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知略・後出しジャンケン

知略とか策謀というものは
極端に言えば後出しジャンケンとか
戦わずして勝つとか
根回しとか
そんなことを言っているように思う

スポーツマンシップとかスポーツマインドは
そうではなくて
本当に強いものとか速いものが勝つことを目指すのだと思う

野球などは高度な策謀だ
100メートル走などは作戦の部分が比較的少ないかもしれない

もっと分解すると上腕二頭筋・筋力部門とか
上腕三頭筋・反応速度部門とかになる

策略は将棋とか囲碁になるのだろう

関ヶ原でも筋力が決定要因ではなく
生産力を背景にした政治力であり
分かりやすいところでは寝返りとか
そんなことが大事だったようだ

ーーー
商売人たちは
勝ちたいから後出しジャンケンもいとわない
ルールの範囲内ならば作戦であるという


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朱色のひなげし

朱色のひなげし

わたしは立ち止まろうとしたがすべては通り過ぎた

石の花びら 永遠のバラ

動脈を流れる痩せた水

ーー
いろんなパソコンを一度に買って
どれでも使っていいのだけれど
一番安くて一番小さいのをいつも使う
人生はなぜかそんなもの

キーボードが小さい方が指の運動が少なくて良い

ーー
飲食店のあふれる街中にいて
私は外食をしない
人生はぜかそんなもの

ーー
医者なのに不養生
そんなもの



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詩集「マチュ・ピチュ山頂」パブロ・ネルーダ

詩集

マチュ・ピチュ山頂とタイトルをつけるところからして
けれんみ一杯の愛すべき人物

石は残り人間は消える

大衆に愛される政治的詩人

名前だけはよく知っているが詩は知らない詩人

文字を知らない人たちにまで届くように大声で朗読できる詩

詩は不純でなければならない
発酵し腐敗しなければならない
と語る

階級闘争的な言葉が見える
時代の刻印

世界遺産のテレビ映像でマチュ・ピチュを見る

p5-14.jpg

天空の城

くたびれた人の世の春に咲くジャスミン

愛の仕草がかすかに残る石の城

ーーーーー
語り得ぬものをなお語ろうと試みる言葉の機能を考える

語ることのできるものだけを語るべきだとする哲学者もいるが
そんな味気ないものでもないだろう
もう少し愛想良くしてもいいと思う

宇宙空間のへりに立って手を伸ばすと宇宙空間は広がるのだろうと考えて
また常に宇宙のその外側が存在するだろうと考えるが
そのように
言葉が語ることのできる領域を拡大すると
その外側が常に意識されて
常に語られていない領域が気になって仕方がない

語られていない領域に光があると
いつも憧れている

ーーーーー
それはそうと
ジャスミン茶を
渋くなく薫り高くいれることが難しい

ある程度大量に作るといいというのだが
たくさん作って冷蔵庫においておくのも不本意だ

扱いにくいが味わいたいもの
そのひとつがジャスミン

ーーーーー
ミイラには目立った外傷もないそうだ
重労働も争いもなく平和に暮らしていたといわれる
武器が一切発見されていない
変形した頭蓋骨は外部から招かれた建築技術者
自然崇拝の宗教施設説
27種の花粉が発見さたことから農場試験場説

日本ではたとえば鎌倉の土地を掘ったりすると
頭蓋骨に穴が開いたり
大腿骨が折れたりしているらしい
武器と一緒に発掘される

そんなのが常識の立場から言えば
やはり平和な古代文明は信じがたい
武器を使わずに人間の階級を決定する方法を発達させていたのではないか
と夢のないことを考える



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語り部

どの文明でも文字が発達する前から物語はあったわけだし
口伝の形で物語が伝承されてきた

物語は聞く人たちの反応を見ながら短縮されたり膨張されたりしながら
音楽や踊りとセットで披露されたものだろう

パブロ・ネルーダの詩集「マチュ・ピチュ山頂」の中で
古い文明について言及があり
原初の語り部についても語られている

伝承の歌や物語を口伝するアマウタと呼ばれる語り部の存在
それが失われてしまった事への嘆き

語り部たちに舞い降りるインスピレーションは
現代で言えば一部は病的なものだったと思うが
それも文化の一部であり
大衆はその感情を共有したに違いない
排除ではなかった

