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サブパーソナリティ

サブパーソナリティ
という言葉があります

時と場面に合わせてサブパーソナリティで対応しているわけですが
精神分析でいえば一部は
退行現象で説明できます

適切な退行は健康的なものです

同様に精神分析で
人格のスプリッティングが言われます

こちらは同時に存在するもので退行とはすこし様子が違います

ーー
サブパーソナリティを束ねて
どの場面でどのサブパーソナリティを出現させるかのコントロールをしているのが
セルフとかセルフアイデンティティになります

本当の自分とか正体とかいう場合
全部含めて自分ではないでしょうか




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第1回目の議決をした審査員と第2回目の議決をした審査員は同一である可能性

採録

ーーーーー
 10月4日に、検察審査会事務局は小沢一郎氏に対して2度目の起訴相当の議決をした東京第五検察審査会の11人の審査員について、その平均年齢が30.90歳であると発表した。平均年齢が30.9歳になる確率は極めて低く、本当に無作為に抽出した審査員であるのかどうかとの論議を引き起こした。
 
 ところが、検察審査会事務局は、この発表について、10月12日に、37歳の審査員1名の年齢を足し忘れていたことを公表し、平均年齢が33.91歳であると訂正した。しかし、30.9を11倍して37を加え、その合計値を11で割っても33.91にはならないために、計算間違いではないかとの問い合わせが殺到した。
 
33.91X11=373>30.9X11+37=376
 
 すると、検察審査会は、10月13日に、もう一度平均年齢の発表数値を訂正し、平均値が34.55歳であるとした。検察審査会の説明によると、審査員の誕生日が来て、計算数値が変化したということだという。34.55歳が平均年齢だとする検察審査会の最終発表をもとに、11人の年齢合計を計算すると次のようになる。
 
34.55X11=380
 
合計値は380ということになる。
 
ここで、もうひとつだけ計算値を示す。10月4日に検察審査会事務局が発表した平均年齢30.9歳に11をかけたものに足し忘れの37を加えた総合計値を11で割ってみるのである。
 
30.9X11=340 
340+37=377
377/11=34.27
となる。
 
 検察審査会事務局が発表した、1回目の起訴相当議決を示した東京第5検察審査会の審査員11名の平均年齢は、すでに34.27歳と発表されている。
 
 2回目の起訴相当決議を示した審査員11名の平均年齢について、当初発表の30.9歳をもとに、37歳の1名の審査員を足し忘れていたとの事務局の説明に従い再計算して得られる平均年齢は、第1回目の起訴相当を議決した審査員の平均年齢と完全に同一になるのである。

 これをどう解釈するか。
 
 もっとも有力な仮説は次のものである。
 
 第1回目の議決をした審査員と第2回目の議決をした審査員は同一である。
その平均年齢は本年4月27日時点で34.27歳だった。
 
 2度目の決議をしたのは9月14日だが、この時点で、11人の審査員のうち、3人が4月27日から9月14日までの間に誕生日を迎えた。その結果、年齢合計値が377から380に増えた。
 
377を11で割ると 34.27
380を11で割ると 34.55
になる。
 
 第1回目の議決をした審査員と第2回目の議決をした審査員がまったく別の11人であり、かつ、このような現象が生じることは、常識的には考えられない。その確率を専門家が計算すれば、恐らく、天文学的な数値分の一の確率ということになるだろう。
 
 つまり、第一回目の決議と第二回目の決議は、同じ審査員によって行われた可能性が極めて高いのである。
 
 2回目の審査補助員弁護士に城山タワー法律事務所の吉田繁實弁護士が委嘱されたのは9月7日だとする情報があり、この情報が正しいとすると、9月14日の審査会決議までの時間があまりにも短いことになる。同じ審査員メンバーで、実質的な論議を行わずに議決をしたのなら理解できるということになる。

ーーーー
まさかねえ
ないない
あってはならない




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大盛り

大盛り
小森
美森
藤森


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細血管の障害で周辺細胞が機能停止する

細血管の障害で周辺細胞が機能停止する

脳でも眼底でも腎臓でも
これで困る

簡単に掃除もできないし取替もできないし

でも細血管細胞再生が出来ればそれでもいいんだが
そもそも血液が届かないと再生も難しいということになる
原理的に難しいということになる

ふむふむ
そうなんだね


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前頭側頭葉変性症(ピック病を含む)

前頭側頭葉変性症(ピック病を含む)
繰り返し
自分勝手
全然学習しない

人格変化が中心になります。自己中心的、短絡的な行動や、意欲低下、だらしない行動

もともと社交的な性格だったのに、1年程前から 町内の旅行や会合に参加しなくなり、他人との 約束を平然と破るようになった。昨年妻が手術で入院したとき、あまり心配している風がなかった。また、やたらと甘いものを食べるようになった。半年前からは 入浴や着替えをしなくなり、毎日同じ洋服を着ようとする。 とても落ち着きがなく、何でも今すぐにしようとする。 毎日デパートで無駄な買い物をしてきたり、天気が悪くても 繰り返し散歩にでたりする。不機嫌なことが増え、よく怒鳴るようになった。


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時間遅延理論

私はもう30年も時間遅延理論で自意識の発生を説明しようとしているわけなんですが
最近よくわかる譬え話としては
テレビの時間差がある

私は部屋でメインのテレビのスイッチをまず入れる
PCに向かうとテレビ画面が見えない配置になっていて
PCでもテレビをONにします
すると私はテレビについては音だけ聞いて
PCで画面と音を流しているんですね

するとテレビからの音が早くて
PCからの音が遅いんですね

PCの方が処理が遅いのが理由だと思います

脳の中でもこんなふうな時間差処理をしているはずだと
私は思う
それが原因で自意識が発生している

その、言ってみれば、一種の錯覚が、破壊されると
自意識の障害が発生する

まあ、何と言って特別なことではないのですが
そのように考えたらどうかと思うわけです


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タワーマンションの難点

タワーマンション
大地震で高層難民になること、十数年後には住人の間で所得格差が広がり、派閥ができること
高齢化でスラムになる
大変そうだ


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解釈を変えてもいい

すぐにこの現実を変えてしまうことはできないですよね

でもつらい

変えられるものならば変えればいいのですが
そうもいかないのが現実である

現実を変えてもいいのだけれど
本音を言えば変えたいけれど
変えられないわけです
その場合に
解釈を変えてもいいわけですね

現実を変える方が優れていて
解釈を変えるのは劣っていると決まったわけでもない

強いとかエレガントとか地道だとか
価値観もそれぞれ違うわけです

価値観が違うから解決法が異なるというよりも
現実が厳しい時には
別の価値観を採用するということなんでしょうね

たとえば日本国憲法はずっと同じなのに
解釈を変更し続けているわけですね

それと同じように現実の解釈を変更して
ほっとしたいわけなんですね

ーー
考えてみると
何か病気があって推定3ヶ月の命と言われた人に
無理は言わないじゃないですか

多少、解釈を変えて見せることくらいしますよね
なさけというものです

ーー
ぶどうは酸っぱくもなるし
レモンは甘くもなるわけです

厳しさも必要なんですが
厳しいだけで生きて行けるわけでもないでしょう

ーー
だんだん悪くなる現実というものもあるわけです
年をとるとか、まあ、確実に、進行しますね




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絶望の中に希望を見つける

絶望の中に希望を見つける

そうしましょう


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騙すターゲット

よく分からないのだが
5000円出せば13万4500円の儲けになる話があるわよ
というのと
5000円出せば100億円儲かる話があるわよ
というのとは
やはり騙すターゲットが違うんだろう


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熱意のある方大歓迎

◎研修が充実しています◎
新しい職場で働き始める、というのは緊張しますし、とても不安なことです。当院は新人教育にとても時間をかけます。 「できるでしょ?あとお願いね」と、いうやりかたでは働く本人も不安ですし、なによりも来院者に対して失礼です。 きちんと自信を持って仕事ができるまで、丁寧に教えます。経験の無い方は安心して応募してください。 経験のある方は、新人の気持ちで応募してください。

◎お互いにサポートしあえる環境です◎
大切な情報はスタッフ全員で共有し、スムーズに仕事ができるよう皆でサポートし合う、そんな温かみのあるクリニックです。 来院なさった方に対し、統一した対応ができるよう、仕事内容をまとめた分かり易いマニュアルも用意してあります。 「来院者の不安を、明るい笑顔で受け止められる」そんな気持ちの優しい方を求めています。 

◎しっかり働いて、ゆっくりお休み◎
「自分の心に余裕が無ければ、人には優しくなれない」というのが、当院の方針です。そのために、充実した休日制度を整えています。 夏休み、ゴールデンウィーク、年末年始は、しっかりお休みがあります。 気持ちに余裕を持って働けるため、来院した方と一人一人じっくり向き合いながら働ける環境です。 

◎「人の役に立ちたい」という気持ちが一番大事です◎
熱意のある方、細やかな気配りのできる方、新しいことを勉強するのが好きな方、大歓迎です。経験の有無は問いません。 喜びを分かち合える、たいへんやりがいのある職場です。温かいクリニックを一緒に作りましょう。 


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自己愛性人格構造

採録 http://www.studio.co.jp/ichihashi/doc/01.html

少子化と現代の子ども <自己愛性人格構造の視点から>

始めに

渋谷区で開業して3年になる。クリニックはNHKや代々木公園の近くで、渋谷や原宿は徒歩で20分くらいの距離にあって若者が多い街といえよう。
私がこれまで診療してきたのは都立の大精神病院や下町にある精神科救急病院であった。地方の精神病院にも勤務したこともある。診療所の立地は患者を選択するのであろう、私たちのクリニックには青年期の精神障害、たとえば学校不適応症、PTSD、多重人格(解離性同一性障害)、自己愛性人格障害、境界性人格障害、摂食障害の受診が多い。抑うつ症状も、これまで診てきた内因性うつ病ではなく、ほとんどがパーソナリティ障害を基盤とした抑うつである。そしてその治療から、現代の子供の置かれている状況が次第に形を持って立ち現れてきたと実感している。

精神科医は自分の臨床という狭いスリットを通して現代を見る。したがって私の見た現代は「群盲、象を撫でる」ような、狭い視野からのぞいたものであるかもしれないが、それだけにある意味では鋭く見通すことができるかもしれない。私の直感は、あらゆる意味で日本が今大きな分岐点に差し掛かっているということである。

従来の家族問題論

これまで現代日本の家族問題は過保護、過干渉、あるいは放任、虐待というような文脈で語れられてきたように思う。その背後に強力な母と弱い父という日本的母性社会の構造も指摘されてきた。また、社会文化的病理については教師の資質の問題、経済的豊かさ、企業戦士としての父、教育に熱心すぎる母、遊び場のない子供、ファミコンなどのゲームの蔓延、テレビやビデオなどの映像の影響などなどこれまで指摘されてきた。しかし、事態はもっと複雑であろう。

少子化は何をもたらすか

子供が少なくなったことは、いくつかの、しかし決定的な変化を家族の構造にもたらした。また家族の意識、価値観にも影響を与えてきた。

そもそも生物がなぜ多くの子を残すのかといえば、種の繁栄のリスクを最小限にするために違いない。高等動物に子が少ないのは、産まれた子供がすでにある程度出生時に外敵から守れるほど成熟しているか、育児行動を発達させたためといわれている。すなわち、少なく生んで上手に育てるという適応行動を身につければ母体の負担は軽くなり、種の繁栄維持にも役立つのである。さらにヒトという種は他の霊長類に比べても育児期間がとりわけ長いが、この成熟の遅さが教育とその結果として外界への適応力を高め、ヒトという種の繁栄をもたらしたといえよう。

人間はいわば未成熟なまま出生してくる特異な種である。それは育児とか教育を前提として生まれてくる種であると言い換えてもよい。しかし長い間人類は決して少子ではなかった。飢餓や疫病による人口の激減、あるいはひどい環境衛生や貧しい栄養状態などによる乳幼児死亡率の高さは我が国が産業革命を迎え近代社会に移行するまで常に襲ってきた歴史である。平均寿命も50歳を越えることは長らくなかった。そして現在のような高齢社会とともに、一人っ子や二人っ子というような少子の時代を本格的に迎えたのは高度成長時代に突入してからである。この時代にあっては何よりも教育が重視され、また家族は核家族化してその中で「小さな幸せ」「豊かさ」が第一の価値基準となった。

高い教育、豊かさ、余暇の有効利用、限られた居住空間での快適さという制約を追求すれば、家族構成が少子化してゆくことは当然であろう。しかし、強調しておかなければならないのは、このような時代の到来は我が国だけでなく、人類誕生以来、第2次世界大戦までかつてどこも経験しなかったという点である。生物学の教えるところによると、絶滅に瀕するときに種は多くの種を残そうとする。環境的-栄養的豊かさに恵まれているときには、種はそれ自体の生命維持に取りかかり、種を残そうとしない。そうした観点から見ると、少子化というのは豊かさと平均寿命の延長と青年期の延長と無縁なことではないかもしれない。豊かさや文明の成熟は少子化をもたらすのであろう。

子が沢山いれば、一人ひとりに割ける親の関わりは質量とも少なくなる。また出来の悪い子がいても、あるいは早死にしてもそのリスクは分散される。子供に対する期待は薄められ、また親を期待できない子どもたちはきょうだいとの絆を必然的に深めざるを得ない。

また子供をとりまく環境にも大きな変化が起こってきた。まずメディアや映像の氾濫、ゲーム機器の発展による遊び場や遊び方の変化等である。これらの遊びは本質的に他者を必要としない遊びである。もう一つの問題は競争原理が子どもたちの世界にも及んできたということであろう。

「輝いていたい」子供達

子供が少なくなれば、当然競争は少なくなるはずであった。しかし現実は学校社会や遊びの世界まで広範に競争の原理が働いている。成績(偏差値)は言うに及ばず、スポーツ、体型、容貌、人気、持ち物や衣服(ブランド)、友人の数など子供の生活のあらゆる領域にわたって競争が入り込み、子供たちは自分と比較し、あるものは小さな勝利感を得、そして大多数は心に傷を受ける。子供は「なにかで輝いていないといけない」のである。摂食障害の患者が述べる言葉は、かつてのような「成熟拒否」ではなく、「取り柄がない自分」であり、「せめてみんなができそうで、できないダイエット」に挑戦するのである。そして体重が落ちると、彼女(彼)らは「勝った!」と満足感と充足感を感じるのだという。その背後にあるのは、茫漠たる自己不信感であり、孤独感である。

親の欲望と投射としての「親の期待」

現代の父は現実の会社世界での体験から、子供たちにある人は高い教育を、あるいはスポーツや芸能を、ある人たちは望ましい規範を身につけてほしいと願い、母たちは少子化の結果として生み出された膨大な余剰時間を使い、自分が成し遂げられなかった願望を投射して子に期待を持って育てようとする。親の子に対する期待の本質は自らの欲望であることに親たちは気づかない。つまり、親の育児は「親の都合でかわいがっている」ことになる。そのときに起こる現象は、子の側にあっては、自分が無条件には愛されていないという感覚であろう。子供の気持ちにそった共感性のある育児は困難になり、子にとって親は自分を映し出す「良き鏡」の機能を失う。そして幼児的万能感を譲り渡してもよいと思うような「大好きで強くて優しい大人」との出会いに失敗する。幼児期に甘えられなかったとすれば、次の発達段階で獲得する切符は「自尊心」だけであろう。この自尊心という切符はその表に誇大的自己(自分は特別な人間である)が、裏に嫉妬と羨望が印刷されている。充分に受け入れられ、無条件に愛されているという感覚が乏しい彼らは、手にした唯一の切符を手放すことができなくなる。彼らが前思春期に突入したときに現実の「思うとおりにならない事態」に直面し、そこで自己愛的な様々な問題が生じる。

