威張る
補償とか自己愛とか反動形成とか言わなくても
理由もないのに威張る人
といえば日本語としてドンピシャのストライクで通じやすい
虚勢を張る
からいばりする
鼻に掛ける
でもいい
ーー
昔は精神科の外来は理由もなく自信喪失している人が多かった
最近は理由もなく自信満々で、自分を正当に評価しない周囲が馬鹿だと、息巻いている人が多い
時代と教育が変わったのが先日のことで
最近は人間も変わってしまったのだと思う
多分、理由もないのにいばる人が特をする社会が形成されているのだろうと思う
アメリカ的な
プレゼンテーションの世界というか
中身に気付いてもらうためには
まずプレゼンテーション
というわけだが
嫉妬したりする場合には
中身に対して嫉妬する場合が多いので
多分やはり中身を気にして評価しているのだと思う
働きたくないと駄々をこねる人
働きたくないと駄々をこねる人が社会の中に一定数いるのは
仕方のないことだと思う
むしろ人の何倍も働きたい人の力を充分引き出せすことの方が
社会にとっては能率のいいことだと思う
ワールドサッカー・デンマーク戦
みんなで盛り上がりたいです
なんていうインタビューが紹介されている
デンマーク戦で引き分け以上で決勝トーナメント進出かどうかが決まるという
そして今日が参議院選挙の公示日
勝って試合が続けばテレビ番組が選挙関係からサッカー関係に切り替えられる
すると選挙結果に影響する
すでに消費税増税の議論で話が混乱しているのにますます分からなくなる
民主党が勝てばそれでいいし
負ければ自民党と大連立でいいのだろう
自民党が難色を示したら
谷垣総理を提示して旧社会党と同じ運命を与えればいい
民主党が勝てば自民党は生き延びる
民主党が負ければ自民党はなくなる
というシナリオ
ーー
今日から会社の目の前でもうるさい選挙カー
聞きたくないが聞かされてうんざりだ
聞けば投票したくなくなるだろう
何も言わない人のほうがいいのではないか
公約は議員数削減だけでいい
ーー
それは嘘としても
テレビで観ていると腕にいろいろなものを巻いている人がいる
不思議なものだ
多数決とはそんなものなのだろう
冷酷かつ残忍
殺人事件の判決で
犯行は冷酷かつ残忍と表現されている
刑法には冷酷とか残忍と認定する基準があって
非冷酷または非残忍ならば刑罰の内容が違うというなら
それもなんだか怪しい理論のような気がする
比較照合と訂正の理論
私は脳の基本機能として
比較照合と訂正の理論
が正しいと信じているが
一方で、自分の絵をかく能力について
比較照合と訂正が出来ているかといえば
全然言えないので困ったものだ
1センチ右でもだめ、1センチ左でもだめということは分かる
だからその真ん中辺りにいい線があるのだろうと思うけれど
思うだけで決してうまくはかけない
それが不思議だ
絵でなくても名前でもいい
多分何万回も描くものだろうが
いい加減うまく書けばいいと思うのだが
そうはできない
名前くらいきちんとうまく書けるはずだと思うのだが
そうは出来ないのはなぜなんだろう
字が大きくなる病気ももあり
字が小さくなる病気もある
字を書いているうちにだんだん小さくなる病気もある
そんな時自分の字を見ていれば訂正できると思うのだが
結局できないようで
それが不思議だ
日本の漢詩
日本人の秀才の作った漢詩がほとんど忘れられて
古典文学全集にも収録されていないのはやはり不当な扱いだと思う
平かな文化よりは読みにくいが重要な成果に違いないと思うのに
防災訓練
今日は会社で防災訓練でした
館内放送が流れて
いろいろ言っていたのでその通りにすることにしました
警報が鳴ったので階段で降りました
「あれ、だれも非常階段を歩いていないな、みんなすぐには出てこないんだろうな、一番先についちゃったらどうしよう」
とかあれこれ言いながら降りました
すると地上にはすでに「全員」集まって、最後の私たちを待っていたのでした。
そんなわけで「これで全員救助できました」と宣言されて、
消火器の使い方の訓練に移りました。
必ず全員が訓練することと言うので並んで順番に実地訓練です。
出荷を発見したという想定で、
まず「火事だ!119番をお願いします!」と周囲に大声で伝えます。
そして消火器を持って想定した「火」に向けて消火器を発射します。
「火に向けるのではなく、火の元に向ける。燃えているものに向ける。」