精神病というものが排除されるに至ったのは
最近のことだ
むしろ天から舞い降りるインスピレーションは高貴なもので選ばれた者に与えられるものだった

マチュ・ピチュ山頂で語られた伝承文学はどんな物語であったか
隙間無く積み上げられた石の空間でどんな音が響いていたか


ーーーーー
全く違う方向の感想だけれど
ある程度乾燥していれば
日本のように発酵はしないし
においはきつくなかったのかと想像する

でも水は少なかっただろうから水浴は貴重だったのではないだろうか

ーーーーー



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日本語表現の可能性

日本語において表現の可能性はどれだけ残されているかを考える

2000年になったと思い感慨を覚え
その時期に生きていたことを奇跡のように思ったのだが
すでに2010年となり
なってしまうと2100年ももうすぐと思い
3000年も似た気分で迎えるのではないかと我々年寄りは思う

毎朝のゲートボールに行くのと同じ気分で
3000年の朝を迎えるのだと思う

日本語の表現は日付をつけている限り新しい体験であるからいつでも新しいし
新聞に書かれる言葉はいつでも新しい表現を切り開いている
論理的に予想することができないものだからその点は興味がある
建築現場でクレーンが倒れて人が死亡する
最新建築の玄関ドアに子どもが挟まれて死亡する
ジャーナルとしてはその意味で新しいのだが
表現行為そのものとして新しいのかといえばそうでもない

言葉の機能として
AであるかAでないかを指し示す、分類機能
AとBは関係があると示す、関係付け機能などがまずあげられるが
表現の可能性として分類機能を考えてみても
Aに属するAaの、その中のAa1のという具合に下に細分化することはたぶん出来る

文明は進歩するのでウォークマンが出現し携帯で映画を観るようになり
宇宙空間からでたらめを送るようになり
そのそれぞれに対していつでも下位分類を作り出して対応しているようだ

言葉の歴史が深くなると
AではないBとかCとかZとかを提示することは困難になる
それができるのは体験そのものが新しいことが重要ではなくて
むしろ他種類の言語と出会うことが重要なのだろうと思う

日本語は中国古代語からの直接の枝分かれとは考えられていないようで
別の系統の言語と中国大陸言語との融合物だと考えられているらしいが
そのあとのやや孤立した展開が面白い点だと思う

新しい文明に大いに影響を受けるが
完全に飲み込まれることもなく
むしろ
平安時代の漢文系文章は捨てられているような具合で
一番の秀才が書いた漢文は捨てられて
表文化とは言えないようなかな文化が残されて日本文学全集に編集されているのが
まず日本語の特徴だと思う

現代で言えば大学で研究されているような哲学が誰にも感銘を与えず
むしろテレビドラマが時代を象徴するようなもの
とはいっても、例えに使うにも不適切なくらいテレビドラマも影響力が無くなっていて
むしろテレビドラマと大学哲学は同じくらいになっているのではないかと思うが
最近の若い人の動向はよく分からない

昔の漢文系で語るなら二流だと自覚していたようで
むしろ漢文系は大陸漢文そのものを大切に残している
日本人が英語の表現者として出現するにはまだ時間がかかるのだろうし
時間がたつうちに英語は変質して中華風英語、中英語になるのだろう

いろいろな偶然でかな文化が生き残ったから
日本文学全集は漢文ではなくてかな系なのか
あるいは必然的にかな系になるべきだったのか
よく分からない

現在の言葉がかな系だから日本文学全集がかな系であることは確かだと思う

アイポッドで電子音楽を聞くという点では新しいのだが
音楽にのせられているメッセージは多分何も新しいものではなくて
たとえば古代からの恋愛文学の反復だろう

生物のメカニズムとかホルモンとか神経伝達物質が理解されるようになっても
主観的な体験としては初恋と桜の花との象徴的な関連であるので反復になってしまう

そのレベルで考えると新奇な表現というものはなかなか生まれない
人間の身体とかDNAが急激に変化するものではないからだ

変化する起点としてはやはり他文化との接触である
しかし現時点で接触して日本語として新しい展開がありそうな他文化とは接触を済ませていて
当分はあまり展開がありそうにもない
宇宙人でも現れないかぎりは

