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修身とは

後輩は次の文章を書いて、「自分でもよくわかんないけど、書いてることが・・」と告白している。

先日新聞で
大学入試センター試験の国語を見たら経済学のことが出ていて読むつもりもなく流して読んだら結構難しいことを書いているので思わず読み直した。

さすがに問題文に採用されているだけあって、うまくできていて、ひとつの文章では意味がはっきり決まらない場合にも、他の場所を参考にすると、意味が決まってくる部分が多い。結果としては、パズルがぱちっとはまるみたいに理解できるようにできている。内容に賛成するかどうかは別として。

数独などもすぐにはできないけれど分かる部分から決めていけば全体が一通りに決まるような具合である。
(数独は「数字は独身に限る」の略なんだそうです。)
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(1)明治以降の修身教育の変遷について考える。修身科の成立として考えてみる。小学校は下等小学4年、上等小学4年の八年制であった。下等小学校の教科は習字・単語・会話・読本・修身・文法・算数等で、高等小学の教科は、この上に史学単位・博物館単位・科学単位・外国語・天球学がさらに適宜教えられることになってた。

修身とはその文字を示す通り、「悪を定め、善をすすめて、身を修めること」、それが道徳を教えることを意味する。明治に日本に初めて近代的な学校制度を布くための「学制」が各地方に広められたが、その中に修身学という教科が出現された。明治以降の修身的教育は、明治20年代後半から30年代にかけて日本の教育課程も4カ月から6カ月になった。この時期にドイツの教育学者による5段階教授法が日本の教育現場に普及した。この教授法は予備、提示、比較、総括、応用の5段階に区別されるようになった。どの学校や学年や教科でも授業形態の提携を作ろうと日本だけではなく世界にも広がった。この学習スタイルは、現在でも導入、展開、終末というように指導展開が広く行われているのだ。また1900年前後まで義務教育である小学校の就学率が男女平均75パーセント程度で女子の就学率は50パーセントほどであったが、それも改善されるように工夫された。自家や雇われの子守りで充分に学ぶことのできない女学生も多くいた中、子守学級等を設置し、低学年程度の国語・算数を学ばせたり、主に彼女達に必要な、裁縫を必修にしたり、唱歌に子守唄等、出席児童の生活に直結するような学びの場を提供した。修身では「子守りの本分をよく務ること」という題目があり、女子の礼法や立居振舞、菓子・金子の包み方など、そういったことにも多くの時間を割いており、出席児童の生活上の必要性に配慮する等して、子ども達への工夫された教育の普及を行っていった。しかし、この授業方法はいずれも外国の道徳書を翻訳したものを使っていたので、実際道徳教育として成り立っていたかということは定かではないのだ。学制の実施が思わしくなかったため、新たにアメリカの教育制度を範とした「日本教育令」が公布された。これによって、修身は小学校の正式な学科の一つとして設置された。さらに、この翌年に教育令を改正して新しく「改正教育令」を公布したことによって、この中で修身という学問が全ての学科においても首位とおかれるようになり、小学校から高等科までの6年間を通じて課せられるようになり、より一層重視されることになった。

(2)私が思うことは、修身とは参考文献にも記されているように、「悪を改め善をすすめて身を修めること」というようなことを意味するのだが、最初は、日本は、下等小学8級から第5級の間までは、行儀にとらわれた指導をしていた。つまり、ここでいう行儀とは行為そのものであって、外面からみた立ち振る舞いのことに重点をおいた教育を行っていたということがわかった。確かに外面的な立ち振る舞いというのも大切であろう。マナーやルールなど、集団生活を行う、または社会の中で生きていくためには必要不可欠なものであると思うが、ただマナーなどの体裁ばかりを意識することだけが美しい心の人間を育てることになるのかといったらそうではないと私は考える。外面ばかり気にしているだけでは、悪を改め善をすすめることによって身を修めることすらできないからだ。また、言い換えるとするならば、何が悪で何が善かもわからない、自分の柱のない人間に育ってしまうことになりかねないのだ。最初修身教育を取り入れたばかりの時は、外国の教科書をただ翻訳したもので儒教道徳ではなく、日本固有の倫理を表した教科書を用いることもなかったのだ。当時、まだアメリカの文化が徐に普及していないころ、まだアメリカと日本の考え方の差、倫理観の差は存在していただろう。日本人ならではの道徳としてどのように考えていくのが妥当なのかということまで子ども達に理解させるために、日本の修身教育を改正した時点で、よく日本の教育者もきがついたものだなと感心する。よりよい日本国を築いていくためには、現在も過去もよりよい人間を育てるということが最重視される。何がよくて、何がよくないのかということまで分別をつけることのできる人間を育てていくためにも修身教育というものは様々な学問の中でも最重要視されるべきものであり、日本は諸学科中の首位においた。そして、小学校の全学年を通じて修身科は施され、中学校や高等女学校でも教科として課せられた。

また、修身科は、人間としての道徳というよりも、日本国民としての道徳を教えることに重点がおかれ、国家主義色彩を濃くしていった。振る舞いや外面なのではなく、分別がつき、日本を良い方向へ引っ張っていける為の教科が修身なのである。「教育は人にある」という言葉があるが、やはりどの時代でも、教育にかける情熱を怠ってはならないと思う。