バタフライナイフ事件と学級崩壊

1998年起こった黒磯の「中学一年生バタフライナイフ女教師殺人事件」は、こうした現象がもはや一部の大都会の病理ではなくなっていることを示している。著者は新聞報道の範囲でしか知ることができなかったが、概略以下のような事件だったと記憶している。

少年は保健室登校をしている子供であった。不登校傾向と心身症の過敏性大腸炎を持っていたらしい。クラスでもどちらかといえばいじめられ役であったようだ。彼は授業に集中せず、教室をウロウロしていたというから、注意欠損多動性障害であったのかもしれない。そうした彼が教師から注意を受けたときに、持っていたバタフライナイフを突きつけたときに、教師が怯まなかったことが彼を逆上させ、滅多刺しをしたというものであった。

少年は教師が彼の万能の象徴であるナイフを向けたときに、彼の前にひれ伏すと思っていたに違いない。その万能感をうち砕かれた瞬間、彼は「キレた」のである。その機構は少年自身もおそらく説明をすることができなかったであろう。怯まない相手に怒りを感じるという心理は通常上位者が下位者に対して感じる感情である。こうした機序に自己愛構造を認めることは困難ではない。

学級崩壊も万能の王様である「学童」が、もはや学校の統制機能を越えてしまった現象である。両親も教師ももはや「手応えのある大人」ではなくなってしまった。数十年前の私たちのこども時代では大人は絶対であった。もちろん大人に対する不信感や反抗はあったが、それ以上に我々の前に立ちはだかる壁であった。私は全共闘時代に医学部生活を送ったが、当時の私たちの行動は父なるものへの反抗であり、闘争であったのかもしれない。現代の子どもたちは注意され、叱責されると深く傷ついてしまうか、激しい怒りを表出するか、引きこもってしまう。万能の自己が壊されるからである。

今日の登校拒否の子供たちは一部は分離不安やADHDなどの発達障害あるいはいじめなどの被害者であるが、中核群といわれる登校拒否児が「自己愛性人格障害傾向」であることはこうした子供を治療した臨床家の印象であろう。彼らが現実の一見取るに足らないような挫折や屈辱を契機に引きこもり、家族に暴力を振るうようになるのはまさに自己愛性人格障害の特徴である。彼らは病的に誇り高く、傷つきやすい。誇大的自己がそれなりに機能しているときには彼らは現実を生きられるが、いったん思うとおりにならない事態に直面したときに、彼らの誇大的理想自己は破綻し、一挙に抑うつ、怒り、引き籠もり(栄光ある撤退)、強迫(かりそめの完全な世界を構築しようとする)などの反応を引き起こすようになる。

症例

ある受験生が抑うつを主症状に来院した。彼女の父親は病院の検査技師でいつも「医師は威張っていて良い身分だ」といい、二人姉弟の出来がよい姉(患者)に「医師になれ」と期待をかけて勉強させていた。弟は成績も良くなかったために、半ばあきらめて放任して育て本人によると、「あんな出来が悪い弟をかわいがり、私にはいつも厳しかった」と恨み言を述べている。嫉妬と羨望の感情である。彼女の成績が順調であったときには何の問題もなかった。しかし、一浪してその後の成績が伸び悩むようになると、彼女は自分は何の取り柄もない人間だと思うようになり、両親から見捨てられるという不安を強く持つようになったのである。彼女にとっては親の愛は無条件に愛されるのではなく、医師になれるならば愛してあげるという条件付きであったのである。当然であるが、両親にはそうした意図はない。起こった状況がそのような図式を子供に与えたのであり、親の欲望がそうさせたのである。彼女には人の苦痛をはかるとか、気持ちを汲むとかいう共感性はきわめて乏しく、自己評価は低く、それでいて自尊心は病的に肥大していた。取り柄がないといいながら、「実は自分は特別な人間であり、他は自分よりも下の人間である」という他者に対する見下しが隠れていた。

摂食障害

摂食障害についてはまた詳しく書く機会があると思うが、1960年頃の摂食障害と現代の摂食障害はずいぶん臨床像も異なってきている。すなわち、過食エピソードを持つ神経性無食欲症(アノレキシア・ネルボーザ)の激増であり、受診者は過食と自己嘔吐・下剤濫用だけをやめたいと希望する。しかし、彼らの本音はやせていたいのであって、過食は過度のダイエットから二次的にもたらされるものである。彼らは「人が自分をすごいなという目で見て欲しい」と思う一方、「取り柄のない自分」を強く意識し、自分を好きになれないという自己不信が中心にある。摂食障害は食欲の病気ではなく、「人からどう思われるのか」という意識に関連する自尊心の病理である。ここにも自己愛の問題が控えている。

強迫症の患者にも自己愛の構造が隠れていることが多い。また境界性人格障害の患者にも、自己愛性人格障害の合併例が多くなってきたように思う。治療論はまた別の機会に譲るとして、自己愛構造を持つ子供が増えてきた背景には、少子化の問題が一つ控えているように感じる。彼らは期待に応えられるような子であることを求められるような、条件付きの愛で育てられ、自然な共感が与えられることが乏しく、かつ物質的豊かさによってほしい物は何でも与えられ、長じては親が子供の肩代わりをして幼児的万能感を持続させる環境を与えている。しかも、「周りはみんな競争相手で、のんびりしていても陰で勉強しているのよ。信じちゃだめ」などというようなメッセージを送り続けているのである。競争世界を用意しているのは、社会であり、家庭なのであろうか。




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摂食障害は食欲の障害ではありません。「他人から自分がどう見られるのかということに関連する自尊心の病理」です。

摂食障害

診断的には神経性無食欲症と過食症(ブリミア)に分類しますが、我が国で多いのは衝動型と称される過食と拒食を繰り返し、自己嘔吐や下剤乱用(浄化行為)を伴うタイプです。摂食障害は食欲の障害ではありません。「他人から自分がどう見られるのかということに関連する自尊心の病理」です。ほとんどが自己愛性パーソナリティ障害や境界性パーソナリティ障害を合併し、薬物療法は補助的なものでしかありません。経済的な負担はかかりますが、専門的な精神療法が主な治療法です。

近年この障害が増加している背景は女性の「やせることに高い価値がある」という時代価値観が深く関与しています。さらに現代の内的価値の崩壊と外的価値の優位という時代価値観が深く関与しています。

現代の女性は「自分が自分以上でないといけない」という強迫観念に支配されています。その背後には深い自己不信(自分のことを好きになれない)という問題が控えているようです。

 

ーーー

内的価値の崩壊と結果主義はどのように精神発達に影響しているか

はじめに

著者の経験では1985年頃から非定型的な抑うつ症状を呈する青年が増えてきており、この増加傾向は現在も進行中である。これらは操作的診断のⅠ軸診断では大うつ病であるが、抗うつ剤の治療反応が悪く、その病前性格は従来のうつ病がもっていた自責的傾向や責任感の強さ、几帳面、律義、負い目回避というような執着気質やメランコリー型を刻印する性格標識を持たず、「落ち込む」と表現する数分から数十時間という短期に、しかも頻回に繰り返される激しい抑うつ症状、リストカットや怒り、引き籠もり、対人操作、対人的孤立あるいはしがみつきなどを呈する人たち である。彼らはII軸診断では自己愛性人格障害、境界性人格障害、あるいは特定不能な人格障害とされる。

摂食障害も変化し、かつてのような定型 anorexia nervosa という極端な拒食を貫き通す人よりは衝動性が亢進し、過食と拒食を繰り返し、下剤濫用や自己誘発嘔吐、利尿剤の使用、あるいはアルコール症を伴うタイプが増え、リストカットや大量服薬などの行動化を伴うケースが増えていることはすでにいくつかの報告がある。都市型クリニックでは今日、内因性のうつ病よりもこうしたタイプのうつ病が主流を占めているのではないだろうか。

こうした青年や少年を診ているうちに、彼らにいくつかの共通点があることに気がつき始めた。それは挫折に対する極端な脆弱性、自尊心の傷つき易さ、他者によって客観的に評価されうるような外的価値しか信じることが出来ないこと、all or nothing というようなうまくいっているときにはがんばれるが、うまくゆかなくなるとすべての努力を放擲してしまうこと、刹那的であること、地道な努力が出来ないこと、結果が得られないことには関心が持てないことなどである。そのために思うとおりにならない現実に直面したときに抑うつ、怒り、引き籠もりなどを呈したり、やせ願望、リストカットなどの行動化を誘発するようになる。

ある患者に「あなたは結果しか信じられないし、外的価値しか信じられないのだね」と指摘したときに、彼女は激しく抗議して「先生!世の中がみんなそうじゃないですか!誰だって結果しか見てくれないじゃないですか!」と述べたのが印象的であった。「そう。世の中、みんなそうだね。しかし、世の中全部が間違っているとは考えられませんか」と語りかけると、しばらく沈黙し、「私は結果しか求められなかった。結果を出すことだけを目標に生きてきた。こうした生き方が間違っているなら、私はなにを目標に生きていったらよいのでしょう」と述べたことが本小論を執筆した動機である。

外的価値と結果主義

1)外的価値

価値とは「よいものとして認め、その実現を期待するもの」であり、価値観とは「いかなるものに、いかなる価値を置くかという個人個人の評価的判断」をいうとすれば、外的価値は他人の評価を通して見える価値である。それに対して内的価値とは他者を介さずに自己にしか見えない価値であると定義する。したがって外的価値は現代日本では高学歴、高身長、高収入(いわゆる三高)、体脂肪の低さ、容貌の美しさ、職業、服装のセンスや食べ物のセンス、ポリシーある装飾品を身につけること、ポリシーを持ってブランドを所持すること、特殊な知識あるいは才能を持つことなどである。「外的な価値を持つことによって初めて自信を持つことが可能である」という事情があるようである。外的な価値は結果によって初めて得られるものである。結果が得られないものは外的価値になり得ない。したがって、結果主義と外的価値とは連動している問題であるということができるだろう。

外的価値が優先する価値観は、他者から見て「すごいな」と嘆声の声をあげられることが重要なのである。したがって、その価値観は一般基準から見て必ずしもポジティブなものに限らない。価値観の反転が起こり、通常では否定的な価値を持つようなものでも、人が容易にまねすることが出来ないこと、人があっというようなことに価値があるという特徴がある。「ネガティブでもポジティブでも、特殊であることが大事なのです」「福岡の少年バスジャック事件は僕にはよく分かります。あれはかつての僕だった。ポジティブに生きられないなら、ネガティブでもよい。自分が他の人と違った、神から恩寵を受けた人間であり、何でも許される万能者であることを示したかったのだと思います」というような価値観である。

2)内的価値

内的な価値観というのは記述することが難しい。辞書的には真・善・美ということになろうが、今日的にはズレを感じるであろう。記述が困難であるのは、それが本質的に客観的に見ることができないものであり、他人と共有することが出来ない性質を持っているからであろう。

いかなるものに、いかなる価値を置くかという個々人の評価的判断は時代とともに変化している。たとえば、忠義、忠誠ということは封建社会にあっては極めて重要な価値であったろうし、儒教的社会にあっては仁、信、礼は内的にも外的にも重要な価値観であったと考えられる。「天に愧(はじ)ない」とか、「仁の実践」はその時代にあっては明確な内的価値観であったにちがいない。戦前であれば、至誠、信義を守る、忠国・報国などは内的価値としては高いものであったかもしれない。執着気質文化の残渣が続いた1970年代までは、几帳面、律義、勤勉、まじめ、気配り、正直、役割意識などの内的な価値観が存在していた。しかし、天皇制が崩壊し、宗教もイデオロギーも支配しておらず、すべてが相対化される現代のこの国では内的価値を維持することは非常に困難なことである。

内的価値が崩壊すれば、価値として残るものは外的価値しか残らない。この現実がさまざまな精神の障害に投影されるのである。

現代、内的な価値観はなにであろうか。あえていえば、「やさしさ」と「自分らしさ」「自分に正直」であろうか。

この「やさしさ」は特殊なやさしさである。現代の若者は決して本質的には優しくはない。それは今どの学校でもあるいじめの問題やホームレス襲撃事件を見ればわかる。彼らは自分の周囲にいる人たちに対して相手の心に立ち入らないという点でやさしいのである。たとえば、家庭の悩みを抱えていると友達に、それと知って話題に触れないということがやさしさの表現なのである。彼らはとても傷つきやすく、相手が傷つくことを思いやることが彼らなりのやさしさなのであろう。

「自分らしさ」の追求も重要な内的な価値である。しかし、自分らしいということはなになのか、実体は曖昧である。彼らはこれをポリシーとか、スタンスとかボク的とか表現するがその実態はファッションやアクセサリ、グッズにおける選択基準であったり、どういう車を選択するかであったり、ライフスタイルの好みであったりする。そのハシリはニューファミリーであろうか。自分の好みにそれらしい個性や一貫性があり、自分の欲望に正直であることが重要なのであり、アイデンティティとしての自我はむしろ真空化し、周辺に拡散している構造が見て取れる。その証拠に彼らに「あなたの等身大の自分というのはどういう自分ですか?それをイメージできますか?」と聞くと決まって絶句してしまう。内的な価値は現代崩壊に瀕していると考えてよいのかもしれない。

「自分に正直」はタテマエで生きることの否定であり、自分の欲望の肯定である。そこには規範やしがらみ、既成観念からの自由、素直な自分の表現を謳っているが、現代の青年が他者からの眼差しからいまだ自由になれていないことが背景にあるだろう。これは「楽な自分でいたい」「飾らない自分」「欲しいことに正直」というような使い方と同義のものである。ホンネで生きることが正当化されたのは1977年頃からである。

3)結果主義

外的価値優位から生じるものは結果主義である。結果主義とは「途中のプロセスは関係なく、得られる結果だけがすべてである」という考えと定義することにする。たとえばプロ野球を例にとれば、選手がスランプになっていい当たりをしても好捕され、ヒットがでないとき、記者に「いい当たりをしてきましたね」と言われても、「ボクら結果がすべてですから」と答えたり、ボテボテの当たりでも久々にヒットが出たときに、解説者が「ヒットはヒットですよ。結果が出れば、調子もよくなるでしょう」と述べたりするようなことは日常にもよくみられることであろう。プロは結果が全てであり、それによって試合に起用され、年俸に反映される世界である。サラリーマンでも、上司に「結果を出してこい」と言われる時代なのである。社会では常に結果が求められ、それが現代日本の経済的豊かさを作ってきた側面があろう。しかし、結果主義には大きな落とし穴がある。総説で取り上げた1990 年代から2000年にかけて起こったいくつかの事件を例に挙げれば十分であろう。

問題はこうした結果主義が子どもの世界にも浸透していることであろう。子どもは学校や親から成績という結果を求められ、スポーツ・運動も同様である。結果を出さないとみんなは納得しない。ある23歳の摂食障害の女性患者は「私は試験で85点をもらって帰ったら、ひどく怒られました。100点じゃないと満足しないのです。95点だと、まだ5点出来てないじゃないのと」。有名校に通っている登校拒否の少年は「成績が下がって、自分でもこれじゃいけないと勉強したんです。けれど、成績は上がらない。そうしたら親に『勉強したと言うけれど、結果が出ていないじゃないか』と言われたんです。それですっかりやる気をなくしてしまいました」と述べている。彼らは、自分の周囲の人間はいつも結果しかみてくれなかったという。

