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音楽とアニメで日本語から解放される

聞いたところでは

簡単な作曲は 初音ミク
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/NPC/20071126/287992/?P=1

簡単なアニメは PICMO
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/trend/20091221/1021725/

なんだそうだ。

そうなれば「日本語の檻」から出られるので
ずいぶんと有益だと思う。

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セロトニン・トランスポーター・ブロッカー

最近のSSRIなどの抗うつ剤については
セロトニン・トランスポーター・ブロッカーの側面から説明されることがある。

一度放出されたセロトニンを元の細胞に再取り込みするとき、
セロトニン・トランスポーターの部分が働くのであるが、
薬剤はそこの働きをブロックしてしまうので、
再取り込みされず、シナプス間隙に残ることになる。
すると結果としてはシナプス間隙でのセロトニン濃度が上昇し、
うつが改善されるというのがメインストーリーというかセントラルドグマである。

それはいいとして、
それが長期間続くとどうなるかを考える。

まずシナプス後細胞のセロトニン・レセプターでは、
常時セロトニン濃度が高いので、セロトニン・レセプターの数は少なくてもいいのじゃないかと相談がまとまる。
そしてダウンレギュレーションが起こる。

セロトニン・レセプターが少なくなると
セロトニンに対しての感度が悪くなるのであるから、
薬剤でセロトニンがたくさんあるうちはいいけれど、
薬剤が足りなくなったり、
環境要因でセロトニンが少なくなったりすると、
てきめんにセロトニンの不足の症状が出てしまう。
つまり、セロトニン不足に対して前よりももっと弱くなりうつ状態になりやすくなる。

一方、セロトニン・トランスポーターについて考えると、
薬剤によりブロックされた状態が続くと、相談の結果、セロトニン・トランスポーターを増やそうということになる。
ブロックされた分はそのままにしておいて、
新たにセロトニン・トランスポーターが増やされて、
結局セロトニンの再取り込みは進むことになる。
これはシナプス間隙におけるセロトニン濃度の低下をもたらすので、
うつ状態の悪化ということになる。
ここで薬剤を増やすのだが、一時的には効いても、同様のことが起こり、いたちごっこになる。
この状態で薬剤が急に抜けたりすると
セロトニン・トランスポーター・ブロッカーがなくなるので
セロトニン・トランスポーターは全員が働くようになり再取り込みがどんどん進んで
シナプス間隙におけるセロトニン濃度は少なくなる
これもやっぱりうつ状態になる

再取り込みでため込まれたセロトニンは放出されやすくなりそのことでシナプス間隙のセロトニン濃度は
上がるのであるが再取り込みも進むのでどんどん回転する
回転している間に神経の疲弊が進む
疲れてしまうとそれもうつ状態につながる

こんなわけで、
セロトニン・トランスポーターとセロトニン・レセプターの両面から言えることであるが、
薬を使い続けると
もっとうつになりやすい体質を準備してしまうことになる。
するとSSRIというものはいったい使っていいのかどうかということになる。

個人的な意見としては、
セロトニンの部分的な動きにとらわれることなく、
神経保護作用として考えた方がいいのだろうとの印象を持っている。
セロトニンが増えればうつが楽になるというのなら、
吐き気がするのと同じ時期にうつが治ってもいいはずだと思う。
吐き気はまさにセロトニンによって起こるから、吐き気が起こるということはセロトニンが増えたということだからだ。
吐き気が先に出てうつが治るのはあとになることについてもいろいろな説明があるけれど、
わたしとしては、全般的に神経をダメージから守り、一時的に休止させて、回復を待つための環境を整えてくれる、
つまり神経保護作用があるのだとSSRIについて考えている。

ドパミンについてはもっと分かりやすい

*****
「セロトニン放出量」と「セロトニン感度」の両面から「セロトニン・トランスポーターとセロトニン・レセプター」の量を調整することができれば、よい治療である。

セロトニン感度とシナプス間隙セロトニン量の調整には薬剤があるが、
セロトニン放出量の調整はどのような要因があるのか
はっきりは分かっていない。
そこを調整するのが生活指導であり精神療法である。
その調整のためのコツが分かれば進歩だと思う。


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「いきいき」と「うつうつ」

いつも「いきいき」でいられるはずもない

「いきいき」と「うつうつ」がちょうどいいタイミングで混じっているのがいいんだと思うが


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病は気から?――「ウツ」は“闘って”治るものなのか?

クスリに頼るのは悪いこと?――「抗うつ薬」の効用と限界
――「うつ」にまつわる誤解 その(10)

 「うつ」の治療において薬物療法が主流の今日ですが、クスリについて誤った認識を持っている方たちはまだまだ多いように思われます。周囲からの誤解や偏見もありますし、患者さん自身の間違った思い込みもあります。また、薬物療法はどんな状態に役立つのか、どんな場合には効果が期待できないのか、つまりその効用と限界について、大まかにでも知っておくことは大切なことです。
 多少専門的な話になってしまいますが、避けて通れない重要なことですので、今回はこのテーマについて触れてみたいと思います。
クスリに「頼っている」
という後ろめたさ

 「まだクスリに頼っているようでは、治ったとは言えないな」
 言葉にしてあからさまに言われるかどうかは別としても、周りからこんな見方をされてしまって窮屈な思いをしている方も、依然いらっしゃいます。また、患者さん自身でも、「クスリに頼ってしまっている」とある種の後ろめたさを感じている方が少なくありません。
 この「頼っている」という非難は、メンタル系のクスリにはどれも「依存性」があるという誤ったイメージを持っているところから来ているのではないかと思われます。
 「うつ」の治療で中心的に用いられる<抗うつ剤>には、通常、依存性はありません(以前、覚醒剤に分類されるリタリンという特殊な薬剤の安易な投与や乱用が問題になり、現在では処方が厳しく制限され、通常「うつ」に投与されることはなくなりましたが、これは例外的に依存性のあるものでした)。
 ですから、抗うつ剤に関して「頼っている」と捉えることは、完全に間違った認識だと言えるでしょう。むしろ、大部分の患者さんは「飲みたくはないけれど、少しでも良くなるように」と祈るような思いで、面倒でも服薬を続けているのです。
 しかし、もし患者さん自身が、クスリの使用に何らかのためらいや後ろめたさを持っている場合には、「クスリに頼っている」のではなく、「クスリを活用している」のだと捉え直していただくことが必要になります。
 クスリは、必要な時にはきちんと用いることが大切で、その後状態が改善するに従って減薬され、あるところから先は必要性がなくなるものです。クスリを活用することが望ましい状態なのに、ためらって医師の処方とは違った中途半端な服薬をしてしまいますと、かえって経過を長引かせてしまうことにもなりかねません。
抗うつ剤を飲んだら
眠くなったのは副作用か?

 「抗うつ剤を処方されて飲んだけど、すぐに眠気がひどく出たので、自分には合わないと思って飲むのを止めました」
 薬物療法開始時に、このような理由で服薬を中止される方がいます。しかしこれは、副作用が出て薬を中止したのだから適切な判断だった、とは言えないところがあるのです。

 以前から使われていた古典的なタイプの抗うつ剤(三環系や四環系と呼ばれる種類)では、確かにそのような可能性もあることは否定できませんが、近年主に使われている新しいタイプの抗うつ剤(SSRIやSNRIといわれる種類)では、古典的なタイプでしばしば問題になったような副作用(眠気、口の渇き、排尿困難など)がかなり改善されており、眠気が副作用ではなく「作用」によって生じた可能性も大いにあると考えられるのです。
 治療を受け始めるまでは、患者さんは慢性的な精神の緊張状態にあり、内部にはかなり蓄積した疲労を抱えているものです。そこに、抗うつ剤が投与されたことによって、精神の緊張が突然ゆるみ、蓄積していた疲労が一気に噴き出してきて、それが眠気として顕在化することは珍しくありません。
 ですからこの眠気は、むしろ望ましい変化の現われである可能性も大いに考えられるわけです。
 この点についての見分けは専門医でなければ難しいことも多いので、独断による服薬の中止はリスクが高いと言えるでしょう。
飲み忘れても
調子が悪くならなかったので…

 「クスリを飲み忘れた日があって、それでも調子は悪くなかったので、もう要らないんだと思ってクスリを止めてしまいました」
 これは、ある程度薬物療法を続けて、安定した状態にある患者さんによく見られる現象で、数日後にガクンと状態が悪化するリスクの高い、危険な誤解の一つです。
 これは、「飲んだクスリはその時に効くものだ」というイメージを持っているために起こった間違いだと考えられます。
 多くの抗不安剤(minor tranquilizer、一般に安定剤と言われるもの)や睡眠導入剤などは確かに効果が現れるまでの時間が短く、一定時間効いた後に効果は減衰していきますので、そのように捉えてもあながち間違っているとは言えません。
 しかし抗うつ剤の場合は、飲み始めても即座に効果が現れず、少なくとも数日以上かかって体内に一定量蓄積された後に本当の効果を発揮し始めるという性質があります。そして、突然服薬を中止しても、体内に蓄積されていた分が徐々に放散されるために、すぐにはその影響が現れてこないのです。ちょうど、電気回路においてコンデンサーを組み込んだような場合に相当します。ですから、断薬の影響は、数日後あたりに急激に現れてくる危険性が高いわけです。
 このように、クスリの種類によって随分と性質が違い、使用上の注意点も異なりますので、これもぜひ専門医のアドバイスを参考にして下さい。
クスリの効かない
「うつ」もある

 「うつ」の状態は、脳内物質(セロトニンなどの神経伝達物質)のアンバランスが原因である、という説が今日では主流になっています。先ほど触れた新しいタイプの抗うつ剤(SSRIやSNRI)は、まさにそのアンバランスを調整してくれるありがたい薬剤です。

 しかし、実際の「うつ」の治療においては、これらのクスリが良く効くタイプの方もあれば、ほとんど効果が生じない方もあります。
 第5回でも触れたことですが、近年「うつ病」の診断が下される病態の範囲がかなり広がってきてしまっていることが、その背景として大いに考えられます。
 大まかに言いますと、「内因性うつ病」や「躁うつ病」といった、旧来「うつ病」と診断されていたタイプの方たちにはかなり薬物療法が有効で、不可欠なことが多いようです。
 しかし、「適応障害」や「パーソナリティ障害」などがベースにあるような、新しく「うつ」と診断されるようになった病態の方たちの場合には、薬物療法で期待できるのはごく限定的な効果にとどまり、むしろ精神療法等によるアプローチが不可欠であると考えられるのです。
脳内物質のアンバランスが、
「うつ」の「原因」なのか?

 さて、先ほども触れた脳内物質のアンバランスが「うつ」の原因であるという説について、ここで1つだけどうしても論じておかなければならないことがあります。それは、脳内物質のアンバランスを「うつ」の原因と言って良いのだろうかという問題です。
 確かに、脳化学的な研究や薬理学的な研究では、そのような「アンバランス」が確認もしくは想定されるでしょう。しかし、これはあくまで現段階の科学で観察され得る物質レベルの「現象」に過ぎず、正確に言えば「中間現象」に過ぎないのではないかと思うのです。「うつ病」や「うつ状態」は、決して先天性疾患ではありませんから、なぜある時までは正常に機能していたのに、急に「アンバランス」が生じたのかと考えると、その「アンバランス」をひき起した「何物か」をこそ、真に「原因」と呼ぶべきではないだろうかと私は考えるのです。
 ですから、「アンバランス」を薬物療法によって整える作業は、厳密に言えば「うつ」という状態に対しての対症療法なのであって、「うつ」をひき起こした何らかの根源に対する根治療法とは言えないわけです。
 この真の原因としての「何物か」は、第4回でも触れましたが、その人の生き方に関わる深い次元での見直しを迫るメッセージを含んでいるもので、各人各様の内容を負ったものと考えられます。
 その次元に向けてアプローチを行なって根本的解決を目指す精神療法と、症状を軽減して療養しやすくすることで治癒力の発現を助ける薬物療法とを、それぞれの目的と限界を把握したうえで、病態や状態に合わせて上手に活用することが治療として大切なスタンスだろうと思います。
 ですから、「クスリさえ飲んでいれば良い」という考え方も「クスリには意味がない」という意見も、いずれも偏った認識なのであり、そのような極論に振り回されてしまうことは危険なことだと言えるでしょう。
 次回は、社会的にも大きな問題になっている「うつ」と「自殺」の問題を考えます。

ーーーーー
病は気から?――「ウツ」は“闘って”治るものなのか? 泉谷閑示
――「うつ」にまつわる誤解 その(13)

 一般的に現代人は、何らかの病気にかかると、「闘って克服すべきだ」と考える傾向があります。これは「うつ」の場合も例外ではありません。
 しかし、この「病と闘う」という考え方そのものが、実は「うつ」の回復を妨げてしまう側面をもっていることは、案外気づかれていません。「一日も早く治りたい」と思えば思うほど、「病を克服せねば」「病気に負けるな」と考えてしまうのは当然の心理なのですが、それが皮肉なことにかえって「うつ」を長引かせる結果を生んでしまうのです。
 では、この厄介なジレンマをいったいどう考えたらよいのでしょうか。今回はこの点について掘り下げて考えてみましょう。
「治そう」という気持ちが足りないのか?

「何も生産的なことをしないで一日中横になっているなんて、本当に自分はダメな人間だ……」
 程度の差はあれ、大概の患者さんはこのように自己嫌悪しながら療養しています。
 そこに運悪く、古風な精神論を信条としている人が周囲にいて下手に関わってきたりしますと、「なかなか治らないのは、『治そう』という気が足りないからだ!」といった心ない言葉を発せられてしまうことがあります。また、実際誰かにそう言われたのでなくとも、患者さん自身が自分でそういう見方をしてしまっていることも珍しくありません。
 その結果、患者さんは、「私はきっと『治そう』という気持ちなんか持っていないんだ。私はたんに怠けたいだけなんだ」と、「怠け病」のレッテルを自分自身に貼ってしまい、いっそう自己嫌悪に陥ってしまうことになります。
 「治そう」という気持ちは、治療に対するモチベーション(動機づけ)のことであり、そういう気持ちはあるに越したことはないじゃないか――常識のレベルで考えれば確かにそうでしょうし、それなしには治療自体が始まらないわけですから、もちろん不可欠なものでもあります。
 しかし、そのレベルだけで「うつ」の治療を進めていきますと、残念ながらあるところで壁にぶつかってしまって、先に進むことができなくなってしまうのも事実なのです。
力ずくの「北風」方式には限界が……

 近代以降の西洋医学の考え方は、「病気」を悪とみなして、治療によって駆逐しようとする傾向がベースにあります。この考え方は今日、医療側のみならず、一般の人たちにもすっかり浸透したものになっています。
 しかし、イソップ童話の『北風と太陽』の話に喩えれば、これは力ずくで目的を達しようとする「北風」のやり方に相当するもので、力を込めれば込めるほど皮肉にも裏目の結果を招いてしまうという限界をはらんだ方法論になってしまっています。

 近代以降の西洋医学は「病気」を自分とは別個の異物として対象化し、それを悪とみなして除去したり、薬物などの爆弾を投下して一掃しようと試みたりしてきました。しかしながら、このやり方が通用するものにはどうしても限りがあり、また、たとえそうできたとしても「再発」の不安が拭いきれないという限界があります。つまりこの方法論は、いわばテロによる逆襲のリスクを残してしまうような実力行使型のアプローチなのです。「うつ」の治療の難しさは、まさにこのような西洋医学の方法論自体の限界と密接に関係があると考えられます。
 それでは、「太陽」の方式に相当するアプローチとはどのようなものでしょうか。
「うつ」にはメッセージが含まれている

 西洋医学は歴史的に進歩発展を遂げる途上で、大切なものをいくつも切り捨ててきました。それはたとえば、「病はメッセージをもっている」という考え方であり、「症状は本人をより望ましい状態に導くための作用の現れである」といった捉え方です。
 以前、「昼夜逆転」についてとり上げた際(第7回参照)には、「昼夜逆転」という症状の意味を〈汲み取り〉、あえて症状に〈従ってみる〉という考え方を提案しました。これが、従来の治療で見落とされていた視点を生かした新しい発想の一例です。「昼夜逆転」は症状の1つに過ぎませんが、では「うつ」という病気全体については、どのように発想できるでしょうか。
 「うつ」の運んでくるメッセージは、重層的なものであると考えられます。つまり、「無理が続いたのでゆっくりと休養しましょう」といったわかりやすいメッセージもあれば、深く本人の存在基盤を問い直すものにいたるまで何重もの水準があるものです。
 もちろん、その内容は個々のケースによって千差万別であり、それを〈汲み取る〉には個別の丁寧なアプローチが欠かせません。しかし残念ながら、通り一遍の診療の中ではそれらが見落とされていることが多く、患者さん自身もそれを受け取れないまま、症状がいたずらに長期化(遷延化)してしまっていることも少なくありません。これは実にもったいないことだと思います。
しっかり「うつ」をやってみるという“逆転の発想”

 長期化してしまった状態の患者さんを担当する場合、当然ながら抗うつ剤による薬物療法などはすでに一通り行われてきていますし、充分以上の療養期間も経てきているわけですが、そこで見落とされてきたポイントを見つけ出しアプローチすることが必要になってきます。そこで見えてくるポイントの1つは先ほど述べた「メッセージを汲み取る」作業ですが、もう1つ大切なことがあります。それは、療養の「質」を見直すことです。

 はじめのところで、「病と闘う」という考え方自体が「うつ」の回復を妨げてしまう側面があると述べましたが、それはつまり、「病」を駆逐すべき対象として捉えることによって、自分の「心」(=「身体」)への「頭」によるコントロールを強化してしまうことになり、それが「うつ」をひき起こしたのと同じ内的な状態を生み出してしまうからなのです(第1回参照)。つまり「病と闘う」と考えることは、自分の内部で「心」(=「身体」)と「頭」が闘う状況を生み出し、「うつ」を自ら再生産しているような悪循環に陥ってしまうわけです。
 そこで、「病」に〈従ってみる〉という逆転の発想が、療養の「質」を変える鍵になります。
 「うつ」に〈従ってみる〉とは、「何もしたくない」といった「抑うつ気分」や「意欲減退」に身を任せてみることを指します。私は診療において、「しっかり『うつ』をやってみて下さい」とお伝えすることがよくありますが、これによって「自分を責めながら」になっている療養を「質」の良いものに変えようと働きかけるわけです(ただし、あくまでこの「抑うつ気分」のように一次的な症状に〈従ってみる〉のであって、決して「希死念慮(死にたい気持ち)」のような二次的に生じた症状に従うものではありません)。
 放電しながらの充電では延々と充電は完了しないものですが、「自責」という放電の原因になる考えを止めることによって、「療養」という充電がはじめて有効なものになっていくのです。そして真に充電が完了してはじめて、「心」(=「身体」)は「頭」の関与なしに自発的で自然な意欲を発するようになります。つまり療養の「質」は、「自責」をいかに排除できるかにかかっているわけです。
 現代人の「うつ」は、大まかに言えば、「頭」によるオーバーコントロールに対する「心」(=「身体」)の反逆という要素を必ず含んでいます。そういう事態から生じた「うつ」という病態に対して、力ずくの「北風」方式のアプローチでは、事態を泥沼化させることになってしまいます。そこで、「今はすべての義務からいったん解放されて、とことん休みなさい」と言っている「うつ」の症状に従ってみることが、本当の回復に向かうための「太陽」方式の療養の第一歩なのです。
 次回は、復職や復学など「社会復帰」の際に見落とされがちなポイントについて考えてみたいと思います。

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「試し出社」で会社アレルギーは消える?―ウツ休職者の段階的復帰プログラムの問題点
――「うつ」にまつわる誤解 その(14)

 「うつ」で療養されていた方が職場などに復帰する際に、通常、段階的な復帰プログラムが用いられることが多いようです。また患者さん自身でも、家事や外出などの負荷を段階的に増やしていく方法でリハビリを試みる方もあります。しかし実際には、常にこのアプローチがうまくいくとは限らず、挫折してしまうケースも少なくありません。
 そこで今回は、この段階的に負荷を増やす方法に潜む問題点について考えてみたいと思います。
順調に「試し出社」を開始したけれど……

 Uさんは会社を「うつ」で休職し、半年ほど自宅療養を行なってきました。自宅で過ごすうえでは不調になることもなくなり、主治医やカウンセラーの勧めもあって、そろそろ少しずつ職場復帰に向けてリハビリをしていこうということになりました。
 そこで、まずは朝の通勤時間に会社のある駅まで電車で行き、会社には寄らずに、そのまま帰って来るという方法が提案されました。Uさんは、さっそくこれを実行し、はじめは恐る恐るではありましたが、どうにか1週間続けることができました。
 第1段階をクリアーしたので、次は第2段階として会社の近くの喫茶店まで行って、そこで小一時間ほど新聞や雑誌を読んで過ごしてから帰るというやり方にチャレンジすることになりました。Uさんは、「会社の人間に会ってしまったらいやだな」という不安も多少ありましたが、これもどうにか1週間やり通すことができました。
 主治医からも「この調子なら大丈夫だろう」と言われ、会社の産業医の承諾も得られたので、いよいよ「試し出社」を行なうことになり、まずは午前中の数時間だけから試してみることになりました。
 久しぶりに出社してみると、職場の上司や同僚もUさんの復帰にとても協力的で、仕事も負担のないものに配慮してもらえました。客観的に見てもストレスの少ない状況が用意されており、Uさん自身も「この調子なら、順調に行けそうだ」と感じていました。
 しかし、試し出社を始めて3日目の朝、Uさんはいつも通りに起床はしたものの、「出社したくない」という気持ちが理由もなく強烈に湧き上がってきてしまいました。「何もストレスなんかないはずなのに……」と何度自分に言い聞かせてみても、身体も心も頑として言うことを聞いてくれません。結局この日は出社できず、翌日以降も出社できなかったため、Uさんは再び自宅療養に戻ることになったのです。
整形外科的なリハビリではうまくいかない!

 Uさんは、きちんと段階を踏んで復帰プログラムを実行したわけですが、なぜ途中で出社不能になってしまったのでしょうか。

 このように、段階的に負荷をかけて行なうリハビリテーションの方法は広く一般的に行なわれているものですが、これは「整形外科的リハビリ」をモデルにしたアプローチだと考えられます。
 整形外科的リハビリにおいては、弱ってしまっている筋力や固まってしまった関節などを回復させるために、徐々に負荷を上げていく方法が採られるわけですが、Uさんも復職にあたって、まさにこの方法論によるアプローチを提案され実行したのでした。
 しかし、途中で心と身体が拒否反応を示し、このUさんのリハビリは残念ながら成功しませんでした。これは、「うつ」というものが、整形外科的な外傷や疾病で生ずる問題とはずいぶん質の違う問題を抱えているためだと考えられるのです。
 「花粉症」などに代表されるアレルギー性疾患では、アレルゲン(花粉などの抗原)によってアレルギー反応がひき起されるわけですが、これはよくご存じの通り、たとえアレルゲンの量が少なくてもわずかでも取り込んでしまうとアレルギー反応が起こってしまうものです。ですから、例えば「花粉症」を治すために、徐々に花粉の被曝量を上げていくような治療アプローチは通常は行なわれません。
 「うつ」は、「心」(=「身体」)が拒否反応を起こした状態に相当することは第5回でも触れた通りですが、これはアレルギー反応ととてもよく似た現象です。ですから、このような病態に対して、整形外科的リハビリ・モデルは原理的にミスマッチだと考えられるのです。
何が拒否反応をひき起こしたのか?

