配偶者要件
どんどん熱くなる
下手な線なのに訂正できない。
うつの「場所」と「病理」
自分が商品であること・自分の行為が商品であることに
自分が商品であること、
自分の行為が商品であることに、
嫌悪を感じる。
そのようなことを
軽蔑して拒否して生きられる
種族が羨ましくなる。
現状では、キリスト者であることは、難しい
(ローマ人への手紙)
アウグスティヌスは、この「万事」の次に「罪でさえも」という注釈を付け加えた。
(「恩寵と自由意志について」)
キリスト者は、勿論、そう考えなければ、ならない。
しかし現代社会に生きる人間である限り、
そう考えてばかりはいられない。
あるいはのどかな田園でなら可能だろうか。
ニューヨークでは不可能であるとしても。
突然銃が乱射され、学生が殺される。
米軍兵士は自殺する。
暴行された少女は迷路をさまよう。
そのようなことは少数の例外であると信じたいが、
しかし現状では、キリスト者であることは、難しい。
なおも信じよと2千年の間、言い続けている。
2千年にわたる空手形である。
孤独は伝染する
孤独は伝染する
孤独な人は孤独な仲間を引き寄せ、他人も孤独にすることが、医学誌「Journal of Personality and Social Psychology(性格と社会心理学)」12月号で報告された。研究著者の1人である米カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)教授のJames H. Fowler氏によると、「孤独は人から人へと、3人先まで拡大する。つまり、ある人について何も知らなくても、その人の友達の友達が孤独であることを知っていれば、その人が孤独になるかどうかを、偶然を超える確率で予測できる」という。
今回の研究では、孤独が伝染するだけでなく、孤独な人たちが小さな集団として孤立する傾向があり、その集団の中で孤独感が増大していくことも判明した。データからは、平均的な人は1年に約48日孤独を感じるが、孤独な人には常に孤独感がつきまとうことが示された。さらに、孤独を感じている人は数年後には友達がいなくなるか、絶えず友達を失い続けている可能性が高いこともわかった。
Fowler氏らは、米国立加齢研究所(NIA)の支援により、フラミンガム心臓研究(Framingham Heart Study)の最初の参加者の子孫に当たる5,100人強を対象に、2~4年にわたり継続的な友人関係のパターンを追跡するグラフを作成。その結果、孤独である日数が1週間につき1日増えると、近くの友人の孤独も同様に増えるきっかけとなることが判明。さらに、近くの友人同士の会う機会が減るため、孤独がコミュニティ全体に拡大した。女性は男性よりも孤独に感染しやすいこともわかった。
米デューク大学(ノースカロライナ州)教授のMark R. Leary氏によると、この孤独の伝染は、生活様式が周囲の人に似るためである可能性があるという。「孤独な人に接している孤独でない人は、やや否定的に行動することで、同じネットワーク内の他の人を少し孤独にする可能性がある。おそらくこれが3人先まで孤独の影響がみられる理由である」と同氏は述べている。
Leary氏によると、孤独な人を救うには、孤独な人と接する人が、内向的な態度は孤独の表れであり、無関心、嫌悪、拒絶ではなく、つながりを求めていると認識し、手を差し伸べることが必要であるという。また、Fowler氏は「精神医療に従事する人であれば、患者だけでなく患者の友人にも働きかけること。雇用者なら従業員が互いに社会的なつながりを持てる活動を強化すること。家族の場合は、家族間の連帯を助けると同時に、自分自身のネットワークにも気を配るべきであることを意味する」と付け加えている。
夫がいなくなれば新しい人生
新しい人生を選べると感じている妻たちは多い
そう思われている夫たちのはかなさ
つらさ
やるせなさ
BASIA サード・タイム・ラッキー
今夜はぱーっと行きましょう
今夜はぱーっと行きましょうと
口癖のように言っている人がいて、
この人はmanic cell成分がうずうずしている
manie型の人なのだと思う。
そんな人が
カーニバルのない日常に塗り込められる窮屈さと言ったらないだろう。
お酒で解放感があればまだしもであるが、
お酒もだんだん日常になってしまうらしい。
踊りを伴うもの、昔のディスコなどは、かなり祝祭空間であり、
身体的参加があったわけだが、
最近はどうなのだろう。
Manicな人たちは走っていることが多いと思う。
走ることで祝祭空間にトリップし、
いろいろなことをリセットできると語る。
動き回るタイプの人とというのもいて、
水泳指導員からNPO代表からいろいろとがんばってしまう。
何かやっていないと私は死んでいるのと同じだという。
自転車みたいで、
止まると倒れてしまう。
疲れるだろうと言えば、
周期的に疲れて、
その時はもう何もできなくなるとのこと。
でも、前にぐんぐん進んでいる感じが忘れられなくて、
いつの間にかそのコースに戻っている。
こちらは「今夜はぱーっと」どころではなくて、
「人生はぱーっと!」というタイプなので
成功も高揚感も大きいが落ち込みも大きい。
ほどほどにとは行かないようだ。