結果主義は出た結果が全てで、結果しか問題にしない。結果を出せば勝ちという世界であるから、たとえば「いくら勉強をしても合格しなければ意味はない」というような考えである。勉強にしても、そこではなんのために勉強をするのかということは問われず、親の圧力と期待、仲間の評価が全てである。結果主義で失われることは「地道な努力」をすることであり、結果が得られなければいっさいの努力が無になるという考え、つまり all or nothing 悉無律的な考えである。実際に彼らは挫折に弱く、いったん思うようにゆかない事態に直面すると、いっさいの努力を放棄し、引き籠もるか、怒りで反応するか、抑うつ状態になるか、あるいは強迫的な架空の完全世界を作るかしかなくなる。

結果主義は個人の価値観ではない。いまや現代の日本を支配する価値観であるということができる。結果主義のルーツはもっと古いものかもしれない。「終わりよければすべてよい」「結果オーライ」は現代に突然生じたものではないはずである。しかし、すべての価値観に優先してこの価値が支配し始めたのは、 1960年代から始まる経済の高度成長時代からであろう。世界に追いつき追い越せという当時の国民を駆り立てたエネルギーには、まだ執着気質的な几帳面や完全主義が色濃くあったが、1970年代に入って生産性の向上と業績が優先する時代に入り、少しずつ年功序列、終身雇用という体制が崩壊するようになってからであろう。1990年代に入ってからは、会社の管理体制は一層強化され、学歴主義はなお残存するとしても、企業はそれ以上に能力主義を優先するようになり、業績の評価を結果で求めるということが多くなった。そうしたことが会社社会だけでなく、どの領域でも優先する価値観にまでなったのは近年のことであるが、そもそも1960年代後半から始まった家庭と学校を巻き込み激化する進学競争が結果主義を育てたのではないか。進学競争は本質的に結果主義であるからである。その頃の子どもたちは、今や現代の子どもたちの親になっているのである。

4)価値の相対化

文化や価値観は本質的に多様である。ある部分は先鋭的に変化し、ある部分は変化しない。どの時代においても価値観の衝突は生まれ、また新しい価値観が生じることを繰り返している。現代の価値観は当然多層的であり、共通の価値観を探すことは困難である。しかし、こうした価値観の対立は個人間で葛藤を呼び、現代のように葛藤を避けることが優先される文化においては必然的に価値の相対化がはかられることになる。現代の青年が争いや論争を避けることは新人類研究が盛んになった1980年代の終わりから90年代にかけて随所で指摘されるようになった。青年はかつての青臭い人生論を語らなくなり、妙に物分かりがよく、反抗しないが、決して組織には従順ではなく、もはやお金や地位は彼らの価値ではなく、自分らしさを発揮できること、自分らしく生きること、自由な時間を使えることに魅力を感じる世代である。こうした価値観の変化は1977年頃を境に顕著になった。

価値観の相対化はこうした背景から理解することが出来る。価値観の相対化は絶対的な価値をもはや信じることが出来なくなったことを意味する。また絶対的価値を主張することや保持することは対人関係の葛藤を先鋭化し、ヤマアラシのジレンマを再現することになる。たとえば、特定の政党を支持するよりは、むしろ政治には無関心でいることや支持政党なしの方が対人葛藤を回避することに有効であるという考えである。その根底には、他者からの批判や攻撃を怖れ、それによって傷つくことを怖れているという心性が伝わる。明確な価値基準を持つものは集団の中で浮いた存在になる危険性が高くなるのである。

これらの変化は「まじめの崩壊」と同時期に起こり、これまで社会や共同体で共有されてきた、正しいとされ、行うべきだと考えられ、あるいは禁止されてきた規範がもはや絶対的な規範や価値観ではなくなり、例えば、「生徒の万引きは誰でもやっている。万引きしたって大金じゃないし、店の人は大して困らないだろ。なんで僕だけを責めるんだ」「援助交際は相手に喜んでもらって、私はお金をもらって欲しいものが買えるし、sexも好きだし、誰にも迷惑をかけていないじゃない。どこが悪いの」「授業中は好きなことをやってもいいだろ。好きな生き方をするのは権利だ」というようなものである。他者にとって価値のあることと、自分にとって価値があることは別なことであることを前提にした価値観であり、それは本質的には重要なことであるが、ここで例示したように、現実に進行している価値観の相対化は自分なりの基準であり、万引きや売春、授業妨害が非倫理的行為であることが相対化され、自由に伴う責任と義務の視点が見事に欠落している。こうした価値観の相対化に呼応して自我拡散を示す症例が臨床の場で増えてきたのである。

問題は彼らが納得するような新しい価値体系をいまだ大人達が示すことが出来ないことであろう。たとえば、「なぜ勉強をしなくてはならないか」「売春はなぜいけないのか」「万引きはなぜしてはいけないのか」というような身近な問題に対しても現代の親や教師は答えることができない。戦後から現代まで生き残った唯一の倫理基準は「人に迷惑をかけない」ということである。価値観の相対化によってそれさえも自分に都合のよい解釈が成り立ち、内的価値観が崩壊してしまったのが現代である。

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自己愛性人格構造との関連

抑うつを呈して来院する青年の多くは自己愛性人格障害ないし傾向を持つ人たちである。彼らに共通しているのは、等身大の自分がないということであり、「思い描いている自分」と、思い通りにならなくなった現実に直面して転落した「取り柄のない自分」の二極に解離した自己構造を持っている人たちである。彼らは思い描いている自分が機能しているときには我々の前には来ない。しかし、人生は思春期を過ぎると、思うようにならないことがしだいに多くなるものである。早い人では中学の人間関係や成績、あるいは容貌や体型、遅い人では社会に出てからの職場の人間関係や自分への評価が挫折や傷つきの原因となる。そこでかろうじて維持してきた「思い描いている自分」が破綻して一気に「取り柄のない自分」に転落することになる。健康な人は思い通りにならない事態に直面しても、「もう少し時期をみて」とか「少し準備不足だったかな。もっと基礎からやらなくては」とか、「ちょっと高望みだったかもしれない。少し目標を下げよう」とか、「無理かな。それは断念して別の目標を探そう」「もっと着実に積み重ねてゆこう」というように、いったん引き下がって現実的な解決方法を見いだすであろう。しかし、自己愛性人格構造を持つ現代の青年達はこうした現実的な選択が困難である特性がある。それが可能になるには中心となる自己、すなわち等身大の自己という真の自己が存在することが前提になる。思い描いている自己は誇大的自己であり万能的自己であるから、そのような選択ははじめから不可能なのである。「そうしたことは自分が許さない」といった方が正確であるかもしれない。

思い描いている自分が破綻したときの反応は以前の論文で指摘したように、怒り、引き籠もり、抑うつの3徴である。これに強迫が加わることが多い。引き籠もりは栄光ある撤退であり、取り柄の無くなった自分が抑うつ的自己である。誇大的自己が傷ついたときの反応は怒りである。彼らは思い描いている自己を維持するために、常に周囲の賞賛を要求し、自分が他とは一線を画するような存在であることを維持しなくてはならない。しかしこれはあたかも着陸装置を持たない飛行機のようなものである。羨望の対象となり続けうるための燃料がつきれば、その飛行機は墜落するしかなくなる。  彼らが思い描いている自分であり続けなければならないのは、内部の大きな自己不信があり、脆弱で傷つきやすい自己を抱えているからであるが、そうした自己はどのようにして形成されるのであろうか。

共通して彼らは幼児期に親から欲しいものは何でも与えられたが、いくら努力をしてもポジティブな評価が与えられず、あるいは子どもが無力であることになぶるような打撃を虐待と意識しないまま加え続けてきた生活史を持っている。また無条件の愛を経験していおらず、期待に応えなくては愛されないという恐怖を抱き続けていた人たちである。養育の早期切り上げも特徴的である。すなわち、幼いときに十分に子どもでいられず、自己は常に無力で、無条件に愛されるきょうだいや周囲に人間に対する嫉妬と羨望の感情を持って育った人たちである。彼らは自分の無力感を、成人の言語を使って説明すれば、「自分は人と際だって違う存在だから、愛されないし、愛されなくともよい」と思うことによって自己を守ろうとするのである。ある患者はこのことに対して「自分は子どもの頃に何か引き合わない取引をしたように感じる。多分、甘えることと引き替えに、誇りを手に入れるような」と語っている。誇大的自己は自分の無力性を覆い隠し、誇大的な自己愛的輝きによって現実の自己の不安を防衛する。

これは彼らの両親が愛情に乏しいとか冷淡であるとかいうことを意味しない。むしろ子どもに人よりも強い愛情を持って育てたという自負を持つ人たちである。しかし、その愛の実体は彼らなりの愛し方、自分の都合に合わせた愛し方であり、子どもに対する期待は自身達の欲望の投射に過ぎないという特性があった。自分の子どもが他の子どもと違う、優れた子どもであって欲しいと願う人たちである。彼らの親たちは絶対に「悪かった」とか「ごめんなさい」と言うことができない人たちであり、そういう意味で相手の気持ちを汲むという共感性は極めて乏しい人であるという面もある。両親はきまって結果を求めた。そして結果に応えることが彼らの自己愛の輝きを増す働きをしていた。彼らにとって等身大の自分は受け入れがたい自分である。それは平凡で、並みで、普通であることを意味し、彼らが最も受け入れがたい自己である。  そうした自己はいくつかの共通した特性を持っている。すなわち、彼らは結果主義であること、外的価値観しか信じないこと、all or nothing の傾向を持ち、うまくいっているときには人一倍がんばれるが、いったん思う通りにゆかなくなると一切の努力を放棄してしまう傾向、そのために自分の本当の力を発揮することが困難になる傾向、将来の不安に対してはあてもないのにいつか一発逆転することが起こってうまくゆくという期待を持っているということ(そのために刹那的になること)、したがって地道に努力することが出来ないこと、批判や忠告は傷つきやすい自尊心を痛撃すること、それに対して激しい怒りを感じること、挫折には引き籠もることによって自分の自尊心と栄光を守ろうとすること、自分を愛せないこと、自分を嫌いなことなどである。

そうした彼らが社会で生きてゆくためには、まず誰でも目で見てわかるような価値観(外的価値)を獲得すること、人と違った自分の優位性を獲得することが重要になってくる。オタク、非行、有名校にはいること、一流企業にはいること、容易に手に入らないブランドのモノを持つこと、誰でもが望み、誰もができないスリムな体を作ること、カタカナ業種のようなカッコヨイ仕事を持つこと、ガングロ、タトゥーのような誰もがまねできないような姿をすることなどである。そのために常に結果を出さなくてはならない。時代の先端にいることも他からの優越性を増す道具である。また、自分の内部の傷つきやすい部分に触れて欲しくない彼らは、他人の内部に触れないという形でやさしさを示す。淋しさのために人に近づきたいが、近づくと傷つくので離れなければならない。ヤマアラシのジレンマである。論争をすると傷つくため争いはできるだけ避け、いじめがあっても見て見ぬ振りをする。

外的価値観から内的価値観へ、結果主義からプロセス主義へ

彼らが我々の前に姿を現すときは引き籠もりか抑うつ状態になってからである。すなわち、取り柄のない自分になって初めて治療の対象になるのである。

自己愛性人格構造を持つ人たちに対する治療論はまた機会を改めて述べることにするが、ここでは価値観との関連に限局して述べることにする。治療において真の自分である等身大の自分を見つけ、育てることを目標にするが、彼らは等身大の自分がどんなものか分からないという問題にまず直面する。等身大に自分でなくてはできなくて、思い描いている自分では決してできないものはなにだろうかと問いかけ、それは地道に努力する自分であると教えることから始める。「あなたはこれまで本当に自分の力を発揮できたことはありましたか?うまくいっているときにはあなたは人一倍がんばれるし、人が何を言おうと私はある意味ではあなたはがんばりやだと思います。でも、そのがんばりは事がうまくいっているときだけではないですか」「挫折に弱いこと、うまくゆかなくなると、all or nothing になってしまい、結局は全てを捨て去ってしまっているのではないでしょうか」「自分が輝くために、あなたは誰にでも分かるような価値、人からすごいと言われるようなことだけを求めてきたのでしょう?結果だけを求めようとしてはいないでしょうか」と問いかけ、こういう話をする。「車でFMラジオを聴いていたときに、あるDJがイギリスのバイオリン職人に電話でインタビューしたときの話です。イギリスは楽器制作の伝統がない国ですが、彼は40歳近くになってこの道に入ったそうです。いまではインタビューを受けるくらい有名な制作者になったのですね。最後にDJがその職人に『あなたがこれまで最高と思った楽器を制作したら、あなたはそれをお売りになりますか?それとも自分の手元に置きますか?』と尋ねました。あなたなら、どうしますか?」「そう。でもその職人はこう答えたんですよ。『私にとって作った楽器が人からどう評価されるかは重要ではありません。私にとって大切なのは、制作の過程でさまざまな工夫をしてゆくこと、さらに言えば楽器の制作に関わっていることが重要なのです。ですから、作ったものが人からどう思われるかについては関心がありません』これがプロセス主義なのです。そして、そうして作られた楽器はきっとよい楽器になるでしょう。しかし、人からすばらしいといわれる楽器を作ることを彼は考えていないのですね」「あなたが地道に努力することができれば、結果は得られるでしょう。でも、結果は出ないかもしれない。出なくともプロセスを大切にしてゆけば、あなたは何かを得ることができるし、次につなげることもできるでしょう?そして地道に努力できる自分は、きっとあなたは好きになることができるようになるのではないですか。自分を信じることができるのではないですか?」こうした語りかけに彼らは決して拒まない。

もう遅い、全ては終わったという人に、「君は、もう一周追い抜かれてしまったので走ることをあきらめた選手みたいな心境ですね。しかし、人生はゴールに向かって一斉に走り出すトラック競技ではありません。人は生まれたところから歩き、死ぬところで停止する、道のない広野をさまようものではないですか?その間で悲しみや苦しみ、喜びや楽しみがあるだけでしょう?人生とは壮大なプロセスなのです。死んで栄光を持ってゆけないでしょう?死ぬときには一人です。その間をどう生きるかが重要なのではないでしょうか?」。成績が落ちてから引き籠もってしまった青年には、「16点しかとれなかったら、君はその勉強を続けることができますか?16点は君にとっては0点と同じでしょう?だからそんな点数をとったら、君はもう勉強をしなくなるのではないですか?しかし、16 点しかとれないのが自分の今の現実なら、今度は25点を取るように地道に努力することはできませんか?実は高校に入学したとき、私の数学の点数が16点だったのです。席次は恥ずかしい話ですが、400人中395番。忘れもしません。16点から24点、40点と少しずつ成績を上げて理科系の大学に入ることができるようになりました。何でも地道にやるしかないのです。結果はすぐに出ないものですね」。勉強は意味がないという人に、「勉強はなぜしなくてはならないと君は考えていますか?筋ジストロフィーの少年は20歳までにほとんどが死んでしまいます。しかし、そういう人たちが養護学校で数学や英語の勉強をしています。それはなぜでしょう。大学に入るためや、いい会社に入るためにだったら無意味ですよね。自分と自分以外の外界の関係を理解し、知るために学問は必要なのです。特殊な人をのぞいては、数学や古典、理科などは生きてゆくためだけなら直接必要ないでしょう。私たちはどういう世界に生きていて、自分がどうなり、どうしたいかを知る力が必要です。勉強はそのために必要なのです。20歳しか生きられないなら、それまでの間に分かることは分かりたいというのが人間の気高さではないでしょうか。そして、知るため地道な努力をしてゆくことはきっとその後に人生にも目に見えない力を与えてくれると思うのです。だから、自分のために勉強をしてみませんか」「人がどう自分を見るのかを考えて人生を送ってしまったら、きっとつまらないものになってしまうでしょう。人生は一回です。そしてあなたはこの世にただ一人のユニークな存在なのです。特別である必要がそもそもないのです」