 「うつ」がアレルギー反応的なものであるとすれば、Uさんの場合も、職場に戻ってから拒否反応が現われているので、そこにいわばアレルゲンがあると考える必要があります。
 Uさんの場合は、どうも職場の人間関係が問題というわけでもなさそうです。すると考えられるファクターとしては、Uさんの職務内容に何かあるのかも知れません。例えば「この仕事をしていくことに、もう意義が感じられない」という気持が心の奥に潜んでいたり、「この仕事をすること自体が、自分を裏切っている行為に感じられる」ということがあったりするのかも知れません。
 患者さんによってそれぞれ拒否反応のポイントは千差万別なので、何が問題なのかについては、丁寧に個別のアプローチをしなければ見えてこないものです。しかも、そのような気持ちは心に深くしまい込まれてしまっていて、本人が自覚できていない場合も少なくありませんから、専門的なアプローチも必要になってきます。
抱えるテーマによって拒否反応が出るポイントが違う

 Uさんの行なった復帰プログラムを例にして考えてみた場合、ケースによってはもっと早い段階で拒否反応が現われることもあれば、もう少し後になって挫折してしまう場合もありうると考えられます。

 「頭」による自己コントロールを長年強力に行なって生きてきたタイプの人が、それに対する「心」(=「身体」)の反発で「うつ」状態になった場合には、仕事がどうのという以前に、「復帰プログラムを実行する」という「頭(理性)」主導の方法をとること自体にアレルギー反応を示すでしょうから、初期段階で失敗してしまう可能性が高いと考えられます。
 あるいは、その「会社」自体に強く嫌悪感を抱いてしまっているケースでは、会社の近くまで行ってみるリハビリ段階で拒否反応が出る可能性も高いでしょう。
 また、通勤電車のところで拒否反応が現われる場合もあります。この場合には、都市生活自体が私たちに強いてくる非人間的な不自然さに対して、「心」が激しく嫌悪感を示しているのかも知れません。
 これらはほんの一例にすぎませんが、患者さんごとに様々なテーマが潜んでいるもので、その深さや拡がりも決して一律ではないのです。
拡がってしまったマイナス・イメージを絞り込む

たいていの場合、「うつ」を発症した時点では拒否反応を感じる対象は、かなり広範囲に拡がってしまっていることが多いようです。
 人間はイメージというものに大きく左右される生き物ですが、マイナスのイメージというものは、我慢して過ごしているうちに、知らず知らず周辺のものにまで拡大していく性質があります。例えば、会社の特定の人物に激しく嫌悪感を抱いていたものが、会社全体への嫌悪感に発展し、さらには会社の所在地周辺にまでおよび、業種全体にもおよび……といった具合です。
 ですから、治療のアプローチでは、この拡がってしまっているマイナス・イメージを、丁寧に絞り込んでいく作業が欠かせないことになります。その作業が進んでいってはじめて、拒否反応をひき起こしていた核となるオリジナルのテーマが抽出されてきます。そしてそのテーマにもとづいて、その患者さんが社会復帰する望ましい方向性も、自ずと明らかになってくるものです。
 その方向性は、以前と同じ仕事や人生に戻ることである場合もあれば、大きく人生の軌道を変えることがふさわしい場合もあります。
 同じ職場などに戻ることを目指して整形外科的リハビリ・モデルを当てはめても一律にうまくはいかないことがあるのは、一口に「うつ」と言っても実に多様なテーマが潜んでいるものであり、解決の方向も個別的なものであるためなのです。
 ただし、その人の拒否反応の原因になっていたポイントや「うつ」が担っているテーマを十分に扱ったのちに、ふさわしい場所に向けて社会復帰をはかる場合には、いきなり通常の負荷をかけるやり方では乱暴なので、そこから先のプロセスは段階的な復帰プログラムでアプローチすることが望ましいのは言うまでもありません。
 次回は、「うつ」の患者さんの周囲の人が陥りやすい、「間違った接し方」についてとり上げてみたいと思います。

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間違っていませんか?―「ウツ」の人への接し方
――「うつ」にまつわる誤解 その(15)

 「うつ」で療養中の人に対して、ご家族など周囲の人から「どう接したらよいのでしょうか?」「何か注意すべきことはありますか?」といった質問を受けることがよくあります。周囲の方たちにとってみれば、「うつ」の状態の心理は理解しがたいものでしょうから、接し方について戸惑ってしまうのも無理はありません。
 しかし、よく言われているような「励ましてはならない」といった単発のマニュアルに従ってみても、それが表面的なものに終わってしまうことが多いようです。
 そこで今回は、周囲にいる人たちが「うつ」について少しでも理解を深め、表面的でない接し方ができるためにはどんなことが大切なのか、考えてみましょう。
なぜ「励ましてはならない」のか?

「うつ」の方に対する間違った接し方には実に様々なものがありますが、いずれも「うつ」が起こるからくりが理解できていないところから来ている問題だと思われます。
 第1回でも触れましたが、「うつ」とは、「頭」の一方的な独裁に対して、「心」(=「身体」)がある時点でたまりかねてストライキを決行した状態です(右の図参照)。
 「頭」とは《理性の場》であり、自己コントロールを志向する《意志の場》でもあります。それに対して「心」(=「身体」)の方は、大自然の原理を持っていて、欲求や感情を生み出す《意欲の場》です。そして、人間の生き物としてのエネルギーの中心は、ここにあります。
 このような人間の基本構造と「うつ」のからくりが理解できれば、なぜ「励ましてはならない」と言われるのか、そのエッセンスがはっきり見えてきます。
 つまり、「励ます」ということは、「頭」の《意志》による自己コントロールを再び強化せよと言っているわけですから、ストライキに対して軍隊を向けるようなもので、事態が泥沼化するのは明らかです。しかも患者さんの「頭」は、「自己コントロールが十分に効いて有意義な活動ができるような自分でなければ、自分には価値はない」という考えを持っていることが多いため、励まされても思うように動かない自分自身を情けなく思い、いっそう自己嫌悪に陥ります。これが場合によっては、自殺願望を強めてしまう恐れもあるわけで、だからこそ「励ますこと」が危険なのです。
小手先の気遣いは「うつ」には通用しない

 しかし周囲の人は、表向きは「励まし」たりしなくとも、一日でも早く「有意義な活動」ができるようになってほしい、と期待して待っていることが多いものです。もちろん、患者さんの一日も早い社会復帰を願うことは、現代社会に生きる周囲の方々にとっては、ごく当たり前な気持ちでしょう。

 しかし、残念ながら「うつ」はそれを大目に見てはくれません。なぜなら、「うつ」という状態をひき起している「心」(=「身体」)は、先ほど述べたように大自然の原理で動いている場所だからです。
 現代社会が重きを置くような「人間は働くべきものだ」「少しでも無駄なく人生を進めるべきだ」「毎日を有意義に過ごすべきだ」「常にキャリアアップを目指そう」「時は金なり」「寸暇を惜しんで勉強せよ」「努力してこそ成功する」「常に右肩上がりの成長が望ましい」等々の価値観に、大自然由来の「心」はもうすっかりうんざりしていて、その気配には相当敏感になっています。
 厳しい指摘かもしれませんが、患者さんは周囲のちょっとした言葉や気配から、元のままの現代的な価値観や生活に戻るように期待されているらしいことを敏感に感じ取るものです。表面を取り繕っても、ごまかしはききません。患者さんは元々、周囲の期待に過剰なまでに応えようとする傾向がありますから、そのような期待にうまく応えられないことで、焦りと自己否定をさらに強めかねないのです。
「よくなった」と周囲が喜ぶことにも落とし穴が!

 「うつ」の経過において、療養によりエネルギーが回復してきて、見た目には調子の悪さが消えてくる時期があります。周囲の方たちも、明らかに「よくなった」と見えるので、やっと一段落といった気持ちになります。
 しかし、この時期にこそ最も自殺の危険性が高まることが、従来からよく知られています(第11回参照)。それは、いったいなぜなのでしょうか。
 「うつ」の状態が非常に強いときには、すべての意欲が減退しているために行動が全般的に困難なので、危険な行動化も生じにくいのですが、エネルギーが回復してきたときに、意欲が潜んでいた自殺願望と結びついてしまうと、とても危険なのです。
 これは従来からもよく指摘されていたことなのですが、これとは別にもう1点、ともすると見逃されがちなポイントがあります。
 周囲の人に「よくなった」と見える状態であっても、実は、患者さんが再び「周囲の期待に応える」というスタイルを復活させただけであることが、案外少なくないのです。
 エネルギーが枯渇していたどん底の時期には、「期待に応える自分」を演ずることはできなかったのですが、エネルギーがある程度戻ってくると、再びそれを演じてしまうことがあります。特に「自己愛の不全(自分自身を愛することがうまくいっていない状態)」をベースに持っているタイプの方では、「周りの人にもうこれ以上心配をかけられない」と思い、不調時には衝動的に吐き出せていた「うっ積した感情」を、「また吐き出したりしたら、せっかく『よくなった』と喜んでいる周囲を悲しませてしまう」と考え、再び飲み込んでしまうのです。

 つまり、周囲が「よくなった」と言って喜んでいることが、患者さんに対して「もう決して逆戻りしたような悪い状態を見せられない」といったプレッシャーになってしまっている場合があるのです。
“望まれる患者像”を演じることも

 周囲の人が表面的に言動だけを整えたとしてもどうにもならないのが、「うつ」の方のサポートの難しさです。
 治療者ですら、自身が現代社会的な価値観に身を置いたまま治療を行っていることは珍しくないので、患者さんはそんな治療者に本心を話すこともできず、「望まれている患者像」を演じ続けていることもしばしば見られる状況です。そんな状況の中で、「心」が発した拒否反応のメッセージを正しく受け取り「うつ」を脱する作業を進めることは、患者さんにとって大変困難になってしまっています。
 右を向いても左を向いても、「有意義に生産的に生きなければならない」「一日も早く社会復帰すべきだ」といった「頭」重視の価値観だらけの社会の中で、もし誰か1人だけでも、そのような価値観から自由な人間が周囲にいれば、患者さんにとっては、その存在が大きな救いになります。
 ですから、周囲の人にできることがあるとすれば、簡単ではありませんが、その人自身が「頭」支配を脱した存在になることを目指すことなのです。
「うつ」は、現代人すべてに警告を発している

 「うつ」という病は、今日もはや、個々人に起こった病として考えることではすまないところまで来ていると思います。大局的に見れば、現代社会全体が追い求めている価値観のはらむ問題や、現代人の不自然極まりない生き方に対する大きな警告のメッセージを、現代の「うつ」は告げようとしているのです。
 およそ人間的とは言えない満員電車に押し込まれて毎日通勤し、機械仕掛けの時計の時間に追い立てられ、効率優先・利潤優先の要請に追い回されて、プライベートを楽しむための方便として仕事に行くはずだったものが、仕事の疲れをとるだけのプライベートになってしまう本末転倒。老後の心配の方に重点がシフトして「今を生きる」ことがなおざりにされ、生きる楽しみの大切な一つであるはずの食事までもガソリン補給のようなものになり下がる。翌日起きなければならない時間のために就寝時間が決められ、すぐに寝付けなければ「不眠症」ということになってしまう……。このような現代人の生活に疑問を抱かないことを「適応」と呼び「正常」と見なし、そこに戻すことを治療のゴールと思い込んでいる現代の医療も、「うつ」の発する警告を真摯に受け取る必要があるでしょう。
 治療者も含め、往々にして患者さんの周囲にいる人間は、「自分は正常だ」という前提を疑うこともなく「うまい接し方」だけを求めがちなのですが、残念ながらそのアプローチは実を結びません。
 「うつ」に本気で関わるということは、患者さんと共に「うつ」が知らしめようとしている現代人へのメッセージを受け取り、自分自身が率先して、より自然な生き方に身を開いていこうとすることにほかならないのです。
 次回は、「自分が何をしたいのかわからない」という悩みについて、考えてみることにします。

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もはや「ウツ」の人に限らない―「何をやりたいのかわからない」現代人の悩み
――「うつ」にまつわる誤解 その(16)

 「うつ」が本格的に悪化しますと、人は「何もできない」状態に陥ってしまいます。この時期には、何よりもしっかりと休養をとることが必要なのですが、たとえ療養に入っても、はじめのうちは「動けない」自分を責めながら「身体」だけを休ませるような過ごし方になりがちです。
 この自責の気持ちを緩和できるかどうかが、治療初期における大きな課題です。これがクリアーされると、やっと疲弊していた「心」(=「身体」)が本当に休める状態に入ります。こうなってはじめて、充電が少しずつ行なわれるようになり、徐々に動ける状態も見られるようになるのです。
 しかし、その頃から新たな悩みが出現してくることも少なくありません。それは、「何もしたくない」「自分が何をしたいのかわからなくなってしまった」というものです。この悩みは、「うつ」と診断されていない方でも、若い世代を中心に、多くの人が心中密かに抱えているポピュラーな問題でもあります。
 今回は、この悩みについて掘り下げて考えてみることにしましょう。
なぜ「何もしたくない」のか?

 人間は本来、好奇心のかたまりのような生き物です。
 幼い子供を観察してみれば、そこに懐かしい人間の原型が見てとれるでしょう。何でも知りたがり、何でもやってみたいと思い、子供は一時もじっとしていません。これが、「心」(=「身体」)がのびのびと動いている状態です。
 しかし、それがその後のしつけや教育によって「社会化」されてくるなかで、たくさんの「すべきこと」「してはならないこと」が「頭」にインプットされます。元々の旺盛な好奇心や自然な意欲がうまく温存されることは残念ながら稀で、大概の場合には、求められた課題をきちんと遂行できるような自己コントロールが効く人間になるよう教化されます。こうして、「頭」が「心」(=「身体」)を支配する体制が、私たちの中に形成されるのです。
 第1回でも触れましたが、「頭」とは「~すべき」「~してはならない」といったmustやshouldの系列のことを言ってくる場所ですが、一方の「心」は、「~したい」「~したくない」とwant to系列の発言をします。
 現代人は日常的に、「頭」が独裁的に自己コントロールをかけて「心」(=「身体」)の「~したい」「~したくない」といった声を抑え込み、無視してしまっていることが多いのです。

 これまで何度も述べてきたことですが、「うつ」状態とは一口に言って、この長期にわたる「頭」の独裁に「心」(=「身体」)がたまりかね、反逆のストライキを決行した状態です。ですから、まずは「何もしたくない」という抗議の主張が強く行なわれるのは、当然のことなのです。
沈黙してしまった「心」を
目覚めさせるプロセス

 「心」(=「身体」)のストライキによって、「頭」の支配体制がダメージを受け、その結果、ようやく「頭」は「心」の声に耳を傾けざるを得なくなります。
 そこで「頭」は「心」(=「身体」)に向かって、「本当は何がしたいの?」という質問を向けるのですが、これに対して「心」(=「身体」)は何も答えてくれません。なぜなら、この質問が不適切だからです。
 長い間「頭」によって弾圧され、発言を許されなかった「心」(=「身体」)は、その間にいわば退化させられてしまったようなもので、これが再び動き出すためには、幼児の「自我の目覚め」に相当するプロセスをもう一度経ることになります。
 幼児は、2~3歳頃に自我が目覚めはじめると、親の指示にことごとく「イヤイヤ」を言うようになります。「寝なさい」と言えば「寝ない!」と返し、「寝ちゃダメよ」と言えば「寝る!」と言うのです。これを「イヤイヤ期」と言うのですが、これが自己主張の初期の形態です。
 この時期の主張は「指示に従いたくない」という一点だけなのであって、主張内容における一貫性はあまりありません。しかし、この「イヤイヤ期」を経て徐々に、一貫性を持った「~したくない」が表われて来て、やがて「~したい」という高度な自己主張が表明される段階に移行していくのです。
 一度退化させられた「心」(=「身体」)は、はじめのうちしばらくは、この「イヤイヤ期」に相当する状態になるのです。この時期には、とにかく「頭」の指示に対して、「心」(=「身体」)はことごとく「イヤ!」と言います。ですから、この時期に「何がしたいの?」といくら尋ねてみても、何も期待する答は返って来ません。
徐々に「~したくない」が絞り込まれていく

 「イヤイヤ期」にあった「心」(=「身体」)は、段々にやみくもな「イヤ」ではなく、その対象を絞り込んでいくようになります。人と会うのも外出するのもすべて「イヤ」であった状態から、特定の相手や場所・状況に対する嫌悪感や拒否反応に限定されていくのです。

 この変化のプロセスを丁寧に見極めていくことが、「うつ」の治療において大切なポイントの1つです。
 たとえば、出社できなくなった「うつ」のケースにおいて、その患者さんがその会社自体に問題を感じて拒否反応を起こした場合もあれば、特定の人間関係にダメージを受けての場合もあります。また、その職種自体にどうしても馴染めないことが原因のこともあれば、まったく仕事自体に問題はなく、その人が物事に取り組む際のストイックな性格傾向が原因になっていることもあります。これは、なかなか治療初期の段階では見極めの難しいところであって、経過を観察ながら丁寧な面接を行なっていかなければわからないことも多いのです。
 よく、「うつ」状態の時に人生上の大きな決断をしないほうがいいと言われますが、これは、拒否反応がまだ絞り込まれていない時点で自身の方向性を決断すると、問題でない環境を問題だと捉えてしまう危険があり得るためなのです。
「したくない」ことと
「したい」ことは表裏一体

 「~したくない」の対象が絞り込まれてきますと、そこに、その人が譲れないものが、ちょうどネガのように反転した形で見えてきます。
 人にはそれぞれ、決して妥協できない「中心的なこだわり」が木の幹のようにあり、一方には多少の妥協をいとわない「周辺的なこだわり」を枝葉のように併せ持っているものです。
 絞り込まれた「したくない」こととは、その人の「中心的なこだわり」に反するものだと考えられます。これを無理に行ない続けると、その人が自分自身を裏切り続けることになり、必ずや再び何がしかの「心」(=「身体」)の反発を招いてしまうことになります。ですから、そのような方向で「社会復帰」を目指すと、往々にして再発しやすくなってしまいます。
 大切なのは、絞り込まれた「したくない」を手掛かりにして、小さな声でつぶやき始めた「したい」に耳を傾ける作業です。
 「頭」による長い弾圧の後に「心」(=「身体」)が語りはじめる声は、小さく微かです。それは「なんとなく」とか「ふっと気まぐれに」といった感じで現われることが多いので、揺るぎない理由や功利性を求める「頭」が大声で割り込んでしまうと簡単にかき消されてしまいます。ここが難しいところで、良質なサポートが大切になってきます。その人独自の「中心的なこだわり」から発した「~したくない」を十分に尊重しつつも、その奥に聞こえる「~したい」に耳を澄ますこと。これが、その人の真の「社会復帰」の方向性を見つけるうえで欠かせない重要なことなのです。
 次回は、療養中の人に対してなされることの多い「身体を動かすべきだ」「少しでも外に出た方がよい」といったアドバイスの問題点について考えます。

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「ウツ」の人には余計なひとこと?―外出や運動のすすめ
――「うつ」にまつわる誤解 その(17)

 「そんなに家に閉じこもってばかりいると余計に気分がふさいじゃうでしょ。少しは外に出て気晴らししてみたら?」
 「寝転がってばかりいないで、ちょっとは身体を動かさないと気分も晴れないわよ。近所を散歩でもしたらどう?」
 「うつ」状態で療養をしていると、こういったアドバイスを周りから受けることがよくあるようです。しかし患者さんにとっては、ちょっとした外出や運動であっても、かなりの負担に感じてしまう場合が少なくありません。
 そこで今回は、「うつ」の人にとって、外出することや運動することがどのように感じられるのか考えてみましょう。
人間は「心理的なバリヤー」を張って生きている

 人間は普段、外出することなど何でもない当たり前のこととして生活していますが、ひとたび「うつ」の状態に陥ってしまうと、突然、外出することが大変な勇気を必要とするものに変化してしまいます。
 「家の中でそこそこ動けるんだったら、近所に出かけるくらい大丈夫だろう」と理屈の上では考えられるかもしれませんが、これが心理的にはそう簡単にはいかないのです。人間の行動というものを、目に見える肉体の動きだけで捉えてしまっては、こういった現象をうまく理解することはできません。
 人間は外界との接触に際して、目に見えぬバリヤーのようなものを自然に作り出していて、外界から侵害されないように防御しながら生きていると考えられます。ちょうど、免疫機能を備えることによって外界の細菌やウイルスに対する抵抗力をある程度持っているように、人間は心理的にも抵抗力と呼べるようなものを備えているわけです。
 しかし、精神的なエネルギーが低下してしまってこの心理的なバリヤーが弱体化してくると、今まで何でもなかったはずのことに次々と支障が出てくるのです。
親しい家族との接触すら負担になることも……

 「うつ」の話から少々外れるように思うかもしれませんが、ここで「ひきこもり」に陥った人の状態について考えてみましょう。
 人間の心理的バリヤーが最も弱体化したときに陥るのが、近年「ひきこもり」と呼ばれているような状態です。
 心理的バリヤーが極端に弱まると、慣れ親しんでいるはずの家族との接触すらも大きな精神的苦痛を伴うようになってしまい、自分の部屋に「ひきこもる」ようになります。これは、心理的バリヤーが張れないので、その代わりに、壁やドアで囲まれた自分の部屋という物理的なバリヤーを必要とするためだと考えられます。

 「うつ」ではそこまでの状態に陥ってしまうことはあまりありませんが、しかし、自分以外の人間との接触が、たとえ仲のよい家族とであってもつらく侵害的に感じられてしまうことは、「うつ」の方にも十分ありえます。
 これは、周りにいる人たちがぜひ心に留めておきたいことです。
「ひきこもる」ことには意味がある

 このように、人は心理的なバリヤーが弱体化した時に物理的バリヤーの中に「ひきこもる」わけですが、それは決して単に身を守るためだけではありません。
 ここで、ちょっと「卵のふ化」について考えてみましょう(右の図1~3参照)。
 1のように、中身がドロドロで十分に形を成すことができないうちは、その外側に固い殻が必要です。そして殻に守られながらも、その内部では徐々に何かが形づくられていきます(2)。それが殻を必要としない強さにまで成長すると、おのずと中から殻が破られ、形あるものが誕生することになります。
 「ひきこもった」状態とは、まさにこの1や2のような殻の中の状態に相当します。それは、外界から身を守りつつ、次に誕生する新しい自分を準備していることでもあるわけです。
 以前(第4回)にも「真に治るとは、元の自分に戻ることではなく、モデルチェンジした新たな自分に生まれ直すことである」と述べましたが、その「生まれ直す」プロセスとは、まさに、この「卵のふ化」に相当するような順序を経るのです。
「体力」がなくなったわけではない!

 ですから、「ひきこもり」的状態にいることを単によくないことと見てしまって無理に引っ張りだそうとすることは、大切な「ふ化」を邪魔してしまう危険があります。
 まだ自分から動き出したい状態になっていない段階で、外に出ることや運動を勧めることは、先ほどの図で言えば1や2の段階で殻の外に出るように促しているようなものですから、当然、よい結果を生みません。
 もちろん、どうしても止むに止まれぬ用件があって、外出したり人と会ったりしなければならないこともあるでしょう。しかし、そのあとで異常なほど疲労を感じてしまう場合には、まだ3の段階には至っていないと考えるべきでしょう。ちょっとした外出だったのに、そのあと数日以上寝込まなければならなかったといった話を、患者さんからよく聞くことがあります。

 時々、そんな自分の状態について、「大して歩いたわけでもないのに……」と不思議に思い、「ずいぶん体力がなくなってしまっている」と考えてしまう方もあります。しかしこれは、「体力」が主たる問題だったのではありません。心理的バリヤーが十分に張れない段階で外界に触れたことによる、精神的エネルギーの消耗が主な原因なのです。
 これを「体力の低下」と捉えてしまって、そこから「運動をしなければならない」と考える方がありますが、この段階で「~しなければならない」という「頭」のmust的な指令で自分を動かそうとしますと、「心」(=「身体」)は必ずや強硬に反発を示すため、この方策は、まずうまくいきません。
 しかし、療養が進んで3の状態になれば、必ず「心」(=「身体」)は自発的に身体を動かしたくなったり、外に出てみたくなったりするものです。ですから、それまでは「体力」という発想を持ち込まず、むしろ「億劫さ」や「怖さ」に従って過ごすことが、質のよい療養のポイントだと言えるでしょう。
「電話一本」の勇気が出ない

 「うつ」の初期段階において、「電話一本かけられない」とか「電話に怖くて出られない」といった状態もよく見られます。
 たとえばある朝、会社に行けそうになく調子が悪いと感じる。当然、職場に「調子が悪いので休みます」という電話を一本入れるべきところですが、これがなかなかできず、結果として無断欠勤になってしまう。そんなケースはとても多いようです。
 これも、その人が1のような状態に陥っているために、電話で話すだけのこととはいえ、他人という外界と接触しなければならないことがたまらなく怖く感じられて、「ほんの電話一本」が心理的に負担が大きいために起こる現象なのです。
 普段は社会的常識があってマナーをわきまえている人でさえも、ひとたび「うつ」状態に陥ってしまうと、このように電話一本かけられなかったり、とれなかったりしてしまうことがあり得るわけです。
 このように、心理的なバリヤーの問題を考慮に入れることによって、元気な人にとっては何でもないような行動が、「うつ」状態の方にとってはとても大きな困難を伴うということが、少しでも理解しやすくなるのではないかと思います。
次回は、「逃げてはいけない」という考え方に潜んでいる問題点について考えてみたいと思います。

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「逃げる」のは悪いこと?―ウツの人にもよく向けられる精神論
――「うつ」にまつわる誤解 その(18)

 日本人の大好きな精神論の1つに「逃げてはならない」という考え方があります。これが昔から日本人の勤勉さや忍耐力の支柱となり、社会の繁栄に貢献してきたことは間違いのないところでしょう。特に、封建的な社会を生き抜いたり、貧困等の問題を克服したりしなければならない状況下では、この種の精神論は有用なものだったと考えられます。
 しかし、今日の多様化した時代を生きる私たちの内部では、このような旧来の精神論と「自分らしく生きたい」という自然な欲求とがしばしば不調和を起こし、さまざまな苦悩を引き起こすようになってきています。「うつ」状態に陥る人が増えている背景としても、この問題の存在は無視できません。
 また、「うつ」の状態について周囲から「逃げ」と見られてしまったり、本人自身もそう思って自責の念にとらわれてしまったりすることもあります。
 今回は、この「逃げ」というテーマをめぐって考えてみましょう。
“逃げ”は積極的な危険回避行動

――これって逃げなんでしょうか?
 よくクライアント(患者さん)から質問されるフレーズです。
 これに対して、「そうですね、逃げだと思います」または「いいえ、決して逃げではありませんよ」と答えることは、いずれも適切ではありません。それはなぜでしょうか。
 まず、この問いかけにおいては、「逃げ」という言葉にあらかじめネガティブな意味が込められています。これをそのままにして返答するのでは、それがYesであってもNoであっても、「逃げ」=「悪いこと」の価値観が温存されたままになってしまっています。
 この問答では、たとえ「逃げではない」という話に落ち着いたとしても、いずれ別の問題に突きあたったときに、再び「この決断は逃げではないだろうか?」と、同じ問いを発しなければならなくなってしまいます。そこで必要なのは、この「逃げ」という言葉に付着したネガティブな意味を引きはがしてしまうことなのです。
 たとえば、家が火事になったら人は逃げるものでしょうし、戦国時代の合戦などにおいて明らかに形勢不利な場合には、いったん兵を引き上げて(つまり「逃げ」て)援軍を得たりするでしょう。
「心」にとって「逃げ」は自然な反応

 このように、決して一概に「逃げ」が「悪いこと」や「消極的なこと」だとは言えないわけです。生き物である私たち人間は、自分が置かれている状況が自分にとって危険だったり不快だったりする場合には、自然な反応として「逃げよう」とするものです。これは、私たちの「心」(=「身体」)が行なう反応です(第1回参照)。

 これに対して「頭」の方は、「逃げてはならない」という価値観がすり込まれている場合には、「心」(=「身体」)が「逃げよう」とすることを承認せず、対立が生じます。
葛藤は良いが、抑圧は危険!