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温室育ち

温室育ちという言葉をどう感じますか

若い人たちは温室で育ってきたのかな
そんなはずはない
学校は結構きつい場所だ

携帯とかパソコンでの世界も安楽でばかりもない

温室育ちは
傷つきやすさを
連想していっているのだと思うが
傷ついた経験がないから
傷つきやすいのではなくて

もう何度も傷ついているから
傷つきやすいのだと思う

その傷は小さいよと言われても
痛いものは痛いのだし

たくましさがないという意味なのだろうが
温室外・風雪育ちとでも言えばいいのだろうか

ーー
スポーツ選手とか頭のいい人とかは
温室育ちと感じられることもあるが
それはまた別の意味での
特殊な環境である


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新型うつ病

1.新型うつ病の特徴

いやなことがあると症状が出る
いやなことが終わると症状も終わる
楽しいことは楽しめる

一方、昔のうつ病は
いやなことがあっても楽しいことがあっても
同じうつ状態を呈している

2.新型うつ病の治療

やはり第一はSSRIであるが
SNRIやスルピリド、三環系抗うつ剤、中でもアモキサンやアナフラニールが効くことがある。
SDAを使ってみるのも、セロトニン系に加えて、ドパミン系を調整する点で意味がある。
治療が長期になっても効果が出ない場合には
薬を変えるか組み合わせるか、工夫が必要である。




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教育活動 あたしは考える

 教育活動のモデルには五段階あって、教師が授業を行うにあたった上の目的から、ある科目の授業を終えて子ども達を評価するまでの手順が教授活動のモデルとして挙げられている。

教師の教授活動における第一段階は授業目標を設定することである。授業等、教授が活動する際、常に目的を持った活動となる。テキストによると、「目標は検証可能な明確な形で、しかも妥当性のある目標を設定することが重要だと記されている。何のための学習なのかという具体的な目的を教師が定めて明確にしておくことは、子どもも授業で何を得るべきなのかはっきりする。従って、教師が具体的で明確な目的をさだめるということは大切な作業である。

第二段階は、授業を受ける前の段階に子ども達の状態について知るということである。学習を行う前に生徒の大半が充分に発達している場合とそうでない場合がある。教師は学習者の学習到達度によって、授業目標を変更したりする。学習者のレベルや学習進行等を教師がしることは、効果的な授業を行うのに必要であるのだ。

そして第三段階は、授業計画を決定することである。どの教材を用いてどのような配列や順序の指導形態で行うかを、生徒の能力に応じて考える。授業の目的を達成するために授業を行う際の方法や技術を決定することが求められるのだ。

第四段階では、実際に授業を行う中での教授活動である。教師は生徒に説明をしたり、発問をしたり、疑問を投げかけたりすることで授業を展開する。その中で子ども達を称揚したり、叱ったり、助言を与える等、子ども達のモチベーションを保ち、上手く子ども達を学習しやすいように導く事が求められる。

第五段階は評価である。評価とは、子ども達を評価することと、教授活動を評価することとの2つに分かれる。子ども達を評価することにおいては何らかの基準を定めて、その基準によって評価や分類をすることができる。教授活動においての評価は、子ども達に学習が成立したかどうかを基準にして、その総合的な評価に対して改善すべきものは改善していくことが求められるのだ。第二段階では、診断的評価を用いることが出来る。これは学力診断テストのようなペーパーテストやアンケートも用いて学習者が前もってどのくらい理解しているのかという実態を調べ、学習への適応度を調査することができる。そして第四段階の授業中に行うことのできる評価は、形成的評価を用いることが出来る。学習活動を通して、その学習者の日頃の発表や期間指導の中でどれだけ子どもが理解しているのかを知ることもできれば、ノートや様々な活動の中で子ども達の定着度を確認することは可能である。次に第五段階の評価は総括的評価をすることができる。目標への到達度をとらえてこれまでの学習を反省する方法であり、学習結果をみるため到達度テスト等や学習記録等で総合的に子どもの定着度をはかり、評価する方法である。

 例えば「泣いた赤おに」(浜田広介 著)という物語がある。これを教材として国語の授業を行うという想定とする。対象は小学2年生である。一時間の内容は赤おにと青おにのきもちを考えて、人の気持ちを考えてみようというものである。まず、家では分からない漢字、分からない意味を調べてきてもらう。それをノートに記してもらうことで子ども達の語彙の理解度の差をみることができる。これが診断的評価にあたる。また、その漢字や言葉の意味も家で調べてきてもらう。そして授業の始めにテストを行うことで語彙の意味や漢字練習を意欲的に取り組めることが出来ているか、十分に自分なりに予習が出来ているかということ、これも診断的評価につながるものだと考える。そして、授業中は青おに気持ちと赤おにの気持ちがどういうものであるか、どこの箇所からそう思えたのかという理由を授業中に発表してもらう。授業中は授業の取り組む姿勢や、自分の考えを発言に活かすことが出来るかということや、発言の頻度や内容等の授業態度や、みんなで音読するときに話の筋を理解できているかどうか、そういったことも形成的評価を用いることができる。また、この話は、赤おにと青おにの行動の理由が表現されていないので、物語に描かれていないこの話しを子ども達はどう捉えたのかということをノートの提出などで、彼らの想像力をはかることができる。これも形成的評価に繋がってくると思う。単元の終わりに総括的評価をする。物語の筋が本当の意味で理解できているのかどうか、漢字や言葉の意味がしっかりと把握できているのかどうか、学習の成果をみるためにペーパーテストを行い、子ども達がどのくらい学習の定着が出来ているのかというところまでみることができる。また、ノートを提出してもらうことで、ノートには正しい語彙や文で書けているかどうか、発表では自分の気持ちを論理的に説明できていたかどうか、自分の気持ちを皆に分かるように伝えられることができていたかということ等のコミュニケーション能力まで評価するための記録となるのでノート提出は総括的評価につながる大切なものとなる。感想文や、単元と自分を照らし合わせて考えさせるような作文を書いてもらうことで、ペーパーテストだけではなく、こういったことも総括的評価の対象となるということをあたしは考える。


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