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金を出せば弁護してやる

金を出せば弁護してやる
ってすごいよね

不幸にまとわりつき
対立を煽るハイエナ




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S系女社長

S系女社長とM系女社長だと
どうでしょう


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手応えのない類型

手応えのない類型は
もちろん昔からいたけれど
最近ますます多いのではないかと思う
なぜかというと
えーと



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ワールドシリーズ

アメリカプロ野球で
ワールドシリーズというあほな名前で
シリーズを戦っている

銀河系シリーズとか
宇宙シリーズとか
言い出しそうだな

ーー
それにしても
松坂の費用はもう元が取れたとか言っているのだが
そのような商売なのか

結局回りまわって人民が支払っているわけだ

好きな人だけ払うのはいいけれど
多数決で結局、込みで払ってしまうのはどうなんだろう


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生命保険殺人事件

生命保険殺人事件は最近も珍しくない

報道されるのは一部なのだろう

もっと多く立件されているはず

さらに生命保険支払い担当者は話を聞いただけで怪しいと分かるはずで

立件されないが怪しい案件の数は相当に上るだろう

テレビドラマで毎日殺人が起こっている国なんだから

ーー
ゲームで子供の暴力や衝動性がどうのとか言っているが

そもそも大人が保険金殺人しているのだからどうしようもない

ーー
淀川女性死体遺棄
被害者養父の妻は8回変名
ローンを新しく組めるとか
養子縁組を何回か
母親が階段から転落、保険金支払いを受ける



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プロゴルフ

男子プロゴルフの若い人のスポーツ・ニュースでの露出が
かなりの時間数になる
これを金銭に換算するとかなり膨大
知りたいんでしょうかね、人々は
伝えたいんでしょうかね、編集は

こういう構図になると
タイガー・ウッズ的になるなあ


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サディスティック・プシコ

リアル・サディスティック・サイカイアトリスト

昔はすごい人がいたですよ


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台風を飛行機が追い越す

大きな台風14号が九州から関東に向かっている
飛行機はもちろん無理しないで欠航して欲しいのだが
だからこそまた困っている人は飛んでほしいと願うだろう
それぞれに事情がある

飛行機が飛んだとしたら
台風を追い越すのだろうか
そんなことはないですよね
うまいこと行くのかな








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iMacの画面調整

アップルのiMacは画面のスペックとしてはいいとも思わないのだが
写真はとっても鮮やかに見える
文字はそれほどでもない
そのような画質調整なのだとわかる


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投資家ソロス氏、マリフアナ推進団体に100万ドル寄付

【10月28日 AFP】投資家のジョージ・ソロス(George Soros)氏が26日、カリフォルニア(California)州のマリフアナ合法化を推進する団体「Drug Policy Alliance」に100万ドル(約8100万円)を寄付した。同団体が認めた。

 カリフォルニア州では、医療目的のマリフアナ使用はすでに1996年から合法化されているが、これに加えて11月2日、個人使用目的でマリフアナを所有、栽培、運搬することを21歳以上に限って合法化する法案の是非を問う住民投票を、中間選挙と同時に実施する。

 ソロス氏は26日朝の米紙ウォールストリート・ジャーナル(Wall Street Journal)掲載のコラムで、合法化への賛意を示していたが、寄付に関する詳細は明らかにしていなかった。

 ソロス氏はコラム中でマリフアナについて、「合法化し課税すれば税収が増える上に、司法機関や刑務所につぎ込まれている税金の節約になる。麻薬の売買に関連した犯罪、暴力事件、汚職も減り、警察はもっと重要な業務に集中できる」との見解を示している。(c)AFP


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獣医ドリトル

獣医ドリトル

Do little先生が航海記で王様になった時贈られた名前が Think a lot

The Story of Doctor Dolittle

 

Dolittle を直訳すると「働きが少ない」となり、やぶ先生になってしまう

と解説がある

Do little ということ自体いい意味なのだと思うがどうなのだろう

東洋的解釈なのだろうか

 



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思考だけでパソコン操作

思考だけでパソコン操作 米大学が脳の信号を研究

2010年10月28日   提供:共同通信社

【ワシントン共同】頭の中で思い浮かべるだけでパソコンを操作―。米カリフォルニア工科大の研究チームは、脳細胞が発する電気信号を利用して手を使わずにパソコンを自在に操作する技術に結び付くような脳の働きに関する研究結果を27日付の英科学誌ネイチャー(電子版)に発表した。ロイター通信が報じた。

 重度の障害などで意思表示ができない患者とのコミュニケーションに応用することなどが期待されている。

 研究では、重度のてんかん患者12人の協力を得て脳に電極を差し込み、電気信号を観察。マリリン・モンローなど有名人の写真を示し、好みの人物を見たときに特定の脳細胞が活性化することを記録した。

 脳の反応に応じて写真を映し出したり消したりできる特殊なパソコンを使い、異なる有名人2人分の写真を重ねて表示。このうち1人を強く念じるよう求めた結果、69%の確率で好みの写真を表示させ、興味のない方は消すことに成功したという。

 頭の中でイメージしただけで機械を操作する研究をめぐっては、これまでにてんかん患者がパソコンでゲームをしたり、サルの脳神経データを読み取ってロボットアームを遠隔操作したりすることに成功した例がある。



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子どもの自分なりのこだわりを「窓」 といっている

○「窓」(山中康裕氏、2006)をもっている子

・山中氏は、釣りが好き、ある音楽グループが好き、という子どもの自分なりのこだわりを「窓」 といっている。「窓」という言葉は、例えば釣りの世界を「窓」にしてそこから外の世界を見よう としているのだという意味をこめて、あえてこだわりと言わず、「窓」と言っている。自分は、ス クールカウンセラーをしていて、不登校の子を見てきたが、たとえ学校に行けない子でも、この 「窓」をもっている子は、安心なのではないかと思う。*山中康裕『心理臨床学のコア』京都大学 学術出版会、2006年

≪山中氏が紹介しているある一人の男の子≫ イギリスのある音楽のバンドの4枚目のアルバムがいい。なぜいいかというと、メンバーが勝 手に演奏しているようで実はちゃんとあっている。それでいて、個性が出ているから、と言っ ている。この子は、音楽を「窓」にして人間の在り方、世の中を見ている。

≪私自身の小さな事例:ある小学校の女の子≫ うちの子は、人間が嫌いらしい、心配だと母親。しかし、この子はミドリガメが好きで、その カメの餌を夜通し探し回ったという。カメは「窓」になっているのではないだろうか。

・世の中に適応できない子でも「窓」をもって、世の中へのまなざしをもっていれば長い時間をか けて心が開かれていくのではないか。

○「窓」をもっていない(もてない)子

・最近「窓」をもてない子どもたちが多くなってきている。何にも興味がわかない、何をしてもお もしろくない、死にたい、とばかりいう子が増えてきている。

・スクールカウンセラーの仕事をしていて子どもの背景が以前より見えてくるようになった一方で 子どもと心が通わなくなってきたなあと思うことが多くなった。「この子は~な背景をもっている のだろう」と分かった気になって、その子への尊厳の気持ちというものが薄らいできてしまってい ると感じる。言葉でない交流がもてなくなってきている。だから私自身は、今、もう一度、子ども の心に共感していくということを課題にしなければと思っている。

・子どもが「窓」がもてず、さらに私自身が子どもと交流をもてなければ、なおさら事態は悪くな る。この子はこういう子だろうという推測からは子どもとの交流はなかなか生まれない。自分は、 このような悩みを抱えた時、津守真さんの『保育者の地平』(ミネルヴァ書房)を読みかえす。一 人一人に寄り添うことを深く考えさせられる本。

2 「窓」を生み出すのは?

○「存在感」と「自発性(能動性)」

・世の中に受け止めてもらえているという存在感、この世の中で自分で何かをやっていくという自 発性、能動性が育まれてきていることが「窓」を生み出す。

・自分の中で残っている幼児期の記憶がある。それは自宅の廊下でウルトラマンの絵を描いていた こと。この記憶は、自分にとって自発性が育まれていた時の記憶。自分の中でバランスよくウルトラマンの顔が描けることを追求して何度も飽くことなく挑戦をしていた。ウルトラマンの絵は自分 にとっての「窓」であった。

・イタリアのレッジョエミリア市の幼児教育のビデオを見て自分の廊下の記憶が重なった。それは、 例えば美的な比率を子どもが思考しているとする。それを隣で見ている子が3,4人くらいいる。 一人の子どもがあることを探求していて、隣の子もやはり何かを探求している。その間で相互作用 が起きている状態、その状態をイタリアの幼児教育は追求している。追求している者が隣にいるか らその隣の子も目には見えないけれども探求が進んでいくという意味での協同性がイタリアの幼児 教育にはある。自分が廊下でしていたことが少しずつ広がっていくとこのような幼児教育の形にな るのかなと思う。

・逆にそこから日本の幼児教育を見た場合に気になることがある。日本の場合は、協同性というと 目に見える形で協力し合ったりとか、思いやりを求めたりとか、そういう形に子どもたちをはめ込 んでいくようなところがある。そういうことが多くなると、「窓」はもちにくくなっていくだろう。 協同性は、追求している者同士の間で起こるもの、見えないものだと考えることが大事。

○「乳幼児期」と「10歳」

・10歳(小学校4年生)ということを重く捉えるという考えがある。自分も父親の言葉、行動を 批判的に見るようになったのが10歳の頃。この頃は「理(ことわり)」というものを意識して人 を見たり物事を考えるようになる。正義感が強くなる。父親の言ってること、行動が本当に正しい のかという子どもなりの正義感。はっきりした価値観というまでは高まっていなくても、それなり の正義感がもてるということは、ある基準から自分を評価できるということにつながっていく。

・親離れは10歳の頃から始まっている。大人はそのことにもう少し敏感になってもいいのではな いか。小学校時代に大人に全く依存する形で大人の言うことを絶対視して過ごしてしまうと自分の 中に基準が生まれてこないので思春期になってからどんなふうに自分をつくっていくかという力が もろい。小学校中学年からその力がUPしてくる。その時に大人が「自分はこういうところが悪か った」と子どもに言うことができたら、子どもと対話をすることができれば、子どもはそのことを 力にして自分を評価できるようになっていく。自分をつくれるようになっていく。反対にその力が 弱いまま育った子は、思春期に入った時に自分の中に起こる性的な欲求や様々な欲求、攻撃性にど のように対処していったらよいかという自我の力が弱いまま思春期を迎える。そうすると問題行動 となって現れる。

・10歳になってせっかくいくつかの視点から考えて正義感をもって大人の世界と向き合い始めら れるのに、大人が「いい子好き」すぎる(いい子に基準をおいて子どもに求めてしまう)と自我の 力を育てられずにいってしまうのではないか。10歳前後からパワーアップする自我が育まれれば、 たとえ学校に行けなくても「窓」を通して人を見つめる、世界を見つめるということができるよう になるのではないかと思う。

・様々な子どもの問題が出るたび、忍耐力が弱まっていると感じることはある。しかし、ただ忍耐 力だけを切り離して子どもに求めてはいけない。根本は自発性。こういうことをしたいと思うから こういうことは我慢しようと思えるのであって、忍耐力だけを子どもに求めると逆効果。

*「10歳」が「理(ことわり)」を意識する年齢、というとらえ方は、特に田中昌人氏の『子ど もの発達と健康教育4』(かもがわ出版、2002年)による。

3 「発達」とは?

○「外的発達」、「内的発達」(津守真氏)

・「外的発達」・・・○歳になればこういうことができるようになるという見方 「内的発達」・・・自分の中にやりたいことがあってそれを実現したくてやり抜いていくという自発性の現れ。内側からの子どもの発達ということを考える。「内的発達」という視点で発達が見られるか。

・「内的発達」の核は存在感、自発性。例え何かが出来るようになったとしてもそれが本当にその 子の自発性から生み出された行動なのか、と疑ってもいいかもしれない。何かが出来るようになる ことがいいことだという大人の目にさらされると子どもは一生懸命出来るようにするかもしれない が、それが本当に自発的に実現していることなのか、と見る目が必要。

○「窓」は、大人(教師)にとっては、子どもの内的発達を見る一つの「窓口」

・私自身は少年時代、釣りが好きだった。人からは、ただ魚を釣っているだけ、よく魚の本を読ん でるな、くらいにしか見えないが、自分の中では、人が自然の中で生きることはいいことなんだろ うなあなど、ある価値に向かって、こだわりをもって釣りを「窓」にしていたと思う。「窓」がな んであれ、その子がなぜそれにこだわるのか、深く考えていけば、その子の内的発達が捉えられる のではないだろうか。

・スクールカウンセラーをしていて、その子が何に興味をもっているのかと担任の先生に尋ねるが、 答えられる先生は僅かしかいない。問題行動を起こしてしまう子に対して、どうしてそういうこと をしてしまうかということはよく考えるが、問題児だと見てしまうとその子にとっての「窓」は何 なのかということは見失われてしまう。好きなことは何なのか、その子が求めているものは何なの か、その求めているものが発達の課題。そういう見方がもう少し、浸透していったらいいなあと思 う。



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山中康裕 窓

#1

臨床家にとって最大の教科書は、まさに私たちの目の前のクライエントである


#2

問題を抱えた子らは、家庭や社会の、つきつめていえば、ひとつの時代の「鏡」であるといえる。いわば、彼らは「時代を映す少年たち」なのだ。


#3

神経症児たちの示す症状や行為は、成人の場合と違って、本人よりもむしろ周囲の者を戸惑わせたり困らせたりすることが多い。そのため、家庭や学校などの小社会の「秩序」を揺るがしたり、一見安定していた「日常性」を大きく動揺させたりする。個人より小社会の方が強力なことが多く、個人の方が、結局「逸脱」した、「異常」なものとして異物扱いされ、排除される。そういう少年たちをわれわれが上手く受けとめることに成功すれば、彼らは再びその小社会に戻っていく。小社会に戻すこと、すなわち端に「適応」させるために「なおす」というのは誤りではないか、という意見がある。現代は、個人の弱点(遺伝とか性格)だけに原因があるという一面的な考えが反省され、その個人が所属する「場」のもつ病理のしわよせの結果、神経症や精神疾患が生じると考える傾向にある。この考え方は支持できる。精神療法を通して子どもたちと関わってきた私には、社会がいつも普遍的正当性を持っているとは考えにくいのだ。むしろ、ある意味では「犠牲の山羊」として生贄に供されたこれらの少年たちこそ、次の時代を考えていく大きな指針を与えてくれる貴重な「生きた証人」である。


#4

神経症児たちなどじぶんたちは自分の子どもたちとは何の関わりもない、と考える方がいるかもしれない。しかし、冷静になれば、実はみんながこうした要素を自分の中の「影」として含んでいるものだ。影とは、ユングの概念で、その人の人格において未開発あるいは未発達の部分、いわば光のささぬ暗い未だ生きられていない部分のことを言う。ひとたびこれらが他者に投影されると、自分にとって厭な存在、嫌いな怖い存在とうつり、敵対したり、疎外したりすることがある。このことこそ、精神疾患を患う人々へのいわれのない偏見を構成するからくりの一つなのですが…。


#5

先に『青年期』を書いた笠原嘉先生は、こうした精神の「病理」像の考察からひるがえって「正常」とは何かを問う、という手法を≪病理法≫と呼び、病理像の中にいわゆる正常像においては覆われて見えないものの顕われを見よう―とされたが、私もつとめてそう努力した。私は、一つの「特殊」な病態やあるいは治療経過の中に、真の意味での「普遍」や、人間としてのあるべき生き様を見出して生きたいと考えている。


#6

私は、児童精神医学と分析心理学の二つの立場を臨床経験の中で融合させ、私なりの方法を模索してきた。私の方法というのはおおよそ2本の柱からなる。1つは「少年といえども“完全な一個の人格”であって成人同様の尊敬と愛情とをもって接する」という、当たり前のこと。もう一つは「少年たちの“内的なイメージ”を主な媒体として関わる」ということだ。内的イメージと言っても、それそのものはとらえどころのないものだ。だから、それらが外界に導き出されて形をとったものを使用する。具体的に言えば、絵画であり、夢や箱庭であり、あるいは写真であり、といった視覚的なものから、詩、散文、手紙といった言語によるものなど、何でもよいのである。無論それらは私の方が押し付けるのでなく、クライエント1人ひとりのもつ「窓」に私が同調する中で見出していくわけだ。


#7

大人の場合、精神療法として、たとえばフロイトの「自由連想法」やユングの「夢分析」など、≪言葉≫が媒体として用いられる。子どもの場合、この言葉そのものがよく分化していないから使えない。子どもは遊びや絵画の中に、ごく自然に自分の心像風景を投影する。これまで症状としてしか表面化していなかった心の中のわだかまりが、このようにイメージという形でその出口を見つけると、その表現の中に、それまでは内にこもっていた感情や情緒が発散していく。さらに、イメージはイメージを呼び、そこに全く新しいつながりが生じ、これまでには見られなかった心の中での統合が可能となって、心の問題が解消していくことになる。



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結婚は人生のリスクを倍にする馬鹿げた行為である

結婚は人生のリスクを倍にする馬鹿げた行為である



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治療者自身の救世主願望

治療者自身の救世主願望
自己愛の病理

傷ついているが故に治療者となった者の新たな救済




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深海生物

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何か同じような遺伝子が関係しているんだろう

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「良いものを作れば必ず売れる時代の終わり

 「良いものを作れば必ず売れる」(強いチームを作れば必ず売れる)という時代は、製造業ばかりでなくスポーツ産業でも終わりを迎えているようです(良いものを作ることは依然として成功の必要条件ではありますが、それだけで必要十分ではなくなった、という意味です)。そして、適切な先行投資やマーケティング活動を行うためには、やはり売り上げを増やし、適切な利益を上げていかなければなりません。