 心理学で葛藤や抑圧という言い方がありますが、「頭」と「心」(=「身体」)が対立した場合には、人はこのどちらかの状態におかれます。
 図1は葛藤の状態を表していますが、「頭」由来の△と「心」由来の○とが、「頭」(意識)の中で対立しています。これが自覚的に「悩んでいる」状態に相当します。
 次の図2は抑圧の状態で、「頭」が「心」との間の蓋を閉めてしまい、「頭」(意識)の中は△しか見えず、「心」由来の○は意識されません。意識の水準においては、△の一人勝ちの状態になっています。
 葛藤は、自覚的に悩まなくてはならないという意味では辛いものですが、しかし、「心」の声をシャットアウトしていないという点において、健康な状態の1つだと言えます。
 しかし、この自覚的に悩む辛さを解消しようとして、人はついつい蓋を閉めて「心」の声を封じ込めてしまいがちです。これが抑圧という状態なのですが、ある限度を超えて封じ込めを行なってしまった場合には、「心」(=「身体」)がストライキを起こして「うつ」状態に陥ったり(第1回参照)、身体症状という形で悲鳴を上げたりすることになってしまいます(第2回参照)。
 ですから、「逃げてはならない」という考え方は、揺るぎなく「頭」に採り入れられてしまった場合には抑圧の体制をつくりやすく、「うつ」等の問題を引き起こす危険性も高いと言えるでしょう。
「根気がない」という非難

 「逃げてはならない」という精神論のヴァリエーションとして、「根気がない」「1つのことが長く続いたためしがない」という非難もよく耳にします。
 ことに日本人は、1つのことに専心して「道」を極めることをとても賛美する傾向があるように思われます。もちろん、その人が一生をかけるに足るものと出合えた場合には、結果として、このような生き方が達成されることでしょう。

 しかし、多様化した現代にあって、何をして生きていくのかという選択肢は無数に近いほど多く、自分がこれだと思えるものに人生の早期に出会える確率はかなり低くなっているように思います。
 ましてや、幼少期から「お受験」等の事情により、大人顔負けの過密スケジュールで塾や習い事に通わされ、親の決めた方針の学校に入り、本人の好奇心やモチベーションをゆっくりと待ってもらえることがなく、バーチャルな知識を消化することにばかり重点が置かれた教育が、切れ目なく行なわれていきます。
 ことに、ゆるやかで退屈な時間がたっぷりあって、その退屈さゆえに好奇心を発動してオリジナルな遊びを見つけていくべき幼少期や学童期において、「あとで受験の苦労をさせたくないから」という一見合理的な理由の下に「お受験」の日々を強要してしまうことの弊害は、後々になって現れてくることが多いように思います。
 そんな日々を過ごしてきたあとで、ある年齢が来るといきなり、自分の進路を決めるよう求められるのですが、はたしてそこでどれだけの若者が、自分の一生をかけるに足る間違いのない選択ができるでしょうか。
試行錯誤は必要な回り道

 第16回では、「何をやりたいのかわからない」という悩みが増えていることを取り上げましたが、このように情報処理にひたすら追われる状況下で人が育てられてしまうと、「頭」というコンピューターを動かすことには習熟していても、「心」(=「身体」)が「~したい」「~が面白そう」と自由に発言することが慢性的に抑制されてしまっているので、「逃げたい」「やめたい」という拒否反応を発するのが意思表明として精一杯であることも少なくありません。
 ですから、その意味では学生や社会人になってから遅ればせながらの試行錯誤が行なわれるのは当然のことであり、また必要な回り道であるとも考えられるでしょう。
 「心」が本当に「面白い」「やってみたい」と思うものに出会ったとき、人は多少の障害があっても、「逃げ」たり続かなかったりしないものです。
 しかし、「心」が十分に力を持ち、また真にそういうものと出会うまでには、周囲が思っているよりも長めの猶予期間が必要とされるものです。その試行錯誤の最中には、本人自身が周囲の誰よりも「これは単に逃げているだけなんじゃないか?」「何をやっても根気がないダメな自分なんじゃないか?」と厳しく自分を疑っていることを、理解しておく必要があります。
 次回は、「有意義」ということに潜む問題について考えてみたいと思います。

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“何もしない時間”は無駄なのか?――「ウツ」を引き起こす「有意義」という言葉
――「うつ」にまつわる誤解 その(19)

 現在の社会では、何につけても効率が優先され、通勤時間などでも寸暇を惜しんで知識を身につけることが奨励されるような風潮があります。
 経済効果や経済効率が最優先される価値観は、いつの間にか「時は金なり」という考えと結びついて、私たちの生きる時間についても、常に「有意義」に過ごすべきであるという強迫観念を生みだしてしまいました。
 何かを「する」ことにばかり価値が置かれ、何も「しない」時間は無為に浪費された時間と見なしてしまう現代人の意識は、「うつ」をひき起こすオーバーワークの精神的土壌になっていますし、「うつ」の治療に欠かせない「何もせずに」療養するという際にも、罪悪感や焦燥感を抱かせる原因になっています。
 今回は、この「有意義」という病に取りつかれてしまった私たち現代人と「うつ」の関係について考えてみたいと思います。
幼少期から始まっている強迫的な時間管理

 相談にいらっしゃるクライアント(患者さん)の幼少期からの歴史をうかがってみると、常にすき間なく習い事や塾、友だちとの遊びの予定等でスケジュールがびっしり埋められていたということが珍しくありません。
 幼少期においては、親の影響下で毎日が「有意義」にしつらえられ、何をするわけでもなくダラダラと過ごす時間が奪われてしまうことが多いようですが、後にそれが習慣化して、本人自身もスケジュール帳に空白ができることに不安を覚えるようになったりします。
 学校では、長期休みにすら「日課表」「予定表」の作成が義務づけられ、それをきちんとこなせることが良い過ごし方であるとすり込まれます。
 社会人になってからも、余った時間はスキルアップを目指して「有意義」に使うべきだという考えがあちらこちらから聞こえてきます。また、仕事場においては、近年徐々に時間効率が厳しく管理されるようになってきている流れも見られます。
 このような時代ですから、何も「しない」でダラダラと過ごすことが問題視されることはあっても、何かを「する」ことで埋め尽くされた状態について問題視されることは滅多にありません。しかも、目に見える「有意義」なことをしていることは周囲からプラスの評価を受けやすいため、「有意義」に傾く傾向は、疑いを抱くこともなくどんどん強化されていくことになります。

「うつ」は「有意義」への反逆

人間の「頭」とは、そもそも「二匹目のドジョウ」を狙うような効率化を目指して発達してきたコンピューター的な部分です。ですから、予定を立てたり計画をしたりするのは、「頭」の得意分野ですし、それを実行に移す意志力も「頭」由来のものです(第1回参照)。
 「頭」はコンピューター的に情報処理を行なう部分なので、量的に把握可能なもの、つまり目に見えるものを重視する傾向があります。ですから、自分自身の価値を考える時に、「何をしたのか」「何が達成されたのか」などの生産性を目安に評価しようとします。
  しかし、人間はそもそも何かのための「生産マシーン」として生まれたわけではありません。ですから、「常に有効に稼働しなければならない」という考え方は、生き物としての自然に反したものだと言わざるを得ません。
 「頭」がコンピューター的で自然の原理から遠い部分であるのに対して、人間の生き物として自然な部分は「心」(=「身体」)の側にあります。ですから、「頭」が過度に効率を求めたり「有意義」であることを自らに課したりしますと、「心」(=「身体」)はそれにたまりかねて、ある時点から反逆を始めるのです。
  反逆とは、相手が最も嫌がるようになされるのが常です。「頭」が効率的で「有意義」であることを強要し続けてきたことに対して「心」(=「身体」)が反逆するとすれば、自分を「無為」で「何の生産性もない」状態に置くのが最良の方策になるわけです。
 「うつ」の状態では、意欲が減退し、集中力は低下し、作業能率が著しく阻害されます。また、強い倦怠感とともにすべてに価値が感じられない状態にも陥ります。これぞまさに、常に「有意義」な「生産マシーン」であることを強要されたことに対して「心」(=「身体」)が激しく反逆した姿として捉えることができるでしょう。
過食症も「有意義」への反発である

 現代の「うつ」においては、もともと摂食障害と言える状態にあった方が途中から「うつ」状態も併発するようになるケースが珍しくありません。
 摂食障害には拒食症と過食症がありますが、どちらか一方の状態だけで経過することは珍しく、実際には拒食に始まり、途中から過食が主になるケースが多く見受けられます。

 摂食障害の方たちに共通して認められる特徴は、意外に思われるかもしれませんが、自己コントロール力の強さです。そのために、大概の人ならば挫折するはずの無理なダイエットでも継続できてしまったりして、それを契機に摂食障害が発症することも多いようです。
 本来人間は、「心」(=「身体」)が必要なものを必要な分量だけ「食欲」という形で要求してくる見事なシステムを備えています。そこにダイエットという「頭」による計算が強制的に介入し、食行動にコントロールをかけてくると、ある限度を超えたところで「心」(=「身体」)側は、食欲のストライキ(拒食)か暴動(過食)という形で、レジスタンス運動を始めることになります。
 特に過食症においては、過食の後に自ら嘔吐するパターンが多く、大量に摂取された食物は、ほとんど吸収される間もなく吐き出されることになります。しかし、この「無意味」で「無駄」な行為にこそ、症状の反逆としての意義が潜んでいると考えられるのです。
 自己コントロール力の強い方たちは、強力な「頭」の監視下で、絶えず「有意義」であることを強いられて生活しています。その息の詰まる生活に対して「心」(=「身体」)が反逆し風穴を開けようとしたのが、「無意味」で「無駄」な過食嘔吐という症状なのです。
何もしない時間がなければ、
「心」の声は聴こえない

 何も「しない」空白の時間は、「生産マシーン」としては「無駄」な時間に見えても、実は「心」(=「身体」)にとってはなくてはならない大切な時間です。
 人間は、何も「しない」空白の時間があってこそ、内省や創造と言われるような内的作業が可能になるもので、ボンヤリと様々なことに思いを巡らしてみたり、自分自身との対話を行なったりします。また、その退屈さゆえにどこかに新しい世界はないかと模索してみたり、とりとめもない空想にふけったりするのです。このように自由な精神活動こそが、人類の文明や文化を築いてきた根源でもあると言えるでしょう。
 「頭」はいつも大声で主張してきますが、一方の「心」のほうは、普段はかすかな声でささやくだけです。そのかそけき「心」の声を聞き届けるには、どうしても空白の時間が欠かせないのです。
 知らず知らずのうちに現代人をむしばんでいる「有意義」という病に対して私たちが対抗できる方法があるとすれば、それは、あえて「無為」な空白の時間を大切にする意識を持つことでしょう。
 次回は、「自信が持てないという悩みについて考えてみたいと思います。

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「自信が持てない」―現代の「ウツ」に潜む悩み
――「うつ」にまつわる誤解 その(20)

 「自信が持てない」「自分のことが認められない」といった問題は、現代の「うつ」を考えるうえで、どうしても避けて通れない重要なテーマです。
 このような問題を抱えている方たちは、学業や仕事などで成果を上げて代償的に自己評価を維持しようと、無理を重ねがちです。しかし、この努力にはどうしても限界があって、ある時点でブレーカーが落ちたように「うつ」状態に陥ってしまうケースも少なくありません。
 以前(第5回)にも触れましたが、現代の「うつ」にはさまざまな病態があります。その中でも、新しいタイプの「うつ」(非定形うつ病、パーソナリティ障害、摂食障害など)の場合には、いくら薬物療法や休養を行なってもそれだけではなかなか回復が難しく、この内的なテーマがきちんと扱われない限り、状態は一進一退を繰り返してしまうことが多いのです。
 今回は、この「自信」ということをめぐって考えてみましょう。
「自信」に根拠は要らない

 「自信が持てない」と訴えるクライアント(患者さん)に対して、私はよく「どのようにしたら自信が持てるようになると考えていますか?」と質問を投げかけてみることがあります。これに対して大抵は、周囲から評価を得られるような成果を上げたり、何かを成し遂げられたりしたら、こんな自分に変われたら……、といった答が返ってきます。
 では、そもそも「自信」とはどういうものなのでしょうか。
 「自信」は「自分を信じる」と書くわけですが、この「信じる」とはどういうことなのか、これが「自信」を考えるうえで重要な鍵になります。
 目に見える努力や成果、あるいは周囲からの評価を拠りどころにすることは、いわば、自分の価値についての「保証書」や「鑑定書」を求めることだと言ってよいでしょう。しかし、もしそういう「保証書」が得られたならば、もはやそれだけで十分に「保証」されているわけですから、わざわざ「信じる」という大げさな言葉を持ちだす必要はないわけです。
 つまり「信じる」ということは、本来、「保証」や「根拠」を必要としないものだと考えられます。
 たとえば「神を信じる」という人は、「神の存在証明があるから信じます」というわけではないでしょう。つまり「信じる」というのは、対象についてのその人の態度や決意を表わす言葉なのです。
 よく「根拠のない自信」という言い方が人を揶揄するように用いられることがありますが、このように考えてみると、そもそも「根拠のない」のが「自信」本来の姿だったわけです。

 「根拠を求めない」ということは、「条件を付けない」ということでもあります。ですから「自信」とは、決してある条件をクリアしたら持てるといった類のものではないのです。
「良い自分」と「悪い自分」

 さて、「自分が自分を信じる」という場合、自分のどこが自分のどこを信じるということなのでしょうか。
 これまで何度も登場した図を用いて、これについて考えてみましょう。
自己評価や自己イメージというものは、この図で言えば、「頭」が行なっていると考えられます。
 第1回でも説明しましたが、「頭」はコンピューターのように情報処理をする場所です。コンピューターは、そもそも電気信号のon/offを2進法の1/0に見立てて、それを集積した巨大計算機です。人間の「頭」もこれと同様に、基本に2進法的な原理、つまり「二元論」的性質があると考えられます。
 「二元論」と言うと一見難しそうですが、対象を「良い」か「悪い」かのどちらかに分けるような判断のことです。
 「頭」はこのような基本特性を持っているために、自己評価を行なう際にも、自分自身について「良い自分」と「悪い自分」に分けてしまいがちです。そして、この「頭」による「二元論」的判断が、自分自身を無条件に「信じる」ことを妨げ、目に見える「良い」成果を求める傾向を生み出してしまいます。
 「マイナスの部分が克服されたら認めてやろう」という条件を付けて自分に向かう「二元論」的な態度は、「自分をあるがままに信じる」という「一元論」的な態度から最も遠いものであり、これは完全に「頭」の罠にはまりこんでしまった状態だと言えるでしょう。
「条件付け」が「偽りの自分」を作り出してしまう

 「自信が持てない」と悩む人たちは、幼い頃から周囲の期待に応えるよう努力を重ねたり、望まれるような人格を演じたりしてきた歴史を負っていることが少なくありません。

 望ましい成果をあげれば報酬を与え、期待に反すればペナルティを課す。このような動物のしつけにも似た「条件付け」を親が行なった場合には、当然子供はその「条件付け」を取り込んで、望まれるような「偽りの自分」を生きるようになってしまいます。
 しかし、必ずしも親がそのような「条件付け」を行なわなかった場合でも、子供の側が生まれながらにして鋭敏な感性を持っている場合には、子供が言外に親が期待しているであろうことを察知し、自ら「良い子」「できる子」を演じ、率先して「偽りの自分」を生きてしまうということもあります。
 よく、「子供の頃は手のかからない良い子だったのに……」といった発言を親御さんから聞くことがありますが、それは、親に合わせて子供が「偽りの自分」を演じていたに過ぎなかったりするのです。
「正しい選択」よりも「自分で選ぶこと」を

 幼少時から、本人のモチベーション(動機付け)で物事や進路を選択する十分な猶予が与えられずに、親などが先回りして選んだ「正しい」ものを与えられ続けてくると、一見人生が順調に進んでいるように見えても、本人の中に「経験」が積み上がらないというアンバランスが生じます。これも、後々「自信が持てない」状態を引き起こす恐れのある問題です。
 ここで言う「経験」とは、単に何かをするという「体験」とは違って、本人が自分の考えで選び、実行し、結果もすべて本人が引き受けることを指すものです。
 「経験」においては、良い結果であれ失敗であれ、丸ごと結果が本人にフィードバックされるので、借り物ではない新たな認識が本人の内部に刻み込まれます。一方、他からの指示に従って行なわれる「体験」では、うまくいっても自分自身の成果なのか与えられた指示が良かったのか区別できませんし、また、結果が思わしくなかった場合には、やり場のない後悔で気持が腐ってしまう感じになります。
 「どのようにしたらうまくいくか」という情報があふれている現代においては、「失敗しないこと」「正しい選択をすること」「即断すること」「後悔しないこと」「回り道をしないこと」「結果を出すこと」が過度に重視され、本人自身が試行錯誤をしながらゆっくり「経験」することを許してもらえない風潮があります。
 しかし、人間の「自信」を生み出す母体としては、ひとつひとつ自分で選んできたという「経験」の積み重ねがどうしても欠かせません。周囲の人間が「よかれ」と思って提供したものが、当人の「経験」を先回り的に奪ってしまう危険もあるということに、私たちはもっと自覚的でなければならないだろうと思います。
 次回は、「うつ」に移行したり「うつ」を合併したりすることもある「パニック障害」について、とり上げてみたいと思います。

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パニック障害と「ウツ」――“いま”を生きづらい現代人への警鐘
――「うつ」にまつわる誤解 その(21)

 突然、強い不安とともに動悸や息苦しさ、冷汗、吐気などの発作(パニック発作)におそわれるパニック障害は、現代において「うつ」と同様、多くの方々が悩んでいる問題です。
 初めてパニック発作におそわれた人は、身体的な問題ではないかと考えて内科などを受診することが多いのですが、検査を行なっても特にその原因と思われるような異常は見つかりません。
 新しいタイプの「うつ」では、このパニック障害との境界線はかなり曖昧で、両者が合併していると診断されるケースもあれば、パニック障害から始まって後に「うつ」が徐々に現われてくるケースもあります。
 今回は、このパニック障害という病態について掘り下げて考えてみたいと思います。
「死ぬかもしれない」不安は、なぜ起こるのか?

 パニック障害は従来「不安神経症」と呼ばれていたもので、その特徴である発作(パニック発作)は、もともと「不安発作」と呼ばれていました。このことからもわかるように、パニック障害は強烈な不安を伴っているところが最大の特徴です。
 この不安は「このまま死ぬかもしれない」と感じられるようなものであることが多く、それがあまりに強烈であったために、予期不安と呼ばれる「またいつ発作が起こるかわからない」という心配におびえ、生活にもさまざまな支障を来たすようになります。
それにしても、なぜ「死ぬかもしれない」といった不安が、わざわざ自分の内部から起こってくるのでしょうか。
 第4回で「病というものは、何らかのメッセージを自分自身に伝えるべく内側から湧き起こってくるものである」、あるいは「病は、その中核的な症状によって、自分自身をより自然で望ましい状態に導こうとしている」という見方で「うつ」について考察しましたが、ここでもその考え方を用いてみましょう。すると奇妙なことに、「死ぬかもしれない」と自分自身に思わせることにパニック障害の意味がある、という話になってしまいます。
 さて、これはいったいどういうことでしょうか。
“メメント・モリ”――死を忘れるな

 古いラテン語の格言に、“メメント・モリ(memento mori.)”というものがありますが、これは「死を忘れるな」「死を想え」という意味の言葉です。
 同じことを、古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスも、次のように述べています。「一万年も生き永らえるであろう者のように振る舞うな。(死の)運命はすでに迫っている」(『自省録』鈴木照雄訳、講談社学術文庫)

 これらの言葉は、「死というものを視野に入れて生きなければ、人間は限りある生の大切さを忘れて過ごしてしまうものだ」という意味の警句です。空気がなくなって初めて空気の存在の大切さに気づいたり、米不足になってから急に米についての意識が高まったりするように、人は「死」を身近に突きつけられて初めて、いまの自分の生き方を検証せざるを得なくなる。つまり、「いまの生き方で、あなたは後悔なく死ねますか?」と厳しく問いかけられることになるわけです。
 パニック障害の「このまま死ぬかもしれない」という不安自体に何らかの意味があるとすれば、この“メメント・モリ”のメッセージしかないのではないか。ある時私はそう思いいたって、以来、パニック障害の方との面接においてこのテーマを採りあげるようになりましたが、はたして実際、ほとんどの方がハッとされ、何らか思い当るところがあるという反応を示されました。
なぜ、地下鉄や特急電車でパニック発作が起こりやすいのか?

パニック発作や予期不安は、特に地下鉄や急行・特急電車の中で出やすい傾向がありますが、同じ乗り物でも、地上を走る各駅停車の電車やタクシーなどは比較的大丈夫なことが多いようです。
 これは、地上なのか地下なのかによる「閉塞感」の違いや、「降りたい時にすぐに降りられるかどうか」という点が重要なポイントになっていることを示唆しています。ここからある大切なことが推測できるように思います。
 つまり、その人はすでに心理的にいまの生き方に「閉塞感」を感じ、「降りたい時に降りられない」レールの上を走っているような人生になってしまっているのではないか、ということです。そうだとすれば、まさに同じような状況が物理的にもたらされた時に、その人は心理的・物理的に二重に「閉塞」させられるわけで、それに反発して発作が起こりやすいのも不思議はないと考えられるのです。
いまを生きよ!

 先ほどの“メメント・モリ”と対にして考えられる言葉として、やはりラテン語で“カルペ・ディエム(carpe diem.)”というものがあります。ホラーティウスという詩人が残した詩の一節で、「今日という日を摘め」という意味です。すなわち、「いまを生きよ」というメッセージなのです。

 現代の私たちの生活は、常に「将来に備える」ことを求められ、いまを生きることをかなり犠牲にせざるを得なくなっています。もちろん、この時代を生きるうえではある程度避けられないことではあるのですが、あまりにそのバランスが将来への投資に偏ってしまった時に、私たちの「内なる自然」はやむなく警鐘を鳴らしはじめるのだと考えられます。
これまで何度も用いてきた「頭」「心」「身体」の図式(第1回参照)で、今回も考えてみましょう。図1をご覧ください。
【図1】

 「頭」というコンピューターはシミュレーションが得意ですから、過去の分析やそれにもとづいた未来の予測を行ない、あとで少しでもうまくいくようにと計画を立て、現在を犠牲にしてでも「将来に備えよう」とします。
 しかし一方、自然の原理でできている「心」(=「身体」)のほうは常に「いま・ここ」という現在を重視するので、「現在を犠牲にせよ」という「頭」の指令を基本的には歓迎しません。「頭」の計画によほど説得力があれば、「心」側もある程度までは妥協し応じてもくれますが、それにはやはり限度があるのです。
「将来に備える」価値観の落とし穴

 いくら将来のためとはいえ、現在を生きることに手応えが欠けてしまっては、「心」(=「身体」)は早晩、実力行使に訴えてくることになります。
 その実力行使が、パニック障害の形をとることもあれば、「うつ」の形をとることもあるでしょう。しかし、重篤な身体疾患を引き起こし、仮想の“メメント・モリ”ではなく、身体的で現実的な死の恐怖の形で“メメント・モリ”を突きつけてくることもあるのではないか。
 つまり、象徴的な次元でメッセージが発せられた時にはメンタルのトラブルの形をとりますが、現実的な次元でなければメッセージが届かないとなれば、やむなく身体的疾患の形をとることになるのではないかと私は考えるのです。
 「将来に備える」という考えは、仏教的に観れば「執着」と捉えるべきものでもありますが、今日ではこの考えが真っ当なものとして、個人のレベルを超えて社会全体の風潮にまでなっています。しかし、「将来に備える」という一見正しく合理的に見える価値観は、「いま・ここ」を生きるという自然な在り方を犠牲にする危険な側面も持っていることを忘れてはなりません。
 忍耐強く禁欲的であることを美徳として勤勉に生きてきた私たち日本人は、ともすると「いま・ここ」を大切にすることに罪悪感すら抱いてしまう傾向があります。しかし「将来への備え」の正体とは、実のところキリのない「執着」であり、「いつかそのうちに」と思って「いま」を浪費しているうちに、貴重な人生の時間は終わりを迎えてしまうかもしれないのです。
 「死を想え」という古い格言や「今日という日を摘め」という古い一節は、今日の私たちにとって決して無用なものではありません。古今東西、人間の生きている実感とは、常に「いま・ここ」以外で得られたことはなかったのです。
 次回は、「うつ」を生み出す精神的背景として、私たちの中に根強く潜んでいる「努力」信仰について考えてみたいと思います。

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「努力」に価値を置く危険性――「ウツ」を生み出す精神的母体
――「うつ」にまつわる誤解 その(22)

「努力することにこそ価値がある」という考え方は、私たち日本人の精神性に奥深く浸透しているものの1つです。
 しかし、「うつ」に苦しむ人々の多くは、元来、意志力の強いタイプで、発症以前には人並み以上に「努力」を重ねてきた歴史を持っているものです。意欲がなくなり活動性が低下してしまう「うつ」の症状は、「努力」に価値を置いて生きてきたことへの大きな反動、と見ることもできます。
 「うつ」が急増している今日、私たちにすり込まれている「努力」信仰とでも言うべき価値観について、その病理性を明らかにすることは、治療上も予防の観点からもとても重要なことだと考えられます。
そこで今回は、この「努力」信仰の価値観が持つ問題点について考えてみたいと思います。
「努力」した人が成功する、という誤解

 ある野球少年が、毎日熱心に日が暮れるまで練習をしていました。そして、その野球少年は、後々、大リーグで活躍するほどの選手にまで成長したとしましょう。
 その近所に住んでいた家族がこんな会話をしています。「○○君は、毎日欠かさず日が暮れるまで努力したからこそ、あそこまで成功したんだ。やっぱり、人一倍努力した人間が最後には勝つんだ」
 しかし、当の本人にこの話をぶつけてみると、意外にもこんな反応が返ってきました。「いや、僕は人一倍努力をしたという自覚はありません。ただ野球が好きで、もっとうまくなりたいという一心で、やりたいからやってきただけなんです」
 これは他愛のないフィクションに過ぎませんが、様々なジャンルで活躍している人たちの発言をいろいろと総合してみると、かなりこれに近い現実があるように思えるのです。つまり、本人にとって「熱中」と呼ぶべきものを、ともすると、傍で見ている人間が「努力」と誤って見てしまうのではないかということです。
 子供が砂場で日が暮れるまで砂の城を作ったり、ゲームを徹夜でクリアしたり、エレキギターの練習に夢中になることは、周りからは滅多に「努力」と呼ばれることはありません。しかし、ことこれが勉強やスポーツのトレーニング、ピアノやヴァイオリンの練習などの場合には、たとえ本人にとっては「熱中」と呼ぶべき内実だったとしても、周囲からは一律に「努力」として捉えられがちな傾向があって、周囲の見方とはこのように当てにならない偏りを持っているものなのです。
「努力」と「熱中」の違い

 その人間がどのような資質を持っているかによって、同じことをしてもそれをどう感じるのかは大いに違ってきます。
 生まれ持った資質にかなうことであればそれを面白いと感じ、資質の乏しいことについては苦痛に感じるように人間はできています。

 ですから、野球の適性の高い資質をもった少年にとっては、野球の練習はさほど苦痛にならず面白いものに思える可能性が高いわけですが、その資質の乏しい少年にとっては野球の練習は苦行以外の何ものでもないでしょうし、「努力」してもあまり上達は望めないことでしょう。
 そもそも「努力」という言葉には、「つらいことを我慢して」というニュアンスが少なからず含まれていますが、「熱中」については、「好きなことに自発的にのめり込んで」といった意味合いがあります。
 先ほどのフィクションのように、「熱中」したがゆえに成功した人間を見て、周囲の人間がそれを「努力」と誤解したところに、今日の「努力」信仰が作り出されてきた原因があるようにも思われます。
「努力」信仰はなぜ危険なのか?