したがって当分はAではないZを提示することはできなくて
Aのなかのa、そのなかの1で、さらにその中の、というように細分化していって、その先の分類を語るようになるだろう
円周率は3.14とするのではなくて3.141としてさらには3.1415とするのであるが
そのことが新しい表現とは考えられない
細分化でしかない

しかしそうした細分化は脳機能の発達を要求するので
大衆文化にはなじまないだろう
むしろ円周率は3としてしまうような文化の方が大衆になじむものだし
今後しばらくの日本語は
老人が欲するものを粗雑な形で与える方向になるだろう

たとえば膝に関係するサプリメント
しかし広告では決して関係するとは言わないたぐいのもの

かなと漢字と英語と中国語とブラジルの言葉とのまぜあわせのようなものが
新しい表現を産んでいくが
それは多分表現の細分化である
または新しいもの同士や、新しいものと古いものとの関係を記述するものであって,
古いもの同士の内的関連を新たに指摘するものではないだろうと思う
それを達成したのがたとえばアインシュタインのエネルギーと質量の関係である
進歩があったとしてもたぶん100年に一度程度だろう
円周率の計算が細密化されたとしてもそれを新発見とは言わないようなものだ
3.14と3.15の間にあることは知られていることで
その先は趣味による細部化でしかない

恋愛文学として考えても
恋愛感情や行為そのものが革新されるとは考えにくい
あいかわらず万葉集や勅撰和歌集の表現に自分の体験の等価物を見出して驚くのだろう
それは人間としての身体的な同型性だから仕方がない

一方、昔の学者が必死に取り組んだような収集と検索は革命的に進歩するはずで
そのあたりも表現の細分化につながるだろう
しかしたぶん脳の処理容量を超えるものになるはずで
その場合には粗雑に理解するか
粗雑ではない、圧縮を伴った抽象化に至るかであるが
後者は難しいだろう

ーーーーー
日本語の総体,日本文化の総体としてはそのような展望になるが
一方,個人の日本語使用はまた別だろう
反復する情報が溢れて
さらに検索が容易にできるので
自分に似た精神を発見することは容易になるはず
だから自分の体験や表現や発想がすでにあったもので
先人は随分先にまで行っているのだと知ることは多くなるかもしれない

その点では不幸であるような気もする
何も知らないで興奮しているのが幸せだとも思う

ーーーーー
日本語の歴史を見ると
大伴家持と短歌,
定家,貫之,とつながる系列,
芭蕉が出て俳句が確立,西鶴などもまた同様で,
ジャンルの確立と天才の出現がセットになっていて,
その後はその天才を超えることはないようだ
むしろ天才は新しいジャンルを確立することで出現すると思われる

ーーーーー
新しい表現ということで言えば
現代では映像や音楽は新しい次元の創作が可能になっている

しかしそれが根本的に言葉を超えるのかと言えば
困難がある

人は感銘を反芻するとき言葉で行うことが多い
妄想を考えるとき言葉で考える

言葉が脳の網の目をつくる

言葉を分析して妄想だと判断することは
映像を分析して妄想だと判断するよりも
数段容易である

体験を表現するものとして
表現の奥に常にその元になった体験を想定するならば
表現は体験の代替物に過ぎないのだから
表現などなくても体験すれば足りるだろう

そうではなくて表現そのものが体験であり
その表現がシンボルしている体験は表現行為そのものだという場合に
新しい表現のジャンルが広がる

そしてその表現を体験することが体験そのものなのである

恋愛や性行為で言えば
そうしたものの代理として表現したり鑑賞したりしているのではなくて
恋愛でも性行為でもない
表現行為であり鑑賞行為なのである
代理ではない

脳の構造で言えば
恋愛回路や性行為回路を使ってはいるが
それをサブセットとしてさらに高次元の体験を組み立てているということだ

恋愛感情や性行為は部品なのである
行動セットの一部に過ぎない
積み木の部品である

脳の既存のサブセットをどのように組み立てて
表現し鑑賞するかについてはやはり新しい可能性として残されていると思うが
脳の癖でやはり古いものを好み安定を好むので
文化の一部としては先端的な試みは可能であるが
大衆化はしないし商売にもならないと思う