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為替メリット

こんな話
為替メリット

ーーーー
ホンダが販売していて、韓国でも人気の車
アコード が、韓国ではウォンの急落で
3870万ウォン(日本円で約252万円)で販売されてるそうです。

日本では、これと同じモデルが「インスパイア」として
売られているそうで、
日本で買うと、390万円(ウォンならおよそ、5900万ウォン)。

韓国にとってこの車は「輸入車」なんだから
普通に考えたら、
日本で買うよりも高くなってるのが当たり前だけど、

日本から輸入した車が、韓国で買ったほうが、
およそ138万円も安い

韓国から日本に、船で車を輸送するのに
幾らかかるのかわかりませんが、

送料に138万円もかからないでしょうから

アコード(インスパイア)ファンなら、
韓国で買って逆輸入したほうが、

送料分がプラスされたとしても
結果的に、かなり安く買えそう

ーーー
日本製品を逆輸入かと考えたが
何も欲しいものがない



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愛人は語る

当然だが
最初、愛人は恋愛至上主義なのである

好きになったものは仕方がない
うっかりしていた妻も悪い
恋愛はすべてなのだ
と語る

時間が経って
自分が次の愛人に男を奪われる段になると
いつまで恋愛なんて言ってるの
くだらない恋愛ごっこで
私の人生はどうしてくれるのよと
怒っている

そして時間が経った分
衰えも隠せないのである


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The Law フレデリック バスティア著-2

44.民主主義者の指導者
では、この問題に関してルソーがどう言っているのか検証してみよう。
この広報作家は、民主主義者達の至高の権威となっている。
そして、彼が社会構造を人々の意思の上に基礎づけたにもかかわらず、彼は他の誰よりも大いに、人類が立法者の前において完全に無気力な存在だとする理論を、完全に受け入れたのだ。
偉大な王が稀にしかいないのが本当だとすれば、偉大な立法者はもっと稀な存在だとは言えないだろうか?王は立法者が作ったパターンに従うだけだ。そして立法者は、機械を発明するメカニックである。王は単にそれを動かすだけの労働者に過ぎない。
では、人々はこの全体のどの部分を受け持つのか?人々は単に動くように設定された機械だ。
実際、彼らは人間を機械部品としてしか捉えられていないのではないだろうか?
こうして、農業専門技術者と農民との関係と同じような関係が立法者と王の間にも存在する。また、王と、彼の目的との間の関係は、農夫と土地の関係と同じである。
では、この広報作家は、どれほどの高みにおかれてきたのであろうか?ルソーは、立法者そのものを支配する存在であり、傲慢不遜な言葉で、立法者が為すべき仕事を教授するのだ。
「安定性ある国家にしたいのなら、両極端な人間をできるかぎり一緒に扱いなさい。金持ちも乞食もどちらも寛大に扱ってはならない。
土地がやせていて不毛なら、もしくは国土が住人に狭すぎるのなら、産業と芸術に目を向けなさい。そして必要な食物をその産物と交換しなさい。・・肥沃な土地で ―もし、その住人が不足しているのなら- 全ての関心を農業に注ぎなさい。なぜなら、そうすることで住民の数を増やすことができるから。そして芸術を廃止しなさい。なぜなら芸術は民族の人口を減らす貢献しかしないから。
もし、広くて乗り入れの容易な海岸線を持っているのなら、海を商船で満たしなさい。素晴らしいが短い生活を手に入れるであろう。
もし海岸線が、人を寄せ付けないような断崖なら、人々を野蛮にして、魚を食わせなさい。人々はもっと穏やかに、多分より良き生活をするだろうし、また、きっと、より幸福に暮らすことだろう。
一言で言えば、そして、これを万人に共通な格言として加えるのだが、全ての人は、独自の環境を持っている。そして、この事実そのものが、立法者を、その環境に適応させるだろう。
ヘブライ人が以前、またもっと最近ではアラブ人が、客観的原理として宗教をもっていたのはこれが理由である。
アテネ人の目的は、文学であった。カルタゴやタイアにおいては、それは商業であった。ロードス島においては海軍であった。スパルタにおいては戦争であり、ローマにおいては美徳であった。
“法の精神”の著者モンテスキューは、立法者がどの方法で、各々の目的に向けて体制を導くべきかを述べている。しかし、立法者が自分の本来の目的を間違ったとしてみよう。そ
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して、物事の本性によって導かれるものと違った原理に基づいて活動したとしてみよう。
その選択された原理が、時として奴隷を生み出し、時には自由を、時には富をもたらし、そして時には人口を増やし、時に平和をもたらし、また時には征服をもたらすとしてみよう。
この目的の混乱は、ゆっくりと法律を弱め、帝国を弱体化させる。
そのような国は終わりなく続く動揺にあいやすく、国が破壊されるか体制が変わるまで続くだろう。そして、無敵の本性がその帝国を取り戻すのだ。」
しかし、仮にその本性が充分に無敵で、その帝国を取り戻したとしても、最初に帝国を手に入れた者には、立法者など必要ない事実をどうしてルソーは認めないのだろう?
彼は何故このことを見ようとしないのか?人間の本性に従えば、リクルガスやソロンやルソーのような容易に間違える人間の干渉をうけることなく、肥沃な土地での農業に戻り、広く通商を乗り入れ容易な海岸で行うようになるだろうことを。
45.社会主義者は強制された従順さを求める
いずれにしても、ルソーが創造者、計画家、指導者、立法者、管理者にひどい責任をかぶせようとしているのが分かる。結果的にルソーは次のようなことを強要する。
国家を創造しようとする人間は、自分が人間の本性を改造できると思うはずだ。いわば、それ自体で唯一にして全体である各個人を、もっと大きな全体のほんの一部に過ぎないものへと改造するのだ。その大きな全体から個人はその人生と存在を全て、もしくは一部を受け取ることになるだろう。国家の創造者は、自分に人間の構造を変える能力があると信じ、人間を強化し、自然から受けた物理的で独立した人間を、部分的で道徳的な存在へと置きかえられると信じるべきなのだ。
つまり、国家を創造しようとする者は、人間本来の力を除去して、全く異質な何か他のものを与えることができなければならない。
人間とはなんとあわれなことか!もしルソーの信奉者がその役割を与えられたら、人間の尊厳はどうなってしまうことだろうか?
46.立法者は人類を鋳型に嵌めようとする
今度は、レイノーが、立法者により鋳造された人間に関するテーマについて語ったものを見てみよう。
「立法者はまず始めに、風土、気象条件、土壌を考えなければならない。立法者の義務は、その自由になる資源によって決定されます。彼は最初にその地域を考慮しなければならない。海岸沿いの民族は、航海術と合わせて作られた法律を持つだろう…。仮にその居留地が内陸にあるならば、立法者は自然環境と、土の肥沃度合いの両方に合わせて計画を作らなければならない…。
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The Law
とりわけ、財産の分配の仕方で、立法者の知恵がわかる。
一般的に、世界の全ての国で、新しい入植地が設立される時には、家族を養うに十分な土地が各人に与えられなければならない。
未開の島に子供と共に移り住むなら、理性の発達に伴って真実の種子が発芽するのを待つだけでよい。
しかし、旧い歴史をもつ民族を新しい国に再入植させるのであれば、治療や修正が可能かもしれない古い有害な意見や習慣を、いっそ全て捨てさせる政策をとることが、立法者の手腕にかかっている。
旧い意見や習慣を引き摺るのを避けたいならば、公立学校で子供を教育することによって第2世代を保護しなければならない。
国王や立法者は、必ず最初に若者を教育するための学識者を用意してから、入植地を作らなければならない。
新しい植民地では、人々の風習や習慣を改良しようとする抜かりない立法者にあらゆる機会が開かれている。
彼に美徳と才能があるならば、自分の思い通りになる領土と人民は、その心に社会計画の創作意欲を掻き立てることだろう。
一人の作家にできるのは、漠然とその計画を前もってなぞることだけだ。
なぜなら、それは必然的に、あらゆる仮説にある不安定要因の影響をうけるからだ。
そこには、いろんな形態の、絡み合った問題、状況があり、これを詳細に予見し、解決することは困難だからだ。」
47.立法者はいかに人間を管理するかを語った
レイノーの話は、まるで農業の教授が彼の生徒に講義しているのを聞いているようではないだろうか?
「気候は農夫の最初のルールであり、天然資源がなにをすべきかを決定する。
最初に自分の置かれた環境を考慮しなければならない。
粘土質の土の上にあるならば、これこれの方法で行動しなければならない。
それが砂地ならば、別の方法でそれを処理しなければならない。
全ての設備は、土質の改善を望む農夫に利用できる。
仮に十分な技量を持っているとしたら、彼が自由に使える肥料を見れば、すぐに、どう使えばよいかが分かるだろう。
大学教授にできることは、漠然とその計画を前もってなぞるだけだ。
そこには、いろんな形態の、絡み合った問題、状況があり、これを詳細に予見し、解決することは困難だからだ。」
レイノーとは、なんと素晴らしい作家なことか!
このような土、粘土、肥料といった彼の自由になるものが、実は人間を指しているということを覚えておこう。
それは、あなたと同じ、知性ある、自由な人間なのだ!
彼らも神から同様に、自分で観察し、計画し、考え、判断する能力を与えられているのだ!
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The Law
48.一時的な独裁政権
次は、メーブリーの法と立法者の問題に関する意見である。
ここに引用した文章に先立つ部分で、メーブリーは安全性を無視したがために、法が疲弊していると書いている。
彼はさらに次のように読者に訴えかける。
「このような条件において、政府のスプリングが緩んでいることは明白だ。これに新たにテンションを与えて、悪い部分を直さなければならない。欠点を直そうとするより、必要なものを与えることを考えた方がいい。この方法で、共和国に若さを取り戻すことができる。なぜなら、自由な人々は、その手続きに対してずっと無知であったからだ。彼らは、自分の自由を失ってしまった!
しかし、通常の政府手続きでは修復出来ないほどに、邪悪が進んでいるなら、ほんの短期間、絶大な権力を特別裁判所に与え、その権力に訴えるべきだ。市民の想像力を目覚めさせる必要がある。」
このような調子で、メーブリーは20巻もの本を書いている。
このような古典教育に由来する教育の影響によって、万人が自分流儀に社会を、お膳立てし、組織し、管理しようとして、自分を人類より高位の立場に置こうとするのだ。
49.社会主義者は富の平等を求めている
次にコンディヤックの立法と人類の主題に関する話を見てみよう。
「主よ、リュクルゴスか、ソロンを想定してください。
さらにこのエッセイを読み終える前に、法をアメリカなりアフリカにある野蛮な種族に与えることによって、お楽しみください。
遊牧民を固定された住居に住み着かせてください。
群れを世話することを彼らに教えてください。
自然がそれらに植えつけた社会意識を発展させることを努め…
彼らに、人間性に伴う義務の実践をはじめるように命じ・・。
官能的な放縦の喜びに対し、処罰を下してください。
すると、立法の全ての点が、野蛮人に、悪徳をなくし、美徳を与えることが分かるでしょう。
全ての人々は法律を持っていました。
しかし、ほとんどの人は幸福でありませんでした。
この理由は何でしょうか?
それは、立法者が、社会の目的が、共通利益によって家族を団結させることだということに、ほとんどの場合、無知であったからです。
法律における公平はつぎの2つからなっています。
市民の間における、富の平等の実現、尊厳の平等の実現です。
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法律がより大きな平等を実現するにつれ、全ての市民にとってそれはますます大切なものとなる。・・
全ての人間が富と尊厳が平等になったとき、そして、法がこの平等を妨げる希望を残さないとき、強欲、野心、肉欲、怠惰、怠惰、妬み、憎悪、嫉妬によって、どうして人が扇動されたりするでしょうか?
スパルタ共和国から学んだことは、この問題について何かをひらめかせるかもしれない。
スパルタ以外に、平等という自然の秩序に調和した法をもった国はいまだかつてなかった。」
50.社会主義作家の間違い
実際のところ、17世紀と18世紀の間において、人類という存在が、偉大な王や、偉大な立法者、偉大な天才から全てを与えられた、つまり形、顔、エネルギー、動作、人生等を素直に受け入れる不活性の存在だと考えられたことは不思議ではない。
この世紀は古代研究を養分として育った時代である。 そして、古代はいたるところで(エジプト、ペルシア、ギリシャ、ローマで、)一握りの人間が、自分のきまぐれや、権力や不正手段によって、人々を思うように型に嵌めて作り上げる光景を我々に見せつけている。
しかしだからといって、これは、このような状況が望ましいことを証明するわけではない。
むしろ、人と社会の進歩が可能だからこそ、間違い、無知、専制、奴隷制度、および迷信が、人間の歴史の起源において最も大規模にあったと考えるのが自然であることを証明しているだけなのだ。
この作家達が古代社会をこのようなものとして把握していたのは考え違えではない。だが、古代の社会を、未来の世代への賞賛すべきモデルとして、模倣すべきモデルとして提供しようとしたから違えたのだ。
批判的に考えるところがない、子供っぽく法に従順な彼らは、古代世界における人工的な社会の偉大さ、威厳、道徳、および人々の幸福を当然と見做した。
彼らは、知識が時間の経過とともに出現し、どんどん増えていくことを理解していなかった。 そして、知識の成長に比例して、大いなる力が権利の味方をし、社会は自然に所有権を取り戻すのだ。
51.自由とは何か?
実際、私達が目撃している政治闘争とは何であるか? それは自由の獲得へ向けた、万人の本能的な闘争だ。 そして、自由とは何か?まさしくその名前が心臓の鼓動を早め、そして、世界を揺るがす、この自由とは何か?
それは、全ての自由、つまり良心の、教育の、組合の、出版の、旅行の、労働の、貿易の自由を寄せ集めたものではないのか?
要するに、自由とは、彼が他人を傷つけない限り完全に彼の能力を生かす、万人の自由ではないか?
自由は全ての専制-もちろん法律の専制を含む-を破壊することだ。
結局、自由とは、合法的な自衛のための個人の権利を組織し、不正を罰するといった道理に適
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う範囲に法を制限することなのではないか?
自由へ向かう人類の本性が、特にフランスで大きく妨げられていることは認められなければならない。 これは、大いに、フランスの広報作家達が共通に持っている致命的な願望(古代の教えから学んだもの)に起因している。
広報作家達は、自分達の幻想によって人類をアレンジし、組織し、管理するために、自分たちを人類より上位の存在に置こうとしているのだ。
52.博愛的な専制
社会が自由に向かって闘争している間、自分達を人類の頂点に立つ存在とみなしている、このような有名人たちは、17世紀―18世紀の時代精神に満ち溢れていた。
彼らは、人類を彼らの社会的発明である博愛的な専制の支配の下におくことだけを考えていた。
ルソーと同様に彼らは、人類が従順に、彼らの空想の産物である公共福祉のくびきに耐えることを強制しようとした。
このことは、1789年の出来事に特に言えることだ。
旧体制が破壊されるやいなや、社会は、新たなる別の人工的な約束事の支配下に置かれ、いつものように法の万能性という同じ地点から始められることになった。
この時点における、何人かの作家と政治家たちの話を聞いてみよう。
サン・ジュスト:立法者は未来に対し命令を下す。人類の善とは彼の意志のことだ。人類を彼が望むものにするのだ。
ロベスピエール:政府の役割は、物理的、倫理的な国家の力を、国家が生まれたところの目的へ向けて導くことだ。
ビローヴァレン:自由がもどる予定の人々を改めて結束しなければなりません。 強い力と積極的な行動が、古い先入観を破壊し、古い風習を変え、堕落した愛情を正し、必要以上の欲求を制限し、刷り込まれている悪を破壊するために必要です…。
市民の皆さん。リュクルゴスの確固たる厳格さが、スパルタ式共和国の磐石の基礎を作りました。 ソロンの弱々しい依存的な性格は、アテネを奴隷制度に陥らせました。
同じことが、政治学全体に当てはまります。
ルペレティエール:人間の堕落した程度を考えると、社会全体の再生と、いわば新しい民族の創造が必要と確信します。
53.社会主義者は独裁政権を望んでいる
再び、人々は原料素材でしかないと主張される。人々が自分を進歩しようと望むのは人々のためにならない。 人々に、自分を高めることは不可能だと言うのだ。
サン・ジュストによると、それは立法者だけに可能だ。
人は、単に、立法者の意思が、そうあるべきだと考えたものになる。
文字どおりルソーのコピーだったロベスピエールによると、国家が生まれる目的を宣言すると
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から、立法者は始める。
ひとたび、目的が決定されれば、政府は、その目的にむけて、国家の物質的、道徳的な権力を導きいれさえすればよい。
その間、国民は、完全に受動的であり続けることになっている。 そして、ビローヴァレンヌの教えによると、人々は立法者によって認可された以外のいかなる先入観、愛情、欲望も持つべきではないことになる。彼は、一人一人の確固たる厳格さが共和国の基礎だとまで言う。
彼が邪悪と言っているものがとても大きく、普通の政治手続では取り除くことが出来ない場合には、マブリーは独裁者に徳を促進するように勧める。 彼は、「大きな権力が短期間だけ与えられた特別裁判所に訴えよ。」と言う。 「市民の想像力は、激しい強打でもって打ちのめされる必要があります。」
この主義は忘れられていない。 ロベスピエールの言葉を聞いてみよう。
「共和党の政府の原則は美徳であり、美徳を確立するのに必要な手段は恐怖だ。
私達の国では、概念を次のように置きかえたい。自分本位のかわりに道徳を、名誉のかわりに正直を、慣習の代わりに原則を、方法のかわりに義務を、流行の暴政のかわりに理性の帝国を、貧乏の軽蔑のかわりに悪徳への軽蔑に、横柄さに対しプライドを、虚飾に対し魂の偉大さを、お金への愛のかわりに栄光への愛を、良き仲間の代わりによき人々を、陰謀の代わりにメリットを、機知の代わりに天才を、華麗さに対して真実を、快楽の退屈さのかわりに幸福の魅力を、偉大なものの矮小さの代わりに人間の偉大さを、気は良いが軽薄で堕落した人々の代わりに寛大で芯の強い幸福な人々でもって置きかえたいと思う。
要するに、私達は、共和国にある全ての長所と奇跡でもって、君主国の全ての悪と不合理に置きかえたいのだ。」
54.独裁者の傲慢
ロベスピエールが自分以外の人類の上よりも、なんという遥か高みに自分を置いていることか! そして、彼が話す尊大さに注目して欲しい。
彼は、人心の偉大なる新たな目覚めを祈ることには満足してない。 また、彼は統制政府にそのような結果を期待していない。 いや、彼は自分の手で人類を改造しようとしているのだ。恐怖をその手段として。
この腐り切った矛盾だらけの言葉の全ては、革命政府を導くべき道徳原則を説明することを意図したロベスピエールの話から抜き出したものだ。
ロベスピエールの独裁制への要求は、その目的が単に外国の侵略を阻止し、反対グループを支配下に置くことではないことに注意して欲しい。
むしろ、自分自身の道徳原則を国に押し付けるために、恐怖をその手段とすることを可能にしようとして独裁制を望んでいるのだ。
彼は、この行為は、新しい憲法に先行する一時的な手段にすぎないと言う。
しかし、現実には、フランスから、身勝手さ、名誉、関税、マナー、ファッション、虚栄、金銭欲、親密な交友関係、権謀術策、ウィット、審美感覚、および貧困を抹殺するために、他ならぬ恐怖を用いることしか望んでいない。
ロベスピエールがこの奇跡を遂行するまで、― 奇跡と正しくも彼が呼んだように― 法が再び君臨することを決して許さないのだ。
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55.独裁制への間接的アプローチ
しかし、通常、これらの紳士たち、つまり改革者、立法者、および広報作家は、人類に直接的に専制を課そうとしているわけではない。
そんなわけがない。彼らはそのような直接行動をとるには穏健的すぎるし、また博愛的すぎる。
その代わり、この専制、この専制主義、全能の政府を実現するために、法を利用することを考える。 彼らの願望は法を作ることだけだ。
フランスにおいて、このいかがわしい考えが広まっている事実を示すのに、私は、マブリー、レーナル、ルソー、およびフェヌロンの作品の全部と、それに加えてボシュエとモンテスキューからの長い抜粋だけでなく、その革命議会の全議事録も引用する必要があるだろう。 だが私はそんな事をするつもりは全くない。 私は単に読者に、それら文献を参照するようにと示唆するだけだ。
56.ナポレオンは受動的な人類を欲した
ナポレオンにとっても、同様の考えが大いに魅力的であったのは、別に驚くべきことではもちろんない。 ナポレオンはその考えを熱烈に抱擁し、精力的に用いた。ナポレオンは全ヨーロッパを、化学者のように自分の実験材料と考えた。 しかし、当然の結果、これら材料は彼に叛旗を翻した。
セントヘレナで、大いに夢破れたナポレオンは、人類の中になにがしかの自発性を認識したようだった。 これを認識したことで、彼は自由に対して、以前ほどには敵対しなくなった。
にもかかわらず、そのことで、息子への次のような教えを残すことを妨げることはなかった。
「統治することは、道徳、教育、および幸福を、増やし、広めることだ。」
これだけ例を挙げれば充分だろう。モレリー、バブーフ、オーウェン、サン・シモン、およびフーリエなどからさらにこれ以上、同じような意見を引用する必要は殆どないといえる。
しかし、ここに、ルイスブランが労働組合について書いた本から、さらに少しばかりの抜粋をすると、「我々の計画において、社会は権力からその社会を前進させる力を受け取る。」とある。
では、これを検討してみよう。 この社会を前進させる力の背後にある力とは、ルイスブラン氏の計画によって供給されることを。 彼の計画は、社会に押しつけられることになっている。 ここで言うところの社会とは人類のことだ。 従って、人類は、ルイスブランから社会を前進させる力を受け取るのだ。
この計画を受け入れるも、拒絶するも人々の自由だと言われるだろう。人々が何を受け入れようと、また誰のアドバイスであっても拒絶しようと、それは疑いなく自由ではある。
しかし、ルイスブラン氏は問題をそのように考えているわけではない。 彼は、自分の計画が法となり、そして法の力によって人々に強制的に課すことを期待しているのだ。
ルイスブラン氏の計画では、国家は労働法を通過させるだけでよい。 (→他に何かあるか?)
労働法によって、完全な自由な状態で産業発展するはずだ。国家は単に社会を、傾斜面の上に置くだけだ。(→それだけか?) - 31 -
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そして、社会は物体に働く単なる力により、また彼が確立したメカニズムの自然な作用によって、この傾斜面を滑り下りることになる。
しかし、ルイスブラン氏のいう、この傾斜面とは何なのか? これは奈落の底に導くものではないのか? (→いいえ、幸福をもたらします。)
もし、これが真実ならば、なぜ、社会は自らの選択でそこに行かないのか? (→社会は何を望んでいるかを知らないので、誰かが前進させなければなりません。)
社会を前進させるものは何ということになっているのか? (→権力だ) そして、誰が、推進力をこの権力に供給することになっているのだろうか? (→もちろんマシンの発明者.この例ではルイスブラン氏が。)
57.社会主義の邪悪な円環
私達は決してこの円環から脱出出来ないだろう。 受動的な人類という概念と、人々を前進させるために偉大な人によって使われる法の権力といった概念の円環から。
一度、この傾斜の上に置かれると、社会はいくらかの自由を享受できるだろうか?(→その通り)
では、ルイスブラン氏、自由とは何なのか?
繰り返すのはこれを最後にするが、自由とは単なる与えられた権利であるばかりでなく、自由とはまた、正義の支配の下で、そして法の保護の下で、彼の能力を用い、また発展させること人を認める権力でもあるのだ。
そして、これは無意味な区別ではない。 その意味は深く、またその結果は、評価しづらい。
一度、人が本当に自由だと認められ、彼は自分の能力を使い、伸ばす力を持たなければならないとなれば、万人に自身の開発を可能にする教育を、社会に対して請求する権利があることになる。
また、万人に生産性を充分に高めるために不可欠な生産手段を社会に請求する権利があることになる。
では、万人に必要な教育と必要な生産手段を、どうやって社会があたえることができるだろうか?それが国家の活動によってではないとしたら。
自由は権力だと再び定義してみよう。 この権力は何から成っているだろうか? (→教育を受ける権力、そして生産手段を与えられる権力。)
誰が、教育と生産手段を与えることになるだろうか? (→社会が与える。社会はこれらを万人に提供する義務がある。)
どんな行為によって、社会は生産手段を持っていない人々に与えることになるだろうか? (→もちろん国家によって。)
そして、国家はそれらを誰から取りあげることになるだろうか?
指導者に、その質問に答えさせよう。 また、私達を導こうとしている方向が何であるかを彼に気づかせよう。
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58.民主主義者の教義