 このように、「努力」を信奉する人生観は、その人にとって資質の乏しい方向に進むことすら、無理に奨励してしまいかねない危険をはらんでいます。
 人間が生来備えている快/不快のセンサーは、その人の生き方についてもその人の資質にかなった方向に導いてくれる大切な働きをするものです。しかしこの「努力」信仰は、ともすると不快なことであっても忍耐することを美化してしまい、自虐的な傾向を生み出してしまいます。
 第1回から再三用いてきた「頭」「心」「身体」の図式で言えば、「心」(=「身体」)は自分の資質に合わない行為について不快というシグナルを発しますが、「頭」にすり込まれた「努力」信仰によってそれは却下されてしまい、ひたすら苦行を忍耐させられてしまう恐れがあるということです。
 これは「頭」の意志力による一方的な独裁体制であり、奴隷のように扱われる「心」(=「身体」)の忍耐が限界点に達した時には、何がしかの反動が起こることは必至です。「心」(=「身体」)が全面ストライキの形をとって反発した場合には、「うつ」状態がひき起されることになってしまうのです。
「努力」の〈駱駝〉から「熱中」の〈小児〉へ

 ドイツの哲学者ニーチェの代表作『ツァラトゥストラ』に「三様の変化」という章があります。そこでニーチェは、人間の成熟のプロセスを、動物に喩えて表わしています。そこには、〈駱駝〉が〈獅子〉になり、そして最終的には〈小児〉になるという道筋が示されています。
 〈駱駝〉は、忍耐・従順・諦念・畏敬の象徴で、「汝なすべし」と命ずる巨大な〈龍〉に従っています。
 それがある時、「われは欲す」を叫ぶ〈獅子〉に変身して〈龍〉を倒します。〈獅子〉はこれによって自由を獲得し、自分という領域を確保します。
そしてその後に、〈獅子〉は〈小児〉に変身します。〈小児〉とは純粋・無垢・遊戯・自発性・創造性の象徴であり、「然り(その通り・あるがまま)」という聖なる言葉を発します。

「努力」を信奉している状態とは、まさに〈駱駝〉の状態に相当するものです。「汝なすべし」と命令する巨大な〈龍〉とは、さしずめ「頭」の中の「努力」信仰に相当するでしょう。「うつ」状態とは、この〈駱駝〉が〈龍〉に鞭打たれすぎて、へたりこんでしまった状態に喩えられます。
 治療においては、まずこの疲弊した〈駱駝〉を〈龍〉から引き離して十分に休息してもらい、それから〈獅子〉に変身することをサポートします。これにより、「頭」の中にいた〈龍〉(すなわち「努力」信仰)が追い出されます。その後に〈獅子〉は自ずと〈小児〉に変身し、創造的な遊戯を始めるようになります。これが「熱中」という状態なのです。
「努力」をやめても「熱中」が待っている

 人間は、自分の内に抱えている言葉によって、知らず知らずのうちにその在り方までもが規定されてしまう特殊な生き物です。
 ですから、「努力」という〈龍〉の言葉を信奉していることによって、私たちは奴隷的な〈駱駝〉の状態に縛りつけられてしまい、生き生きした状態から遠ざかり、場合によっては「うつ」状態にすら陥ってしまうのです。
 そこで、「努力」という言葉を捨て、自発性・創造性に満ちた〈小児〉の遊戯を表す「熱中」を新たなキーワードとして立ててみることが、私たちの在り方を少しずつ生命力に満ちたものに変えてくれる秘訣だと言えるでしょう。
 しかし、もし「努力」というスローガンを手放してしまったら、自分は何もしない怠け者に堕落してしまうのではないかという恐怖心を強くすり込まれていることも珍しくありません。これもまた、私たちを〈駱駝〉に縛りつけておくための、巧妙な〈龍〉のやり口なのです。
 〈駱駝〉の従順な勤勉さを脱したとしても、その先に待っているのは決して堕落した自分の姿ではなく、〈小児〉の創造的「熱中」があるということ。これが、窮屈な〈駱駝〉の自分から脱していくうえで、欠かせぬ大切な認識です。
人間は、義務に束縛された状態から解放された後、ある期間は反動として「何もしたくない」という状態を経過するものですが、それが満たされた後になってまで、何もしない退屈さや単調さに耐えられるほど忍耐強くできてはいません。必ずや、何か「熱中」できるものを探し始め、創造的遊戯を行なおうとする積極的な生き物なのです。
 次回は、新しいタイプの「うつ」でしばしば見られる、自傷行為や過食の問題を採り上げてみたいと思います。

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なぜ自分を傷つけてしまうのか?――新しい「ウツ」に見られる自傷や過食の病理
――「うつ」にまつわる誤解 その(23)

 近年新しく「うつ」と呼ばれるようになった病態(第5回参照)の中には、リストカッティング(手首自傷)などの自傷行為や、過食・嘔吐などの摂食障害を伴うタイプも存在します。
 そのような病態では、パーソナリティの基盤となる「自己愛」の部分に問題を抱えていることが多く、通常行われているような休養や薬物療法中心のアプローチでは解決が困難で、適切な治療に出会えずに経過が長引いてしまっているケースも珍しくありません。
 今回は、こういった自傷行為や過食といった現象がなぜ起こるのか、また、そこから読み取るべきメッセージは何かといったことについて、考えてみたいと思います。
自己破壊ではなくリセットが目的だった

 自傷行為や過食は、その行為自体が奇異で自己破壊的に見えるために、周囲からはネガティブなものと捉えられ、専門家による治療の場面でさえも「今後は決してしないと約束して下さい」と言われてしまうことがあるようです。
 確かに、このような症状を消失させることは治療の重要な目的の1つではありますが、それを急ぐ前に、なぜこのような症状が起こっているかを理解しておく必要があります。つまり、症状の意味を汲み取っておくということです。
 このような症状を抱えている人たちは、根本のところに「自分自身のことを認められない」「自分を愛せない」といった「自己愛」の問題を抱えており、それゆえ、生きること自体が苦痛に満ちた状態になってしまっています。
 自傷や過食にいたる心境を詳細に聴いてみると、「もうやらないようにしよう」といくら意識で止めても、それをしのぐ強い衝動が突き上げてきて、自分が別モードに入ったような解離状態の中で行為に及んでいることがわかります。そしてそれは、自分の中に溜まった歪みをリセットするかのような、一種の自己治療の意味合いを持っているのだということもわかってきます。
「頭」の圧政から解放されたい衝動

 「自分自身のことを認められない」状態とは、「頭(理性)」が「あるべき自分」を勝手に設定し、その基準や条件を満たしていない「実際の自分」を嫌悪してしまっていることです。
 そのために、普段は「あるべき自分」に近づけるべく「頭」が自分自身を強力にコントロールしていることが多く、コントロールされる側の「心」(=「身体」)はかなりの無理を強いられています。そして、その無理がある程度以上に蓄積されてくると、自傷や過食の衝動が突き上げてくるようになるのです。

 つまり、「心」(=「身体」)側が、「頭」によって強いられ生じた歪みをリセットしようとするのが、自傷行為や過食なのです。
 地殻プレートの歪みがリリース(解放)される時に地震が起こるようなイメージで、これを捉えることもできますし、「頭」の独裁的な圧政にたまりかねた国民(「心」=「身体」)の暴動として捉えることも可能でしょう。
自傷行為による自己確認

 自傷行為や過食によって、「自分が自分でなくなっている」といった離人状態が少し改善する、という話を患者さんからよく耳にします。
 「頭」が強力に自己コントロールをかけている状態においては、「頭」と「心」の間のフタが閉じられているために、「頭」と「心」(=「身体」)は断絶してしまって感情や感覚も感じられにくくなるので、離人状態に陥ってしまいます。これが、自傷による痛みや出血、過食後の嘔吐などによって「身体」の存在が呼び覚まされて、離人状態が軽減するのでしょう。
 一方、「頭」からすれば、そもそも自分自身を否定的に見たり嫌悪したりしているので、ともすると、要求通りに動かなかった自分に懲罰を加えたくなったり、嫌悪する自分を否定したくなったりします。そのため、「心」(=「身体」)とは別の動機ではあるものの、自傷行為に同調してしまうのです。いわば、呉越同舟の関係です。
 また、「自分を愛せない」ことの代償として「誰かから愛されたい」と他者依存的な状態に陥っている人の場合は、自傷行為は「こんなに私は苦しんでいるんだ」ということを周囲にアピールする効果があるため、症状を手放しにくいという側面もあります。
 このように、本人の中のさまざまな思惑が複合的に合致するうえに、刹那的な満足も得られやすいために、たとえ「止めたい」という本人の意志があって「もうしない」と治療者と約束をしたとしても、それでも歯止めが利かないような強い衝動が生まれてしまうのです。

コントロールに対する反逆現象をどう扱うべきか

 このように複合的な要因が生み出している状態へのアプローチは、「頭」の意志力に働きかける方法では、どうにもならないことは明らかです。
 つまり先ほども述べたように、「頭」によって行なわれる「あるべき自分」を目指した強力なコントロールによって生じている現象なのですから、「もうしないと約束させる」ようなやり方では、「自傷(や過食)をしてはならない」という新たな「あるべき」ミッションを付け加えてしまうことになってしまい、うまくいかないのです。
 もちろん、かといってこのような行為を奨励するわけにもいきません。それでは、いったいどうしたらよいのでしょうか。
 これらの症状は、見かけが派手であるため、これを解消することを優先的目標に考えてしまいがちですが、それは功を奏しにくい。ここはやはり、幹に存在する「自己愛」の問題やオーバーコントロールの問題にまっすぐにアプローチすることが、一見遠回りに見えても最も有効なアプローチなのです。幹の問題が変わらない限り、枝葉である症状に対して躍起になっても、症状が別のものにシフトしてしまうだけで、真の解決にはいたらないものです。
「あるべき自分」という幻想

 このような症状に苦しむ方たちに限らず、私たちの多くも、「あるべき自分」の幻想に大なり小なり囚われていると思われます。
 知らず知らずのうちに、「実際の自分」は怠惰で邪悪なものであって、「あるべき自分」に向けて自分自身を律し鍛え上げていくべきである、という人間観を根本のところにすり込まれてしまっていることが多いのです。
 18世紀フランスの思想家ルソーは、今や教育論の古典とされている『エミール』という主著の冒頭で、次のようなことを述べています。
 創造主の手から出るとき事物はなんでもよくできているのであるが、人間の手にわたるとなんでもだめになってしまう。…中略…人間はなにひとつ自然のつくったままにしておこうとしない。人間自身をさえそうなのだ。人間も乗馬のように別の人間の役に立つように仕込まずにはおかないのだ。庭木と同じように、人間の好みに合わせて、かならず曲げてしまうのだ。(永杉喜輔・宮本文好・押村襄訳、玉川大学出版部)
 人間本来の姿を、このルソーのように「よくできている」と捉えるか、それとも、私たちがすり込まれてきたように「怠惰で邪悪なもの」と捉えるか。この違いは、私たちが「心」(=「身体」)を信じ尊重して生きるのか、それとも「頭」優位で絶えず自己コントロールの緊張の中に生きるのかを大きく分けるものになるのです。
以前は稀にしか見られなかった自傷行為や過食の問題が近年急増してきたことは、自然な人間の在り方を認められずに「あるべき姿」に向けて捻じ曲げようとしている現代人への警告であると、私には思われてなりません。
 次回は本連載の最終回になりますが、「うつ」から何が新たに始まるのか、というテーマを考えてみたいと思っています。

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「ウツ」が治るとは、元に戻ることではない――新しく生まれ直す“第2の誕生”
――「うつ」にまつわる誤解 その(24)

 「うつは本当には治らない」「うつは再発しやすいものだ」といった認識が、依然として、あちらこちらでささやかれ、信じられているように見受けられます。これらは、「治る」ということを「元の状態に戻ること」と捉えて行なわれている治療のはらむ現実的な限界を多くの人が見て、流布されるに至った残念な風評です。
 第4回でも触れましたが、repair(修理)ではなくreborn(生まれ直し)あるいはnewborn(新生)といった深い次元での変化こそが、真の「治癒」には欠かせません。この変化を「第2の誕生」と呼ぶことにしましょう。
 最終回の今回は、その「第2の誕生」とはどのようにして可能なのか、そこからどんな生き方が始まっていくのかということについて、触れておきたいと思います。
「自力」と「他力」

 仏教では、よく「自力」と「他力」ということが言われます。「自力」は自分の力を頼みにしている在り方を指し、「他力」は仏の力によって導かれることに開かれた状態を指しています。
 何度も用いてきた「頭」「心」「身体」の図で考えてみると、「自力」とは「頭」の知力や意志力を頼みにしている状態であり、一方の「他力」は、大自然由来の「心」(=「身体」)にゆだねた状態と見ることができます。そう考えてみると、さしずめ「うつ」とは、「自力」が尽きた状態に相当すると言えるでしょう。
 ある日突然に朝起きられなくなる、会社に行こうとして自分に号令をかけても身体が動いてくれない。「うつ」の始まりによく見られるこのような状態は、「頭」が命令しても、もはや「心」(=「身体」)がストライキを起こし従ってくれなくなった状態と理解できます。
 第12回でも触れましたが、「うつ」に陥りやすい人は、この「自力」を頼みにして自らに努力や忍耐を強いてきた場合が多く、それがある時点で破綻してしまったのが「うつ」状態なのです。
 仏教学者の鈴木大拙氏は、「自力」と「他力」について、こんなことを述べています。
 自力というのは、自分が意識して、自分が努力する。他力は、この自分がする努力は、もうこれ以上にできぬというところに働いてくる。他力は自力を尽くしたところに出てくる。窮すれば通ずるというのもこれである。〈―中略―〉底の底まで進んで破れないというところまで進んで、やがて自力を捨ててしまう、そして捨ててしまったところに、自然に展開してきたところの天地、その天地というものは、やがてまたわれわれの客観界ではないのか知らんと思う。あるいは絶対客観とでもいうべきであろうか。(『禅とは何か』春秋社より)
 さて、ここで述べられている「自力を尽くしたところに他力が働いてくる」ということを、「うつ」について当てはめてみると、どんなことが見えてくるでしょうか。

「自力」の根を取りきれるかが重要なポイント

 通常、「うつ」状態に陥った時点で、患者さんはまだ「自力」を捨て去ってはいません。「頭」は、そう簡単には自己コントロールの主導権を「心」(=「身体」)側に明け渡そうとしません 。
 それゆえ、動かない自分を嫌悪し再び鞭打って動かそうと焦ったり、休まざるを得ない自分を「価値がない」と否定的に捉えたり、罪悪感を抱いたりすることになりやすいのです。
 「心」(=「身体」)がストライキを起こして意欲も出ず、動けなくなっているにもかかわらず、「頭」が最後の意地を張り続けているこの状態が、治療においてもっとも根気の要る時期です。
 ここでいかに徹底して「自力」の根を取りきれるかが、その後の経過を左右する重要なポイントになります。
 ある程度の期間休養することによって、エネルギー自体は回復するので、一見状態が改善したかに思われがちです。しかし、「自力」の要素が残った状態で急いで社会復帰を行なってしまうと、発病前の「頭」支配の体制に逆戻りしやすくなってしまい、どうしても再発のリスクを残してしまうのです。
「動けない」から「動かない」へ

 「動けない」「何もしたいと思えない」「起きられない」などの表現が出て来ているうちは、まだ「自力」の要素が色濃く残っていることがわかります。つまり、いずれも「動くべきである」「何かしたいと思うべきである」「起きられるべきである」といった「頭」由来のmustやshould系列の考え方(第1回参照)がまだ前提になっていて、それが実現しないことを「頭」が嘆いている状態なのです。
 これが次第に、「動かない」「何もしたくはない」「起きたくない」といった「心」由来のwant to系列の表現に変わってくると、療養が良質なものになってきたことがわかります。そこからさらに、「こんな風に何もしないで過ごすのは、何て快適なんでしょう」「このままずっと休んでいられたら幸せだろうなあ」といった感じで休むことが満喫できるようになってくると、やっと「自力」が尽きて、「他力」にゆだねた状態になったと見ることができるのです。
「他力」の現われとして、自然な意欲が湧き上がってくる

 「自力」が尽きたところに、徐々に「他力」が現われ始めます。
それはまず、療養に身をゆだね、休んでいることを安楽に感じるところから始まりますが、これが次第に、療養していることに退屈を感じるようになり、好奇心も少しずつ発動するようになっていきます。

 このようなプロセスを踏んで現れてきた意欲は、「心」(=「身体」)が自然に生み出したものなので、「頭」が焦燥感を偽装して作り出した「偽の意欲」とは違い、これに従って活動しても、まず問題は生じません。
 このような自然な意欲にもとづいてなされた社会復帰は、再発のリスクを残さない最も望ましい形であり、周囲の人から見ても明らかに安心して祝福できる様子になっているものです。
 しかしこのようにして実現する社会復帰は、はじめにも述べたように、「元に戻る」こととは一味違っているものです。
 それは決して、同じ職場に戻ったり同じ学校に戻ったりするのではない、という意味ではありません。たとえ見かけ上同じ所に戻った場合でも、本人自身が内面的に大きく変化を遂げているという意味で、「元に戻る」のではないということなのです。
数々の思い込みが再検討され、人間としての成熟が始まる

 この内面的な変化とは、「頭」の意志によって何でもコントロール可能だと思い込んでいた驕りが捨て去られ、大自然の摂理で動いている「心」(=「身体」)に対し「頭」も畏敬の念を抱くようになり、その大いなる流れに身をゆだねる生き方に目覚めるということです。それは、近現代の人間中心主義から離脱するような大きな世界観の変化であると言うこともできるでしょう。
 この変化により、以前には見えなかったものが新たに認識されるようになります。
 たとえば、「適応」することイコール「正常」であると信じていた思い込みが脱落し、「適応」とは「麻痺」の別名でもあることが見えてきたり、よく言われる「何だかんだ言って、メシが食えなけりゃ始まらないだろう」といった言い方の中にも、人間を骨抜きにする毒素が巧妙に混入されていることが透けて見えてくるようになったりします。
 このように「自力」から「他力」に抜け出ることによって、生来すり込まれてきた思い込みの数々が再検討され、ものごとの真の姿を新たに捉え直す働きが起こってきます。
 金銭・名誉・出世などへのこだわり、他人からの評判を気にする神経症性、表面的な人間関係にとらわれたり孤独を恐れたりして群れようとする傾向、無批判な組織への忠誠心、成果主義に振り回されて効率を追い求める非人間的環境、等々への疑いや幻滅が次第に明瞭になり、そこから離脱したまったく別種の価値が見出されるようになっていくのです。そして、生きるうえで価値を置く優先順位が、ダイナミックに変化することになります。
 「第2の誕生」とは、このように内面的な大変革が起こることを指します。しかし、それを経たからといって、その人が仙人のような浮世離れした生き方をすることになるわけではありません。
 現実社会の中で日々を過ごしながらも、そこに充満している手垢のついた価値観に振り回されたり、時代の風潮に流されたりすることなく、曇りなく自分が感じ取ったことをもとにして、自分自身で丁寧に考えるような在り方に変わるということなのです。つまり「うつ」は、現代における重要な覚醒の契機の一つと見ることができるのです。



共通テーマ:日記・雑感

クスリに頼るのは悪いこと?――「抗うつ薬」の効用と限界

クスリに頼るのは悪いこと?――「抗うつ薬」の効用と限界 泉谷閑示(精神科医) ダイヤモンド・オンラインより

――「うつ」にまつわる誤解 その(10)

 「うつ」の治療において薬物療法が主流の今日ですが、クスリについて誤った認識を持っている方たちはまだまだ多いように思われます。周囲からの誤解や偏見もありますし、患者さん自身の間違った思い込みもあります。また、薬物療法はどんな状態に役立つのか、どんな場合には効果が期待できないのか、つまりその効用と限界について、大まかにでも知っておくことは大切なことです。
 多少専門的な話になってしまいますが、避けて通れない重要なことですので、今回はこのテーマについて触れてみたいと思います。
クスリに「頼っている」
という後ろめたさ

 「まだクスリに頼っているようでは、治ったとは言えないな」
 言葉にしてあからさまに言われるかどうかは別としても、周りからこんな見方をされてしまって窮屈な思いをしている方も、依然いらっしゃいます。また、患者さん自身でも、「クスリに頼ってしまっている」とある種の後ろめたさを感じている方が少なくありません。
 この「頼っている」という非難は、メンタル系のクスリにはどれも「依存性」があるという誤ったイメージを持っているところから来ているのではないかと思われます。
 「うつ」の治療で中心的に用いられる<抗うつ剤>には、通常、依存性はありません(以前、覚醒剤に分類されるリタリンという特殊な薬剤の安易な投与や乱用が問題になり、現在では処方が厳しく制限され、通常「うつ」に投与されることはなくなりましたが、これは例外的に依存性のあるものでした)。
 ですから、抗うつ剤に関して「頼っている」と捉えることは、完全に間違った認識だと言えるでしょう。むしろ、大部分の患者さんは「飲みたくはないけれど、少しでも良くなるように」と祈るような思いで、面倒でも服薬を続けているのです。
 しかし、もし患者さん自身が、クスリの使用に何らかのためらいや後ろめたさを持っている場合には、「クスリに頼っている」のではなく、「クスリを活用している」のだと捉え直していただくことが必要になります。
 クスリは、必要な時にはきちんと用いることが大切で、その後状態が改善するに従って減薬され、あるところから先は必要性がなくなるものです。クスリを活用することが望ましい状態なのに、ためらって医師の処方とは違った中途半端な服薬をしてしまいますと、かえって経過を長引かせてしまうことにもなりかねません。
抗うつ剤を飲んだら
眠くなったのは副作用か?