隠し持った躁の傾向というものもあって、
育児の際に自分でも知らずに発揮していたりする。
「もっともっと」と子供に要求する。
多分、自分自身に対しても潜在的にmanicに要求しているのだろう。
自分の分身と感じる子供と言うことで、ついつい出てしまうのだろう。
母親はその場合、「また出たね」くらいで取り合わないらしい。
だからその夫婦はうまく行っている。
しかし子供にすればたまらない。
子供もManieならばちょうどいいようなものだが、
Manie同士で気が合うということもないのである。
むしろ、M成分がぶつかる。
梢ふく 風の心は いかがせん したがふ花の 恨めしもかな 西行
梢ふく 風の心は いかがせん
はかなく過ぎし 妻の心は いかがせん
したがふ花も ひとつとてなし
癒すこころの ひとつとてなし
キレやすイエモン
現代の若者はキレやすいといわれるが
四谷怪談のお岩のパートナー・イエモンは
実際キレやすい。
しかも刀を持っているものだから、
暴力で最終決着をつけたがる。
昔から男はこんなもの。
もちろんいいことではないけれど、
昔から悪かったというだけ。
http://jp.youtube.com/watch?v=w0gkl_8CgvY&feature=related
心かよう
心が通うとは優しい表現だと思う
血が通うと言えば
人間味のあることとか優しい配慮のあることだと思うが
イメージとしては
皮膚の下に血が巡っていることだ
心が通うというのも似ていて
二つの心が糸電話のようにつながっているというだけではなくて
相手の心から出た粒のようなものが
自分の心の中を回っていて栄養を与えている感じだ
キムチ牛丼
夫婦または恋人の観念について
その人の妻や恋人は、とりあえずは、その男性の細やかな対他配慮を享受できるわけです。
しかしそのあとが問題。
夫婦や恋人は共同して同じ態度で世界や他人に対するべきでしょうか。
もしそうであるなら、その女性も、その男性と同じだけの対他配慮を身につけなければなりません。
もしそうでないなら、それぞれの態度で世界や他人に接してかまわないわけです。
おおむね、男性は、自分の態度や考えが標準となり、
妻、恋人、子どもなどに、同じことを要求することがあります。
それは自然であるとも言えるし、
控えめにすべきこととも言えます。
お宅ではいかがですか?
世界や他人に対する態度といえば大げさのようですが
たとえば室温の設定とか
扇風機の程度とか
テレビの音の大きさとか
部屋の明るさとか
我慢できる匂いと我慢できない匂いとか
いびきとか歯ぎしりとか
いろいろな妥協点があります。
最近の人は妥協する必要を認めないので
それぞれの個室で快適に暮らそうとします。
食事も、それぞれが好きなものを好きなときに食べる傾向もあります。
しかしそのことで失われているものは何だろうかと
議論があります。
いろいろな夫婦があっていいわけで
月に一回だけレストランで会食する夫婦もいいでしょうし
24時間一緒にいて自宅で商売や農業をしている夫婦もいいでしょう
この二つの場合、夫婦であることの共通点というか、定義は何でしょうか。
民法や判例では
同居を拒む
生活費をいれない
家事をしない
育児をしない
浮気
暴力・暴言
性生活の不一致
精神病
刑務所に服役
などが夫婦でいられない要素となるようです
私たちは夫婦だとお互いにいうならば夫婦であるわけですが、
一方がそれを嫌悪した場合、
その嫌悪は正当かどうかを、
社会の規範として、ひいては法的に決めなければなりません。
一つには養育権、養育費、財産権の問題があるからですが。
ここで究極的にプライベートな問題が
突然公的で社会的な問題になってしまいます。
自分と同じ程度の思いやりがないなら夫婦とは思えないのだと
男性が言ったとしたらどうでしょうか。
いやなものはいやだと言ったらどうなるのでしょう。
一方では社会の安定を保持するという要請もあります。
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定年退職して
そのあとなぜ夫婦でいるのか、理由が見つからないのだという夫婦もいるわけです。
夫には理由があるのですが、妻にはないという場合が多い。
どうしましょう?
無一物
所詮無一物だった
いまさら無一物になったとして
それがどうしたというのだろう
慣れたことではないか
そして思うのだが
死ぬときの感覚はこの延長にあるのではないかと思うのだ
刺身とか牛肉が食べられなくなるだけのことだ
むしろ長生きするだろう-
何でもできるという自由はないわけだが
不自由もそれ以上を望まなければいいだけだろう
貧乏になっても
心が貧しくならなければいいだろう
むしろたくましく生きたいと思う
何のために生きているか分からないなどという人もいるけれど
貧乏な人の場合にはただ生きるためにただ食べるために毎日を働いて過ごしている
私もそれで充分だ
労働の貴重さが私を支えるだろう
ニードルフェルト
83運動
小学校の登下校時に当たる午前8時と午後3時に、花の水やり、買物、犬の散歩など屋外に出て子どもを見守る「83運動」は、2005年に始まった区民総出の子供支援活動。品川区発のこの試みは、今や全国に広がりつつある。