私達の時代の奇妙な現象(たぶん子孫が仰天するだろう)は、次の三段階の仮説に基づいた教義だ。 完全に不活性の人類、全能の法、および、立法者の無謬なる完全性という3つの仮定だ。 これらの3つの概念は、完全に民主的だと自称する人々の神聖なシンボルとなっている。
この教義の支持者はまた、自分が社会的だとも公言している。 彼らが民主的である限りは無限の信頼を人類に置く。だが、彼らが社会的である限りは人類を泥より少しましな程度のものと見做す。 詳しくこの違いを検討してみよう。
政治的な権利が問題になっている時の、民主主義者の態度はどうだろうか? 立法者は、選挙の時には、人々をどのようなものとして見做しているだろうか? その時だけは、彼らは人々には生得の知恵が備わっていると言う。 人々には最高の知覚能力が生まれつきあるとされ、 人々の意志は常に正しいとされる。 一般意志は間違えるはずがない。 普通選挙権が”普通”になりすぎることはない。とされる。
投票時期になると、有権者がその英知の証明を要求されることは明白にない。彼の意志と、その賢明なる選別能力は当然と見做される。 人々が誤ることが有り得るだろうか? 私達は啓蒙の時代にいるのではないか? なんだって!人々はいつも鎖につながれているって? 多大な努力と犠牲によって、権利を勝ち取ったのではなかったか? 知恵と英知を持つことを十分に証拠を示してきたのではなかったか? 大人ではなかったか? 自分で判断できなかったか?
自分自身にとって何が最も良いかを知らなかったのか?
自分を人々の上に置き、さらに人々に代わって判断し行動するような傲慢な階級や人がいるだろうか?
いや、そんなことはない。人々は自由だし、また自由であるべきだし、人々は、自分の仕事を自ら管理したいと思い、またそうすることだろう。
しかし、最終的に立法者が選ばれた時――その時、議員達の演説の調子は、なんと急激に変わることか。 人々は受動的で、不活発で、無意識な存在と再びみなされるのだ。
そして、立法者は全能の権力の一部となる。 こうなれば、人々を先導し、指導し、推進し、団結させることは立法者の役割だ。 人類は服従しさえすればよい。 専制の時間が始まった。
我々は、こうして、この破滅的な考えを観察してきた。
選挙の間は、あれほど賢明で、道徳的で、また完全だった人々が、今ではそのような性質は何もないと見做される。 もしいくらかでも性質なるものがあるとするならば、それは堕落に導かれやすい資質とされるのだ。
59.社会主義者の自由の概念
しかし、人々にはいくらかでも自由が与えられるべきではないのか?
だが、コンシデラン氏は、自由は必然的に独占を引き起こすと保証した!
私達は、自由とは競争を意味すると考えている。 しかし、ルイスブラン氏によると、競争は、
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実業家を滅ぼし、人々を皆殺しにする体制だということになる。
自由な人々がその自由度に比例して破滅し皆殺しにされるのはこの理由のためだ。 (ルイスブラン氏は競争の結果がどういうものかを、なんとかしてきちんと調べてみるべきだ。例えばスイス、オランダ、イギリス、米国での結果を。)
また、ルイスブラン氏は競争が独占を引き起こしていると言う。 そして、同じ推論から彼は、低価格によって高価格がもたらされていると非難している。競争は生産を破壊的活動に追いやり、購買の原動力を失わせる。同時に、このことが消費減退を余儀なくさせ、一方で生産の増加を強制する。
この結果、自由な人々は、消費をしないための生産をすることになる。つまり自由は人々の間の抑圧と狂気を意味することになる。
だからこそ、ルイスブラン氏は競争にかくも注意を向けなければならないことになるのだ。
60.社会主義者はあらゆる自由を恐れている
さて、立法者は、人々がどんな自由を持つことを許すべきだろうか?
良心の自由なのか? (しかし、これが許されたならば、人々が、無神論者になるのに、この機会が利用されるだろう。)
では、教育の自由か? (しかし、両親は、教授に、金を払って不道徳と嘘を彼らの子供に教えさせるだろう。さらに、ティエール氏によると、教育が全国的な自由に任せられたならば、全国的ではなくなるだろうし、トルコ人やヒンズー教徒の考えを私達の子供に教えているだろう。法の教育への専制のおかげで、こうしてローマ人の高潔な考えを教えられる子供達は幸運に恵まれている。)
では、労働の自由か? (しかし、それは、競争を意味するため、次々、生産を消費されていない状態に放置し、実業家を滅ぼし、人々を皆殺しにするだろう。)
たぶん貿易の自由のことか? (しかし、誰でも知っているように、さらに保護関税の支持者が何度も繰り返し証明したように、貿易の自由が、あらゆる関係者を滅ぼすので、繁栄の為には貿易の自由を抑制することが必要だ。)
では、ことによると結社の自由なのか? (しかし、社会主義の教義によると、真実の自由と、任意団体は相反する関係にある。また社会主義者の目的とは、真実の自由において、協調を強制するために、結社の自由をしっかり抑制することだ。)
あきらかに、人類が堕落と災害に陥りやすい存在と信じるがために、社会民主主義者達はその良心から、人々が一切の自由を持つことを認めないのだ。
従って、当然ながら、立法者は、民衆を救うための計画を作らなければならない。
以上のように私は推論をしてきたが、ついに挑戦的な問題に行き着いた。もし、人々が、無能で、不道徳で、政治家達が言うほどに無知ならば、なぜ、このように無能な人々への投票権が、熱烈に主張され弁護されなければならないのか?
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61.超人概念
このように計画家が主張することで、人間性に関する別の問題が持ちあがる。この問題を、私はしばしば彼らに聞くことがあるが、知るかぎり一度も、その問いへの回答をもらったことがない。
もし人類の自然な性分がそれほど悪いのなら、人々を自由にすることは安全ではない。
また、このような計画家達が常に善良な人間なのは何故か? 立法者も彼らの指定代理人も、同様に人類に属しているのではないのか? あるいは、彼らは、他の人間よりも良質の粘土で作られているとでも信じているのだろうか?
計画家は、人々の本能が非常に邪悪なために社会が指示なく放置されていると、破滅にむかって必然的にまっさかさまに転落するのだと主張する。
立法者は、この自己破滅的なコースを阻止し、人々に正気の方向を与えるのだと主張する。
そして、立法者と計画家が、その他人類にはるかに優越する知性と美徳を天から授かったことは明らかだ。 もしそうなら、彼らが人類に優越するという資格を我々に見せろと要求しよう。
彼らは、我々という羊を支配する羊飼いだということだが、 もちろん、このような決め事は、彼らが私達より生まれながらに優れていることを前提としている。
また、たしかに、私達が、彼らのその生まれながらの優越性の根拠をみせるよう要求するのは極めて正当なことである。
62.社会主義者は自由な選択を拒否する
私が、次のことに疑いを差し挟んでいるのではないことを分かって欲しい。彼ら社会主義者が自分自身のお金とリスクのもとに、社会ルールを考え、宣伝し、主張し、自分に対して実験を試みる権利を持つのは当然である。
しかし、私は、次の権利に疑いを挟んでいる。つまり、彼らが、法によって(つまり権力によって)私達に、その計画を押し付ける権利、さらに税金でその費用を賄うことを強制する権利を問題にしているのだ。
これらの様々な社会学派、-プルードン主義者、カベー主義者、フーリエ主義者、普遍主義者、また保護貿易支持者が、その様々な考えを放棄することを強く主張しているのではない。
彼らが共通に持つ、ある1つの考えを放棄することを、強く主張するだけだ。
彼らの組織や階級への服従や、その社会化計画、無利子融資銀行、グレコ・ローマン的道徳概念や、商業ルールといった、彼らの考えを、私達に黙って認めろと強制するのをやめるべきだ。
私の要求は、私達が自分で計画を決めることが許されることだけだ。 その計画が自分にとって最優先の利益に反していたり、自分の良心に照らして不愉快と感じるとしたら、直接的であれ間接的であれ、その計画の容認を強制されないことを要求する。
しかし、こういった計画家は、計画を実行するために、税金の財源と、法権力を利用する権利
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を要求する。 抑圧的かつ不公平なだけでなく、この欲望は、計画家が無謬で、人類は無能力だとする破滅的な仮定を含意している。
しかし、再び言うが、人々が自身で判断することが出来ないのなら、皆がなぜ普通選挙権について話すのか?
63.フランス革命の原因
この考えの中の矛盾は、フランスでの事件の中に不幸な形だが、必然的に反映されている。
例えば、フランス人は、権利を得ることにおいて、他の全てのヨーロッパ人を先導してきた。あるいは、より正確には、政治的な要求を獲得することにおいて先んじてきた。
そうであっても、この事実は、フランス人が最も管理下におかれている事実をいかなる点でも変えないし、我々が最も管理され、最も強制され、最も抑圧された、ヨーロッパで最も搾取されている人々だという事実を曲げはしない。
また、フランスは、他の全ての国家を、革命の発生が常に期待されている国々として導いている。
そして、これは、政治家が、ルイスブラン氏がうまく表現した次のような考えを受け入れ続ける限り、そうあり続けるだろう。「社会は権力から、その推進力を受け取る。」と。
感情を持つ人間が、受動的な限り、そうあり続けるだろう。
彼らが、自らの知性とエネルギーによっては、繁栄と幸福をもたらすことが出来ない存在と考える限り。法にすべてを期待している限り。
要するに、国家と人々の関係が、羊飼いと羊のそれの関係と同じだと想像する限りにおいて。
64.政府の巨大な力
こういった考えが信じられている限り、政府の責任が巨大なことは明白だ。 幸運と悪運、富と極貧、平等と不平等、美徳と悪徳-これらあらゆる結果は政府の統治に依存することになる。
政府はあらゆる役割を負わされ、政府はその全てを引き受け、全てを行うことになる。
従って、政府にはあらゆる責任があるのだ。
私達が幸運であれば、政府は、その感謝をうける権利がある。しかし、私達がもし不運ならば、政府は非難に耐えなければならない。 なぜなら人と財産は政府の思うが侭なのだから。 法は全能なのだから。
教育を独占することで、政府は、自由を奪われた家父長達の希望に答えなければならない。 そして、彼らの希望が粉砕されるならば、これは誰の過ちなのか? 政府は産業を管理し、繁栄させることを契約した。 さもなければ、産業からその自由を奪うことはばかげている。そして、産業が現在損害に喘いでいるなら、それは誰の過ちなのか?
関税をもてあそび、貿易収支をいじくり回して、政府は、貿易を繁栄させることを約束する。 そして、これが繁栄の代わりに破壊が結果として生じているなら、それは誰の過ちなのか?
海運業にその自由と引き換えに保護を与えることで、政府は、彼らに高収益を保証する。 そして、そのことが納税者に重荷になるならば、それは誰の過ちなのか?
従って、政府が自発的に自分で責任をとらない国家において、不平はなにひとつない。これは
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驚くべきことだ。 そして、これら全ての失敗が、フランスに、別の革命の脅威を増大させるとしても驚くべきことだろうか?
そして、どんな救済策が代案として出てくるだろうか?
その代案とは、無制限に法の範囲を拡張するものだろう。つまり政府の責任を拡張するように提案がされるのだ。
しかし、政府が、賃金をコントロールし、賃上げを約束するが、それが実現出来ないならどうなるのだろう。 政府が、全ての貧乏な人を世話することを請合うが、それが出来ないとしたら。 政府が、失業した労働者を全員支援することを約束するが、それが不可能なら。
政府が、無利息でお金を誰にでも貸すことを請け合い、それをすることが出来ないなら。
ラマルティン氏のペンで書かれたこれらの言葉-「国家の目的は、人々を啓発すること、発展すること、拡大すること、強くすること、信仰深くすること、さらに人々の魂を神聖化することだ」- と言わなければならないとすれば。
そしてもし、政府がこれらすべてをすることが出来ないならば、どうなるのだろうか?
こうした結果、政府の全ての約束が失敗した後に、ほぼ確実に、革命が不可避的に起こるのではないだろうか?
65.政治学と経済学
[今、この主題の冒頭ページの中で簡単に議論された主題に戻ることにしましょう: 経済学と政治の関係-つまり政治経済学へ.]
政治の科学が論理的に公式化されるには、その前に経済学の科学が発展しなければならない。 本質的に、経済学は、人間の利益が調和しているか、相反しているかを決定する科学である。このことが、政治科学が政府の本来の役割を決定できるほどに系統立てられる前に理解されていなければない。
経済学の発展のすぐ後に続き、政治科学を体系化する。また政治科学のとくに最初の段階において、次の非常に重要な問いに答える必要がある。
法とは何か? 法は何であるべきか? その範囲は? その限界は? そして論理的に、立法者の本来の役割はどこまであるのか?
私は、この問いに答えることをためらわない。
法とは、不正を防ぐために組織された集団的権力のことだ。
つまり、法とは正義なのだ。
66.立法の本来の機能
立法者が人と財産を支配する絶対権力を持っていることは真実でない。 人と財産の存在は立法者の存在に先行し、立法者の役割は、その安全を保証することだけだ。
法の役割が、私達の良心、考え、志、教育、意見、仕事、貿易、才能、楽しみを管理することだというのは真実でない。 法の役割は、これら権利の自由な行使を保護し、また誰からも妨害されないようにすることだ。
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権力による支えが必然的に法に必要となるなら、その合法的な適用範囲は、権力行使が必要な範囲にだけあることになる。 これは正義の領域だ。
合法的自衛のために武力を使う権利は全ての個人にある。 集団的な力(単なる個々の力をよせ集めた連合)が、合法的に同じ目的のために使われるべきであるのはこの理由による。
そして、それは、他のいかなる目的にも合法的に使用することは出来ない。
法とは、単に法が形成される前に存在していた個々人の自衛権を組織化したものである。
法とは正義のことだ。
67.法と慈善とは同じでない
たとえ法が博愛的精神で動いていたとしても、法の使命は、人を圧迫することでも、人々の財産を略奪することでもない。その任務は、人と財産を保護することだ。
さらに、その執行の過程において、仮に法が、人々を抑圧することも、人々の財産を略奪することがなかったとしても、法が博愛的で問題がないと言うべきでは無い。
これは矛盾なのだ。 法が、人と財産に影響を及ぼすのは避けられない。 そして、人や財産を保護する目的以外に、法の力がいかなる方法であっても行使されるならば、それは、その時必ず、人々の自由と、財産権を侵害する。
法とは正義である。単純で、透明で、精密で、限界のあるものだ。 人は誰でも目でそれを見ることができるし、知性によって、それを掴むことができる。なぜなら正義は測定可能で、不変で変える事が出来ないものだからだ。 正義とはこれ以上でもこれ以下でもない。
もし、この法の本来の限界を超えて、それを宗教的、博愛的、平等的、友愛的、産業的、文学的、もしくは芸術的なものとしようとするのなら、そのとき、未踏の領域で、あいまいと不確実性の中で、強制されたユートピアに、すなわち、いっそう酷いことに法を争って奪い取って、法を強制しようとする、数多くのユートピアの中に、あなたは飲み込まれてしまうのだ。
正義と違い、友愛(fraternity)と博愛(philanthropy)には明確な限界がないのは事実だ。
一旦、始まれば、どこで止まるのか? そして、法はどこで、自らを押し止めるだろうか?
68.共産主義への道
サンクリック氏は彼の博愛主義をいくつかの産業グループにだけ限定するだろう。 彼は、メーカーを利するために、法による消費者の管理を要求するだろう。
コンシデラン氏は労働組合の大義を後援するだろう。 彼は、彼らに衣類、住宅、食物、および他のあらゆる生活必需品が最小限保証されるように法を使うだろう。
ルイスブラン氏は、生活最低保証制度が、完全なる友愛の単なる始まりにすぎないと言うことだろう。 彼は、全ての勤労者が法により生産手段と自由な教育を与えられるべきだと言うだろう。
別の人は、こういった処置が不平等の余地をまだ残していることに気づくだろう。 彼は、法によって、万人が(最も近づき難い部落へさえ)高級品、文学、芸術が与えられるべきだと主張するだろう
これらの提案は全て共産主義へ至る確実な方法だ。 立法は、その時、万人の幻想と貪欲を満た
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すための戦場となるだろう。-そして実のところ、すでにそうなっているのだ。
69.安定的な政府の基礎
法とは正義である。 この命題から、単純かつ持続的な政府が考案できる。
私は、誰であれ、次のようなことを言うものに挑戦する。
政府の権力が不正義の抑制にのみ制限されていても、革命や暴動の考えや、反乱の考えが起こりうる。と、主張する者達に。
むしろ、このような政府の下でこそ、最も繁栄し、最も平等な分配が行われるだろう。
人間性と分かち難い苦しみに対しては、政府の責任を告発する考えなど生まれないだろう。
政府の力が不正(injustice)の抑圧だけに制限されているならば、政府が、気温の変化について責任が一切ないのと同様に,人間本来の苦しみに対する政府の責任がないのも真実である。
このような主張の証拠として、次の問題を検討してみよう。人々は、かつて、より高い賃金、無利子融資、生産手段、保護関税、また政府の仕事を求めて控訴裁判所に対して武力蜂起をしたとか、治安判事を襲撃したことがあっただろうか?
そのような問題が、控訴裁判所の管轄や、治安判事の司法権の役割ではないことを誰でも完全に分かっているのだ。
そして、政府がその本来の役割に制限されているならば、誰でも、すぐにこれらの役割が法の司法権の中にもないことが分かるだろう。
しかし、友愛の原則に基づいた法(―あらゆる善と悪が法に起因すると公言するもの)を、作ったとすれば、法は、災難の一つ一つに、また全ての社会的不平等に責任があることになる。こうして、際限の無い不満、立腹、トラブル、そして革命の連続に向けて、そのドアは開かれているのだ。
70.正義とは権利の平等を意味する
法とは正義である。
そして、法が正義以外の他の何かで本来ありえるとしたら、実に奇妙なことだ!
正義は正しくないのか? 権利は等しくないのか?
何の権利によって法は、ミメレル氏、ド・メラン氏、ティエール氏や、ルイスブラン氏の社会計画にあわせるよう私に強制するのか?
他人に自分の計画を強制させる道徳的な権利が法にあるとするなら、ではなぜ、法はこの紳士達に私の計画への服従を強制しないのか? 神が、私にだけはユートピアを創作するのに十分な想像力を与えなかったとするのは論理的ではない。 法は多くの幻想の中から1つを選び、その一つの幻想にのみ政府組織の力を奉仕させるべきなのか?
法とは正義である。
そして、このような概念だと、法が無神論的で、個人主義的で、薄情なものになるとは言わせないようにしよう。(--それはいつもそのように言われているのだが。)
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法がそれ自身のイメージで人類を作り上げるのだと言わせないようにしよう。 これは、法は人類そのものだと信じる政府崇拝者にだけふさわしい愚かな結論だ。
ナンセンスだ! 政府の崇拝者は、自由な人間が行為することを止めるとでも信じているのだろうか?
私達が法からエネルギーを一切受け取らなければ、我々が一切エネルギーを用いないことになるだろうか?
人々が自由に能力を活用するのを保護することだけに、法の役割を限定すれば、私達は自分の能力を使うことが出来ないということになるのだろうか?
宗教の一定の形式や、組合体制や、教育の方法や、労働の規制や、貿易の規制や、もしくは慈善活動の計画に従うことを、法が強制しなかったら、我々が無神論になり、世捨て人となり、無知、窮乏、貪欲に向かって突き進むとでも言うのか?
私達が自由ならば、神の力と善をもはや認めないことになるだろうか? その時、交際をし、互いを助け、不運な兄弟を愛し、救済し、自然の秘密を研究し、能力の限りに自分を向上するための努力といったことを止めることになるだろうか?
71.尊厳と進歩への道
法は正義である。 そして、法は正義の法の下にある。つまり、権利の統治の下に。自由、安全、安定性、責任の影響の下にある。そうであれば、人は全て、自分の本当の価値と、存在の真の尊厳を達成するだろう。
正義の法の下においてのみ、人類は(ゆっくり、けれども確実に)神がデザインした調和のある平和的な進歩を達成してゆくだろう。
このことは理論的に正しいと思われる。その問題が何であろうと。宗教であろうと、哲学であろうと、政治、経済であろうとも。
さらに、その問題がいかなるものであろうとも、常に1つの結論に達する。それが、繁栄、道徳、平等、権利、公正、進歩、責任、協力、財産、労働、貿易、資本、賃金、税金、人口、財政といった問題であろうと、政府自体の問題であろうとも。また、その問題への研究を科学の地平線上のどこから開始しようとも。
人間関係の問題の解決策とは、自由の中に見いだされるという結論に達するのだ。
72.考えの証明
そして、このことは経験が証明してないだろうか? 世界を見てみれば、 どのような国に最も平和で、最も道徳的で、最も幸福な人々がいるだろうか?
そのような人々は、法が私的な事への干渉が最も少ない国にいる。 政府の存在が最もわずかにしか感じられない所、 個人に最も大きい機会、最も自由な意見、最大の影響力がある所、 政府の管理権限が最も少なく、最も単純な所。そして、税金が最も軽く平等であり、人々の税金への不満が最も少ない所にあるのだ。
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個人と集団が責任を負うことを積極的に当然のこととして受け入れ、そしてその結果として、明らかに不完全な人間の道徳が常に改善している所。貿易、集会、組合への規制が最も少ない所。 労働、資本、人口への強制的排除が最も少ない所に、それはある。
さらに、人類の自然な性分にもっとも従っているところ。 人間が考え出したものが神の法と調和している所、 要するに、最も幸福で、最も道徳的で、最も平和な人々は、この原則に一番忠実に従っている人々だ。
人類は完全ではないが、そうではあっても、全ての希望は、権利の範囲内での自由で自発的な人間の活動にかかっている。法あるいは権力は、普遍的正義の執行以外の何にも使われるべきではない。
73.他者を支配する願望
次のことは言っておく必要がある。 世界にはあまりにも多くの“偉大な”人がいる。立法者、計画家、考えの甘い慈善家、人々のリーダー、国家の父、等々だ。
あまりに多くの人々が自分を人類より高位の立場に置いている。 彼らは、人類を組織し、パトロンにし、支配することを自分の職業にする。
すると、誰かがこう言うかもしれない。「あなた自身が、まさしくそれをしている。」と。
たしかにそうだ。 しかし、私の行動が、彼らとは全く異なる意図によることは認められてしかるべきだ。 もし私が改革者の仲間入りをするなら、それは、改革者達を説得し、彼らが人々に構わないようにさせるためだけだ。
バンクースンが自分の作ったカラクリ人形を眺めた時のように、私は人々を見ているわけではない。 むしろ、ちょうど生理学者が人体をそのまま受け入れるように、私は人々のありのままを受け入れる。 私の願いは人々を研究し、人々を賞賛することだけだ。
他のあらゆる人々に対する私の態度は、次の有名な旅行者の話によってうまく説明できる。
その旅行者はある日、野蛮な部族の村の真ん中に到着した。(そこでは、赤ん坊がちょうど生まれたところだった)。 易者、奇術師、もぐりの医者連中(リング、フック、およびコードを身につけている)が、赤ん坊を取り囲んだ。
その一人が言った。「鼻孔を広げない限り、この子は決してピースパイプの香りを嗅げないだろう」。 別の者は言った。「肩まで耳朶を引っ張らないと、この子は決して聞こえるようにならないだろう。」。 3番目が言った。「目を傾けない限り、目が見えるようにならないだろう」。 別の者は言った。「足を曲げない限り、直立して歩けないだろう」。 5番目の者が言った。「頭蓋骨を平らにならさない限り、ものを考えるようにならないだろう。」
旅行者は「止めろ!」と叫んだ。 「神のなすことはうまく出来ているのだ。 神より多くを知っていると主張してはならない。 神はいくつかの器官をこの弱い生き物に与えた。これらを訓練、使用、経験、および自由によって成長発展させなさい。」 - 41 -
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74.今こそ自由を試みよう
神は万人に、運命を遂行する上で必要な全てを与えた。 神は人間に、人間としての形態だけでなく社会的な形態をも与えた。
そして、人間に備わる、この社会的器官はとてもうまくできており、自由の清浄な空気の中で、調和をもって自ずと発展するだろう。
いかさま医と政府計画家を追い払おう! リング、チェーン、フック、ハサミを捨て去ろう! 人工的な体制を捨て去ろう!
政府計画家の気紛れや、政府が行う社会計画、中央集権、関税、学校、宗教、無利子融資、銀行業の政府独占、規制、制限、課税による平等化、偽善的な道徳化といったことをやめさせよう!
そして、立法者達、慈善家達が、あまりにも無駄に、あまりに多くの社会体制へ害を与えてきたがために、彼らは、始めるべき地点で最終的に終わることだろう。
人々が人工的なあらゆる体制を拒否し、自由を試すことを祈ろう。
なぜなら自由とは、神への信仰と神の御業を受け入れることなのだから。
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参考URL
http://www.econlib.org/library/Bastiat/basEss2.html#Chapter 2
http://bastiat.org/