 「抗うつ剤を処方されて飲んだけど、すぐに眠気がひどく出たので、自分には合わないと思って飲むのを止めました」
 薬物療法開始時に、このような理由で服薬を中止される方がいます。しかしこれは、副作用が出て薬を中止したのだから適切な判断だった、とは言えないところがあるのです。

 以前から使われていた古典的なタイプの抗うつ剤(三環系や四環系と呼ばれる種類)では、確かにそのような可能性もあることは否定できませんが、近年主に使われている新しいタイプの抗うつ剤(SSRIやSNRIといわれる種類)では、古典的なタイプでしばしば問題になったような副作用(眠気、口の渇き、排尿困難など)がかなり改善されており、眠気が副作用ではなく「作用」によって生じた可能性も大いにあると考えられるのです。
 治療を受け始めるまでは、患者さんは慢性的な精神の緊張状態にあり、内部にはかなり蓄積した疲労を抱えているものです。そこに、抗うつ剤が投与されたことによって、精神の緊張が突然ゆるみ、蓄積していた疲労が一気に噴き出してきて、それが眠気として顕在化することは珍しくありません。
 ですからこの眠気は、むしろ望ましい変化の現われである可能性も大いに考えられるわけです。
 この点についての見分けは専門医でなければ難しいことも多いので、独断による服薬の中止はリスクが高いと言えるでしょう。
飲み忘れても
調子が悪くならなかったので…

 「クスリを飲み忘れた日があって、それでも調子は悪くなかったので、もう要らないんだと思ってクスリを止めてしまいました」
 これは、ある程度薬物療法を続けて、安定した状態にある患者さんによく見られる現象で、数日後にガクンと状態が悪化するリスクの高い、危険な誤解の一つです。
 これは、「飲んだクスリはその時に効くものだ」というイメージを持っているために起こった間違いだと考えられます。
 多くの抗不安剤(minor tranquilizer、一般に安定剤と言われるもの)や睡眠導入剤などは確かに効果が現れるまでの時間が短く、一定時間効いた後に効果は減衰していきますので、そのように捉えてもあながち間違っているとは言えません。
 しかし抗うつ剤の場合は、飲み始めても即座に効果が現れず、少なくとも数日以上かかって体内に一定量蓄積された後に本当の効果を発揮し始めるという性質があります。そして、突然服薬を中止しても、体内に蓄積されていた分が徐々に放散されるために、すぐにはその影響が現れてこないのです。ちょうど、電気回路においてコンデンサーを組み込んだような場合に相当します。ですから、断薬の影響は、数日後あたりに急激に現れてくる危険性が高いわけです。
 このように、クスリの種類によって随分と性質が違い、使用上の注意点も異なりますので、これもぜひ専門医のアドバイスを参考にして下さい。
クスリの効かない
「うつ」もある

 「うつ」の状態は、脳内物質(セロトニンなどの神経伝達物質)のアンバランスが原因である、という説が今日では主流になっています。先ほど触れた新しいタイプの抗うつ剤(SSRIやSNRI)は、まさにそのアンバランスを調整してくれるありがたい薬剤です。

 しかし、実際の「うつ」の治療においては、これらのクスリが良く効くタイプの方もあれば、ほとんど効果が生じない方もあります。
 第5回でも触れたことですが、近年「うつ病」の診断が下される病態の範囲がかなり広がってきてしまっていることが、その背景として大いに考えられます。
 大まかに言いますと、「内因性うつ病」や「躁うつ病」といった、旧来「うつ病」と診断されていたタイプの方たちにはかなり薬物療法が有効で、不可欠なことが多いようです。
 しかし、「適応障害」や「パーソナリティ障害」などがベースにあるような、新しく「うつ」と診断されるようになった病態の方たちの場合には、薬物療法で期待できるのはごく限定的な効果にとどまり、むしろ精神療法等によるアプローチが不可欠であると考えられるのです。
脳内物質のアンバランスが、
「うつ」の「原因」なのか?

 さて、先ほども触れた脳内物質のアンバランスが「うつ」の原因であるという説について、ここで1つだけどうしても論じておかなければならないことがあります。それは、脳内物質のアンバランスを「うつ」の原因と言って良いのだろうかという問題です。
 確かに、脳化学的な研究や薬理学的な研究では、そのような「アンバランス」が確認もしくは想定されるでしょう。しかし、これはあくまで現段階の科学で観察され得る物質レベルの「現象」に過ぎず、正確に言えば「中間現象」に過ぎないのではないかと思うのです。「うつ病」や「うつ状態」は、決して先天性疾患ではありませんから、なぜある時までは正常に機能していたのに、急に「アンバランス」が生じたのかと考えると、その「アンバランス」をひき起した「何物か」をこそ、真に「原因」と呼ぶべきではないだろうかと私は考えるのです。
 ですから、「アンバランス」を薬物療法によって整える作業は、厳密に言えば「うつ」という状態に対しての対症療法なのであって、「うつ」をひき起こした何らかの根源に対する根治療法とは言えないわけです。
 この真の原因としての「何物か」は、第4回でも触れましたが、その人の生き方に関わる深い次元での見直しを迫るメッセージを含んでいるもので、各人各様の内容を負ったものと考えられます。
 その次元に向けてアプローチを行なって根本的解決を目指す精神療法と、症状を軽減して療養しやすくすることで治癒力の発現を助ける薬物療法とを、それぞれの目的と限界を把握したうえで、病態や状態に合わせて上手に活用することが治療として大切なスタンスだろうと思います。
 ですから、「クスリさえ飲んでいれば良い」という考え方も「クスリには意味がない」という意見も、いずれも偏った認識なのであり、そのような極論に振り回されてしまうことは危険なことだと言えるでしょう。
 次回は、社会的にも大きな問題になっている「うつ」と「自殺」の問題を考えます。

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なぜ、「死にたい」と思うのか?――「ウツ」と「自殺」の関係
――「うつ」にまつわる誤解 その(11)

 皆さんもよくご承知の通り、自殺は「うつ」における最大のリスクであり、社会的にも大きな問題になっているものです。
 「どのような心理で、人は死を望むようになってしまうものなのか?」
 「死を望む状態の人に、周囲の人間はどう関わることができるのか?」
 非常に重いテーマではありますが、「うつ」を考える上で、決して避けて通れないこれらの問題について、今回は真正面から考えてみたいと思います。
死を望む人の心境とは?

 多くの場合、「死にたい」と訴えるクライアント(患者さん)は、積極的に「死」を望んでいるというよりは、むしろ、終りなく続くように見える苦しみからとにかく解放されたいという気持ちを強く抱いて、「死にたい」という言葉を口にされるものです。
 「死にたいなんて、とんでもないことを考えてはいけない」
 「死んだら周りの人がどんなに悲しむか、考えてごらんなさい」
 「死ぬのは罪であって、人は生きなければならないものだ」
 「生きるのはとても素晴らしいことなのだから、死んではいけません」
 「死にたい」と告げられた周囲の人は、このような言い方で反応することがとても多いようです。どれも「どうにか生きてほしい」という強い願いから発せられたはずの言葉なのですが、しかし、これらの表現では意図に反して相手に「理解してもらえなかった」という落胆をひき起し、さらにその人の自責の気持ちを強める結果を招いてしまうことになってしまうのです。
 さて、それはなぜなのでしょうか?
「死にたい」という言葉
の裏にある気持ち

 「死にたい」という気持ちを口にする人は、たとえわずかでも「ひょっとしてこれを話すことによって何らかの救いが得られるかもしれない」という期待を持っています。だからこそ、言いにくい気持を思い切って打ち明けているのだ、ということを聴く側は見落としてはなりません。
 打ち明けている本人は、「死にたい」と思っていることについて、決して罪悪感を持っていないわけではありません。むしろ、そんなことを考えてしまう自分を、執拗に責め続けてさえいるのです。
 そんなところに、先ほどのような「道徳的な説教」をされてしまいますと、「道徳的に自分を律することもできないダメな自分」という形で、さらに自己否定を強化する方向に追いつめてしまうことになるわけです。
 このような場合にまず必要なのは、本人の感じている辛さへの「共感」の作業です。「死にたい」という言葉が発せられている時点では、まだ「死ぬ」こととイコールなのではありません。むしろ、「死にたいくらい辛い」というSOSのメッセージなのです。
 ですから、何ら有効な助言などできなくともかまいません。中途半端に口を差し挟まずに、ただひたすらに「聴いてくれる」人間がいるだけでも、「死にたい」ほどの辛さは少しでも軽くなる部分があるのです。

「死にたい」が
封じられることの危険

 しかし、ひたすらに「死にたい」という気持ちを聴くことが可能になるためには、聴く側の人間自身が「道徳」という規範から自由になっていなければならないという問題があります。つまり、「死にたいなんて考えるのはよくないことだ」という一般的な道徳の範疇に留まっている限り、「死にたい」人間の気持ちに「共感」することには原理的な無理があるわけです。
 私たちは日頃、「死」というものから遠ざかって生活しているために、「死」という言葉を耳にしただけで、あわてふためいて、目をそむけてしまいがちです。それゆえに、「死にたい」という苦しみが吐露された場合に、それを受け止めきれずに、つい「道徳」や「ポジティブシンキング」などを持ちだして、もうそんなことを相手が考えないようにと封じ込めるような応対をしてしまうのです。
 厳しい指摘かも知れませんが、先ほど挙げたような応対では、相手のことを思って発言しているように見えて、実は「死」から目をそむけたいという無意識が現われた発言になってしまっているわけです。
 死にたいと打ち明けた人は、そのような反応が返ってきた場合に、「もうこの人には本当の気持ちを打ち明けるのはよそう」と考えて心を閉ざしてしまい、「大丈夫。もう死にたいなんて思わないから」と元気な自分を演じ始めるという、痛々しいことになってしまいます。そうして「死にたい」がどこにも言えないような状況がつくられてしまった場合にこそ、最も自殺の危険が高まってしまうことになります。
回復期における
「衝動的な自殺」に要注意

 内因性うつ病など、古典的なタイプの「うつ病」(第5回参照)の場合には、通常、発症以前には「死にたい」という気持ちは存在していません。しかし「うつ病」の病的な働きによって、病状がある程度以上悪化したところから、唐突に「死にたい」という気持ちが出現してくる傾向があります。クライアント自身にとっても、それはどうにも制御不能なものとして、強くのしかかって来ます。
 しかし、「うつ」状態がとてもひどい時期には、すべての意欲も活動性も落ちていますから、かえって自殺の意欲も弱まっていることが多いものです。むしろ心配なのは、その後復調していく途上において、意欲が回復してくるときなのです。いまだ不安定に揺れる気分と、ある程度回復した意欲とが、不幸にも「自殺の意欲」という方向で合体してしまったときに、衝動的に自殺が完遂されてしまう危険があるのです。
 気を付けなければならないのは、このような回復期においてクライアントは、決して持続的・計画的に自殺を考えているわけではなく、「早く治りたい」「治ったらあんなこともこんなこともしよう」と前向きなことを考えられる状態も混在しているので、直前まで自殺衝動が予測しにくいという点です。この「回復期にこそリスクが高まる」ということは、ぜひ皆さんに知っておいて頂きたい重要なポイントです。

 このようなタイプの「うつ病」の方の場合には、薬物療法の果たす役割がかなり大きいので、ある程度よくなったからといって早急に減薬や断薬を行なうことは危険を伴います。
 またこのタイプの方は、性格的に非常に周囲に気を使う傾向が強いので、余計な心配をかけまいと、身近な人にまでも「元気な自分」「前向きな自分」を自動的に演じている場合が少なくありません。ですから、「面倒くさい」「さぼりたい」「今日は調子が悪い」「ずっと休んでいられたらどんなに楽だろう」といった正直な発言が自然体でできるような方向にむけて、医療側も周囲の人間もサポートしていくことが大切なのです。
潜在的な「自殺願望」
を持つタイプも・・・

 さて一方、非定形うつ病・パーソナリティ障害を背景にしたうつ状態・神経症性のうつ状態等の病態(第5回参照)においては、古典的な「うつ病」の場合とはずいぶん内実が違ってきます。
 クライアントは発症するはるか以前から心の奥に自己否定を宿していることが多く、「死にたい」という気持ちは時期による強弱の波はあっても、持続的で然るべき歴史を持っていることが多いようです。ですから、いわゆるリストカッティングなどの自傷行為などを伴ったり、摂食障害などが見られたりすることも珍しくありません。自殺未遂が何度も反復されるケースもあります。
 このような病態では、古典的な「うつ病」に比べて、薬物療法はごく部分的な効果しか期待できません。むしろ、精神療法が果たす役割が大きいタイプであり、たとえば、生育史を丁寧にたどって自己否定の由来を明らかにしつつも、健全な自己愛を蘇生させる方向でガイドしていく、高度に専門的な対応が必要になります。
 心の奥に根深い人間不信や愛情への渇望が潜んでいることも多く、素人が中途半端な善意で関わっても、結果が裏目に出てしまう場合が少なくありません。
 また、「道徳的な説教」などは、このようなタイプの方たちにはまったく通用しません。内的に苦悩し、人間不信にもとづくシニカルな視点で人間観察を重ねてきた鋭い感受性と根深いペシミズム(厭世主義)とが、「道徳」を説く人間の無意識的な自己保身や「死」を突きつけられての困惑などを鋭く見抜いてしまうためです。
 ここで精神療法の具体的内容に触れることはしませんが、このような高い感受性と内省力を備えたタイプの方たちの治療は、然るべき質を備えたものであれば、その資質が社会的に素晴らしい働きを示すようなところまで十分に到達できる可能性があるものです。
 私はこれまでの臨床経験から、「本人が持て余している能力が症状に転化されているので、どうしてもその分症状が派手になっていることが多い」のではないかと感じています。この観点から見れば、このタイプの方たちの「死にたい」という気持ちの激しさは、実は「自分らしく生きられるのならば、生きたい」という心の痛切な叫びであるとも考えられるのです。
 次回は、うつ病の「病前性格」と言われているものについて考えてみましょう。

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「ウツ」になりやすいタイプに“異変”も 
――「ウツ」と「性格」の関係とは?
――「うつ」にまつわる誤解 その(12)

 「うつ」の状態が起こる要因の1つとして、もともとの性格がどうであったのかという問題があります。このように病気が生まれる土壌となる性格を専門的には、「病前性格」と呼びます。
 今回は、「うつ」に陥りやすい性格とはどんなものなのか、また、そのような性格は変えることができるのか、というテーマについて考えてみたいと思います。
「何事も正確に、綿密に・・・」
勤勉で善良なタイプの人が危ない!

 古典的なタイプのうつ病や躁うつ病(第5回参照)については、古くから病前性格についての議論がなされてきましたが、特に代表的な説として「メランコリー親和型性格」と「執着気質」があります。
 1961年にドイツの精神病理学者テレンバッハが提唱した「メランコリー親和型性格」というものは、次のような特徴をもつ性格を指しています。
 ☆作業に正確さを求める
 ☆綿密
 ☆勤勉
 ◆良心的
 ◆責任感が強い
 ◆対人関係では衝突を避け、他人に尽くそうとする
 これらは、いずれも「秩序を重んじる」という点で共通しています。
 これらの内容は、大きく2種類に分類できることがわかります。つまり、1つは作業をどう行なうかという「作業遂行上の秩序」で、もう1つは道徳・責任・人間関係などに関する「社会的な秩序」です。先ほどの項目で言えば、ちょうど上の3つと下の3つがそれぞれに相当します。
 「作業遂行上の秩序」は対象が「作業」ですから、時間と労力を必要なだけ充分にかけさえすれば、その高い要求水準を達成できるかもしれません。しかし、仕事や学業などにおいてはたいていの場合、外部からの制約が課せられてしまうものでしょう。つまり、締め切りで時間が限定されるでしょうし、作業量も自分の都合で勝手に減らすわけにはいきません。
 そのうえ「メランコリー親和型性格」の人は、性分として「正確に」「綿密に」行なわないと気がすまないわけですから、作業量は実質的には課せられたものの何倍にもふくれ上がってしまいます。
 このようにして過度な負荷がかかり、ついには達成不可能な状況にまで陥ってしまうと、「頭」の過度な要求にたまりかねた「心」(=「身体」)がブレーカーを落とすことになってしまいます(第1回参照)。これが「うつ状態」です。
「自分に鞭を打ち、衝突を避ける・・・」
責任感が強く良心的な人が陥りやすいワナ

 ここに、もう1つの「社会的な秩序」を重んじる傾向も加えて考えてみましょう。
 責任感が強く、良心的に業務を遂行すべきだと考える性格ですから、手抜きや期限を破るようなことを自分に許しません。たとえ作業量が多過ぎても異議を唱えたりすることなく、自分に厳しく鞭打って、睡眠時間を削ったりしてやり通そうとします。

 しかし誰にとっても1日は24時間であり、体力や集中力の持続にも当然限界がありますから、それを超えてしまった場合には、やはり破たんを来たしてしまうことになります。
 また人間関係で「衝突を避けようとする」傾向は、いくら自分がそう望んでいるからといって、「相手」のあることですから、時にうまくいかないこともあるでしょう。
 相手から無茶な要求を突きつけられた場合、あるいは、相手が悪意を向けてきた場合や不誠実な相手との関係等においては、「衝突を避け、良心的であり続ける」ことは、どんなにがんばってみてもうまくいかず、裏切られたり傷ついたりしてしまいます。
 そして、「心」から湧き上がってくる怒りや恨みなどの感情すらも「良心的」であろうと考える「頭」によって却下されてしまい、それら行き場のない感情が、「心」(=「身体」)のストライキ、つまり「うつ状態」を招くことになってしまうのです。
 もう1つの「執着気質」とは、精神病理学者の下田光造氏が1950年に躁うつ病者の病前性格として提唱したもので、「熱中性・徹底性・几帳面・真面目・責任感」を特徴とする気質です。熱中性(一度起こった感情が長く強度を持続すること)という項目を除けば、ほぼ先ほどの「メランコリー親和型性格」と重なる内容で、いずれも組織に重宝がられる模範社員・模範学生タイプなのです。
「遊びには行けても、会社には行けない」
新しいタイプの「うつ」になりやすい性格は?

 さらには近年、“遊びには行けても会社には行けない”といった一見怠けているかのように見える新しいタイプの「うつ」も増えてきています(第5回参照)。このタイプの「うつ」においては、性格傾向についてどのような特徴があるでしょうか。
 非定形うつ病、神経症、パーソナリティ障害、適応障害等が新しく「うつ」と診断されることの多い病態ですが、それぞれ様々な性格傾向の違いはあるものの、対人関係への過敏さ、つまり過度に「他人からどう思われるか」を気にする「神経症性」が存在していることや、不当に自己評価が低く、自分自身を無条件には愛せないという「自己愛」の問題などを根底に抱えている点で共通しています。
 この新しい「うつ」に陥りやすいタイプは、傷つきやすい繊細さを奥に秘め、他者からの評価を拠り所とする傾向が強く、それが時には感受性豊かな仕事を生んだり、人並み外れたがんばりを見せたりする原動力にもなります。
 しかし、ちょっとした失敗に挫折感を抱きやすかったり、人間関係による動揺が大きいといった弱点も抱える、敏感な性格傾向だと言えるでしょう。また、古典的な「うつ」についての「病前性格」の傾向も、程度は様々ですが、混在していることも少なくありません。
性格は一生変えられないのか?

 残念ながら、一部の専門家にすら「性格は一生変わらない」と考える向きがあるようですが、これは誤った認識だと言わざるを得ません。

 「性格」という概念を掘り下げて考えてみると、2つの要因によって構成されていることがわかります。
 人にはそれぞれ生まれ持った「資質」というものがありますが、これは一生変わることのない先天的なものです。しかし、「資質」はあくまで「性格」の素材であって、それがその後の環境要因や様々な人生上の出来事によって、後天的に変化発展していきます。つまり、その人の人生の歴史が「資質」という素材を料理し、「性格」を作り上げていくのです。
 「うつ」の問題に取り組んでいくうえで、先ほど述べたように「性格」は、発症の土壌となっている重要な要因です。もしも、この「性格」が変えようのないものだとすれば、治療法としてはひたすらにストレス要因を遠ざけ、症状を薬物によってコントロールする以外にないということになるでしょう。実際、そのように考えているとしか思えない治療が、残念なことに依然として巷にはびこっているように見受けられます。
 しかし、この「性格」に対するアプローチが決して不可能ではないと認識できれば、より根源的な治療の可能性もイメージできるのではないかと思うのです。
短所と長所は同じ資質だった

 先天的な「資質」を変えることはできませんし、変える必要もありません。「資質」自体は素材なのであって、素材が悪さをすることはないのです。問題となるのは、常に後天的な歴史による“変形”なのです。
 抽象的な言い方になりますが、「短所と長所は同じものの異なった現われである」と言うことができます。
 「資質」のプロフィールは人の数だけ様々あるのですが、なかでも突出して持っている性質を良い形で発揮できれば「長所」となり、誤ってマイナスの評価を下してぞんざいに扱えば「短所」になります(ロサンゼルス・オリンピックの柔道無差別級で金メダリストとなった山下泰裕氏が、子供時代にはよく喧嘩をして持て余していたけれども、柔道を始めることによって精神的にも安定するようになり、ついには世界一にまで登りつめたという逸話は、まさにその典型的な実例です)。
 ですから治療としては、「性格」として大づかみに捉えることを止め、そこから先天的な「資質」と後天的要素を丁寧に選り分ける作業を行なうことが必要になります。後天的要素の中には、「自己愛」の傷つきや「神経症性」を生み出す原因となった「心」の歴史も見つかってきます。これらを丁寧に扱い、現在にまで及んでいる心理的呪縛を解く作業を行ないます。
 そのうえで、「資質」が最も望ましい形で開花する方向を明らかにし、「頭」によるオーバーコントロールが解除されるように、ガイドやサポートを行ないます。
 「うつ」を生んでいる土壌である「性格」に対する治療アプローチとは、このように十分に可能なものなのです。
 次回は、「うつと闘う」という考え方についてとり上げてみたいと思います。



共通テーマ:日記・雑感

「うつ」は心の弱い人がかかるもの?

「うつ」は心の弱い人がかかるもの? 泉谷閑示(精神科医) ダイヤモンド・オンラインより

――「うつ」にまつわる誤解 その(1)

「8人に1人がうつ」の時代

 今年4月に新聞等でも報道されましたが、ファイザー株式会社が12歳以上対象の調査を行なった結果、8人に1人、つまり12%もの人が「うつ病」か「うつ状態」にあると考えられるという報告がありました。この数字が示していることは、もはや「うつ」というものが対岸の火事ではなく、どんな人にとっても避けて通れない身近な問題になってきているということです。
 そこで本連載は、毎回「うつ」について巷(ちまた)にあふれている様々な誤解に1つずつ焦点を当て、それを元にして、従来ありがちだった説明にとどまらず、「痒いところに手が届くような」斬新な「うつ」の見方やアプローチを、わかりやすくお伝えしていきたいと思っています。
「心が弱い」ってホント?

 ――「心の弱い奴が、『うつ』になるんだ」。
 ――「『病は気から』なんだから、強い精神力があれば『うつ』になるはずがない」。
 こんな考えを持っている人は、いまでも決して少なくありません。実際に「うつ」のクライアント(患者さん)の周りにいる同僚や上司、またご家族などでも、表むきは違っても、内心こんなふうに思っている方も結構いるでしょう。
 しかし、ほかの誰にも増してこのように考えているのは、当のクライアント自身です。ひたすら「弱い自分」「ダメな自分」を責め続け、空回りし、状態を自ら悪化させているのです。いわば「へたった馬に、鞭(むち)をひたすら打ち続ける」ような状況に陥ってしまっています。
 それにしても、「心が弱い」ということがあるのでしょうか? また、「精神力」というものの実体は一体何なのでしょうか? そしてそれは、「うつ」とどんな関係があるのでしょうか?
 そこでまずは、「心」や「精神」という言葉で私たちが漠然と指しているものを、一度きちんと整理してみるところから始めてみましょう。
人間を理解するために必要な
「頭」「心」「身体」の関係

【図1】
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 右の【図1】をご覧ください。これは、私たち人間の仕組みを、普段使いなれている「頭」「心」「身体」という3つの言葉を使って簡単に図式化してみたものです。
 最近は「脳ブーム」の時代ですから、「『頭』とか『心』と言っても、そんなの全部『脳』のことだろう?」と思う方もあるかもしれません。
 確かに、大脳生理学的に言えば「新皮質」「旧皮質」といったような分け方をすべきなのかもしれませんが、私がこれからお伝えしたいことを説明していくうえでは、それは必ずしも使い勝手がよくありません。むしろ、皆さんが日常的に使い慣れているこの「頭」や「心」という言葉の方が、きちんと定義付けして用いさえすれば、意外に奥行きがあって、人間のからくりを理解するためには大変有用なツールなのです。
不安な感情は、
「心」ではなく「頭」が生んだもの

 基本的に動物は、「心」=「身体」のみでできていると考えられます。図でおわかりのように、文字通り「一心同体」で「身体」とつながっています。ですから、決して「心」と「身体」は、矛盾したり対立したりすることがありません。喉が渇けば、水を飲みに行く。眠くなれば、寝る。実にシンプルです。

 そこに進化の過程で「頭」という部分がどんどん発達してきて、人間というものが誕生しました。この「頭」は、物事の「効率化」を図るために発達してきた部分です。一度うまくいったことをもう一度うまくやるとか、一人が見つけた獲物の居場所を仲間に知らせるとか、つまり、「二匹目のドジョウ」を狙うための機能を果たします。
 「頭」は理性の場であり、コンピューターのような働きをする場所で、情報処理を行ないます。すなわち、記憶・計算・比較・分析・推測・計画・論理思考などの作業をします。シミュレーション機能を持っていて、「過去」の分析や「未来」の予測を行うのは得意ですが、「現在」については苦手で、「今・ここ」を生きることはできません。(ですから、「過去」の後悔や「未来」の不安などの感情は、「心」由来ではなく「頭」由来なのだということになります。)
 また、「頭」は、must や should の系列の物言いをするのが特徴です。「~すべきだ」「~してはならない」「~にちがいない」といった感じです。
「心」の声に蓋(ふた)を
するとトラブルが・・・

 そして、「頭」は何でもコントロールをしたがる特徴があります。(そもそも「頭」の目指す「効率化」ということは、「うまくいく」ように事象をコントロールすることにほかなりません。)
 「頭」によるコントロールの鉾先(ほこさき)は、外界に向けられるだけでなく、自分自身の「心」や「身体」にも向けられます。先の【図1】のように、「頭」と「心」の間には蓋(ふた)のようなものがありますが、「頭」が「心」にコントロールを加えるときにはこの蓋を閉め、「心」からの発言を遮断してしまいます。そうすると、「頭」vs「心」=「身体」という2つの自分に分かれてしまうことになります。
 人間に生ずる様々なトラブルは、すべてがこの内部分裂と、それらの対立によるものなのですが、「うつ」のからくりを解くカギも、まさにここにあるのです。
「頭」は「心」を見下している?