本質的に新しい味など誰も要求していない
昔からの焼き鳥の味が恋しくなるというだけである


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社会経済的地位、健康行動、および死亡率

社会経済的地位、健康行動、および死亡率
Socioeconomic Position, Health Behaviors, and Mortality
2010 April 08健康状態における社会経済的勾配の存在を示した多くの研究では、「貧しいより裕福なほうがよい」というメッセージが明示されている。しかし、こうした健康格差の背景にあるメカニズムは依然として明らかになっていない。Londonの縦断的研究において、健康行動が社会経済的地位および死亡率とどのように関連するかが評価された。1985年から2009年にかけて、英国の10,000人近い公務員がフォローアップされた。

 

性別と年齢で調整した後、社会経済的地位がもっとも低い人々の全死因死亡率は、もっとも地位が高い人々の1.6倍であった。ベースラインの健康行動(喫煙、アルコール摂取、食事、身体的活動)で調整したところ、社会経済的地位が高い人々に対する社会的地位が低い人々の全死因死亡率のハザード比(hazard ratio:HR)は1.31に低下した。さらに、ベースライン時および縦断的に健康行動を調整するとHRは1.14に低下し、もはや統計学的有意水準に達しなかった。

コメント:社会経済的地位、健康行動、および死亡率の関連に関するこの研究は、ベースライン時および縦断的に健康行動を調整した点で独特である。社会経済的階層にわたる死亡率の差は、少なくとも健康保険に加入している英国の公務員の間では、主に健康行動により説明できることが見出された。われわれは、個人の素因あるいは特性が、不健康な健康行動と社会経済的地位の両方を導くという結論を導きがちである。社会的、経済的、およびその他の系統的因子が、個人が特定の健康行動を採用する際に重大な影響を及ぼすと主張する人も多いであろう。