共通テーマ:日記・雑感

The Law フレデリック バスティア著-1

The Law

フレデリック バスティア著
First published: 1850, in French
― 序文
法が悪用されている!そして国家の警察権力も、法と共に悪用されている!
法が、本来の目的を失っているだけでなく、その本来の目的と完全に反対の目的に使われているのだ!
法は、あらゆる種類の貪欲の道具となった!
犯罪を監視する代わりに、法そのものが、本来なら罰すべき邪悪で犯罪的なものとなっている!
これが真実なら深刻な事実である。そして道徳上の義務から、私は市民の仲間への注意の喚起を呼びかけるのだ。
1.人生は神からの恵み
我々は、神から与えられたある恵みを抱いており、それは他の全ての恵みを含んでいる。
それは生命である。肉体的で、知的で、道徳的な生命である。
しかし、生命はそれのみでは維持されない。創造者は、我々に生命を保持し発展させ完遂する責任を与えた。これを達成するために、神は我々に素晴らしい能力をまとめて与えられた。そして神は、多種様々な自然資源の中に我々を置かれた。
この自然資源を、我々の能力を用いて製品にし利用する。
このプロセスが、人生を神の定められた道に進ませる上で必要となる。
生命、能力、製品―別の言葉で言えば、個人、自由、財産―これが人間である。
そして、狡賢い政治的指導者がいかに巧みに偽ろうとも、神に与えられたこの3つの恵みは、人間のあらゆる立法に先立ち、また優先するのである。生命、自由、財産は人間が法を作ったから存在するのではない。反対に、生命、自由、財産が、法に先だって存在していたというのが事実であり、これらが最初に法を人間に作らせたのである。
2.法とは何か?
では、法とは何か? 法とは個人の権利である合法的な防衛行為を集団的体制としたものである。
我々一人一人は、一つの自然権を、神から与えられている。
この権利は、自分自身、自分の自由、自分の財産を守るという権利である。
これらは、人生における必要条件である。
そして、この3つの内の、どの一つの権利を守るうえでも、他のもう2つの権利が確保されて
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The Law
いる必要がある。
我々の能力は、自分の人間性を発展させる以外に何の役に立つというのか?また、能力を発展させる上で役に立たない財産などあるのだろうか?
人間は誰でも、たとえ武力に訴えようとも、自分自身と、自らの自由と、自らの財産を守る権利を持っているとするならば、個人の集まった集団は、これらの諸権利を恒常的に守るために集団的武力によって維持する権利があることになる。
このように、集団的権利の原則―その存在理由、その合法性―は、個人の権利に基礎を置いている。そして、この集団的権力は、共通の権利を守るものだが、他の一切の目的や、他のどんな使命も必然的に持たない。それが個人の権利の代用として用いられる以外には。
こうして、一個人は、合法的に他人や、他人の自由や他人の財産に対して、力を行使出来ないのだから、集団がもつ集団的権力は、同じ理由によって、合法的には、他人や、他者の自由、もしくは諸個人や諸グループの財産に対して行使出来ない。
権力の悪用は、いずれのケースであっても、我々の前提に反する。権力は個人的な権利を守るためにあるのだから、同じ権利がある兄弟を破壊するために、それが我々に与えられたはずがない。個人の場合と同じ原則が、この集団的権力に対してもまた適用できるのだ。
つまり、集団的権力とは、個人の権力を寄せ集めて組織化したもの以上ではない。
もし、これが真実ならば、次のこと以上に明白なことはない。すなわち、法とは、合法的な防衛という自然な権利を組織化したものだということだ。
法とは、個人的な権力を、集団的権力で代用するものである。
そして、この集団的権力の対象は、個人が自然かつ合法的に権力行使できることに限定される
つまり、個人と、その自由、財産を守ることによってこれら諸権利を維持し、我々すべてを統治する正義をもたらすためにあるのだ。
3.公正にして持続する政府
もし、国家がこの基礎の上に作られたとしたら、秩序が、人々の行動においてだけでなく、人々の考えにも、行き渡るだろう。このような国家では最も単純で、容易に受け入れられやすく、経済的で、制限された、押し付けがましくない公正さが、受け入れられると思われる。そして、その政治的な形態がどうであれ、想像可能な限りその政府は長く存続できるだろう。
このような統治下では、全ての者が、自らの存在に関わる責任の数だけ特権を持つことを理解するであろう。人格が尊重されており、労働が自由であれば、そして、労働の果実があらゆる不正な攻撃から守られているとしたら、誰も政府のことを問題になどしない。
うまくいっている時であっても、その成功を国家に感謝したりしない。そして、逆に言えば、うまくいかないときであっても、政府を責めることなど考えない。農夫が霜や雹の被害を政府のせいにしないのと同様である。
そのような政府であれば、安全をもたらしてくれる、かけがえのない存在として受け止められることだろう。
さらに言えば、国家が個人的な事へ干渉しないおかげで、人々の欲求と満足が道理にかなった方法で発展する。貧しい家庭が、食べ物もない状態で、文学教育をうけようなどとはしないだ
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ろう。地方の犠牲によって人の集まった都市が潤うこともないし、都市の犠牲によって地方が潤うこともないだろう。
立法上の決定によって、資本、労働力、人口が大きく動かされることもないだろう。
我々の存在基盤は、国家が作り出すこのような移動操作によって、不確実で不安定なものとなっている。そして、さらに言うと、こういった政府の行動が、政府に過剰な責任を負わすのである。
4.法の完全なる悪用
しかし、不幸なことに、法は、決して自らをその本来の役割だけに限定することがない。
そして、法がその本来の役割を逸脱した時、法は単に重要でなく、かつまた議論の余地があることでの逸脱をしてきたのではない。
法は、はるかにこれ以上のことをしてきた。法は、それ自体の目的に直接反する行動をしてきた。
法は、その本来の目的を破壊する目的で用いられてきた。法は、法が本来維持すべき正義を絶滅させるのに用いられている。本来の目的では尊重すべき人々の諸権利を制限し、破壊することに用いられてきたのである。
法は、無法者の支配権力に、その集団的武力を賦与してきた。無法者とは、自分のリスクなく他人を搾取し、自由と財産を搾取する者のことだ。
法は、略奪行為を権利へとすり換えてきた。略奪行為を保護するために。
そして、法は、合法的な防衛を犯罪だとしてきた。合法的な防衛行為を罰するために。法の悪用は、どの程度完成されたのだろうか?そして、その結果はいかなるものであったのか?
法の存在目的が悪用されてきているのには、2つの全く異なる原因が影響している。
その一つは愚かな貪欲で、もう一つは誤った博愛主義である。まず、その最初の一つについて話そう。
5.人類の致命的な性癖
自己保存と自己発展が、人々の普遍的な願望である。
そして、万人が自らの才能を制限無く利用し、労働の果実を自由に処分することを享受できるとしたら、社会の進歩は絶え間なく続き、妨げられることなく、また失敗することもないだろう。しかし、人々には共通の性癖がもう一つある。もし、可能なら他人の出費により生活し、繁栄しようとするのだ。
これは軽率な非難ではない。また、陰気で冷淡な精神から発せられた批判でもない。
歴史の記録は、これが真実であることの証拠となる。たえまない戦争、大量の移民、宗教上の弾圧、世界的な奴隷制、商業での詐欺行為、そして独占。
このような致命的な欲望は、人間の本性に由来するのだろうか?この原始的で、普遍的で、抑制出来ない本能が、人間に対し、可能なかぎり最小限の苦痛によって欲望を充足させるように強いているのであろうか?
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6.合法的略奪の犠牲者
人は、自分が犠牲となる不正行為に対しては自然に抵抗する。こうして、略奪行為が、立法者の利益のために組織化されるとき、略奪される側にある階級の人々は、平和的手段もしくは革命的な手段によって、立法者の側に入ろうとする。
彼らの啓蒙の度合いにより、これら略奪される側の階級が、政治的な権力を得ようとする場合、次の2つの全く異なる手段のうちの一つを提案するだろう。
彼らは合法的略奪を止めさせようとするか、もしくはその分け前にあずかろうとするかのどちらかである。
その国にとっては災難なことだが、この後の方の目的が合法的略奪の犠牲者たちの大部分に広がった場合、今度は彼らが立法権力を掴み取ろうとする。
これが起こるまで、多数者への合法的略奪を行う者は殆どいない。
立法への参加権は、数人に制限されているのが普通である。
しかし、次に、立法への参加が一般的になる。すると人々は相反する利益を、略奪行為を一般化することで均衡させようとする。
社会にある不正を根絶する代わりに、不正を一般化しようとする。
略奪される側の階級が、この政治的権力を得るやいなや、他の階級への報復体制を作り上げるのだ。
彼らは、合法的略奪を廃止することはない。(この目的には、より多くの啓蒙が必要であろう。)
そのかわりに、邪悪な先行者たちに倣って、この合法的略奪行為に仲間入りするのだ。例えそれが、自分たちの利益に反することであってもだ。
このことは、あたかも、正義の統治が実現する前には、万人が残忍な仕返しを受ける必要があるかのように見える。
そのいくらかは、邪悪さに対する報復であり、法の理解の欠如に対する報いという形で。
7.財産と略奪
人は、たゆみなく労働することによってのみ、暮らし、そして、欲求を満たすことができる。
つまり、自らの能力を天然資源に休むことなく働きかけることによってのみ、それが可能なのだ。このプロセスが、財産の起源である。
しかし、人は他人の労働生産物を奪い、消費することでも、暮らし、また欲求を満たすことができるのも事実である。このプロセスは略奪の起源である。
人が本来、苦痛をさける性分にあるから- そして、労働そのものが苦痛であるから- 労働よりも略奪が容易な場合は、必ず略奪行為に訴えるだろう。
歴史はこのことをはっきりと示している。そして、このような条件のもとでは、宗教も倫理観も略奪行為を阻止出来ない。
では、いつ略奪は終わるのか?
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略奪が労働よりも、より苦痛が伴い、より危険なものとなった時だ。
だとすると、法の本来の目的とは、労働より略奪行為に走りやすい人間の致命的な性分を制止するために、その集団的武力を行使することだというのは自明である。
法による措置だけが、財産を守り、略奪を罰するであろう。
しかし、普通、法はある一個人により、もしくはある階級の人間により作られる。
そして、法は認可と多数派の支持なくしては行使出来ないから、この力は立法者に委ねられることになる。
この事実から、欲求を最小の努力で満たそうとする致命的な性分と結びついた、ほとんど普遍的ともいえる法の悪用が説明できる。
これにより、法が不正を阻止するのでなく、いかにして不正行為を行う上での無敵の道具となるのかが容易に理解できるのだ。
立法者が法を用いて、個人の独立を奴隷制により破壊したり、自由を圧制により破壊したり、財産を略奪により破壊したりする理由を理解するのは容易だ。
これらは、立法者の利益の為に行われ、また彼らの権力に比例して行われる。
8.合法的略奪の結果
社会への、これ以上の大きな変化、これ以上の悪の導入は有り得ない。
法を略奪の道具として悪用する以上の悪は有り得ない。
このような法の悪用の結果、どうなるのか?その全てを書こうとすれば、おそらく、何冊もの本を書く必要があるだろう。
であるから、そのもっとも特筆すべきところを指摘するに留めておかねばならない。
まず、第1に、この結果、正義と不正義の区別に関する分別を万人から消し去ってしまう。どんな社会であっても、法がある程度尊重されなければ存続出来ない。最も安全に法を尊重させる方法は、法を尊重に値するものにすることだ。
法と道徳とが互いに相矛盾する場合、道徳観を失うか、法への尊重心を失うかの酷い選択肢しか市民には残されない。
この2つの悪は、同じ原因からの結果である。そして、個人にとって、その2つのどちらを選択するかは、難しいだろう。
法の本質は、正義を維持することである。
人々の心の中では、法と正義は一つのものであり、同じものだと考えられている。
そのため、合法なら必ず正当なものと信じられやすい。
このような信念は非常に広く行き渡っており、法がそうなっているから、そのことは公正だという誤った考えをもってしまう。
このような誤解があるために、略奪行為を公正かつ神聖なものと見せるには、法はただ、略奪を命令し、認可しさえすればよい。
奴隷制、規制、独占といったものは、こうして、法から利益をうる人々だけでなく、法から不利益を被る人達によっても守られることとなるのだ。
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9.法を遵守しない者の運命
もしこのような制度の道徳観について疑義を表明したら、はっきりと、「おまえは危険な革新者か、ユートピア主義者か、理論家か、破壊活動者だ」と言われたり、「社会が拠って立つ基盤を破壊しようとしている」とでも言われるだろう。
もし、道徳や、政治科学について講義でもすれば、次のような内容の不服を政府に申立てる公式の団体が現れるだろう。
これから経済学は、従来のように自由貿易の観点(自由、財産、正義の観点)のみならず、特に、フランスの産業にいきわたっている犯罪と立法(つまり、自由、財産、正義に反する法)の観点からも、教えられることとなるだろう。
そして、政府から与えられた教職の地位である大学教授は、現在、権力をもつ法への尊重の念を、ほんの少しでも傷つけることを厳重に自重することになる。
こうして、奴隷制や独占、抑圧や泥棒を認めるような法があったとしても、その法について言及するものは誰もいなくなるだろう。
法が与える敬意の念を傷つけることなく、言及することはどうしたらできるのだろうか?
さらに言えば、道徳と政治経済は、単にそれが法だからという理由で、公正な法とみなすような法への見地から教えられることとなる。
法の悲劇的な悪用による、もう一つの結果は、政治的な情熱や論争、また政治全般に対して、大袈裟な重要性が与えられることだ。この事実は、何千通りものやりかたで証明できる。しかし、ここで私は例を挙げるに止めておこう。
それは、最近、あらゆる人々の関心を独占してきた問題、つまり普通選挙権の問題である。
10.誰が裁くのか?
ルソー思想の継承者達(彼らは自分を非常に進歩的な人間と考えているが、私に言わせれば二十世紀くらい時代に遅れた連中だ)は、この点、私に同意しないだろう。
しかし、普通選挙権(この言葉の最も厳密な意味で)とは、検証することも疑うこともしてはならないような神聖な教義では決してない。
実際、いろんな異論がこの普通選挙権に対してなしうるであろう。
まず第1に、普通選挙権(Universal Suffrage)の”普通(Universal)”といった言葉そのものに、巨大な誤りが隠れている。
例えば、フランスには3600万人の人がいる。つまり、選挙権を”普通”にすれば、3600万人の投票人がいることになる。
しかしながら、どんなにシステムを拡張してもせいぜい900万人の投票しか可能でない。つまり4人に3人は選挙権から排除されるのだ。そして、このこと以上に、この4分の3の人は、残りの4分の1の人達によっても排除される。この4分の1の人々は、物理的に投票が出来ないことを、他の人へ選挙権を与えない口実として推し進めるだろう。
普通選挙権とは、つまりは選挙権をもつ人達による普通選挙権である。しかし、この事実の問
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題は依然として残る。選挙権をもつのは誰か? 少数民族や、女性、狂人、大きな罪を犯した者たちだけが、選挙権がないとされるのだろうか?
11.投票権が制限されるべき理由
この問題をより詳しく調べてみると、何故、投票権を無資格要件の前提に基づかせているか、その動機がわかる。その動機は、有権者や投票者がこの権利を自分自身だけに行使するからではなく、全ての者に対して行使するからだ。最も拡張された選挙システムも最も制限された選挙システムも、この点に関しては同様である。無資格を構成するものが何かという点でのみこの両者は異なる。
それらには、原理原則の違いはなく、単に程度の違いがあるに過ぎない。仮に、現代におけるギリシャ、ローマ思想の集団である共和党員のように、選挙権は生まれながらのものであり、女性や子供に選挙をさせないのは不正だと主張したとしよう。
なぜ、彼らは選挙権が与えられないのか?なぜなら、無資格であるのが当然だと考えられているからだ。では、なぜ無資格が排除の動機になるのか?なぜなら、この選挙の結果に困るのは選挙人だけではないからだ。なぜなら、票の一つ一つはコミュニティ全体に対して影響を及ぼすからだ。そして、コミュニティの人々には、社会の繁栄や存亡が掛かる行動に対しては保証を要求する権利があるからだ。
12.答えは法を制限すること
私には、これに対する返答がどのようなものであり、どのような反論があるかも分かっている。しかし、ここでは、この本質に対する論争にかまける場ではない。
普通選挙権に関する論争を観察しておくに留めておこう。(他の政治的問題と同様に)
事実、法の役割が、万人の、あらゆる自由と財産を守ることだけに制限されるなら、また、法が、個人的な権利の単なる組織的な寄せ集め以上のものでないとしたら、また、法が略奪を抑制し罰する役目をもち、略奪行為に対する障害物となるものだとしたらどうだろうか?
そのとき、我々市民が、公民権の拡張についてこれほど議論することがあるだろうか?
むしろ、このような状況では、選挙権の拡張が、世の平和という至高の善を危機に陥らせることにならないだろうか?
選挙権を貰えなかった人々が、その権利が自分たちの番に回ってくるまで、おとなしく待つとは限らないのではないだろうか?
選挙権を得た人々が、自分達の特権を油断なく、守ろうとはしないだろうか?
法が、その本来の役割に制限されているかぎり、法に対する万人の利益は、同じものであるだろう。このような条件下では、投票をした人が、投票をしなかった人に対し不利益をもたすことがないのは明らかだろう。
13.合法的略奪という致命的な概念
しかし、一方でこの致命的な原理が、広く行き渡った状態のことを想像してみよう。
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組織、規制、保護、奨励金の口実の下で、法は、ある人から財産をとりあげ、他人にそれを与える。法は、万人から富をとりあげ、その富を数人の者に与える。それは、農民だったり、製造業者であったり、船の所有者であったり、芸術家であったり、コメディアンであったりする。
このような状況においては、まずあらゆる階級の人々が、法を手に入れようとするだろう。そして必然的にそうなるのだ。選挙権が与えられなかった一団は、選挙権を猛然と要求するだろう。そして、これを手に入れられないくらいなら、社会を転覆しようとするだろう。そして、乞食や、やくざ者であっても、異論の余地なく投票権を持つことがはっきりと分かるだろう。
彼らは、こう言うだろう。「ワインもタバコも塩さえも税金を払わないでは買うことが出来ない。
我々が支払う税金の一部は、法によって、特権や助成金といった形で、自分より豊かな者に与えられる。他の者は、パンや肉や鉄、衣類の値段を上げるのに法を用いる。
こうして、皆が皆、法を自分の利益の為に用いるのだから、我々もそれを自分の利益のために用いたいのだ。
我々は貧者による略奪である生活保護権を法に要求する。
この生活保護の権利を得ることで、我々は、投票者や立法者にもなれる。
自分の階級を利するよう保護貿易を大規模に組織化したように、物乞いの大規模な組織化を可能とするために。だが、我々を乞食どもと呼んではならない。
ミメレル氏の提案では、人々のために行動したいと言いながら、犬におしゃぶりの骨を投げあたえるかのように、我々を静かにさせようとして60万フランの大金を放り投げつける。
だが我々には他の要求もあるのだ。いずれにせよ、我々は自分自身のために行動したいと思う。他の階級の人達が自分達のために行動したように。」
では、このような議論にどのように答えることができるだろうか?
14.悪用された法は摩擦を引き起こす
法が、その本来の目的からの逸脱が許される限り、(つまり財産を守るのでなく、財産を侵害するために用いられる限り)全ての人が立法に参加しようとするだろう。略奪行為から自分を守るため、もしくは、法を略奪の目的に用いるために。
政治的な話題は、常に偏見にまみれた、万人を熱中させる支配的なものとなるだろう。
国会議事堂のドアのところでは、先を争って人々がその中に入ろうとし、争いが起こるだろう。また、その中での争いは激烈なものであろう。
これが分かれば、フランスとイギリスの立法府で起こったことを検証する必要は殆ど無くなる。問題を理解するには、単にその結果を知ればよいだけだ。
法の概念のこのような憎むべき悪用により、憎しみと不協和が常に生み出されること、また法には、社会を破壊する性質があることを言うのに、証拠を示す必要があるだろうか?
もしその証拠が必要ならば、合衆国(1850年の)を見るといい。
世界中で、法が万人の自由と財産を守るという本来の役割に収まっている国はUSA以外にはない。この結果として、USAよりも強固な基盤に基づいた社会的秩序を持つ国はどこにもなさそうである。
しかし、アメリカ合衆国においてさえ、2つの問題点があり、(2つしかないとも言えるが、)
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これが合衆国の平和を常に危険に晒しているのだ。
15.奴隷制と関税は略奪である
この2つの問題とはなにか?
それは奴隷制と関税である。この2つがアメリカにおけるたった2つの問題であり、合衆国の基本理念に反するものである。その法は略奪の性質を帯びている。
奴隷制は、法による自由の侵害である。保護的な関税は、法による財産の侵害である。
この2つの合法的犯罪は、旧世界からの悲しむべき継承であるが、合衆国を唯一破滅に導くことのできるもので、また恐らく破滅をもたらすだろうことは、特に注目すべき事実である。
社会のまさに中心において、これより驚くべき事実を想像することは、実際不可能である。法は、不正の道具に至ったという事実である。
そして、もしこの事実が合衆国に酷い結末をもたらすとしたら、つまり、合衆国のように法本来の目的が捻じ曲げられているのは、奴隷制と関税においてのみという社会でさえ、そうなるのだとしたら、ヨーロッパの結末とはいかなるものであろうか?
ヨーロッパでは、法の悪用が体制原理とまでなっているのだ。
16.二種類の略奪
モンタルベール氏(政治家で作家)は、カルリエ氏の有名な声明文に込められた思想を採用しながら、こう言った。「我々は、社会主義と闘争しなければならない。」
この社会主義の定義は、先に、シャルル デュパン氏が与えた定義によるものだ。
彼が意図することは、「我々は、略奪に対する闘いをしなければならない。」ということだ。しかし、彼はどの略奪について話しているのだろうか?
というのも、略奪には二つの種類があるからだ。一つは合法的なものであり、もうひとつは非合法なものである。私は、泥棒や詐欺のような非合法な略奪、これらは刑法が定義し予期し罰するものであるが、それを社会主義と呼べるとは考えていない。
社会の基礎を構造的に脅かす類の略奪ではないからである。
いずれにせよ、この類の略奪への闘いを、この紳士達がやろうとしているのではない。
非合法の略奪に対する闘いは、世界の始まりからずっと続いてきた。
1848年の革命のずっと前に、社会主義の出現などよりずっと以前に、フランスは警察と裁判所、憲兵、刑務所、地下牢、処刑台を用意してきた。これは非合法の略奪に対処するためである。法自体が、この闘いへの指揮をとり、常に略奪に対しこのような態度を維持すべきだというのが私の願いであり意見である。
17.法は略奪を保護する
しかし、法は常にそうあるわけではない。法は、時には略奪を保護し、その過程に参画することさえある。こうして、法の受益者は、自分の行動に対し法がなければ感じたであろう羞恥心、危うさ、気の咎めといったものを容認することとなる。
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法は、裁判所や、警察、監獄、また憲兵といった道具一式を、略奪者へのサービスとして所有することもある。そして、その犠牲者(自分自身を守ろうとしたもの)を、犯罪者とみなす。
簡単に言うと、合法的な略奪といったものがあり、モンタルベール氏が話しているのは疑い無くこの類の略奪のことである。
このような合法的略奪は、人々の法的措置の間にあるポツンとある汚点にすぎないかもしれないが、もしそうであるなら、最小の演説と、最小の非難によって汚点を消し去ることが最善ではなかろうか? 利権をめぐって大騒ぎをするのでなく。
18.いかにして合法的略奪を見分けるか
では、この合法的略奪はどのようにして見分けることができるのか?
それは、いとも簡単だ。
法が、誰かから所持物を取り上げ、他の者にそれを与えるかどうかを見ればよい。
法が、誰か他人の出費によって、別の市民に利益を与えていないかどうかを見れば良い。
その市民が、自分では罪でも犯さない限り出来ないことをしているかどうかを。
では、法をすぐに廃止してしまおう。それ自体が悪なだけでなく、さらなる悪を生む肥沃な源泉となるからである。なぜなら、報復行為をまねくからだ。
このような法、つまり例外的な法が、すぐに廃止されないのであれば、法は広がり、増加し、そして体制にまで発展するだろう。
この法から利益をうる者は、苦々しく不満をいうであろう。その既得権益を守るために。
彼はこのように主張するだろう。政府は、特定の産業を守る義務と、奨励する義務があると。
そして、このような措置は、政府を富ますだろうと。なぜなら、その保護された産業は、こうして多くのお金を使うことができるし、また貧乏な労働者へより高い給料を払うことができるからだと。
既得権者によるこのような詭弁に耳を傾けてはいけない。この議論を受け入れると、合法的略奪を全体の体制の中に取り入れることになる。事実、それは既に起こっていることなのだ。今の時代の思い違いとは、全員の出費でもって、全員を豊かにしようとしていることにある。
そのような無理が可能なふりをしながら、略奪を一般化することが、その目的なのだ。
19.合法的略奪にはいくつもの名前がある
合法的略奪には、いくらでも方法がある。
同様に、略奪行為を組織化するのにも、無数のやり方がある。
関税、保護、給付金、助成金(補助金)、奨励金、累進課税、公立学校、労働保証、最低賃金保障、生活保証制度、労働手段への権利、無利子融資・・、等など。
こういった計画の全ては、おしなべて合法的略奪が共通目的としてあり、社会主義を構成する要素となっている。
このように、社会主義とはいろんな教義が集まったものだという定義をすると、社会主義に対する攻撃としては、その教義への攻撃以上に有効なものはない。もし、この社会主義の教義が
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The Law
間違いであり、ばかばかしく、邪悪なものだと判れば、論破すればよい。
その間違いの程度が、はなはだしいほどに、ばかばかしいほどに、邪悪であればあるほどに、それを論破することはより容易になる。
しかしとりわけ、法に忍び込んだ社会主義教義のあらゆる断片を根絶やしにすることから始めて、体制を強化したいと思うのなら、これは、決して簡単な仕事ではない。
20.社会主義とは合法的略奪である
モンタルベール氏は、社会主義に対して武力を用いて戦ったことがずっと責められているが、彼はこの非難から免除されてしかるべきだ。というのも、彼は次のように平明に語っているからである。
「我々の社会主義に対する闘争においては、法、名誉、正義との調和をはかることが必要だ。」
しかし、モンタルベール氏は、自分自身を循環論の中に置いていることが分からないのだろうか?
社会主義に対抗するために法を使うのだと言うが、社会主義が依拠しているものはまさにその法そのものなのだ。社会主義者は、合法的略奪を行うことを欲しており、非合法的な略奪をしようとしているのではない。社会主義者は、他の独占主義者と同様に、法そのものを自らの武器としようとしているのである。
そして、一度、法が社会主義の側につくと、どうやって、法を社会主義に対抗する道具として用いることができようか?
略奪が、法によって扇動される時、裁判も、憲兵も、牢屋も恐れられることはない。
むしろ、社会主義は、法に助けを求めることだろう。
これを防ぐために、社会主義者を立法過程に参加させないようにすればよいのか? 社会主義者が立法府に入ることを阻止すればいいのだろうか? これはうまくいかないだろう。合法的略奪が立法府の主要な仕事であり続ける限りは、私はそのように予測する。実際、そうはならないだろうと考えるのは、論理的でなく、愚かなことだ。
21.我々の前にある選択肢
合法的略奪の問題は、これを最後に解決されなければならない。そしてその解決策としてあるのは、次の3つの選択肢だけだ。
1. 少数者が多数者を略奪する。
2. 万人が、万人から略奪する。
3. 誰も、誰からも略奪をしない。
我々には、制限された略奪、社会全体による略奪、略奪をしない、の3つ選択肢がある。
法は、このうちの一つだけを追求できる。
制限された合法的略奪をする:このシステムは投票権が制限された時に広まっていた。社会主義の侵略を防ぐためには、このシステムへ後戻りすることになるだろう。
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社会全体による合法的略奪をする:我々は、公民権が一般化した頃から、このシステムにずっと脅威を与えられつづけている。新しく公民権を与えられた大衆は、投票権が制限されていた時と同じ合法的略奪の原理を用いて法を策定することを決めた。
合法的略奪をしない:これが正義、平和、秩序、安定性、調和、論理の原理である。
私は、この原理を自分が死ぬ日まで肺の力が続く限り唱えることだろう。
22.法の本来の役割
そして、略奪がない事以上に、法に要求されることが、嘘偽りなくあるだろうか?
法は、必然的に権力の使用を要求するのだろうか?
法は万人の権利を守ること以外に合理的に使われうるのか?
私は、法を悪用せずにそれ本来の目的を超えて拡張しようとして、結果的に権力と権利を敵対させる人間を許さない。
これが最も致命的で不合理な社会的な悪用なのは、容易に想像されることだ。
社会関係の領域において長く研究されてきたように、本当の解決とは、次の単純な言葉の中にある。「法とは組織化された正義である。」