 一方の「心」は、感情・欲求・感覚・直観の場です。
 「頭」は「過去」と「未来」が得意な時制でしたが、「心」はもっぱら「今・ここ」つまり「現在」に焦点を合わせます。「頭」の計画性とは対極の、自在な即興性を備えています。
 「心」が使う言葉は、want to や like の系列です。「~したい」「~したくない」「好き」「嫌い」などです。「頭」のように論理的思考を行いませんから、決して理由をくっつけた物言いはしません。いきなり結論だけを言ってくるのが特徴です。しかし、それは決してデタラメなものではありません。「心」はそもそも、「頭」とは比べ物にならないほど高度な知性と洞察力を備えているものなのです。しかし、あまりに高度なので「頭」には大抵解析不能です。
 ただし、近代以降の人間は「頭」(理性)の思い上がりが強くなってきているので、「頭」は「心」の出した結論を「気まぐれで当てにならないもの」と決め付け、却下してしまうことが多々あります。これが、人間のさまざまな不自然さや病をひき起こす原因の根本にあると考えられます。まるで、天気予報が外れたときに「予報は正しいのに、天気の方が気まぐれなんだ」と考えるような本末転倒が、私たち現代人の内部では日常的に起こっているのです。

「うつ」は心と身体のストライキ

 それではいよいよ、「うつ」の状態について見ていきましょう。
【図2】

 生き物として人間の中心にある「心」=「身体」に対し、進化的に新参者として登場してきた「頭」が、徐々にその権力を増大し、現代人はいわば、「頭」による独裁体制が敷かれた国家のような状態にあります(【図2】参照)。
 それに対して、国民に相当する「心」=「身体」側が、「頭」の長期的な圧政にたまりかねて全面的なストライキを決行する。もはや、「頭」の強権的指令に一切応じなくなる。これが「うつ」の状態です。(中には、過酷な奴隷扱いがあまりに長期間にわたった結果、「心」=「身体」がすっかり疲弊してしまい、ストライキというよりも、潰れて動けない状態になってしまっている場合もあります。)
「精神力」の強い人こそ危ない

 私はこれまで「うつ」のクライアントをたくさん診てきましたが、どの方にも共通して認められる特徴があります。
 それは、意志力の強さと我慢強さです。これは、先ほどの説明になぞらえれば「頭」のコントロール力が強いということであり、「頭」が「心」=「身体」に一方的に命令をし、クレームを一切聞き入れない体制がガッチリ敷かれている状態のことです。
 ですから、多くの場合、発症前までは、責任感が強く完全主義的でありながらも他者配慮も欠かさないような、いわゆる「過剰適応」であった人たちが、その果てに「うつ」に陥っているのが実態です。巷(ちまた)で「精神力」と言っているのは、まさにこの「頭」の強権的コントロール力のことなのですから、むしろ「精神力の強い人こそ、『うつ』になるリスクが高い」と言うべきです。
「頭」の支配から脱却せよ!

 「うつ」のこのようなからくりがおわかり頂ければ、誰が考えても解決の方向は「民主化」以外にないことははっきりしています。つまり、「頭」支配から脱却し、「心」=「身体」を復権させることです。
 しかし残念なことに、往々にして「頭」は、「心」=「身体」のストライキに対して以前にも増して「働け!」と命令し続け、それでも応じない自分自身を「生きる価値のないダメな奴」と見なし、自殺願望へと向かってしまうというような、泥沼状態のケースも少なくありません。(「心」=「身体」の復権にむけての考え方や療養のポイントについては、次回以降の連載の中でも、様々な形でお伝えしていくことに致します。)
 このように、わけあって「心」が動かなくなったのが「うつ」の状態の真の姿です。それを、事の表面だけを見て「心が弱い」「精神力が足りない」と見るのは、いかに実態と程遠いものであるかがおわかり頂けたと思います。この理解があれば、なぜ「『うつ』の人を励ましてはいけない」と一般的注意として言われているのか、なぜ「うつ」の人を叱ったり発破をかけたりすることでは解決しないのか、などなどがすんなり納得できるのではないでしょうか。
 次回は、「うつ」というものはどのように始まるものなのか、どんな状態が発症の兆候なのだろうかといった、どんな人でも気がかりなポイントに迫ってみたいと思っています。

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自分なら「ウツ」は必ず自覚できる、という誤解
――「うつ」にまつわる誤解 その(2)

得意先への電話がかけられない!

 Aさんは、大手の事務機器販売会社に入社して8年目の営業マン。いくつかの販売店や小さな支店を経て、2年前から現在の都心部の支店に勤務しています。大口の得意先をいくつも任されていますが、それに甘んじることなく新規の顧客開拓にも力を注いできました。
 部内でも常にトップランクの業績をあげ、何度も社内表彰されたこともあります。もともとが体育会系の出身なので、健康と体力だけは誰にも負けない自信がありました。「どんなことでも、やるからにはとことんやる!」というのがAさんの信条で、ちょっとでも納得の行かない点があれば深夜になるのもいとわずに仕事をしました。そんな徹底主義・完璧主義は、ひそかに彼の誇りでもあったのです。
 ある時、商品納入で予期せぬ大きなトラブルが発生しました。
 製造元の事情で、納品が予定期日に全然、間に合いそうにないというのです。得意先は大手企業の本社で、Aさんの日頃の営業努力の甲斐もあり、ある機器の大量購入を決断してもらえたのです。Aさんにとっては、ここ一番という大勝負。それが、このままでは信用をなくす結果に陥ってしまう。Aさんは大いに悩みました。
 しかし、その後の誠実な対応が功を奏して、どうにか得意先にも事情を理解してもらえ、最終的にはどうにか得意先にも喜んでもらうことができたのでした。
 しかし、その頃からAさんの様子にいろいろと変化が現れるようになったのです。
 前ならば何ということもなかったはずの、得意先へのほんの電話一本がかけられないのです。先日のトラブルとまったく関係のない得意先であっても、とにかく電話自体が怖くなってしまっている。そして、気付くと何時間も逡巡してしまっている。
 電話だけでなく、簡単な書類一枚を作るのも、メールを一本打つのも、どうでもいいところで引っかかってしまって、気付くと時間だけが過ぎている。結局、何をするにも以前の2倍も3倍も時間がかかるようになり、その分、残業時間は延び、休日出勤も増えてきていました。
 パソコンに向かいながら、知らず知らず意識が遠のいて、深い眠りに落ちることもしばしば。様子の変化に気付きはじめた上司からも「いつもの君らしくないなあ。体調でも悪いのか? そう言えば、近頃顔色が悪いぞ」と言われる始末です。自分でいくら気をつけようと思っても、どうにもならない。どうしようもないときには、ついにAさんはトイレに入って仮眠をとるようにもなってしまったのです。「どんなに睡眠不足でも、今までこんなことはなかったのになあ……」と、自分のことながら途方に暮れはじめていました。

ある朝突然、身体が動かなくなった

 朝は、眠気とだるさで、洋服を着替えるにも妙に時間がかかるようになってしまい、ほんのネクタイ一本が選び切れない。クローゼットの前で呆然と立ち尽くして、気がつけばもう家を出る時間。うかうかしていたら電車に間に合わない。そんなことは重々わかっていても、身体がテキパキと動いてくれないのです。
 ある朝のことです。
 重たい身体を引きずってどうにか玄関に立ったAさん。玄関で靴を履こうとしたところで、ついに、まったく動けなくなってしまったのです。
――「いったい何が起こったんだ?」「俺は、どうしちゃったんだ?」
 頭の中を、そんな疑問がグルグルと駆けめぐる。しかし、どうやっても身体は動こうとしない。気づくと、涙があふれてきている。
――「悲しいことなんか何もないのに、どうして俺は泣いているんだ?」
 様子がおかしいと気が付いた妻が玄関に駆けつけてみると、そこには、呆然とした表情で目には涙をいっぱいにためた夫が、立ちつくしていました。
 「どうしたの? 何かあったの?」と声をかけてみても、すぐには答えが返ってこない。しばらくして、やっと重たい口がひらく。「なんにも……でも……どうしても、身体が動かないんだ!」
 そして、子供のように泣きじゃくる夫の異常な姿を見て、妻は「これはただ事ではない」と、すぐに病院を受診させることにしたのでした。
 Aさんの「うつ」は、このようにして始まったのです。
「うつ」は自覚できないこともある

 このAさんのように、「うつ」は、必ずしも典型的な抑うつ気分(落ち込んだ気分)から始まるとは限りません。「心」の叫びは、初期の段階では、「身体」のさまざまな不調として現れてくることも珍しくはないのです。
 Aさんの例で見てみますと、まずは「電話がかけられない」という異常が起こり、徐々に集中困難、作業能率や判断力の低下、疲れ易さ、全身倦怠感、眠気などが見られるようになって、ついに出勤時に「動けない」状態に陥りました。そして、本人にも不可解な涙まで出てきています。

 私がこれまで実際に経験したさまざまな「うつ」のケースを思い起こしてみますと、初期症状として現われた身体症状には、かなりのバリエーションがあります。
 たとえば、胸の痛み、過呼吸発作(過換気症候群)、手の震え、声が出ない(失声)、吐気、食欲の減退、性欲の減退、冷汗、めまい、頭痛、胃痛(胃潰瘍、胃炎、胃痙攣)、下腹部痛、動悸、喉に物が詰まったような違和感、眼痛、肩こり、腰痛、等々さまざまです。
 「仮面うつ病」という病名があります。どこかで聞いたことがあるかもしれませんが、これはmasked depressionの訳語で、「隠されたうつ病」という意味です。つまり、身体症状だけが前面に現れている状態なので、「うつ」であるとは全然自覚されずに、身体の病気と捉えられてしまう病態を指します(「仮面」のように無表情な顔をしている「うつ病」のことだと誤解しているむきもあるようですが、そうではありません)。
 ですから、「仮面うつ病」の場合は、本人も身体疾患だと思っているので内科などを受診することが多いのです。精神的な自覚症状が本人にないのですから、内科医も「うつ」が隠れていることを見過ごして、内科的治療だけを続けてしまうことも少なくありません。
 Aさんの場合は、集中困難や眠気等の精神的症状も現われていますので、診断上は「仮面うつ病」には当てはまりませんが、精神的な問題という自覚がないところは、とても似かよっています。
「身体」に症状となって
現われる「心」のSOS

 右図を見てください。
 前回(第1回)にもご説明しましたが、現代人にありがちな、「頭」が強権的に自分全体を支配している状態では、「頭」によって「心」との間の蓋(ふた)が、強力に閉められてしまっています。すると、「心」が出すさまざまなSOS(警告)は「頭」に聞き届けられない。つまり、SOSは意識されないまま、自動的に却下されてしまうことになります。
 そのようにSOSを出しても「頭」に聞き入れられないとすれば、「心」は次の手段に打って出ます。
 「心」は一心同体の同盟者である「身体」に協力を要請し、何らかの身体症状を出現させることで、「頭」(意識)に危機的状況にあることを知らせようとするのです(これを専門的には「身体化症状」と言います)。

身体症状という暗号をどう解読する?

 つまり、出現するさまざまな身体症状は、どれも「心」から発せられるSOSのシグナルなのです。しかし、もし症状がデタラメな出方をしたとすれば、重要な目的であるシグナルとしての役目を果たすことができません。症状には必ず「何についてのどんなSOSなのか」というメッセージが含まれているものなのです。
 しかし、このメッセージはいわば「身体言語」というものに暗号化されています。ですから、これを適切に受け取るためには、暗号解読(デコード)が必要になってきます。難しそうに感じるかもしれませんが、この暗号解読はコツさえつかめば誰にでもある程度可能なのです。
 この暗号は、「象徴化」というコードによって行われているので、それを読み解けばよいのです。つまり、身体症状を一種の比喩として捉えてみればメッセージが見えてくるのです。しかし、そういわれてもピンと来ないかもしれませんので、もっと簡単に説明しますと、身体症状とは「心」の「ある目的」を実現するために理にかなったことをしてきているに違いない、と考えてみればよいのです。そういう見方さえできれば、身体症状を手掛かりにして「心」が訴えたいメッセージを知ることは、さほど難しいものではありません。
 たとえばAさんの場合、まず仕事そのものを妨げる諸症状が現われ、次いで出社そのものをも邪魔するような判断力低下・動作緩慢も出現してきました。しかし、それでもSOSを受け取ってはもらえなかったので、ある朝、ついに出勤そのものを阻止するように、身体を動かなくして実力行使に出たのだ、と考えられるのです。つまり、そこに込められたメッセージは、「このままの過酷なやり方で仕事を続けていくことはもう止めてほしい」という叫びであったと思われます。
自分を「うつ」に
追い込まないためには?

 日々のさまざまなストレス状況を生きている私たちが、自分自身を「うつ」に追い込んでしまわないためには、「身体」にかすかに表れた変調を早めに察知し、「心」のシグナルを受け取れるような心構えを作っておくことが大切です。
 身体の不調を、ただ「困ったこと」と受け取るのではなく、「これは何を言っているのだろうか?」という問いを持つこと。そして、それを手がかりに、自分の「心」に耳を傾けてみること。これを続けていくことで、少しずつ「頭」と「心」の間の蓋(ふた)が開くような自分になっていきます。
 それは、単に「うつ」を遠ざけるのみならず、自然体で生き生きした、本来の自分の姿を取り戻すことにもつながるのです。
 次回は、とても身近なテーマである〈遅刻と「うつ」の関係〉をめぐって詳しく考えてみたいと思っています。

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「ウツ」の人が遅刻や無断欠勤を繰り返すのは、責任感が足りないから?
――「うつ」にまつわる誤解 その(3)

遅刻が止まらない!

 「遅刻をするのは、自分にだらしない証拠だ。もっと責任感をもってきちんと自己管理すべきだよ」
 今月に入って半分以上遅刻が続いてしまった事務職のK子さんは、ついに上司からも注意を受けてしまいました。さすがにここまで遅刻が続くと、上司だって黙って見過ごすわけにいかないのは当然です。K子さん自身も、どうにか直さなきゃと思ってはいても、自分でもどうにもならない泥沼状態にはまってしまった感じで、途方に暮れていたところでした。
 「明日こそ、絶対に遅れないようにしよう!」
 K子さんは、そんなふうに毎晩寝る前に強く思うのですが、翌朝になるとぼんやりした意識の中で目覚まし時計を知らぬ間に止めてしまって、そのまま意識を失い、気がついた時にはもうどんなに頑張っても間に合わない時間になってしまっているのです。
 K子さんは決して元々時間にルーズな方ではなかったし、いわゆる遅刻魔などでもありませんでした。むしろ、責任感も強く、どちらかというと几帳面な性格の持ち主だったのです。
 しかし、先月あたりからポツリポツリ遅刻するようになってきて、その後徐々に頻度が増えてきて、今月に入ってからはどんどんひどくなる一方なのでした。
ついに、無断欠勤

 上司に注意を受ける前から、K子さん自身も「みんなが普通にできてることもできない自分なんて、社会人として失格。意志の弱い人間で、みんなに迷惑ばかりかけている」と、痛いほど自己嫌悪していました。
 そんな風に反省を重ねても、ただ自信を失くして自分が嫌いになる気持ちを強めるばかりで、状態の改善にはちっともつながりませんでした。
 ある日のこと、妙にシーンとした空気感の中で目覚めて、時計に目をやったK子さん。
 「えっ?まさか……!」
 もう、会社の始業時間はとうに過ぎていて、今から支度して急いでも会社に着く頃には昼休みの時間帯になってしまう。
 上司に注意を受けて間もなくこんな大遅刻では、もうあわせる顔もありません。同僚たちの、あきれ返った冷たい視線も想像されます。そうかと言って、仮病を使って休むにしてもこんな時間になってからでは、手遅れ。ああ、どうしよう……。
 そんな風にあれこれ思い悩んでいるうちにどんどん頭は混乱して、会社へ行くことも電話をすることもできないまま、K子さんはもう何もかもどうでもよくなって、ただただ消えてしまいたい気持ち一色になってしまったのです。そして、解決とは正反対のむちゃくちゃな行動だとわかっていながらも、K子さんは布団にもぐりこんでしまうしかありませんでした。
 こうして、K子さんは無断欠勤をも重ねることになっていったのです。

遅刻と「うつ」の関係は?

 ここでまず、お断りしておかなければならないのは、遅刻は必ずしも「うつ」にだけ見られる現象ではないということです。慢性的に遅刻癖のある人も珍しくありませんし、強迫神経症(強迫性障害)など他の病態の場合でもいくらでも遅刻は起こりうるからです。もちろん、社会性が身についていないような人の遅刻も大いにあり得るでしょう。
 しかし、それまで遅刻癖もなかったような人が、ある時期を境にして遅刻が急激に増えて、ついには無断欠勤にまでいたってしまうような経過が見られた場合には、その人が「うつ」の状態に陥っている可能性は高いと考えられます。
 このK子さんの場合は、その意味ではかなり要注意な状態にあると言えるでしょう。そして、上司の発した「自分にだらしない」「もっと自己管理すべき」という注意は、この場合にはまったく役に立たないどころか、むしろ逆効果になってしまったと考えられます。
遅刻のからくりとは?

 さて、遅刻とはどのようなからくりで起こるものなのか、ここで詳しく考えてみましょう。
 さて、今回も毎度おなじみの図が登場しました。
「頭」はいつものように「心」=「身体」との間の蓋を閉めてしまっています。そして、寝ているということは、「頭」も寝ている状態なのですが、目覚まし時計が鳴った時にぼんやりした状態の中で、こう考えます。「今この目覚まし時計を止めても、きっと自分は、5分後にキチンと目覚めるはずだ」と。
 ところが、「心」の方は自然児そのものですから、「頭」が考えるような責任とか義務感などとはまったく関係なく、「まだ眠いから、このまま寝ていたい」と思っているのです。「身体」は「心」と一心同体ですから、目覚まし時計を止めて眼を閉じたら最後、決して5分後に目覚めるなどという〈奇跡〉は起こらないのです。
 「頭」は、蓋を閉めているので「心」の正直な声を聴くことができていませんから、「あるべき自己」しか見えていません。つまり、「キチンと起きるべきだ」という「頭」だけの考えが、「自分はキチンと起きるに違いない」という間違った認識にすり替えられてしまっているわけです。
 また特に、寝覚めの時には「頭」自体がまだぼんやりしていますから、「頭」お得意の「心」=「身体」への強権的コントロールは、うまく機能しません。よって、「心」の刹那的な「このまま寝ていたい」が勝利をおさめることになりやすいわけです。

責任感が足りないから
遅刻するのか?

 K子さんは、上司から「責任感」が足りないと指摘され、「キチンと自己管理すべきだ」と言われてしまいました。しかし、K子さんとしては、いくら気をつけようと思っても、結局遅刻を繰り返してしまう。そんな自分自身に、かなり自己嫌悪してしまっています。
 「あるべき自己」と「ある自己」という言葉を使って心理状態を整理してみると、遅刻してしまう状態の人は、自己イメージが「あるべき自己」一色になってしまっていて、「ある自己」が見えなくなってしまっているのだと言えるでしょう。
 そこに、「自己管理すべき」とか「責任感が足りない」といったフレーズは、「頭」の「あるべき」の方ばかりを強化するような言葉ですから、まったく逆効果にしかならないのは明らかなことなのです。
自分に謝ることが大切

 さて、この「遅刻」というものについて、時間軸を過去にたどって眺めてみると、せいぜいここ百数十年程度しか存在していない、極めて新しい観念であることがわかります。つまり、時計などという反自然的で機械的なものに人間が束縛されるようになって登場した、まったく人為的な事態が「遅刻」なのです。
 ですから、大自然由来の「心」=「身体」にしてみれば、機械の時間に合わせて季節も体調も関係なしに起きなければならないことなど、不自然極まりないことであり、やりたくないに決まっているわけです。それを、社会化された「頭」の命令にいつも無理に従わされて、いやいや毎朝起きているのが現代人の実状なのです。
 そういう認識が普段からできていれば、「あるべき自己」とは、現代社会という人為的「ごっこ」の世界の中では望ましいとされている姿に過ぎないわけで、「ある自己」は、かなり無理をしてそれに合わせてくれているのだということが感じられるはずです。
 そうすれば私たちも、「自己管理」とか「自己コントロール」といった「頭」中心の横柄な発想ではなく、「こんな時代に生まれたので、いつも不自然な無理をかけて申し訳ない」といった謝罪といたわりの気持ちが、自分の「心」=「身体」に対して向かうはずです。
 これで、蓋は開き、「ある自己」を見失わない柔らかく自然な自分が保たれるはずですし、遅刻はもちろん、「うつ」という事態に自分を追い込むこともないでしょう。
 次回は、巷でよく耳にする「『うつ』は心の風邪である」ということについて、考えてみましょう。

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「ウツ」を“心の風邪”と喩えることの落とし穴
――「うつ」にまつわる誤解 その(4)

なぜ「心の風邪」と
言われるの?

 当連載も含めて、近年では「うつ」についての情報が様々なメディアを通じて頻繁に発信されるようになり、いまだ十分ではないにせよ、徐々に一般の方々に「うつ」が認知され始めてきています。そのような情報の中でかなり高い頻度でお目にかかる説明に、「うつは心の風邪です」という表現があります。
 これは、人々の「うつ」に対する偏見や恐怖心を払拭し、早期発見と気軽な早期受診を促すキャッチコピーとして、かなり役立ってきているものでしょう。また、ことに精神論に傾きがちな日本の風潮に対して、このフレーズには「うつ」を身体的な病気に近いイメージで捉えてもらうための、啓蒙的な効果もあるものと思われます。
 専門的なことですが、近年、有効性が高く副作用の少ないSSRIやSNRIと言われる新しい種類の抗うつ薬が登場したことで、薬物療法での治療効果がかなり期待できるものになりました。そういう背景もあって、この表現には「風邪の時に感冒薬で気軽に対処するように、『うつ』も気軽に治療を受けて、早目に治してしまいましょう」というメッセージも込められてもいるわけです。
 また、「うつ」が「風邪」に喩えられた理由としては、かかる頻度の高い病気であるということや、甘く見てこじらせると重症化する危険があるためなのだろうと思われます。
 しかしながら、もう一歩踏み込んで考えてみたときに、この「風邪」という比喩には、さまざまな誤解を生んでしまう一面もあることは否定できません。
本当に「心の風邪」なの?

――「実際うつにかかってみればわかると思うけど、『風邪』なんて甘いもんじゃない。毎日死にたい気持ちとの闘いなんだから!」
――「風邪だったら数日から1週間もあれば治るだろうけど、うつはどんなに早くたって治るのに数ヵ月以上はかかるよ」
 「うつ」を実際に経験した患者さんたち生の声として、こういう意見もよく聞かれます。
 また、実際に「うつ」の診療に従事している臨床医たちからは、
――「そんなに生易しい病気ではない」

――「風邪ならば放っておいて治ることも多いが、『うつ』はきちんと治療を受けなければ、自殺のおそれもある大変に危険なものだ」
――「『風邪』というよりは、治療期間も長く安静を必要とするから、むしろ疲労骨折に喩えるべきだ」
 などの意見も聞かれます。
 確かにそういった意味で、「うつ」というものが「風邪」という表現に収まり切らないことも事実です。
 しかし、ここで私があえて問題提起したいと思うのは、またそれとは違った観点からのことなのです。
2つの誤解を
生みだすおそれ

 「うつは心の風邪である」というキャッチコピーによって、多くの患者さんたちが気軽に医療機関を受診し相談しやすくなったことは事実であり、とても意義のある啓蒙が行われたと言えるでしょう。しかしながら、受診後の治療を進めていくうえで、この表現には、2つの誤解を生んでしまう要素も含まれていると考えられるのです。
 それは、「うつ」の治癒イメージについての誤解と、「うつ」をどう捉えるべきかをめぐっての誤解の2点です。
「うつ」治療のゴールは?