「火が天井に届いてしまったらもう消火は無理だから、逃げること」
などと教えていただきました。
英会話学校の先生もいて、英語で消火訓練に参加していました。
10年以内に東京に大地震が来る確率はどうとか言われて怖くなります。
防災セットをもう一度点検しておかないといけません。
アイデンティティ人間の死に方
死に際しては
やはりアイデンティティ人間が強い。
自己愛型人間は自分を超える何かに頼らないので、
死ぬとなれば、むき出しの個体の死があるだけで、
それでおしまいなのだ。
アイデンティティ人間の場合には、
国家だったり宗教だったりイデオロギーだったりで、
殉教したり、自爆テロをしたり、
その場合にも、自分の死は意味がある、役に立つと、
少なくとも自分自身は信じて死んでゆく場合がある。
死ぬことをむしろアイデンティティに殉ずる最大の機会として利用する場合がある。
そのような、納得できる、盛大な死に比較して、
自己愛型人間の死は無意味なのである。
しかしアイデンティティ人間に巻き込まれて
無意味以下の悲惨な死に方をするよりはずっといいというのが
おおかたの見方である。
おかしな意味づけをすることなく、
静かに個人のままで、
過不足のない等身大の死を死ぬ。
そこの時間を安らかに通過するにはどうすればよいものかと思う。
倉本聰は家族の絆を原理として描いている。
やはりアイデンティティ人間が強い。
自己愛型人間は自分を超える何かに頼らないので、
死ぬとなれば、むき出しの個体の死があるだけで、
それでおしまいなのだ。
アイデンティティ人間の場合には、
国家だったり宗教だったりイデオロギーだったりで、
殉教したり、自爆テロをしたり、
その場合にも、自分の死は意味がある、役に立つと、
少なくとも自分自身は信じて死んでゆく場合がある。
死ぬことをむしろアイデンティティに殉ずる最大の機会として利用する場合がある。
そのような、納得できる、盛大な死に比較して、
自己愛型人間の死は無意味なのである。
しかしアイデンティティ人間に巻き込まれて
無意味以下の悲惨な死に方をするよりはずっといいというのが
おおかたの見方である。
おかしな意味づけをすることなく、
静かに個人のままで、
過不足のない等身大の死を死ぬ。
そこの時間を安らかに通過するにはどうすればよいものかと思う。
倉本聰は家族の絆を原理として描いている。
弱っているときに傷つきやすくなる
弱っているときに傷つきやすくなるのは
やはり解釈が難しいところがある
弱っているときには
ある程度鈍感になり
周囲のことに無関心になった方が適者であるような気もする
また弱っているときには
免疫系が賦活されているのが妥当だと思う
そうなっていないのは
それ相応の理由があるのだろうと
考えざるを得ない
弱っているときに
なおさら傷つきやすくなるのは
かなり困ったことだ
*****
たとえにはならないが
机の脚に
右足の小指をぶつけていたい想いをしたとすれば
近いうちにもう一度ぶつける可能性が高い
痛いから懲りるはずとも推測するが
やはりぶつけそうだ
ぶつけるような諸条件がそろっているからぶつけるのであって
当然再度ぶつける
これは理屈としても妥当だけれど
多分これに似たような事情が
心理にも当てはまるのだろう
一度傷つくと
再度傷つけられる可能性は高く
そのときは多分一度目よりも敏感になっている
それが心理の困ったところだ
やはり解釈が難しいところがある
弱っているときには
ある程度鈍感になり
周囲のことに無関心になった方が適者であるような気もする
また弱っているときには
免疫系が賦活されているのが妥当だと思う
そうなっていないのは
それ相応の理由があるのだろうと
考えざるを得ない
弱っているときに
なおさら傷つきやすくなるのは
かなり困ったことだ
*****
たとえにはならないが
机の脚に
右足の小指をぶつけていたい想いをしたとすれば
近いうちにもう一度ぶつける可能性が高い
痛いから懲りるはずとも推測するが
やはりぶつけそうだ
ぶつけるような諸条件がそろっているからぶつけるのであって
当然再度ぶつける
これは理屈としても妥当だけれど
多分これに似たような事情が
心理にも当てはまるのだろう
一度傷つくと
再度傷つけられる可能性は高く
そのときは多分一度目よりも敏感になっている
それが心理の困ったところだ