— Jamaluddin Moloo, MD, MPH

Published in Journal Watch General Medicine April 8, 2010



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幸せな人

幸せな人は
むしろ目立たずニコニコしているような感じがする

騒いでいる人は軽躁状態なんだと思う
それを幸せそうという人もいるけれど
静かに風情のある幸せの方がいいと感じる


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風景映像

深夜にNHKで風景映像を流している
あまりに美しいので
眺めていた

人生は生きてみるとたいしたことはなくて
むしろ苦しいことの方が多かった
もう一度どうかと言われれば
ためらうかもしれない

そう思いつつ
テレビで見るこの世界はやはり圧倒的に美しい

人生はテレビほどではなかったな

死んだ後でこの世界を回想するとして
このような風景映像を思い出しているのかもしれない

ーー
映像ソースとしてとても使えると思う
画面の隅に時刻とNHK-Gが出ているのも
ここを克服しろと言われているような気がする


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まっとうな理屈の通じない女性と良好な関係を築く方法

まっとうな理屈の通じない女性と良好な関係を築く方法 

他人様のサイトより

ーーーーー

みなが納得するようなフェアな道理を筋道立てて女性に説いて、上手くいかず、

女は非論理的だ

とか、

女は愚かだ

と結論づける男性をときどき見かけます。


しかしこういうとき、

間違っているのはたいてい男の方

なのです。


男と女が揉めるのは、たいてい利害と感情の調整が上手くいっていないときです。


そしてそのとき男性が、その利害と感情のこじれを修復するために持ち出す理屈というのは、

「みなが納得するようなフェアな道理」

です。


男ってバカですねー。


そもそも道理というものは、長い人類の歴史のなかで、利害と感情の調整をするために生まれ、使われてきたものです。

利害と感情が完全に調整されていれば、そもそも道理などというものは必要ないのです。


多くの社会人男性は、職場や取引先でたくさんの人間の思惑、感情、利害が複雑に絡み合った状況を乗り切るために、

「誰もが納得せざるを得ないような、筋道だったまっとうな理屈」

を作り上げ、それを駆使して世間の荒波を生き抜こうと試行錯誤し、失敗や成功を重ね、

その道理の感覚が正しいことに対する自信を深めていきます。

こうして、社会正義というか、いわゆる「フェアな道理」の感覚を内面化していくわけです。


ところが、上司と部下との板挟みになって利害や感情の調整に日々苦しんだ経験もなく、

取引先とタフに交渉して自分のプロジェクトの都合を十分に認めさせながら、

良好な関係を維持するという難事業をやるために知恵と勇気を振り絞る毎日を送ったこともないまま、

結婚し、家庭に入った女性にとっては、そもそも、

そんな「集団の利害と感情を調整するための理屈」など、知ったことではありません

だって必要がないのですから。


もちろん、男性の感覚における「まっとうな理屈」に乗ってくれる女性もいます。

たとえば、やり手の中間管理職で、顧客企業やパートナー企業と良好な関係を築くことのできている女性は

多くの場合「まっとうな理屈」が通用します。


また、たとえY染色体を持っていても、過酷な利害調整業務に疲弊したことがあまりない

世間知らずのおぼっちゃまな男性や、そもそもそういう調整が下手くそで

会社でうだつの上がらないような男性にも、男性の論理における「まっとうな理屈」など通用しません。


ある種の女性がこういう、「必要のない感覚」を持っていないのは当たり前だし、

そういう人に対して男性の論理における「まっとうな理屈」を振り回す男は、

単に愚かであるばかりでなく、女性に対して理不尽な屁理屈を押しつけていることになるわけです。


社会人経験が浅いまま結婚して家庭に入った女性が生きている世界は、

もっと小さくてフラットな世界です。

そもそも、過酷な職場で働く男性の世界は、自分の一つ一つの意志決定が、

地位、権力、お金をリアルに左右する、ちょっと間違うだけで、取り返しのつかないほどの

大出血になってしまうような、シビアな利害関係の世界です。

そこでは、絶対零度と灼熱地獄がとなりあわせな過酷な環境を突き進むスペースシャトルの理屈が適切ですが、

専業主婦の女性が、ご近所づきあいの中で行わなければならない利害関係の調整は、

それほど安易なものではないかも知れませんが、少なくともそれとはかなり異質なものです。

そこに男性の論理を持ち込んで通用しないと愚痴るのは、

スペースシャトルのエンジン部品を軽自動車に取り付けて、うまく動かないと嘆いているようなものです。

ましてや、「軽自動車の部品よりも、スペースシャトルの部品の方が「高級」な部品なのだから、それで軽自動車の性能が上がるはずだ」などという勘違いした理屈をこく男性などは、ほんと(ノ∇`)アチャーという感じです。


そういう女性の小さな世界で必要とされるのは、「道理」ではなく、もっと別の方法です。


とくに家庭のような「小さな世界」では、利害関係が生じる人間の数など

たかが知れていますから「みんなが納得するような道理」など必要ないし、

むしろ不適切なのです。


そもそも、なぜ「みなが納得するような道理」が必要となったかというと、

組織が大きく複雑になり、利害関係があまりに複雑になると、

個別に利害調整するのはコストが大きくなりすぎるからです。


そういう状況では、できるだけ多くのケースに適用できる

「普遍的な公正さ」というものを作りだし、それを使い回すことで、

利害調整の生産性を上げるわけです。

というか、そうやって利害調整を効率化しないと、利害調整ばかりに追われて、

仕事どころではなくなってしまうのです。


ところが、人間の数が限られ、したがって利害関係の複雑さも限られている

家庭のような小さな世界では、利害関係の調整は個別対応ができます。

それどころか、十分な人間の数がいないと、サンプル数が十分でないため、

普遍的な公正さを醸成するには、無理があるのです。


だから、家庭のような小さな世界には、男性が職場で培った「みなが納得するような道理」など

持ち込んでも通用するはずがないし、また、持ち込むべき正当な理由もないのです。


それでは、「みなが納得するような道理」を使わずに、

「個別対応で利害を調整」するには、どうすればいいのでしょうか?