 「うつ」が「治る」ことについて、専門医は多くの場合、「治癒」という言葉は使わずに、「寛解(かんかい)」という専門用語を用います。この「寛解」とはremissionの訳語で、症状が緩和され病気の勢いが治まった状態を指す言葉で、身体疾患では白血病などでよく使われる表現です。
 つまり、これは完全に治った状態を指すのではなく、病気の勢いが衰えて症状が出ていない状態を示す言葉です。さらに言えば、再発の危険性が残っていることを視野に入れた概念だということになります。
 巷で一般的に行われている薬物療法と休養主体のスタンダードな治療では、たいていはこの「寛解」が目標地点になっています。それは、どうしても再発が防ぎ切れないという限界があるためです。
 ですから多くの場合、「寛解」後にも当分の間は再発予防のために「無理をしないように」という指示を守っていかなければなりませんし、少量ですが薬物療法の継続も必要とされることが多いのです。

喩えと現実の
大きなギャップ

 しかし、「『うつ』は心の風邪です」というフレーズを聞いて治療に踏み切った患者さんやそのご家族は、当然のことですが「風邪のように跡形もなくスッキリ治る」ことをイメージされるはずです。そこに、医療者側と患者さん側との間の大きなイメージギャップが生じることになりやすい原因があります。
 私のもとを訪ねて来られる方々の中には、社会復帰しても短期間で再発(再燃)するということを何度も繰り返してきていて、長い治療歴もあって、いらした時点ではかなり疲弊されているケースも少なくありません。
 そのような経緯で来られた患者さんやご家族は、長い期間にわたって指示通り忠実に服薬し休養してきたにもかかわらず、ある程度以上の改善が見られなかったがために、「いつになったら本当に治るんでしょうか?」と、諦めと恨めしさの入り混じった気持ちで疑問をぶつけてこられることがあります。これは明らかに、「治る」ということをめぐる双方のイメージギャップが、曖昧なまま引き延ばされてきたことによるものだと思われます。
 それでは「うつ」において、再発の危険性のある「寛解」ではなく、本当の「治癒」に到達することは望めないのでしょうか?
病は、自分自身を
救い出そうとしている!

 そこで、「病というものは、何らかのメッセージを自分自身に伝えるべく内側から湧き起こって来るものである」、または「病は、その中核的な症状によって、自分自身をより自然で望ましい状態に導こうとしている」という考え方を採り入れてみることが大切になります。つまり、病は「自分自身を好ましくない今の状態から救い出そうとしている」ということです。
 このような観点は、古い医学や民間医療・代替医療の中に見つかることはありますが、近代以降の西洋医学が切り捨て、忘れてきてしまったものです。しかし、この観点を導入して考えてみますと、「うつ」の治療においても、何が見落とされてしまっていたのかが明らかになってくるのです。
「元に戻る」ことが
再発をまねく

 「風邪」が治るとは、風邪をひく前の状態に身体状態が戻ることを指すわけですが、「うつ」を「風邪」に喩えてしまいますと、同じように、発病前の状態に戻ることを目指すようなイメージが作り出されてしまいます。私は、これが「うつ」の再発・再燃をひき起している大きな要因の1つだと考えています。

 「うつ」から回復した方々の体験記がいろいろと出版されたり、TV等でとり上げられたりすることが増えてきて、一般の方たちでも患者さんの生の声を聴く機会が増えてきていると思いますが、そこでぜひ着目していただきたいのが、見事な治り方をされた方たちは、まず例外なく、発症前までの自身の「生き方」や「考え方」について、かなり根本的な見直しをされているという点です。私が担当した方々が語った次のような言葉が、その心境をよく表わしたものとして、強く印象に残っています。
――「そもそも幸せになりたくて仕事をしていたはずなのに、いつの間にか会社のために仕事をしている自分になってしまっていた。そのことに、やっと気が付いたんです」
――「これまで、ひたすら世間的に評価されることばかり追い求め、不自然な努力を自分に強いる生活に慣れっこになって、本当の自分らしさなんてすっかり忘れて、かなり麻痺していたんだなとわかったんです」
 このような言葉からもわかるように、「うつ」からの本当の脱出とは、元の自分に戻ることなのではなく、モデルチェンジしたような、より自然体の自分に新しく生まれ変わるような形で実現されるものだと言えるでしょう。repair(修理)のような治療では、どうしても再発のリスクを残してしまう限界があるのですが、reborn(生まれ直し)あるいはnewborn(新たに生まれ直す)とでも言うべき深い次元での変化が、真の「治癒」には不可欠なのだと考えられます。
一番大切な作業が、
本人任せだった!

 抗うつ薬により、うつ症状の脳化学的原因と見なされている脳内物質(セロトニン等)のアンバランスを改善することができるようになってきましたし、認知療法等によって、悲観的に物事を受け取る癖や無理な努力を自分に強いる考え方を修正するための方法論も整備されてきました。「うつ」の状態や内容に応じて、それらのアプローチが不可欠であることも少なくありませんから、決してこれらの治療を軽視すべきではありません。
 しかしながら、さらにその奥に潜んでいる「うつ」の本当の病根が何であるのか、その大切なメッセージを汲み取る作業は、これまでほとんど、患者さん自身にゆだねられていた状況にありました。そのため、その作業の存在に気付き、みずからそれを成し遂げることができた一部の幸運な患者さんだけが自力で本当の「治癒」を達成できたという、いわば運任せ的な状況にありました。
 しかし、「うつ」がこれほどポピュラーになってきた現代に、われわれ精神医学・精神医療の側も、西洋医学という実証的科学の限界にとらわれることなく、この大切な作業をも視野に入れて、手応えの実感していただけるような援助をしていくべきではなかろうかと私は思うのです。
 次回は、「うつ」と呼ばれているものは果たして1つの病気を指しているのだろうか、ということについて考えてみたいと思います。

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遊びには行けても、会社には行けない――これは本当に「ウツ」なのか?
――「うつ」にまつわる誤解 その(5)

 出版社で課長職にあるTさんの部下E子さんは、「うつ病」で半年前から休職中です。
 E子さんの休職は「うつ病のため、自宅療養を要す」という医師の診断書が提出されての正式なものではあるのですが、上司であるTさんは内心、「E子さんは本当にうつ病なのだろうか?」と疑問を抱いています。
 E子さんは以前から、仕事がいよいよ忙しくなるという時期になると、決まって体調不良を理由に休み始めるパターンを繰り返していました。そのことは、グループ管理者としてのTさんの頭をずいぶん悩ましていたのでした。
 E子さんのこの傾向は年々ひどくなってきていて、当然、部課内の他のスタッフたちも、もうすっかりE子さんを当てにしないような雰囲気になってきていました。
 そして、皆がひそかに予想していた通り、E子さんは半年前についに本格的な病気休職に入ったのでした。
 「結局、彼女は大変な仕事はしたくないってことなんでしょ」
 「あれはきっと、最近よく言われてる『偽うつ』なんじゃない?」
 「まあ、仮病の一種だよな。だって、聞いた話じゃ自宅療養中なのに、旅行とか行ったりして、楽しく遊んでるらしいぜ」
 「えーっ本当? それって、絶対『うつ』じゃないわ! だって、私の叔母さんが前に『うつ』になったことがあるからよく知ってるけど、『うつ』の人って、全然動けなくなったりして、ちょっと外出するのさえ一苦労っていう感じになるものなのよ」
 部下たちのこんなやり取りも、Tさんの耳に入って来ています。
 Tさんには、「うつ病」とはいったい何なのか、段々わからなくなってきていました。折にふれて「うつ」に関する本やTVの「うつ」特集などは気にして見るようにしているのですが、「うつ」についての様々な情報は入ってくるものの、言っていることがそれぞれ微妙に食い違っていたり、そこで言われている「うつ」にはE子さんの状態が当てはまらないところもあったりして、どこか判然としないのです。
医師も戸惑うほど変わる
「うつ病」の定義

 このTさんのように、「うつ」に関して、わかるようでわからないという感想を持っている方も決して少なくないことだろうと思います。
 実際、現場で臨床をしている私自身も、特にこの10年ほどの間で、目まぐるしく「うつ」についての定義や情報が変化してきていることに、正直なところかなり戸惑いを覚えているほどです。ですから、一般の方たちにとってはなおのこと、わかりにくい状況だろうと思います。
 さて、このE子さんが果たして本当に「うつ」なのかどうかを考える前に、少々専門的ですが、いくつか説明しておかなければならないことがあります。
診断法が変わってきた
「お家事情」

 そもそも従来の日本の精神医学・医療は、ドイツ流の精神医学に倣った診断学を基礎にして、診断や治療を行っていました。そして「うつ病」と言えば、主に「内因性うつ病」というものを指していたのです。これは、今日では「典型的うつ病」「古典的なうつ病」と言われたりします。ここに躁状態も加わっている場合には、これを「躁うつ病」と呼びました。

 また、同じく「うつ状態」が認められるものでも、神経症的な傾向がベースにあって起こったものについては、「抑うつ神経症(神経症性うつ病)」という別の診断を下して、「内因性うつ病」とは区別していました。それは、症状の重症度や性質が異なり、病気の経過も違ってきますし、何よりも治療法自体がずいぶん違うものだからなのです。
 そしてまた、他の疾患の一症状として「うつ状態」が起こっている場合には、その原疾患で診断するのであって、決して「うつ病」という診断名にはならなかったのです。
 ところが近年、アメリカ精神医学会が作り出したDSMという診断基準や、WHO(世界保健機関)が作った診断マニュアルのICDというものが登場し、あっという間にこれらが診断法の主流の座に取って代わったのです。
 これらの診断法は、とにかく表に現われている症状のみで診断し、原因は問わないようなもので、≪操作的診断法≫と呼ばれます。
 そもそも身体の病気に比べて、目に見える根拠を持って診断することのできない精神領域の病気の場合、学問的・哲学的見解の相違によって医者ごとによる診断のバラつきがある、という大きな問題がありました。そのため医療情報の共有や統計処理上に不都合も生じていました。そこで、既定のマニュアルに従って症状さえ観察すれば、普遍性をもって誰でも客観的に診断できるこの操作的診断法が考案されたわけです。
現われている症状だけで
診断することの問題点

 しかし、これがかなり特殊な診断法であることは、身体病に置き換えてみれば簡単に理解できると思います。
 例えば、咳が起こる状態をすべて「咳障害」と診断するようなものですから、原因がカゼでも肺結核でも肺癌でも、同じ診断名になるわけです。しかし、この場合に、診断名が同じだからといって治療法まで同じにしてしまったら大変なことになってしまうことは明らかです。(そのため、従来の診断とは区別をつける必要があり、操作的診断法では、「~病」という言い方をなるべく避けて、「~障害」という表現になっていることが多いのです)
 もちろん、症状の性質の細かな違いや持続期間の違い、反復される程度等々細かな項目を立てることによって、この例のように極端なことにならないように工夫はされているのですが、それでもやはり診断法としては不完全なもので問題点も多く、何年かごとにマニュアルが見直され、バージョンアップを繰り返している、いわば過渡的な診断法なのです。
 ですから、臨床的にどのような治療を施すべきかを判断するうえでは、やはり奥行きのある従来の診断学の見方や考え方を使わないわけにはいかないのが、正直なところです。
新しい診断法で
「うつ」が拡がってしまった!

 このように操作的診断法が主流になった現在、「うつ状態」「抑うつ気分」というものがある程度以上認められれば、その病態がいかに様々違うものであったとしても、「うつ病」(正確には「うつ病性障害」「気分障害」)の診断が下される傾向が強まりました。
 しかし、一般の方が「うつ病」という診断を聞いた場合に、きっと一つの「うつ病」という「病気」があるとイメージされることでしょう。ここに、「うつ」についてのわかりにくさや混乱、誤解が生まれやすくなった原因があると考えられます。

 このような現在の状況で「うつ病」と診断が下った場合に、その中身として推定される代表的なものには、大まかに次のようなものが含まれていると考えられます。専門的ですが、一応列挙してみましょう。
■内因性うつ病(典型的うつ病、古典的うつ病、大うつ病性障害)
■躁うつ病(双極性感情障害、双極性障害Ⅰ型、双極性障害Ⅱ型)
■非定形うつ病(俗に「プチうつ」と言われることもある)
■パーソナリティ(人格)障害(自己愛性・境界性・回避性(不安性)・情緒不安定性等の人格障害)
■神経症(抑うつ神経症、パニック障害、強迫神経症、対人恐怖症、社会恐怖等)
■摂食障害(過食症、拒食症)
■適応障害
■気分変調症
■軽症うつ病(これも「プチうつ」と言われたりしている)
 ここでは、個々の病態について詳しく説明することは致しませんが、これらの病態の中には、抗うつ薬が不可欠なものもあれば、まったく無効なものや、むしろ悪化させる恐れのある病態もあります。
 また、精神療法やカウンセリングがとても重要なものもあれば、環境調整が不可欠なものもある。とにかく休養してエネルギーを充電すべき病態もあれば、いくら休んだところで何も解決しないものもある。
 つまり「うつ病」という診断には、これほど多種多様な病態が含まれているのが現状なのです。
「偽うつ」はあるのか?

 さて、冒頭のE子さんの例に戻って考えてみましょう。果してE子さんは「偽うつ」つまり「仮病」なのでしょうか?
 ここでは、その可能性をゼロとは言い切れないとも思いますが、しかし少なくとも私は、これまでそのようなケースを経験したことは一度もありませんし、もし「偽うつ」の人が来られた場合でも、専門家としてきちんと観察しさえすれば、それを見分けることは十分に可能なはずだと考えます。
 E子さんのようなケースで最も推測されるのは、「抑うつ神経症」、「非定形うつ病」、「適応障害」、「パーソナリティ障害」辺りの病態です。
 これらの場合では、「内因性うつ病」のように全般的に行動ができなくなることはまず稀で、「会社」「職場」という特定の場面に限定して「うつ」という拒否反応が起こることも珍しくありません。一種のアレルギー反応のような現象が起こるのです。ですから、その意味では「遊びには行けても会社には行けない」ということも、充分にあり得ることだと言えます。
 ただし、もしこれを単に「うつ病」であると本人に告知・説明しただけで漫然と薬物と休養中心の治療を行なっても、まず改善は見込めないだろうと思われます。このような場合に必要なのは、精神療法によって職場への拒否反応が起こってくるからくりを解明し、今後本人がどう変わってどちらに進んでいくべきか自覚できるようにし、そのうえで、同じ職場に戻ることがふさわしい選択なのかどうかを見極めていく作業を行うことだと考えられるのです。
 次回も引き続き、このE子さんのようなタイプの「うつ」について、さらに踏み込んで考えてみることにしましょう。

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「ウツ」で休職中の私が、なぜ遊びには行けるのか――E子さん側の言い分
――「うつ」にまつわる誤解 その(6)

 前回(第5回)に登場した出版社に勤めるE子さんのケースについて、今回はE子さん側に視点を移して、彼女の中でいったい何が起こっていたのだろうかということを考えてみましょう。
小さなつまずきのはずが・・・

 E子さんは、有名私立大学を卒業後、念願だった出版社に就職しました。当初はかなり張り切って、意欲的に仕事を覚え、残業も意に介さず頑張っていました。部内での人間関係もとても円満で、与えられた仕事はきっちりこなすしっかりした仕事ぶりなので、上司のTさんも、良い新人が入ってきたと高く評価していました。
 そんなE子さんが不調を感じ始めたのは3年前、上司のTさんからある企画内容について軽い注意を受けたことがきっかけでした。
 「君の思い入れはわかるけど、ちょっとこれはこの仕事の本筋からズレてしまっていると思うんだ。理想論としては君の言う通りだけど、会社が求めている内容は、もう少し一般受けするものなんだよ」
 E子さんは、その企画についてはかなりの自信を持っていただけに、Tさんの言っていることは頭ではわかるけれども、心の奥では自分の存在価値そのものが否定されたように感じてしまったのです。
 「はい、わかりました。すみません。もう一度練り直してみます」
 いつもの笑顔でどうにかその場はやり過ごしたものの、仕事が終わって一人暮らしの部屋に帰ってから、E子さんは無性に虚しくなってきて、気づくと買い置きしてあったスナック菓子やインスタント食品を、お腹も空いていないのに次々に無茶食いしていました。その最中は、まるで何かに取りつかれたようで、何の感情もありませんでした。
 正気に戻って、散乱したゴミの山を見たE子さんは、「何をやってるんだろう! 私って、本当にダメな人間なんだ」と強い自己嫌悪に陥りました。しかし、この日を境に、E子さんは過食をするのが習慣になってしまったのです。
自己嫌悪から自信喪失へ
体にも現れる“異変”

 希望に燃えて就いた仕事だったのですが、「頑張ったからといって必ずしも評価されるとは限らない」という現実を、E子さんは受け止めきれずにいました。学生時代までは、E子さんの努力は常にプラスに評価されてきたからです。
 「ちょっと真面目に考えすぎるんじゃない? もっと力を抜いて発想してみたらいいと思うんだけど」
 上司のTさんからのアドバイスも、本当のところでは意味がわかりませんでした。「真面目に努力することが大切だ」とばかり幼い頃からいつも叩き込まれてきたために、それが問題だと言われてもE子さんは混乱するばかりでした。次第にE子さんは、全体的に自分の考えや感覚に自信が持てなくなっていきました。
 そのうち、このような状況になると決まって強い頭痛や吐気、めまいや腹痛などが起こるようになり、E子さんは会社を休まざるを得なくなりました。これらの症状は、繰り返される度に重症化し、休む日数も長くなっていきました。
 しかし彼女自身は、この体調不良がメンタルな問題から来ているとはまったく思いもしませんでした。

 「大切な仕事だから今度こそ頑張って挽回しなければと思っているのに、どうしてまた体調がおかしくなるんだろう?」とE子さん自身、途方に暮れていたのです。
 内科や婦人科等をいくつも受診して様々な検査を受けたりしてみたのですが、どこでもこれといった異常は見つからず、判で押したように「ストレスでしょう」と言われるばかりでした。しかし、いくら漠然と「ストレス」と言われても、E子さん自身には何のことやらピンと来ませんでした。
 しかし、あるところで強く勧められて、不本意ながらも心療内科を受診したところ「うつの可能性があります」と診断されて、E子さんはとても驚きました。
「何もしていない自分」を
責めるばかりの日々

 「うつ病なので、抗うつ薬をしっかり飲んで、自宅療養に専念して下さい」という説明と指示のもと、E子さんは会社に診断書を提出して、長期の病気休職に入ることになりました。とにかく、ゆっくりと休むことが大切だと言われたので、E子さんはなるべく何もせずに日々を過ごすように心掛けました。
 しかし、いくら休んでみても、E子さんは「何もしていない自分」を責める気持ちばかりが出てきて、なかなか気持ちは休まりません。かえって暇な分、マイナスなことばかり考えてしまいます。
 そのうえ、だんだん明け方に寝て夕方にやっと起きる昼夜逆転の生活にもなってしまい、これも自己嫌悪の種になってしまいました。医師からは「規則正しい生活リズムにするように」と言われていたのですが、処方された睡眠剤を使っても、もううまく寝付けなくなっていたのです。そして悪いことに、中途半端に睡眠剤が効いた状態の中で、過食は治るどころか逆にエスカレートしていました。
 E子さんは、療養していても自分の状態が改善してきているとは思えなかったので、自分なりにいろいろと情報を集めてみるようになりました。
 すると、どうも「パーソナリティ障害」と言われているものや、最近「新型うつ病」とか「非定形うつ病」と言われているような状態に自分は近いのではないかと考えるようになり、E子さんは思い切って、これまでの薬物療法中心の診療とは別に、精神療法も受けてみることにしたのです。
 E子さんは、精神療法を始めてから、徐々に自分が次のような問題を抱えていることが見えてきました。
 自分がいかに人からの評価に捉われてばかりいたのか、また、努力し結果を出さなければ自分には価値がないという窮屈な考え方で、いかに不自然な力を入れて生きてきたのかということです。そして、それがすっかり慢性化していたために、自分で自分の心の悲鳴に気づかず、様々な身体の不調を招いていたのだということも、理解できるようになっていったのです。
「いい子」を
演じてきたことへの反動?

 幼い頃から、いつも周囲の人間の顔色をうかがって「いい子」を演じてきたE子さん。努力して人に認めてもらうことが、彼女にとっては何よりも大切なことだったのです。
 子供の頃から、常に人間関係に敏感で、両親がいつも不機嫌そうにしているのも、自分が「悪い子」だからなのだと感じていました。小学校高学年の頃に学校でいじめを受けたこともありましたが、自分自身ですら大嫌いな自分なのだから、人からいじめを受けるのも当然だと思い、辛くても黙って飲み込んで、親に相談することもありませんでした。

 そんな彼女は、自分のことを「価値のない人間」だと思っていました。「価値がない」からこそ、人一倍努力して目に見える成果を挙げなければ、自分は誰からも好かれないし、生きている資格すらないのだとまで思っていたのです。
 そのため、E子さんは何もしないで一日を過ごすことは悪いことのように思っていましたし、「自分が楽しむために時間を使う」のは何より苦手だったのです。E子さんにとって時間とは、常に「何かの為になる」「有意義」なものでなければならなかったのです。
自己否定から徐々に解放され、
「心を休ませる」休み方へ

 そんなE子さんにとっては、自宅療養で何もしないでいること自体が怠けのように思えてしまい、何度も「自分は本当は病気なんかじゃなくて、きっと怠けたいだけのダメな人間なんだ」と思っていました。そして、「会社の人たちに、きっと怠け者と思われているに違いない」とも感じていたので、一日も早く仕事に戻らなければと、とても焦っていたのでした。
 しかし、この状態を「怠け者」と思ってしまうことも、自分の心の奥底に根強く巣食っている「自己否定」の産物であることがセラピーの中で徐々にわかってきて、やっとE子さんも「心を休ませる」休み方ができるようになっていきます。
 すると、それまではいくら寝ても取れなかった疲労感や倦怠感が少しずつ薄らいできて、不思議なくらいエネルギーの高まりが実感されるようになったのです。
 E子さんは現在も療養中ですが、最近ではセラピストの助言もあって、「やってみたい」と思ったならば「遊び」にも出かけてみるように、少しずつチャレンジし始めています。
「遊びに行ける」のは、
改善の証

 「~すべき」「~してはならない」という「頭」の命令に常に従って窮屈に生きてきたE子さんのような人は、自分の「心」の「~したい」「~したくない」という声が聞き取れない状態に陥っているものです(詳しくは第1回をご参照下さい)。
 そこからまずは、「心」の声を聴くことがわかるようになり、それを邪魔する「頭」由来の古い価値観(例えば「遊んだりしていてよいのか?」)の存在に気がつくようになります。そして、その「頭」の批判に惑わされずに、「心」に従った行動ができるように精神療法は援助していきます。
 ですから、特にE子さんのようなケースでは、「遊べるようになる」ことは、大きな改善の証でもあるわけです。これは典型的なうつ病(内因性うつ病)のケースにも当てはまることで、治療過程の後半で、やはり「遊ぶ」ことが大切になってくるものなのです。
 本人の考え方がこの「柔らかい状態」になっていないままに社会復帰を急いだケースは、私の経験上、むしろ早期に再発してしまう確率がとても高いという印象があります。
 さて次回は、E子さんもアドバイスされていた「規則正しい生活が大切」という考え方について、検討を加えてみたいと思っています。

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「昼夜逆転」現象のナゾ――なぜ「ウツ」の人は朝起きられなくなるのか?
――「うつ」にまつわる誤解 その(7)

 「うつ」の状態になると、朝の起床が徐々に困難になってきます。そのため、次第に遅刻や出社不能などの問題も生じやすくなってきます。
 第3回で「うつ」と遅刻の関係については詳しくとり上げましたが、今回はさらに、日中に寝てしまい夜中に起きている「昼夜逆転」の状態について考えてみましょう。
気づくと、
夕方に起きて明け方寝る生活に・・・

 3ヵ月前から「うつ」で休職中のSさんは、奥さんと2人暮らしです。奥さんも会社勤めをしているので、平日の日中、Sさんは1人で家にいる生活です。
 奥さんの協力もあって、朝はどうにか起こしてもらって、出社前の奥さんと一緒に朝食を摂るようにしており、日中も寝てしまわないように、近所の散歩や家の掃除や皿洗いなどをするよう自分で決めました。
 会社の健康管理室の産業医や通院中のクリニックの主治医からも「自宅療養中は、なるべく規則正しい生活を心がけてください」と指導を受けていましたし、Sさん自身も、復職する時に生活リズムが乱れてしまっていては、戻るに戻れなくなるだろうと考えたからです。
 はじめの1ヵ月くらいは、Sさんも自分で決めた通りの生活をどうにか頑張ったのですが、その後、徐々に気力が続かなくなり、日中の眠気やだるさも強まってきてしまい、朝は起こされても起きられず、日中もずっと寝てしまうような日が増えてきてしまったのです。
 一方、日中に寝てしまったので、夜は処方されている睡眠剤を服用してもなかなか寝付くことができなくなっていきました。
 Sさんは主治医にその旨を報告して、睡眠剤をこれまでよりも強力なものに調整してもらいましたが、足元がふらついたりはするものの、頭の芯だけは覚醒していて、やはりうまく眠れるようにはなりませんでした。
 もともとは自分に厳しい性格のSさんでしたから、自分で決めたように療養生活を過ごせない自分は、もうすっかりダメな人間になってしまったように感じて強く自己嫌悪するようになりました。「このまま治らないんじゃないか」「そもそも俺はダメな人間だったんじゃないか」と考えるようにもなってきてしまいました。
症状にも“大切な働き”
があるのでは?