明確化、直面化、解釈という精神療法のなかで、こうした話を語ってゆくが、この種の話を彼らは大人から聞いた経験がないようである。多少説教じみた話を彼らは実に新鮮な驚きを持って受け止める。手応えのある大人が周囲にいなくなったのであろうか?価値観の変化は自己意識の変化と連動し、やがて彼らは等身大の自分を回復してゆく。

摂食障害の患者も同じような問題を抱えている。彼らは過食し、自己誘発嘔吐をし、大量の下剤を用い、リストカットをし、ときには自殺企図をする。抑うつと昂揚、淋しさと惨めさを交互に体験し、拒食、過食を繰り返す。彼らは体重の増加を怖れ、やせていたいのである。過食は拒食のリバウンドであり、またどうでもよい自暴自棄な気持ちになったときに気晴らし食いを繰り返す。

摂食障害の患者は近年男性も増えてきた。これはボーダーレスの時代の反映であるが、摂食障害の患者の本質は人から羨望の視線を持って迎えられる自分でありたいということである。やせることは今や男性も女性も価値が高いことであるという価値観が定着したからであろう。やせた体型は自己節制を貫く克己心、禁欲、高い精神性、美しさなどの隠喩が込められており、深層には幼児期に甘えの断念と交換した自尊心の働きがある。自己不信を防衛するために、彼らは輝かなければならない。輝くことは内的価値観では達成できず、外的価値を獲得し続けなければならない。外的価値の獲得に失敗すれば、彼らは誰でもが望み、簡単そうで、誰もができないダイエットに挑戦することになる。彼らは結果主義者であり、自己嘔吐もその一環である。ある患者に「あなたは何に対しても結果が出ないと意味がないと感じているようです。そして、いつも自分は駄目だと感じているようですね。しかし、結果が重要なのではなくて、そのプロセスの方がずっと重要なのですよ。たとえば、あなたがやっている手芸の趣味で、思った通りにできなくなると放り投げてしまって落ち込むけど、手芸は作る過程が楽しいのではないですか?」と述べたところ、急に激怒し、「そんな価値観は私には受け入れられません!」と席を立ってしまった。しかし、次の面接で、「先生の話があまりにも衝撃的だったので、取り乱してしまいました。たしかに私は今まで結果しか見てこなかったと思います。プロセスの方がずっと重要な中身だなんて考えもしませんでした」と述べたことは印象的であった。「内的価値とは自分にとってだけ意味があって重要なもので、人がどう思われるかは重要なことではないと分かって、もっと健康になろうと考えることにしました」と述べた。

以上のように、内的価値の崩壊と結果主義は病理を産み出し、その修正が治療にも有効であることを指摘した。


 



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ハローワークで「出頭」という

ハローワークで「出頭」という言葉を使う

深い意味があるのだ

応招義務


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前操作的段階(自己中心的段階,2歳~7歳頃まで)

感覚運動的段階(0歳~2歳頃まで)……乳児期の思考段階で、五感の感覚や運動の動作によって外界を感触的・体感的に理解しようとしている段階。

前操作的段階(自己中心的段階,2歳~7歳頃まで)……幼児期の思考段階で、2~4歳頃までは客観的根拠のない『象徴的思考』がメインとなり、4~7歳頃では言語機能は発達するものの概念(知覚できない一般的な概念)を用いた論理的思考はできず、知覚した事物を中心に考える『直観的思考』がメインとなる。この段階の幼児は、他者の視点・立場から物事を考えることが難しく、その意味を込めて『自己中心的段階』と呼ばれることもある。

操作的段階・具体的操作期(7歳~12歳頃まで)……7歳以上の児童期になると、論理的思考である操作ができるようになるが、『具体的な事物・状況』がないと論理的思考を行う事はできない。これは後に述べる『保存概念』の発達と関係しているが、児童期の段階では『物事の考え方・視点』という意味でまだ完全に自己中心性を抜け切れていないのである。

操作的段階・形式的操作期(12歳以降)……12歳以上になると思考の基本機能は成人とほぼ同一になり、『具体的な事物・状況』が目の前になくても表象(内的イメージ)を用いて自由に論理的思考を行えるようになる。『保存概念』も十分に発達して、『自分以外の他者の視点・マクロな地球的(宇宙的)視点』から多面的に対象・問題について思考することが可能になる。

ーーー
外界を脳に転写していく段階

最終的には外界が脳に転写されるので
脳の中だけで現実のシミュレーションができるようになる

しかし一方で脳から全操作的段階が削除されてしまうわけではなくて
しっかり全部残っている
それが脳のすごいところだし困ったところだ
ときどき、何くわぬ顔で、おもてに顔を出す

頭がイイと
このように、全操作的段階を操作的段階に混ぜる技術も高等になるので、対応困難


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不登校の子の困り方

先輩の先生が言うには

不登校の子に
さて、困ったね、と話しかけると
そもそも別に困ってないです
家でゲームしてるからとか
学校行っても無駄だし
行かない方がいいんです
なにも困ってません
というわけですね
それで大変困る

ーーーーー
困る という言葉に 階層性が発生していて

深いレベルでは困っていないけれど
親を安心させられないレベルでは困っているようだ


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過食側が押し出される

拒食症の人とお話をすると
身体イメージのずれというか やはりそんなものがあるように思うのだが
それが世間で共有されてしまったというか、普通なような、そんな感じなのではないか
拒食も、まあ、大変は大変だけれど、昔ほど異常ではない
そんな人もいるだろう程度のところがないだろうか

問題なのは
その分、過食側が押し出されている感じ

拒食と過食が分かれているわけでもなくて
実際は過食嘔吐の形で混合している
そのような表面の問題ではないと理解できる
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浅田次郎「ま、いっか。」

『選択肢が多すぎて一途な人生をなかなか発見できぬというのは、やはり不幸というほかはない。

 才能を発揮するべき職業を選んでいるうちに、才能を発揮するべき時間が失われてしまう。

 磨きもせぬのに輝く才能などはありえないから、大切な時間を空費してしまえば、はなからないに等しい。 

一方、才能の有無にはさほど関係なく、一途な情熱は石ころを宝石に変える場合もある。』


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人間臨終図巻  山田 風太郎

人間臨終図巻〈1〉 (徳間文庫) [文庫]
山田 風太郎 (著) 


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奈良靴下産地 奈良レッグニット

奈良靴下産地は、その規模と陣容によって、国内の靴下生産業界に揺るぎない地位 を築き、リーダーシップを発揮してきました。“バブル経済”崩壊後の長引く国内市場の低迷に加え、近隣諸外国からの製品流入も相変わらず増勢にあるなど、かつてない厳しい状況下ですが、組合創立50年を経た今、国内靴下生産業界のリーダーとして、21世紀の新たな時代を切り開いていこうとしています。 

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産地別生産量(H20年)


ーーー
奈良県奈良市で検索して
広陵町に入り
ホームセンターダイキ広陵店のあたりと言われて拡大すると
靴下屋さんが一杯
ソックスとか織物という名前の工場が沢山

奈良レッグニットと呼ぶ



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夫婦にとって苦しみもまた美しい物語である

わたしには夫婦であることの価値がしみじみと深く大切なものに思える

どんなけんかもどんな裏切りも夫婦の物語の一章である

それでいい

苦しみもまた美しい物語である

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歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るるを知る

「歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るるを知る」
 
  (としさむくして、しかるのちにしょうはくのしぼむ
   におくるるをしる) 

   気候が寒くなって初めて、他の草木がしおれてし
   まっているのに、松や檜は枯れずに残っているの
   が分る。同様に困難に際して初めて、学問修養に
   努めている者の真価が分るのである。  


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人に接するに春風をもってす

古い新聞で:「人に接するに春風をもってす」



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言葉により現実をねじ曲げること

言葉により現実をねじ曲げることを習慣としている人がいて対処に困る

しかし一歩退いて眺めてみれば
誰であっても現実そのものを受け止めているわけではなくて
集団内での了解事項を現実として受け止めているに過ぎない

従って
客観性とかそんなことも強者の論理とも思える

資金力があれば世論を誘導できるし
コマーシャルすれば商品は売れる
学者も法曹もお金次第で作文してくれる
多数決はお金で買える

その程度のものが現実なのだ

そう考えた上で
しかし他人に明らかに迷惑をかける種類の
言葉によるねじ曲げの習慣があるのであって
それについてはやはり
正しく反省してもらう必要もある



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愛の必然の物語

赤い糸で結ばれていると信じるには物語が必要である

強烈な必然が必要である

お見合い会社は必然も物語も乏しい

就職活動と結婚活動が類似として語られている

赤い糸が切れるときにも必然の物語が必要である

意味もなく捨てられるのは耐えられない

ーー
必然を見出すとき人は妄想に支配される

この愛が必然だと信じられるときやはり穴に落ちている

ーー
必然を語るのが物語でありドラマである



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怠け者の取扱い方

才能の乏しい人は、努力してもしなくても、
社会全体の生産性にはたいして影響しない。

彼らが怠け者であっても社会は大して困らないし、
彼らが働き者になっても、社会はさほど豊かにならない。

むしろ彼らが「真面目」に働き始めると
ミスが連発し能率は低下し社会は劣化する
何もしないでいてもらったほうがずっといい

研究所関係でノルマをきつくすると
バカバカしい書類が増えて能率が悪くなる
どうしようもない人がどうしようもないことを言って他人を困らせるより
ずっと怠け者でいて
会議には出ないで
テニスでもしてくれていたほうがよい

「真面目」にやっているのにどうして認めてくれないのかと怒る
プロセスを評価しろという
成果主義で人を切るのかと怒る

その部分を国家が税金で養ったり
会社が会社内生活保護と割りきって養ったりしてもいいではないかと思う



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出世を諦めたサラリーマン

出世を諦めたサラリーマンくらい強いものはないといわれてきた。
実際に出世は諦めざるを得ず、
会社の仕組みも熟知してみると、
なるほど居心地は悪くない。
ただ生きていればよいのなら、
これでもいいなと思える。

しかしなんと低い志だろう。
自分で自分に失望する。
しかしまた生活もあり、
そんなに若さに忠実でもいられない。

それが年老いたということなのだろうか。
失望さえ鈍っているのだ。



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分類と目的

ものごとを分類するときには
なにか目的があるのが普通であるような気がする

病気の分類は主に治療を目的とする
したがって治療の観点からの分類が普通である

本を分類するのは
情報を探しやすくするためだろう

人間を分類するのは
つまりは「何の役に立つ人間か」の目印をつけているのだとも考えられる
美人は美人として用があるし
不美人は不美人として用がある

分類と目的が不可分のものであるらしい

ーー
たとえば人体の解剖学で言えば
骨、腱、筋肉などは言われなくても自然に分類ができているははずだと思うだろう
当然そうなのだが
次のように考えてみると当然でもないことが分かる

まず一つは
筋肉をたどっていくと自然に腱につながっているわけだけれど
その中間点には筋肉から筋膜に、さらに腱膜に、そして腱に移行する微細な変化があり、
「どこから」くべつされるのかについては決定しがたい
腱から骨に至る経過もそのようで腱から腱膜、骨膜、骨と自然に連続して移行している

したがって
分類というものは
人間が肉眼で過察して分かりやすい程度、
しかも、人間の目的に応じて、ということであるらしい

また他方では
個体発生の過程を見てみると、
受精卵かららすべては始まっているわけで、
そこからすべてが連続的に移行して分化しているのだから
隣り合ったものは実は時間を前にずらしてみれば一体のものであったことが納得される

大きく言えば内胚葉性とか外胚葉性、中胚葉性などと言えるけれど
それももとは一体のものであった

ーー
牛を食してきた民族の言葉は牛肉の各部位や年齢により細かに分類をしている
分類すれば便利だからだ

日本語はたとえば四季の変化についての言葉とか
雨の分類についての言葉などが発達していると言われることもある
農業に際して雨の分類は重要だったのだろうと思う

用もないのにわざわざ分類する人はいないわけだ

ーー
こんなことを思いつつ
精神病の分類を考えてみると
なかなか難しい

ずっと昔は精神のことを扱うのは宗教であった
いまでも脳の働きや精神、こころ、霊魂を区別する立場もあるし
それぞれに根拠も背景もあるわけで簡単ではないので
できれば言及したくない

ーー
簡単に言えば
なぜ疾病分類するのかと言えば
精神医学では「治療に役立つから」分類して診断したいのだ

違う薬を使うから違う病気なのだし
違う精神療法をするから違う病気なのだ

同じ薬を使って
同じ精神療法(たとえばロジャーズ)をしているなら
分類は必要ないわけだ

だから、ある薬剤が「いろいろな病気に効果があります」と言う場合には、
現在の精神疾患の分類は無効ですと宣言しているに近いように思う。

ーー
人間にはもともとのDNAがあり、一方で生きてきた歴史というものがあるから
その人について、どのようなDNAであるかを記述し、
さらに生きてきた歴史については、
病前性格、発病エピソード、症状の前駆期、中核期、残遺期、などに区分して記述すれば
情報としてはとりあえずは十分なものであると思う

それらを総合してみた場合に、「治療に有効な分類ができるか」が問題である

昔、うつ病についての「笠原・木村」の分類というもがあって、ずいぶん洗練されたものだったと思う。
治療の方針を与えてくれるものだった。

ーー


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現代人の課題

仏陀の認識を持って現代を生きること。
キリストの愛を持って現代を生きること。
それは現代の我々に直接与えられた課題である。
我々は生きることによってそれに応えなければならない。

生きることは神との対話なのだと思う。
それだけが生きる意義である。

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あなたに忍び寄るネット依存症

どうしてあの人はネット依存性になったのか? あなたに忍び寄るネット依存症
オンラインゲームネット依存 家族関係

ネットにハマって人が変わる?
 
あなたの周りにもいませんか?せっかくの飲み会なんだけど、返す言葉は...
『今晩ネットゲームにログインするから...』

家にいると、いつも誰かとチャット中。しつこく話しかけると...
『うるさいなっ(半ギレ)』

そして、あなたのお子さんは大丈夫ですか?
せっかくの家族団らんタイムなのにゲームに夢中。声をかけても、
『・・・・・(無視)』

最近になって急に人付き合いが悪くなった友人。外で遊ぶよりゲームをやっている時間が長くなってきたお子さん。がらっと人間が変わってしまったあの人は、一体どうしてしまったのでしょうか? そしてあなた自身も、知らず知らずに最近インターネットに接続している時間がどんどん長くなってきていませんか?

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CONTENTS

1、あなたは大丈夫?“ネット依存症”の症状とは
2、ネット依存症、あなたはどのタイプになりやすい?
3、『熱中型』依存性の克服法・対処法
4、『習慣型』依存性の克服法・対処法
5、『現実逃避型』依存性について
6、これからネットゲームを始める人、子供にやらせるか迷っている人へ

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あなたやあなたの周りの人は大丈夫?
仕事で利用し始めたインターネット、趣味で始めたチャット、遊びとして始めたネットゲームが、徐々に生活にも影響し始め、最後は生活の中心の座を奪ってしまうなんてことも?!