それにはまず、男性は「普遍的な道理に照らし合わせて、どのようなことが正しいのか?」

と無意識に考えてしまうことをやめなければなりません。


そして、「どのようにすれば、結果として個別具体的な誰がどれだけ得し、損するのか?」

「どのようにすれば、結果として、個別具体的な誰がどれだけ感情的に気分が良くなるのか?」

という個別具体的なことだけに、全意識を集中するのです。


そして、女性との関係が良好なときにこそ、女性と「対決」しておくのです。

どんなに蜜月な関係であっても、「対決」をしないと人間関係は腐敗します。


良好な人間関係をたもつために、言うべきことを言わないでおくと、どんどん関係が腐敗していくのです。


「対決」はケンカとは異なります。

それよりもむしろ、「交渉」に近いニュアンスです。


むしろ、「対決」とは、将来の揉め事や不快の芽をあらかじめつぶしておくために、

ものごとがこじれる前に、早期に「決着」をつけておくことです。


男女の揉め事の多くは、対決すべき時に対決する勇気を男性が持たなかったために生じているのです。


女性が、知らず知らずのうちに妻という地位=既得権益のうえにあぐらをかくようになり、人格が腐敗していくケースの多くは、男性の責任も大きいのです。


そういう、いかにも女性的な人間関係の調整には自信がない、

どうしても女性に男性の論理における道理にかなったやり方をしてもらいたい男性は、

利害調整にできるだけ多くの第三者を巻き込むようにするしかありません。

なぜなら、女性が(男性の論理において)どんなにデタラメに理不尽なことを言っていても、

その女性と二人だけで言い争っている場合、どちらが正しいのかなど、決まるわけがないからです。


正しさを作り出し、また、正しさが現実に力を持つのは、

容易に切り離せないほど深く関わるたくさんの人間がいて、その人間たちの

多くがその正しさを支持するからです。


水の入ったバケツを振り回したときに、バケツから水がこぼれないのは、遠心力が生じるためですが、

もし、宇宙に自分とそのバケツしか存在しなければ、バケツが静止したまま自分と宇宙全体が回転しているのか、

それとも自分と宇宙が静止したまま、自分がバケツを振り回しているのかは、区別がつきません。


ですから、そういう状況では、どんなに必死こいてバケツを振り回しても、遠心力が生じるかどうかは定かではありません。

遠心力が確実に生じるのは、我々をとりまく無数の星や銀河があるからだという理屈があるわけです。


これと同じように、男性がもつ「みなが納得するような道理」が通用するのも、

「みながいる空間」においてだけなのです。

二人しかいない空間では、どんなに正しい理屈をこねても、まったく不毛なのです。


だから、どうしても男性の論理で女性を説得したければ、二人しかいない空間ではなく、

周囲に星や銀河がたくさん広がっている宇宙に女性を連れ出して、

そこで女性を説得するべきなのです。


そして、どうしても家庭生活にまで「みなが納得するような道理」を持ち込みたい男性は、

はじめから、星や銀河が広がっている宇宙から来た女性と結婚するという方法があります。


要するに、職場で中間管理職として上司とも部下とも取引先とも良好な関係を築いてきた

実績のある女性と結婚すればいいわけです。


また、社会人経験の浅い若い女の子と結婚するときは、

根気よく男性の論理が通用する人間に育てていかなければなりません。


そのどちらもできない場合、男性の論理が通用しないことをはじめから覚悟し、

「女性の個別対応の論理」に自分を合わせるしかありません。



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歳月人を待たず 陶淵明

雜詩其一

  人生無根蔕  人生 根蔕なく
  飄如陌上塵  飄として陌上の塵の如し
  分散逐風轉  分散し風を逐って轉じ

歳月人を待たず(陶淵明:雜詩其一)