また、このことは言っておく必要がある。正義が法によって秩序付けられる時(つまり権力によってなされた時)、法を用いてあらゆる人間活動を秩序づけようとする考えは排除される。労働であろうと慈善であろうと農業、商業、産業、教育、芸術、宗教であろうと。
法によって、このどれか一つが秩序化されることがあっても、不可避的に基本的な秩序である正義を破壊してしまう。
実際、市民の自由に敵対して力が用いられれば、同時に正義に敵対して力が行使されたことになる。また、こうして本来の目的に敵対したものとして用いられるのだ。
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23.社会主義の魅力的な誘惑
次に挙げるような考えに、我々の時代の最も一般的な誤りがある。
法が正義であるだけでは充分でなく、博愛的でもなくてはならないという考えだ。
法が、全ての市民に、自由と、身体的、知的、道徳的な自己改善の為に対して、害にならない程度に用いられるだけでは充分でなく、その代わり、法が直接的に福祉、教育を拡大し、国家が道徳の改善までしなければならないという考えだ。
これは、社会主義の魅力的な誘惑である。そして私は再び繰り返して言う。このような法の2つの用い方は直接に相反するものであると。
我々はそのどちらかを選ばなければならない。
ある市民が同時に自由であったり、不自由であったりは出来ないのだ。
24.博愛の強制は自由を破壊する
ラマルティン氏は、かつて私にこのように書いてよこした。
「あなたの教義は、私の計画の半分でしかない。あなたは自由の段階で止まってしまっているが、私は博愛の段階まで突き進むのです。」私は彼にこう答えた。「あなたの計画の後半は、前半を破壊してしまうでしょう。」と。
事実、私には“博愛”という言葉と、“自発的”という言葉を区別することが出来ない。
自由が法によって破壊されることなく、また、正義が法によって蹂躙されることなく、どうして博愛を法により強制できるのか、まず理解出来ない。
合法的略奪には2つの根源がある。
その内の一つは、以前言ったように、人間の欲望の中にあり、もう一つは誤った博愛精神の中にある。
まず、この点について私が略奪という言葉でなにを言おうとしているのかをはっきり説明しておいた方がよいだろう。
25.略奪は所有権を侵害する
私は、略奪という言葉を、しばしばなされるように、曖昧でハッキリとしない、大雑把な、暗喩的な意味では決して使わない。
私は、科学的に承認されている意味で用いる。例えば、所有(給料、土地、お金、その他諸々)の反対の概念を意味する言葉として用いる。
ある人が所有する富の一部が承諾なく、もしくは一切の代償なく、所有していなかった別の誰かに移動したとすれば、私はそれを所有権の侵害とみなし、略奪行為とみなす。暴力によろうと、詐欺によろうと。
私は、このような行為こそ、まさに法が、いつでもどこででも抑制すべき行為だとする。
法が、本来抑制すべき略奪行為を自ら犯すとき、略奪はやはり起こったとみなす。さらに社会と福祉の観点から見た場合、このような権利に対する侵害は、一層悪質なものだと私はみなす。
このような合法的略奪の場合、その利益を受ける人間は、略奪行為に対する責任は、いずれに
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せよない。この合法的略奪の責任はその法自体と、立法者、そして、その社会そのものにある。そこに政治的な危険性が横たわっている。
略奪という言葉に、攻撃的なニュアンスがあるのは残念なことだ。私は、別の攻撃的ではない言葉を捜そうとして無駄な骨折りをした。というのも、私はいつでも(特に今は)、意見の相違に対して、神経を逆撫でするような言葉を増やしたくはないからなのだ。
だから信じられるか否かは別として、私は他人の意思や道徳感をほんのすこしも攻撃するつもりはないと断言しておこう。
むしろ、私は自分が誤っていると信じる概念に対して攻撃を加えているのだ。私にとって不正と思えるような体制に対して攻撃を加えているのである。
その不正とは、個人的な意図からあまりに独立しているがゆえに、我々一人一人が、望まなくても、そこから利益を得られる類のものであり、また災いの原因を知ることなく、被害をうけるものなのだ。
26.略奪の3つの体制
保護主義、社会主義、あるいは共産主義の支持者達の誠実さを、ここでは問題としない。
そのようなことを試みる作家はみな、政治的精神や政治的恐怖に影響されているに違いない。
しかしながら、保護主義、社会主義、共産主義は基本的に同じ植物であり、ただ生育が異なる段階にあるものだと言えるだろう。
合法的略奪は、共産主義において、よりはっきり観察されると言われるのは、それが完全な略奪だからに過ぎない。保護主義では、その略奪は特定のグループや産業に限定される。
こうして、これら3つの体制のうち、社会主義が最も曖昧で、最も不明確で、またそれゆえにその発達の段階が一番進んだものという結論が導かれる。
しかし、誠実か不誠実かといった、個人の意図は問題外だ。
事実、既に述べたように合法的略奪は、部分的には博愛精神に基礎がある。それがたとえ偽りの博愛精神であるとしても。
この説明で、その価値(その起源と傾向)を評価してみよう
社会全体の福祉を、社会全体からの略奪によって実現しようとするこの一般的な願望を検証してみよう。
27.法は権力である
社会主義者は、法は正義を体系化したものなのだから、どうして法は労働や教育や宗教さえも体系化しないのかときく。
法が、こういった目的に用いられてはならない理由は何か?
なぜなら、法は正義を破壊することなしに、労働、教育、宗教を体系化することは出来ないからだ。法は権力だという事実を思いだす必要がある。そしてその当然の結果、法の本来の役割は、権力の本来の役割を超えて、拡張されてはならない。
法と権力が、正義の限界の内に人間を拘束しておくのなら、たんなる禁止以外の何物も課すことはない。法は、人々に対し他人を傷つけることを慎むように強制するだけである。
法は、人々の人格も自由も、財産も侵害する事はない。
むしろ法は、これら全ての防波堤になる。法は防衛的なものである。そして、万人の権利を平
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等に守るものだ。
28.法とは消極的な概念である
法と、合法的な防衛行為が無害なのは自明である。その有用性は明白であり、かつ合法であることは疑いがない。
私の友人の一人がかつてこう言ったように、法が消極的な概念であることは、あまりにも自明な真実であり、そのため法の目的を統治のための正義をもたらすことだとするのは、厳格な意味で正確な説明ではない。
法の目的とは、統治において不正義を防ぐことにあると言うべきである。事実、実体があるのは、正義ではなく不正義の方である。正義は、不正義がない時にのみ達成されるものなのである。
しかし、その法が、必要不可欠な代理手段である権力を用いて、人々に労働規制を強制したり、教育方法や教育科目、宗教上の信仰や信念を強制したりすれば、法はもはや消極的なものでなく、人々に対し積極的に働きかけるものとなる。
立法者の意思を、人々の意思に刷りかえる。立法者たち自身のための主導権を、人々の主導権に刷りかえる。このようなことが起これば、人々はもはや議論したり、比較したり、前もって計画をする必要がなくなり、法がすべてを代わって行うことになる。
知性は、人々にとって役に立たない支えとなり、人々は人間であることをやめ、人格を失い、自由を失い、財産を失う。
権力により強制された労働規制で自由の侵害とならないものや、権力に強制された富の移転で財産侵害でないものを想像してみればよい。
もし、このような言葉の矛盾を解消出来ないなら、法は、不正義を組織化せずに、労働や産業を組織化することは出来ないと結論しなければならない。
29.政治的なアプローチ
政治家が、自分のオフィスの仕切り部屋から社会を眺めるとき、そこから見える社会の不平等な光景に打ちのめされる。
彼は、社会の欠乏状態を嘆き悲しむ。それは我々同朋の多くがしている。
欠乏は、贅沢や富と比較するとより悲しいものに思える。
多分、その政治家は、こう自問するだろう。この事態は、旧い征服や略奪によって引き起こされたものではなかったのか、そしてより最近の合法的略奪によって引き起こされたのかと。
多分、その政治家はこのような主張について考えるだろう。「万人が快適な暮らしと、完全さを求めるなら、正義であることが、進歩への取り組みを最大化し、個人的責任と両立が可能な平等を最大限引き起こすに、充分な条件ではなかったのか?
悪と善の選択、またその結果としての罰と報酬の選択をするようにと、神が人間に個人的自由を与えたという考えと一致するのではなかったか?
だが、政治家は、決してこうは考えない。むしろ、組織や、組合、取り決めの問題、つまり、
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法、もしくは明らかに法で決められたことの方に目が向くのだ。
その悪を治そうとして、まさにその悪を最初に引き起こしたもの、つまり合法的略奪を、増大させ、永続させてしまう。
我々は正義が消極的な概念であることを見てきた。
略奪の原理を含まないような、積極的な法的行動など一つでもあるだろうか?
30.法と慈善
人は「お金を全くもっていない人がいる。」と言い、法に救いを求める。
しかし、法はミルクを湛えた乳房ではない。それどころか、法におけるミルクを作り出す乳腺は、社会の外にその源があるのだ。
ある市民や階級にとって有益な公共財源には、別のある市民や階級がお金を入れるように強制されないかぎり、そこにお金が入ることはありえない。
もし、誰も公共の財源に自分で入れた量以上のものを引き出すことがなければ、法が誰も略奪していないのは本当だ。
しかし、このやり方では、お金を持っていない人に対して何もしていないことになる。
これは、収入の平等を促進しない。法は平等化の手段になるが、それは法がある人からお金を取り上げ、別の誰かに与えるときだけである。
そして法がこれを行うとき、法は略奪の道具となるのだ。
このことを頭に入れておき、次のようなものを考察してみればいい。保護関税、補助金、利益保障、職保証制度、福祉制度、公共教育、累進課税、無担保融資、公共事業といったものを。
これらが、つねに合法的略奪、つまり組織化された不正義によるものだとわかるだろう。
31.法と教育
人は「世の中には教育をうけていない人がいる。」と言い、法に救いを求めようとする。
しかし、法はそれ自体が、松明のようにその光を外部に照らすものではない。
法は社会に広がり、そこではある人は知識をもっており、ある人はそれを持たない。そこではある人は学習の必要性があり、またある人は何かを教えることができる。
この教育の問題については、法のもつ代替策は二つだけだ。法は、教えー教えられる関係の取引が自由に行われるのを許可することができる。そこに権力を行使する必要は無い。
もう一つは、法はこの問題において、人間の意思を次のように強制することができる。
政府の教育指導免許を与えられた教師へ充分なお金を払うことのできる人達から、無料で金を引き出すことによってだ。
しかし、この二番目の場合、法が、自由と財産を侵害するという合法的略奪を犯している。
32.法と道徳
人は「道徳観や宗教を欠いた人達がいる。」と言い、法に救いを求める。
しかし、法とは権力である。道徳観や宗教の問題に対し、権力を用いることが、いかに野蛮で、不毛な努力かを、私がここで改めて指摘する必要があるだろうか?
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いかに自己満足的な社会主義者とはいえ、この怪物のごとき合法的略奪から目をそむけることは出来ないだろう。合法的略奪は、このような仕組みと取り組みの結果として生じるのである。
しかし、社会主義はどうするだろうか?
彼らは賢くも、自分をも含む他者からの合法的略奪を博愛精神、一致団結、組織、結社といった魅力的な名のもとに偽装しているのだ。
我々が、法をほとんど求めず、正義しか要求しないために、社会主義者は、我々が当然、博愛精神や結束、組織、協会を拒否しているのだと考える。
社会主義者は、我々に個人主義の汚名を着せるのである。
しかし、我々は社会主義者に対し、こう断言する。我々は強制された組織だけを拒否するのであって、自然に生まれた組織を拒否するものではないと。我々は、我々を強制する組合の形態を拒否するが、自由組合を拒否するわけではない。我々は、博愛の強制を拒否するが、真の博愛を拒否するわけではない。我々は、人工的な結束を拒否するが、そのことが個人の責任を人から奪い取るだけだからである。我々は、神の摂理に基づく自然な人々の結束を拒否するものではない。
33.言葉の混乱
社会主義は、その起源となる古代における概念と同様に、政府と社会の区別を混乱させる。
この結果として、我々が政府のすることに反対する度に、社会主義者は我々が全ての事に反対していると結論づけるのである。
我々は、国家の教育を認めない。すると社会主義者は、我々は教育そのものに反対していると言う。
我々は、国家の宗教を認めない。すると社会主義者は、我々が宗教を全く欲していないと言う。
我々は、国家の強制した平等に対し反対するが、すると社会主義者は、我々が平等そのものに対し反対していると言う。そして、以下同様で、このような調子なのだ。
これは、我々が国家に穀物を育てるよう要求しないから、我々が食事そのものを拒否しているのだと言って責めているようなものだ。
34.社会主義作家の影響
政治家たちは、このような奇妙な考え、つまり、法には含まれない富や科学、宗教といったもの(これらは積極的な意味では富を構成物するもの)を作り出すことができるといった考えを、一体どうして信じるようになったのだろうか?
これは、同時代の広報作家達の発言による影響なのだろうか?
現代の作家達(特に社会主義学派の)は、その様々な理論において、ある一つの仮説を基礎に置いている。かれらは、人類を二つの部分に分ける。一般的な人々は、(その作家達本人を例外として)第一グループに属している。作家は、自分一人で、その二番目の、また最も重要となるグループを構成するのだ。間違いなく、このような考えは、今まで人類の頭の中に生まれた考えの中でも、もっとも異様な考えであり、また最も思いあがった考えだ。
事実、広報作家たちは、人々には自分自身で識別する能力や、行動のモチベーションがないと
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想定することから始める。
作家達は、人々が生気のない物体で、受動的な粒子であり、動きのない原子であり、せいぜいよくいって草木の類で、自らの存在のあり方に全く関心の無い存在だといった想定をしているのだ。
彼らは、当然のごとく、人間はいかなる形にでも作れると考えている。他人の意思と手によって、どんな形にすることも可能で、対称的にでも、非対称な形にも作れるし、芸術的にもできれば、完全な形にすることも可能だと考えているのだ。
そればかりでなく、これら広報作家の誰一人として自分自身が、計画家、発見家、立法者、創始者といった名の下に、その意思であり手だとみなすことを躊躇しない。
この普遍的な原動力、この創造的な権力は、その崇高な使命を、これらバラバラの素材(つまり人々)を鋳型に入れて加工し、一つの社会にすることにある。
これら社会主義の作家達は、人々を、庭師が木々を見るのと同じような態度で見るのだ。
ちょうど、庭師が気紛れに木々の形を、ピラミッドや、傘や、立体や、花瓶や、団扇や、その他諸々の形に刈り込むのと同じように、社会主義の作家達は、気紛れに個々人をグループやクラスや、中央や中央の横や、蜂の巣状、労働組合、等、いろんなバリエーションに形づける。
そして、ちょうど庭師に、斧や剪定ハサミや、のこぎりや大バサミが、木々の刈り込みに必要とするのと同じように、社会主義者の作家達は、人々の形を整えるために法の中にのみ存在する”権力”を必要とする。
こうした目的のために、社会主義者たちは、関税法、租税法、弱者救済法、学校法などをひねりだしてくるのだ。
35.社会主義者は神の役割を演じたがっている
社会主義者たちは、人々がどんな社会的なものにでも変化させられる素材とみなしている。
彼らがそのように人々を見ているのは、まさに事実なのだ。もしたまたまでも、社会主義者がこのような合成の成功にすこしでも疑いをもったとしたら、人類の一部を実験道具としてとっておいてくれと要求するだろう。
全ての体制を試してみるといった、よくある考えは、よく知られている。
そして、ある一人の社会主義の指導者が、憲法制定議会に対して、小さな地域を、その住民ごと、彼の実験材料として与えてくれとまじめに要求したことが知られている。
発明家が、実物大の機械を作る前に、模型を作るように、化学者は、アイデアを実験してみることで、薬品をある程度無駄にする。農夫が種と土地を無駄にするように。
しかし、庭師と植木の関係や、発明家とそのマシンの関係、化学者とその薬品の関係、農夫と種の関係にどんな違いがあるのか。そして、その社会主義者は大まじめで、彼と人類の間の関係も同じだと言い出すのだ。
19世紀の作家達が、社会を、立法者の天才による創造物と考えることは、意外ではない。
古典的教育の結果であるこのような考え方は、この国の全ての知識人、有名作家の心を捉えてしまったのだ。これら知識人や作家達は、人々と立法者の関係は、粘土と陶芸家の関係と同じだと見ているのだ。
さらにいうと、人間の奥深いところに行動の本質と、人間知性の識別力の本質があることに同
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意したとしても、彼らはこの神の恵みを、致命的な贈り物とみなすのだ。
そして、この二つの贈り物により、人間は致命的なまでに自分達自身を滅ぼすことになるだろうと考える。
立法者が、人々を抛っておき、その本性にゆだねさせておけば、人々は信仰をもたず無神論者になり、知識を得るかわりに無知となり、生産や交換を行うのでなく、むしろ貧困に陥ると考えているのだ。
36.社会主義者は人類を軽蔑している
社会主義作家たちによると、ある種の者たち、つまり統治者と立法者たちは、神から、この正反対の資質を与えられている。また、その才能を自分の為だけでなく、世の人々の為に授かっており、それをとても幸運なことだとしている。
人類は邪悪になびく性分があるが、立法者たちは善に向かう性分がある。
人類は暗黒に向かって進んでいるが、立法者たちは啓蒙を求めており、人類が悪徳に惹きつけられるのに対し、彼らは徳に惹きつけられるとしている。
立法者たちは、これを世の真実の状態と決めつけており、そのために人類の性向を自分達の性向で置きかえるために、権力の使用を要求するのだ。
哲学、政治、歴史の本の、どのページでも適当に開いてみると、この国に、いかに深くこのような考えが根底にあるかが分かるだろう。
つまり、古典研究の子にして、社会主義の母となる考えである。
全ての本の中に、人類は単なる不活性な物体であり、国家の力によって生活、組織、道徳、財産を授かるものという考えがあるのがわかる。
そして、さらに悪いことに、人類には退化する性分があり、立法者の神秘的な手によって、人々はこの堕落する性分が食い止められていると述べられている。
伝統的な古典的な考えによくあるものは、受動的な社会の背後に、隠された権力があり、法と立法者(もしくは、他の、無名の人や明白な影響と権威ある人々をしめす用語によって)と呼ばれるものが、人類をつき動かし、管理し、利益を与え、進歩させるといったものだ。
37.強制労働の擁護
最初に、ボシュエの引用について考えてみよう。
エジプト人の精神に最も強く印象づけられた(誰によって?)ものは、愛国主義であった。・・誰も国家に対して無駄な存在となることが許されない。
法は各人にその仕事を割り当てる。その仕事は父から子へと引き継がれる。誰も職業を2つもつことはゆるされない。
まして、ある仕事から別の仕事へと移ることは許されない。・・しかし、全ての者が従わないとならない一つの仕事がある。それは、法と知恵の学習だ。
その国の宗教と政治的規制に対して無知でいることは、どんな状況であってもいいわけは通用しない。
それどころか、それぞれの職業はある地域に割り当てられた(誰によって?)・・その良き法の中でも最高の一つは、全てのものが、服従するように訓練された。(誰によって?) - 19 -
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このことの結果として、エジプトでは素晴らしい発明がたくさん起こり、そして人生を安楽で静かなものにするもので無視されたものは何もなかった。
こうして、ボシュエによると、人々は自分自身からは何も生み出さないとされる。愛国心、財産、発明、農業、科学、これら全てのものは、支配者による法の行使により人々へ与えられた。
人々が成すべき事はせいぜい指導者に対し頭を下げることだけであった。
38.温情主義政治の擁護
ボシュエは、この国家に対する考えを、あらゆる進歩の源として支持しており、ディオドロスがレスリングと音楽を拒否したエジプト人を訴えたとき、ボシュエは反論までした。
彼は言った。
どうしてこんなことが可能なのか?それらはトリスメギスタスが創案したものなのに。
(彼は、エジプトの神であるオシリスの書記だったと主張されている。)
そして、ペルシア人に対しても、ボシュエは同様なことを主張している。
王に課せられた重要な責任の一つは、農業を振興することであった。・・軍隊を統制するための部署、農作業を指導する部署と同様に・・ペルシアの人々は、王室の権威に対する溢れるほどの敬意を抱くことで啓蒙されていた。
また、ボシュエによると、ギリシャの人々は、甚だしく頭がよかったけれども、犬や馬のように個人的な責任感を欠いていた。ギリシャ人自身は、最も単純なゲームでさえ発明できなかった。
ギリシャ人は、生まれながらに頭がよく、勇気があったが、彼らは、早い時期からエジプトから来た王によって教養を与えられていたのだ。エジプトから来た統治者たちにより、ギリシャの人々は運動や、徒競争、戦闘馬車のレースなどを学んでいた。
しかし、エジプト人がギリシャ人に教えた最も素晴らしいことは、素直で御しやすくなることであり、公共の利益の為に、法によって組織化されることを受け入れさせたことだった。
39.受動的な人類という概念
全てのものは、自分たちの外の世界からやってきたものだという、このような古典的な理論(後世の教師、作家、立法者、経済学者、哲学者によって発展させられた)の真偽が問題とされることはない。
他の例として、フェヌロン(大司教、作家、バーガンディの公爵の教師)を挙げることが出来る。
彼はルイ14世の権力を目の当たりにした人間だった。これに加え、彼が古典的教育をうけ、古代崇拝者であったという事実によって、フェヌロンは次のような考えを自然に受け入れること
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となった。
つまり人類は、受身の存在であるべきであり、人々の災難も繁栄(悪徳と美徳)は、法と立法者による彼らへの権力行使による外部的影響によって起こる。といった考えだ。
こうして、サレンタムのユートピアにおいては、彼は人間を、人間の全ての興味、能力、欲望、所有物を、立法者の絶対的な指導の下におくのだ。その結果がなんであれ、人々は自分自身の為になにかを決定することがない。王は、国家を構成する形のない人々の集団の魂として描かれる。王にその考え、予見性、全ての進歩、そして、全ての組織の原理があるとする。こうして全ての責任は、王にあるとする。
フェヌロンのテレマクスの10巻全体がこのことを証明している。私は読者にその本を参照して確認してもらいたいと思っている。私は、この著名な本からランダムにいくつかの文章を引用するだけで満足しなければならない。全ての観点から私はその本に対し正当な評価を与えた最初の人間である。
40.社会主義者は理性と事実を無視する
驚くほどの軽信(これは古典主義者に特徴的だが)でもって、フェヌロンは理性と歴史的事実を無視してエジプト人が概して幸福だったという見方をとっている。そしてその原因をエジプトの人々の英知にではなく、王の英知に帰しているのだ。
「岸の両岸をみれば、豊かな街と国有地が非常に快適に配置され、野辺に未開墾のところはなく、黄金の作物で毎年埋め尽くされる。牧草地は人であふれ、大地の耕作者への恵みの果実をいっぱいに背負って腰を曲げた労働者がおり、羊飼いは、そのパイプとフルートからの優しい音を、こだまさせている。
良き指導者が言った。”幸福とは、人々が賢明な王によって統治されていることだ。”・・
その後、良き指導者は、22000の街が数えるエジプトを覆う充実感と豊富さを私がみることを望んだ。
王は、よき警察による町の管理、金持ちに対して貧乏人に与えられた正義、従順で、労働を愛し、真面目で、芸術や文学を愛する子供を育てる良き教育、全ての宗教的儀式が行われる完璧さ、無私であり、名誉に対する高い敬意、人々への忠実さ、そして全ての父が子供に教える神様への畏怖心。
彼は、この国の豊かさを賞賛するに終わることなく、こう言った。「幸福とは人々がこのように賢明な王によって統治されることだ。」
41.社会主義者は人々を組織化しようとする
フェヌロンがクレタ島について描いた牧歌的情景は、もっと魅力的だ。
良き指導者はこう語った。
「この素晴らしい島で見る全てのものは、ミノスの法に起因している。
子供の体が強靭なのは、子供の為に制定した教育のおかげである。子供たちを倹約と労働
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にうんと早くから馴染ませている。感覚的な快楽は、心身を弱くするからだ。
こうして、子供たちには、徳と栄光を手にすることによって無敵の人間になること以外は、一切の喜びを許さない。・・
こうして、他の人々の間では罰せられることの無い3つの悪徳、つまり忘恩、偽善、貪欲を罰する
虚飾と浪費に対し罰する必要はない。なぜならクレタ人には、そのようなものがないからだ。お金のかかった家具も、見事な衣服も、おいしいご馳走も、金めっきを施した宮殿も、一切許されていないのだ。」
こうして、良き指導者は、生徒を鋳型にはめ、他人にうまく操られるようにする。
間違い無く最高の意志であるイサカの人々によって。
この考えにある英知を生徒に確信させるために、良き指導者はサレンタムの例を挙げる。
我々が最初にうける政治的な概念とはこのような類の哲学からきているのだ!
我々は人々を、農業指導者が農夫に土地の手入れの方法を教えるかのごとくに、扱うよう教えられている。
42.名高い人物と邪悪な考え
では、同じ主題に関する、偉大なるモンテスキューの話しを聞いてみよう。
「商業の精神を維持するためには、あらゆる法がそれを優遇する必要がある。
法は、商業においてなされているように比例的に財産を分けることで、全ての貧しい人々に充分に安楽な環境を提供し、他のものと同じように労働を可能にさせる。
これと同じ法は、全ての裕福な市民を、財産を保持し増やすために、労働を強制させるような低い環境に置くべきだ。」
こうして、法は全ての財産を廃棄することになるのだ!
「真の平等が、民主主義国家の魂ではあるけれども、この実現があまりに困難であるため、この問題にたいして極端な処方箋をとることは必ずしも望ましいものではない。
富の違いを、ある幅の中で減らし、是正しようとするコンセンサスが確立していることで充分だ。
これがなされた後で、金持ちに重荷を与え、貧乏人の救済を認めることで、不平等を平等化するのが固有法の役割だ。」
ここに再び、財産を、法つまり権力によって平等化するという考えを見出す。
「ギリシャでは、2つの種類の共和国が存在した。その一つはスパルタで、軍事国家であった。もう一つはアテネで商業国家であった。
前者では、市民が怠惰なことが望まれ、後者では労働が奨励された。
これら立法者の驚くべき天才に着目しよう。全ての確立している伝統を貶め、-徳に関する全ての通常の概念を混ぜ合わせることによって-、世界がその知恵を崇拝するであ
- 22 -
The Law
ろうことを前もって知っていたのだ。
リクルガスは、スパルタの町に安定性をもたらした。大規模な泥棒行為を正義の概念と結びつけることによって。最も極端な自由と、最も完全な束縛をむすびつけることによって。もっとも非人道的な信条を、最も偉大な中庸と結びつけることによって。
彼は、町の全ての資源、芸術、商業、お金、防衛を奪ったように見える。スパルタにおいては、野心に対する、物質的な報酬の希望がなかった。人間が自然に持っている愛情には、その表現手段がなかった。なぜなら誰も子供も妻も父も持っていなかったからだ。貞節ですら、もはやふさわしいものとは思われなかった。この道によって、リクルガスはスパルタに栄光と偉大さをもたらしたのである。
ギリシャの体制に見出されるこのような露骨なやり方は、我々の時代の衰退と崩壊のさなかにおいても繰り返されている。
精錬潔白な立法者が、スパルタにおける勇敢さと同じくらい自然な正直さを備える人々を作った。
まれに存在する正直な立法者が、人を鋳型にいれ、誠実さがスパルタにおける勇気と同じ位自然なものと見えるようにすることがある。
例えばウィリアムペン氏は、まさしくリクルガスである。たとえ平和の実現がペン氏の目的だったとしてもーリクルガスにとって彼の目的は戦争だったが、- 彼らは、お互いに良く似ている。
彼らの自由な人間への道徳的な威光が、偏見に打ち勝つことを可能にし、受難を抑制し、それぞれの民衆を、新しい道へ導いた点で似ているのだ。
パラグアイの国は、もう一つの例(その人々が、彼らの善のために、立法者によって鋳型に嵌められた)を我々に提供する。
ここで、他人に命令することの喜びが人生における唯一の喜びだとみなしているとするなら、彼は、社会に対し犯罪をなそうと欲しているに等しい。
しかしながら、人々をより幸福にするような方法で統治することは常に賞賛に値するであろう。
これと同様の体制を構築することを欲している者は、次のようにすべきである。
プラトンの共和国のように財産の共同所有制を確立せよ。
プラトンが命令したように神々を崇拝せよ。
慣習を守るために、人々が異国人と交じり合うのを防げ。
市民のかわりに国家に商業を完成させよ。
立法者は、贅沢のかわりに芸術を供給すべきであり、欲望の代わりに必要を満たすべきだ。」
43.恐るべき考え
すぐ俗悪な心酔をするような人々は次のように大声でわめくかもしれない。
「モンテスキューがこう言った! だからこれは素晴らしいのだ!崇高なことなのだ!」と。
私としては、自分の意見を言う勇気を持っている。
私はこう言う。「なんだって!こんな酷いことを素晴らしいと言う神経を持っているのか?これは恐るべき考えなのだ!それは忌むべき考えなのだ!このようなモンテスキューの著書からの無作為な引用を読むと、モンテスキューが人や自由、財産(人類そのものを)立法者が自分
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The Law
らの見識を試すための物質でしかないと考えていたことを意味しているのだ!」と。