時間があれば「1秒でも長くインターネットに繋いでいたい!」「インターネットから離れると不安になる。」
そんな“ネット依存症”の人が急増中なんです。

しかし、一言で“ネット依存症”といっても、人によって重症度や依存症になってしまった原因は様々。今回は、ネット関係の中でも依存症を引き起こしやすいといわれるネットゲームを例に、「ネット依存症とはどのような症状なのか?」「ネット依存性にはどんなタイプがあるのか?」「どのように対処すればいいのか?」などについて考えてみたいと思います。

ネット依存の症状とは? ネットゲームの例をご紹介!
それではまずは、「ネット依存性」になるとどんな症状になるのかについて、ネットゲームを例に説明します。ネットゲームをやっていない人は、メールやチャット、掲示板など、あなたの身近なものに置き換えて考えてみてください。

■生活サイクルがネットゲームを中心に動くようになる
独身の一人住まいなら食事や入浴も簡単に。家にいる間はTVも見ない。ひたすらパソコンの前に座りネットゲームを続ける。睡眠時間は激減する。家族と同居なら会話も少なくなり用事が終わると自分の部屋に戻りネットゲームをプレイ。

■ゲームにログインしてない時間でも、どこかネットゲームについて考えている
昼間のログインしていない時にも、頭のどこかでネットゲームのことを思い出していた。自分がログインしていないこの時間、もしかしたら他のプレイヤーがドンドンとレベルを上げているかもしれない。このままでは自分は取り残されてしまう…というような脅迫観念に似た心情になる。

■余暇の過ごし方が変わる
カラオケやスポーツ、映画を見たりと楽しんでいたがネットゲームを始めてからは家で過ごすことが多くなり、その大半をネットゲームに費やす。TVの話題からも離れ人気ドラマも見ることを忘れてしまう。家族との外出は渋々と出掛ける。

■友人との会話にも変化が…
ネットゲームにハマっている人は友人との会話にも自分がプレイしているネットゲームの話題をしきり持ち出します。やたらに友人をもネットゲームに誘いこむようになります。

■さらに進行すれば…
現実の世界とバーチャルなネットゲームの世界との区別ができなくなる。居心地のいいネットゲームにハマってしまい仕事も辞める。生活そのものがネットゲームだけになってしまう。未来的な予測であるゲーム脳よりも現実として既に社会問題になっているひきこもりやニートと呼ばれる状態にも。

どうですか? あなたやあなたの周りの人は、上記のような傾向はありませんか? もし少しでも思い当たるふしがあったら要注意です!

また、同じような行動を取っていても、ネット依存になる理由によってコトの深刻さは全く違ってきます。

ネット依存性タイプチェック!
下の【A】から【C】の質問に対して、Yesがいくつあるか数えてください。

テスト【A】
 
1. 仕事でも趣味でも、人より優位に立ちたい。(負けず嫌い)
2. 子供の頃からリーダータイプ。誉められることが大好き。
3. 好奇心が旺盛で、色々なことにチャレンジをしてきた。
4. 過去に熱中して今は止めてしまたことが3つ以上ある。
5. 不利だと分かっていても意地になってしまうことがよくある。
 

テスト【B】
 
1. 決められたことはきちんとやらないと気がすまない。
2. 規則正しい、あまり変化のない生活をしている。
3. 毎日ほぼ同じ時間にインターネットに繋ぐ。
4. 日々習慣にしていることがたまたまでもできない日があると気分が悪い。
5. 何かに夢中になることはあまりないが、コツコツと続ける。
 

テスト【C】
 
1. 今の自分に満足していない、もしくは劣等感をもっている。
2. 他人に意見をされると、とても傷つく
3. 家庭や職場など、人間関係がうまくいっていない。
4. 自分は被害者だと思う。
5. 孤独を感じる。 

【A】でYesが3つ以上当てはまる人は『熱中型』
【A】の質問のうち、Yesと回答した数が3つ以上あるあなたは、『熱中型』です。上昇志向が強く、負けず嫌いなため、“勝つ快感”を求めてネットゲームや掲示板での論争などにのめり込みがちです。夢中になっている時は、家族や恋人など周囲の人に何を言われても耳を貸さない傾向があり、仕事中などもついついインターネットのことを考えたりしてしまいます。知らず知らずに周囲の人とのコミュニケーションや本来やるべきことをないがしろにしていないか注意が必要! また、子供は集中力があるが自己コントロール力が未熟なため、この『熱中型』になりやすい傾向があります。

■『熱中型』依存性から脱する方法、周囲に『熱中型』のネット依存性の人がいる場合の対処法はこちらをご覧ください。

【B】でYesが3つ以上当てはまる人は『習慣型』
【B】の質問のうち、Yesと回答した数が3つ以上あるあなたは、『習慣型』の依存性になる可能性があります。この『習慣型』の特徴は、「毎朝起きたらすぐにネットに繋ぐ」「寝る前には必ずネットゲームをやる」というように、習慣化してしまうことです。上記の『熱中型』のようなのめり込み方をしないので一見目立ちませんが、「定期的にやらないと気がすまない」「ネットから離れると不安」という心理的な不安感などを伴うようになると、なかなか依存から離脱できない傾向があります。「メールを定期的にチェックしないと不安」「帰宅が遅くなっても、ネットゲームをやらないと眠れない」というような状態になってしまったら危険な兆候です!

■『習慣型』依存性から脱する方法、周囲に『習慣型』のネット依存性の人がいる場合の対処法はこちらをご覧ください。

【C】でYesが3つ以上当てはまる人は『現実逃避型』
【C】の質問のうち、Yesと回答した数が3つ以上あるあなたは、『現実逃避型』です。3つのタイプのうち、ハマってしまうと最も危険、かつ離脱が難しいのがこのタイプ。「匿名性」と「広域性」いう特徴をもつインターネットでは、理想的な自分像に成りすますことや、自分と「同じ傷を持つ」仲間を簡単に見つけるいことが可能です。現実の世界から逃避し、社会問題となっているひきこもりやニートと呼ばれる状態に最もなりやすいのがこのタイプです。また、唯一の“居場所”であるインターネットの世界でトラブルが起きると、過剰に反応してしまうこともあります。

■『現実逃避型』依存性の事例はこちら

※【A】から【C】の質問で、複数の項目で3つ以上当てはまる場合は、当てはまった全てのタイプの要素があると考えられます。

F美さん・S夫さん夫婦から学ぶ!
『熱中型』依存性の克服法・対処法
S夫さんとF美さんは30代の夫婦。子供さんはいません。二人は職場結婚で今でも会社ではS夫さんがF美さんの上司。お互いシステムエンジニアとして働いています。

学生時代からTVゲームが好きだったF美さん。やがてWindowsでも遊べるゲームから自然とネット対応のバーチャルば世界へと引き込まれていきました。一時期は毎晩ネットゲームに熱中するF美さんのせいで、夫婦で過ごす時間が削られていき、S夫さんは不満にも思っていました。

しかし今では高レベルにまで成長し、上がり詰めてしまってゲームの中ですることがなくなってしまったそうです。最近ではゲームで浪費した夫婦の時間を取り戻すように努力しているとのこと。

『熱中型』依存性の克服法・対処法
■自分が『熱中型』依存性だと自覚している場合
  
インターネット以外に興味を逸らし、執着しないようにしましょう。最近のネットゲームはゲームにログインする度に、『ネットゲームも楽しいですが現実の世界での生活も大事にしてください』という注意事項が表示されるようになりました。現実の世界を大切にする気持ちを忘れないように十分注意をしてください。家族と同居しているのなら食事の時間や家族団欒での会話を怠らないようにしましょう!

■周囲に『熱中型』依存性の人がいる場合
逆境に立ち向かっていく『熱中型』依存性の人は、無理やり止めさせようとすると、逆に意地になってしまうケースも。特に相手がお子さんだと、親としてはガミガミ言いたくなるかと思います。しかし、ここはぐっとこらえて、他に楽しいことを提示するなど、別のことにも興味を持つようにうまくもっていきましょう。

■とことんやり込む、やらせておくという手も?!
熱しやすく冷めやすい場合も多いこのタイプは、自然に飽きたり、F美さんのように上がりつめて満足してしまうということも。長期休暇中など、期間を決めてとことんやる/やらせるというのも、1つの手かもしれません。その場合も、家族など周囲の人には十分配慮するようにしましょう!

長男の受験で依存性から脱出したYさんに学ぶ!
『習慣型』依存性の克服法・対処法
Yさんはデザイナーの奥さんと長男・長女の4人家族です。ちょうど某ネット運営会社のキャンペーンの手助けもあり無事にネット回線が自宅に開通。友人から誘われてネットゲームを始めました。

最初は友人の誘いということで付き合い程度にやっていたYさんですが、だんだんとその習慣がエスカレート。朝起きれば、とりあえずパソコンを立ち上げて、出勤前にもゲームをするようになってしまいました。当然、家族の人も呆れ顔。

長男の受験が依存性克服のきっかけに
しかし、そんなYさんに運命の時が! 長男高校受験が迫ってきたのです。

ネットゲームに没頭している父親のYさんに対して長男が嫉妬。遂にYさん一家では父親であるYさんに長男の高校受験が終わるまでネットゲームの禁止令が出ました。

さすがに我が子の受験に影響があってはと半年間のネットゲーム断ちに入ったYさん。そのネットゲームに誘ってくれた友人からもゲーム内での話題を聞いたりすれば何度も復帰したくてパソコンの電源を入れようかと悩んだそうです。でも1ヶ月、2ヶ月と時間が経ってくれば、その苛立ちも自然と治まってきました。

春になり高校受験は終了。無事に長男も志望校に受かり家族での奮闘した半年間の努力は実りました。Yさんはというと、半年間の間に、すっかりとネットゲーム依存症が体から抜けていたそうです。

しかし、自分のデータは今でも保存されているので、ネットゲームの中に戻ろうとすれば何時でも戻れる…。そんな状況がYさんのネットゲームにおける依存を軽くしているようです。

『習慣型』依存性克服法・対処法
■自分が『習慣型』依存性だと自覚している場合
『習慣型』の特徴は、毎朝・毎晩など周期的にやっているうちに、徐々にエスカレートしてしまうことです。しかし、Yさんのように何らかの理由でネットゲームから一時期ですが離れてしまうと、その周期的な衝動がなくなっていき、依存性から離脱できる可能性が高くなります。最初はイライラしたり、不安になるなど落ち着かないこともあるかもしれませんが、一度インターネットから離れてみるというのが最も効果的な方法だと思います。

■周囲に『習慣型』依存性の人がいる場合
『習慣型』依存性の人が定期的にインターネットに接続するのを防止する策を講じましょう。例えば、家族揃ってインターネット環境のない場所に旅行に行く、いつもインターネットを始める時間に別のことをするように誘うなどすると良いかもしれません。

親の期待に押しつぶされたM子さん
『現実逃避型』依存性の事例
4人家族の長女として生まれ育ったM子さん。子供の頃から非常に勉強ができたM子さんは、“お受験”をして、有名国立小中学校に通いました。その後高校は都内でも東京大学への進学率がナンバーワンの進学校に合格。高校でも模試の結果が常にトップクラスだったM子さんに、周囲の期待は高まる一方。特に、大学に進学したかったのにできなかったM子さんのお母さんにとって、M子さんは「自分の果たせなかった夢を叶える分身」というような存在でした。

猛勉強するも、東大合格ならず
しかし、運命とは皮肉なもので、模試の結果では「合格間違いなし」であったはずの東大に、M子さんは1年浪人生活を送っても合格をすることができませんでした。

結局、私立大学で最も難関と言われる大学の1つに進学したM子さん。お母さんの落胆に胸は痛んだものの、大学入学後は楽しい学生生活を過ごしていました。

M子さんを襲う厳しい現実の数々
 
そんなM子さんに再び悲劇が訪れたのは、バブル崩壊後の就職活動でした。当然M子さんのお母さんは有名企業への就職を望んでいたので、M子さんは「今度こそは!」と、必死に就職活動をしました。しかし、やはりここでもM子さんは希望の就職先にことごとく不採用通知を送りつけられてしまいます。またしても、M子さん本人が落ち込むのはもちろん、M子さんのお母さんもM子さん以上に落ち込んでしまうというような結果になってしまいました。

そして、なんとかそこそこ希望の就職先にめぐり合い、頑張って働いていたある日、M子さんはお母さんから信じられない報告を受けました。なんと、子供の頃からパッとした成績を収めたことはなく、親には「あの子はどんな人生でもいいから幸せになってくれれば」と言われていたM子さんの妹が、東大の大学院への進学が決まったというのです。

興奮して電話してきたお母さんは、心から嬉しそうな声で妹を誉めちぎっています。M子さんは、存在意義やそれまでの人生を全て否定されてしまったような衝撃を受けました。

自殺未遂を繰り返し、自宅にひきこもってのネット依存性生活
その後しばらくは普通に生活をしていたM子さんですが、そのうちに自殺未遂を繰り返すようになり、遂にはいわゆる「ひきこもり」と呼ばれる状態になってしまいました。自宅にひきこもって数年間、M子さんは毎日、チャットや掲示板への書き込み、ネットゲームなどをして過ごしたそうです。

しかし、M子さんがこうなってしまったことをきっかけに、M子さんのお母さんは「妹には母親らしい愛情を注いでいたが、M子さんには自分のコンプレックスを払拭する役回りを押し付けてきただけだった」ということに気がついたそうです。小さな子供のように泣きじゃくることもあるM子さんに、「もう一度最初から子育て」のつもりで接してきたお母さんの努力もあり、今ではM子さんはアルバイトができるまでに回復してきたということです。

インターネットの問題ではない、『現実逃避型』依存性
何か現実の環境に問題があり、そこから逃れるためにインターネットにのめり込んでしまう『現実逃避型』依存性は、その人が逃れたい問題の解決なくしては、依存性克服は非常に難しいといえます。もちろん、単純に「インターネットから遠ざければ治る」というわけにはいかないでしょう。M子さんの事例のように、依存性の原因が本人だけの問題ではないことも多く、周囲の人の協力が他の依存症に比べてより一層必要なケースが多いように思います。

今からネットゲームを始めようと思っている人、お子さんにネットを使わせるか悩んでいる人
この記事を読んでいるからには、皆さんはチャットや掲示板、そしてこのサイトのテーマであるネットゲームができる環境下にあることでしょう。

これからネットゲームを始めようという人や、子供にネットを使わせるか悩んでいる親御さんには、ぜひ考えてほしいこと、思い出してほしいことがあります。

『熱狂型』『習慣型』依存性タイプの方
今までの自分の生活スタイルやプレイしたことがあるゲームの記憶などを思い出してください。例えばTVゲームなどのRPGで『ドラゴンクエスト』『やファイナルファンタジー』にハマったことがあるのなら、立派な予備軍と自覚するべきです。

TVゲームならプレイ途中のデータを保存しておけば、いつでも好きな時間にプレイできます。平日が忙しくても休日に、ゆっくりとプレイできることを考えれば仕事にも学業にも影響はでませんね。

ところがネットゲームは、自分がログインしていない時間でもゲーム内は進行しています。昨日ゲーム内で知り合ったプレイヤーが自分のログインしていない間にも次のステップに進んでしまうということも十分起こりうる世界です。ログインできなければ、置いていかれるという焦りが生じやすいといえます。これは、掲示板やチャットなどについても同じです。

自分の生活をインターネット中心に合わせてしまい、大切な何かを失うなんてことにならないよう、「自分は過度に熱くなりやすい」「やっているうちに習慣化してエスカレートしやすい」と自覚して、十分に気をつけるようにしてください。

『現実逃避型』依存症の傾向がある方、子供にネットを使わせるか悩んでいる方へ
長崎の佐世保で小学校6年生の女児が同級生を殺傷した事件などの犯罪がセンセーショナルに報道され、インターネットの害についてクローズアップされることが多くなっています。

しかし、インターネットはあくまでもツールであり、使う人や置かれている環境によって、毒にも薬にもなり得ます。自分自身に何か問題があり、それを自覚できるのであれば、やはりインターネットに過度にのめり込まないように注意をするべきでしょう。

インターネットのバーチャルな世界で一時的に自分を慰めることができたとしても、現実から逃げているだけでは、あなたはいつまでもその問題を抱え続ける、もしくは問題を大きくすることになってしまいます。どうか現実の世界を一番に考え、現実の自分を大切にしてください。

また、インターネットを子供に使わせるかどうか悩んでいる親御さんは、「インターネットが子供に良いか悪いか」ではなく、「自信をもって子供にインターネットを使わせることができる環境を与えているのか」を考えていただきたいと思います。

前のページで紹介したM子さんの事例や、「子育て事情」ガイドの河崎さんの記事『ネット引きこもり・親の対処法』にもある通り、子供が現実から逃れてインターネットの世界に生きるようになるのには、家庭環境が大きく影響しているケースが多いようです。

さらに今後も加速していくネット社会では、ゲーム以外にも新たなサービスがどんどん生まれてくることでしょう。パソコンの前にいながら何もかもが可能になっていく世界。便利になったものの、どこか知らないところで本来の大事な物を忘れているような…そんな気がしませんか?