  此已非常身  此れ已に常の身に非ず
  落地爲兄弟  地に落ちては兄弟と爲る
  何必骨肉親  何ぞ必ずしも骨肉の親のみならんや
  得歡當作樂  歡を得なば當に樂しみを作すべし
  斗酒聚比鄰  斗酒 比鄰を聚めよ
  盛年不重來  盛年 重ねては來たらず
  一日難再晨  一日 再びは晨なりがたし
  及時當勉勵  時に及んで當に勉勵すべし
  歳月不待人  歳月 人を待たず

 

人間の生には(植物のような)しっかりとした拠り所がなく、ひらひらと舞い散るさまは路上の塵のようだ、ばらばらになって風に吹かれて飛び散り、もとの通りに居続けることはない

この世に生まれたからにはみな兄弟だ、骨肉の間柄だけではない、歓楽の機会があればすべからく楽しもう、酒があれば近所の連中を集めようではないか、

盛りの年は二度とはない、今日という日は再びは来ない、時に及んでまさに行楽を楽しもう、歳月は人を待ってはくれないのだ




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歸去來兮辭 序 陶淵明

歸去來兮辭 序

  余家貧,耕植不足以自給
  幼稚盈室,瓶無儲粟,生生所資,未見其術
  親故多勸余爲長吏
  脱然有懷,求之靡途

  余家貧にして,耕植するも以て自ら給するに足らず。 
  幼稚室に盈ち,瓶に儲粟無く,生生資する所 未だ其の術を見ず。 
  親故多く 余に長吏爲らんことを勸む。
  脱然として懷ひ有り,之を求むるに途靡し。

自分は貧しい生活の中で、農耕に励んでも自給もままならぬ、子どもらは家に満ちて常に腹をすかせているのに、ろくに食べさせるものもない有様、そんな自分の窮状を哀れんで、親戚が心配してくれるが、仕官のあてもない状態だった。(耕植は田畑を耕すこと、儲粟は、穀物の蓄え、四方の事とは当時桓武玄や劉裕を巡って世の中が乱れた有様をさす、家叔は伯父、彭澤は江西省にある地名、眷然は反省するさま、矯勵はたわめ直すこと、一稔は秋の収穫、駿奔は急ぎ葬儀に馳せつけること、)

  會有四方之事,諸侯以惠愛爲德
  家叔以余貧苦,逐見用于小邑
  於時風波未盡,心憚遠役
  彭澤去家百里,公田之利,足以爲酒,故便求之

  會ま四方の事有り,諸侯惠愛を以て德と爲す。
  家叔余の貧苦なるを以て,逐に小邑に用ゐらる。
  時に於いて風波未だ盡きず,心 遠役を憚る。
  彭澤は家を去ること百里,公田の利は以て酒と爲すに足れり,
  故に便ち之を求む。

ところが運良く世の中が変わり、諸侯が人材を求めていることに乗じて、職につくことができた。彭澤は家からもそう遠くはないし、収穫をもって酒を作ることも出来る。

  及少日,眷然有歸歟之情
  何則,質性自然,非矯勵所得
  饑凍雖切,違己交病
  嘗從人事,皆口腹自役
  於是悵然慷慨,深愧平生之志
  猶望一稔,當斂裳宵逝

  少日に及びて,眷然として歸らん歟の情有り。 
  何となれば則ち,質性の自然は矯勵の得る所に非らず。
  饑凍切なると雖も,己に違はば交ごも病む。 
  嘗て人事に從へるは,皆な口腹自ら役せり。 
  是こに於いて悵然として慷慨し,深く平生の志に愧づ。 
  猶ほ望むは一稔にして,當に裳を斂さめ 宵に逝くべきを。

しかし少日にして帰りたいとの気持ちが強まった。自分の天性はそう簡単に変えられるものではない。いくら生活のためとはいえ、平生の志を曲げるのはつらいことだ。秋の収穫を得たら、さっさと夜逃げしよう。

  尋程氏妹喪于武昌,情在駿奔,自免去職
  仲秋至冬,在官八十餘日
  因事順心,命篇曰「歸去來兮」
  乙巳歳十一月也
 
  尋で程氏の妹武昌に喪せ,情は駿奔に在りて,自ら免じて職を去る。 
  仲秋より冬に至るまで,官に在ること八十餘日。 
  事に因り 心に順ひ,篇を命じて「歸去來兮」と曰ふ。 
  乙巳の歳 十一月なり。

そうこうするうち、妹が死んだ。ことここにいたっては、一刻も早く逃れたい。葬儀に参加することを理由にして辞職しよう。



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Be realistic:Attempt the impossible.