共通テーマ:日記・雑感

Philosophy: Who Needs It?

Philosophy: Who Needs It?
哲学:誰がそれを必要とするのか?
Ayn Rand
March 6, 1974
Address To The Graduating Class Of The United States Military
Academy at West Point New York
私は小説家なので、まず短い小話から始めたいと思います。あなたが宇宙
飛行士でその宇宙船がコントロール不能となり、見知らぬ惑星に不時着した
と想像してみてください。意識を回復した貴方は、自分の身は大した怪我も
していないことがわかりました。その時、まず思う3つの疑問は、私はどこ
にいるのか?どうやったらそれがわかるのか?私はなにをすれば良いのか?
ということです。外には、見なれない植生が見えます。そしてそこには呼吸
できる空気があります。太陽の光は見なれたものよりも青白く冷たい光です。
あなたは空を見ようと体をねじります。が、しかし、そこで動きを止めます。
突然の感情に打ちのめされて。その感情というのは、あなたがそれを見ない
でいれば、自分がおそらく地球からあまりにも遠く離れたところにいて、帰
ることは不可能である事実を知らずにすむというものです。事実を知らない
限りは、自分の願望を信じることは自由なのです。そして、あなたは、霧の
かかった、心地よい、しかしどういうわけか心にやましさを感じる、ある種
の希望をおぼえるのです。あなたは、計器の方へと顔を戻します。それは壊
れていますが、どのくらいひどい壊れ方をしているのかはわかりません。し
かし、そこで動きを止めます。突然の恐怖に襲われて。どうしてこの計器類
を信じることができるのだ?どうしてそれが自分をあざむかないと確信でき
るのだ?どうしてそれが別の世界でもちゃんと動作するとわかるのか?あな
たは、計器からも顔をそむけます。そして、なぜなにもする気が起こらない
のかと自問します。ともかくなにかが変化するのを待つのがずっと安全なこ
とだと思えます。自分にこう言い聞かせます。宇宙船をゆすらないようにし
ようと。遠くに、なにか生き物らしきものが近づいてくるのが見えます。そ
れが人間なのかどうかわかりません。しかし、彼らは二本の足で歩いていま
す。貴方はこう決心します。彼らが自分がなにをすべきかを教えてくれるだ
ろうと。そしてそれ以来、あなたは一切の消息を絶ちました。
これは空想だとあなたは言うでしょう。自分はこのような行動はしないだ
ろうし、そんな宇宙飛行士もいはしないだろうと。多分そうでしょう。しか
し、まさに殆どの人間が、この地球上において、このような生き方をしてい
るのです。ほとんどの人間は、この3つの質問を避けようとして、もがきな
がら自分の日々を過ごしているのです。この3つの質問に対する答えが、人
間の全ての思考、感情、行動の基礎となっているのです。それを意識してい
るかどうかには関係なくです。私はどこにいるのか?どうやってそれを知る
のか?自分はなにをすべきなのか?(Where am I? How do I know it? What
should I do?)
人はこの質問の意味を理解できるくらいに成長したころには、自分はこれ
らの答えを知っていると信じています。自分はどこにいるのかって? ニュー
ヨークさ。どうやってわかるのかって?そんなことは自明なことさ。自分が
なにをすべきかだって?これはあまり確信はないけど、普通の答えは、皆が
することはなんでもしなくてはいけないということかな。唯一の問題は、彼
らはあまり活動的でなく、あまり自信もなく、あまり幸福でもないこと。そ
して時折、わけのわからない恐怖と、得たいのしれない罪の意識を感じるこ
と。彼らはそれがなぜなのか説明もできなければ、取り除くこともできない
のです。それらの悩みは、この3つのまだ答えられていない問いからきてい
ることを、彼らは決して気づいてはいないのです。そして、これらの問いに
答えることのできる唯一の学問(Science)が、哲学なのです。哲学は、存在
について、人間の存在について、また人間の存在とのかかわり方の根本的な
本質について研究するものです。特定分野の科学というのは、ある特定の様
相だけを扱うのにたいして、哲学は存在するもの全てに関する宇宙(世界)
の様相を扱うものです。認識の王国において、特定科学とは樹木です。一方、
哲学というのは森を可能にする土なのです。哲学は例えばこのような質問、
あなたはニューヨークにいるのか、それともザンジバルにいるのか、といっ
た質問には答えないでしょう。(それを見つける手段をあたえるかもしれま
せんが)しかし、哲学が教えるのはこういうことです。あなたは、自然法則
(NaturalLaws)に支配されている宇宙にいるのか?そしてそれゆえ、安定し
て堅固な絶対的なそして知ることのできる世界にいるのかと? それとも、あ
なたは理解不可能なカオスの中にいるのか?説明のつかない奇跡の王国にい
るのか?予測できない、知ることの出来ない変化流転のなかにいて、それを
貴方の知力では把握できないのか? あなたのまわりのものは現実のものか、
それとも幻想なのか?それらは観測者に独立に存在するのか。それとも観測
者によって造られたものなのか? それとも人間の意識の主観なのか、客観
物なのか?それはそれなのか。それとも単なるあなたの意識ー例えばあなた
の願望によって変化するものなのか
あなたの行動、あなたの野心の本質は、あなたがどちらの解答を受け入れる
かで、異なるものとなるでしょう。これらの答えは形而上学の領域です。この
ような存在の研究は、ーアリストテレスの言葉では存在から存在へ(”being
qua being”)ー、哲学の基本となる幹なのです。
あなたがどのような結論に辿りつこうと、あなたはもう一つの系となる質
問に答える必要に直面します。どうやってそれを知るのでしょうか?人間は全
知の神でも、絶対に誤らないものでもないから、なにか知識と宣言できるも
のと、その結論の有効性を証明できる方法をを見つける必要があります。人
間は理性のプロセスによって知識を得るのか、それとも超自然的な力による
突然の啓示によってそれを得るのでしょうか?理性とは人間の感覚によって
与えられた物質を同定し統合する能力なのか、それとも人間の脳に生まれる
前から刻み込まれた生得の観念によるものなのか?理性には、現実へ近ずく
能力があるのか? それともなにか別の、理性よりも優れた認識能力を持っ
ているのであろうか?人間は確実性を達成できるのか、それとも永久に続く
疑問を持つことを運命付けられているのだろうか?
あなたがどちらの答えを受け入れるかによって、あなたの自信や、成功の
程度は異なるものとなるでしょう。これらの答えは、認識論の分野に属しま
す。つまり知識の理論、人間の認識の手段を研究するものです。
形而上学と認識論の二つの枝が、哲学の理論的な基礎となります。三つ目
の枝は、倫理学(ethics)です。これは哲学の技術とみなすことができるで
しょう。倫理は存在するもの全てに適応されるものではなく、人間にだけ適
用されるものです。しかし、人間の人生の全ての面、彼の性格、行動、価値
観、存在するもの全てとの関係にかかわってきます。倫理、または道徳性、人
の選択と行動を導く価値のコードを定義します。その選択と行動がかれの人
生の道筋を決定するのです。
ちょうど、私の話の中の宇宙飛行士がなにをなすべきか知らなかったのと
同じです。なぜなら彼は自分がどこにいて、どうすれば、それがわかるかと
いうことを知るのを、拒否したからです。同様に、あなたが何をすべきであ
るかは、あなたが関る世界の本質(Nature) を知るまではわからないのです。
あなたの認識手段の本質(Nature)、貴方自身の本質(Nature) を知ることは
出来ないのです。。倫理の問題を扱う前に、形而上学と認識論による問いに答
えなければなりません。人間は現実を扱えるほどに理性的な存在なのか? 
それとも無力で適応不能な盲目の存在で、世界の奔流にもてあそばれる木屑
のような存在なのか?
 達成感や喜びは、この地球上の人間にとって可能なのだろうか?それと
も、人は失敗と苦い思いをするよう運命付けられているのでしょうか?その
答えによって、倫理学が提起する質問に進むことができます。人間にとって
何が邪悪であり何が良いものなのか?ーそしてそれは何故か?人間の第一の
関心とは、喜びの追求であり、または苦しみからの逃避であるのが当然では
ないのか?人は、自己充足感をもつべきなのか、それとも自己破滅を待つべ
きなのかーその人生のゴールにおいて。人は価値を追求すべきものなのか、
それとも自分自身の価値よりも他人の利益を重んじるべきものなのか?人は
幸福を追求すべきなのか、それとも自己犠牲を追及すべきなのか?
この二通りの答えの違いをあえて指摘する必要はないでしょう。その違い
は、どこにでも見ることができます。あなたの中にもありますし、貴方の周
りにもあるのです。倫理学によって与えられた答えは、人が他人をどのよう
に扱うべきかを決定します。そして、このことが、哲学の四番目の枝を決定
するのです。それは政治学(Politics) です。これは固有の社会システムの原
理を定義するものです。哲学機能の一つの例として、政治哲学は次のような
ことは教えてくれません。一日にどれだけの燃料が配給されるべきであるか
とか、それを週のどの日にすべきであるとかいうことは、教えてくれません。
そうではなく、政府がなにかを配給する制度を人に科すような権利を持って
いるかどうかを教えてくれるでしょう。
五番目の、そして最後の哲学の枝は、美学です。それは、芸術の研究であ
り、形而上学、認識論、倫理の基礎の上に立つものです。芸術は人間の意識
に燃料を注ぐという必要性を扱うものです。
ここで、貴方がたは、こういうかもしれません。他の多くの人と同様に。
「うーん、自分はいままでこんな抽象的な言葉を使って考えたことなんかない
ぞ。自分は、具体的な、個々の、実人生の問題を考えたいのさ。何のために
哲学が必要なんだ?」私の答えは、具体的な個々の実人生の問題を考えられ
るようになるためには、哲学が必要だということです。地球の上で生きるこ
とができるようになるために哲学が必要だというものです。
あなたは、多くの人と同様に、このように主張するかもしれません。「自分
はいままで哲学なんかに影響されたことは一度だって無い」と。この主張を
確かめるために次のような質問をしましょう。あなたは、今まで次のような
ことを考えたり言ったことはないでしょうか?「そんなに、強く確信しない
ほうがいいよ。はっきりと断言していえることなど、なにもないのだから。」
その考えはデビッドヒューム(ならびにその他大勢)からのものです。たと
え、あなたが彼の名前を聞いたことが無いとしてもです。または、「彼の理論
はいいのだが、実際には役にはたたないね。」これはプラトンです。「そんな
ことをするのは、腐りきった行為である。しかし、それが人間というものさ。
だれもこの世で完全などありえないのだから。」これは、アウグスティヌス
です。または、「それは、あなたにとっては、真実かもしれないけど、自分に
とってはそうじゃないんだ。」ウィリアムジェイムズです。または「仕方がな
かったんだ。彼のすることはだれにもどうしようもなかったんだ。」ーヘーゲ
ルです。「証明はできないけど、それが正しいと感じるんだ。」これはカント
です。「それは、論理的だけど、論理は現実には役にたたない」これもカント
です。「それは罪悪である。なぜなら利己的であるから」カントです。最近の
活動家がこのように言うのをきいたことはありませんか?「まず行動せよ。考
えるのはあとだ。」ジョンデューイ。
こう答える人がいるかもしれません。「確かに、これらのことをいろんな
ケース(時)に言ったことがある。しかし、自分はそんなつまらないことを
いつも信じているわけではない。それは昨日までは事実だったかもしれない
けど、今日はそうではない。」この考えも、ヘーゲルのものです。「一貫性と
は、小さな頭の小鬼のことである。」それは非常に小さな脳の持ち主であるエ
マーソンから来ている。「しかし、いろんな哲学者のいろんな考えを、その時
の都合によって妥協して借りてくるなんてことができるのだろうか?」 こ
れはリチャードニクソンです。ニクソンのこの言葉はウィリアムジェイムズ
のものです。
それでは、こう自問してみてください。「もし、自分が抽象的な考えに興味
がないのなら、どうしてあなたは(そして全ての人は)それを強制的に使う
よう強いられているように感じるのかと?事実はこうです。抽象的な観念と
は無数の具象物を包括する概念的な統合だからです。そして、それら抽象的
な観念がなくては、具体的な個々の実人生の問題を扱うことはできないので
す。それがなければ、あなたは生まれたばかりの赤ん坊の状態と等しく、あ
なたには全てのものが常に独自で目新しい現象となるでしょう。新生児と貴
方の間にある違いとは、数多くの概念的な統合をあなたの脳が達成してきた
ということにあるのです。
あなたの観察, 経験, 知識を抽象的な観念、つまり原理にまで統合する必要
性は選択の余地がないものなのです。あなたに唯一残された選択は、これら
の原理が誤っているかそれとも正しいのかという判断だけなのです。あなた
に残された唯一の選択肢は次のようなものです。概念とはあなたの意識を象
徴するもので、理性的な確信なのか、それとも概念のはいった福袋から出鱈
目に取り出すだけで、貴方自身はその出所の妥当性なり、文脈、結果を知る
ことはないのか。こういった考えは、つまるところ、熱いジャガイモだと知っ
ているから、あたかもそれが熱いジャガイモのように落としてしまうという
ことです。
しかし、あなたの受け入れた諸原理(意識的であれ、無意識にであれ)は、
お互いに矛盾するものです。それらもまた、統合されなければなりません。
なにがそれを統合するのでしょうか?哲学です。哲学的なシステムは存在に
たいする統合された観点なのです。人間として、人は哲学を必要とする事実
に選択の余地はないのです。
あなたに残された唯一の選択は次のものです。自分の哲学を、意識的に、理
性的に、規律ある思考プロセスと綿密な論理的熟慮に基づいてなすのか、そ
れとも、正当性もない結論や、まちがった一般化、はっきりとしない矛盾の
かずかず、未消化のスローガン、特定できない願望、疑いと恐れ、偶発的に
はき出されたゴミの山を自分の無意識に作るにまかせておくのかといった選
択です。しかしそれらゴミの山は無意識の作用によってある種の雑種の哲学
として一つの確かな重さを持ったものとして融合されています。これが自己
懐疑= self-doubt です。あなたの頭脳の翼が育つべきところにおける足かせ
です。
あなたは、多くの人と同様に、このように言うかもしれない。常に抽象的
な原理にのっとって行動するのは容易なことではない。。と。たしかにそれは
容易ではありません。しかし、それがなんであるかを知らないで行動しなけ
ればならないとすれば、それはどれだけ、一層大変なことでしょう。
無意識とは、コンピューターのようなものです。人間が作り上げることの
できるどんなコンピューターよりも複雑なコンピュータです。その主な機能
は概念(idea)を統合することです。だれが、それをプログラムしたのでしょ
うか?それは、意識が(conscious mind)が行っているのです。仮にあなた
がなんの確固たる確信にたどりついていないとしても、あなたの無意識は偶
然にプログラムされているのです。そしてそれは、自分自身を、あなたが受
け入れた自覚すらない観念の力に導くのです。
しかし、いずれにせよ、あなたのコンピュータは毎日毎時間そのプリント
アウトを出しつづけるのです。情緒(emotions)の形で出力します。感情と
はコンピュータの電光で、あなたの価値観に従って計算された、自分のまわ
りにあるものへの評価です。もし、あなたが自分のコンピュータを意識的な
思考によってプログラムするならば、自分の価値や感情の本質を知ることが
できるでしょうが、もし、そうしなければ、それらが何であるかを知ること
は出来ないのです。
多くの人は、特に今日においては、人間は論理や理屈によってだけでは生
きるのではないと言います。つまり、自分の中には熟考すべき情緒的な要素
(the emotional element)があるのだと。そしてそれゆえ、それら情緒の導
きに依存するのです。丁度、私の話の中の宇宙飛行士がそうであったように。
話の中の宇宙飛行士を笑っていた人がまさにその同じことをしているので
す。彼の無意識をプログラムする究極のものは、哲学なのです。情緒主義者
(emotionalists)によると、哲学という学問は、彼らの感覚(feelings)とい
う靄のかかった神秘なものに影響を与えることも、それがなんであるのかを
見抜くこともできないのだといいます.
コンピュータのアウトプットの品質は、そのインプットの品質によって決ま
ります。もし、自分の無意識が偶然にプログラムされたものだとしたら、その
アウトプットはそのような性質を持つことでしょう。Gigo というコンピュー
タオペレータの使う言葉を聞いたことがあると思います。これは、”Garbage
in, garbage out.”という意味で、ゴミをいれたらゴミがアウトプットされると
いう意味です。同じ公式が人間の思考と情緒の関係についても適用できます。
情緒によって動かされている人間は、読解のできないプリントアウトをだ
すコンピュータによって操作されている人間のようなものです。彼は、そのプ
ログラムが正しいのか間違っているのかも分かりません。それが自分を成功
に導くのか、破滅に導くものなのかもわかりません。それが彼の目的に叶っ
ているものなのか、それとも邪悪な知ることの出来ない力なのかもわからな
いのです。彼は、二つの面で盲目です。一つは自分自身の周りにある世界に対
して盲目であり、もうひとつは自分の内的な世界に対して盲目です。現実を
把握することもできず、もしくは彼自身の動機も分かりません。そして、彼
はその両方に対して慢性的な恐怖を覚えているのです。情緒は認識の道具に
はなりません。哲学に興味を持たない人間が哲学を最も切実に必要としてい
るのです。彼らは、ほとんど救いようがないほどに哲学の力を求めているの
です。
哲学に興味を持たない人間は、その行動原理を自分のまわりの文化的な雰
囲気の中で吸収します。学校や大学や本、雑誌、新聞、映画、テレビといった
ものからです。このような文化の色合いは、だれが設定したものなのでしょ
うか?手で数えられるほどのごく少数の人達、哲学者達によってです。彼ら以
外の人間は、彼らのリードに付き従うのです。それが確信があってのものか、
怠慢によるものなのかはあるとしても。この200 年の間、イマニュエルカン
トの影響のもとで、哲学の主流は、一つのゴールに向かってきました。それ
は、人間の知性の破壊です。また、人間の自らの理性の力に対する自信への
破壊です。今日、我々はその潮流のクライマックスを見ているのです。
人間が理性を捨て去ったとき、情緒は自分らを導くものでもなく、またど
んな情緒も人を救わないことを人々は理解するのです。今日、若者の間にお
ける麻薬中毒の広まりは知的なファッションとまでなりました。これは、認
識の手段を奪われた人間、現実つまり存在を扱えないことの恐怖から逃避し
ようとする人間の耐え難い内的な状態を見せつけています。このような若者
には、派閥やギャングのような特定の集団に属そうとする熱狂的な欲望を観
察してみることができます。彼らの殆どは哲学をきいたこともないでしょう。
しかし、彼らは自分からはあえて尋ねようとはしない問いへの、なにがしか
の根本的な答えを必要としていることに感づいているのです。つまり、彼ら
はどうやって生きていくべきかを、その生物が自分に教えてくれることを期
待しているのです。彼らは、いつでも魔法使いの医者や教祖や独裁者によっ
て、支配されることでしょう。人間にとって最も危険なことは、倫理的な自
立性を他人に明け渡してしまうことです。私の話の中に出てきた宇宙飛行士
のように。彼は、その生物が人間であるかどうかも知りませんでした。その
生物は二本足で歩いてはいたのですが。
ここで、あなたはこう質問するかもしれません。「もし、哲学がそのように
邪悪なものなら、なぜ人はそれを学ぶ必要があるのですか?特になぜあきら
かに間違っていて、なんの意味もない、おまけに実際の生活になんの関係も
ないような哲学の理論を学ぶ必要があるのでしょう?私の答えはこうです。そ
れは、自己防衛と、真実、正義、自由、また、あなたが過去に持っていた、も
しくは今持っているかもしれない全ての価値を防衛するためであると。あら
ゆる哲学が邪悪なのではありません。しかし、あまりに多くの哲学は害悪の
あるものです。特に近代史における哲学はそうです。一方で、あらゆる文明
的達成、科学、技術、進化、自由といったものののルーツ、つまり我々が今
日享受しているあらゆる価値のルーツにおいて、(それは、このアメリカとい
う国の誕生そのものも含むのですが、)たった一人の人間による功績を見いだ
すことができます。それは、2000 年以上昔の哲学者、アリストテレスです。
もし、あなたが、幾人かの哲学者の実質的に知的でない理論を読んで退屈
を覚えるのであれば、私は貴方に深く共感します。しかし、こんなくだらな
いと分かっている本を何故読まなきゃならないんだ、と言って、その本を放っ
てしまうとしたら、それは間違いです。それはナンセンスな本です、しかし
それがナンセンスであることは彼ら哲学者の全ての結論、全ての罪深いキャッ
チフレーズを受け入れないかぎりはそのことを知らないのです。そして、彼
らの間違いを論破することができない限りは。 こういった馬鹿げた哲学が、
生か死かといった人間存在の最も重大な問題を扱っているのです。すべての
意味のある哲学理論の根っこには、ある合理的な論点があります。それは人
間の意識に確かな必要性があるという点です。この点を、ある理論において
は、明確化しようと奮闘し、他のある理論においては、それをわからせまい
として、わざと分かり難くしようと奮闘します。哲学者の間におけるバトル
は、人の頭脳に対するバトルなのです。もし、あなたが彼らの理論を理解し
ないのであれば、その哲学の中でも最悪のものによって、あなたは傷つけら
れることになるのです。
哲学を学ぶ最善の方法は、探偵小説を読むようにそれを読むことです。す
べての足跡、手がかり、暗示をなぞるのです。だれが殺人者で誰がヒーロー
なのかを見つけるために。発見するために必要な基準は、次の二つの問いに
あります。何故?どうして?、と。もし与えられた教義が真実であるように
思えるなら、それは何故なのか?と問うのです。もし、もう一つの教義が間
違っているように思えるのなら、それは何故なのか?またどうしてそれは脇
にのけられるのか?と問うことです。その答えはすぐには出てこないでしょ
う。しかし、そのことによってあなたは計り知れないほどの特徴を獲得する
ことができるようになるのです。それは、本質的なものに関して考えるとい
う能力です。
人間は、自動的にはなにも与えられません。知識も、自己確信も、内なる
静謐さも、自分自身の頭脳を正しく使う方法も、自動的に与えられるわけで
はないのです。自分が必要とするものも、自分が欲するものも、自らによって
発見され、学習され、獲得されなくてはならないのです。これは自分の体の
正しい姿勢といったものですらもです。この文脈において、私は自分がいつ
もWestPoint の卒業生の姿勢に敬服しているということを言いたいと思いま
す。その姿勢は、誇りを持った男の姿勢であり、自身の体に対するきびしく訓
練された管理能力がある男の姿勢です。ところで、哲学的な訓練というのは、
人間に正しい知的な姿勢というのを与えます。自分の頭脳に対する、誇りの
ある、きびしく訓練された管理能力です。あなた方の専門において、つまり
軍事学において、敵の軍隊や戦略、戦法を熟知しておくこと、またそれに対
処する方法を準備しておくことの重要性はよく御存知ですね。哲学において
も、同じ事がいえます。敵のアイデアを理解しなくてはならないですし、そ
れを論破できるように準備する必要があります。敵の基本的な議論を知って
おけば、かれらを吹き飛ばすことができるのです。実際の戦争において、あ
なたは自分の部下を地雷原に送るようなことはしないでしょう。地雷がどこ
にあるのかを見つける努力をするでしょう。さて、カントの哲学体系は、哲
学の歴史上最大にして最も込み入った地雷原です。しかし、それは穴だらけ
なので、一度その偽装を見破れば、なんの問題もなくその信管をはずし、安
全に前に進むことができるのです。そして、一度その信管を外してしまえば、
カント主義者の子分連中や、その哲学的な軍曹、現代の傭兵連中は、連鎖反
応的に倒れていくでしょう。
あなたがた、アメリカ陸軍の将来の指導者達が、今日、哲学的に武装しな
ければならないのには特別な訳があります。あなたがたは、カント主義者ー
ヘーゲル主義者ー集産主義のエスタブリッシュメントから特別な攻撃をしか
けられるターゲットになっているからです。かれらは今のところ我々の文化的
体制を支配しています。あなたがたは、この地球上に残された半分は自由な
国の軍隊ですが、しかしながら、あなた方は帝国主義の手先だと非難を受け
ています。そして帝国主義とは、アメリカの外交政策に対して与えられた言
葉です。しかしアメリカは、今まで一度たりとも他国に対し軍事的な征服を
したことのない国であり、また二つの世界大戦によって、なんの利益も受け
ていない国なのです。この二つの世界大戦も、アメリカが始めたものではあ
りませんでした。しかし、アメリカはこれに参戦し、そして勝利を収めたの
です。(それは、ついでにいっておけば、ばかばかしいほどに寛大な政策だっ
たのです。このことは同盟国と昔の敵国を助けながら、自国の力を消耗させ
ることになったのです。)誰かが、産軍複合体がこの国の全ての問題の原因だ
と非難しました。血に飢えた大学のギャングどもがR.O.T.C. units を、大学
から廃止する要求を叫んでいます。我々の国防費が攻撃され、非難され、予
算を削減されているのです。それも、エコロジカルなバラ園や、スラム街の
住人の美容教室に対して財政上の優遇措置を与えるべきだと主張している連
中によってです。
あなた方の中には、このような社会運動によって、当惑し、困惑してしま
う人もいるかもしれません。自分が一体どのような間違いを起こしてこのよ
うな事態を引き起こしたのだろうかと。もし、そうならば、あなた方には、
敵の性質を知る緊急な必要性があります。あなた方は、攻撃を受けたのです。
それもあなたの犯した間違いや、あなたがたの傷に対してではありません。
あなた方の美徳に対する攻撃を受けているのです。あなた方は、非難をされ
ています。その弱さに対する非難ではなく、あなた方の強さと能力が非難さ
れているのです。あなた方は、合衆国の守護者であることによって、ペナル
ティーを課せられているのです。これと同じような論点で、より低い次元で
は、警察力に対しても同様のキャンペーンがはられています。連中は、この
国を破壊する方法を模索しており、この国に武力放棄させる方法を模索して
いるのです。知的にも、物理的にも。しかし、これは単なる政治課題ではな
いのです。政治は原因ではありません。政治は哲学的な概念の最終的な結果
なのです。
これは、共産主義者の陰謀ではありません。しかし、蛆虫が自分ではつく
りだすことのできない事故や災害から利益を得ているように、共産主義者は
その陰謀の中に入っているのかもしれませんが。その破壊者の動機は共産主
義に対する愛からではありません。アメリカに対する憎しみからです。なぜ、
それは憎しみからなのか?なぜなら、アメリカという国はカント主義者の世界
に対する、生きた反証(the living refutation )となっているからなのです。
今日における、弱者、傷ついたもの、苦しんでいる人、罪人に対する感傷
的な関心というのは、カント主義者の深い憎しみのカモフラージュなのです。
それは、無心、強さ、有能さ、成功、徳、自己確信、幸福といったものへの
カント主義者の深い憎しみを隠すものです。人間の頭脳を破壊するために生
まれた哲学は、必然的に人間への憎しみ、人間の人生への憎しみ、人間的価
値全てに対する憎しみの哲学なのです。善人が善人であることに対する憎し
みであり、これが20 世紀における極印なのです。これが、あなたがたが直面
している敵なのです。このような戦いには、特別な武器が必要です。あなた
方は自分の大義にたいする深い理解をもって戦わなければなりません。自分
自身にたいする完璧な確信がなければなりません。またその両者に対する倫
理的な正しさを完全に確信していなければならないのです。哲学だけが、そ
れらの武器をあなたに提供できるのです。
今晩、私が自分に課したことは、あなた方に私の哲学を売りつけることで
はありませんそうではなく、そのようなあなたがたの武器となるような哲学
です。とはいえ、私は今までの全ての言葉で暗黙的に自分の哲学について話
をしてきました。我々の誰もが、また、どのような政治家であっても自分の哲
学的な前提からは逃れられないのですから。この件で、何が私の利己的な利
益なのでしょう?もし、あなたが哲学の重要性を理解し、それを批判的に検証
する作業をするのであれば、あなたが受け入れるであろう哲学は私の哲学だ
と考えるだけの自信が私にはあるのです。形式的には私はそれをObjectivism
と呼んでいます。しかし非公式には、私はそれを地球上に生きるものの哲学
と呼んでいます。私の書いた本を読めばその哲学が明白な形で提出されてい
ることが分かるでしょう。特に「Atlas  Shrugged」という本において。
結論になりますが、これからは個人的な言葉で話をさせてください。今晩
は、私にとって非常に大きな意味のあるものでした。私はあなた方に講演する
機会を与えられた名誉を、深く誇りに思います。愛国主義者の陳腐な言葉と
してでなく、必要とされる形而上学、認識論、政治的、美学的なルーツを深く
理解することで、合衆国は、最も偉大な、最も高貴な、そしてその建国の原理
においても世界の歴史において唯一の道徳的な国(the only moral country)
だと言えます。
WestPoint という名前を聞くとき、私の頭の中で、一種の静かな輝きのよ
うなものを感じます。なぜなら、あなた方は、この国本来の建国の原理の精神
を持っているからであり、それを体言しているシンボルだからです。それら
建国の原理には矛盾や省略がありました。そしてそれら矛盾はあなた方の中
にもあるかもしれません。しかし、私はその本質的な部分について話をして
いるのです。あなたの人生においても、今まであなたの高邁な基準に叶わな
い人達がいたかもしれません。どのような組織にも、そのような人達はいる
のです。どのような組織も、どのような社会システムもその構成員の完全性
を保障するものではないからです。これは、ただ個人の自由意思によってい
るのです。私はあなた自身の基準について話をしています。アメリカ誕生の
時点において特徴的であった3つの資質を覚えているでしょう。しかし、実際
はそれは現在では存在しません。まじめさ、献身、名誉の感覚( earnestness
 .dedication.a sense of honor)の3つです。名誉とは自尊心であり、その
行動によって目に見えるものとなります。あなた方は、この国の防衛の為に
命を賭けるリスクを選択しました。私は、あなた方に対し、自己犠牲的な奉
仕に打ち込んでいるといった侮辱などしません。自己犠牲的な奉仕とは、私
の倫理観からすれば、美徳ではありません。私の倫理観では、自分の国を守
るということは、どのような敵によっても征服され奴隷となって生きること
を潔しとしないということです。その敵とは、外国であることもあれば、自
国であることもあります。これは、巨大な美徳なのです。あなた方の中には
そのことを自覚していない人もいるかもしれません。私はあなた方にそのこ
とに気づいて欲しいのです。
自由の国の軍隊は大きな責任を持っています。軍事力を行使する権利、し
かし強制や、非情な征服の手段としてではなく(他の国々がその歴史におい
てそうしてきたように)、ただ自由な国の自己防衛のための手段としてそれを
用いることは、つまり、人間の個人的な権利を守ることを意味します。先に
軍事力を行使した国に対する報復としてのみ、その力を行使する原則は、正
義に従う力であるという原則です。もっとも高位にある誠実さと、名誉の感
覚が、このような仕事に対し要求されるものです。世界中、アメリカ以外の
どの軍隊もこれを達成していません。あなた方は、それを持っているのです。
WestPoint は、連綿とつづく数々の英雄達を生んできました。知られてい
ない人も、知られている人もいます。あなた方、今年の卒業生は、それを伝
えていく栄光ある伝統を持っています。そのことに私は深く敬服します。そ
れが伝統だからではなく、それが栄光あるものだからです。私は、地球上で
最悪の独裁制の悪の国から来たので、特にそのことの意味がよく評価できる
のです。偉大なものと崇高な価値を、あなた方は守っているのだということ
を。ですから、私の名において、また私と同様の考えをする多くの人々の名
において、WestPoint の、過去、現在、未来の全ての人達に対し、私はこう
言いたい。 「ありがとう。」

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事業拡大ではなく確実な人生の痕跡を

仕事をしていると当然のことであるが
事業を拡大し
取引を増やし
従業員も増やし
分業制にして
といったおきまりのコースをたどり
その後は
内輪もめ、独立分派、内部不正、内部告発、人間不信、自殺、怨恨、長く続く裁判、乗っ取り、銀行の豹変、
といったこれもおきまりのコースをたどり
企業のひとまとまりの人生を終えることになる

考えてみると
最初は「実業」だったものが
次第に人との戦いになり、帳簿とのにらめっこになり、だんだん抽象的になる

はじめはカメラなりシャツなりの実物を手にしていたはずである
それが次第に数字だけを扱うようになる
実物が忘れられて抽象化する

抽象化の果てに残るものが何であるかと考えると実際虚しい
実物ならば例えばカメラを年代ごとに並べることも出来る
そのほうがいい人生だなと最近は思える

白菜でもボールペンでもいいから実物を扱おうよ

抽象的になってくれば
儲けも桁違いに多くなるけれど
それは帳簿の中のことであって
「実感」はやはり、実物が与えてくれるものではないだろうか

抽象化すれば疲れがない
人間を相手にしてコンピュータを相手にしている分には
いくらでも仕事が出来てしまう
それでは際限がない

それよりも実物を相手にしている方が
現実に筋肉の疲れもあり心地よい眠りもあり
いい人生になるのではないかと思う

最近思うけれど
やはりこれから先我々の子孫は何を食べていくのだろうか

輸入した食品を食べるのだろうか
防腐剤や農薬のしみこんだもの
我々はもう年よりだからいいとしても
若い人はそれではかわいそうだとおもうのだ

おいしいものを食べるには
おいしいものが育つ環境がなければならないと思う
おいしい魚が育つ海が必要だし
おいしい野菜が育つ畑が必要だと思う
それが実物なのだと思う

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自己肯定感 アサーション

患者さんは自分を肯定できないつらさを抱えていることも多い
うつ病やパニック障害になると自信がなくなるものだ

自己愛の人たちは理由もなく自分を肯定しているのだが
その反対ということになる

その場合に
どんな風にして自己肯定できるかを伝えていくことになる

生活の中で目標設定する
達成できたら褒める
達成できなくてもチャレンジしたことを褒める
チャレンジもできなくてもとにかく次に外来に通院したことを褒める
来週はやるつもりだという気持ちを褒める
薬をきちんと飲んだことを褒める
治療の意欲がある、向上心があると褒める

こんな場合には
自己愛の人たちの途方もない自己肯定感覚を聞いていることが役に立つ

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パーソナリティ構造と防衛機制とうつ病

1.パーソナリティ構造
精神病性
境界性
自己愛性
神経症性

2.防衛機制
精神病性……現実を捻じ曲げる……被害的受け取り
中間……分裂,splitting
神経症性……自分の気持ちを捻じ曲げる……自責 


3.現実検討能力
なし
部分的にあり
部分的になし
あり

4.人格の「発達」は上位のものがいいとは限らない

「発達」という言葉は「成熟」とつながり、
より上位のものがより価値があるとの印象を与える。
しかしそうでもない。
所詮は環境への適応の仕方に過ぎない。
つらい環境におかれた時に、
あいつが悪いというか、
俺が悪いというか、
どちらが楽かということで、
後々まで考えた総合的な判断としては俺が悪いと言っている人間の方が
得をするだろうという程度のことである。

たとえば走り高飛びで高い地点を跳べる人は低い地点を当然飛べる。
その点では上位のものに価値がある。
人格の発達はそのようなものではない。

たとえば小学4年生の女子がその人の人生の中で最高の人格だったりする。
最高というのは何かといえば難しいが
簡単に言えば最高の適応という意味だ。

別の例を挙げると、
洞窟で暮らす人の身長の価値を考えるとき、
身長が高すぎても無駄で邪魔だ。
短すぎてもやはり不足である。
大体考えて、手を伸ばして天井に届く程度の身長がもっとも
適応的である。

