高齢者人口が増えていくので、相続税を増税しようとする政党は多くの老人有権者の支持を失うため、相続税増税に実現性がどれだけあるかは疑問なところだ。

*1:これは、ミクロ経済学の教科書に載っている「税の帰着」と言われる問題だ。税金は、それを直接支払う人が全額負担するわけではない。価格メカニズムを通して、市場の他のプレーヤーに転嫁されるのだ。

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働かずに福祉に寄生して生きる人 という言葉が印象的である

寄生して生きる制度ができれば
あとから
それを正当化する価値観が生まれる
そういうものだろう

そのような制度は正義のためでもなく未来のためでもなく
ただ選挙のためであることが多い



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