Be realistic:Attempt the impossible.

graffito at Sorbonne
noted by Mortimer Adler
An Agenda for 21th Centry 所収

これはわたしの好きな言葉となって現在に至る。


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カメラマンの見る星空

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チームでしょう

チームでひとつの職場の仕事を分担して担当しているのに
助け合う気持ちもなければ
一体感もないとすれば
チームではない

あの人も最初は戸惑うだろうとか
同じ失敗をしないようにアドバイスしてあげたいとか
そんな気持ちになるのが当然だと思うが
どうなんだろう

それは余計なことなのだろうか

隣にいる人が困っている,または困りそう,だったら
当然助けてあげればいいのではないか

猿でも食べ物を川で洗うことを伝達しているというではないですか

先輩は教育係になる
モーニング娘。でもそうなんだから
誰が誰に歌い方を教えたとか
挨拶とか態度を教えたとか



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心の問題は心で解決

原因不明の身体愁訴に関して
心理療法的アプローチが有効なことがあり
なぜなのか分かっていない

言葉に治癒力があるのか
それは人間の脳の認知能力や感情に影響を与えるのか
あるいは人格的接触が重要なのか
当然のことながら両方の要素が大切という解答もある

身体愁訴を解決する心理療法と
心理的愁訴を解決する心理療法は
同等な関係にあるのかも問題である

心理的な問題だから薬は効かないはず、心理療法がいいとかの意見は
最近は少数派だけれど
おばあちゃんの代から引き継がれている考え方だろう

この考えでは膝の痛みには心理療法は効かないはずだけれど
そんなこともない

心の問題には心理療法と素朴に考えて
どの程度まで妥当なのかよく分からない

膝が痛いのと心が痛むのと
違うようでもあるし同じようでもあるし

痛みを感じているのは「心」なのであるから
心と独立に純粋に膝の痛みが存在するわけではない
だからいつでも心理療法は有効なんだと考えることはできる
そこまでは当然としても
だから同じ心理療法でいいのかどうか問題は残る

痛いと感じている主体は常に存在する
痛みにアプローチするか
感じる主体にアプローチするか
どちらも有効なのだ

ーーー
昔から念仏とかマントラとか呪文とか
言葉の霊力は信じられてきた

それは錯誤ではなくて
たしかに何かの力を持つと思う

しかし測定も難しいし科学のレベルではない

科学を原理的に拒む何かがあるのだと
これも昔から立論されてきた

そのたびに論は破られてきたのだけれど
まだ「心の特有の領域」論は根強い

ーーー
痛いと感じている主体を構成しているのは言葉であるというタイプの立論も
どの時代にも根強くある

痛覚や温覚については
客観的に測定可能な神経伝達であり
いろいろな動物も痛覚や温覚があることは確実なので
言葉がはじめて感覚を構成するわけではない

そこまでは当然なのだけれど
では猫は心理的原因の痛みを持っているかとの疑問がある
動物もストレスが原因とされる身体症状を呈するのでメカニズムは同じだと思うが
その場合もストレスがどのような経路で症状を構成しているのか不明なので
なんとも言えない

たとえば
慢性持続性のストレスが免疫系に影響を与えてウィルス活性が高まりその結果として痛みが発生するとか
円形脱毛症が発生するとか
いろいろなメカニズムが考えられるの

それらのことはひとまず置くとして
やはり心理療法の態度として言葉の網の目のあり方に介入するのは妥当な王道だろうと思う

心を治療するというよりも
言葉の網の目を治療する

言葉の網の目が破れていたり
歪んでいたりするのだから
そこに介入する

言葉の網の目の構造変化が
病気によって生じている場合もあるし
体験によって生じている場合もある

そのような次元での
心の治療は心で
というのは理解しやすい話だ


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