 



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高野山金剛峯寺は何宗のお寺?

9時のNHKのニュース・ショーで
高野山金剛峯寺の宗派の紹介を間違えた

お詫びが早かったのはいいのだが
早すぎて
解説の前だった

こんな基本中の基本を間違えていて
放送してしまったということは
ニュース原稿を目にした人全員が無知無関心だったということで
しかも解説する人が何も知らないということがばれているわけで
かわいそうな解説画面になってしまった
事実あまりにもレベルの低い解説
若い人のデビュー作のようなものだろうか

少しタイミングをずらして
解説が終わったあとであれば
あのような痛切な悲しみはなかっただろう

ーー
それにしても
現実生活が厳しくなってくれば
宗教がありがたくなっていくのは
人間の必然である

ありがたいお話しが次々に出てきて
仏像のこの手の結び方はありがたいから
お値段は倍
などという話になるのであって
ありがたいような困ったような話だ

すごく困っているのに
もっと困るようなことをしてしまう
それが人間

ーー
ニュース・ショーに登場する女性のメイクが年ごとに玄人っぽくなり
逆に話の内容は年ごとに知能劣化しているのは
テレビというものの性質なのだろうか




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魅力

自分には魅力がないという語り口で
魅力を創成する方法がある


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子供に携帯サイトの危なさを説明する

先日、ある学校の先生から、子供たちに携帯サイトの危なさを説明するにはどうすればいいかと
相談を受けた

それが難しいのだ

単純には、こういうサイトにはまって、こういう困ったことになりましたと
ぶちまければいいのだけれど
それは子供にとってはいいこととは思えない
知らなくてもいいことを知ってしまうからだ

知らないものをあえて教える必要もない
予防的に教えると結果として知ってしまう
公明正大な性教育などでも似たようなところがある

ここのところには大人の側でのからくりが必要で
Aという理由で見ない方がいいものを
Aという理由だからと説明すると結局知らせてしまうことで意味がない

Bという穏健で正当な理由で見てはいけないと説得して納得してもらう
Bはだめだと信じれば結果としてAのタイプを閲覧しないしそういったゲームのプレイヤーにもならない
といううまい仕組みを作らないと
子供を守ることができない

困ったものだ

ーー
考えてみると宗教的禁忌とか風俗習慣とかには
伝染病を防いだりする効果がある

そのようなうまい仕組みを作らないといけないと思う

ーー
さらに考えると人間の心理学の一部はそのようなもので
本当の効果効用は別にあるのだけれど
表面的には別の目的でやっているつもりになっている

そしてそれが入れ子構造になっていて
剥いても剥いてもまだ中にからくりがある

とうとう全部剥いたと思ったら振り出しに戻っているとか
剥いている人だけに見えないからくりとか
いろいろ

だから愚かな私も平気に長生きができるんだよ



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人格障害 何求む?

賛美者求む 自己愛性人格障害 
奴隷求む 境界性人格障害 
孤独求む 統合失調質人格障害
テレパシー友達求む 統合失調症型人格障害



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自己愛パーソナリティにおける自己愛エネルギー源

みんな少しはうぬぼれているから
元気も出るし、へこたれないで生きていけるのだと思う

少しのうぬぼれも奪ってしまうならいいことではない
しかしうぬぼれはどれだけうぬぼれであっていいものか
判別は難しい

うぬぼれていても才能があれば
結果としてはうぬぼれではないことになる

世の中は不思議で
そんなタイプの人を起用することもあるので
そしてうまくいくこともあるので
うぬぼれ続けているのも一つの生き方ではある

*****
謙虚というのも
形を変えたうぬぼれと言えないこともない
自分は謙虚だ、いいぞ、と思ったとたんにうぬぼれになる

しかし自分が謙虚なのかどうか考えたこともないというのは
純真を通り越している

*****
健全な自己愛を育てるのにもエネルギーが必要だ
そのために愛する人が必要だとも言えるだろう

うちの亭主はすごいと思えば亭主は少しはがんばるものだ

うちの奥さんはできたやつだと思うからだんだんできたやつになる

どうしようもないどん底でも
「あなただから我慢ができるのよ」
と言われれば我慢ができてしまう

それは自己愛を備給されているからだ
現実よりもほんの少しだけ大きな自己像を注入されているからだ

愛の一面はそんなことだ

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人生においてつらいことが多いのは必然である

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人生においてつらいことが多いのは必然である
昔の和歌集を見ても
つらいことばかりである

バナナでも食べて
一息ついてと
彼らも言っている

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女の子に好かれるための基本原則

  女の子に好かれるための基本原則

●相手の女の子がしゃべりたいことを察知し、それを女の子がしゃべるように誘導してあげる。

●女の子が何をしゃべりたいかは、その女の子自身が気づいていない。これを女の子自身よりも先に気づいてあげる。

●会話の辻褄や一貫性は敢えて無視する。論理的に正しいことではなく、女の子が楽しい気分になるように会話を誘導する。

●女の子は一方的に話す男が嫌い。自分がしゃべっている最中も女の子の表情を注意深く観察し、少しでも退屈していたら、話の途中でも敏感に話の展開を変化させる男が好き。

●女の子は、抜け目のないだけの男は嫌い。女の子にあっさりやられてくれるような、どこか抜けたところのある、おおらかで人のいい男が好き。

●女の子は、頭で考える男が嫌い。腹やハートで考える男が好き。

●女の子は、口でしゃべる男が嫌い。女の子は、腹やハートから言葉を放つ男が好き。

●女の子は、単に明るいだけのバカポジティブ男は嫌い。絶望も苦しみも血を流しながら感じ取り、逃げずに真正面から引き受けた上で、陽気、建設的、未来志向、もしくは、深い自己了解や自己解放をもたらすような話をする男が好き。

●女の子は、愚痴、悪口、泣き言を言う男が嫌い。

●女の子は誰かを見下したり、嘲笑したり、貶めたりする男が嫌い。

●女の子は「オレはダメな男なんだ云々」と自己卑下・自己否定する男が嫌い。(さんまのように、ジョークやネタとしてやるのはよい)

●女の子は、自分が優しいことをアピールする男が嫌い。本当に優しくないとできない気遣いをする男が好き。

●女の子は、自分が頭がいいことをアピールする男が嫌い。本当に頭が良くなければ出来ない気の利いた会話や思慮深い段取りをする男が好き。

●女の子は、しゃべる価値のないことをしゃべる男が嫌い。何かをしゃべるときは、それがホントにしゃべる価値のあるセリフかどうかを見極めてから口に出す。

●女の子は、女の子の言葉の表面上の意味ではなく、その裏に横たわる気持ちや意図や事実関係をくみ取ってくれる男が好き。

●女の子は、女の子の言葉を奇想天外な面白解釈してツッコミを入れてくれる男が好き。(ただし、女の子を持ち上げるような愛のあるツッコミでないとだめ。ハズしたときは、すかさず自分ツッコミして笑いを取る。)

●相手の女の子がしゃべっているときには、女の子がしゃべっている内容に反応する形で、自分の表情を繊細にコントロールして共感、驚き、無表情等をしてみせる。

●自分がしゃべっている時も、自分の言葉に表情をシンクロさせたり、わざと言葉の内容と表情をミスマッチにして笑いを取ったりする。

●普段から、鏡を見て、さまざまなバリエーションの、味のある表情を出す訓練をしておく。

●女の子は、学歴、社会的地位、読んだ本をさりげなくほのめかす男が嫌い。まるでなんの本も読んだことがないかのように、日常の言葉だけで、なにげなく女の子の気持ちに届く言葉を放つ男が好き。

●女の子は、それとなく余裕をアピールする男は嫌い。本当に余裕があり、余裕が自然とにじみ出てくる男は好き。

●女の子は、金持ちでも貧乏くさい男は嫌い。貧乏でも気前のいい男が好き。

●女の子は、筋肉が衰えて、立ち居振る舞いがだらしない感じになっている男が嫌い。立っても座ってもしゃきっとした印象になるくらいには、全身をバランス良く鍛えておく。

●「その女の子自身が気づいてない、その女の子が欲しいモノ」を見つけ出して、プレゼントしてあげる。これをするには、その女の子を普段からよく観察する必要がある。

●女の子はだらしない服装の男が嫌い。しわしわの服やちぐはぐのカラーコーディネーションの服は着ない。

●女の子は、女の子でなければ気づかないことを気づく男が好き。

●女の子は不潔な男が嫌い。毎日入浴し、歯を磨き、清潔な服を着る。

●女の子は、途中、どんなに醜態をさらしても、最後の最後には自分の内なる道徳律を貫く男が好き。



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研修医のWOU

W With the nurses
O On the nurse
U Under the nurse


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研修医のABC

研修医のABC
A:avoid the case 
B:behind the nurse 
C:call the another doctor


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仕事をしているつもりになるメール処理

本当にメールというものはあきれるほど届くのだけれど
ほとんどは消してしまう

几帳面な人は一応中をざっと見るなどと思うのだろうけれど
それで人生の時間がどれだけ犠牲になっているか
考える必要もある

費用対効果の問題なのだが
明らかに費用が大きすぎる
14時間のうち、何分かと考えると
費用の大きさが分かる

経営者の立場で言うと
要らないメールを区別するためにチェックするなんていう仕事をお願いした覚えはない
それで残業しても
むして迷惑というところだ

最近の会社のメールシステムは
出したメールも受け取ったメールも全部記録されていて
管理者は全部読むことができる
だから読まれたくないものは携帯で通信することになる

携帯がまた人生の時間を浸食する

人間が疲れて
頭が悪くなる第一の原因は寝不足である
無意味なことをしている時間を睡眠時間にあてよう

というわけで
さっき寝ていたら
とても派手な夢を見た
休まっているのかいないのかよく分からない


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『しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』

勝間は、香山リカからは『しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』で、次々に出す自己啓発関連書を批判されている(帯に「〈勝間和代〉を目指さない。」と書かれている他、最終章が勝間批判に当てられている)。

勝間は、大学に在学中の21歳で出産し3女の母であるが、長女は現在父親と暮らしている。2回の離婚を経験し、現在は独身。

ーーー
「恋愛にすべてを捧げない」、
「自慢・自己PRをしない」、
「すぐに白黒つけない」、
「老・病・死で落ち込まない」、
「すぐに水に流さない」、
「仕事に夢をもとめない」、
「子どもにしがみつかない」、『「いたかもしれないはずの子ども」に執着しない』「子どもを持つ女性がいちばん有利な時代」
「お金にしがみつかない」、
「生まれた意味を問わない」、
「<勝間和代>を目指さない」という10のルール

見て分かるのは、非常にネガティブなメッセージであるということだ。~~しない、という形式をとっているところなぞ、~~せよ、とばかりいう現代の自己啓発本のパロディのようである。


。頑張っている既婚女性は多いです。でも、お子さんが急に病気になったときや学校行事で休むときなど、独身&子ども無しの私たちがフォローすることが多いんです。働くお母さんを評価する一方で、彼女たちを支える私たち独女も、もっと評価して欲しいなあと思うんですよね。でも、この気持ち職場では言えませんね

最近の就職面接の自慢競争にクギを差している。普通の人間に自己プレゼン能力が問われるようになったのはいつからだろう。

”パンのために働く”ことで納得できない現代人の病理を突く。「夢」を仕事に出来る人が何人いるのかと問う。

”がんばれば夢はかなうのか”という非常にシンプルな問いかけ

笑顔で誰かに、「がんばれば夢はかなうんですよ」と言われる。それに対して、こちらは真剣に「いや、がんばれない人、がんばっても夢がかなわない人もいるんです」と反論する。すると相手は、うなずきながら私の話を聞いた後で、また笑顔でこう言うのだ。「努力さえすればどんな夢でもかなうんです」

 「努力すれば夢はかなう」というのは、裏返せば、「夢がかなわないのは努力が足りないのだ」ということになってしまう。


統一協会を脱会したことのある人が、アムウェイの集会に連れて行かれて、統一協会とほぼ同じことやってるのを見て仰天した。過去の記憶がフラッシュバック。アムウェイがテキストに使っていたのが、カーネギーの本


ーーーー
どうしても思ったとおりにいかないんです

あなたの能力、適性、環境から考えると、今くらいでせいぜいだわね。

いや、それじゃ、私は嫌なんです。

というわれで、次の場所で相談する。

大丈夫ですよ、あなたは素晴らしいものを持っています、努力さえすればあなたは成功をつかみます、ただ、ちょっとアドバイスがあります。××○。

というわけで、さらに困難な人生にはまりこむ。

ーーーーー
こういうのもありますと紹介されたが長いので驚く。採録。読む必要はないです。

香山リカ『しがみつかない生き方』:恋愛・自慢・他者否定・老化と生きる意味の相関

『標準的な幸福像・幸せ観』のイメージや定義が先行することによって、そのイメージからズレた自分を否定的に評価してしまったり、その定義から外れた自分の人生を不幸なもの(無意味でつまらないもの)だったのだと決め付けてしまうことは少なくない。こういった『不幸の自己規定性の罠』から脱するための一つの方法が、本書が示す『しがみつかない生き方』であり、論理療法的には『イラショナル・ビリーフ(非合理的な思考)を持たない生き方』でもある。

著者の香山リカは、『ふつうの幸せ』を手に入れる10のルールとして、恋愛・お金・仕事・成功・若さなど『しがみつくべきではないもの・柔軟で自由な価値判断をすべきもの』を、10の章に分類して解説している。

『しがみつかない生き方』というのは、理想的な自己イメージや世間一般の評価・偏見、他者から自分がどう見られているかということにしがみつかない生き方のことであり、『最低限度の生きる条件』を満たしたのであれば、後は自分で幸福と不幸の判断基準を柔軟に設定していったほうが気軽にそれなりに幸せな人生を生きられるということでもある。

逆に言えば、雇用・所得・意欲・健康・人間関係などの面で『最低限度の生きる条件』が満たされていない場合には、政策的な支援や社会的な援助、対人的なケア、環境調整などが必要になってくると思うし、現実問題として社会には個人の意志・努力・認知(心の持ち方)だけでは解決できない困難や苦しみも多い。しがみつかない生き方を勧める10個の章について、自分なりの簡単な感想や解釈を書き残しておきたい。


第1章 恋愛にすべてを捧げない

『恋愛』は現代に残された数少ない共通価値の一つであり、映画・ドラマ・漫画・小説・テレビCM・若者向けの商品(ファッション)の多くが『恋愛(異性に好かれること・特別な存在として愛されること)』をテーマにしている。恋愛こそが真の幸福をもたらすものだという『恋愛至上主義』は、資本主義経済やマーケティングとも深く関わっており、『異性に好かれなければ不幸・恋愛のできない人生はつまらない』という強迫的な不安感(孤独感)によって売上を伸ばしている商品市場は少なくない。

