俺はさ、お前に説教なんかしてるんじゃないよ
新橋焼き鳥を食べて飲んでいるわけですが
隣になんだかうるさい人がいます
俺はさ、お前に説教なんかしてるんじゃないよ
たださ・・・
とかなりきつい説教をしている
顔を見たら都知事によく似ていてよく日焼けしている
ゴルフ焼けなのだろう
自分の欠点を隠すために他極に振れる
極限状態に置かれると本性がでる。
余裕があると本性を隠す。
自分の欠点を隠すために他極に振れる。
例えば細かすぎる人は大局的な議論を好む。
その人は世間並みの「普通」を実現しようとして
つい対極にまで突き進んでしまう。
それでようやくバランスがとれて
世間並みを実現したと思えるのではないか?
人間関係だけになってしまう
他者との関係が人間関係だけになってしまうことが多すぎる。
農作物や家畜、また自分で工作する産品、また神、
これらが心に占める割合が縮小して
もっぱら人間との関係ばかりが
気にかかるようになる。
人間との関係は支配の順位に従うものである。
そこで向上への圧力を常に受けている。
精神の檻をこわすことは誰にも難しい
肉体の檻をこわすことは容易でも
精神の檻をこわすことは誰にも難しい。
大きな精神ほど檻から逃れにくい。
いっそ小さな精神の方が檻のすきまからするりと
抜け出ることもできるだろう。
小さなきれいな心で世の中の小さなきれいなものを 喜んでいれば
くだらない自分になるのも
世の中がくだらなく見えるのも
そうした固くこわばった自分が原因かもしれない。
小さなきれいな心で世の中の小さなきれいなものを
喜んでいれば幸せだろうに。
大きな心になろうとして固くなり孤立してしまう。
小さな心はますます柔軟になりあるがままの自然に応じて自分を任せる。
他人の気持ち
完全に客観的な観察だけから他人の気持ちがわかる
ようになるか?
それとも自分の内心を混入させて解釈する
ことが不可欠か?
前者なら人間的共感もなくモルモットを扱うときと同等である。
後者なら自分を他人にまで拡張して仮想的に解釈して
いるにすぎない。
他人の気持ちではなく自分の気持ちである。
そこまで厳しく言わないとしても
いろいろな問題はある。
他人というものを発見しなければ
人の気持ちを大切にしなくてはならない。
自分の価値観を他人にもあてはまるものとして
考えてしまうのは恐しいことだ。
他人というものを発見しなければ。
鳥たち
みんな小さな確実な人生を生きたい。
踏みはずすのが何より怖い。
みんなと同じ苦しみを苦しみ
みんなと同じ喜びを喜びたい。
みんなと違う苦しみや喜びには耐えられない。
みんな一斉に同じ方向に飛んで
一斉に方向を変える
鳥たち
ことばは脳の構造の一部を決定する
ことばは単なる手段ともいえない。
ことばは人の脳を刻む。
構造の一部を決定してしまう。
そうでなければ
言葉による治療の可能性はない
ーーー
ことばはないものをあるとも言えるし
あるものをないともいえる。
別々のものなのに同じ名で呼べるし
同じものなのにちがう名で呼べる。
磨けばますます寒くなる
磨けばますます敗けられなくなってしまう。
自分を磨いても毛が生えてますます暖かくなるならよいけれど
本当は針が生えてますます寒くなってしまうだけかもしれない。
誰も寄りつかなくなる。
人と人とが愛、思いやり、やさしさによって結びつくには
人と人とが愛、思いやり、やさしさによって結びつくには
どうすればよいのか。自分にも事情があるのだと言い張れば
businessになってしまう。
相手が愛の人になるまでとりあえずは一方的に愛を注が
なければならない。
寛容も同じ。
子育ても、花を育てるのも、同じ。
時間を待つ。
本当のやさしさは絶望をくぐってきた人だけにそなわる。
本当のやさしさは絶望をくぐってきた人だけにそなわる。
ーー
何であれ、病気は相当深刻な絶望体験である
学んだことのたった一つの証しは変ることである
学んだことのたった一つの証しは変ることである。
その意味でなら解剖実習は本当に何かを学ぶことに相当するだろう。
人間観が変わる。強烈な学習である。
科学とは経験の純化である
科学とはsensory nerve, motor
nerveをそれぞれ入り口、出口とする
経験を純化するものである。
ーーー
人間の考えの中には妄想も考え違いも入っているものだ
その中で信頼できるものを抽出する手続きが科学である
いちいち繊細に傷ついてもいられない
そうだなあ、
いちいち繊細に傷ついてもいられないし、
ほどほどにして切り上げるんだな
恨みを忘れろとまでは言わないけれど
恨みで自分の人生を損なうのはばからしいことだ
人を恨んで得があるなら恨めばいい
得がないならほどほどで切り上げよう
そうは考えられないかな
人生は
一時は客観的になって
自分の人生の観客になり批評家になることも必要だ
いつもいつも主演では疲れてしまう
外側から見てみることだ
いいことばかりあるはずもないし
悪いことばかりあるはずもない
よほど運が悪くても
珍しい体験をしているんだなと
外側から見ることもできる
苦しいのは山々だけれど
苦しいあとに快感が来るのじゃないかな
我慢したり痛かったりするから
そのあと快感なんだと言うじゃないですか
0から10に行くよりも
-10から+10に行く方が激しいでしょう
二倍です
それが大人ですよ
ーーー
私ならやはり
もう一度全速力で走ると思う
そうすればすべてを忘れられるから