バレーボール選手という種族と、
競馬騎手という種族では
どのような体格が適応であるかが違うのである

こう考えれば、人格も環境との適応の問題だということの意味内容が分かるだろう。

イギリス絹織物を追撃するときの日本人
アメリカ自動車オートメーション工場を追撃するときの日本人
グローバル金融資本主義を追撃する日本人

環境によってそれぞれに適した人間が違うだろうと想像できる。
たとえば
几帳面な女性
筋肉の豊かな強迫性格の男性
攻撃的で危険に鈍感で貪欲な人格

5.適した人格構造は自己愛性である
現代に生きる人間は
消費者資本主義
金融資本主義
情報化社会
を生きているのであり、
昔の人、たとえば松下さんも本田さんも
ネット証券会社でデイトレードをして儲けた金で遊び暮らす消費型人間を
批判するだろうが
そして私も昔の人間だからそんな人生はいやだと思うが
しかしそれも一つの生き方ではあり
むしろ現代社会にうまく適応した生き方であることは認めざるを得ない。

溢れる情報を操る消費者というものは
自己愛的なレベルの人間が一番適していると思う。

現代という条件はたとえば洞窟に相当する。
その条件の下での生きやすい人格は自己愛性の性格構造である。

6.うつ病になったとき
そんなことを前提として、うつ病になったときどうなるのかを考える。
ここで「うつ病」とは慢性持続的なストレスにさらされて疲れきったときどうなるかという意味である。
だから世間一般でいう「うつ病」の意味から見れば特殊である。

いずれにしてもそのような疲弊状態に陥ったとき、

精神病性
境界性
自己愛性
神経症性

のそれぞれの性格をもった人は

精神病性うつ病
抑うつ神経症型うつ病
ディスチミア親和型うつ病
メランコリー型うつ病

となる

現代のメインは、少なくとも、新橋のメインは、
自己愛性人格を抱えた人間が、
かなりの程度うまく適応してサラリーマンの街・新橋に職を得たが
慢性持続性のストレスにさらされて疲労困憊し
ディスチミア親和型うつ病になって
受診する、というタイプである。

7.日本社会と西欧社会の違い
何と言ってもキリスト教という一種の奇妙な統合失調症とうつ病の混合物が
あるかないかでまったく違う風景になっている。
キリスト教の聖書を見ると、
イエスがいろいろと行為していることは
まったく統合失調症患者の語る妄想のようなことで、
一読して、統合失調症系の人が書いたものかと思う。
奇跡とか告知とか。
しかし二読して分かることは、
あまりにも自責とか後悔とかが多いことで、
人格構造としては多分にメランコリー型うつ病的であることがわかる。
このような奇妙な混合物を大切にしている奇妙な文化が西欧というものであって、
日本文化はそれと異なっていてよかったと思う点もある。
そして西欧社会はダーウィニズムの影響もあり、
ともすれば直線的な発達の観念を持ち出しやすい。
マルクスなどはその一例と思うが、
マルクスが現代にまで生きて
情報化社会を体験し、その中での適応的な人格傾向を見たとき、
直線的な発展の図式は引っ込めるのではないだろうか。
日本は日本でおかしな酔っ払いみたいな種族が威張っている変な社会だと思うので、
キリスト教とどうかといえば、引き分け程度なのだろう。

8.統合失調症の軽症化
厳しい現実に直面すると人間はいくつかの方法でその場をしのごうとする

精神病性……現実を捻じ曲げる……被害的受け取り
中間……分裂,splitting
神経症性……自分の気持ちを捻じ曲げる……自責 
現実的対応……現実を実際に変える

など

無論誰でも現実的対応をとりたいのだが
みんながそうできるはずもなく
仕方なく神経症的対応を採用し、
それでも現実が厳しいときは
精神病性対応を採用する。

現実は厳しくないんだと妄想して過ごそうというのだから
あるいはこれは失敗ではなくて策謀で誰かが仕組んだものだと考えれば
一応悪者は外部に割り当てることができるのだ

こうしてみれば
現実が厳しすぎない範囲であれば
境界性、自己愛性、神経症性の対応で事足りるわけである

厳しすぎない現実といえば
現代がまさにそうではないか

死は病院に隠蔽され
老は医学により緩和され
病気はますます改善され
貧困はあるものの生きていくことは出来る
苦しくなったら役所に行って騒げば何とかしてくれる
そんな楽園はかつてなかった
いつも人間はやっとのことで生き延びてきた
飢えと病気がいつでも隣にいた
現代の楽々世界ではそこまでの厳しさはない
ほどほどでいいと思えば実際ほどほどに生きていかれる世の中だ

そうなれば
精神病性反応が起こってしまうことは少なくなるはずで
統合失調症の軽症化は説明できそうな気がする

一方で、現実的な対応をする大人が少なくなって
自己愛的な人間が増えたのも説明できそうだ
衣食住性の世界ではもうある程度満たされていて特に努力することもない
あとは内的価値の問題で
自己愛とか自己実現の問題が残っている
それに対しては
自己愛性人格で対処しておけばしばらくは
安楽である
先延ばしなのであるが
現代のモラトリアムは無期限である
実際は期限がないのだ
父母の財産や年金に寄生していれば生きていけるのだ
あとはネットに向かって自閉していれば良い

厳しく生存を問われることはなくなった
その分、精神病性の反応は減少した

現実的対応はお金を払えば実現可能になった
Do it yourself は趣味になってしまった
従って現実的対応の局面も減少した

境界性
自己愛性
神経症性……現代ではパニック性といってもいいと思う。不安の病理が根本にある。

このあたりが残り、
発達の悪いものは境界性、
発達のいいほうは自己愛性、
身体かする傾向も含めて不安が主体のものはパニック系とまとめることができる。

このそれぞれの性格構造を持った人間が
慢性持続性ストレスにさらされてうつ反応を起こす。
そのような時代と見える。



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嫉妬は人を湿らせる

嫉妬は人を湿らせる

一段低い人間になる
やめなさい



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リバタリアンの倫理

採録

3、リバタリアンの倫理

 

リバタリアンは身勝手な人たちなのか?

 日本では「自由」を唱道すると、つまりそれは「放縦」にすぎないのではないかなどと批判されることが普通です。実際、私の小学校時代を思い出しても、「自由と放縦は倫理的に異なったものである」というような、社会的規制を正当化する類のしたり顔の訓話が、道徳の教科書によく載っていたものです。

 たしかに、大杉栄に代表されるような、政府からの自由を説いたかつてのアナーキストたちの多くは、私生活においても既存の道徳律をほとんど否定して生きていたようです。そういう意味では、倫理的に非難されるような「放縦」、「自分勝手」な人たちであったともいえるかもしれません。

 しかし、現代のリバタリアンの説く自由は、とりたてて既存の道徳律からの自由を意味しているわけではありません。それは実際、いかなる道徳や宗教的な信条からの自由を意味するわけでもありません。それはただ、政府の強制力を使った、他者の精神的支配からの自由なのです。

 この「政府を使う他者からの自由」という概念を、もっと具体的に考えてみましょう。

 私は、個人的にはひじょうに極端な無神論者です。現存する既存の宗教にはそれなりの理解はしており、尊重しているつもりですが、その具体的な行動規範にしたがう気はありません。つまりキリスト教の聖書の説く道徳律に直接的にしたがう気はありませんし、イスラームのコーランの教えにしたがう気もないのです。極端な無神論というからには、正直なところ、七五三や葬式など、日本で常識的に通常おこなわれている、仏教様式や神道様式の儀式に対しても否定せざるをえないでしょう。

 とはいえ、私もひじょうに月並みな世俗的な道徳感情は当然に持っています。たとえば、だますなかれ、盗むなかれ、殺すなかれ、などなどといった、あらゆる地球上の人間社会に基本的・普遍的な道徳律です。そしてまた余談としては、私は心情的にはベジタリアニズムに共感を感じています。ベジタリアンは、「苦痛」を感じる動物を殺して食べることは倫理的に望ましくない、と考える人たちだといってもいいでしょう。

 さて、リバタリアンである私は、自分の持つ道徳的準則やベジタリアニズムを、議会内での多数派工作を通じて議決させ、政府の強制権力を使って他人に強いるべきなのでしょうか。そしてまた私の信じる科学と合理主義、そしてすべての宗教に対する価値的な否定とを、政治的に人びとに押し付けることを考えるべきなのでしょうか。

 答えは、もうおわかりでしょう。

 私が信じる道徳や倫理観を社会に広げたいと思ったとしても、それは政府を通じた「強制」によって人びとに唱道されるべきものではなく、言論や映像などの表現によって、私の価値観に中立的な人たちを、あるいは反感を持つ人たちをも「説得」してゆくべきものなのです。

 もちろん後述するように、ある社会におけるすべての価値観の対立が対話や説得などによって氷解するわけではないと思います。その場合にも、政府による強制力を使って無理やり一方の価値を他方に押し付けるのは、自由な社会でおこなわれるべきではありません。

 豊かで多様な価値観の存在は、それぞれが次の世代への遺産として並存的に継承されるべきです。そうでなければ、新たなる時代にふさわしい思想など、どこからも生まれてくるはずがないではありませんか。

 これがリバタリアンのいう自由なのであり、それは通常の日本語でいうところの、「勝手気まま」という意味の自由とはちがいます。むしろその反対であり、相手の自由を尊重しないというありがちな政治的な決着こそが、自分の意見や都合を一方的に他者に押し付けるという意味で、自分勝手だとして糾弾されるべきなのです。

 さてそれでは話をもっと具体的にして、アメリカにもっとも数多く存在する実際のリバタリアンたちはどのような私生活上の主張をしているのでしょうか。アメリカの保守的自由主義のシンクタンクとして有名なケイトー・インスティテュート(Cato Institute)や、リーズン財団の発行するリーズン・マガジンなどにおける典型的な見解をみてみましょう。

 それらは、ほとんどが保守的、かつ常識的な道徳律であるといえるものです。いわく、売買春は倫理的にのぞましくない、離婚は子どもに悪影響を与えるからのぞましくない、未婚の母は子どもの福祉の観点からみてのぞましくない、地域コミュニティ活動は積極的に参加するべきだ、青少年の健全な育成のためには大人が率先して模範を示すべきだ、ギャンブルなどの賭け事は基本的にはのぞましくない、などなど。

 まったく一見すると保守主義的主張のオンパレードです。

 くりかえしになりますが、彼らのような多くのリバタリアンとその他の多くのクニガキチントの保守主義者をわけるのは、これらの本来個人的な道徳律を政府を通じた強制力を使って、それを価値だと思わない人にまで押し付けるのかどうかという点なのです。

 いうまでもなく、私はリバタリアンのほうが、政府による押し付けを当然視するほとんどの人たちよりも、はるかに道徳的に優れているのだと思っています。先に述べたような保守的な道徳律のすべてを受け入れる必要などまったくありません。自分の意見が正しいと思うのなら、人に政府を使って強制するべきではなく、表現や行動で説得すべきなのです。

 私は、自分の生活の許す範囲のきわめて小額ではありますが、わりあい頻繁に盲導犬協会に寄付をしています。それは至極単純な理由からで、犬が人間を助けて生きるというような情景を想像すると、なにかすばらしく友愛に満ちたもののような気がするからです。そして、かりにこのような小さな募金のような慈善行為が尊いといえるなら、それは無理やりの強制ではなく、あくまでも「自発的」であるからだと思います。

 これとは別に、私は国家に税金をとられ、その一部は別の障害者福祉活動の資金となっています。けれども、これに関しては、私は道徳的にみて、まったく優れた行為をしていないと思います。利他行動がすばらしいのは、あくまでそれが自発的になされたときにかぎります。それが強制によってなされたのであれば、それは単に国家の奴隷として他者の命令に従っただけのことです。そこには人間の高尚な精神性など、まったく見出すことができません。

 リバタリアンは決して身勝手な人たちではありません。むしろ、現実はその反対です。リバタリアンこそが自己の価値観に従って行動しながらも、その相対性を認めているのです。他人の独立した価値観にも敬意を払いつつ、同時に説得を試みるという、真に市民的で健全な精神の持ち主たちだといえるのです。

 

慈善活動は自発的に

 リバタリアンは自由の概念を重視しますが、それでは彼らは、現在の社会国家がおこなっているような、福祉的な慈善活動はすべて消滅してしまうべきだといっているのでしょうか。この答えは、ノージックやロスバードが議論したように、「強制」という概念の中にあります。

 国家には、その集団的な意思に従わないものに対して、物理的な強制力を持って従わせるという正当性が与えられています。国家が福祉政策をおこなうとき、それは税金の徴収という強制力を伴った国家行為によって裏付けられているのです。

 たとえば私は個人的には、エイズの感染予防に関する研究には、税金を払いたくありません。血友病の場合などの特殊な場合を除いて、エイズは結核などのように空気感染することはないからです。エイズが本当に怖いのならば、エイズの恐れがあるような人物といたずらに性交渉を持たないという、世間ではすでに常識的な知識となっている別行動をとる選択肢が存在するのです。

 しかし、私の税金の一部は、確かに国立研究所や科学技術研究費といった国家予算となって、エイズの予防やウィルスの研究となっています。さらには、私の社会保険費用はエイズの治療費に支払われているのが現実です。そして私が税金を支払わないとするなら、国家は私を投獄することも可能なのです。

 ところで、ここで念を押しておきたいことがあります。ここでいう強制とは実際の物理力を行使することが許されているような直接的なものです。それは、ミッシェル・フーコーなどに代表されるような社会学者の考える社会的な「権力」、あるいは社会的な暗黙の「強制」というものではありません。そもそも社会的な権力や強制などという概念は、言葉の使い方によってそうもいえるし、あるいはそうはいえないような非直接的なものにすぎないからです。

 実際、左翼的知識人の依存しがちな、このような強制概念は曖昧であるにとどまらず、危険でさえあります。なぜなら、それは国家の持つ本質的な物理的強制力を、自由な意思で帰属の有無を変更できるような、国家以外の集団の持つ心理的な圧力とを混同させてしまい、われわれに国家の果たすべき役割について考えることを困難にしてしまうからです。

 さて、現在の福祉国家のおこなっているような慈善的な活動は、そもそも強制力を使ってまで、嫌がる人から税金を徴収してなすべきことなのでしょうか。私にはそうは思えません。

 社会にホームレスが多すぎると考えるのなら、そう思う人が自らの責任と資源の拠出において、ホームレスの救済をおこなうべきです。現実的に考えても、やる気のあるNPO活動につとめる人たちのほうが、ホームレス対策を実行するために雇われたわけでもない市役所や県庁の公務員よりも、はるかに人間的で望ましい態度でホームレスの問題に取り組んでいると思います。

 それでは、十分な予算が足りないだろうと心から思う人は、それでは自分の収入のうち、いったいどれだけをホームレス対策に支払う気があるのかを自らに問うてみてください。有り体にいうならば、誰か金持ちの「他人」の金で政策を実行するべきだという高邁な思想を当然視する前に、自分の金をどれだけ支払う覚悟があるのかを三省してほしいのです。

 あるいは、その政策を実行するためにどれだけの労働を自らが提供する気があるのでしょうか。自分が働いて、自らが人様の役にたって手に入れた収入でもいいのです。あるいはもっと直接的に自らがボランティアとして働くことでもいいのです。

 現在の日本では、およそ社会的な慈善行為はすべて国家がおこなうべきものとの意識が強いようです。しかし、巷間よく言われることですが、私が若い日をすごしたアメリカでは、慈善事業や大学の創設など公益性の高い事業は、成功した実業家が自らの資産によっておこなうものだという考えが根強く存在します。

 ハーヴァード大学やスタンフォード大学、カーネギーメロン大学などは私立であり、これらの名門と呼ばれる私立大学の多くが富豪がつくったものです。ちなみにスタンフォード大学は19世紀カリフォルニアの鉄道王レランド・スタンフォードによって、カーネギーメロンは鉄鋼王アンドリュー・カーネギーによって設立されました。さて人類の英知により貢献しているのは、シリコンヴァレーの中心地にあるスタンフォード大学でしょうか、それとも日本政府の手になる東京大学なのでしょうか。

 

スタンフォード大学

 

 一部の人びとからマイクロソフト帝国などと揶揄されることの多いマイクロソフトですが、創始者ビル・ゲイツはその10兆円にも及ぶ個人資産のほとんどを、難病治療などの研究のために拠出することを表明しています。実際に2006年までに、すでに2千億円以上の資産を結核やマラリアなどその他の発展途上国の疾病予防のために寄付しているのです。

 ひるがえって日本が開国してから産業国家として花開くまで、いったい誰が莫大な個人資産によって人類の英知や福祉に貢献しようとしたのでしょうか。

 社会福祉のような本来的に道徳的な行為は、国家のような強制機関によってなされるべきではありません。それは純粋に個人的な人間の博愛や慈善、ボランティアによってなされるべきものです。日本のように豊かな国では、いかなる公共的な善であれ、それを大きな価値だと思うような人々が自らの意思で資金を提供し、そのような活動を自己人格の実現・陶冶だと考える個人によって主体的に実行されなければならないと思います。それでこそ、一流の精神を持つ人びとだ、地球市民だと胸を張っていえるのではないでしょうか。

 

日本人はお上頼みなのか?

 たしかに前述のように、自由を求めて祖国を離れた移民の国であるアメリカで、自主独立の風土が醸成されたのは自然なことだと思われます。しかし、私たち日本人はここで、はたと一つの大きな問題があることに気づきます。それは、日本人はあまりにも政府に依存的なメンタリティを持っている、つまり社会問題のすべてをお上に任せてしまうような国民性がある、という点です。

 日本は明治政府が誕生してから、140年にもわたって強固な中央集権が続いてきました。中央官僚は長い間、「知らしむべからず、依らしむべし」を合言葉に、民衆には真実を知らせずに政治を独占してきたのです。私を含めて大方の日本人が、日本人はアメリカ人と違って、結局はお上に頼るしかないのだ、と感じてしまうのも無理はないと思います。

 しかしここで、江戸時代の逸話を挙げてみましょう。

 天下分け目の関が原で勝利した後、徳川家が幕府を江戸に構えると、大阪は商都として発展してゆくことになります。とはいえ、幕府の政策は江戸の開発に主眼がおかれましたから、大阪に関しては、幕府から多くを期待することはできませんでした。実際、大阪には幕府が直轄する公儀橋があまりありませんでした。

 そこで大活躍したのが、淀屋などの大阪の豪商たちです。大阪には土佐堀川にかかる淀屋橋や長堀川の吉野家橋、東横堀川の葭屋橋(よしやばし)などの屋号のついた橋が多くあります。その名からわかるように、これらはすべて大阪の活発な商業活動に支えられた商人たちによって私費で架設されたものなのです。

 この意味で、大阪は政府である幕府ではなく、民間人たる商人たちが作った町だといえるでしょう。これは大阪人なら誰でも知っている事実です。大阪の町人たちが江戸幕府というお上に頼らず、自らの力で数多くの橋を架けていった心意気は、「浪速の八百八橋」や「水の都」という言葉にあらわれているのです。

 これらの莫大な私財を投じた公共事業の背景には、全国の米が集まってきた「天下の台所」であった大阪の米市場の生み出す潤沢な資金がありました。大阪は当時、世界でもっともすすんだ商品取引所でもあり、当時の世界では類を見ない米の先物市場までもが存在していました。

 1730年にはじまった堂島米会所での先物市場取引は、シカゴのマーカンタイルで商品の先物市場が開設される100年も前のことです。これはつまり、商業活動が真に自由化されていれば、日本人は決して西洋人に劣らないような社会的な革新性をも示せるという証左なのではないでしょうか。

 また同じように、大阪では数多くの私塾が開設され、全国から学生が集まってきていたことも忘れてはなりません。蘭学・医学者であった緒方洪庵による適塾、藩校のなかった大阪に商人たちがつくった漢学の懐徳堂、幕末に乱を起こしたことで有名な大塩平八郎による洗心洞塾などがありました。その後、たとえば適塾は大阪大学になりましたが、長崎遊学を終えた福沢諭吉もまた学んでいたほどの名門だったのです。

 いうまでもないことですが、こういった民間人による公共事業は、なにも大阪にかぎったことではありません。今も残る東京の玉川上水や、和歌山県御坊市の新池など、民間人が私財を投じた、あるいはイニシアティブをとった公共事業は、それこそ町の数だけあるといっていいでしょう。

 今ではあらゆることに関して政府がなくてはどうにもならないように感じる日本人ですが、大阪では、政府がやらないというような状況で、かえって民間人の主体性が発揮されて、政府の消極性を上回るものになったほどなのです。このような公共精神は今でも変わらないと思います。

 政府がやれば民間の2倍の資源を費やすという不効率なものになるだけでなく、その問題の対処もまた、当事者意識を欠いた非人間的なものになりがちです。日本人はお上に弱いなどと決め付けないで、民間部門、いや人さまのことをもっと信じるべきです。いまは政府がおこなっていることでも、政府が撤退したことには、はるかに効率的なNPOが出現するに違いないのです。

 またNPOとならんで、日本の企業も頼りになると思います。たとえば、トヨタなどは累積的な余剰資金が10兆円にもなるほどの世界的な優良企業です。非効率な国家が撤退すれば、かつての大阪の豪商とまではいかなくとも、NPOなどと協力して少なからぬ社会基盤を担う力があるのではないでしょうか。現に中部国際空港などは、トヨタ方式の経営が奏功して、大阪や成田に比べてはるかに効率的な運営をしているのです。

 

どんな団体に寄付をするべきか

 豊かな社会では、人間の自己実現の欲求は多様なものにならざるをえません。なかには私のように平和のうちに大きなこともできずに、大学で講義をしながら平凡に生きる人もいるでしょう。あるいはまた、国境なき医師団に参加するような献身的な博愛主義者もいるでしょう。

 このような現実を前提にして考えてみましょう。途上国の貧困や疾病の撲滅を目指すという慈善的な団体は、たいへんな数が存在します。日本国政府が公式におこなっているような大規模なODAから、ほとんど個人のレベルでおこなわれている草の根シニア・ボランティアまで、ほんとうに多種多少です。もしも、そういった団体に寄付をしたいとするなら、いったいどこにするべきなのでしょうか。

 答えは、比較的単純な法則の中にあります。それは人間は多様であり、すべての組織は時間が経つにつれて必然的に組織優先となっていくという二つの洞察です。

 まず貧困撲滅のために途上国へのODAに寄付する人がいたら、それはなんらかの国家的な慈善事業を期待して国庫に寄付をする奇特な人と同じだといえるでしょう。外務省が主管となっているODAが、いかに援助国の利益を優先し、途上国の実情を無視して非効率的におこなわれているのかについては、ここで今さらいうまでもないと思います。

 何につけても、目的がはっきりしていなくて、漠然と「貧困の撲滅」「社会のインフラ整備」などといっているところは、たいしたことができていないと思います。そのような漠然とした目標では、大きな目標をより詳細な目標へと落としこむ際にかならず、自己組織優先の資源配分がおこなわれることになるからです。

 同じ理由から、私は国連の文化機関であるユネスコなどには寄付すべきではないと思います。世界遺産がすばらしいのなら、個別の遺産を管理している団体に直接寄付するべきです。そのほうが、世界遺産に登録されていないが、個人的にすばらしい価値を持つと感じられる遺産や自然、あるいは、ユネスコの官僚がなかば恣意的に指定した遺産以外をも守ることができるからです。

 同じように、NHKが歳末助け合いと称しておこなっている、共同募金会があります。その目的としては、身体障害者や老人福祉の充実などをうたっていますが、実際には、ほとんど何をやっているのかわからない点で、私には寄付する価値があるとは到底思われません。

 私が個人的に寄付をするのは、つねに小さな単機能の慈善団体です。そういう団体では、外務省やユネスコのような高給で安定した役人生活を楽しむために勤めている人は、ほとんどいないだろうからです。かりにいたとしても少数なはずです。

 これにはたとえば、日本盲導犬協会や国境なき医師団などが典型的に果てはまるように思います。日本の障害者福祉や途上国医療支援などという、あまりにも漠然とした広すぎるカテゴリーを目標にしている政府は論外です。それでは、ほとんどの善意が中間に巣食う団体職員にむしりとられてしまうでしょう。

 私はこの著作の印税は、盲導犬教会や国境なき医師団に寄付したいと思っています。それでは、さらに考えてみましょう。国境なき医師団は、国際赤十字や国際赤新月と同じような活動をしているのに、なぜ私はこれらを区別をするべき必然性を感じるのでしょうか。

 その意味は、組織の結成以来の時間的な長さにあります。ある意味でかんがえれば、組織が長い間あるほど強固で安定した関係を途上国と築くことができるため、援助の効率もいいように思われます。そして、そういう側面も実際に存在すると思います。

 しかし、国際紛争時に危険が迫った場合に退去することを原則とする国際赤十字、戦前から華族の名誉職となってきた日本赤十字よりも、国境なき医師団のほうが、より緊急で重要な任務を遂行していると思います。また、国境なき医師団は、当事国である独裁国家などにおける、政治の実態についても告発することにしています。当然ながらそのような告発行為のためには、あらゆる国家から独立した、より大きな予算が必要なはずです。

 もちろん、国際赤十字は世界中で120年間にも及ぶすばらしい活動をしてきました。それは疑うことのできない事実だと思います。しかし、私がここでいっているのは、私の取るに足らない寄付金の使途の効率の問題なのです。私の資源はあまりにもちっぽけなものであり、有限です。だからこそ、より効率的に使ってほしいのです。

  つまり、私は個人の多様性をほかの人よりも重視しているのです。私が見るところでは、いかなる慈善団体においても、第1世代目はたしかに博愛精神の純粋な発露から組織を作っていることが多いと思います。しかし、その次の世代は創始者の子、甥や姪などの、とくにその団体の高尚な目的とはなんの関係のない人間が、ネポティズム(身内びいき)を主要な契機として組織に入ってくることになります。

 それが50年もたち、三代目になるころには当初の高邁な目的や設立者は、団体の理事室の額縁に筆や写真が残るだけです。組織の事実的な目的という意味ではお払い箱になり、誰からも見向きもされなくなります。従業員はみな、組織の維持と自分の分け前にのみ汲々とし始め、組織全体は非効率かつ、類似の団体を非難・迫害するような組織原理に支配された、グロテスクな存在となるのです。

 明治の元勲が明治政府の礎を築いたたとき、彼らには世界の一等国になる、そしてヨーロッパ列強の侵略に対抗する軍事力を構築するという、比較的に明確で重要な目的がありました。しかし140年が経った現在、いまの日本政府の官僚にそれを望むのはまったく不可能です。