恋愛をすることによって不幸になる人というのは、『恋愛以外の価値・意義』を見出せずに『恋愛が上手くいっていれば幸福―恋愛が上手くいかなければ不幸』という二元論的な価値判断に容易に支配されてしまう人である。端的には、『恋愛依存症・セックス依存症』といった対人依存が深まっている状況では、慢性的な孤独感や空虚感、寂しさに襲われ続けて、絶えず異性から愛情の籠もった言葉や抱擁、肯定、セックスを与えられていないと、自分自身で自分の自我や存在根拠を支えられなくなってしまうのである。

『恋愛・恋人の有無』と『自分の生きる意味・人生の価値』を直結させて、それ以外の価値判断のモノサシを失ってしまうと、『恋愛のため(異性に愛されるため)』だけに勉強したり仕事をしたり趣味をしたりといった硬直的な行動様式になってしまい、恋愛がダメになってしまうと仕事や勉強をする意味までも同時に失って絶望してしまう。執着的な愛憎が深まり過ぎて思い詰めたりすれば、ストーカーや傷害事件、抑うつ性の精神病理にまで発展してしまうこともあり、『不幸・孤独の自覚を強める恋愛(思い通りにならない他者)』にしがみつくことはマイナスの影響が大きくなる。

確かに恋愛は、自分自身が『特別な存在・交換不可能な異性』として承認される特別な関係性であり、人間の孤独感を癒して自己肯定感を高める効果を持っているが、恋愛の成否や恋人の有無だけに『自分の存在意義・人生の価値』を求めてしまうと、偶発的な失恋や別離に耐えることすらできない脆弱なメンタリティになってしまう危険性が高い。

恋愛や結婚、異性関係のプライオリティが高くなってしまうことには、生物学的・心理社会的な根拠も多くあるので、ある程度の『恋愛(異性)への依存性』は誰にでもあるはずだ。しかし、『恋愛・結婚・異性関係だけが全て(それ以外のことは重要ではない)』という価値観にまでいくと、精神的に不安定になりやすく異性との付き合いが上手くいかない時には、『自分は不幸である(自分の人生を楽しみようがない)』という自己認知に陥ってしまう。


第2章 自慢・自己PRをしない

日本人から『謙譲・謙遜の美徳』が失われて、自分の長所や能力・実績を自慢のようにアピールする人が実際に増えたのかどうかまでは分からないが、学生の就職活動(新卒採用面接)では自分の性格や活動実績、能力、貢献意識などについての『自己PR・自己アピール・自己主張』が求められることが増えている。

就職転職のための一時的な自己アピールや自己PRに特段の問題があるとは思えないが、行き過ぎた『競争原理・利己主義・成果主義』への過剰適応は、人間から他者と協力したり弱い相手を思いやったりする動機づけを失わせて、自分がいつ競争に負けるか分からないという不安を煽り続ける。

『協力する味方(信頼できる味方)』と認識できる他者が減って、『競争する敵・(信頼できない相手)』と認識するしかない他者が増えると、必然的に職場の人間関係や労働環境も悪化しやすくなる。会社に対して自分はあの人よりも雇われる価値がある人間だと自己アピールし続けなければならない状況は好ましくないし、『同僚(他者)との協力関係・信頼感情』が生まれにくくなって仕事の充実感や職場の働きやすさが低下しやすくなる。

同僚と協調できないような『個人単位の競争原理』を厳しく働かせ過ぎると、情報やノウハウの共有が上手くいかなくなったり職場の人間関係に不満が多くなったりして、会社全体の業績や生産効率も落ち込みやすくなる。『自慢による自己承認』は、他者からの共感や援助を受けにくくするため、結果として孤独感や疎外感も生まれやすくなり普通の幸福感からは遠ざかってしまう。

マスメディアが賞賛するセレブや成功者に憧れて『ド派手な消費行動・享楽的なライフスタイル』などの自慢・自己顕示に走ったりすることで幸せになれるかというと、一時的な虚栄心は満たされても継続的な人間関係の幸せを得ることは難しいかもしれない。


第3章 すぐに白黒つけない

現代社会の白か黒かを瞬間的に判断する『二分法思考』や敗者、間違いを犯した人に対する『不寛容性・狭量性』を批判しているが、他人の欠点・失敗に対して厳しくて狭量になり過ぎるのは『他人を信用していないこと(他人も自分を助けてくれないだろうこと)』の裏返しでもある。

『自分の現状・人生の選択』を自己肯定するために、異質な他者にネガティブなレッテルを貼ったり、自分とは違う生き方をしている他人を手厳しくバッシングしたりする。自己責任原理の過剰は『自分の行動・選択の結果は自分で責任を取る』ということだが、『誰も自分を助けてくれないし自分も他人を助けるつもりはない』という排他的・自閉的な人間観を意味している部分もある。

本書では2004年の『イラク日本人人質事件』が例に出されているが、誰かが失敗したり間違いを犯したり貧困に陥ったりすれば、『あの時にああいった選択をしたのだから自業自得だ・みんながする選択とは違う選択をしたのだから自己責任だ』という非難(バッシング)を受けて何の支援も得られない恐れが高まっている。そういった異質性や間違った選択を排除する『不寛容な二分法思考』によって、若年層であっても長期的スパンで見た無難な選択をせざるを得なくなる。

更に、自分が切り捨てられないようにする自己防衛やリスク管理によって、自分とは異なる選択をした他者(異質な他者)への想像力が衰えてしまい、『社会的なコミュニティ性・連帯感』が無くなってしまうことも問題だろう。短期的・反射的に他人の行動を見て、正しいか間違っているか標準的か否かを二分法で判断するのではなく、ひとりひとりの人間の信念や内面、考え方に寄り添うことで、『人間関係・他者理解の豊かさ』は増していくのではないかと思う。自分と正反対の行動や人生、価値観を生きている人は、自分の認めたくない『影(シャドウ)』の元型の現れでもあるので、それを寛容に受け容れることはなかなか難しいが。


第4章 老・病・死で落ち込まない

テレビでは女性のF1層(20~34歳)をターゲットにしたバラエティ番組が多く高齢者向けの番組は少ない、後期高齢者医療制度では医療費負担が上がり、介護保険制度では介護老人福祉施設(自己負担額が有料老人ホームよりも低い特養老人ホーム)が不足して入所できないなど、高齢者が自分が社会・家族から必要とされていない、自分の居場所がないと落ち込む状況は多くなっている。

公的年金・高齢者福祉など社会保障制度の『世代間格差』は大きく、若者ほど負担が大きくて給付が少ない賦課方式の不公正さが高齢化社会の重要な問題点として上げられるようになっている。また、日本の金融資産の大半を保有しているのは60代以上の高齢者であり、若者は殆ど金融資産を持っていない。それでも、幾らお金を持っていて制度的な保障があっても、『老化(老い)』を不幸と感じる価値観は強固にあり、アンチエイジング市場の拡大など『若さ』を求める欲望はかつてよりも大きくなっているようだ。

仏教の開祖である釈迦は、四苦として『生・老・病・死』を上げたが、これらは現世に産まれて来た私たちにとって不可避なものであり、いつか直面しなければならない揺らがない現実でもある。若い頃から老後・年金のことばかりを心配するような生き方も、若い時期にしか楽しめないことを放棄するという意味である種の不幸ではあるが、高齢になってから『老いの現実』を認められずに苦悩したり絶望するというのも不幸である。

年齢・発達段階に応じた柔軟な自己定義や現実状況の肯定的受容をしていけることが、『普通の幸せ』につながるし、病気になったり老いたり死んだりする時には家族・他人に『多少の面倒・手間』を掛けてしまうことは致し方ないことでもある。現代における理想の死に際は、誰にも迷惑を掛けずに綺麗にこの世を去る、死ぬ前に準備万端施して何の問題も起こらないようにするということでもあるが、自分の死を惜しんでくれたり気に掛けてくれる人がいるならば、そういった他者の恩義・手伝いに多少は甘えても良いのではないかと思う。


第5章 すぐに水に流さない

水に流して綺麗さっぱり忘れたほうが良い『個人的なネガティブな記憶』と、簡単に水に流すべきではなくその問題点(反省点)をしっかり検証して今後に役立てたほうが良い『政治的・歴史的なマイナスの事象(失敗事例)』とを区別しようという提案。

楽しかった記憶や幸せだった時期、嬉しかった出来事などについてはすぐに忘れてしまうのに、不快で苦痛な記憶や不幸だった時期、傷つけられた出来事についてはいつまでも忘れることができないという『不幸を強める認知傾向』を修正することは大切である。

第6章 仕事に夢を求めない

人は何のために働くのかという疑問に対して、『パン(生活費)以外の働く理由』が分からなくても全く問題がないと答える。それほど好きではない仕事でも、とりあえず何とか働いているうちに、仕事そのものの面白さ・興味関心がでてきたり、仕事以外での消費・趣味・人間関係などが生まれてくることも多い。

今、一生懸命に働いていて仕事が面白い(人間は働かなければならない)と言っている人でも、棚ボタで数億円の大金が転がり込んでくれば、その仕事をあっさり辞めてしまうかもしれない、そういった現金(俗物)な一面が人間にあるのも事実ではあるが、『仕事=絶対的な義務・自己実現(夢実現)の手段』と思い詰めて定義するよりも、『仕事=生活のための手段』と割り切ったほうがすっきりとして働く心境になりやすいというのはある。

生涯賃金に相当する大金が入ってくれば仕事を辞めようと思っている人でも、今はそんな大金なんてないのだから働かなければならないということで働く決断をすることになる。反対に、お金に余り興味はないが、自分のやりたい仕事や自己実現につながる職業でなければ働くつもりがないという人だと、今は大金が無いにも関わらずいつまでも働く決断ができずにジリ貧になってしまうかもしれない。

実現可能性や就職(収入)の見通しがある限りにおいて、仕事に夢や自己実現、好きなことを求めていくことは『仕事の充実感や生き甲斐・自己アイデンティティの強化』につながる。だが、そういった可能性・見通しを度外視して仕事に夢や面白さを求めすぎると、『不真面目だけれどとりあえず働いている人(お金さえあれば仕事を辞めたがっている人)』よりも人生全体が経済的・心理的に困窮してしまうリスクもでてくる。

個人にとっての仕事や就職の本質は『好きなこと・夢の実現(自己実現)』というよりも、『生活のための収入を稼ぐ』と完全に割り切ることは難しいとしても、『好きなことの範囲を広げる・少しでも関心を持てる業界に飛び込んでみる』などの決断が良い結果につながることも多いと思う。

絶対に嫌いというほどの仕事でなければ、やっている内に仕事そのものが面白くなったり、仕事外部の消費・レジャーや人間関係(恋愛・結婚・友人)が充実したりということもある。個人差はあるが一般的には、好きな仕事(仕事による自己実現)ができない不利益よりも最低限の収入を稼げずに社会参加しにくい不利益のほうが、人生全体に与えるダメージは大きいということもある。


第7章 子どもにしがみつかない

愛子さまのことしか和歌に詠まない雅子妃殿下の事例を上げて、『家族・子ども』にしか興味関心が持てなくなり、女性の視野・活動範囲が狭くなり過ぎることの問題を上げている。母親としての自己アイデンティティの強度や子どもを持つことへのこだわりといった論点であるが、母親になることや子育てをすることに自分の生き甲斐を求めること自体は悪いことではないと思う。

第7章は、香山リカ氏自身の結婚をせずに子どもを持たなかったという人生の選択とも関わっている章であり、『子どもを持つ研究者・サラリーマンの雇用待遇面での優遇措置』への不満めいた意見もでてくる。しかし、『少子化社会・男女共同参画社会』の現状を鑑みれば、子どもを育てながら働く女性を企業・行政が支援することには、世論の同意を取り付けるだけの合理的根拠がある。過去には『未婚で子どものいない女性』のほうが、企業組織の雇用継続・昇進面で優遇されていたので、急に『子どもがいる女性』のほうがキャリア形成・休暇取得などで有利になったのであれば、過去と現在との整合性の問題はでてくるとは思うが。

子どもを産むか産まないかは他者に強制されてはならない『女性の選択(+相手の男性の補助的選択)』ではあるが、子どもを産んで育てることには『社会全体の持続性・生産性におけるメリット』があるので、子どもを育てやすい環境・制度を整備していくことは政治・企業の役割でもあるのではないだろうか。

ふつうの幸福を手に入れるルールとして考えるのであれば、不妊症や自分の選択によって子どもを持たなかった人(持てなかった人)が、『子どもがいる人生は幸福・子どもがいない人生は不幸』という二元論的な価値判断に陥らないようにすることだろう。


第8章 お金にしがみつかない

自由市場の競争原理のみによって財を配分する『新自由主義』に対する批判に多くが費やされているが、目的や必要性、使い道も考えずに『過度のお金にしがみつく生き方』が幸福につながらないというのはその通りだろう。

『お金はあればあるほど良い・お金は幾らあっても困らない』というのは、あらゆるモノやサービスがお金で買える資本主義社会(市場経済)では一面の真理かもしれないが、『人間を不幸にするお金へのしがみつき方』として以下の3つにまとめることができると思う。

1.『手に入ったお金(自分が稼げるお金)』に満足できず、『手に入らないお金(それ以上のお金)』にばかりしがみつくこと。

2.『自分の持っているお金』と『他人の持っているお金』を比較して、その差に嫉妬したり不満を持つこと。

3.手段を選ばずにどんなことをしてでも他人を傷つけて不幸にしてでも、『必要以上のお金・贅沢』を貪欲に求めること。

衣食住を整えて生きていくため、一定の文化的生活をするため、他人と付き合って交遊するための『必要限度のお金』を持っていないということは概ね不幸であると言って良いかもしれないが、『それ以上のお金』を稼げなくて持っていないということで自分が不幸であると感じる必要は無いのではないだろうか。

自分にとっての必要や目的に見合った金額(現実的な金額)を稼いだり貯めたりできるように頑張る、という程度の『金銭への執着』がちょうど良いのかもしれない。



第9章 生まれた意味を問わない

この世界に自分の意志とは無関係に生み出されてきたという『投企的な現実(世界に投げ出された現実)』をまず認識することが大切であり、自分が生まれる前から決められていた『生まれた意味』や他人とは異なるオリジナルな『人生の価値』を求めてもナンセンスであるということだろう。

人間は『意味』を求めて『価値』を評価したがる知的傾向を持つから、『自分が生まれてきた意味・自分の人生の価値』を問いたいという欲求はおよそ普遍的なものであるが、そういった問いに対する答えをその時々で出していく営みこそが人生ではないだろうか。

誰か(社会)にとって代替不能な価値を持つ人間でなければならないとか、特別な才能や魅力を持った人間でなければ生まれてきた意味がないとかいうのは、『自己愛・承認欲求』の過剰であって、そういった『特別な自分』になれないとしても自分の人生のオリジナル性は何ら損なわれることはない。

生まれてきた意味や人生の価値というのは、生まれる前から運命のように決められているわけでもないし、社会・誰かが与えてくれた評価をそのまま受け容れて自己価値を確立すれば終わりというわけでもない、数十年間あるいは百年以上の長い人生を生きる中でその都度『了解可能な意味・価値』を自分なりにそれとなく実感できれば十分なものでもある。


第10章<勝間和代>を目指さない

『勝間和代』という固有名は果てなき成功欲求や向上心、努力至上主義の象徴として用いられているが、香山リカは『努力すれば成果がでる・努力すれば夢が叶う』という成功欲求に基づく努力主義を実例を挙げながら批判している。分かりやすく言えば、本人の努力ではどうにもならない問題や偶然の不幸はあるし、遺伝要因・環境要因・心身の疾患によって努力したくても努力できない人たちがいるという当たり前の指摘である。また、幾ら同じように一生懸命に努力しても、他の大多数の人たちと同じ成果をどうしても上げられないという人もいるだろう。