 「うつ」の療養中にSさんのような「昼夜逆転」が起こることは、決して稀なことではありません。むしろ、そうならない場合の方が珍しいくらいだと言ってもよいでしょう。

 一般的に、療養においては「規則正しい生活」を心がけることが大切だと専門家も含めて考えていますし、私も以前はそれを鵜呑みにしていたのですが、その後多くの臨床経験を重ねるうちに、必ずしもそれにとらわれる必要はないのではないかと考えるようになってきたのです。
 私はいつ頃からか、起こってくる「症状」にも何らかの「意義」があるのではないか、と考えてみるようになりました。
 西洋医学的な文脈では、「症状」はひたすら取り除くべき悪者と扱われがちなのですが、そういう視点でいくら治療を行っても、目指している方向とはあべこべに薬だけが増えてしまったりして、どうも納得がいかない。そこで、従来の方法論が見落としているものがあるのではないか、と考えるようになったわけです。
思い切って「昼夜逆転」に
逆らわないでみると…

 クライアント(患者さん)の「昼夜逆転」を治そうとすれば、Sさんの場合のように、寝付けない夜に眠れるようにと、必然的に睡眠剤を強化せざるを得ません。
 しかし、実際のところ、ちょっとやそっと薬を強めても思ったほどの効果は現れてくれません。うまく眠れる日もあるが、まったく効かずにまんじりともせず、明け方を迎えてやっと眠りにつくような日もある。何が何でも確実に毎晩眠れるようにするとすれば、とんでもなく強力で大量の薬を投与せざるを得なくなってしまうのです。
 そこで私は、思い切って「昼夜逆転」をそのままにしたらどうだろうかと考えたのです。日中は睡眠剤なしでも眠気がやってくるのですから、睡眠剤も最小限ですみます。もちろんSさんのような場合には、同居しているご家族にも協力してもらい、本人が罪悪感など持たずに開き直って「昼夜逆転」できるように環境調整も行います。
 すると、クライアントはある期間の「昼夜逆転」を経た後に、自然に、生活リズムがきちんと戻ってくることが観察されました。それだけでなく、抑うつ気分・意欲減退・悲観的などの「うつ」の症状も、とても順調に回復に向かっていく手応えがあったのです。
「昼夜逆転」には
重要な意味があった!

 そのような結果から、私は「昼夜逆転」が決してめちゃくちゃに起こっているのではなさそうだなと思いました。そして、色々なクライアントとのやり取りからも、「昼夜逆転」の意義とでもいうべきものが少しずつ見えてきたのです。

 日中は、世の中全体が活発に動いている時間であり、人々は皆、仕事や学校に出かけ、有意義な活動をしている時間です。そんな時間に、「うつ」の療養で自宅にポツンといる自分。ただでさえ「うつ」によって無力感を感じ自己否定的な気分があるところに、日中起きていて、状況的にも世の中に取り残されたような感じがしたり、自分が無価値な感じを抱いたりしやすいことは、想像に難くありません。
 逆に、夜や深夜の時間は、世の中のほとんどが活動を休止する時間ですから、クライアントにとってはあまり精神的に委縮することなく過ごしやすい時間でしょう。
 ですから、つらい日中の時間帯には眠ってしまうことによって、世の中からヒリヒリと自分に突き刺さってくるものを自動的に避けようとしているのではないか、そうやって「心」の療養がしやすいようにしているのではないか、と考えられるのです。
 つまり、外傷で「かさぶた」が形成されて外部刺激や感染から傷口の弱い部分を守る働きに相当するような意義が、この「昼夜逆転」にもあるのではないかと考えられるのです。
「規則正しい」は、
文字通り正しいことなのか?

 以前、「遅刻」について触れたとき(第3回)にも述べたことですが、現代のように、「時計」という機械に合わせた「規則正しさ」を考えるようになった歴史は、人類にとって意外に新しいものです。
 健康でバリバリ社会適応している時には気づきにくいことですが、われわれ人間は、季節や天候や月経周期を含めたバイオリズムなどによって、日々違う状態にある「生き物」です。それを機械的リズムで規制することがいかに「生き物」の自然に反したことなのか、ということを、改めて考えてみる必要があるのではないかということです。
 特に「うつ」の状態にあるような時には、現代社会が求めてくる価値観から自分を眺めるよりも、「病気」や「症状」が何か大切な働きをしてくれているのではないか、と、しばし立ち止まって、視点を変えてみることも大切なことなのです。
 次回は、「うつ」の状態の人にしばしば見られる「イライラ」の状態について考えてみましょう。

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“イライラ”は、「ウツ」が悪化している兆候なのか?
――「うつ」にまつわる誤解 その(8)

 「うつ」でも、単に落ち込んでしまう状態だけでなく、イライラや怒りっぽさが現れてくることがあります。
 そこで今回は、そのような状態のからくりや意味について考えてみたいと思います。
イライラと自己嫌悪
の悪循環に…

 「まったく、ちゃんとマナー守れよな!」
 朝の通勤時、Nさんは最近やけに、他人の行動が気になるようになりました。うっかりすると後先考えずに喧嘩でもしかねないピリピリした状態になってしまっているのが、自分でも心配です。
 Nさんは、これまでに「うつ」で休職療養をしたこともありますが、今ではある程度回復したので、通院治療を受けながらも、職場には1年ほど前から復帰しています。
 ピリピリした状態は、徐々に職場内でも現われるようになってきました。仕事を要領よく押しつけてくる同僚や、よく考えもせずに業務を丸投げしてくる上司に対して、以前にも増して苛立つようになり、近頃では抑えが利かなくなって、時には声を荒げて反発するようにもなったのです。
 周囲の人たちが、そんな状態のNさんを奇異な目で見るようになってきていることは、彼自身も重々感じてはいるのですが、どうにも自分でコントロールが利かない状態になってしまいました。
 Nさんは、怒りっぽくなってしまった自分を「感情もコントロールできないなんて、最低な人間だ」と思い、すっかり自己嫌悪に陥るようになりました。しかしいくら反省してみても、次の日にはまた同じようにイライラしてしまいます。
 「また調子が悪くなってきているのかも知れない……」
 このところ寝つきも悪くなってきていて、Nさんは自分の状態がとても心配です。
イライラは
なぜ起こるのか?

 Nさんのように、「うつ」の経過中にイライラしやすい状態が現われることは、決して珍しくありません。
 「最近、イライラするようになってしまったんです」という言葉をクライアント(患者さん)が口にすると、治療場面においても大抵の場合は、これを「衝動性の亢進」「情動が不安定になった」として、悪化の兆候と捉えられてしまうことが多いようです。
 しかし、この状態をどう捉えるのかによって、その後の経過がまったく変わってくるので、私は治療上とても重要な局面だと考えます。
 まずは次の【図1】を使って、感情について考えてみることにしましょう。
【図1】感情の井戸

 これは、私が「感情の井戸」と名づけているものですが、第1回で登場した「頭・心・身体」の図のバリエーションです。
 理性の場である「頭」は、「心」との間にある蓋を閉じて、感情のコントロールをしばしば行ないます。

 現代人は、かなり慢性的にこの蓋を閉めている状態になっていることが多いのですが、この図のように、抑えられて出られずにいる感情は、「怒」「哀」「喜」「楽」の順番で溜まっているイメージで捉えられます。
 一般的には感情を「喜怒哀楽」という順番で言うわけですが、私が臨床的に多くのケースを観察した結果、どうもこのような順番になっていると考えられるのです(詳しくは拙著『「普通がいい」という病』【講談社現代新書】をご参照ください)。
「怒り」を抑えること
のデメリット

 この「怒」「哀」「喜」「楽」という順番が、とても重要なポイントになります。特に上の二つの感情は、俗に「ネガティブ(マイナス)な感情」と言われているもので、一番上にあるのが「怒」です。
 ですから、「心」がエネルギーを回復し、「頭」の過剰なコントロールに反発して感情を出そうとしてくる際に、最も初めに顔を出そうとしてくるのが「怒り」の感情ということになります。
 「怒」のボールは、「頭」が閉めている蓋に抗して、これを押し上げようとしてきます。これが、イライラの状態です。いわば、火山が噴火する前に起こる地震のようなものです。
 ですから、このイライラを悪化の兆候と見て、ひたすら感情のコントロールを強化する方向で治療を行なってしまうと、せっかく開こうとする蓋を再び閉めることになり、「心」が回復しようとする芽を摘んでしまうわけです。
 しかし、「怒り」は大抵の場合、抑えるべき感情と捉えられているものですし、やたらにまき散らしてしまえば厄介なトラブルの元にもなることは否めません。そこで、この感情解放の初期段階をうまく経過させるには、ある種のコツが必要になってきます。
「ポジティブ思考」が
長続きしない理由

 「怒り」を抑えているものは、「怒り」をネガティブと捉える道徳的な価値判断や、人間関係への配慮が主なものでしょう。しかし、先ほどの図で示したように、ネガティブな感情が出られなければポジティブな感情も出られません。世に言う「ポジティブ思考」というものが長続きしない訳は、ここにあるのです。
 そもそも感情をネガティブ/ポジティブに分ける二元論的判断のところに根源的な問題があるのではないかと私は考えています。コンピューター的な性質の「頭」は、コンピューターが1/0の二進法を基礎にして作られているように、二元論的判断を思考の基本要素としているので、どうしてもこのようなことが起こりやすいわけです。
 本来「怒り」は、ネガティブというレッテルで差別されるべきものではありません。
 不当なもの、理不尽なもの、愛のないもの、侵害的なもの等に対して自然に「心」から生み出されてくる感情が「怒り」なのであり、人類の歴史を見ても、革新的な試みは常に、旧態依然としたものへの「怒り」が基になって成し遂げられてきました。「怒り」は、閉塞的状況を打開する創造的エネルギーの発露でもあるのです。
 もちろん、巷で目にする「怒り」には、自分勝手な欲望が満たされないために出てくる未熟なものや、古い怒りが溜め込まれ腐敗して八つ当たり的にぶちまけられるもの等々、質の悪い「怒り」がかなり見受けられます。
 しかしながら、その面だけを見て「怒り」をネガティブと誤解してしまうと、「怒り」の持つ大切な意義を見落とし、その力を生かすことができなくなってしまいます。

「怒り」と
どう付き合うか?

 これは「うつ」に限らないことですが、「怒り」の扱いが不適切なために、「怒り」の悪循環に陥っている方がよくあります。
 生み出された時には鮮度の良いもっともな「怒り」であったはずのものが、「怒り」を抑える習慣によって溜め込まれて腐敗し、それが溜まり溜まって圧力が高まり、ひょんなきっかけから不適切な場面で暴発してしまう。それを本人はいたく後悔しますが、それゆえ再び感情の蓋を強固に閉めてしまって、また「怒り」が充満しやすい状態を作ってしまう。これが、悪循環の構造なのです。
 アルコールで蓋が緩んだ時に暴発すると「酒乱(病的酩酊)」ということになりますし、親密な人間関係の場面でコントロールが緩んで暴発する場合には「DV(家庭内暴力)」の形をとるかもしれません。
 このような悪循環から抜けるためにも、「怒り」をただ蓋をしてごまかすのでなく、自分自身が「怒り」を受容しどう処理できるのかが大切なことになります。
 「怒り」を自分で受容することと、やみくもに外部にまき散らすことは違うことです。「怒り」の受容とは、「心」から出てくる「怒り」を、「頭」が共感し承認することなのであって、言動として外に表すかどうかは、まったく別の「社会性」の次元の問題なのです。
 そうは言っても、溜め込まれて充満している「怒り」を扱う場合には、「社会性」を吹っ飛ばして暴発する危険性もありますから、専門家のサポートも重要になってきます。
「心の吐き出しノート」
をつけてみる

 しかし、自分自身でできる工夫の一つとして、私はよく「心の吐き出しノート」というものを勧めることがあります。
 これは、決して誰にも見せてはならないノートです。しかし、そこには遠慮なくどんな罵詈雑言を書いてもよいことにするのです。書きたい時には、何ページでもよいからスッキリするまで書くようにします。もちろん、日記ではないので、書きたくない時に書く必要はありません。モヤモヤ・イライラ・ムシャクシャした時に、これを一人で誰にも邪魔されない状況で行なう習慣をつけるのです。
 「書く」という行為は、必ず「頭」の協力を必要とするものです。そのため、実際に感情を文字にして吐き出す作業に着手することは容易ではありません。しかし、徐々にこれができるようになってきますと、自ずと「心」と「頭」の間の蓋が開き、両者に協働的な関係が作られていくようになります。
 「怒り」を力づくで鎮圧するのではなく、このように自分で受容する方法で解決しますと、「頭」と「心」の関係に本質的な変化が生じます。つまり、「頭」が独裁的に「心=身体」をコントロールするという病的な構造が解消されるわけです。
 ともすれば悪者扱いされてしまう「怒り」も、見方を変え、扱い方を工夫することにより、ジェットエンジンのような力強さで見事な働きを示すものにもなり得るのです。
 次回は、休職している人が「一日も早く職場に戻りたい」と思うことについて、考えてみましょう。

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「早く職場に戻りたい」――復職を願う「ウツ」休職者に潜む落とし穴
――「うつ」にまつわる誤解 その(9)

 このところの急激な景気悪化により、雇用情勢が極端に厳しいものになってきていますが、これが「うつ」等の事情で休職中の方々にとっても、強く焦りを生じさせることになってきている傾向があるようです(ダイヤモンド・オンライン「inside 第262回記事」参照)。
 そこで今回は、「復職」を急ぐ気持ちについて考えてみたいと思います。
焦ってなんか
いないのに!

 Yさんは大手メーカーの企画開発チームのリーダーですが、半年前から「うつ病」の診断で休職中です。
 当初はどうにも動けないくらいの状態でしたので、自宅療養も致し方ないと思って休養に専念する気持ちでいました。しかし、3ヵ月ほど経った頃から、抑うつ気分・意欲減退・疲労感・睡眠障害などの自覚症状が軽くなってきて、1日も早く職場復帰したいという気持ちが徐々に強まってきたのです。メンタルクリニックへの通院間隔も、状態が落ち着いてきたということで、毎週だったものが隔週で済むようになっていました。
 Yさんは、そろそろ「試し出社」ぐらいできそうだと強く思うようになり、休職も4ヵ月が過ぎた頃、思い切って主治医に復職への気持ちを話してみることにしました。すると、主治医からこんな答えが返ってきたのです。
 「確かに、状態は確実に良くなってきてはいます。でも、まだ復職のことを考えるのは早いと思います。会社のことを今は考えずに、もうしばらく自宅療養を続けた方がいいと思いますよ」
 これを聞いたYさんは、納得がいきません。
 「もう十分元気になっていますし、出社できる自信もあります。家でゴロゴロしている方が、私にはかえってストレスなんです。私がいなければ進まないプロジェクトもありますし……。もうしばらくって、いったいあとどれくらいなんでしょう?」
 「今はまだ、Yさんは焦っている感じがします。その焦りがなくなったらということです」
 「全然、焦ってなんかいないつもりなんですが……」
 結局、この時点では主治医から復職の許可がもらえず、Yさんは今でも自宅療養を継続しています。しかし、主治医に言われたような「焦り」が自分にあるとは感じられないので、今でもYさんは、どこか釈然としない気持ちが続いています。
「焦り」という説明では
伝わらないこと

 このYさんのケースに限らず、復職の時期をどう見極めるかということは、医師側の見立てと患者さん自身の気持ちとが食い違いを生じやすく、治療の流れの中でも難しいポイントの1つです。
 このYさんの主治医のように、「焦り」というキーワードで「復職が時期尚早であること」を説明されるのが、一般的にも多いのではないかと思われます。

 しかし、医師からは「焦り」に見える状態であっても、Yさんのように、それを本人が自覚していないことも多く、患者さんにしてみれば、いわば身に覚えのない「焦り」があると指摘されたようなものですから、せっかくの復職の意欲をそがれたとさえ感じてしまうかもしれません。
 そこで、治療者も患者さんも一致できるような状態の見極め方が必要になってくるわけですが、それには少々コツがいります。
「復職したい」は
本当に「心」の声なのか?

 ここでまた、連載第1回で使用した図を参照してみましょう。
 改めて説明しますと、「頭」とは理性がコンピューター的な機能を果たす場所で、「~すべき」というようなmustやshouldの系列の言い方をするところです。
 一方の「心」は感情や欲求の場であり、「~したい」といったwant toの系列の物言いをするところです。
 しかし、今回取り組んでいるようなテーマを考えるうえでは、これだけではうまく説明がつきません。つまり、図式通りに考えた場合には「会社に復帰したい」ということは「~したい」なので、これは「心」の声であると判断されます。それならば、患者さんは良い状態なのだから、復帰を引き留める必要などないことになります。
 しかし、Yさんの場合のように、本人は自覚していないけれども、治療者や周囲の人間には確かに感じられる本人の「焦り」については、これではうまく説明できないのです。
 それでは、この状態をいったいどう考えたらよいのでしょうか。
「頭」は「心」の
ように偽装する

 先ほど、「~すべき」と言ってくる場所が「頭」であると説明しましたが、「頭」はしばしば、これを「~したい」と《偽装》することがあることを知っておく必要があるのです。
 この「頭」が偽装する機能について、便宜的に「偽の心」というものがあると考えて、次の図のようにイメージしてみましょう。
 「偽の心」から出てくる「~したい」は、その正体が「頭」由来の言葉であるために、「心」が「~したい」と望んだ時のようには「身体」がついてきてくれません。そのような状態では、「~したい」という言葉が出てきていても、表情を含めた「身体」の感じが伴っていないちぐはぐさが見てとれます。それが、周囲の人間には「焦り」として伝わるのだと考えられます。
 このように考えてみれば、Yさんの場合の「復職したい」がどういうものであったのか、理解できるのではないかと思います。

本当に復職が可能なのは、
どんな状態の時なのか?

 では、本当に「心」が「復職したい」と言ってくる状態、つまり復職が真に可能な状態とは、どんなものなのでしょうか。
 「うつ」とは、そもそも「頭」の一方的な支配下に置かれてうんざりした「心」「身体」が、「頭」に対するレジスタンス運動としてストライキを起こした状態です。ですから、「頭」の指令によって動くことについては、キッパリとした拒否反応を示します。そのため、「頭」の偽装した「復職したい」によって復職を試みたとしても、うまく長続きしないことが多く、再び休まざるを得なくなるリスクが高いのです。
 Yさんのように「偽の心」由来の復職希望が出てくる時期に、先ほど述べたようなからくりを本人も理解できれば、その後にやっと、真の意味で「心」や「身体」が休養できる時期がくるのです。そうなった状態では、当然ながら「休んでいること」について「頭」が否定的にコメントしてくることはありません。少々大げさに言えば、休んでいることを安心して享受する感じになるわけです。
 極論めいて響くかも知れませんが、事情さえ許せば、人間というものは義務を伴う仕事を決して自発的に「したい」とは思わない生き物であるはずです。しかし、近代化された社会に生きている私たちは、仕事は初めから当然「すべき」ものだと教化され、「したい」とさえ思い込むまでに「社会化」されてきています。しかし、この「社会化」とは、もっぱら私たちの「頭」に対してなされたものであって、自然の摂理を失わない「心」や「身体」は決してそれに染まってはいません。
 ですから、「頭」が余計な口出しをしない「真の休息」状態にいたった際に、「仕事になんて、本当は行きたくない」という最も正直な気持ちが表れてくるのは、いわば当然の理なのです。
「真の休息」の後に
何が起こるか?

 このような「真の休息」の時期を過ごしていきますと、その先に不思議なことが起こってきはじめます。
 それまで心地良かった「休む日々」「好きに遊ぶ日々」が、何か物足りない「退屈なもの」に感じられるように変わってくるのです。ここが、人間が「社会的動物」と呼ばれるゆえんなのでしょう。つまり、社会と関わって自分をその中で生かしたいという欲求が、自然に「心」から湧き上がってくるようになるのです。
 これは、「偽の心」が出してくるものとは、決定的に質が異なります。その違いは、本人にも、周囲の人間にもはっきりと感じ取れるくらいのもので、ある種の「生気(精気)」に満ちた状態と形容することができます。
 このように、「心」由来の真のモチベーション(動機)にもとづいて行われる復職(社会復帰)は、もはや本人自身も周囲も不安を抱くことなく行える永続的なものになります。
 逆に言えば、復帰と休職を何度も繰り返してしまうケースや、長い期間状態が改善できずにいるケースのほとんどは、「真の休息」にいたる前の段階で復帰を急いでしまっているか、「社会化」された「頭」が「心」に「真の休息」をいまだ許していない状態にあるのではないかと考えられるのです。
 次回は、「薬物療法」にまつわる様々な誤解について考えてみることにします。



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飢餓感

若くて貧しい頃の飢餓感がいまはもうないのだった

何かもっとすばらしいものを求めるこころがいまはもうない

フジコ・ヘミングのリストを聴いて気がつく

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静かな海

この静けさの中で
覚醒する



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穏やかな大人

穏やかですね
大人ね

そう言われてみたい


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神を崇拝と人間を崇拝

神を崇拝することと人間を崇拝することとの間に同じ言葉を用いることは正しくないかももしれない
神への崇拝は
人間への崇拝を無限に拡張したものだからだ
崇拝の無限操作を行った末のものをも崇拝と呼んでいいのなら同じ言葉を使っていいだろうけれど
それは言葉の粗雑さというものだろう

ーー
そのようなことを考えているときに
人に崇拝されるようなことに出会うと
それは何だろうと
無限演算の逆演算を始めてしまう




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疲れ切ったときの食欲

疲れ切ったとき、正直、何も食べたくない
食べ物の匂いにも軽いうんざりしたものを感じる
お腹はすいているはずなのになぜなのだろう


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疾走するのはボルトである

モーツァルトが疾走していると語った人がいたが
軽々と疾走しているのはウサイン・ボルトである
それが奇跡である


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過食・嘔吐20091228

過食・嘔吐を考えるときに、
他のどんな症状と併存しているか、
あるいはどんな症状と交替しているかについては
参考になることが多いと思う

食行動の異常という点ではやはり拒食との関係が問題になると思う
過食・嘔吐の人の症状の歴史を聞くときにはやはり
拒食の時期がなかったかを落とさずに聞く

すると典型的には、
まず小学生や中学生の頃、太っているといじめられた、またはいじめられそうになったことがあり、
気になったのでダイエットをしてみたらすごく痩せることができて
これはいいぞと自分に自信がついたことがあった
しかしそのあとストレスのかかったときに過食をする癖が始まった
太るのがこわかったので吐くようになった
最初は指などを突っ込んでいて指には吐きだこができた
次第に何も口に突っ込まなくても吐けるようになった
吐いたあとで激しく後悔して
またカロリーの計算もして最低限のものをカロリー補給のために食べておいたりしている
などというようなストーリーが語られる

太りたくない、ダイエット、痩せ願望、太る恐怖、吐くことの後悔、いろいろな要素がある

この場合には、ひとつの解釈として、ストレスに負けないように、食べて防衛しようとする、
しかし、食べることは同時に太って惨めになり非難される危険もある、
つまり痩せてストレスに負けてもいけない、
太って仲間の中で惨めな境遇になってもいけないという
ダブルバインドになっている。
どっちに行っても勝利はない。
その微妙な中間にだけ妥協点がある。

若い頃は、痩せている方が元気で活動的で、生理なんか来ない方が活発に動けるという時期がある。
実際アスリートたちは極度に脂肪を落としているので、
生理が止まってしまっていることが多い。

この背景にうつ病、躁うつ病、統合失調症、人格障害などが存在することがある。

ーー
分かりやすいのは躁状態で過食となりうつ状態で拒食となるとの観察であるが、
過食と嘔吐がセットになっているところを見ると、
躁状態でなぜ嘔吐になるのかという問題は残る。

ーーー
またもう一つ典型的なのは
症状の併存で、それは自傷行為である。
リストスカー、カット、アーム、その他、各部分。人体に施す各種の変形。
あるいは血を出すこと、痛みを感じることで、生きている実感を蘇らせる。

酒を飲むときに「もっと強く元気になるぞ」と思う人もいるのかもしれないが
「もっとダメになってやる」と思って飲む人もいるのだと思う
新橋のサラリーマンは焼鳥屋で多分、「もっとダメになってやる」と捨て鉢な気持ちで飲んでいると思う。
そうでなければ、得体の知れないものを、得体の知れない酒で流し込むなどできるはずがない。
新橋の酒飲みは自傷行為だろうと思っている。

銀座での酒飲みはそれなのの金を払っているので
体にいいものを食べさせてもらっているかと言えば大きな間違いで、
値段が高いのは土地代が高いからであって
食べ物の原価は近くの肉のハナマサで調べたら分かると思う
やはり自傷行為としか言い様がないものである

泣きながら過食をするというケースも多い
自罰のひとつの形なのだろう

血や痛みを欲しがる点でマゾヒズムに通じる

これは食べる・食べないの葛藤に悩むタイプではないように思う。
もっとメカニカルに食べて吐いてを繰り返している。

ーー
新橋の酒だとダメなのかもしれないが、
どこかの高い酒なら、自信を蘇らせてくれて、気分を楽にしてくれるのかもしれない。

そのもっと確実なものが薬剤である。

ーー
ペット動物の場合に
食べ吐きはないという
老人性認知症になってからあと、過食する例はあるとのこと

むしろ、食事は飼い主がコントロールできるので
過食にはならないのだという



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3D技術

新しいテレビで3D技術を競っている
それはそれで理由があると思うのだが

出っ張りの具合がどうかは大事なのだけれど

もっと大事なのは
目に見えない
へこんだところがどうなっているかということなのだ

それって3Dの話じゃないからね



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大修館ジーニアス和英大辞典と阪神

大修館ジーニアス和英大辞典では
「阪神」が異様にたくさん出てくる

阪神が強くて優勝した年くらいに
編集したらしい

さっきテレビで放映していた

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