 2005年から次々と明らかになった官僚の汚職事件の1つに、防衛施設庁の官製談合事件があります。防衛施設庁は、設立以来ほぼ一貫して、組織ぐるみで天下りポストをゼネコンその他の施工会社に要求して、見返りに施設工事の発注をしていたのです。このことをみていただきたいのです。組織が公益を担っているという名目のもとで、長期間存続したところほど腐敗はひどいと考えるべきなのではないでしょうか。

 まとめるなら、寄付は、目的を絞った事業におこなうべきであり、漠然と福祉や経済発展を考えているような大きな歴史のある団体におこなうべきでないということになります。このような特定目的の社会貢献のあり方の極限が、アメリカの富豪がおこなってきたような、慈善活動なのでしょう。

 それは特定目的のための組織を自分でつくり、人材をネポティズムではなく、組織の本来の目的にしたがって、外部からスカウトするような組織です。個人として目的に協賛してくれる人材に、それなりの経済的な支援をするということが大切なのだと思います。

 

個人の人格的独立とアイン・ランドの客観主義

 ここまでは「利他的であることは尊い」という、私たちの常識感覚にもなじみやすい主張に基づいて考えてきました。定義的にいって、利己的な行為は自分のことだけを考えたものであり、他の人間たち、あるいは社会を省みないという意味をもちます。そして一般的にいって利己主義は望ましいものではなく、利他主義は他人への共感をなす点で人間的で望ましいと考えられています。

 しかし、リバタリアニズムの中にはこれを是としない人たちがいます。

 1982年になくなったアイン・ランドが創始した社会哲学である「客観主義」では、人は利他的に生きるべきではないと考えます。人は一人一人、むしろ積極的・利己的に自らの目的を設定して生きることこそが第一義的な道徳律だというのです。

 やや風変わりともいえるこのような思想は、いったいどこから生まれたのでしょうか。

 アイン・ランドは社会主義革命前のロシアに生まれましたが、自由を求めて21歳でアメリカに亡命した女性です。ロシアは1917年の共産主義革命によって営業の自由が奪われ、人々は集産的な方法での計画経済の結果、職業選択の自由も、私有財産制度も失ってしまいました。これを嫌ってアメリカに亡命したランドは、移民の国アメリカに人間精神の自由を見出し、それをより純化させたのです。

 

アイン・ランド

 

 

 アメリカで脚本家、作家となり、1930年代から『賛歌』、『われら、生きる者』、を、さらに43年に『水源』、56年には『肩をすくめるアトラス』などの代表作を残しました。すばらしいことは、それらは60年以上たった今もかわらず、アメリカ人に読み継がれる小説であり続けていることです。亡命帰化したロシア人女性が、アメリカ人に自由の精神を唱道しているのです。なによりもアメリカという社会のふところの深さ、そして開かれた性格を如実に物語っているといえるのではないでしょうか。

 1956年に『アトラス』を書いてからのランドは、彼女の小説で表現され、胚胎した思想を自ら客観主義と名づけ、その唱道に残りの人生をついやしました。客観主義の研究サークルには、1987年から2006年まで19年もの間、FRB(連邦準備制度理事会)の議長をつとめたアラン・グリーンスパンがいたことは有名です。ほかにも時期アメリカ大統領候補とも目されるヒラリー・クリントン、歌手のマドンナ、映画監督のオリバー・ストーンなども、ランドの小説から大きな影響を受けたと発言しているのです。

 1998年にアメリカの大手出版社ランダム・ハウスが読者投票をしたところ、20世紀の小説ベスト100の中の1278位がこれらのランドの作品であったのというのは驚き以外のなにものでもありません。それだけ、ランドのいう「利己主義」は美徳であるという考えが、自らの目標を持って旧大陸から移住してきた過去を持つ、アメリカ人の琴線に触れているのです。

 とはいえ、ここでいう、ランドの客観主義の主張する「利己主義」とは、日本語でいう自分勝手という意味の利己主義とはだいぶ違います。もちろん金銭的な利己性の問題ではありません。それはつまり「人間は一人一人が自分自身の価値観と、それを達成するという目的を持ち、その実現のためにのみ生きるべきだ」という意味での利己主義だといってもいいでしょう。

 ランドの代表作の一つである『水源』の主人公ハワード・ロークの発言が、これを具体的にわかりやすく説明していると思います。

 

水源

 

 ロークは、自らの信じる合理的、非装飾的な建築哲学を貫いて生きる、孤高で寡黙な若き建築家です。ところがある時、厳重なる約束に反して、自分がやむをえず他人名義で設計した公共住宅建築を、その本来持つはずだった合理性を本質的に損なった形で建てられてしまいます。ロークはそれを爆破して、裁判にかけられてしまうのです。

 法廷においてロークは、陪審員団に向かって、人間が独創的で独立した存在である必要をとくのです。

 

 「創造者の基本的欲求は、自主独立です。理を通していく知性というものは、どんな形にせよ強制されては機能できません。知性というものは、曲げられたり、犠牲にされたり、どんなものにせよ何らかの考慮に従属させられたりなど、できません。知性というものは、機能において、動機において、全き自主独立を要求します。創造者にとって、人々との関係は、二次的なものでしかありません。」

 

 そして、他人の価値観に依拠した人生を送る人たちを、中古の生き方をするセコハン人間だと称して糾弾するのです。

 

 「一方、中古の生き方をする人間の基本的欲求は、糧を得るために、人々との絆を固めて安定させることにあります。中古の生き方をする人間、セコハン人間にとっては、まず人間関係が何よりも優先するのです。セコハン人間は、人間は他人に奉仕するために存在すると宣言します。セコハン人間は、利他主義を伝道します。・・・しかし人間は他人のために生きることなどできません。・・・今まで人々は、ずっと創造者を破滅させるような教訓ばかり、教えられてきたのです。人々は、美徳として、他人に依存することを教えられてきました。

 他人のために生きようと試みる人間は、依存者です。そのような人間は、動機において寄生虫です。・・・こうした人間関係は相互腐敗以外の何者も生み出しません。・・・現実には、このような人間にもっとも近いのは、つまり他人に奉仕するために生きる人間に一番似ているのは、奴隷です。」

 

 これらの発言からは、人間がその依拠すべき価値観において独立して生きなければならないという強い信念が読み取れるでしょう。

 ロークはさらに続けます。

 

 「この裁判において、私は他人のために存在していない人間だと言明したかったのです。それははっきりといわれなければならないことでした。この世界が、自己犠牲の行為の乱痴気騒ぎによって破滅に瀕しつつあるからです。・・・人間の創造的仕事の完全無欠さというものはどんな慈善的努力よりも大きな重要性があると、この裁判で言明したかったのです。私の言葉が理解できない人間は、この世界を破壊しつつある人々です。・・・私は誰にせよ、他人のために存在することなどに、関心を持ちません。

 私は、私以外の人間に対する義務など認めません。それは同時に、他人の自由に敬意を払うことであり、奴隷的社会に参加しないことを意味します。」

 

 ロークはここで、人間はそれぞれ、周囲の右往左往する人びとから独立した価値観を持つ確固たる個人となるべきであり、それがすなわち道徳的に望ましい市民社会をつくる第一歩なのだと断言しているのです。それは、人が他人の奴隷ではない、他人に精神的に隷属しない、一人一人が独立した人格を実現する社会なのです。

 正直に言って、私自身は、利己性のみが人間にとって善なるものであり、利他主義は他人への本質的な依存でしかないとする考えには、完全には共感できません。たしかに利他主義には他者への共感、思いやりややさしさという固有の美徳があると感じられるからです。マザーテレサはたしかにスラムでの慈善活動に人生をささげ、数多くの人を救ったのであり、彼女が「独自の価値観を持たなかった」と非難するのは、やはりなにか違っているように感じられるのです。

 とはいえ、同時に利己的な追求心なしには、人間社会の偉大な芸術や技芸、科学や哲学などは、とうてい現在のようには花開いてはいなかったでしょう。このことは確固たる事実として認めなくてはならないと思います。明らかに利己的な探究心、克己的なまでの追及心こそが、スポーツや芸術、建築や科学などといった人間のすばらしい文化を、今のような状態にまで高めてきたのですから。

 ノーベル賞やフィールズ賞を受けるような研究者や、著名な芸術家や冒険家、さらにオリンピックやワールドカップに出場するようなスポーツ選手は自らの掲げた目標のために、日々を生きているのです。そしてこの意味で利己的な人びとが人間の多様な文化をより発展させてきた結果、現在の豊かで自由な社会が実現したのだと思うのです。

 他人から独立した強固なる価値観の構築というのは、日本人にとってはまさに弱点だと思います。科学からスポーツまで、私たち日本人は他人の価値観を気にしすぎなのです。そこからは横並びで平等な文化が生まれ、それはそれで評価するべきことかもしれません。しかし、他人の批判にもかかわらず追及する自主独立の精神こそが、新たなる地平を作り出し、基準を設定してゆくのです。

 ときに科学においては、日本人は独創性がないといわれます。青色発光ダイオードを発明し、ノーベル賞に最も近い人物とされる、カリフォルニア大学の中村修二教授は、会社から反対されながらも研究を続けたといいます。そういった頑固さ、自己の信念への忠実さが必要とされることもあるのではないでしょうか。

 

格差社会の到来

 さて、リバタリアニズムに対する典型的な反論には、次のようなものがあります。いわく、すべての資源の配分を自由な市場にまかせてしまうと、所得の格差が一方的に広がってしまう。よって国民の実質的な平等を実現するために国家による経済介入は必要不可欠なのである。

 このような主張の前提として、資本主義がますます高度化しつつ発展する中で、たしかに所得格差に代表されるような不平等が広がりつつある現実があります。これは日本社会が、いわゆる「勝ち組」と「負け組み」に分かれつつあるということです。

 経済学者の間では、第二次世界大戦後、世界的な規模での産業社会の到来と共に、所得は平等化してきたことが知られていました。ところが、アメリカでは1980年代にはすでに所得格差が拡大に転じたことが、報告されていたのです。それが、予期されたとおり、ドイツやフランス、イギリス、日本でも同じような所得格差の拡大となって観察されるようになってきたというわけです。

 このような職格差の拡大の理由を端的にいってしまえば、産業全般のIT化にあるといえるでしょう。

 たとえば高学歴の労働者は、低学歴の労働者よりも、はるかに大きな所得を得るようになってきています。これはいうまでもなく、パソコンなどを使ってワープロやスプレッドシート、あるいはDTPやCADなどの特殊なソフトを使いこなし、プレゼンテーションをできることが大きな意味を持つようになってきているということです。

 また同じように、企業内のデータがデータベースで一元的に管理されるようになると、今度はそのデータを使って分析・判断する能力が問われるようになります。データはそれ自体では何も語ってくれませんから、自分で仮説を立てて検証し、それをデータで確認するという知的な作業が必要になるのです。

 これと歩を同じくして、野球やサッカーその他のプロスポーツにおいても、一流の選手はますます大きな収入を得るようになっています。それはケーブルテレビやスカパーなどの衛星テレビ、さらにはネット配信などの通信手段が発達・普及するによって、有名な選手の活躍は世界の隅々までますます大きく報道され、CM出演など多額の所得が得られるようになったためです。これに対して、一流にわずかに届かない人たちはあまり報道されることはないため、所得はほとんど得られないということになってしまうのです。

 このような格差社会の到来は、2001年から2006年秋まで続いた小泉政権5年間の負の遺産として国会などでもとり上げられています。それはむき出しの資本主義、あるいは規制緩和の結果として生じたものとして批判されているのです。

 これを受けて、2004年には東京学芸大学の山田昌弘が『希望格差社会』を著し、現代の「負け組み」は所得が低いばかりではなく、将来に対する成功の希望すらないという状態であることを指摘しました。職業・家庭・教育の不安定な「負け組み」の子どもは「努力は報われない」と感じ、将来に絶望してしまっているというのです。

 同じく2005年のベストセラー『下流社会』において三浦展は、上流の人ほど「上昇志向で」あるのに対して、下流の人ほど「自分らしい人生という呪文」にかかっており、自己有能感をもっていることを報告しています。

 つまり下流の学生ほど、「将来のことを考えるよりも現在を楽しみたい」という「現状志向」的だというのです。また、「あくせく勉強して、よい学校やよい会社に入っても、将来の生活に大した違いはない」という「成功物語否定的」な価値観を持っていることも報告しています。もちろん、社会学者である著者は、このような状態は社会の長期的な活力を奪う大きな問題だと感じており、現状の日本社会が憂うべき状態にあるのだといいます。

 

所得の不平等がそもそも問題なのか?

 このような現代的な資本主義の発展に伴う格差の拡大に対する、左翼的な批判に対するリバタリアンの反論は、おおまかにいって以下のような三つのものだといえるでしょう。

 まず第一の反論は、「そもそも不平等などは問題ではないのだ!」という、いってしまえば身もふたもないものです。

 いわゆる「負け組み」について考えてみると、そこでいう「負け」というのは経済的な視点から見たものだといえるでしょう。『希望格差社会』においても、そこでの希望とは、一流大学から安定した企業に入り、高い収入を得るというような、きわめて単線的な成功者像が描かれています。やや単純化していえば、戦後の高度成長時代の方がみなが上昇志向の希望をもてただけ良かったのだというような考え方です。

 しかし私には、著者がいうように高度成長時代が低リスクで希望にあふれる社会であったというのはある程度納得できるものの、だからといって、それがこの成熟した社会において望ましいといえるのかは疑問に思われます。

 現代社会における成功というのは、大企業や官庁に入るというようなものばかりではありません。プロスポーツの選手やプロ化まではされていないスポーツ選手、あるいはなんらかの芸能人、ミュージシャンや物書き、フリーのジャーナリストやアナウンサーなどになるというように、一昔前に比べれば多様な選択肢がある時代になってきています。

 しかし、もっとはるかに重要なことは、成熟した社会、多様な人格の存在を認める社会では、そもそも成功という感覚そのものが社会的なものというよりも、むしろ個人的なものであるべきだという点です。高い所得や社会的な名誉というものはわかりやすい成功の例かもしれませんが、成熟社会においての「成功」にはもっと主観的な、傍から見るとつまらないような目標があってもいいはずです。金銭所得の多寡が成功なのだという単線的な思考こそが拝金主義的なのであり、それを越えて、もっと多様で、多元的な自己実現の方法があるべきなのです。

 これは前述したアイン・ランドのいう、「利己主義」の貫徹とあい通じるものだといえるでしょう。「社会」という他者から価値観をかりてくるのではなく、自分の信じる道を行く、それこそが人間の存在意義なのであり、人生の価値そのものなのです。ロークは周囲の価値観に敢然と挑戦し、自らの信じる建築を追及したのです。そこでは、所得などというのは二義的なものでしかありません。

 たとえば、私はこの著作に著されている「自由」の観念を、日本語話者に対して唱道することに、自分の個人的な目標を見出しています。それは金銭所得には直接にはつながらないかもしれませんし、この民族主義の吹き荒れる世界の現状では、将来的にも「社会的」な成功は望めないかもしれません。しかし、それでも私なりに、大きなやりがいとある程度の達成感を感じていきているわけです。

  同じように、『下流社会』における、「将来のことを考えるよりも現在を楽しみたい」若者が増えているという指摘は、私も大学教員として日ごろから感じていることであり、もっともなものだと納得します。しかし、私には、世界的な基準で見て、物質的にはそこそこの生活をしている日本の若者が「現状維持的」であることはなるほどもっとなことではあっても、問題視するべきことではないように思われるのです。

 同じような意見は、大前研一の2006年の著作『ロウワーミドルの衝撃』でも述べられれています。彼は、日本人が所得において二極分化していることを指摘した後、生活者大国であるためには、生活者の意識の変革や行政の変革が必要であるという主張をしています。さらに、若い世代では上昇へのあきらめからか、現状を楽しもうという意識が強くなっているというのです。

 たしかに、日本ではフリーターをしていても年収は200万近くにはなります。私は、そういった国では、毎日朝から晩まで会社に勤めて高額の収入を得るのも、とくに訓練の必要のない単純労務をして余暇を十分に楽しむのも、それぞれの人生の選択の違いだと思います。

 また年収が300万もあれば、最低レベルかもしれませんが、一応の文化的生活は可能だと思います。現代社会は科学技術の進歩につれて、最低限の生活をするため、さらには小さな余暇活動をおこなうための必要経費が下がってきているからです。考えてもみてください、100円ショップとディスカウントショップでほとんどの日用品が、ますます安価に手に入るようになってきているのです。

 実際、高い年収のほとんどは、機能的には無意味に近い、ひじょうに高額のブランド奢侈品に流れていることは明らかです。100万のエルメスのケリーバッグも1000円のヨーカ堂のバッグも、ほとんどその機能にかわりはありません。1000万円のメルセデス・ベンツSクラスも50万円の軽自動車も、その移動・積載するという機能にほとんど差はないでしょう。カシオのソーラー電波Gショックにいたっては、50分の1のプライスでありながら、どのような機能においてもロレックスを上回っていると思います。

 個人的な話をすると、私はユニクロに通うことがよくあります。そこではデパートブランドの5分の一程度の値段で、ほとんど同じ機能のものが買えます。ダイソーなどの100円ショップでは最低限のクオリティかもしれませんが、およそすべての日用品が手に入ります。またサービス過剰な美容院や床屋ではなく、101000円のQBハウスで髪を切りますが、だからといって、そのために私の人格的な尊厳が失われているとも思いません。

 なぜ、そこまで所得の平等が必要なのでしょうか。

 もちろん、「時価総額世界一」を目指すホリエモンのような、ある種の拝金主義者がいてもかまわないと思います。それは成熟した社会に存在する、多様な価値観のうちの代表的なものだからです。それはそれで、個人的な目標として否定されるべきことではないでしょう。

 しかし、だからといって皆が所得の最大化を目指すというのはバカげています。そして所得が平等であるということ自体に価値を見出すのは、そもそもねたみ以外のなにものでもないように思います。大衆週刊誌には、頻繁に「一部上場のあの会社、社員の平均年収は」などというような、これみよがしのねたみ記事があい変わらず掲載され続けています。

 そういったものには惑わされず、その結果としての金銭所得がどうであれ、自分なりの価値観をもって選んだ仕事に専念するべきです。それがどのみち一度きりしかない自分自身の人生における、人間としての矜持というものではないでしょうか。

 

 



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映画「タンゴ・レッスン」

精一杯生きろ
そして苦しめば
タンゴが分かる

タクシー運転手が
サリー・ポッターに語りかけている

映画「タンゴ・レッスン」

I am you で有名な映画

http://d.hatena.ne.jp/smapg/20080414/

http://shinagawa-lunch.blog.so-net.ne.jp/2008-12-21-6

映像の各部分の意味が際だっているように思う

あんなにも満水のほとりを歩いていた

いろんな人が集まって男性が女性に踊りを申し込んで踊るのをミロンガというらしい

解説によれば、
女性の方は申し込まれても、疲れていたり、踊りたくない時は断っても構いません。
けれど、その時の曲が終わるまでは、他の人と踊らないようにしましょう。
どんなに踊りたいと思っている男性が申し込んできても、先の人をお断りしましたので次の曲を踊って下さいと言って、一曲だけ待ってもらいましょう。
男性はとてもデリケートですから、配慮をお忘れなくお願いいたします。
とのことだ。

女性が誘う設定にするミロンガもあるらしい。

聞いたところでは、男性がどのステップで踊るかを選び、女性に伝える。
女性はリードされていればいい。
男性はホールの状況や女性の習熟レベル、音楽などに合わせてステップを選ぶのだそうだ。

男性が体でサインを出してどのステップかを女性に
分かるようにするのだそうだが
その詳細は聞き逃した。

上半身と顔はかなり密着するので
匂いや清潔には注意が必要らしい。
わたしには二つの意味で無理だ。
他人の体臭が我慢できないし
自分の体臭が相手に苦痛を与えない自信がない。

もう二つ理由がある。
音楽に乗って踊るなどできないし
筋肉も神経もない。

こんなことができる人たちは宇宙人のような気がする。

記事によれば
彼は、「もう一度踊りたい男性ベスト10」の一人です。
ソウルのミロンガで初めて踊った時の感覚は、今でも忘れられません。

組んだ瞬間に、頭から足先までが彼と繋がり、
暖かな空気で全身を包み込まれたように感じました。
一歩も動かなくても満足させてしまうような、
そんな幸福感を与えてくれました。

ホールドは柔らかく居心地が良くて、軸はしっかりと安定していて、
全身でリードをしてくれます。

会うたびに、彼の踊りは変化しています。
昨年の秋にソウルで踊ってから、7~8ヶ月経っていますから、
明日踊るのがとても楽しみです。
とのことである。

また、
その一曲に心が満たされ、それを与えてくださった方に
エスコートされて席に戻るのは、何という至福の時でしょう。

その場で「有難うございました。」と、背を向けられるよりも、
席まで一緒に来てくださるほうが、
大切にされているのが伝わってきて嬉しくなります。

そんなことくらいで、と不思議に思いますか?
そうなのです。
女性は、大切にされるのが嬉しいのです。
些細なことで充分なのです。
とのこと。

大切にしましょう。


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回収エンジン、Education Customer

とりあえず新事態はないけど、長期契約を結んでくれる安定顧客と

厳しいけど、自分を育ててるくれる不安定顧客

前者は回収エンジン、後者はEducation Customer


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秀才、いい加減さを見抜く

患者さんはたいてい専門分野を持っていて
人工知能研究者であったり
マーケッティングの専門家であったり
あるいは経理、人事の専門であったり

すると患者さんはそれぞれの分野の
人間の分析の仕方での切り口で、
目の前の、治療者と患者の交互作用という事態を分析する

自分の専門の仮説は知っているので
それと拮抗するまたはそれを凌駕する仮説を提案して欲しいし
その正しさを実証して欲しいわけだが

何時までも世間話が続き
この人はこうした世間話を積み重ねた末に
見事な仮説を提示し
今後の方針を告げるだろうと思っているのだ
秀才は相手も秀才だと期待するのである

そのような、仮説と実証が提示されない場合、評価は厳しいものになる




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良家の令嬢の学問

良家の令嬢はよく勉学に励み立派な大学で
学問をして書き上げたのが
文学士論文「井原西鶴好色一代男へのこの成長について」
文学修士論文「井原西鶴好色一代男色道二刀流についての欧米研究に関する総説」
である

親の凹みようが分かる
辛い現実を受け入れよう

ーー
別の令嬢は霊長類の性行動の研究

別の令嬢はフィリップ・ロスの研究

また別のはアンナ・フロイトの性的発達論の研究

あかんやろ

鉄道研究の方がまだいい


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尖閣諸島沖中国漁船衝突事件ビデオ映像国会提出コブラツイスト

たとえば次のような文面

ーー
尖閣諸島沖の日本の領海内で起きた中国漁船による衝突事件で、那覇地方検察庁は、海上保安庁が撮影したビデオ映像を27日、衆議院の要請に応じて国会に提出したとの報道である。巡視船みずきとよなくにが撮影したビデオがあると言うが、どういう内容のビデオが提出されたのか詳細は明らかになっていない。海上保安庁ではなく、那覇地検が押収していたビデオを提出する形をとっているのも不思議なことである。

中国漁船による衝突事件で海上保安庁が撮影したビデオ映像をめぐって、衆議院予算委員会が、さきに那覇地方検察庁に対し国会に提出するよう要請したことを受けて、政府側が対応を検討していたが、那覇地方検察庁は27日、横路衆議院議長にビデオ映像を提出し、横路議長が中井衆議院予算委員長にビデオ映像を手渡した。横路議長は「捜査中の事件であり、映像の公開の範囲を含めて慎重に取り扱ってほしいという意見が、那覇地方検察庁から出されている。慎重かつ細心の配慮をお願いしたい」と述べ、中井委員長は「十分に配慮したい」と応じて、このあと中井委員長は、記者団に対し「政府からも外交的に与える影響などを考えてほしいという要請があるので、慎重に各党と協議していきたい」と述べたとの報道である。衆議院予算委員会は午後3時から理事懇談会を開いて、ビデオ映像の取り扱いを協議することにしているとの報道もある。捜査中の事件だと断ったとの報道であるが、船長を捜査中に釈放したことも奇怪である。

当てにならない権威を失墜してしまった検察庁のご託宣ではなく、ビデオ映像を国民に公開して、ことの是非を問うべきだ。その上で国会で議論をすれば良い。日本国民だけではなく、YouTubeで公開するのも一策である。外交的な影響を考慮するが故に、当方ブログは、全面公開を提案して主張しているのである。日本を閉鎖的な全体主義の独裁の国にしてはならない。

海上保安庁は、検察に提出した以外の他にもビデオ映像ををもっているのであれば、そのまま公開に踏み切るべきである。北朝鮮の不審船の銃撃の実行や、引き上げなど、自民党政権下で政治家が判断できないことを、法の支配に従うという一点で、数々の殊勲を海上保安庁は上げてきた。その先例に学べば、隠し立てすることはない。海上の国際法は、ほぼ完成された国際ルールであり、何も恐れることはない。隠し立てすると、日本側に落ち度があるからに違いないと疑われるのが落ちである。国際社会では沈黙は、どうにもならない。ビデオ映像に真実を語らせようではないか。

ーー
困ったこと
コブラツイストである


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人間関係学部

人間関係学部で学問をする
何も儲からない


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いい思い出のいい残し方

いい思い出はいい残し方をしないとつらい

男女というものは3,4年であとは続かないのが現実であるが
住宅ローンと育児という二大借金を抱えて
身動きができなくなる

二つの借金が終わった頃には
何をする気もない
燃えかすが残る

あしたのジョーは燃え尽きて白い灰になる

もちろん住宅は大切
子供は生きがいそのものである

その一方で白い気持ちもあるのである

仕事で何か業績と言えるものを残せる人も数少ない

必要としたりされたりして
それが日常生活のむき出しの無意味さに麻酔をかける

仕事中毒
アルコール中毒
人間関係への配慮
極端な肥満
200を超える高血圧
などは麻酔の一種である

醒めるのが怖いので何種類かの麻酔を用意する

仕事中毒と
アルコール中毒と
人間関係への配慮を併用すれば
ほぼ醒めることなく生きていける

生きていくことにもともと意味はないのだから
それでも特に支障はない

妻として夫の家に行く時におみやげに関して妥協できない性格

駅ビルのシュークリームくらいで妥協する気分になれない

他人というものは無限の配慮を要求する
いちいち応えることで乗り越えようとする途方もない努力

生まれついての性分というもので
どうにも仕方がない

いい思い出だけで充分だと妥協することはできないものかと思う
たとえばの話、夫が急死すればたぶん、ずっと思い出とともに生きるのではないか

生きているのに手応えがないから、なおさらつらいのだ

ピッチャーが投げているのにバットを振ってくれないバッター
なんにも分からない
しまいにはピッチャーが嫌になる


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