勝間和代と香山リカではメッセージを伝えようとしている想定読者層が異なるし、『書物を書く動機づけ』そのものも違っているので、『適切な努力をすれば成功しやすい・競争に勝つための努力をしよう』という勝間和代の自己啓発的な著書に対する批判としては的外れな観が無いわけではない。

香山リカは、勝間和代は努力したくても努力できない人たちや社会の最底辺で貧困と無力に喘いでいる人たちをどう思っているのか、そんな人たちでも勝間氏の著書を読んで努力し続ければ貧困から抜け出して成功する確率が高まると本当に言えるのかと批判する。だが、勝間氏が想定している読者層は『成功欲求や上昇志向があり努力する環境・意欲・費用を持っている層(一般的なサラリーマン層や学生層などで貧困問題を抱えていない人)』だろうし、成功哲学や自己啓発書は一般に、派遣切り・ネットカフェ難民・ホームレス・生活保護者・無気力者・メンタルヘルスの失調者などの救済を目的として社会問題を考察する類のものではない。

勝間和代の著書『断る力』に対して、大多数の人は断る以前にそんなに依頼が来ないのだから、『断る力』など必要ではなく『(孤独・貧困・絶望に)耐える力』のほうが重要になっていると香山氏は語る。だが、『断る力』が対象読者としているのは、仕事をある程度取捨選択できる恵まれた立場にある人であり、ハローワークや求人情報で仕事を探したり、必死に営業して何でもいいから仕事(依頼)を得ようとしている人ではないことは明らかである。初めから少数の仕事・依頼にさえありつけない人が、『断る力』を発揮したって確かに何のメリットもないだろうし、そもそも会社の一般的な仕事(役職)の大半は断るか断らないか自分で選択できるようなものではない。

勝間和代を目指さないの最終章で重要なのは、『自分の成功の原因帰属に対する歪み』と『他人の失敗に対する不寛容』ということになると思う。『私が成功したのは私が努力したからだ』という原因帰属が極端になると、『他人が成功しないのは他人が努力不足で怠け者だからだ』という現実にそぐわない他者否定になってしまう。成功と失敗の原因が『個人の能力・努力』だけに還元されると、行き過ぎた自己責任原理が社会を覆うことになり、失敗した人は努力不足で怠けていたのだから成功者が財の再配分をする必要はなく、政治的な社会保障の救済もすべきではないということになってしまう。

確かに何もしなくて偶然や幸運だけで成功することは無いかもしれないが、『成功に向けて努力できる環境』があるか無いか、『努力の道筋を見つけやすい家庭(親)の教育資本・教養水準』があるか無いかの所与の環境要因の違いというのも大きい。『努力しなければ成功しない』というのはある程度“真”であるが、『努力すれば成功する・失敗したのは努力しなかったからだ・努力すれば絶対に失敗はしない』は“真”であることもあれば“偽”であることも多い。

親や成育環境、経済状況、社会階層、遺伝要因、健康状態など本人の努力では十分に解決できない所与の要因によって、『機会の平等』を実際的に実現することができない以上、『完全に公平な競争』というのも近代社会を成立させるためのフィクションを多く含んでいる。また、『成功―失敗の結果』だけを見て、その人が努力してきたのか努力しなかったのかを判断することは難しいし、成功した要因が『自分の努力・能力』だけに由来するという原因帰属は、社会的リソースや他者(支援者・消費者)の協力がない成功は有り得ないので“誤り”と言って良いだろう。

『成功しなければ幸福になれない・努力し続ければきっと成功する』という固定的な偏った信念は、大多数の人にとっては『成功できない自分は努力が足りない・成功していない自分の幸福なんて自己欺瞞に過ぎない』という不幸の実感を強めるだけだろう。努力し続けて飽くまで経済的・社会的な成功を求める生き方があってもいいし、成功の結果を出せれば賞賛すべきことでもあると思う。

一方で、大きな成功を求めずに『ほどほどに努力する生き方』や『それほど努力しない生き方』などの人生の多様性も認められるべきだし、『ライフスタイルの多様性』に対応した小さな幸福や日常的な楽しみを見つけることができれば、それなりに『ふつうの幸福』を実感しやすい心境にもなるのではないだろうか。









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英国名前のランキング

英国のイングランド地方とウェールズ地方で2009年に生まれた子どもに命名した名前のランキング
 英統計局(Office for National Statistics、ONS)の27日の発表によると、2つの地方で同年生まれたのは70万6248人。

 このうち男性名では14年間トップだった「ジャック」(Jack)が、7364人に命名された「オリバー」に王座を明け渡し、ハリー(Harry)、アルフィー(Alfie)、ジョシュア(Joshua)がトップ5入りした。

 女性名では、最もよくある名前とされるオリビア(Olivia)が5201人で今年もトップを維持。次いでルビー(Ruby)、クロエ(Chloe)、エミリー(Emily)、ソフィー(Sophie)が続いた。

 また称号を名前としてつけた例をみると、男性ではバロン(男爵)とロード(~卿)がそれぞれ4人、アール(伯爵)が11人、デューク(公爵)が8人、プリンス(王子)が68人、キング(王)がつく名前ではキングデービッド(KingDavid)が3人、キングそのものが16人いた。

 女性ではレディー(淑女)が5人、プリンセス(王女)が109人、クイーン(女王)がつくものではクイーニーが12人、クイーンそのものが7人だった。(報告・鈴木宝冠【すずきティアラ】)

ーー
男性 Oliver 女性 Olivia とはなんとフラットな世界
日本だとOliver と書いて peace とか Pax とか発音するとか平気でやってしまう

上位の5つだけで傾向は把握できない
その後にいろいろな傾向が現れているはず



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精神科医はなぜ正気を保っていられるのか

精神科医はなぜ正気を保っていられるのかと聞かれた

もちろん患者さんは悩みを抱えて
医者はそれに寄り添うので多大な影響を受ける

しかし一日に何十人という人と会っているわけで
悩みの方向がそれぞれ別である
四方八方で、逆方向の場合もある
するとあれこれ打ち消し合って0になるのかもしれない

その上に理論武装しているので
同一平面上には存在していない


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威張る人

威張る人にも二種類あって
私はすごいと言い続ける人と

私の知っている人はこんなにすごいと言い続ける人

どちらも自慢話で人に嫌われるのだが
本人は気づかないことは共通


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言葉の色

やはり色々と分析してみると
各人の使っている言葉の意味内容があまりにも違うので
そこが問題だと思う

極端に言って
メールでは消えてしまう
声の調子とか、言い淀みとか、ためらいとか、同時に首を傾げる仕草とか、
髪が揺れることとか、一瞬見つめる瞳とか、
まあ、そんなことが付帯情報となって
言葉に色がつく
感情が乗る
ときには感情が粘りつく

いいとか悪いとかの話ではなく
種類があるのは確かだろう

アレキシサイミアでは
正味の意味情報だけが発信されていて
なんとも味がないし色がない



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対人絆

対人関係といってもフラットな言葉なので対人絆とでもいいたいところ
しかしまた
絆といえばタップリと余計な物を含んでいる言葉


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神様に応える

結局のところ
神様と対話する気分である

もちろん神は何も答えず
運命を割り当てることで私に問いかけている

私は行為で応える
人生という結果で応える

その地点では他人などは関係がない
神様と私だけがいる

誰のせいにもしない

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対人関係不全感知器

人間が対人関係を結ぶときに不全をきたすことがあり
自分は一種の病気ではないかと悩むことがある

その人はクリニツクに行って
診断してもらおうとする

現在に至っても対人関係不全を測定する血液検査も画像診断もないので
まず話を聞く

話の内容は重大な情報であるが
その語り方も重大な情報である

さらに対人関係不全の特徴は人間である治療者との間にも起こるはずであって
その点では治療者は対人関係不全感知器になっている

人間と人間の間だけに起こる何かを感知して検出する
他に方法がない
その意味では治療者は客観的な判断者ではないことになる

現在はまた考えが違うようだが
昔は精神病を診断するための客観的な基準を作るのは無理だと考えられて
人間と人間の間に起こる微妙な反応を検出するしかないということになった

そのひとつがプレコックス・ゲフュールである
特有なその感じは客観化することができないなにかであるとされた
精神科病院で10年くらい勤めると自然にわかる
それが昔の話だ

ーーーーー
血糖とか血圧とかを測定するように
人格反応を測定するのだが
測定器具があるわけではなく
治療者がそのまま測定機になってしまうところが特殊である

そのようなことの連続に人間は耐えられるものだろうかとの疑問が生じる

すべての対人関係不全が他人を傷つけるものではないので
考えられるほどではないし
ダメージを受けることは受けるのだが
それを知性化して分析する方法も知っているので
多少は忍耐できるようになる

ーーーーー
たとえば
ボクシングでボクサーのパンチがどの程度のものかを知るには
なにも顔面に受ける必要はないのと同じである
手のひらで受ければ、まずまず分かる

ーーーーー
世の中には恐ろしい人もいて
困っている人をつかまえて
さらに複雑に困らせる人がいる

そんな場合には
その複雑を解きほぐすことから始めることになる

もちろん善意の人なので
善意はやむことがない
それが困ったところだ

ーー
もちろん治療者が完全な人間であるはずはなく
過剰も欠損もあるのが普通である

ただそのことを明確に認識していれば足りる
そのことに盲目であるなら、なるべく早く気付いた方がよい

ーー
その意味で
いつも一定の状態で「測定」するように心がける
不足は不測なりに、過剰は過剰なりに、一定にする

その「測定」は客観的ではないし、広く一般に共有できるものでもない
しかし自分なりに一定にコントロールすることで
精神機能や対人関係「測定器」としての精度は向上する

ーー
こうして考えてくると
画像診断や血液検査以上の複雑繊細微妙なプロセスがあるわけで
それを検査技術として評価しないのは
やはり見識が不足していると思われる

巨大な装置がなくても測定できるし
逆にどんな巨大装置でも測定できないものなのだから
なかなか興味深い

憂うつだと言ったからうつ病とか
幻聴が聞こえていると言ったから統合失調症とか
そんなフラットな世界に一度住んでみたいものだ
さぞ悩みの無い生きやすい世界だろう
血圧がいくつ以上だから高血圧とか

うちのおばあちゃんはそのくらいフラットな知性と感情の人で
なんとも幸せそうだった

ーー
おばあちゃんは物事の判断について悩みが無く疑問がないのである
理解できないことはたくさんあるが
それは自分の頭脳に限界があるからで仕方がないと諦めている

しかしそのような高度な知識を必要とすることは
自分の人生には起こらないはずなのだから心配はないのである

そう言われてみれば
おばあちゃんの人生には量子力学は必要なかったような気がする

そして私の人生にも必要はなかったような気がする

ーー
人と接している時の味わいとか質感とかにじみ出るものとか
相手の心に引き起こされる何か

それは量で測定することは困難で
いまだに質を表現する言葉で語られるのみである

ーー
たとえば妄想の「強度」を測定して、回復を測定しようとの試みがある
しかしそれも難しいところがあって
妄想の変化は強度でもあるが質的な変化でもあるだろう

色彩を波長に変換して測定可能なものにしたように
精神を脳神経ネットワークの働きに還元して測定できないかと試みが続けられている

そのようになれば
治療者は自分で変化を受けなくても
変化を受ける人を用意して、その人の脳神経細胞の変化を測定すればよい
そうなれば随分一般内科に接近する

そうならないうちは、治療者は自分の受けた変化を分析することで診断しているのである


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優秀な学業成績が警告する双極性障害リスク

優秀な学業成績が警告する双極性障害リスク
Br J Psychiatry 2010; 196: 109–115
英語版 配信日 2010-02-04
MedWire News:研究所見が示唆するところによれば、学校の成績が平均以上の生徒は双極性障害の発症リスクが高い。

この結果は「並はずれた知的能力と双極性障害の間には関連がある」という仮説を裏づけるものであると、キングズカレッジロンドン(英国)のJames MacCabeらは言う。

報告によれば、学業成績が優秀な(平均よりも2標準偏差以上高い成績と定義)15~16歳の生徒は、平均的な成績の生徒に比べて17~31歳の間に双極性障害を発症する確率が4倍近く高かった。

最も成績の低い(平均よりも2標準偏差以上低い成績)生徒も、平均的な成績の生徒に比べて双極性障害のリスクが高かったが、リスクはほぼ2倍という中程度のリスク上昇にとどまっていた。

研究では、1988~1997年にスウェーデンの義務教育を終了した713,596例を対象に、生徒の学業成績と双極性障害による入院について調べた。

親の学歴や社会経済的地位などの要因を考慮しても、双極性障害リスク上昇と学業成績の間には関連性が認められたと、MacCabeらはBritish Journal of Psychiatry誌の中で述べている。

興味深いことに、双極性障害リスク上昇の関連性が特に顕著なのは、人文科学系の科目や国語や音楽などの成績が優秀なAの生徒であることも明らかになった。

「このことは、伝記文学に示されている言語や音楽の分野の創造性と双極性障害の一貫した関連性を裏づけるものである」とMacCabeらは述べている。

優秀な学業成績と双極性障害の間に関連性がみられる理由について、MacCabeらは軽躁病がひとつの要因ではないかと推測している。なぜなら、軽躁病は語彙や記憶など、個人の中に蓄積された認知的資源の利用を促し、観念の連続に全く新たな結びつきをもたらすのに役立つと考えられているからである。さらに軽躁病は驚異的なスタミナをもたらし、集中力を大いに高める効果もある。また双極性障害をもつ人々は誇張された情緒的反応を示すことが多く、そのことが絵画や音楽や文学などの才能を発揮するのに役立っていると考えられる。

反対に、学業成績不良の生徒にも高い双極性障害リスクが認められることがあるのは、抑うつ症状が支配的なためではないかと研究チームは示唆している。

研究では、優秀な成績と将来の双極性障害発症リスクの関連性は女性よりも男性の方が強いことが示されたが、この関連性は統計的有意差を示すまでには至らなかった。この点については今後も研究が必要である。

ただしMacCabeらが重要な点として指摘するように、「学業成績が優秀であると将来的に双極性障害を発症する確率は高くなるが、成績優秀者の大半は精神的に健康な状態を保っていることを忘れてはならない」。



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君は悲しい目をしている

泣いたから言うんじゃない

君は悲しい目をしている


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出会いがない

出会いがない
と嘆くけれど
昔は出会いがあったわけでもないだろう

中学の同級生で決めていた

というか
中学の時の恋が本当の恋だと
今でも信じている

あんなドキドキはもうないんだ
このひどいディフェクト感

ーー
昔はセックスが必殺技だったんだろうと思うが

いまはお新香みたいな感じ

あってもいいがなくても別に構わない
そのためにどうこうするとかという時代ではない

ーー
正確にはわからないが
女性は子供を産む機械だから少子化対策には女性に頑張ってもらわないといけない
とかの政治家発言があり
それに激しく反応したマスコミがあり
どっちも同じ脳の構造をしているのだと思う

そういう人達でできていればもっと活発な社会なんだ
政治家とマスコミが何かしてももう誰も反応しない世界

露出しても何もされないとすれば、それはそれで凹むだろう
しかしそれが現実で、実際何もされない
何のためのそれなのか

ーー
倖田來未
35歳から羊水が腐る


陽水が用水路で羊水検査したら腐っていました

腐る
細菌の作用で変質すること。

ーー
今朝、セックスしてきました?
変だな
と発言し顰蹙のギネ


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医者っていうだけで煙たがられちゃって

医者っていうだけで煙たがられちゃって彼氏もずっとできなくて(^^;)
私のこと、女として見てくれませんか?

ーー
違うって
医者は関係ないって


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