「国家戦略局」による主計局からの予算編成権奪取
「国民福祉税構想」以来の財務省の主張を代弁
菅首相は約20年間の「政権交代ある民主主義」実現の潮流の中で、「財務(大蔵)省解体」に取り組んできた。98年の参院選で大蔵省の財政金融政策を徹底的に批判して勝利し、「金融国会」で政策新人類を率いて財金分離を実現した菅首相の集大成は、「国家戦略局」による主計局からの予算編成権奪取だったはずだ。
しかし、菅首相は権力の座に就く際に、その主計局と手を握ったようだ。その結果の「消費税増税」と「政治主導の撤回」は、菅首相の財務省への完全敗北を意味していた。
分子機能研究とかmolecular biologyとか
大学にいる人々の肩書きも昔のように糖尿病学とか循環器学とかではなく
分子機能研究とかmolecular biologyとかに変わっている
ミクロの世界に還元して説明しようとするのは当然だ
molecular psychiatryになる
多分200年くらいはかかるのかもしれない
還元主義が当然のように大手を振って看板を出しているわけだ
エビデンスの話はその手前の話のようだ
気分を切り替えるとマイルドな多重人格
気分を切り替えることとマイルドな多重人格は近いような気がする
たとえば夫婦は時間が経つと
パパとママになってしまうので
セックスなどしなくなってしまうケースもある
そんな場合
極めて軽度の人格変換が生じてくれれば
パパとママではなくて男と女になれるようだ
それは意識的退行でもいいし
別の方向でもいい
多重人格といえば病気の呼び名になるが
人格の多面性といえば穏やかだろうか
子どもが成人する
友人の子どもが成人したとか孫が生まれとたとか
この置き去りにされる感覚
赤ん坊の小さくて白くてむっちりして
小さいけれど五本指が揃っていて神経も通じていて
血液もたっぷり通っていて
未来そのもののように存在している足
遺伝子はすでに次の世代や次の次の世代に乗り換えている
私は乗り物
年をとる
もともと体も弱いし頭もはっきりしないので
自分が年をとったと明確に認識することは少ないのだが
気力がなくなったというのか
物事が億劫になったというのか
どうてもよくなったというのか
そのあたりは年をとったのかと思う
一種のなげやりな気分が常になること
自分の人生の一回性を若い頃はもっと大切に考えていたと思う
だんだん気力が衰えて
目標のはっきりしない時間を生きていることが増えた
友人は私がテレビで巨人戦を見て2時間程度を無駄にしているのを見て
なぜかと驚いていたことを思い出す
ただ生きているというのか
そんな残念な時間が増えた
時々思い出してブログなどを書いているが
心底は考えなおしていないはずだ
こうして書いていながらつきつめて自分を変えようとしないのだから
いったい何を書いているのか
疑問にも思う
このあたりのムクムクと湧いてくる疑惑を突き詰めてスパッと表現できたらいいのだけれど
そんなこともできないままだ
これ以上は考えないために書いているのかもしれない
有名な人達の訃報に接して思うのだが
平均というものは実際平均なので逃れられない
そして平均寿命の最後の十年くらいは
ただ単に生存しているだけという場合も多いと指摘されていて
そうなると実質の人生は平均寿命のマイナス10歳くらいのものだろう
長寿の家系というものもあるが
やはりそこでも平均というものがあって
それからマイナス10歳程度が正味の人生なのだろう
老人の頭は老年を痛切には意識していない
意識するのはとんでもなく怖いことだから
なるべく考えないで
サッカーとか選挙とか集中豪雨とかカミツキガメとかいろいろな出来事で
忘れようとしている
それでも何かの機会に自分の生きていた、たとえば30年を意識させられることがあり、
何と自分はもうそんなにも遠くに来てしまったのかと思うものだ
そのような意味で自分を見つめ直すことが少ないのは
多分日本が猛烈な老人社会に突入しているからだろう
身の回りにはまだまだ自分より老人が多い
そして自分より有力な若者はまだ多くない
しかしそれは相対的な感覚であって
自分の昔と比較すると
何と年をとってしまったものだろうと思う
たとえば30年前の自分の日記
こんな老人になりたくて生きてきたはずではないのだけれど
仕方がない、ここまで来てしまったのだからせめてここから先、どうできるかを
若い頃の気持ちに戻って考えてみたいと思うのだ
全くうっかり年をとったものだと思う